京都ー光と影 1
龍安寺

サイトリスト  
古都ー光と影 TOP
大和路ー光と影1
大和路ー光と影2
大和路ー光と影3
京都ー光と影1
京都ー光と影2
京都ー光と影3
イタリアの町並

アフガニスタンの町並

5 法然院から永観堂へ
5 法然院から永観堂へ・スケッチギャラリー
おすすめサイト
YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
法然院総門 法然院山門
永観堂秋色 永観堂多宝塔
京都インデックス  
    京都ー光と影1
一  等持院から金閣寺へ
二  銀閣寺から法然院へ
三  醍醐寺
四  上賀茂神社・社家
五  法然院から永観堂へ
六  今日庵から相国寺・下鴨神社へ
七  黄檗山萬福寺から興聖寺へ
八  大徳寺
九  高雄・神護寺から清滝へ
十  栂尾・高山寺から北山杉の里へ
十一 鞍馬寺から貴船神社へ
十二 
    京都ー光と影2
一  比叡山・延暦寺
二  曼殊院から詩仙堂へ
三  泉湧寺から東福寺へ
四  大原の里
五  西山の寺
六  祇園から八坂塔・清水寺へ
七  六角堂から楽美術館へ
八  赤山禅院から修学院離宮へ
九  円通寺から岩倉へ
十  伏見稲荷大社
十一 宇治・平等院
十二 桂離宮
    京都ー光と影3
一  嵯峨野ー渡月橋から大悲閣千光寺へ
二  嵯峨野ー天龍寺から常寂光寺・落柿舎へ
三  嵯峨野ー常寂光寺・落柿舎から二尊院へ
四  嵯峨野ー二尊院から祇王寺へ
五  嵯峨野ー仇野念仏寺から鳥居本平野屋・愛宕念仏寺へ
六  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ1
七  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ2
八  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ3
九  
十    
          
古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
五 法然院から永観堂へ
 
 今夏訪ねた法然院の素晴らしい結界空間を、錦秋織り成す空間の中で体験したく、 晩秋の十一月末、再び法然院を訪れた。
 四条河原町で乗った法然院へのバスは、交通事情が悪く、遅々として進まない。 その筈である、紅葉狩りの季節ゆえに、東山山麓に点在する紅葉の名所―南禅寺・永観堂・法然院― への探索者が数多くいるのである。
 途中、バスの運転手は、市立美術館へのお客さんは降りて歩いて行った方が早い との車内放送を流した。車内は、東山沿いの寺院への探索者で超満員である。
 放送が流れ、若い探索者は、下車して思い思いの方面に歩を進めて行った。けれども、 永観堂を過ぎた辺から、バスは順調に走り、車内もぐっと空いて来た。
 錦林車庫前で降りたが、降りたのは私一人だけで、乗客はなんでこんな車庫前 で降りるのかと、怪訝そうな顔で私の方を見る。
 私は此処から間道を縫って法然院へ行くつもりであるが、殆どの乗客は、 銀閣寺を眼指しているのであろう。
 バス道路の白川通を越え、何処の街にもありそうなありふれた街並を歩き、 道巾の狭い鹿ヶ谷通に出る。この通りも変らぬ普通の風景である。鹿ヶ谷通を北に少し歩き、 東に入る小径を進めば、直に、琵琶湖疏水縁の哲学の道だ。思ったより探索者の数は少ない。
 哲学の道に掛かる橋を渡り、更に間道の小径を東に進んで、哲学の道より一本 東山沿いの閑静な佇の道路に出た。北方からも南方からも二三人の探索者のグループが東山山麓 の紅葉を眺めながら歩いていた。何の顔も、此の錦秋空間に身を委せた喜びに溢れ、 穏やかな顔付きであった。
 
