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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
三 醍醐寺
 
 地下鉄東西線、醍醐駅に降り立った。醍醐駅付近はイメージしていた風景とは相当に異なる。駅ビルは大層立派で、専門店の入った高層建築である。駅改札口からエレベーターで地上階に出られる。
 ベデストリアンデッキのある階に出た。デッキの下には人を寄せつけない自動車路が南北に走る。先方には京都市営住宅の高層ビルが立ち並び、振り返って駅舎の反対側に眼を向ければ、そちら側にも高層の市営住宅が幾棟も都市の壁の如く立つ。
 京都市のベッドタウンとして、最近再開発されたのだろう。東方の市営住宅の背後には醍醐山が見える筈であるが、朝靄がかかり、乳色のベールに隠され、その姿は現れてない。
 醍醐山の姿があれば、醍醐寺の方向が直に分かるのだが・・・。田園風景の中に突如として建設された新都市には異様な印象を持った。
 ベデストリアンデッキには、処々にベンチやプラントボックス等が置かれ、細かい設計がなされている。高層住宅にしても、大味である。けれども、バルコニーのデザイン等は入居者に便利のように設計されているのが遠眼でも分かる。ただ計画が広大な割には樹木の緑葉が少ないようだ。
 これだけ広大な地域に造られた住宅団地なのだから、建物の壁を垂直に真直に設計するだけでなく、セットバックさせて圧迫感をなくし、各階のテラスに植物を植えられるように緑豊かな計画にしたならば、もう少し風景に合った空間になったのでは・・・。
 私が抱いていた醍醐寺のイメージとは、相当掛け離れた光景である。
 
 私の後方を歩く二三のグループも、やはり醍醐寺への道を行くらしい。遥か彼方の市営住宅のバルコニーには、洗濯物が干され、いくらか生活の匂いを感じさせ、ほっとした気持になる。市営住宅の近辺はまだ工事中らしく、黄、黒色に交互に塗られた鉄製フェンスが片側に据えられてあった。
 ニュータウンゆえにまだ違和感があるが、十数年後には、醍醐の歴史的風景に溶け込んでいることを望む。橋上に造られたペデストリアンデッキは進むに連れ、自然の地面に変わり、ペーブされた連続の遊歩道となる。
 遊歩道は鉄製フェンスの掛けられたT字路に突き当たった。左に折れて、直に巾の狭い自動車路に合流した。醍醐山の方向に折れ、今度は、両側鉄製フェンスの掛けられた道を醍醐寺へと進む。
 程なく、正面に醍醐寺総門が眼に入った。総門手前角には、一軒だけ店、酒屋があった。総門の両翼には、背の高い土塀が連なり、土塀沿いに巾一・八メートルほどの石組された水路が切られていた。水路沿いに走るアスファルト道路との間に桜並木が連なり、桜花の頃はさぞ見事な眺めになることであろう。
 土塀、石組された水路、桜並木、それに沿う道、私的空間から、緩やかに公的空間へと導かれる空気を感じ、世知辛い都会では滅多にみられない豊かで穏やかな空間である。
 総門を潜れば、参道の遥か彼方に仁王門が立つ。参道は相当に広く、両側には土塀が連なり、土塀に沿って桜木が植えられてあり、桜花の季節には、素晴らしい桜並木となりそうだ。此の仁王門までの参道は、桜並木以外見る物がなく、ただ広々としているのみである。殺風景で参道と云うよりも無機的な感じの広場である。
 春の花見シーズンともなれば、桜並木に沿って屋台や土産物屋、中には緋毛氈を敷いた茶店などが店を並べ、空間に彩を添えた光景が見られるのだろうか。ハレ(・・)の際には、そんな点景により、空間が乱舞するが如く、姿を現すのだろうが、日常的なケ(・)の際の空間は如何なるものか。そんなことを思い巡らせ仁王門を正面に見た。
