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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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四  嵯峨野ー二尊院から祇王寺へ
五  嵯峨野ー仇野念仏寺から鳥居本平野屋・愛宕念仏寺へ
六  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ1
七  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ2
八  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ3
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読後感想
>山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
一 等持院から金閣寺へ
 
 阪急電鉄嵐山駅の東側を流れる桂川沿いのリニアーな公園に並ぶ土産物店の向こうに、対岸の嵯峨野に渡る長い橋、渡月橋がゆったりと伸びる。渡月橋の周辺は京都を代表する名所だけに何時訪れても、その歴史的光景には深みのある趣きを感ずる。朝早いためか観光客はまだ少ない。彩豊かな土産物店が立ち並ぶ通り沿いの路地の奥に京福電鉄嵐山駅はある。
 京福電鉄北野線は京都市内を北野白梅町駅まで走る路面電車で、線路の両側には住宅が迫る。スピードは阪急電車のように速くはない。忙しい人には、物足りないかも知れないが、眼と鼻の先に庶民の生活の気配を感じながら、緩っくりと走る電車には、人間的スケールを感ずる。
 乗降客のひとりひとりが、もしかしたら眼前に流れる家の住人ではと思って接すると、乗客の顔の背後に京都の日常の生活が見えるようである。
 十分ほどで、等持院駅に着く。等持院への道の途中に地図には載っていない立派な寺があった。築地塀で囲まれた寺内には木が生繁っている。等持院にしては小さな寺だとは想ったが、もしかしたら・・・。開かれた門から中を覗こうとしたけれども、拒否的な門構えに入るのを躊躇した。
 京都には、これほど多くの寺があって、各寺院は経済的に何の様に運営しているのか、と不思議に思う時がある。東本願寺のような大本山であれば、全国の末寺からのお布施があるため其の経済的基盤は分かるのだが・・・。京都人の話によれば、皆さん信心深く、お布施も結構な額になるらしい。
 東京では宗教心は薄れてきているが、京都には、まだ強い宗教心があるのであろう。
 
 幾つか角を曲がって、等持院山門に出た辺で、雨がポツリポツリと落ち始めた。まだ傘を差すほどではない。雨が激しく降り出す前にスケッチをしておこう。山門前にある商店の軒下に荷物を置き、車の影から描き始めた。筆で描いた線に雨粒が落ち、じわっと線が滲む。滲んだ線もその時の情景が思い出されて味わい深い絵になる。
 山門の先には、築地塀のある石畳の参道が伸びる。突き当たり左側の砂利敷きの小さな広場にタクシーが三台駐車していた。両側に築地塀が連なる中門の扉だけが広場に向かって開いている。中門越しに見える境内の青々とした緑葉の織り成す光景は、俗界とは別の世界を想わせる。
 方丈の切妻屋根が木立ちの樹幹越しに見え、この先に何んな空間が拡がっているのか胸がわくわくする気分だ。棟に築かれた明かりとりの小屋根が、天に飛翔する鶴のようだ。雨粒が大きくなってきた。まだ濡れていない樹木の下でスケッチを描き始めた。手前に築地塀、中門、中景に方丈の切妻破風が大きく見える。それらが緑海に浮かぶ印象的構図だ。
 スケッチをしている場合には、時間は多く費やすが、費やした分だけ対象物をよく見る。対象物をよく見るだけでなく、空間の空気のような形にならない雰囲気を感じとっているのかも知れない。そのような事を感ずるには、その場の空間に幾つかの要素がある。無意識のうちにそれを感じているのであろう。
 その空間の要素は人によって違う。ある人は美味しいものがある店に、又ある人は土産物店の賑わいにそれを感ずるかも知れない。
 友人と探索していて、私がいい空間だなあと感動しても、友人はそれ程のものではないような顔をしている場合がある。
 その人の見る視点、現在の興味の対象、色々な事が空間を判断する材料になっているように
想う。
 私は色よりも形、幾つかの形が構成する空間に胸躍らせられる。それはモノトーンの空間でもよい。色は空間の補助的要素である。色は重要でないと述べているのではない。新緑の眩(まぶ)しいような緑、紅葉の頃の鮮かな赤・黄・橙色の錦秋にも、この世の物とも想われない素晴らしい空間を感ずるのである。
 
