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4 上賀茂神社・社家
四 上賀茂神社・社家・スケッチギャラリー
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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
上賀茂神社社家 伊勢神宮湃所
上賀茂神社本殿 上賀茂神社明神川
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読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

四 上賀茂神社・社家

 早朝、上賀茂神社行のバスに揺られていた。何処の町も幹線道路沿いの街並は似た光景である。千本立売バス停を過ぎた辺から、低層の家並が連なり、いくらか京都の風情が現れてきた。仏教大学を過ぎ、今宮神社が左方に流れ去る。小説家水上勉がこの辺を通学路として、中学時代を過ごした。と云うことを本で読んだことがあった。
 車窓に流れる今宮神社の境内を眺め、まだ小さな中学生水上勉が親元を離れ、京都の寺に小僧として奉公する姿を、玉砂利の敷詰められた静かな佇の境内に思い浮かべるのであった。
 幾つか角を折れ、賀茂川沿いの道に出た。彼方の山並が穏やかに佇む。山並の中腹に紅葉が斑に見えたが、更に近付けば?(さぞ)かし彩が鮮かに見えることだろう。
 山端は蛾とした南アルプスとは違った趣きで、優しく、緩やかな稜線を描く。山向こうは若狭か大原か。 賀茂川は、巾広い河原が彼方の山並に吸い込まれ、広々とした眺めである。
 山と川、そして寺、町家と空間を構成する要素のひとつひとつが古い歴史を持ち、景観に変化がある。自然と人工、その対比が緊張し合い、穏やかな空間を創り出している。
 自然の中を歩く山歩きとは異なり、人間の営みを想い、文化を感ずる。歴史に残った文化には、胸を打つものがある。特に京都、奈良にはそれが多く見られる。
 
 休憩所のあるバス停前広場に面した一の鳥居を潜れば、真中に参道のある大きな広場に出、遥か彼方に二の鳥居が見えてくる。
 殺風景な広場の右手に、如何にも樹齢が古そうで、樹幹が黒く皺の寄った枝垂桜が立ち上がる。広場の右端東方には川が流れる。木立ちで囲まれた参道広場は大味で、只もくもくと歩くだけである。
 二の鳥居を潜って、直、左正面に受付がある。不整形の配置で、古い舞台風の桧皮葺の社殿が三棟立つ。一見何の関連も無く配置されてあるような印象を受けた。社殿が彼方を向いたり、此方を向いたりして、建物が平行でない。何故、斯様な配置になったのか、推量しかねるが、計画の根拠はある筈である。
 細殿の前庭に、松葉を差した円錐形の盛砂が左右に二つ盛られてある。鬼門の位置ゆえに、清めの水を現しているらしい。法然院境内にあった盛砂も同様に清めの水を現していた。注意して見るれば、同じ盛砂の手法を用い、清めの水を現した神社が幾つかある。
 社殿の背後は、紅・黄・橙色の紅葉で包まれ華やかである。紅葉には少々、遅過ぎ、若干薄茶色になった葉群も見られる。
 社殿の背には護岸を石組した小川が流れる。川の流れといい、社殿のアノニマスな配置といい、上賀茂神社は自然発生的に形成された印象を受ける。
 細殿の左脇道の先方に、朱色に染められた楼門が立つ。寺院の楼門のような印象も受けるが、どちらかと云えば、平城(ひらじろ)の城郭に入る門のように見えなくもない。
