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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
二 銀閣寺から法然院へ
 
 四条河原町、高島屋前バス停には、銀閣寺通行きのバスが十分間隔でくる。京都の中心部は、車の往来も多く、人の動きも活発であるが、バスに一〇分も乗れば、道路巾が広く感じられる程、車は少なくなる。幾度か利用するうちに市バスに乗るのも、随分と慣れてきた。
 銀閣寺通の東の突き当たりに銀閣寺の山門が立つ。今日は前日、調べておいた白沙村荘(はくさそんそう)橋本関雪旧宅の美術館に寄り、銀閣寺を探索する予定だ。
 バス道路南側には、湯豆腐の日本料理店が数軒立ち並ぶ。どの店も京都らしい風情ある表情を現している。白沙村荘も、湯豆腐料理店を併設していると聴いていた。もしかしたら、この店が、眼指す美術館かと思い、昼前の準備で、忙しそうな店員さんに訊ねた。二軒先が白沙村荘であるとの応えが返ってきた。
 瀟洒な構えの門前に、湯豆腐のメニューが、ビニールでコーティングされ、門柱に掲げてあった。 美術館であるのに、門前に湯豆腐のメニュー、その取り合わせにどことなく商業主義的な印象を受け、一瞬、入るのを躊躇した。けれども、道から門内の静かな佇を覗き、魅せられるように門内に足を踏み入れた。
 入って直、左側のこんもりとした高処に、大分県の国東塔(くにさきとう)と云われる五輪塔が立っていた。五輪塔にしては、かなり大きい。処々、石が砕け、豪快で古色豊かな石塔だ。傍にある受付の女性に訊ねた。
 「白沙村荘は個人の家にしては、随分と立派ですね」
 「でも維持してゆくのが、大変なようですよ。橋本画伯の息子さんが、管理なさっているんですよ。石燈籠などは、先代の先生が、買い求められたそうですよ」
 古風な冠木門を潜り、庭内に足を踏み入れた。大きな池の対岸に、画伯のアトリエだった建物が、枯れた感じで、木立ちの間に見える。枝振りの好い松の大木、池畔の石組が、好い点景だ。すかさず、スケッチブックを開き、筆を走らせた。
 池に向かって、瓦屋根が二重に葺き降り、深い軒庇がつくり出す陰影に、画伯の精神的力強さを感ずる。頂には、入母屋屋根を持った、物見櫓風の部屋がのっている。其処は全面ガラス張りで、周囲には、手摺が回されている。池側から見るに、動きがあり、ダイナミックな光景である。先客の夫婦が、私の方に近付いて来た。
 「描けましたか、後で色を付けるんですか」
 主人は微笑を浮かべ、そういった。私は筆を走らせながら、
 「時間が無い時はそうしますが、直に、色付けしてしまいます」
 主人も絵を描くそうだが、相憎、今は道具を持って来てないとの事だ。仕上がった絵を二三枚見せてもらいたいといわれ、法隆寺のスケッチを拡げ、前にある飛石に置いた。大して上手でもない絵を見て、
「筆で直に描くんですか。鉛筆で下書きは・・・。ヘエーしないのですか。少しの間にもう描きあげたんですか。上手に描けてますね」
 と誉められる。お世辞でも、誉められれば嬉しくなる。男は、現役時代は建築設計関係の仕事をしていたそうで、定年退職後は、時々、絵を描いている。と話していた。
 描き終わって、池の周囲を歩き始めた。対岸で件の男が、
 「こちらに来てみませんか、画伯のアトリエがありますよ」
 と大声を張り上げ、手招く。後でアトリエには行こうと思っていたが、親切を無にしてはならじと、池に掛かる石橋を、対岸に渡り、五十畳敷きのアトリエの前に出た。男が、池の水面
に眼をやりながら、 
 「此処から見える大文字山の送り火を、橋本関雪画伯は、随分と気に入っていたそうです。その送り火が、池に逆さまに映るという話です。燈籠にしても、随分集めましたね」
 と教えて呉れた。