 中門を潜って受付を済ませ方丈へ向かう。天竜寺、龍安寺等の禅宗の寺の方丈は切妻の屋根で妻入りが多い。ダイナミックな破風が参拝客を迎える。
 天井は骨組を露出させ豪快な形だ。上にはトップライトの明窓がある。天井を張らない吹抜空間だ。入った処は下足室である。下足室と云うと、言葉の響きがよくないが、寺の玄関ホールで、参拝客の動線を処理するロビーの機能も兼ねる。
 方丈を壁づたいに右方に歩く、左方に中庭に面した書院があった。朝の陽光を受け、明るくカラッとした雰囲気だ。奥の隅方に若い男が横に旅行カバンを置き、一人で座っていた。
 まずは本堂へと進む。突き当たりは本堂の側壁である。本堂の四周を取り巻く吹放しの広縁を、右に廻って正面に出る。本堂では、先客の喪服姿の五人が法事の最中だった。邪魔だと思い、本堂の広縁を、右方の庭を見ながら通り過ぎ、足利十五代歴代将軍の木像が、安置される霊光殿の参拝をすることにした。
 足利尊氏の木像は子供の頃から、写真を見て知っている。座像で手に笏を(しゃく)持ち、頭に冠を被り、胡坐をかいた姿である。衣の膝の部分が、極端に跳ね上がった像だ。歴代の木像全てが、同じ手法で造られている。
 鹿苑寺金閣、慈照寺銀閣の名称の由来は、足利義満の法名が鹿苑院、義政のそれが慈照院であることから来ている。木像の法名を見て始めて知った。 足利義政の二代前の将軍の木像は、まだ幼い子供であった。
 霊光殿内壁に沿って両側、九〇センチメートル程の高さの台に、木像は安置されている。手前に五〇センチメートル程の木製の台があり、歴代将軍木像前には、湯呑茶碗が置かれ、お茶が供物として供えられていた。六百年以上の歳月こうして供え続けられたのであろう。湯呑は我々が毎日使っているような庶民的な物であり歴代将軍が身近に感じられた。
 
 足利尊氏から始まり、十五代まで室町幕府は続いたが、戦国時代十五代将軍足利義昭の代に、織田信長により滅亡させられた。室町幕府は末期になるに及び、弱体化し指導力を失った。義昭は全く力がなく、権威の固まりのような将軍だった。織田信長に対抗すべく、足利幕府再興のため、諸大名に檄を飛ばし、力を結集しようとした。一時は越前朝倉義景の客人となったりして、流浪の生活を送った。併し疑い深くて人望も無く、時代の表舞台から消える運命になった。 人間の一生の栄華と儚さ(はかな)を感ずる。
 霊光殿に、一堂に並ぶ足利十五代将軍の木像のひとつひとつと対面し、何んな人間だったのかその姿から想像する。
 霊光殿の出口で振り返り、再度両側に安置された木像群を、感慨を抱いて見る。足利十五代二百五十年に亙る生活の規範は、何であったのか、じっと佇み、暫く堂内を見て想いに耽った。将軍個人あるいは足利一族の栄華を求め続けていたのか、その栄華を求めるのは、何のためだったのか・・・。
 広縁を進んで、本堂の裏手に出た。眼前に夢窓国師作の庭芙蓉池が拡がる。芙蓉の花を形どった庭園で、池際の石組が閑雅な趣きを現し、鮮かな緑、苔生した縁石の影を水面に映していた。水面から少しだけ顔を出した縁石は、その数倍の深さ、水中に没している筈である。それだけに石組の縁石には存在感を感じる。
 等持院は衣笠山が、なだらかになりかけた平坦部を寺域としている。庭園は背後の立命館大学に向かって起伏があるが、鬱蒼とした樹木で包まれ、殆ど大学の校舎は見えない。
 衣笠山の付け根を寺域としているため、緑葉の壁で囲まれているような印象だ。
 
