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読後感想 山口佳延写生風景 絵と文 建築家・山口佳延 |
十 栂尾・高山寺から北山杉の里へ
一昨日は、高雄神護寺で緩っくりと過ごし、高山寺に行けなかった。神護寺と高山寺とは私が抱いている印象では一対のものだ。連なる感覚を持たせるように早目に訪れる事にした。
JRのフリーキップを持って、早朝吹田を出た。前以て調べておいた、京都発栂尾行JRバスの発車時刻は八時十分であったが、京都駅に早目に着いた。その前の七時四十分発に乗れそうだ。
バス停には中学生の団体が列をなし、彼等も栂尾(とがのお)まで行くのでは・・・。少々うんざりしていた。訊けば、どうやら別の寺を眼指しているようで、ほっと胸を撫で下ろした。
七時三十分頃までには、行列をなしていた人達は、殆どそれぞれの目的のバスに乗りいなくなった。ほっとした気持で栂尾行バスに乗り込んだ。車内は程よい込み具合だ。余り混雑していると、他者を排除したくなり、殺伐とした気持になってしまう。
終点栂尾近くで、貴船神社中宮の石段に似たアプローチ路が車窓から見えた。多分、あれが高山寺参道入口だろうと当たりを付けた。バス道路の左手山の斜面に、数段の石段が道に沿って僅か許り登り、直に左に折れ薄暗い林内に伸びていた。その石段の斜面への取り付き方が、さりげなくて奥床しく感じられたのである。
何故にそのように意識させられるのか自分でもよく分からない。その石段を進めば、さりげない石段を映したような空間に導かれそうで、閑寂な空間のサインを感じたのかも知れない。
確かに、其の石段を過ぎ、直に終点の栂尾に着いたのである。其処は広い駐車場で、バス停脇が高山寺参道への入口で、木立ちの中に石段が伸びていた。
九十九折りの石段を進む。右方に閑静な土塀が眼に入った。土塀の下部は荒石積みされ、積まれた石は出端ったり凹んだりし苔生した肌を表す。石積みは手前で円く右にカーブし、曲面を描く。
土塀はその荒石積みの上にのって聳える如く立つ。土塀の頂にのる瓦の木端(こば)が、ぎざぎざに連なり先方に向かって急に絞られて小さくなる。其処に門と思われる瓦屋根が、僅かだけ覗くのである。
道はその辺で緩い石段となる。石段は少し左方に折れて伸び、萌黄色をした新緑の若葉に包まれ、若葉に溶け込んでゆく。
左手は斜面が緩く降り緑葉の下草に蔽われる。若葉の海に一筋の航跡を残し、小波(さざなみ)を四方に描いて見える。萌黄色の若葉の水面に、糸を引くように楓の優しい樹幹が絡み合う。
塀内から楓の緑葉が差し伸べられ、中の庭の光景を彷彿とさせるほど穏やかで優しい印象である。石段の両脇には巨樹が林立する。遠眼では識別できなかったが、中腹で石段から杉の巨樹が立ち上がり、閑寂な趣きがある。巨樹は石段から立ち上がっていたのではなく、杉の巨樹を囲むように石段が築かれていたのである。
思い付いたら直さまスケッチをした方がよい。描く間にも幾人かの探索者が通り過ぎて行く。立ち止まって、この素晴らしい光景を眺める人はいない。描くのでなければ私も、そう思いながらも、同じ様に通り過ぎてしまったであろう。
描くには短くとも十分程は立ち止まらねばならぬ。と云うより描くのが目的なのでなく、自からの感性を刺激する光景と向き合い、対話する刻を確保したいのではなかろうか。表面上は描くのを目的としてるのだろうが、自からの意識の外で、眼前にある自然と同化したい願望があり、そして自からに無く、他者にあるものを追い求めているのかも知れない。
僅かに覗いた屋根の近辺で、幾人かが立ち止まる姿が見えた。何かがあると期待させる。其