 総門から仁王門へは巾の狭い石畳の道を計画し、石畳の両側には萬福寺にあるような巾広の石の縁石を据え空間に緊張感を現す。石畳と桜並木、土塀との間には、水の流れを引き込み、自然石を配する。縦長の日本庭園の前庭が、仁王門まで連なれば、大味な参道空間ではなく動的空間が得られ、仁王門先方にある宗教空間、醍醐寺堂塔への期待感を抱かせ、空間的質が発散されるのではと考えるのだが・・・。
 参道をスケッチしようとしたが、殺風景な参道に、気分を削がれた。
 
 仁王門への参道の中央手前に、三宝院表門が土塀を穿ってある。表門では、数人の探索者の出入が見られ、午前中早くから探索者が訪れている気配を感ずる。
 三宝院玄関は風情ある表情を前庭に現す。スケッチしようと思ったが、庭園探索後に落着いて描くことにする。でも、三宝院庭園を廻って出た時、背を振り返らず先に進んでしまい、描くのを忘れてしまった。
> 玄関より広縁づたいに庭園に向かう。途中、幾つかの部屋に襖絵が展示されてあった。その内の一つの部屋の広縁が小さな中庭に面してある。中庭にはごつごつした樹幹が、風雪に耐えて黒々と立ち上がる。樹幹は処々で、瘤状に変節し、更に上に伸びる。樹幹から別れる枝も又そうであり、頂に少し許りの緑葉を付けていることから、其れが生きた植物であるのが分かる。緑葉を付けていなければ、彫刻では、と見紛(みまが)うほど面白い樹相である。
 対面の堂宇の廂は深く、やはり広縁を付けている。単層の瓦屋根が中庭側に葺き流れ、此方から眺めると、拡がりを持って見え、瓦棟の端は、晩秋の澄み渡った空を切り取っている。そして水平な瓦棟に躍動感を与えるが如く、風窓か明窓だろう、軽い屋根を持って塔状に立ち上がる。塔状風窓の下部は、黒ずんだ板が竪張りに張られ、その竪筋が、棟の水平線に対し好い釣合いを持って見える。其れは竪に流れるように末広がりに張られている。木と瓦は好く響き合い、印象的な光景だ。
 中庭を描き終わり、広縁を先に進む。右方に折れた先方には朝の陽光を浴び、キラキラと輝く光景が現れた。
 近付くに連れ、輝きの度合いは深くなり、広縁の厚板は墨色の輝きを放つ。更に進み出るに及び、眼前には、三宝院庭園が一面に、其の鮮かな彩を現して繰り拡がっていた。左手に堂宇
 が雁行し、雁行した堂宇から更に吹晒しの書院が突き出していた。
 其の突き出た書院に蹴られ、一面に広がる庭園の眺望は切れてしまう。正面そして右方には、空間一杯にこの世の物とも思われない錦秋織り成す光景が広がり、左方に突き出た書院があるとは云え、書院は吹晒し故に、柱間越しに更に左手に連なる庭園の光景を眼に入れる事が出来る。
 雁行した広縁には、探索者が庭園の素晴らしさに、声も出ないような様子である。遠方から見ても探索者の感激が鮮かな彩と共に伝わって来る。
 
 庭園に面した広縁隅でスケッチを描き始めた。眼前に拡がる光景は、三宝院庭園の約半分ほどの広さである。
 先刻歩いてきた参道と結界を築く土塀が、紅、黄、橙色に彩られた錦秋に見え隠れする。奥方の土塀には、庭園手前に比べて高く土が盛られてある。其の土盛された処も、緑葉と紅葉で鮮かである。錦秋の鮮かさに対し、土塀の荒壁が落着いた風情で、一層華やかさを引き立て
 いる。
 土塀右端には、門が穿たれ、其の板扉には透し彫がなされ、華麗な中に閑雅な趣きを見せている。土塀手前には、楓が処々に其の枝葉を差し伸べ、紅、黄、橙色に彩られた紅葉が織り成す錦秋には、思わず息を呑む許りの見事な光景である。
 緑葉や紅葉で彩られた土盛部分と、手前の石庭風に砂紋のある処との間には、細い露地が横に一筋の糸を引き、両側には、自然石が竪長にあったり、横になったりして、その糸のような空間を確保している。その石の佇が錦秋の乱舞の艶な空間を引き立てるかのように、閑雅な風情である。竪長の石、横に据えられた石は道を左手奥の木橋へと導く。