 池の対岸、北西の小高い処、樹木に囲まれて茶室清蓮亭(せいれんてい)が立つ。左方は土庇を持つ切妻屋根、右方は寄棟風の茅葺屋根で、ベージュ色の土壁が、奥床しく、さりげない印象だ。清蓮亭への石段が、灌木越しに垣間見えー侘(わび)・寂(さび)ーと云った日本的な情緒空間を感ずる。
 池に接近する西側には、開放的な書院の勾配のゆるい屋根が見える。東側、木立ちの向こうに心字池が覗く。
 この芙蓉池苑の空間の主題は何なのか、主・従は何なのかを想う。作庭者夢窓国師にとっては、主の空間は芙蓉池、心字池であったろうと察せられる。
 建築設計を業とする私にとっては、開放的書院、控え目に立つ清蓮亭、そして私が立っている本堂が庭園を構成する重要な要素のような気がする。けれども全てが空間を構成する重要な要素である。観る者の興味の持ち方により、その力点が違ってくるのであろう。当然な事である。力点が建築物、石組、苑池、緑織り成す樹木に移ったとしても、第一級の庭園だ。
 言葉を替えれば、日本人的な曖昧さを持つ空間である。龍安寺石庭の如く、ある一点に集中してはいない。観る者がその空間から何を感じとるかである。
 この庭園はL形に、書院、本堂が連なり、そして北側の清蓮亭のある斜面の緑葉に囲まれる。それらの空間の中で、庭園は小宇宙を形成しているようだ。
 
 庭園に面した書院には、相変わらず件の(くだん)青年が、畳に座っている。一人で来ているらしく、時々立ち上がっては、書院の中を手持無沙汰に彼方此方へと歩いていた。傍らには、散策者にしては大き目な紺色の旅行バッグが置いてある。
 青年は一人旅なのか、話し相手もなく、人の視線を感じると、俯いたり、横を向いたりして落着かない。遠眼だが、見るからに好青年で背も高い。最初に見かけた時には、一瞬間ハッとした。私の愚息に、顔立ち、髪型、背格好がよく似ていたのだ。息子が進路を模索中で、一人京都の寺に来ているのかと一瞬間、眼を疑った。
 本堂裏の広縁から見たところ、私の愚息よりもう少し年齢が上のようだった。
 広縁より書院に向かい、座敷に荷物を置き、サンダルで庭の散策をしようと、書院の広縁を降りた。青年は相変わらず胡坐をかき、視線を感じたりすれば、頭を掻いたりして落着かない様子だ。大人の図々しさでなく、青年の恥じらいを感じる。
 石段を上がって、丘の中腹にある清蓮亭に向かう。清蓮亭は上段一段を貴人床とした二畳台目の小さな茶室だ。横長に畳が敷かれた貴人床から芙蓉池苑への眺めは、土庇が額縁となり、さぞかし素晴らしい光景であろう。其処で茶室を二枚スケッチする。
 建築の設計は普段、見慣れていても、いざ設計するとなれば難しいものである。建築を観ているようで、観ていない。ただ眺めているだけだ。眺めるのと観るのではその意味が違う。観るという事には、対象を理解し、自からの物にするという意味が込められている。スケッチを描くには、対象をよく観ねばならない。
 丘の中腹の散策路を、心字池の方に足を進めた。林の中の路で、暗くしっとりした路である。
 庭をぐるっと廻る。本堂の裏手に、足利尊氏の宝筺印塔の墓がある。墓域の三面は背の高い垣根で囲まれ、墓は庭からは見えない。
 庭を一周して書院に戻る、青年はまだ書院で胡坐をかいていた。
 本堂裏の広縁から、茶室、芙蓉池苑のスケッチをしている間にも、相変わらず青年の姿が書院に見える。書院の中を無邪気に、あちこち歩いている。
 青年が今、何んな心境なのか、彼の様子から憶測する。二三人で連れだって旅をする若者は京都でも見かける。一人旅は珍しい。何か事情がありそうに想える。
 何かに挫折してこれからの将来を考え、一人静かに物想いに耽っているのか、それとも、水上勉が等持院での小僧時代の事を書いた小説―雁の寺―を読んで影響を受け、等持院に小僧として修行しようと、住職さんに会いに来たが、なかなか面会できずに一人不安な気持を抱き、書院で待っているのだろうか。そのどちらかだろうと想いながら、私は絵筆を走らせた。青年と無言の対話をしているような気分であった。
 そうこうするうちに、青年は野球帽を被り、サンダルを履いて庭の散策を始めた。私はその姿を眼で追った。ごく普通の青年の姿だ。
 青年は庭を一廻りして、足利尊氏墓所を無邪気な様子で見ている。庭石に足を滑らせたのか、手を上げ体のバランスをとったりして無邪気に遊んでいる風であった。そして青年は書院に戻って行った。
 