 朱色の楼門を潜り、先方の廻廊を廻らした本殿を眼前にしたところで、楼門を振り返った。一瞬間、くらくらっとして眩暈(めまい)を憶えた。私の脳裡では、神社の桧皮葺社殿と、物見櫓の楼門は別居していたが、眼前には将に其等が同居し、其処に立つ。
 民衆の祈の対象である神を祀る神社、其れは私にとっては、全てを受け入れる開放的空間を意味する。楼門を持つ城郭は、民衆を拒絶する閉鎖的な空間を現すように思える。
 上賀茂神社では、両方の空間の意味するところを合わせ持つのだろうか。戦乱の世を潜り抜けて来た歴史を思えば、ある時は開放的になり、ある時は門を閉ざして閉鎖的になる。と云う
両方の空間を使い分けてきたのであろうか。それにしても眩暈のしそうな鮮かな朱色の楼門である。
 
 楼門を潜り、本殿の廻廊が廻らされた神域に歩を進める。正面石段上に廻廊屋根より若干高い桧皮葺の屋根を持つ拝殿が、閑雅な佇で立つ。拝殿の手前右に、楓がすらりと天に伸び、紅色が鮮かに藍青色の空に靡き、左手には、数本植えられた灌木の緑葉が、張り詰めた静寂な空間に自然の彩を添えている。
 季節柄、七五三参りの子供を連れた親子が数組、拝殿に上がって行く。
 中門横の廻廊隅で、三脚を据えた写真家が好い被写体が現れるのを待つかのように立つ。私も男の三脚の横で拝殿を描き始めた。藍青色の空を切り取るかのように、桧皮葺の屋根が連なり、洗練された美意識と同時に、格式の高さを感ずる。
 描く間にも、数組の七五三参りの親子連れが通り過ぎる。
 三脚を据えた写真家は、神社出入りの写真屋らしく、七五三参りの済んだ親子を奥の室に招き入れていた。御祓いをするのだろう。職業柄、写真家は小さな子供の御機嫌を取るのが上手だ。
 中門を出た処、眼前に御物忌川(おものいがわ)の清流が流れる。人工的に造られた川で、岸は花崗岩で整然と石組され、川底の小石が流れに透けて見える。川は神社本殿の裏手を廻って流れ来る。
 御物忌川の流れ沿いを神域廻廊の板塀伝いに廻ってみる。川は鬱蒼とした小暗い木立ちの中に溶け込んでゆく。緩く弧を描く板塀、其の上部には廻廊の庇が差し掛かる。右手には御物忌川の清流が、さらさらと静かに流れ、川向こうは昼尚暗く、深い林に包まれる。人の流れは殆どない静謐(せいひつ)な空間で、妖気漂う印象だ。
 歩を十歩程進めた処に、巾広の石畳が拡がっていた。石を敷詰めた石段の上方に閉門された古風な門が立つ。平たい石段は黒光りに光沢を放ち、板塀沿いには、石組された小さいが立派な水路が切られる。水底に生えた苔の緑が水路の古さを感じさせる。
 
 石畳と御物忌川との間のスペースには、緑葉を付けた樹木が伸び、門に枝葉を差し掛けていた。 石段上方にある門の扉は竪に格子が組まれ、隙間から内の様子が僅かに垣間見られる。静寂な空間で、滅多に門が開かれる事はないらしく、使われている様子はない。一段低い位置に、簡素な塀が左右に連なり、背後の林は緑葉で包まれ幽暗な空間だ。板塀、門、石畳だけが静寂に包まれてあった。
 神社裏のような処であるが、其の空間は洗練され奥床しく、ゆったりした気分にして呉れる素晴らしい空間であった。
 探索者の姿も見えない故に非人間的印象を受けるが、巾広の緩い石段に眼を惹き付けられる。
 石畳は平坦よりも、多少でも勾配があれば、変化ある空間になり、緊張感ある空気を感じさせる。石畳と観者との対話がされてる印象だ。それ故に惹き付けられるのだろう。
 静かで誰もいないが、流動的空間を感ずる。描いている間に、数人の探索者が石畳空間に紛れ込んで来るが突き当たりのため直に引き返してゆく。こんなに素晴らしい空間なのに・・・。
 平坦で薄べったい石段に静かに歩を進めた。門前に―伊勢神宮遥拝所―と書かれた板碑が掲げられてあった。此処から遥かに、伊勢神宮を遥拝する空間であったのだ。それ故に格式高いデザイン思想が見られた訳である。右手に流れる御物忌川は、差し詰め五十鈴川であろうか。