 アトリエの床は板張り、天井は平らで格天井である。私ならば、もう少し天井に変化をつけた設計にするだろう。例えば、中二階を計画し、吹抜空間に中二階へ上がる木製階段を付け、一階、二階、物見櫓と連なる、流動的一体空間をアトリエに取り入れた計画にする。外からは、そのような空間になっているように見えるのだが、残念な気がする。内部空間を彷彿とさせる、外部空間であれば、一層見応(みごた)えのあるアトリエとなったであろうに。
 
 大きなアトリエには、屏風が二枚、置いてある。数百号の日本画を描くには、これだけのスペースが必要なのであろう。
 画伯は、庭園を見ながら、画の構想に耽ったに違いない。池の周囲には、燈籠、茶室そして枝振りの好い松の木が見え、描くよりも、庭を鑑賞している方が、よいのではと思ってしまう。庭の右端には、美術館への散策路に通ずる、桧皮葺(ひわだぶき)でカーブを付けた冠木門が、小ぢんまりと立つ。
 アトリエ・存古楼(ぞんころう)を後にして、池を廻って茶室の方に行く。茶室倚翠亭(いすいてい)前から対岸を望んだ。池に迫り出して造られた茶室問魚亭(もんぎょてい)が、中国風に、異国情緒の漂う姿で、立つのが見えた。 問魚亭は、軒端に厚い端部を見せた茅葺屋根で、池の上に見晴らし台が設けられている。池に迫り出してつくられているため、床下には水が流れることになる。空間が相互貫入し、動きを感ずる。
 石橋を渡って対岸の問魚亭に出、先刻いた処、対岸の茶室倚翠亭のスケッチを始めた。
 池畔の石組、円形飛石、そして石橋が空間を引き締め、好い点景になる。空間の中心には、常に人工的な建物がある。建物を取巻く要素―水面、石組、樹木そして背後の青々とした緑―と、そこに、さりげなく立つ建物、両者が互いに好く響き合い、庭園空間を形成している。特に日本建築は、自然に開いた空間、自然と一体的に融合した形がとられる。畳、障子、廊下、縁側と自然に外部に連なり、内・外部空間の境界が曖昧だ。
 西洋建築では、内・外部空間の境界が、明確で、外部とは堅固な石造で区切られることが多い。厳しい風土あるいは、敵からの防衛のために、そんな手法がとられる。
 再び、石橋を渡り、アトリエ存古楼にでた。件の夫婦の姿は既にない。靴を脱いで、アトリエに上がり、改めて五十畳の広さに、画伯の精神的なゆとりを感じた。アトリエには、扇風機、蚊取線香が四隅に置かれてある。画伯の日常品があれば、さらに面影が偲ばれるのだが・・・。
 アトリエにいるのは、私一人だけだ。暫く庭を眺めてから、茶室のスケッチの色付けをすべく、茶室問魚亭に戻った。色付けしている最中にも、後ろを次から次に、探索者が通り過ぎて行く。描きながら暫く休み、池畔を冠木門に足を進めギャラリーに出た。
 橋本関雪は、京都画壇の中心的存在だった。これだけの庭園、邸宅を構えるには、相当の財力がなければならない。
 ギャラリーにある画伯の絵は、水彩画だけで、日本画は展示されていない。中でも花鳥風月画が多い。デッサンは流石に上手だ。構図は伝統を踏襲した構図で、細かいデッサンと色の出し具合には、職人芸的な技を感ずる。中国の街道風景の複製画は、リアリティーがあり、見応えのある絵である。けれども、絵は上手だが、作者の意志が、何にあるのか把めない。二三周しギャラリーを後にした。
 
 敷地内には、石仏・石燈籠が、数多く置かれ、木造の本格的で古風な持仏堂、冠木門がある。その贅を尽くした造りには辟易する程だ。余りにも成金趣味なのでは・・・。物質的豊かさよ
り、精神的豊かさを求めるのが、芸術家の道ではないのか。
 貧しさから脱却し、豊かになったため、貧しさの反動として、豊かさを社会に誇示しているかのような印象を持った。
 石仏・石燈籠・五輪塔は、あるべく処に置かれて、始めてその空間が生きて来る。ただ単に収集するのであれば、美術館に展示すべきでは、と思うのは私許りではあるまい。
 人それぞれ生き方、物の観方、社会への対処方法は異なる。人間、色々な考え、哲学を持って生きているのを白沙村荘の庭を歩いて感じた。
 