 私は芙蓉池苑のスケッチも終わり、書院に戻る前に、先刻、法事で入れなかった本堂に参拝し、本堂の広縁を一廻りして庭先の広縁に出、書院に眼を向けた。書院には既に青年の姿はなかった。当然のことながら荷物もないのであった。
 私は玄関の方に眼をやった。紺色のバッグを持ち、玄関に向かって帰りかける青年の後姿がちらっと見えた。
 私も等持院に、随分永くいた。一言、青年と言葉を交わそうと、帰り仕度をする。直さま方丈を出、青年の背を追った。中門を出た処で青年と会う。間近に見る青年の顔立ちは、清々しく、濃紺の旅行バッグを下げた姿からは、謙虚な青年の姿勢が感じられた。
 人間、その人が内在的に持つものは、自然に、滲み出るものである。久し振りに若者の、不安と希望を織り混ぜた輝きのようなものを感じた。年齢が上の私が、そんな事を感じるのも、おかしいとは思うが・・・。
 青年の後姿に他人とは思えず、
 「一人で旅行してるの・・・。私の息子と髪型、背恰好がソックリなので、先刻から気になっていた」
 「友人と来ようとしましたが、友人の都合が付かず、先輩から一人旅もいゝよと云われて、一人で来てます。もう四日目で、今日東京に帰ります。東京の私立大学の一年生です」
 「一人でいるから、てっきり水上勉の雁の寺を読んで、等持院に小僧に入れてもらうため、住職さんに会うのを待っているのかと思ったよ」
 「この寺は、それで有名らしいですね。僕は一箇処で、ゆっくりとするのが好きなんです。これから、京都の南、沢山、鳥居のある神社に行きます」
 「夜行バスで帰るの」
 「来る時は、夜行バスの方が、朝から見れるのでバスで来ましたが、親が遅くなってもいいから新幹線で帰るように・・・。嵐山の方の安いホテルに泊まってました。二千円位で泊まれます。外国人が多く、年配の人も泊まっていましたよ」
 「私はスケッチをしながら旅行しているが、娘の処に泊まっている」
 「そうですか。さっきからスケッチをしてましたね。私は政治の勉強をしています」
 山門への石畳を、話しながら歩いているうちに、山門に着いた。私は龍安寺の方向へ、青年は反対側の等持院駅方向へ向かい、そこで青年と別れた。
 