処では石段が平坦になっている。石段を上がり、先刻描いていた方向を振り返った。
開かれた閑雅な門に楓の紅葉が差し掛かり、門の角から土塀が奥方に伸びる。高処から低い方を俯瞰することになる。その光景は、高処を見上げる景観とは違った印象であり、これ程異なる景観になるのかと驚く程だ。
門には通常、両脇に土塀が横に長く連なるが、此処では敷地の関係上そうはいかない。門だけがあり、奥に長く土塀が連なるのみである。その結果、眼が門に吸い寄せられ求心的効果を生み出すことになる。門脇の立札に―石水院―とあった。
石水院は高山寺を再興した明恵上人が、後鳥羽上皇の賀茂別院から移築した建物である。明恵上人の住居として使われ、日本の住宅建築の遺構を遺していると云われる。
先刻スケッチしていた土塀の中は石水院だった訳だ。高い塀がなければ石水院の建物が現れたのであろう。塀沿いに参詣者を高所に導き、閑雅な門が立つレベルで参詣者を百八十度向き直らせ、門内へと導くアプローチの手法である。
荒石積みを持った土塀で結界を築き、その結界に沿って歩かせ境内に至らしめる心憎い許りの空間構成だ。始めて歩く私には、此の塀内が石水院であるとは知る由もない。
前以て綿密な計画の下に高山寺を訪れたのであれば、直に塀内は石水院であると分かったであろう。知らざる者の強みと云うか、知識を持たない方が、意外性があって衝撃的印象を受ける。わくわくして胸躍る思いになり、斯様な空間に同時代人として接せられる喜びを持つのであった。
門内に歩を進める。左手に大きな山のような岩石があり、岩頂には傘状に建物が立つ。建物の周りに庭木が植えられた小ぢんまりとした玄関前庭に出る。明恵上人の住居としての建築のため、全てが小ぢんまりとした造りだ。
正面に切妻を表した大屋根がかかり、左方に小さな切妻屋根をのせた玄関が口を開け、手前の植込みには石燈籠が緑葉に包まれていた。
植込みから斜めに樹幹が僅か許りの枝葉を付けて頼りなげに立ち上がる。枝葉越しに切妻屋根が垣間見え、閑静な佇を感じさせる光景である。
受付を通り見晴台のような開け放たれた座敷に歩を入れた途端、あっと息を呑んだ。建具が外されて柱と鴨居だけが残り、それを額縁として、眼前に緑葉の海と藍青色をした空が渾然一体となり、大海の海原が繰り拡がっているのであった。
先刻描いた土塀の参道とは対極を為し、何処までも澄み渡った何の苦悩も持たない単純な明るさである。これが果たして宗教空間なのか。苦悩を持った宗教ではなく、濃艶で妖しげな空間の印象さえも持つのであった。
一瞬間そう想ったが、いやそれは違う。それは一面に敷詰められた艶やかな緋毛氈に惑わされているのだ。眼前の光景には大海から生まれた少年の姿が見える。大海に対峙する石水院は煩悩の姿だ。煩悩の世界から彼岸の大海に至る構図が眼前に繰り拡げられているのである。其処には、切り立った崖があり、深い谷が待ち構えている。崖、谷を胆力、智力で乗り越えて行かねば、大海に辿り着くことは出来ない。
石水院庭園は緑の垣根で第一の結界を築き、道に落下する崖で第二の結界を為し、清滝川の深い谷に第三の結界がある。自然の地形を巧に取り込んで結界が構成されているのである。
それは結界であることを意識させず、逆に濃艶で妖しげな空間を思わせる手法である。その構成力には今更ながら驚く許りだ。
石水院の座敷で、この光景を一気に描く。私の脇で、ひとり熱心に小さな手帳に細かな字で文章を書く青年がいた。多分、煩悩と彼岸の大海を空間化した石水院の心象風景を認め(したた)ているのだろう。その場で認めるのが印象が新鮮でよい。