 錦秋の古都を探索するには、肩がぶつかり合う訳でもなく、一人一人の表情が 識別でき、程好い人の流れである。
 銀閣寺方面に少し歩を進める。直に、右手に法然院の黒門が現れてきた。巾広の石段を 登り切った処に、四角い墨色をした門柱が左右に立つ。頂に四角い傘をのせた門柱の両脇には 墨色の木柵が連なり、法然院の境内と、俗界との第一の結界を築く。
 黒門内には、巨樹が林立し、陽も差し込まず巨樹の樹陰で、昼尚、薄暗く、鮮かな紅葉 がなければ、妖気漂う魔界の世界への入口なのではと錯覚を憶えるに違いない。
 季節柄その様に思うのも、ほんの一瞬間である。石段下の石畳でスケッチを描く間にも、 次から次に探索者が交錯する賑やかな光景で、妖気漂うどころかお祭り騒ぎだ。
 舞妓姿の衣裳に身を包んだ三人娘が、黒門に現れた際には、入れ替わり立ち替わり、 一緒に写真を撮る光景が見られた。実は舞妓さんと云っても本物ではない。清水寺の 産寧坂(さんねんざか)にもよく現れる偽舞妓である。舞妓の恰好をした観光客だ。京都には 舞妓姿に変身させて呉れる貸衣裳屋の商売があるらしい。
 黒門には、楓の織り成す紅・黄・橙色の枝葉が差し伸べられ、奥の巨樹の樹陰と 弥(いや)が上にも対比せられ、其の鮮かな彩が一層、映えて見える。
 石段右のすらっと伸びた樹幹、そして左手の中間で数本枝分かれした黒く力強い幹が、 潅木の緑葉に吸い込まれるように溶け込む姿は、黒門と好く響き合う。石段下にある円光大師 旧居跡と彫られた石碑も空間の好い点景となる。
 描く間にも、数人の探索者が覗いて行く。新潟からの二人組も、水彩画を描くそうで、 彼等と法然院の素晴らしい空間について、暫し話し込む。今日は陽光も差し、風もなく、探索 するには絶好の紅葉狩り日和で、陽光を受けた紅葉は其の彩を一段と華やかに現している。
 黒門を出た探索者の群れは、銀閣寺方面に行く人、永観堂方面に歩く人、思い思いの方向 に満足気に、ゆっくりと歩を進めていた。
 
 石段の頂に立つ黒門を抜けたところの石畳は左方に折れ、参道に連なる。参道には緩い 傾斜の石段がクランクして伸びていた。参道の両側には巨樹が林立し、登り気味の一筋の石段 に其の枝葉を差し掛ける。処々、楓の紅葉を織り混ぜた緑葉で、黒門前の明るい広場とは異なり 幽暗な道空間を参道に醸(かも)し出している。
 石畳の参道は、其の先に小さく見える山門に吸い込まれて行く。優しくさりげなく佇む山門には、 楓の紅・黄・橙色の紅葉が差し掛かる。山門は陽光を受け、自己主張がなく、あるが儘の姿で 立つのである。
 巨樹の枝葉で陽光を遮られた石畳の参道の彼方に、御伽の国の如く煌めく茅葺の山門は、 仏の曙光を参詣する人に指し示し、山内の陽光を受け、一筋の道標の光を放つ。
 真珠の如く輝く山門の先には、陽光を受けて楓の紅・黄・橙色をした錦秋が輝き、光の乱舞 を繰り拡げるのであった。遥か彼方には、東山の紅葉が輝き、藍青色をした空が、巨樹の枝葉の 葉擦れに僅かに顔を出していた。
 夏に訪れた際は、山内で話し込んでしまい、この石畳の参道を、黒門を潜って歩かず 仕舞だったので、その時の印象はありようがない。
 此の参道空間を構成する各要素は自己主張を内に秘めている。其の奥床しい姿に、 法然院を守る住職さんの人柄が眼に浮かぶ。
 