 束の間であったが、晴々とした気持になった。たまに、今の若者は云々と云われる事がある。
 そんな時、私は御自分の若い頃は、どうでしたか。今は何うなんですかと、訊ねたくなる時がある。
 社会、時代背景が変われば、それ相応に、人間の考え、行動も若干、変化するのが、当然だと思うが・・・。
 私が学生時代、京都に旅した際は、いつも友人と二人だった。話し相手がいなければ、駄目だった。できる限り多くの寺を見ようと、我武者羅に歩き廻った。物静かに想いに耽る青年の姿に、私の学生時代にはなかった純真さを感じるのであった。
 肩にバッグを掛けて歩いて行く青年の後姿に、これから何んな人生があるのか、挫折もあろうかと思うが、いつまでも、物想いに耽る青年であってほしいと無言の言葉をかけた。
 等持院より龍安寺への道を行く。二三角を曲がった先方に、雨で濡れた石畳が輝いていた。道の両側の木立ちの枝葉の葉擦れに、小さな黒門が垣間見れる。龍安寺の入口だ。
 黒門を潜り、バス道路を渡った。左側に龍安寺の受付があった。
 境内に足を踏み入れた。直に左手の池畔の遊歩道と、真直に伸びる広い玉砂利敷きの参道に別れる。まずは池畔の道を、右方に鏡容池を眺めながら散策する。
 
 今春、桜の季節、仁和寺からすずかけの道を歩いて来、夕方龍安寺を訪れた。既に拝観時間も終わっていた。けれども、この鏡容池の池畔だけは歩けたのだった。
 その時、鏡容池は、新緑の若葉で溢れんばかりだった。池の中央近くにある弁天島には、朱色の祠が木立ちの透間から僅かに見え、祠近くに立ち上がる松の巨樹が池に枝葉を差し伸ばしていた。庫裡の屋根が樹幹の間に、僅かに望めたが、全山、若葉の緑で蔽い尽くされ、夕暮刻だったせいもあるが、静寂そのものだった。対岸の池際の樹木も、その一本に至るまで、人間の意志が込められて立ち上がっているかのような印象だ。それは自然と人工が織り成す素晴らしい光景であった。
 背後の衣笠山の稜線は、なだらかで、処々、桜花が白く霞のように棚引いていた。
 龍安寺の立地条件は云うに及ばず、一木一草に至るまで、そこにあらねばならないと想うほど、細部に亙って作者の設計思想が感じられる。
 鏡容池の水を湛(たた)えた開放的空間は、遊びの空間ではなく、一人孤独に観る空間、物想いに耽る空間を演出している。
 多分、結果的に演出されたのであろう。平安末期以来、衣笠山の麓のこの地は、徳大寺家の別荘であった。その後、室町時代、管領細川勝元がこれを譲り受け、寺地とし、妙心寺の義天玄承を開山として、創建されたのが、龍安寺の始まりである。
 
 学生時代に龍安寺石庭に訪れている。けれども、この鏡容池畔から望む境内の緑滴る光景、背後の衣笠山の優しい稜線は全く記憶にないのである。何故に、光景自体が絵画になる素晴らしい空間の印象が、残っていないのか不思議である。歳月が経過して忘れたのか、でも、それなら石庭も忘れている筈だ。それとも観る側の人間の感覚が、変化したのだろうか。
 
  
竜安寺方丈 竜安寺蹲い 吾唯足知
等持院 門 金閣寺夕佳亭

 鏡容池を半周した処にある休憩所で昼食を摂(と)りながらスケッチを描き始めた。此処は参拝客の帰り道であるため、入れ替わり、立ち替わり探索者が通り過ぎてゆく。参拝客は、アジア系、ヨーロッパ系の旅行者が、半数以上だ。この時期、暑いため、日本人の探索者は少ない。
 京都旅行は、やはり桜の頃の春、そして紅葉の秋なのであろう。雨がポツリポツリと落ち始めた。池畔の散策路を来た道に戻って、玉砂利敷きの参道を石庭のある方丈へ向かう。
 広い石段の両側から、樹木の枝葉が蔽い被さるように伸びる。濃い緑葉の向こうに、切妻型屋根の庫裡が垣間見える。柱、梁の間が、白く漆喰で塗られ、直線的美しさを現す。切妻型の破風板が、全体を引き締め、翼を拡げた鳥のようだ。天竜寺、等持院、そして龍安寺など禅寺の玄関のある庫裡は、参拝客の眼にまず最初に入る。いかにも人を優しく、迎え入れるかのように翼を拡げた空間で、参拝客は吸い込まれるように入山してゆく。
 受付を済ませ、庫裡の天井を見上げ、そのダイナミックな木組に圧倒させられた。筋違(すじかい)の替わりに、梁・貫・柱の水平・垂直材で構成され、地震等の横力に抗する。棟にある明窓からの
柔らかな光を受け、白壁と柱・梁のコントラストが描き出す眺めは、モンドリアンの絵を見るようであり、近代的デザイン感覚を思わせる。
 