 銀閣寺通りの両側には、土産物店が立ち並ぶ。色取どりのカラフルな参道沿いの店は、アプローチに彩を沿え、見ているだけでも愉しくなる。
 石畳の坂道を登り切った処に、木立ちに包まれ、山門が佇む。奥床しく控え目な印象で、これから訪ねる銀閣寺の―侘(わび)・寂(さび)―空間を暗示しているかのようだ。
 小ぢんまりとした山門を潜り、見上げるほど高い大刈込の生垣に、突き当たった。大刈込垣の下部は銀閣寺垣の竹垣が組まれ、緑の壁に囲まれ、迷宮の入口に差しかかった印象であった。
 この大刈込垣により、俗界との結界を築く。京都の寺院では、樹木で結界を築くのを多く見かける。詩仙堂でも、鬱蒼とした林で俗界と仏界を分離し、さらに、結界として築かれた織り重なる山林を借景し、見事な景観を創り出していた。
 大刈込垣に沿って右方に自然に折れた。突き当たりにも又、大刈込垣が立ちはだかっていた。三方を緑の壁に囲まれ、この先に何があるのか、期待感が高まる。心憎い許りの空間演出だ。
 直に、大刈込垣通りを、左に折れて真新しく、まだ木の香が、漂ってきそうな中門に出た。前より開放的だが、眼はまだ塀に向くだけで、相変わらず閉鎖的空間に閉じ込められている気分だ。
 受付を抜け、屋根のかかった外廊下を抜けたところは、別世界の如く明るく、背後の月待山の中腹の樹々の緑葉が眼前に迫ってきた。 眼前に拡がる、銀沙灘(ぎんさだん)・向月台(こうげつだい)の石庭が、陽を受け光り輝いていた。
 一瞬、大勢の探索者は眼に入らなかったが、直に、本堂前で庭を鑑賞する多くの老若男女の姿に気付く。眼を池から庭内の林に向けた時、そこにも、蟻の行列の如く、探索者が列を為していた。
 これでは、足利義政が築いた東山文化の―侘・寂―の落着いた空間を、体験するどころではない。けれども、私も大勢の探索者の一人であることには間違いない。
 人の流れの儘、本堂の広縁に進む。余りに人が多いため、僅かの間、立ち止まり、後で石庭を鑑賞することににした。銀沙灘を横目に、数珠繋ぎの列につき錦鏡池(きんきょうち)に進んだ。
 本堂を振り返った。本堂前に拡がる銀沙灘・向月台の白砂が、全体的に黒っぽい本堂と、好いコントラストを描いていた。
 
 順路に従い、山につけられた石段を上がる。余りに多い観光客で、混雑して先が詰まっているのか、立ち止まる事が多い。
 「マムシが出た」
 上の方で子供の声がした。
 行って見れば、―マムシに注意―の立札があるだけだ。これだけの人が歩いていれば、流石に、マムシも人間が怖くて出て来れないだろう。急傾斜の登りのため、老人にとってはきついのでは、と思いながら歩く。
 散策路のかなり上の方から、石庭を一望できる処があった。左に観音殿(銀閣)、真中に本堂、右に東求堂そして周囲の樹木の緑、白と黒と緑そして空の青が、恰も宝石を鏤めたように輝きを放つのであった。
 樹木の緑葉は自然の生成物だが、此処では、自然にまでも、人間の意志が入っているように想える。人工と自然が、バランスよく考え配置されている。人工と自然が一体となり、小宇宙を形成しているかのような光景であった。
 程なく、道は下り坂になる。探索者は、手にハンケチを持ち、汗を拭き拭き歩いてゆく。
 山の散策路を降って、観音殿(銀閣)の先に出る。観音殿は銀閣寺の象徴的存在であり、一層目は心空殿(しんくうでん)、二層目は潮音閣と(ちょうおんかく)呼ばれる。屋根は方形の桧皮葺(ひわだぶき)で、濃茶の古色豊かなテクスチャーである。頂の露盤の上では、鳳凰が透明感を漂わせていた。二層目の火燈窓を持った壁は、遠眼で見ても、相当の旧さであるのが分かる。観音殿の柱梁の木組は乾燥し切った印象である。木の含水率は、限りなく0%に近い程だ。形態は金閣寺に似ているが、設計思想が異なる。
 金閣寺は、鏡湖池(きょうこち)に迫り出して建てられ、煌や(きらび)かに金箔で包まれ、自からの存在を現していた。一方、銀閣寺の観音殿は、木立ちの数寄空間に、恰も自然と同化するかのように立ち、枯葉が落ちる頃には、その姿は、自然に埋没するのでは、と想われるほど自然と同化した空間であった。