 紅葉、緑葉を付けた樹幹は、錦秋の葉擦れに垣間見られ、紅・緑葉の乱舞を自からも愉しんでいるかのようだ。錦秋の向こうには、紅、黄、橙色の紅葉に見え隠れして霊宝館が紅葉の葉擦れに霞んでいた。
 細い道は自然に池沿いの道になり、池に差し掛けられた木橋へと導かれる。池との汀に(みぎわ)築かれた石組は複雑な組方に見える。木橋を眺めるに、土橋そのものである。土橋は苔生して、橋と云うより、池をまたぐ自然の樹木のようにも見える。
 人間の造った物に違いないが、どこまでも自然に近い形で表現するデザイン思想が感じられる。木橋は遠方から眺めたときには、石橋だと、てっきり思っていた。後で本堂正面から橋に眼を向け、テクスチャー、仕口を見、木製橋だと分かった。
 対岸の築山に差し掛けられた木橋の畔の石組が、華やかな錦秋の中で、落着いた閑雅な趣きを現していた。広縁右端の静かな処で描く。小スケッチブックでは、これだけの広がりの庭園は表現しずらい。スケッチブックを見開きにして、二枚連続で描くことにした。
 庭園は広縁から庭園だけを眺めるより、書院と庭園を対峙させて見れば、互いに響き合い、より一層その空間を把えられる。主題と副題を対比させ、主題を引き立てさせる訳である。描くアングルを変えれば、主客転転する。
 庭園を散策して書院を眺めれば、紅葉が、閑雅な雁行した堂宇に差し掛かり、主題は吹晒しの堂宇になるだろう。錦秋の乱舞は、其処では堂宇を引き立てる副題となる。
 探索の途次ゆえ、丁寧に描けないが、半日程時間を費やして描けば、相当の大作になる光景、構図である。
 木橋奥方に築山がある。其処に祠なのか、薄べったりとして流れ降る小さな屋根が、紅葉の乱舞の中に覗く。更にその奥に茶室が垣間見え、庭園の好い点景だ。
錦秋の庭園がどんなに華やかでも、やがて、紅、黄、橙色に彩られた紅葉も散る運命になる。華やかな彩の内に潜(ひそ)む寂しさを思い、無常な儚さを、其の乱舞の裡に感ずる。
 紅葉は日本人の―侘・寂―の感性に好く合う自然現象だ。と云うより、紅葉を始めとした四季ある自然の変化があるから、日本人の感性が育まれたのだろう。
 広縁隅で描いていても、覗きに来る人がいる。一瞬間だが、知らない人と話をするのも非日常的でよい。話をしながら色付けしていると、気楽で思い切った色使いができ、よい場合がある。
 堂内に―写真撮影禁止―の張紙があった。雁行した堂宇の一角にある見張所の女性が、「スケッチも禁止です」と注意しに来るのではと、そちらに時々、眼を向けるが、注意される様子もない。私がいる処は、広縁隅の人気(ひとけ)の無い処だったので、よかったのかも知れない。
 
 広縁隅で描き上げ、探索者が大勢いる書院前に足を進める。其処からは、先刻の隅からは見えなかった、庭園のもう半分の素晴らしい光景が拡がる。私が立つ処は、丁度、見張所の後ろであった。
 左手奥方に、桧皮葺入母屋屋根を持った堂純浄観が(じゅんじょうかん)、其の入母屋屋根の妻側を現している。両端で緩やかな反りが付けれた屋根は厚みがあり、存在感がある。軒下の二重に登る木の細やかな線が何気なくついているように見える。けれども、深い軒出を支える一本一本の木が意味ある材料である事を考え、伝統構法の高い技術を想うのであった。
 それに連なり、手前に広縁のある書院が左手に間近に見える。其処には、数人の探索者が広縁の上框に腰を下ろし、眼前に拡がる錦秋の庭園を、眩しそうに愛でている。皆一様に、池畔に竪横に組まれた石組の風雪を経た黒ずんだ色合い、石組と石組の間、土塀沿いに巾を持って、紅、黄、橙色に彩られた楓の乱舞、紅葉に混じり合う緑葉、其れらが渾然一体となって溶け合う光景に、発する声もないほど、茫然と佇むのであった。