 御物忌川の流れの儘に帰りの歩を進める。頼りなげに流れる水面に眼をやり、京都の永い歴史を潜り、応仁の乱さえも幽暗な木立ちの中から見て来たのかと、刻の流れを思うのであった。
 上賀茂神社の境内には、社が幾つかある。其々小さな社を持つだけで、祠だけの社もある。
 境内の森は深閑とした佇だ。楓の紅葉が陽を受け、鮮かな紅色が透き通って見える。紅・黄・橙色の紅葉が織り成す彩は、何時見ても飽きることを知らない。
 木立ちの中を抜け、大きな広場の参道に出た。右手に朱色の二の鳥居が林を連ねて見える。殺風景な広場を歩くのも風情がない、西側駐車場沿いの小道を歩いて行った。
 一の鳥居前広場から明神川が遠望できる。道巾の割に交通量の多い道に沿って明神川が流れる。道が川に沿う橋の辺から望む。何とも穏やかな光景である。川が流れるだけに視界が開け広々とした光景である。一二箇所対岸に渡る歩行者用の石橋が掛けられている。
 明神川の対岸は、上賀茂神社の社家が土塀を連ねて立ち並ぶ。道から石橋や土を乗せた木橋で、対岸の各社家にアプローチする。橋は家の門に合わせた処に掛けられ、それぞれ専用の橋を持つ。明神川の護岸は自然石で石組され、歴史を感じさせて風情がある。静かに流れる清流の下に、石が流れに洗われ透けて見え、円いすべすべとした石肌を現していた。
 土塀の内側には、更に高く塀内から垣根の緑葉が伸び、緑葉隠れに、建物の瓦屋根が覗き、奥床しさを感じさせる。内の庭から数本樹幹が天高く伸び、緑葉を付けたその姿は空間の好い点景である。
 処々、紅葉した楓が空間に彩を添える。社家の各家は、道に向け切妻型、平入型と変化ある姿を見せていた。
 道行く人、清流、さりげない石橋、そしてベージュ色の土塀に差し掛かる緑葉それらの各空間要素が巧なデザインで構成され、都市に心地好いオープンスペースをつくり出す。
 社家を右手に見、車道を進むが、交通量が多く危ない。対岸の社家の家並に見蕩れていると、はっとするような危険な目に合う。道に街路樹を植えた歩道、あるいは植込みを設け緑葉があればと思う。車道が、好くデザインされた石畳であれば、更に印象深い街路空間になるのでは・・・。
 社家町とは、神社の神主や禰宜(ねぎ)などの神職の人達が、社前に屋敷を構えて出来た町である。現在、明神川沿いに三十軒ほどがある。
 特にこの明神川沿いの社家町は、水、土塀、緑葉が連続的に都市に表情を現し、素晴らしい空間を創り出している。
 社家と聴いて以前、何の事か分からなかったが、京都、奈良を注意して歩けば、随分とまだ社家が残っているのに気が付く。
 奈良上高畑町を探索した際に描いた藤間家は、四百年前に建てられた春日大社の社家であった。古風な土塀から覗く緑葉、一直線に伸びた樹幹、そして母屋の瓦屋根が眼前に流れ降る光景は、江戸時代その儘の姿であった。
 川沿いに数軒、京都府重要文化財の標識の掲げられた社家があった。その中の一つ、錦部家
旧宅を見学する。
 見学者は入口の釦を押してから門内の通路を徐に歩む。川沿いにつくられた門から奥の玄関までは距離がある。巾が狭く細長い通路は、築地垣で庭と視覚的に分けられ、左手には明神川から取り入れた流れを、再び明神川に戻す水路が、石組されてあり、隣家との境には、高い垣根が立ち上がり、緑葉に包まれている。突き当たりは低い塀で、直右手に玄関の屋根が緑葉に包まれ、枝葉の葉擦れに垣間見える。
 京都の料理屋でよく見掛ける露路に似たアプローチ空間である。洗練されて心地好い空間だ。