 参道際で描く間にも、探索者が、ひっきりなしに行き交うのである。東京の駅構内の ポスターに法然院が取り上げられたせいだろうか。
 高槻から訪れた二人組と暫く話す。私は職業柄透視図法については詳しい。素人には それが分かり難いらしい。それもその筈である。我々も学生時代には、随分と苦労して課題に 添付する透視図を描いたものであった。描く間に何人かの探索者と話す機会があった。
 娘の定期演奏会のチケットを行く先々で、知り合った方に販売しようと、持ち歩いていたが、 チケットを出すのを、何時も忘れてしまう。高槻在住であれば、大阪・福島のシンフォニーホール も近かったのにと残念に思う。
 参道を山門に近付き、今夏、訪れた時、スケッチした処に立つ。夏には緑一色の光景であったが、 今眼前には紅・黄・橙色のグラデュエーションが一面に拡がる。改めて自然の素晴らしさを感ずる。 風にそよぎ、一瞬間の鮮かな彩を現世に現し、俗人の我々に其の姿を見せる。残り数日で、 色を変化させ落葉していく運命を思えば、儚ささえも感ずる。
 結界の石段を上がり、山門に立つ。狭い境内には、カメラの三脚を立て掛けたり、 山門を背景にスナップ写真を撮るグループを多く見かける。皆さんポスターの写真の位置から 撮っている。確かにポスターに載っている山門の写真は、素晴らしかった。けれども、 猫も杓子も同アングルで三脚を構えているのを見、少々、辟易した。もう少し、節度ある行動をとらなければ、入場制限あるいは写真撮影禁止の立札が、立たないとも限らない。
 一瞬間、探索者が眼に付いたが、直に山内のこの世の物とも思われない光景に、言葉を呑み込んだ。楓が昼の陽光を受け、真珠のように鮮かな彩を輝かせる。夏にも似た印象を持ったが、極楽浄土世界の具現された姿なのではなかろうか・・・。
 山門の石段を降りた。門前の両側にある白砂壇(びゃくさだん)の紋様が夏とは異なっていた。右の盛砂は紅葉の秋に因み楓の木を現し、左の其れは三筋の模様である。夏の盛砂上部の紋様は、確かローマ字風の砂紋であった。
 放生池(ほうじょうち)に差し掛かる石橋では、陽差しを顔に浴び、眩しそうに紅葉を愛でる人達が行き交い、境内は華やかな賑わいを見せていた。
 本堂東側の紅葉のトンネルを歩く。紅・黄・橙色に彩られた紅葉の一枚一枚の葉群の表側に陽光を受け、葉肉を透過した光を下から見上げる。橙色の透過光は、恰も天空に星が煌めく如く、鮮かな彩を一段と輝かせていた。一枚一枚の葉が枝の一群面となり、その一群面が一本の楓の群面となる。更に、其れに数本の群が合わさって両側の群、錦秋のアーケードを謳い上げ、参拝者を包み込んでいるのだった。
 何の探索者も
 「なんて、素晴らしいんでしょう」
 と感激を隠せないでいる。石畳の突き当たりに一際、其の紅色を鮮かに透過させた楓があった。極楽浄土の楽園とは、此んな空間なのではと、思われる程、現実離れした光景だ。幾人もの人が紅葉を背景にスナップ写真を撮っていた。
 何故に楓の紅葉は、此れ程までに鮮かで綺麗なのだろうか。散り行く直前に、最後の華宴を開いているのか。
 左方本堂の広縁に写真家水野克比古氏の写真集が、数冊開いて並べられてあった。繙いてみるに、春夏秋冬の法然院の四季が載せられてある。季節により、色々な法然院の表情を撮った写真が載っていて興味深い写真集であった。
 左方、奥まった岩窟に、黒光りに光を放った地蔵菩薩像が安置される。今から三百年前に、忍澂(にんちょう)和尚が、和尚と等身大の地蔵菩薩像を鋳造させたと云われる像である。
 戻る道すがらも相変わらず、行き交う観賞者が多い。庫裡玄関に二人探索者がいた。私も誘われるように近付いた―本日は拝観おゆるしください―との貼紙があり、傍らに、法然院の栞が置かれてあり―自由にお取り下さい―との詞が添えられてあった。
 境内の奥床しく謙虚な空間と、住職さんの人を想う心が、自然に合わさり、心洗われるような気持になる。法然院は我々現代人が、何処かに置き忘れて来たものを忘れずに持つ寺である。
 