 隅方では小さく見えた茶室が、かなり近くに見えてきた。茶室には紅葉、緑葉が差し掛かり、木立ち越しに垣間見える。奥床しい風情である。
 堂の外縁にあたる広縁の床板は石のように磨かれ、木板では無いようだ。木板も磨けば、これ程つるつるになるものかと驚く。
 
 広縁伝いに、幾つかの堂宇を廻る。何の堂も庭園に面し、堂から錦秋織り成す光景を眼にできる。
 一廻りして再び書院に出、広縁の上框に座り、庭園を愛でる。
 今度は部分で庭園を描こうと眼前の石組に眼を据えた。広縁隅から見えた苔生した木橋が、緑葉を滴らせ、眼前にある。
 三宝院庭園を広縁より見渡すと、奥になるに従い、特に土塀沿いの一番奥は、土盛りされ築山になって、かなり高くなる。土塀にのる瓦だけが眼に入り、塀の壁部分は築山の波打つ加減で、僅かに覗く程度である。参道のレベルから想像するに、土塀の壁上端まで土盛されている計算になる。
 土盛り部分は、岩石混じりの茶の土であることが遠方からでも見てとれる。手前池の畔の石組も荒削りで男性的印象を受ける。
 其の男性的要素に、処々、緑葉が鏤め(ちりば)られて、趣きのある光景を現す。土塀の水平な瓦線を境にして、上方には、幾本もの楓の木立ちが林立し、枝葉は紅、黄、橙色に浮遊する。色とりどりの服を身に着けた乙女が、群れ遊ぶ姿に見える。彩には透明感があり、鮮かな葉擦れに、澄み渡った晩秋の冷たい空が覗く。
 池対岸の一段と高い築山に、広縁隅より見えた祠が、細く高く立つ。広縁から見ても、そこへのアプローチの石組が、さりげなくあるのが分かる。
 描くうちに探索者は二回転ほどし、入れ替わり他の探索者が現れる。外国人の夫婦も微笑を浮かべ、何かを話したそうな様子である。此の様な風景の中では、誰もが優しくて穏やかな表情である。
 三宝院の表門を出る。三宝院庭園はこの世のものとも思われぬ真珠のような空間であったが、
 参道側は無味乾燥な単調な光景で、其の落差の深さには驚かされた。
 法隆寺東院伽藍と西院伽藍との中間地帯の四脚門広場は、広場両脇に露天の店がなくとも、趣きのある広場空間を構成していた。四脚門広場のようになれば、参道空間も三宝院庭園との落差は無くなるのでは・・・。
 参道正面には仁王門が、其の大きな姿を現す。仁王門両脇の仁王像は相当に古い。木目が浮き出、半ば風化し掛けているのであった。
 仁王門を潜り、暫く歩けば、左手に金堂が見え、右手奥に五重塔が松の木立ちの枝葉の葉擦れに垣間見える。金堂と木立ちに囲まれた五重塔との間には大きな広場がある。広場には砂利が敷かれてあるだけで、参道と似て殺風景である。豊臣秀吉の時代から、斯様な空間だったのだろうか。金堂にしても五重塔にしても、国宝に指定される程の堂塔なのだが・・・。
 
 醍醐寺では堂塔を囲む廻廊は無い。周囲に林立する木立ちの枝葉が堂塔を囲むが如くある。自然によって結界が築かれ、廻廊を計画する必要が無かったのであろうか。
 法隆寺伽藍では、廻廊内側に、金堂、五重塔、講堂が配置される。醍醐寺では、廻廊を配置して結界など築かず、もっと朗らかに、全ての衆人を受け入れる精神なのか。
 醍醐寺の伽藍配置を見るに、豪快にして朗らかである。ちまちまとした都会育ちの私などが、殺風景で大味な空間であると云ったところで、
 「又約一名、当山に対し助言を言いたそうにしている、俗界の小事に長けた建築家が面白半分に当山を探索に来ているよ」
 私の感想など何処ふく風と、軽く受け流されるだろう。
 金堂は一層入母屋造で平安時代末期の朗らかで豪快な堂である。慶長三年三月十五日、豊臣秀吉の命による有名な醍醐の花見に際し、建設に間に合わせるため、紀州の満願寺本堂を移築したものである。
 堂内には、本尊薬師如来像、右脇侍月光菩薩像、左脇侍日光菩薩像が安置される。いずれも鎌倉時代の仏像である。周囲には、持国天、多聞天、広目天、増長天の四天王像が安置されている。
 