 賀茂の社家では、庭に明神川の水を取り入れ―曲水の宴―がなされる流れとし、その水の流れを明神川に返す工夫がされている。
 露路には格式高い印象を持った。少々、緊張した面持ちで奥の玄関前に立つ。前以て釦を押してあったので、担当者が直に現れ受付を済ませた。廊下の突き当たりの右手にある奥座敷の方では、先客の親子がテープの説明を聴いていた。
 正面の矩折(かねお)りになった廊下のアルコーブに床の間がある。畳敷きの本床(ほんどこ)で、床柱も風雅な形である。床の間には達磨大師の掛軸が掛けられ、右手の窓からは、紅葉の鮮かな葉群が、丁度窓の高さほどの位置を横に差し掛けているのが見えた。
 玄関からこれらの光景が垣間見られ、何とも奥床しい。個人の屋敷にしては、贅沢な庭である。廊下の左手には幾つかの座敷が並んでいた。
 廊下を直進し、奥右手の座敷見晴らしの間に入る。矩折りに二方の障子が取外され、庭をパノラマで鑑賞できる。彩豊かな紅葉と石組、そして曲水の宴の行われた水の流れ、寺の庭園ほど広くはないが、隅々まで作者の意志が感じられる洗練された庭である。
 室の真中当たりに座って簾越しに彼方に霞んだ山並を見渡す。其等が室の鴨居、柱を額縁に見立て眺められる。描く間に二組ほど探索者が来た。テープが繰返し同じ内容を述べる。むしろテープなど止めて、静かに鑑賞できるようにしたらと思うが・・・。
 
 錦部家旧宅の石橋を渡り、道を先に進む。明神川は僅かに右方に流れ去り、道は左手に向かう。其の三角点に樟の(くすのき)巨樹がたくさんの葉を拡げていた。反対側には、祠が祀られてあり、私でも神性を感ずるほどの神秘的な巨樹であった。根元は灌木の緑葉で包まれ、樹幹は三メートル位の高さで四五本の枝幹に分かれ、枝の張り方は力強く形がよい。幹は黒ずみ緑葉と色のバランスがよい。道路拡張に抵抗して現在の姿があるのがよく分かる。
 此処で道は若干左に向く。明神川は右斜めに流れ、途中までペーブされた歩道が続くが、直に突き当たって薮の中に吸い込まれてゆく。
 斜めに折れて行った。左方に楼閣を頂に持つ家があった。脇道に面して門があり、玄関先で紙の手芸品を売っていた。標識によれば、明神川には面していないが、此処も社家の流れを汲む家であるらしい。見学できそうな雰囲気だったが、店に入るのに気後れを感じ、横眼で見ながら通り過ぎてしまった。
 離れて楼閣を中心に、スケッチを描き始めた。土塀が矩折りにあり、内側から更にその上方に垣根が伸びる。角には一際大きな背の高い樹木が緑葉を付けて立ち、空間に緊張感を醸し出す。
 入母屋屋根にのる楼閣は二階になるのか、おそらく三階だろうと思うが。周りが低層住宅街ゆえに楼閣上は、かなり見晴らしがよいだろう。描く間に、楼閣の外に手摺を付けた矩折りにある窓の障子戸が開き、若奥さんらしき女性が、客人を案内するのが見えた。
 客人は探索者か知人か知る由もない。楼閣上は、さぞかし素晴らしい眺めであろう。 午後二時ごろだが、日陰で描いているため寒く、風も強く吹き出してきた。
 更に先に道は続く。此の辺の街並は風情があり、興味深い。社家らしき屋敷も一二軒見掛ける。明神川からの幹線道路を左に折れた正面に、大田神社の朱色に染められた鳥居が眼に入った。 小暗い境内に若い女性が一人、小さな本殿前で何やら研究をしている風である。観光スポットから外れた処にも、何かを求めて探索者は訪れるものだ。有名な神社仏閣もよいが、こうした神社も趣きがあってい
 本殿の背後は山腹の林で、陽を受けた楓の紅葉が鮮かに見える。その奥には光も差さず、暗い闇が幾層にも重なっていた。
 帰り掛けに、石碑のある道路際で、大田神社を小スケッチブックに描く。紅・黄・橙色の紅葉と朱色の鳥居、朱色の木柵が小さな参道に彩を添え、如何にも京都らしく、さりげなく心地好い空間だ。