 帰りがけに、この豪快な空間を再度愉しもうと方丈に進んだ。そう云いながらも、探索者に気を取られ、帰りに見上げるのを忘れてしまった。
 方丈の広縁には、大勢の人が座っている。これでは情緒がない。石庭は後で鑑賞することにし、まずは方丈の座敷の襖絵を鑑賞する。いつも襖絵は簡単に見がちだが、色の濃淡だけで、よく空間が表現されている、と感心する許りである。
 方丈の広縁を、庭を見ながらぐるっと廻った。裏手の庭の傍ら、緑葉に囲まれて古い蹲が(つくばい)ひっそりと佇んでいた。―吾唯足知―吾れ唯足るを知る。そう石に彫られていた。絵にあるように、口辺というか、口を中心にして、四文字のデザイン、禅の哲学的真髄を、謎解きさせるかのようなデザインである。
 一瞬間、寛永通宝かと思い、お金をデザインした蹲だと勘違いした。
 方丈の横に掲げられた説明書に―石庭を眼で見るのでなく、心の眼で見る―とあった。心の眼で見るにしては、賑やか過ぎるのでは・・・。
 方丈の前庭の―虎の子渡しの庭―所謂、龍安寺石庭に面した広縁には、人が二重になるほど、大勢の探索者が座っている。一人静かに鑑賞するゆとりはない。
 
 それでも禅的空間は体験できるだろう。正面、高さの低い油土塀は、創建当初からこのように、味わいのある閑雅なテクスチャーだったのか、意識的に、古く仕上げる手法は当時から、あったであろう。
 赤錆びた塀、処々に、下塗りの色と思われる、かすれた黒色が現れ、雨滴の跡と思われる、グレーの竪染みが筋を引いていた。そして土塀の屋根の?木が規則正しく軒端に揃えられている。
 軒端がその影を塀に投げ掛け、立体感を現す、瓦屋根は渋い鼠色を、水平に長く伸ばし、土塀の閑雅なテクスチャーと共に、一体的に把えられる。正面右手の土塀は、先に行くに従い窄(すぼ)まり、庭の奥行が実体より奥に深く見える。所謂、遠近法の手法が使われているのである。
 石庭が投げ掛ける禅的思想は、私にはまだ理解できない。雑念を捨て、方丈の座敷に座禅でも組まない限り、理解するのは無理であろう。
 只、敷きつめられた白砂に左から五・二・三・二・三と配された、十五個の石だけが、白砂
の下の地中から顔を出している空間に、禅の思想を本能的に感ずる。そこには有機的な樹木、水は無い。日本庭園でよく見かける、築山、石橋も無い。庭園の空間に身を委せ、愉しむ空間ではない。石庭に対峙し、自らの埋もれた内的意志を引き出す、修行空間である。
 