 金堂から、殺風景な広場を横切り、木立ちに囲まれて立つ五重塔に歩を進める。五重塔の周りも、これ又殺風景で、訪れる探索者も疎(まば)らである。天暦五年(九五一)に創建された、京都府下最古の建造物で、総高五十メートルほどで、五重塔としても大きな塔である。
 この辺は醍醐山の麓とは云え、まだ平坦な境内である。五重塔脇の道を進む。先の道との境に、鉄柵が道を遮断するようにあり、右脇に鉄パイプ製の回転扉がある。寺の境内参道に据えられた回転扉に、自分が檻に入れられたような錯覚を憶えた。上醍醐へは別ルートで入山料なしで探索できるため、入山券なしの探索者を、回転扉でチェックしているのだろう。
 
 回転扉を潜る。彼方に、紅葉が陽を浴び輝いていた。近付くに連れ、朱色の鮮かな弁天堂が眼に入る。林泉池に差し掛かる朱色の太鼓橋が空間に緊張感を醸し出す。
 五重塔周辺では探索者は見掛けなかったが、此処では、数多くの探索者が、素晴らしい紅葉を愛で、スナップ写真を撮ったりして楽しそうだ。
 朱色の弁天堂は林泉中にある一段高い小さな岩山の頂に、紅・黄・橙色に彩られた紅葉に包まれていた。其の鮮かな錦秋が水面に映り、華やかな光景が増幅している。
 朱色の太鼓橋は弁天堂への唯一のアプローチ路である。太鼓橋の真中はふくらみ、弁天堂と俗界の架橋の如くある。水面に映る朱色の澱みが、幾らか棚引いている。
 林泉の水面は、太鼓橋の橋桁の向こうにある池畔の石組に溶け込んでゆく。橋の向こう弁天堂脇に、橋の欄干の高さあたりで、楓が二つに枝分かれしてスラッと伸び、鮮かな紅葉を鏤めている。更に其の向こうには、緑葉を付けた木立、そして黄に色付いた楓が取り巻いている。
 弁天堂の背後では、緑葉、紅葉が、色取どりに変化したグラデュエーションを現す。 其の錦秋の世界の中では、弁天堂が空間の主役のようである。太鼓橋の付け根から、数段の石段で弁天堂の拝所に上がれる。堂の銅版葺屋根は緑青を帯び、背の緑葉、紅葉と好く響き合う。
 林泉を取り囲むように、鮮かな紅葉があり、木立ちの中に、散策路があるのが、一人二人と歩く姿が見えるので分かる。
 紅葉に包まれた林泉沿いの踏跡に歩を進めた。踏跡には、散ったばかりの、まだ鮮かな彩を残した紅葉が、真紅の絨毯の如く一面に拡がっていた。
 道を蔽い包むように差し伸べられた紅葉が、陽を受けて輝く。光を反射した色とは違い、光を透過させた色ゆえに、限りなく透明な色合いである。鮮かに色付いた枝葉が風に靡く姿は、華やかさのなかにも、ものの哀れさえも感じるのであった。
 林泉の対岸辺には、数は少ないが、探索者が素晴らしい錦秋に、刻の経つのも忘れたかのように佇む。対岸の其の辺は、踏跡が広く拡がり、山の斜面へと連なる。斜面の少し上方にも踏跡があるらしく、一人探索者が紅葉の林中で佇んでいる。錦秋の秋も、あと僅か、名残(なごり)を惜しんでいるかのようだ。
 林泉の池畔を右廻りに歩き、朱色の太鼓橋の畔に出る。太鼓橋の円みを帯び、ふっくらとした路面の向こうに、石段を従えた弁天堂が佇立(ちょりつ)し、この世の光景とも想われない姿で立つ。此処では背後からも、彩豊かな紅葉が、頭上に差し掛かり、恰も平安の絵巻物の渦中にいるような錯覚を憶えるのであった。
 太鼓橋の真中まで歩を進める。此処では私にとって、弁天様は拝する対象ではなく、見る対象である。幾人もの探索者が、写真を撮るのに忙しそうにしているため邪魔ではと思い直に引き返した。
 上醍醐への参道沿いにある平たく大きな石の上にスケッチブックを置き、弁天堂を正面に据えて描き始めた。例によって、幾人もの探索者が覗いて行く。描く私自身の姿が、錦秋の中で好い点景であるかのようだ。
 胸にワッペンを付けた石川県の団体旅行者は、三宝院庭園が醍醐寺にある事も知らないようだった。