座敷の片隅に寺宝が展示されているコーナーがあった。国宝鳥獣人物戯画の模写もあるが、この煩悩と彼岸の構図には遠く及ぶものではない。
石水院は国宝に指定されているが、石水院さえも煩悩と彼岸の構図に及ばないのでは・・・。
高山寺略記によれば、石水院の庵主明恵上人の父は平重国で高倉院の武者所であり、母は豪族湯浅権守藤原宗重の四女であったが、上人八才の時に母は病死し、父平重国も源平の戦で戦死し上人は孤児となった。九才にして高雄山神護寺に入り、文覚上人、叔父上覚上人の下(もと)で仏道修行に勤めた。
安徳天皇母建礼門院は明恵上人によって受戒され、仏門に入ったと記されてある。
神護寺を再興した文覚上人の政治・経済的後ろ楯は源頼朝であった。明恵上人は頼朝により滅亡させられた平家一門であった訳で、頼朝の容赦ない平家一門に対する落人狩りは仏門には至らなかった事になる。
一人の人間の生き様を追ってみるに、複雑に絡み合う人間模様が浮き出、知られざる人間の側面を垣間見れて面白い。
石水院から中腹にある金堂に至る石段を進む。杉の巨樹が林立する間を縫って石段が伸びる。石段沿いに開山堂を始めとした堂宇が立つ。どの堂宇にも往時の面影は感じられない。ただ杉の巨樹の間を縫って伸びる石段には荘厳な宗教空間を感ずる。
石段は金堂周辺で平坦な道になる。殺伐とした風景の中に金堂は立つ。金堂が唐突に立ち、今まで荘厳な石段の参道を歩いてきた参詣者にとっては、違和感のある空間だ。因みに金堂は寛永十一年(一六三四)に仁和寺から移築された堂である。
平坦な参道を骨格として、金堂、旧石水院跡、仏足石等の歴史的遺構を有機的に関連付ければ、たとえば、空間要素として燈籠を据え、平坦な参道に石畳を配するだけでも、かなり宗教的空間になるのでは・・・。
金堂前広場から一気に降りる石段があった。殆ど、探索者は通っていない荒れた印象の石段である。先刻歩いてきた荘厳な石段に戻ろうか、この石段を降りようかと迷い、金堂前の山腹を向こうに行ったり戻ったりしていた。
一気に降りる石段の参道は、寺の略図に―金堂道(こんどうみち)―とある。かなり巾の広い金堂道を降りることにした。傾斜はきつく、処々石段が傾げていて、それが却って風情があるのであった。
傾斜のきつい石段の中腹で振り返った。金堂下部は石段頂に蹴られて見えず、金堂屋根だけが見える。石段両脇には杉の巨樹が林立し、その太い樹幹は穏やかな風景の中で、荒々しく豪快な光景を現していた。
杉の樹林帯であるが、巨樹が適度な間隔で立ち上がり、小径木はそれ程なく、林内には、カラッとした明るい空気が吹き抜ける。参道は通常、幽暗で妖気が漂う空間が多い。高山寺では、この明るい参道金堂道を登り切ると、逆に薄暗い金堂空間に達するのである。意図的にそうしたのか、偶然の結果なのか・・・。
金堂道両脇の石組や石垣は自然のままに苔生し、石段にまで苔の緑が拡がる。石段も昔のままの様で閑寂な趣きが感じられる。
急な石段を過ぎ、適度に平坦な踊場がある緩い石段に出た。石段の段面も広くなり、石水院の門がある辺で、行きに登った狭い参道の石段と結ばれる石畳に出た。石畳の道は金堂道から平坦に横に伸び石水院に至る。
其処は道がふくらんだような広場的空間である。林内との境界だった苔生した岩が崩れて横たわり、僅かに人間の手が加えられたのを想わせる。さりげなく転がされた趣きのある岩に高山寺の長い歴史を感ずる。
描く間に、胸にワッペンを付けた団体客が二人三人、参道を登って来たが、皆さん何処に行ったらよいのか分からないようで、
「この石畳を横に行けば国宝石水院がありますよ。この金堂道は上方で急傾斜で登るには大変かも知れません。石水院側から登れば緩い石段が金堂まで伸びていますよ」