太田神社 鴨川
 
 描き終わった頃、お婆さんが、買物押車のような椅子を杖替わりに押して、私の側を通り掛かった。周囲を見回し独語(ひとりごと)で、
 「今日は、来やらへんかな、寒いからな、何時も今頃の時間に来はるんだがなあ」
 毎日、大田神社の境内で、友達と会い、四方山話をするのが、愉しみになっている様子だ。お婆さんは、友人に会えないと一日のリズムが狂ってしまうのか、寂しそうに辺を見回していた。私の側で立ち止まり、誰に云うでもなく呟(つぶや)く。
 「今日は、寒くて風が強いので来ないじゃないですか。何時も此処で話しているんですか」
 そうこうするうちに、お婆さんは石碑の基壇で描く私の前に、椅子を据えて座りだした。名前は戸田さんと云う。明治四十三年生れの九十才である。会った時には、七十代後半位だろうと推察していたが、九十才と聴いて驚いた。
 少し耳は遠いが、補聴器も付けず、普通に私と話す。近くに住む農家の人で、足腰もしっかりとしている。今、私が歩いて来た限りでは、この辺には畑はなかったが、戸田さんの家の周囲には今でも少し畑があると云う。昔は、かなり畑地があったらしい。
 大原に土地があり、其方で畑仕事をしているとの話で、漬物の食材を作っているそうだ。
 「あなたさんは、何歳にならはりますか」
 「幾つに見えますか」
 戸田さんは、小さな目で私をじっと見詰め、
 「七十才を越えてはりますか」
 私は、微笑を浮かべ、
 「いやあ、まだ五十六才ですよ、お婆さんの半分位ですよ」
 戸田さんは、まあ私としたことが、何と失礼な事を云ってしまったのでしょうと云うような
仕草で、手を上げ私の方に降ろして空(くう)を切るのであった。
 「まあ私は、あなた頭が白いから、その位になっているかと、まあーすいません」
 両手で口元を押え、困ったように何度も顔を上下させていた。
 「人の歳は、なかなか分かり難いですよね」
 戸田さんは何度も
 「私も、それ位の歳にもう一度、戻りたい」
 と真剣な眼差しで云うのであった。
 人間、幾歳になっても、若くありたいと思うのだと戸田さんの顔を見て思う。私だって私より三十五才若い二十才に戻れたらと、思う時がある。
 
 そうこうする間にも、幾人もの探索者が大田神社に参拝し、去って行く。外れた処にある神社なので、殆ど探索者は来ないと思っていたが、結構探索者が訪れる。
 京都の晩秋は、風は強く寒い。元気なお婆さんである。話しながらも、風邪をひかないよう、早く帰った方がよいのにと思う。
 戸田婆やとの話しも興に入りかけた頃、別のお婆さんが、大田神社の左手の小丘から降りて来た。小丘の向こうに住む人で、毎日この時刻に散歩をするらしい。戸田さんとは顔見知りでもないらしい。私の描いた絵をめくりながら、三人で再び話す。小丘婆やも、水彩画、油絵を描くそうである。主に室内で、花とか花器を描き、外の風景は滅多に描かないらしい。小丘婆やが戸田婆やに、
 「お婆ちゃん、風も強くなってきたから、早く家に帰りなはれ」
 と戸田婆やの体を気遣う。
 地元の人と、こうして話をするのは、生活の匂いが感じられ面白い。学生時代には、よく此の様な経験をしたが、近年は、柄にもなく忙しがって滅多にこうした機会はない。
 風が強くなり、戸田婆やは押車を押して去って行った。ゆっくりとした足取りの後姿は幼児の覚束無い歩にも見えたが、幼な子の純白の心を映していた。
 右奥の方に抹茶を飲ませる喫茶店があったが、横眼に見、通り過ぎた。ブラブラ探索するうちに、先刻スケッチをした社家の楼閣が見えて来た。