 「醍醐寺に来たら、三宝院庭園は必ず見るらしいですよ。此の弁天堂の光景も素晴らしいが、三宝院庭園の錦秋織り成す姿は又格別の趣きがありますよ。」
 「其の庭園は何処にあるんですか。私達は何処でも拝観できる、フリーキップを持っているんです」
4醍醐寺五重塔 醍醐寺不動滝石段
 
 三宝院の場所を教えてやった。団体探索者は直に、三宝院への道を急いで降って行った。呑気な人達だ。けれども、あんな旅行も気楽で、体が安まり意外とよいかも知れない。判然とした目的が無い所が、人間的に豊かな印象を与え、好感が持てる。
 描き上げて、上醍醐への道を行く。道は直に、巾広の参道と合流する。巾広道を渡って、両脇に緩い階段を持った斜路を進む。
 斜路の両側は土手で、緑葉に包まれている。斜路を上がり切った頂に、鳥居が聳え立つ。鳥居の両脇から鮮かな紅葉が差し伸べられ、幽暗な空間の中に妖艶な雰囲気を醸し出す。斜路には、紅色の落葉が薄く拡がり、一層、艶な濃密さを深めていた。
 鳥居の両脇には、間をあけて、低い土塀が左右に連なる。鳥居の背には、これから登山する醍醐山が、上醍醐の堂宇をその懐に抱いて、緑葉に包まれてある。
 斜路を上り、平坦な広場に出た。左方に、女人堂が、ひっそりと佇む。女人堂を左手に見、歩を進める。史跡醍醐寺境内と刻まれた石碑が閑雅な佇で立つ。
 石碑の左手からは、細い階段状の山道になるが、山道の奥は、木立ちが生繁り、更に幽暗で如何にも宗教空間と云った空気を漂わしている。私と相前後して歩く、若いカップルも、
 「ここ、いいじゃん」
 と感嘆の声を発していた。此処からが本格的な上醍醐堂宇への登山道である。
 
 石碑脇を通って進む。登山道は、杉の巨樹が林立し、薄暗く、湿っぽい空間で、其処に身を委せるだけで、宗教性を感ずるに充分であった。十分ほどで、不動の滝に出た。此処もレベル差があるためか、流動的空間である。
 不動の滝へ登る巾広の石段の頂に、門型をした簡素な鳥居がたつ。空間を引き締めていて緊張感を感ずる。石段左方には、低い石垣を積んで、平坦な空間をつくり出し、休憩所としている。石段右手には、斜面が降り、石積みされ、其処に緑葉が生繁っていて趣きがあり、石段との境に荒石が一筋積まれ、自然と人工との曖昧な空気を醸し出す。頂の奥方は樹陰で暗く、果たしてこの道は、上醍醐へと連なっているのだろうかと、不安な空気が頭をよぎる。
 石垣の頂の左手休憩所で、老人二人が暗い面持ちで、一点を見詰め木製の簡易なベンチに腰を下ろしていた。此処まで登山し、引き返す老人が多いらしい。
 正面に高さ七メートル程の滝があった。滝とは云っても、竹を半割にして、水路より持出し、岩上より流し落としている簡単なつくりだ。一筋の流れがカーブを描いて落下する様は素朴で心温まる光景だ。其の岩上には小像が鎮座する小さな祠が築かれていた。滝下では、両脇に柱を立てて、標縄(しめなわ)を掛け、柱間には木製の供物台が据えられてあった。
 滝の部分だけ岩面が露出し、流れ落ちる水に洗われて、妖しげに、黒く鈍い光を発していた。杉の樹幹が、滝の周りを囲むように幹を伸ばし、樹々の間は濃い緑葉で蔽われて、幽暗な宗教空間を構成していた。 老人に話し掛けても応えない、此処で休憩しようと思ったが、老人の陰気な空気を感じ、先に進む事にした。
 
 只管上醍醐を眼指して歩く、歩き続けていれば晩秋とは云え、汗ばんで来る。暫くして、左方の谷から水の流れるさらさらとした音が聴こえて来た。谷はかなり深く、随分と登って来た実感がする。ところが、歩くうちに何時の間にか谷は浅くなり、せらぎは直眼の下に見えた。醍醐山の頂が直其処にあるのではと期待する。石碑のある登山口から、コートを着たままだったため暑くなり、途中で脱ぎ、身軽になった。どうせ脱ぐなら、最初からそうすればよかったのに・・・。