 無機的庭に対し、背後の青々とした緑葉は、何と明るく、有機的なのだろう。その樹林帯は観者が、庭と一対一で対峙できるように、外部空間と遮断するために設けられているようだ。
 結界が二段構えに構成される。第一の結界は油土塀、そして第二のそれは、緑の樹林帯である。
 本来であれば、方丈の座敷に座り、石庭と対
峙するのであろう。黒光りした広縁、方丈の廂を額縁として、石庭に対すれば、そこに小宇宙が形成されるに違いない。
 広縁と方丈の座敷の境でスケッチを始めたが、探索者が入れ替わり立ち替わり通り過ぎる。多くの人が眼に入るが意識的に観ないで、一心不乱に、一気に土塀に対峙する。人のいないスケッチにこそ、小宇宙が現れているようだ。
 人が行き交う方丈の広縁を後にし庫裡に戻るが、そこも賑やかだ。
 庫裡を出て芙蓉池を右方に行き、左方に芙蓉池を眺めながら歩く。そこは木立ちが立ち並ぶ道で、緑のトンネルを潜っているようだ。蝉時雨が緑葉を揺らし、方丈の石庭とは、対照的で有機的な空間である。
 先刻、鏡容池をスケッチした休憩所の近くに、精進料理店があった。鏡容池に面し、店内からの眺めはよさそうだ。
 休憩所の広場より、衣笠山を背景にした静寂な鏡容池を眼前にする。この空間を現した、平安・室町時代の人々の感性には、驚く許りである。
 龍安寺前の、衣笠山山麓のバス道路は、金閣寺に至る。抜け道の路地があるだろうと思っていたが、山麓の道のため抜け道はありそうにない。左方に堂本印象美術館、右手に立命館大学があった。道の山側には、新しい立派な家を数軒見かけた。何処の町でも、山麓沿いには、格式のある家が立つ。背後に緑の山を背負って、眺望もよいし、環境が優れている。おまけに、抜け道が無いため、車も人も通らない。
 二十分程で、金閣寺の玉砂利を敷き詰めた参道に出た。受付で拝観券を買ったところ、券の替わりに―金閣寺舎利殿御守護―と書かれた御札を渡された。入口で御札を提示すれば、案内書を呉れるのである。
 入口前に屋根の掛かった休憩所があり、既に二三人、参拝客が休んでいた。私も龍安寺から歩いて来て少々、疲れたのでベンチに腰を下ろした。ウエストポーチからマイルドセブンを取り出して口に銜え、ライターで火を点け、深く吸い込み紫煙を吐いた。
 そこで、目付きの鋭い中年の男が二人、常に受付方向を監視していた。宗教対立でもあるのだろうか。他の何の寺でも、見かけない厳重な警戒である。
 室町時代、応仁の乱の時には、金閣寺が西軍の陣所となり、仏殿・書院・不動堂等の仏閣が焼失した。唯一、金閣のみが焼亡を免れた。けれども昭和二十五年に、学僧の放火により、足利義満創建の金閣は炎上した。そんな歴史的事実も影響しているのか。
 入口を入って直に、水に浮かぶ金閣の姿が眼に入った。左方の砂利敷きの広場で、大勢の人が、金閣をバックに写真撮影をしている。
 私も広場奥、目立たない処を選び、スケッチを始めた。目立たぬとは云え、幾人もの探索者が前を通り過ぎる。立ってスケッチをしている間は、まだよかったが、彩色の段階になり、スケッチブックを地面に置き色付けし始めた頃には、写真撮影中の外国人観光客が「オゝ、ピクチャー」と、ニコニコと、笑顔を振り撒き、覗き込んで行く。
 金閣の一層目は寝殿造りで法水院と呼ばれる。広縁が周囲に廻らされ、遠眼では黒っぽく見える。二層目は武家造で潮音洞と(ちょうおんどう)呼ばれる。三層目は禅宗仏殿造で究竟頂と(くっきょうちょう)呼ばれる。二層と
三層は、漆の上から金箔が張ってあり、水面に映った眩い(まばゆ)ばかりの金色の形は、とても禅宗寺院とは思えない。極楽浄土を現しているようだ。
 屋根は椹材(さわら)の柿葺で(こけらぶき)ある。重厚と云うより軽快な印象だ。派手好みの義満の性格がよく出ている。
 金閣が浮かぶ池、鏡湖池(きょうこち)には、大小の島々、石が据えられ、池の好い点景だ。諸大名の献納した石には、それぞれ畠山石・細川石・赤松石と名づけられる。
 等持院、龍安寺そして金閣寺、それぞれの寺には池がある。これらの池は元々、寺地になる前から、あった池なのか、湿地帯だったのか、それとも土木工事により新たに池を築造したものなのか…。
 どの寺も池が空間の大きな要素のひとつである。山麓の寺地ゆえに、染み込んだ水が集まる捌(はけ)の道だったのであろう。自然の立地条件を、上手に利用して、現在の姿がある。
 