とアドバイスする。団体と云っても、二三のグループの集まりなので、大勢で群れて行動している訳ではないので違和感はない。私は早目に来たお蔭で、石水院でも団体客と鉢合わせにならずにすみ、静寂な空間に身を委せることができた。
金堂道は一気にバス道路に降る。バスの車窓から見えた閑静な石段があった。あの石段はやはり高山寺参道―金堂道―への入口だったのである。
石水院脇に戻り、土塀沿いの参道を降りる。下から続々と探索者が登って来る。早目に来て本当によかった。お蔭で静かな高山寺山内を探索できた。
一路北山杉の里を眼指して歩く。周山街道は祝日のためか、若狭方面に向け引っ切り無しに車が通る。京都市内方面へ向かう車は少ない。五月の連休を利用し、日本海方面にレジャーに出かけるのだろうか、屋根にサーフボードをのせた車が多い。
歩き始めには右手に清滝川の流れがあったが、何時の間にか左方に流れは変わっていた。同じ歩くのなら遊歩道がよい。閑静な緑道を捜すが見当たらない。それらしき道はあるにはあったが、途中で道は山に突き当たってしまう。北山杉を伐り出す林道かも知れない。
処々、釣人が糸を垂れる姿がある。十分程で北山杉の里に着くものと、気楽に構えていたが、行けども行けども部落は姿を現さない。反対方面からデイバックを背負った老人が一人で歩いて来た。
「北山杉の里はもう直ですよ。私は大徳寺から三時間かけて歩いて来ました。大徳寺の上方からです。家が大徳寺の近くのもんで・・・。いゝ散歩道ですよ。これから高山寺、神護寺を経て清滝に出、嵯峨野に抜けて大徳寺に帰ります」
デイバッグを背負った元気な老人だ。地図を開けば、なる程、大徳寺から丘陵を越えて高山寺方面に出られる。土地勘がないので地形を切れ切れに考えがちになる。大徳寺は梅ヶ畑の丘陵の山麓に位置し、梅ヶ畑丘陵と高雄山に挟まれた谷間に清滝川が流れる。流れに沿うように、今歩いている周山街道が若狭に伸びているのである。
春とは云え、遮る物とて無い道では、陽差しも強く感じられる。 周山街道に穿たれた中川トンネルの手前で、真直にトンネルに向かう道と、右方北山杉の里に伸びる道の角に出た。やっと車の洪水と別れ、川沿いを北山杉の里方面に進む。
前方の川沿いに民家が見えて来た。久し振りに見る民家だ。里の入口かも知れない。川沿いに立つ一本杉の下で、疲れた体を休め、里の入口らしき光景を描く。進むに連れ、山側に人家が連なり、川向こうには、北山杉の作業場らしき、暗紅色を帯びた錆びたトタン屋根が見えた。柱、梁は年代を感じさせ、古ぼけまるで廃墟のような光景だ。廃墟でないのは、車が置かれたり、絞丸太が立て掛けられてあるので分かる。
里のとば口の家には、道路沿いに金網で囲われ、二層に築かれた犬舎があった。五六匹の犬が、見知らぬ私の姿を見つけるや、遠くからワンワン吠え立てるのだった。近付くに連れ吠え声は一段と高くなる。北山杉の里のとば口の家だけに、恰も北山杉の里の番人のような犬だ。
少し驚かせてやろうと、恐い顔を見せ犬舎に近付く。オラガサトデハミカケヌオソロシイギョウソウノオッサンに、少しの間吠えるのを止めたが、直に、五匹の犬の大合唱が始まった。
犬を怒らせるのはいい加減にし、川沿いを進む。右手の車庫で小型トラックの洗車をしている若旦那に会った。其処は丁度日影で陽差しを避けるのに具合がよい処である。おにぎりを食べながら若旦那と話す。
「川端康成の小説―古都―の主人公、苗子が働いていたような絞丸太の作業場は、どの辺にあるんでしょうか」
若旦那は小説古都は読んでいないらしく、きょとん(・・・・)とした顔付で、