 四十分程で、道は平坦になり、ほっとした気持になった。道は右方に谷を見、緩く右手にカーブする。左手は山の斜面が登る。カーブになった路面を見詰め歩を進めた。何気なく顔を上げ、前方の光景を眼にし一瞬間ときめいた。眼前に、錦秋織り成す別天地が繰り拡げられ輝いていたのであった。
 平坦な道は、途中で、二つに分かれ、下がり気味になったスロープの先方に―上醍醐寺務所―と書かれた山門が佇む。山門の向こうは更に低地になり、上醍醐寺務所の庫裡の瓦屋根の連なりが見渡せる。
 狭い谷間の敷地に、谷の地形なりに庫裡が築かれてある。斯様な条件の敷地は、建築家としては興味があり面白いが、非常に難しい立地条件である。敷地が谷間だけに、瓦屋根の構成が複雑になり、其の造型性がアノニマスで平地では考えられない面白さがある。
 何よりも、突然繰り拡げられた二つの道の関連性が空間に変化があって興味深い。降り気味の道は、左手に平坦な道を見ながら伸びる。下がるに連れ、平たんな道との落差が、法面となって現れる。 其の法面には、石垣が積まれ、山門へと至る。平坦な道の左手には、錦秋越しに清瀧宮拝(せいりゅうぐう)殿が斜面の頂に立つ。右手は寺務所の土塀が平らに連なり、山の緑葉に包まれた斜面に突き当たる。上方からは、紅・黄・橙色の紅葉が差し掛かり、空間に鮮かな彩を添える。
 寺務所の土塀沿いの平坦な道を進む。道が突き当たった左方には、准胝堂へ(じゅんていどう)の傾斜のきつい石段がある。石段には紅葉が両脇から差し伸べられ、奥方に准胝堂が垣間見られる。准胝堂の左手には、色取どりの錦秋の海が波打ち、処々に見える緑葉が、彩の乱舞を鎮(しず)めるのであった。見方を変えれば、緑葉が紅・黄・橙色の紅葉を引き立ていると云えよう。
 緑葉、紅葉に包まれた山腹の枝葉が薄くなった処には、杉の巨樹だろうか、左右に二本ずつ、天高く伸びて立つ。其の光景が、錦秋の華やかさの中で禁欲的な厳しさを現していた。
 どうして、斯様な山上に、この世のものとも思われない世界が繰り拡げられているのだろうか。当然、人間の手が加えられてある筈である。たとえ、人間の手が加えられたとしても、此の彩豊かな空間を、人工と自然を対比させながら構成し、素晴らしい空間を現すのは、凡人の為せる技ではない。
 右方にはまだ山道が続き、平坦部から進んで、緩い登り道に入ってゆく。山の斜面から、楓の彩豊かな枝葉が差し掛かり、素晴らしい山道だ。少し登って背を振り返り、准胝堂方面に眼を向けた。私は、思わず息を呑んだ。紅・黄・橙色に彩られた錦秋が拡がり、錦秋の間に、准胝堂の屋根、奥の稲荷社、手前の清瀧宮拝殿の屋根が垣間見える。その人工の姿は、主役の座を錦秋に譲り、錦秋を引き立てる脇役である役目に何の不満も抱いていない。
 道は葛折りに登る。途中、堂跡らしき礎石の脇を廻り込むように歩いて行く。直に五大堂への巾広の石段が眼に入った。苦労して登って来たので、上醍醐には大勢の探索者がいるのかと
思ったが、私以外には誰もいない。山頂は閑散とした空気が支配する空間であった。
 巾広の石段には、石段両側から楓の枝葉が差し掛かる。其の紅色の落葉が、石段を朱色に染め、門型に差し伸べられた紅葉の葉擦れに、五大堂の雄大な姿が覗く。石段下から、見上げているためか、その雄大な姿が強調されて見えるのであった。
 石段は五大堂の正面に対し、幾らか斜めに登っている。そのため石段下でスケッチをする時には、五大堂を僅かに斜めから見る事になる。結果的にシンメトリーが崩れ、流動的空間が得られる。石段に蹴られて、五大堂の基礎部分は見えない。軒下の斗?木組が古風に感じられ、入母屋瓦屋根が、先端を反らせ、ゆったりと拡がり、五大堂を包み込んでいる。
 石段を登れば見晴らしがよいと思ったが、樹木が林立し期待外れであった。探索者もいないためか、寒々しい印象だ。