 銀閣を廻って、殆どの探索者は、裏門から退出して行った。私は再び本堂前に向かい、石庭を眼前にするのであった。先刻より探索者は少ない。本堂の広縁隅でスケッチを描き始めた。
 手前の銀沙灘が海原のように見え、深い筋が波のように感じられ、海原が、狭くなって銀閣に吸い込まれてゆく。向月台が、彼岸の島に浮かぶ、蓬莱船を現しているかの如く、白砂をキラキラと輝かせている。
 背後には、自らの役目は背景にある、と受け止めている樹木の緑葉が、織り重なる。私には、観音殿(銀閣)も、銀沙灘の背景である事に、何の、拘りも持たないように見える。
 銀閣寺の石庭空間では、観音殿・東求堂・本堂の各堂宇が、石庭のための点景に、それぞれなっているように恩える。空間の主と従の転換が見られる。当然の事ながら転換しているかどうかは、観る人の精神によって異なるのであろう。
 石庭―銀沙灘・向月台―の存在が、それだけ大きいのかも知れない。それにも増して、石庭を引き立てる、周囲の観音殿を始めとした堂宇が、石庭に負けないだけの空間の質を持つからでは、と解釈する。
 スケッチを始めて直に、又多くの探索者で本堂前は溢れて来た。人が後ろに回れない隅の方で描いていたため、混み合っているわりには、落着いて描けた。
 描き終わって、後ろを見るに、本堂と東求堂の間の渡り廊下の壺庭に、現代的なデザインをした手水鉢が、足元を草の緑で包まれて立つのが眼に入った。四十センチメートル程の立方体の石に、規則正しく二センチメートル位の、四角い穴を穿ってあり、上部には、軽く木で小屋根が差し掛けられ、スケッチを見る限りでは、現代建築のデザインのように見えなくもない。
 再び探索者が多くなる。銀閣寺垣に沿って山門に出、一路法然院へ。
 
 琵琶湖疏水沿いの哲学の道を行こうと思ったが、探索者が多いのではと、東山連峰よりの間道を行くことにした。哲学の道は、有名に成り過ぎて多くの人で賑わい、一人ひっそりと、情緒を味わいながら散策する気になれない。
 一本、東山連峰よりの間道には、住宅が立ち並び静かな佇だ。地元の生活の匂いが感じられ、心地好い路地の雰囲気である。
 探索者は、殆ど見掛けない。土産物店もない。このまゝ法然院に連なるのだろうか、不安な気持で細い道を降って行った。直に哲学の道に出た。哲学の道界隈も、一歩間道に入れば、静かな佇を持った道が残る。けれども、紅葉のシーズンともなれば、大勢の探索者が紛れ込んで来そうだ。多分、静かな佇を感じられるのは、今の季節だけなのかも知れない。
 結局、哲学の道に出てしまった。左方に法然院への道標を示す矢印があった。矢印の示すまゝ進み、樹木で鬱蒼と包まれた道に出た。其処に法然院参道への石段があった。石段の左方には、こんもりとした木立ちの繁みの中に、石燈籠が幾つか置かれてあった。寂(さ)びた印象のアプローチ空間である。
 数段ある石段を上がり切った処には、巾の広い参道が、横に長く伸びていた。参道の突き当たり、一・五メートルほど石段を上がった処に、法然院の茅葺の山門が、ひっそりと、その姿を現していた。
 参道沿いは、巨樹の緑葉で蔽われ、まだ午後一時頃だと云うのに、夕方のように小暗く、幽暗な参道空間だ。銀閣寺とはまるで異なり、殆ど探索者は見掛けない。
 この法然院山門前の空間には、以前、訪れた慈光院山門(茨木城楼門を移築した山門)前の空間に似た妖気漂う空気を感じた。法然院のそれは、空間が大きいせいか、慈光院程の妖怪路ではないのだが・・・。
 暫く山門に見蕩れるが、此処はぜひとも、スケッチを為(せ)ねばと、描き始めた。私のいる参道側には、樹木が鬱蒼と生繁って、小暗いが、山門の向こうには、陽が差し、緑葉がキラキラと明るく輝き、こちら側とは対照的な別世界が拡がっていた。その上、逆光のため山門には陽は差しておらず、単調で妖しい気配を弥(いや)が上にも感じるのであった。