 土地勘がないため、意外な感じがする。ぐるっと廻って来た訳であるが、自分ではその印象が無く、知らない道の街並を愉しみながら線状に歩いて来た積もりである。同じ光景をアプローチの異なる方から眺め、心理的にも異なる印象を受けた。
 明神川沿いの社家町に出る。社家の土塀の連なりを明神川の上流に向かって眺めた。下流に向かって眺めるのとは異なる光景である。明神川に掛かる石橋に立って見ているせいかも知れない。
 気のせいか、社家内庭から差し掛かる楓の紅葉も一段と華やかに彩られ、川に掛かる石橋も一枚岩の如く薄く差し渡され、繊細で緊張感がある。遥か彼方の山並の緑葉、そして薄く霞んで見える紅葉が、優しいその姿を現していた。
 
 明神川沿いの道を左に折れて歩を進める。直に左に入る巾二メートル程の露路があった。突き当たりには門があり通り抜けられない。門の屋根には瓦がのせられ、扉は閉められ、木扉が路地と邸内との結界を築いていた。。
 路地の直左にも土塀に門が穿たれていたが、正面の家とは主が異なるようだ。右手には土塀越しに母屋の屋根が覗く。塀越しに覗く緑葉と楓の紅葉が、風情のある光景だ。眼に鉄筋コンクリートのビルが飛び込んで来ないのが気に入った。当然、車は入れない。人間だけの空間である。防災上は問題かも知れないが、鉄とコンクリートで塗り固められた都市に住む身には、心地好い路地空間である。
 都市のオアシスのような路地の角の先に、すぐき漬を作る作業場が、道に面してあった。製造方法が面白いので、つい立ち止まり、少しだけ作業場に入って行った。母屋北側の巾四メートルほどのガレージのスペースを利用した奥に深い作業場だ。
 塀沿いに漬物樽が、長い木台にのせられ、一列に並べてある。漬物石ののせ方に工夫がされている。子供の頃、母親の漬方を見ていたが、漬物樽の上に直に石をのせていた。母親が重そうに、ヨイショヨイショと玉石を運びのせていたのを今でも判然と憶えている。
 此処では、漬物が一杯入った樽に蓋をし、その上に三寸角の角材を載せる。此処からが面白い。その角材の上部から手前の方に径九センチメートルほどの丸太を持出す。丸太の長さは約二メートル位で、先端に重石(おもし)として、コンクリートの圧縮試験のテストピースに使った直径十センチメートル、長さ三十センチメートルほどのコンクリート円筒廃材を使用している。丸太の先端に、其の円筒廃材を、一つの樽に三つほど使い、ヒモで括り付けてぶら下げてある。その結果、樽の蓋に力が加わるようになる。
 梃子(てこ)の原理を利用し、同じ重さの石を丸太の長さ分、曲げモーメントを掛け重さをプラスしている訳である。其の作り方の構造が表に現れて面白い。
 その仕掛けが、ずらっと奥まで連なり、思わずスケッチブックを取り出した。小綺麗な土産物店に並べられる京名物の漬物も、こうして作られる。
 職人さんがいれば話を聴きたいと思って見回すが、人が働く気配はない。
 更に歩を進め、賀茂川縁に出た。広々として気持が晴々とする。土手は草や低木で緑色やイエローオーカで包まれる。橋の畔に立ち上がる楓が、紅色に色付いた枝葉を土手に差し掛けていた。川の流れの水量は少なく、橋までの一筋の流れが、中の島を挟んで二筋に分かれて流れる。晩秋の色濃い季節のためか、川の流れも寂しげに感じられる。
 川の上流、遥か彼方の優しい山の連なりが霞み、ぼんやりとした彩を現している。そんな光景の中を、川縁の散歩道をジョギングしたり、散歩したりする人を多く見かける。上賀茂神社バス停は、賀茂川に掛かる橋を左手に見て歩けば、直そこである。
四 上賀茂神社・社家・スケッチギャラリー
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