「もう昔のように道沿いでは作業してまへん。奥方の広い工場で作業しているので、人目には付きまへん。対岸にある作業場は少しは今でも使っています」
「絞丸太は値段(いくら)位しているんですか」
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北山杉の里 | 西明寺 槇 |
「いい頃を知ってる人は、今の値段は阿呆らしくてやってられまへんと話してますよ」
と値段(いくら)なのかは答えない。若旦那と話していても、アーとかウーと答えているだけで会話が弾まない。北山杉の事や近在の歴史に関しても詳しそうでない。
対岸に並ぶ作業場へは、清滝川に掛かる家主専用の巾広い橋を渡って行くのである。橋上は車置場、荷物置場としても利用されている。
作業場の一階は吹晒しで、絞丸太が立て掛けられてあるのが遠望できる。休日のせいか、人影は全くないため尚更廃墟の如く感じられる。
深閑(しんかん)とした内部は絞丸太の作業場としての役目をそろそろ終えようとしている姿に見え、清滝川の川縁に静かに佇んでいるのであった。背には、北山杉の植林された山が控え、一部伐採され、山の斜面は斑に見える。自然林では樹幹は緑葉の葉擦れに少しだけ垣間見られるだけだが、此処では、北山杉のひょろひょろと立つ樹幹が列を為している。絞丸太の人工林で、樹幹も細く、見ていて痛々しく感じられる。
深窓の令嬢とまではゆかないが、温室育ちのひ弱な樹林帯だ。樹林帯と清滝川に挟まれた古びた作業場は、儚い哀れさを感じ、小説古都の主人公苗子の少女時代の健気な姿と重ね合わさるのであった。
描き終わって、川向こうに橋を渡る。休日以外の平日は、まだ作業しているような空気が感じられる。チェーンソーなどの機械道具が片隅に警戒心もなく置かれ、真新しい絞丸太が立て掛けられてある。二階から鉄骨の腕が持ち出され、荷物をウインチで二階の置場に吊り上げる設備がされていた。
二階への階段を捜すが見当たらない。梯子で上がるのか・・・。処々に吹抜(ふきぬけ)があり、上を覗くが、乾いた空気が澱(よど)んでいて、音も無く無の空間が拡がるだけだ。
一階の吹晒しの隅に四メートル程の長さで、巾五十センチメートル位の水を張ったブリキ製の長い器があった。水を引くのであろうと思われる細い塩化ビニール管が山の斜面から伸び、器の端部にその管口を覗かせている。脇には台所で使われるような、ステンレスのタワシが置かれてあり、水を張った器の背には絞丸太が立て掛けられてあった。
「あっこれが苗子が働いていた絞り丸太の作業所か」
と思わず独語を(ひとりごと)吐く。背後は植林された山で、作業場は吹晒しになり、冬には山から吹き降ろす木枯らしで相当に厳しい作業だったのではと、今でも使われていると思われる、ブリキ製の細長い器を感慨深い気持で、見入るのであった。
当時は清滝川の砂を磨粉にして、山から流れくる冷たい水で杉丸太を磨いていた。そんな作業をする苗子の姿を思い浮かべ、スケッチブックを取り出し人気(ひとけ)のない作業場を描き始めた。
小説古都では、北山杉の枝打ち職人の家に生まれた八重子は寺の門前に捨てられた。八重子は、京の室町の呉服問屋の若主人に拾われ、呉服問屋の一人娘として何不自由なく育てられた。ある時、八重子は北山杉の村を通りかかった。
八重子は其処で、自分とうり二つの作業衣姿の村の娘に会った。苗子である。それから二人の双子の姉妹の物語が、京の町を背景に繰り拡げられる美しい文体の小説である。