 山門の寄棟茅葺き屋根が、フワッと柔らかな帽子のように山門に被さり、棟押えの細い丸太が、空間に緊張感を持たらす。軒下の?木の細い線に、法然院の朗らかさと同時に、繊細な優しさを感ずる。山門の両側には板塀が連なる。決して重厚な塀とは云えない。でも如何にも、法然院に相応しい優しげな趣きがある。左手の木立ちの中に立つ石碑、石燈籠が、空間の好い点景だ。
 嘗(かつ)て、京都には数回訪れたことがあった。当然、哲学の道も友人と散策し、法然院があるのも知っていたが、一度も訪れたことがなかった。何故に、これほどの空間を見過ごしてしまったのか、自からの認識不足を嘆く許りである。だが何の知識もなく、突然、素晴らしい光景を眼前にしたが故に、その驚きが、数倍にもなって現われたのも事実だ。
 すぐさまスケッチブックを取り出した。薄暗い処で描いているため、蚊がブンブン飛び交い、払いのけるのも煩わしい。中には特攻隊の如く眼に飛び込もうとするやつもいる。スケッチをする間にも、何人もの参詣客が通り過ぎてゆく。結構、探索者が来ている。皆さん法然院の素朴な空間に浸っているようだ。山門の反対側に続く参道からも人が来るが、何かあるのだろうか。
 法然院阿弥陀如来坐像、法然上人木像は、四月と十一月に、特別公開される。境内は時間制
限はあるのだが、自由に散策できる。山門の佇といゝ、朗らかな寺院であることが、こうして参道に立っているだけで伝わってくる。理屈だけでなく、仏教の本来の姿を現す数少ない寺院のひとつである。
 参道からは、山門の開かれた門を通して、境内の明るく輝いた木立ちを眼にするだけだったが、石段を上がり、山門に立った時、あっと息を呑み込み茫然と立ち尽くした。参道の幽暗な妖気漂う空間と、全く正反対に、明るく宝石を鏤めた如く、極楽浄土を想わせる箱庭が眼前に繰り拡げられているのであった。 
 石段を上がった分だけ、境内は低い。山門を降りて直に、巾の狭い通路を挟んだ両側に、矩形で高さ五〇センチメートル、巾一・五メートル、長さ五メートル程の砂の山が横たわる。というより石庭と言った方がよいかも知れない。平らな頂には、ローマ字のようにも見える抽象的な砂紋が描かれていた。周囲には木杭を打ち込み、低い柵がされてある。一体、何を表現しているのか、単なるデザインなのか、いずれにしても現代的感覚の砂紋である。
 後で分かったのだが、この砂紋あるいは砂山は、清めの水を表したと云うそうだ。白砂壇に挟まれた細い通路を通れば、身が清められる仕掛けである。いつ頃から、白砂壇があったのかは分からない。
 法然院は、法然上人が弟子の住蓮、安楽と共に庵を営んでいた寺だったが、その後廃寺となり、知恩院の万無上人が再興した。そんな歴史から類推するに、一七〇〇年頃からと想われる。
 
 境内の奥の方は、光り輝く木立ちの枝葉に隠れ、殆ど見えないが、本堂の屋根が、僅かに覗き、陽光を受けて輝き、左手には御堂が、木立ちの間に見え隠れしていた。通路の先には、浄土式庭園の苑池が、灌木越しに、僅かに水面を覗かせている。東山連峰の麓の境内ゆえに更に先には、鬱蒼とした樹林帯が続く。参道の妖怪路との落差で、この浄土空間に対する感激は、一層大きく感じられる。両側に板塀が連なる、この一段高い山門は参道と、極楽浄土空間の結界を現す。
 境内には、探索者をちらほら見かける。白砂壇の左方に、外国人青年が低い石垣に腰を下ろし、山門側に眼を向けて物想いに耽り、熟(じ)っと何かを見詰めている。私と眼が会い互いに軽く会釈した。感ずる処は同じなのだろう、今彼が何に感じ入っているのか分かるような気がし、外国人であるという異和感はなかった。
 浄土空間のスケッチを描く間に、件の外国人青年が、石段を斜めに三段飛びで、山門に上がって来て、たどたどしい日本語で、
 「絵を見てゝも、いゝですか」
 そう云って私の傍らに来、山門の梁のように大きな敷居に腰を下ろしたのだった。私はスケッチの色付けをしながら青年と話す。彼はアメリカ人で名前はローズという。ローズは銀閣寺、白沙村荘等のスケッチを数枚、ニコニコしながら見ていた。彼は私が来るずっと前から左方の堂前にある石に腰を下ろしていた。