 五大堂入口には、木製の鍵が掛けられ、―参拝者は自分で鍵を外して入るように、参拝が終わったら必ず鍵を掛けるように―と注意書があった。
 五大明王像が安置された堂内は薄暗く、抹香臭い。不動明王の目だけが、不気味な輝きを帯びて光る。何処の寺も、その昔は斯様な感じで、幽暗な堂内空間だったのであろう。
 夕方四時頃で陽も落ち、冷たい風が吹き始めた。登ってきた時とは異なる別ルートで下山する。別ルートと云っても、上醍醐寺務所までで、其処からは、同じ道を降る事になる。薬師堂、霊泉醍醐水、准胝堂を経て清瀧宮拝殿前に出た。
 醍醐味の語源は、修験道中興の祖、理源大師聖宝が霊泉醍醐水で喉を潤した際に、余りの美味さに<醍醐味なるかな>と感嘆の声を発した事による。
 理源大師聖宝は、真言宗の宗祖弘法大師の孫弟子で、貞観十六年(八七四)醍醐山頂に准胝・如意輪の二観音を安置する草庵を結んだ。これが醍醐寺の始まりだと伝えられる。
 薬師堂では、納経の六人グループが案内人に引率され、堂内に消えて行った。忙しげな彼等の目的は納経だけにあるように見えた。
 この下山路も、上醍醐堂宇が、錦秋の海に埋もれるように浮かび、素晴らしい光景である。清瀧宮拝殿側の石段に着いた頃には、流石に疲れが出てきた。下山を急ぐ。
 降りなので、足を前に出せば先に進み楽だ。陽が落ちても、これから登って来る人が数人いる。話を訊くに―歩け歩け会―と云う地元の同好会があり、夕方あるいは人によっては早朝に、上醍醐山頂を眼指して、毎日登っているらしい。それも歩いて登るのではなく、小走りに走って登るのである。夕方でも早朝でも、上醍醐への登山道は、時間制限が無いため何時でも登れるのである。
 醍醐寺は、山伏修験道当山派の総本山であり、真言密教の山岳道場である。そのような歴史的背景がある故に、夕方、早朝に駆け足で、上醍醐まで登る同好会があるのだろう。
 
 薄暗くなった不動滝に老人が二人いた。彼等もやはり―歩け歩け会―の会員のようで、年齢的に上醍醐までは無理で、不動滝まで登って引き返すらしい。私は滝をスケッチして直に下山する。
 不動滝から、石碑が立つ登山口までは直である。この不動滝から石碑の立つ登山口までの道空間は、幽暗で宗教的であり、私の好きな空間であった。
 昼間あれほど素晴らしい錦秋を現していた弁天堂のある林泉には、既に探索者の姿はない。風に吹かれ靡く紅葉も、観者も無く寂しげにその枝葉を揺らしていた。
 林泉近くで、犬の散歩をさせていた奥さんに会った。枝垂桜の位置や桜並木の場所を、歩きながら説明して呉れた。桜花の季節も素晴らしい光景らしい。刻は夕方五時を過ぎ、境内は暗くなりつつある。
 「あの塀の中に枝垂桜があるでしょ、あそこにもここにも桜がありますよ」
 指差しながら、如何にも醍醐寺界隈に住んでいる事を誇りにしているようだ。このような環境に住めるのが羨ましいと思い、奥さんの話に耳を傾けた。総門近くの三宝院表門の前で、奥さんに礼を述べて別れ、醍醐寺総門を後にした。
 総門前の酒店で、四条河原町へのバスの時刻を訊ねた、次は三十分後との話で、来た時と同じ地下鉄で、四条河原町に帰ることにした。
 駅近辺で背を振り返った。朝は靄がかかり、姿を現していなかった醍醐山が、今は其の山稜を薄く現し、頼りなげな山姿を見せていた。山向こうは滋賀県で、僅かに違った生活、文化があるのかと思い、暫く醍醐山の山端を遠望して佇む。
 山腹には、今日訪ねた醍醐寺がある。麓には人家が寄り添うように連なる。何の家でも夕餉の仕度に忙しい事だろう。 人間の日々の営みの小さな事と同時に、其の大切な事を思うのであった。
三 醍醐寺・スケッチギャラリーへ
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