私が想い描いていた北山杉の林では、杉の木はスラッと天高く伸び、樹幹越しに明るい陽差しが光明の如く処々、下草の生えた大地を輝かせている風景であった。枝打ち職人の苗子の父親は、立ち上がる杉の林を幹から幹に空中で移動し、杉の枝打ちをしていた。苗子の父は、ある時空中を隣の杉の木に移る際に、手を滑らせ地面に落ちてしまったのである。
現実の北山杉の林は、其んな優雅な林とは程遠く、ひょろひょろとした細い杉の木が林立する薄暗い林であった。斯様な北山杉の林を美の世界に昇華して行った、川端康成の文学者としての眼を想うのである。
部落から四キロメートル程北に行った処に北山杉センターがあると云うが、栂尾まで三・五キロであるからして、歩けば、かなりありそうなので、部落近辺を探索するに止める。
川沿いを走る道から枝別れして細道が山側に伸び、山頂まで細道が連なるかと思い進むが、直に細道は左右に折れ、元の川沿いの道に出てしまう。
川沿いの山腹にリニアーに家並が連なる部落で、一本だけ山に入る道があると聴いていたが、何の細道も川沿いの道に戻ってしまい、結局その道は見つからなかった。是非とも捜さねばならない道でも無い。山の中腹から北山杉の里を俯瞰してみたかっただけだから。
細道の路地に面し、立派な石垣を持った大きな家があった。石垣に魅せられて其方に向かう。石垣の頂に立つ土塀には中庭から萌黄色の若葉が差し掛かり、穏やかで風情のある家だ。
開かれた門内に眼をやった。丁度、Tシャツ姿の若い女性が庭石づたいに離れにいくところだった。一瞬間、私と女性は目と目が会った。部落では見慣れぬオッサンを眼前にし、娘さんは目をまん丸にして驚いている様子だ。話し掛けようと思う間もなく通り過ぎてしまった。娘さんも咄嗟の事で、何者だろうと云った印象の顔付きで、慌てて邸内に消えて行った。
八重子が北山杉の村で、苗子の姿を見掛けたように、私も無意識の内に苗子の幻影を追い求めていた。現代の苗子は作業衣の着物姿でなく、TシャツにGパン姿で、颯爽と乗用車かオートバイに跨っているのかも知れない。現代の苗子の姿に一瞬間でも会えたのは幸運だったと思わねばならない。
川向こうに瓦屋根の綺麗な家が見えた。橋を渡って橋の畔で眺めたが、如何にも新しそうな普請で其方には足が向かない。振り返り下流の向こう岸を眺めた。川筋から立ち上がる石垣の処々に緑葉が絡(から)み付いて風情がある光景を為していた。川は緩く左に蛇行し石垣に溶け込んでゆく。
石垣上に立つ家は、僅か許り川に迫り出て立ち、緊張感がある。家並の隙間からは若葉を付けた樹木が立ち上がり、石垣に這う蔦や、背後の新緑に包まれた山並と一体になった印象で、山端は抜けるような青空に判然とした稜線を描くのであった。
春とは云え陽差しは強(きつ)い。陽を照り返したバス道路で京都行のバスを待つ。三尾のひとつ槇尾に行く積もりだ。
バス道路から木立ちの間を斜めに坂を降り、西明寺への橋の畔に出た。橋の畔に指月亭なる閑寂な佇の茶店が立つ。茶店には四方八方から楓の枝葉が差し伸べられ、真夏でも心地好い涼風を感じられそうな雰囲気だ。
道に面して開放的になった庭から細い通路が一筋茶店の内部に伸び、路地の奥方、川に面した緋毛氈を敷いた客席に溶け込んでゆく。楓の枝葉の下で飲む茶も、又格別な趣きがあるのでは、と眼前の素晴らしい光景に見蕩れるのであった。
平屋建の勾配の緩い屋根には苔や草が生え、閑寂な趣きを一層感じさせる。提灯、簾、緋毛氈、ガラス窓等々の各エレメントがさりげなくあり、自然に同化している。京都ならではの洗練された空間である。
朱色の橋を渡り石段を上がる。直に石段はクランクし、正面石段の頂に西明寺山門が姿を現す。石段はゆったりとして拡がりをもって上昇するのである。