 「朝から、ずっと此処にいるのですか」
 「うん、ちょっと前から、岡山で三年間ほど英語を教えていました。五日前から京都に来ています。英語の生徒は中学生が多かった」
 彼は二十四才で、東洋の文化に感ずるところがあるように見えた。これから何うするのか訊ねた。
 「今日で日本にいるのが最後で、その後、アフリカへ三ヶ月位旅行してから、アメリカに帰ります」
 まだ二十四才で若く、澄んだ眼をした青年だ。社会の厳しさを、これから経験するのだろう、
 「アメリカの経済は今、絶好調ですが、いずれ日本のようになるかも知れませんね」
 「ワタシがアメリカで働く頃は、そうなっているかも知れない。本の編集するのが専門なんです」
 と上から下へ手を下げて見せる。暫く法然院の山門前の空間について語り合う。
 
 先刻来、境内を行ったり来たりしている年配の女性が、山門前で合掌する。参道でも会ったが、熱心な信者の様子で、お百度参りをしているのだろうかと思っていた。
 ローズと腰掛けている山門の敷居に近付いて来て、
 「まあ、絵をお書きになって、いらはるんですか」
 そう云って、後ろに立って数枚スケッチを見始めた。
 ローズは女性に、日本語で私と先刻来、話していた内容を繰り返して話す。
 「岡山で英語を教えていた。・・・・」
 女性の名は大羽さんという。法然院の境内に大羽さんのよく通る声が響き渡る。暫く三人で、ローズの話を中心に、話題が弾む。左の御堂の基壇隅に腰を下ろしていた女子学生二人が、スケッチを始めた。人眼を避けて見える姿を見、ローズは、
 「寂しいね」
 ポツリと云った。二人寄り添うようにいるので、そんな印象を受けたのだろう。彼女達は此方に向かって、写真機を向けていた。我々は最も景観のよい山門の敷居に、三人で腰を下ろしている。何やら「あの人達、邪魔ね」と話しているのが、聴こえてくるようだ。
 
 ローズにもう少し日本の印象を聴きたかったが、彼は今晩エジプトに飛び立たねばならないため山門を後にし、幽暗な参道に消えて行った。大羽さんと山門下で二人になった。
 今迄、大羽さんは立って話していたが、ローズが去ると、山門の敷居に腰を下ろした。私の事を、画家だと思っていたようだ。職業は、建築設計で、趣味で絵を描いている事を話した。日本航空に勤める息子さんが最近、成田に家を建てたそうだが、もう少し早く、知り会えたら設計をお願いしたのにと、残念がっていた。
 大羽さんは、何せ声が大きく、法然院境内に声が響きわたっていた。何せ我々は法然院のベストポイントである山門に座っているので、他の探索者から集中的な視線を受ける。まるで法然院の主のように見えなくもない。
 大羽さんの住まいは、京都上賀茂神社近くの町家だ。上賀茂神社の川沿いに、社家(しゃけ)の町があると云う。社家と聴いて、前に耳にした事があるようでもあるが、何の事かよく分からない。彼女の話によれば、社家とは神主などの神職の屋敷で、神社の参道からでなく、清流に掛かる石橋を渡って、屋敷に入るアプローチがあるらしい。大層、立派な屋敷で、
 「ぜひ一度、訪ねてみれば、建築設計の参考になりますよ」
 と勧められる。随分、長く山門の敷居に腰を下ろし四方山話をした。
 
 浄土ヶ池の近くから、山門に向け、三脚を立て、プロらしい写真家二人が、此方を見ている。如何にも、私達がいない方がよいとの顔付だ。流石に退(ど)いて呉れとは、云わない。長く山門にいた事だし、撮影の邪魔だと思い、そろそろ境内に降りる事にした。
 山門の石段を降り、白砂壇の間を通る。手水鉢の替わりの盛砂の平らな頂に、水が打ってあった。宗教心の無い私でも、身が引き締るような気持になる。小さな苑池に差し掛かる橋を渡れば、直に本堂に突き当たる。右手に曲がった奥方、岩に彫られた洞窟に、お地蔵様が安置されていた。此処で、境内は行止まりで、来た石畳を引返す。