 金閣の背後の衣笠山山系の濃い緑葉が空間に、ゆとりを持たせ、一際、建物を引き立たせている
 金閣寺は元々、鎌倉時代西園寺公経の別荘北山第を、足利義満が大層気に入って譲り受け北山殿を造営したことに始まる。義満の死後、遺言により夢窓国師を開山として鹿苑寺が造営された。
 鏡湖池、金閣を左に見ながら歩く。寺地の散策路の林の中に小さな湧水泉、滝が並ぶ。気味悪い池の中州に、白蛇の塚がある。さらに上がって高台に、茶室夕佳亭(せっかてい)の茅葺屋根が見えてきた。
 等持院、龍安寺、金閣寺と探索して、ここまで来るに及び、流石に疲れが出てきた。夕佳亭を研究しようとするが、スケッチだけに留める。相変わらず、描いている後ろを探索者が、次から次へと通り過ぎて行く。
 
 金閣寺は寺地を探索できるだけで、仏閣の内には入れない。不動堂を左方に見、急な石段を降り、出口の側の休憩所で、一息つく。
 ベンチに腰を下ろし、地図を開いてボンヤリと見ていた。隣の韓国の学生が、市バスの地図を拡げ、祇園には何番のバスで行くのかと訊いてきたのだが、私も詳しくないため、さらに隣の立命館大学のカップルに訊ねた。カップルの女のほうが、上手な英語で十二番のバスで行くとよいと、親切に教えて呉れた。私と韓国人、立命館大学の学生と四人で、日本語、英語交じりで暫く話す。
 「祇園は、ジャパニーズレストランが、たくさんあって、ツーエキスペンシブだが、それでもよいのか」
 と教えてやったが、韓国人は
 「国で京都に行ったら祇園を見るように教えられた。特に路地を見るように」
 韓国人が、他によい処はないか、と訊いてきた。私は時間的に殆どの寺では閉門になるため、拝観は出来ないが、龍安寺ならば、池までならば入れるからそこがよいのではとアドバイスを与える。渡月ブリッジも時間制限が無いから、よいかも知れないと。
 結局、韓国人は、一日フリーキップを持っているので、バスで龍安寺に向かった。
 
 帰り掛けに左手の大文字山の中腹に、大きな大の字が見えた。今日、最後のスケッチと思い描いた。ブラブラ歩くうちには、思わぬ空間に遭遇するものだ。
 陽も落ちて辺は薄暗い。前に教えられた通り、何番かのバスに乗った。京都市バスはルートが沢山ありどれに乗ればよいのか迷う。降車口で外国人の女性が、必死な形相でバスの運転手に自分の行先のバスは何れなのかを訊いている様子が見えた。外国人だと言葉も分からず大変だろう。結局、外国人女性はバスを見送った。
 人事(ひとごと)でなく、私も西院駅はどのバス停で降りたら良いのか、隣席の人に訊くが隣人もよく分からず、会話を聴いていた後ろの女性が、
 「私も、そこで降りるから、教えてやりますよ」
 と親切に声を掛けて呉れた。
 途中、男女の学生が、大勢乗り込み、バスは満員になった。京都は東京に比べ、バス路線が多いだけに、複雑で慣れるまでは大変だ。
 西院では大勢降りた。件の奥さんが、
 「あそこが、阪急西院駅ですよ」
 と指差して教えて呉れた。夕方のせいか人の動きが活発になり、急ぎ旅でもないのに自分まで忙しいような気になった。
一 等持院から金閣寺へ・スケッチギャラリーへつづく
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