小さな山門の両脇には土塀が連なり、山内は萌黄色をした若葉で埋め尽くされ、枝葉の透間から青空が覗き、清滝川を渡る心地好い風に揺れていた。
土塀に沿って石燈籠が横一列に立ち並び静寂な空間に趣きを添える。門脇に枝を四方に張った楓が立ち上がり、薄い萌黄色の葉を靡かせる。緑葉隠れに山内の楓が薄紅色の葉を覗かせ、緑の空間に彩を添えている。それらが、石段両脇から差し掛かる楓の新緑の若葉のアーチ
の向こうに佇んでいるのである。
何と穏やかで、ゆったりとした光景だろうか。山門には住職さんの表情が現れ、開かれた門内に歩を入れなくとも、住職さんに接しているような錯覚を憶えるのであった。
山門を潜る。本堂手前に槇(まき)の老木が立つ。槇の木は高さ二メートル程の処で、樹幹が五六本に別れて立ち上がり、各樹幹から水平に伸びた枝には、僅か許りの緑葉が青空に点々と見える。足元周りには石南花(しゃくなげ)が薄いピンク色の花を咲かせ、老木の太い幹を花やかに囲むのである。
日本には老木の槇の木は二本あるらしいが、その中の一本が此処、西明寺の槇であると云われる。 槇の老木の背には、小さな本堂が緑葉に包まれて立つ。西明寺では世智辛く拝観料を徴収する訳でもなく、世の喧騒を離れ時間が静止した閑寂な空間の印象を受けた。
奥の庫裡脇で奥さんなのか、山椒を摘んでいる女性がいた。対岸の山に立つ木の名前を訊ねたりして二言三言、言葉を交わす。
「此処西明寺は陽当たりがよいせいか、紅葉は神護寺より早く、十一月十日頃から始まりますよ」
山の中腹にあるが確かに陽当たりはよい。西明寺は、高山寺と神護寺の中間位の処にある。私は勘違いして、西明寺は神護寺より清滝川下流にあるものと許り思って、奥さんと話していた。
「此方に行けば神護寺ですか、それでは彼方に行けば清滝に出れますね」
と、あらぬ方向を指差して云うので、奥さん、この男は、ひとりで勝手に訳の分からぬ事を云っていると云った顔付だ。この辺は何処に行っても景色のよい処なのだと云った表情で、にこにこして山椒を摘み続けていた。
もう一度、神護寺方面に行き、清滝川に降りる石段に差し掛かる楓の新緑の若葉の下に身を委せたいと思ったが、北山杉の里への道を歩き疲れたので、早目に市内に帰り、仁和寺の境内でも散策しようかと頭の片隅を過(よぎ)った。
後で後悔した。折角、西明寺の穏やかな空間に身を委せてあったのだから、西明寺境内で詩作にでも耽ればよかったと・・・。根が性急で、つい彼方此方と欲張ってしまい我が身の俗ぽっさに嫌気がさすのであった。
京都行バスを待つ間に、道路沿いの緑葉に埋もれた閑静な切妻屋根の民家を描く。普通であれば何気なく見過ごしてしまいそうな風景だ、石垣にのる緑葉の垣根、邸内から覗く萌黄色をした若葉、大きく葺き降りる屋根、そして蔵の白壁とが好く響き合う。背に控える萌黄色に埋め尽くされた山が更に空間を引き立て、さりげない佇で印象深い光景である。
北山杉の里を歩いた疲れで、バスの中で眠り込んでしまい、気がつくと、仁和寺山門前であった。仁和寺山門は迫力があり豪快だ。何時見ても素晴らしい山門だ。匠の技術の凄さを思うのである。
山門を潜った処の広い砂利敷きの中門前広場には、大勢の人が行き交い、再び疲れがどっと出た。静寂な西明寺との落差は余りにも大き過ぎる。やはり西明寺で過ごした方がよかったのか・・・。
既に午後もかなり回っていたので、本坊、茶室の拝観は諦め、境内を散策するに止める。砂利敷き広場から境内に入る中門までも疲労しているためか、随分長く感じられた。
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