 本堂前に戻り、狭い境内を眼前にし、一分の隙もない光景に、一瞬、我を忘れた。
 参道側から見た山門は陽の影になり、単調であったが、境内の浄土池のある、明るい方から見る山門は、陽を浴び、輝きを放っていた。
 木立ちに包まれた、小さな境内の緑葉は、真珠のような輝きを放つ。私は陽を背にしているため、眼に入る全てが陽を受けて輝き、眼前には光の乱舞が繰り拡げられていた。
 私のいる空間では、そこにいる人達全体が、ひとつの憧憬を共有し、法然院の境内に、小宇宙を形成するのであった。
 樹木の緑、一段高い山門が結界を構成し、心憎い許りの空間を創っている。一日中いても飽きない空間だ。此のような空間に、身を委せ空間の素晴らしさを味わうと、観光案内書の説明書が、空虚に感ずる。知識としての情報が、余りに多い。荘厳な空間に身を委せ、無の境地で、全ての事象を受け容れる刻を過ごすのも、探索の愉しみの一つである。
 谷崎潤一郎の遺品展が、開かれているのを新聞で、大羽さんが読んだというので、会場を捜すが、分からない。てっきり法然院で、開かれているものと思っていたらしく、大羽さん、腑に落ちない様子である。よくよく聞いて見れば、法然院近くの喫茶店で開かれていると云う。喫茶店は、谷崎潤一郎の親類の方が経営しているらしい。
 山門横に、境内への車進入路がある。その車路は、参道近くの来た道に出る。参道に平行に走る、静かな道を南禅寺の方向に歩いて行く。直左側の広場に、法然院の正門が見えてきた。広場の周りは、鬱蒼とした大木の樹林帯で、昼なお暗い妖気漂う空間だ。そこに、参道への入口、黒門が、荘厳な空間の点景としてさりげなく立つ。境内の極楽浄土を想わせる明るい空間
は、そこからは想像できない。
 
 法然院黒門広場前の道から、間道を縫って、哲学の道に出た。疏水縁を、南禅寺方面に歩き、直に、アトリエ・ド・カフェがあった。アトリエ・ド・カフェでは、谷崎潤一郎の遺品展が開かれていた。観光地にありがちな即製の喫茶店ではなく、奥に広く、ゆったりとした印象のカフェである。谷崎潤一郎の書、小説、手紙類が、奥のアルコーブ空間に展示され、喫茶室には、棟方志功の油絵が掛けられている。志功の版画はよく見るが、油絵は珍しい。バラの絵を描いた小品であるが、あの版画のように、勢いのある絵で、印象に残った。
 コーヒーの香りに、心地好い疲れを癒し、疏水縁を行き交う人を眺めながら、京都の家の造りと、生活の仕方について、大羽さんの話に耳を傾けた。
 大羽さんの家は、道路沿いに板塀があり、直に、小さな庭に面して座敷がある。さらに中庭があり、中庭に面して離れがある。道路沿いの庭、そして中庭には、立派な石燈籠があるそうだ。奥座敷には、通り庭で通じている。庭にある石燈籠に、毎日米の研汁を掛け、苔むした燈籠にしようと努力したが、寺院に据えられた閑雅な石燈籠のようにはいかないと、笑っていた。
 家は百年程、経っているらしい。道路に面して板塀を造る設計は、当時、流行したようだ。私は、京都の町家は道路に連子格子の表情を現す、町家風の造り許りだと思っていた。
 大羽さんの家は、今は家族が少なくなって、道路沿いの母屋は、甥御さんのお医者さんが、京都に転勤になった時に、住むようになっているらしい。
 江戸時代京都の町家は、道路に面する間口の長さで税金が決まっていた。そんな関係で間口が狭く、奥行きの長い家が発展した。その方が、都市計画上、道路面積が少なくできるメリットがあった。町家には現代の都市住宅の計画に、参考になる要素がたくさんある。  
 流石に暑い盛りの京都には観光客は少ない。疏水縁を行き交うのは、犬を連れたりした近所の人達で、紅葉の頃の賑わいは嘘のような静かな光景である。普段着の京都の生活が聴け大変参考になった。
二 銀閣寺から法然院へ・スケッチギャラリーへつづく
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