 放生池の石橋辺から山門を望む。石段上に立つ茅葺きの山門が好い点景だ。山門には土塀が連なり、パステルカラーの枝葉に溶け込んで無限の空間を想わせる。紅から黄色へ微妙に変化した色取どりの紅葉が、茅葺屋根に差し掛かる。其等が互いに重なり合い微妙な色具合だ。陽光を浴び、処によっては陰になり、さらに複雑な彩を構成して、私の眼前に現われるのであった。
 肌理細かく、洗練された箱庭的空間である。自然の織り成す交響曲を聴くような錯覚を憶える。此の色のグラデュエーションを音で表現すれば、交響曲になるのだろう。其の感動を色彩で表現すれば絵画になるのか。そのリズムと、空間を文字で表現すれば詩になるのかも知れない。 そうなると、絵画、文学、音楽の原点はひとつになるのではなかろうか。
 スケッチを描く場所を探そうと思うが、探索者が多くなかなか見つからない。描いている間も、次から次へと探索者が行き交い、賑やかな境内である。何の人も、綺麗だ!素晴らしい!と思わず賛嘆(さんたん)の声を発していた。
 山門前の奥まった処に小さな講堂がある。そこで地元の絵画サークルの発表会が行われていた。法然院講堂は講演会、個展、コンサート等にも開放されているらしい。寺の堂宇を人々の集まる集会所として開放する住職さんの心温まる心遣いを感ずる。
 
 結界の山門を潜り、参道を降って行く。参道では、山内ほどの混みようではないが、探索者がぱらぱらと、紅葉を愛でて歩む。
 参道左手に、法然院墓地に上がる石段がある。探索者は殆ど通り過ぎ、上がって行かない。私は確か、谷崎潤一郎の墓があると聴いていたので、斜面を平坦にした墓地に歩を進めた。墓地と参道とは木立ちで空間的に分離され、静寂が支配する空間である。谷崎潤一郎の墓を探し歩く途中に、東洋史学の内藤湖南、経済学の河上肇などの著名人の墓があった。谷崎潤一郎の墓は、墓地奥の高処にあった。
 谷崎潤一郎の墓は頂が円く、其の円みが流れるように下に連なる小さな自然石の墓で、唯一言―字―と刻まれてあるだけの寂びた印象の墓石である。左右にある竹製の花入れに、誰が生けたのか、草花が生けられてあった。濃艶な小説を描いた文学者の終の住栖(すみか)を、感慨深い思いで描き始めた。
 谷崎の王朝的優美な文学と、寂(さ)びた墓石とは対極を成すようで、一つの流れの帰結を現しているのかも知れない。人間の裏表、両面を間近に見る想いであった。
 更に奥まった処にある墓で、母娘が手桶を持ち、墓参りをする姿があった。彼等は誰だろうと私の方を訝(いぶか)しそうに見ていたが、直に参道の木立ちに消えて行った。
 紅葉を愛でる探索者で賑わう参道も、一歩木立ちの中に入れば、此んなに静寂に包まれた空間があるとは気が付かず、軽い眩暈を憶えた。
 法然院黒門を潜り、東山沿いの道を永観堂方面に進む。夫婦、女性グループ、若いカップル、時々単身の探索者が追いつ抜かれつつ陽光を浴びて歩く。哲学の道より、人出が多いのではと思う程だ。どの顔も穏やかで、民家の垣根に差し掛かる紅葉を見上げ、綻んだ顔付だ。
 五分ほど歩いた処で、左手に人溜りがあり、立派な石碑が眼に入った。手前に立派な楓が石碑のある入口に差し掛かり、紅・黄・橙色の鮮かな天蓋を成していた。人集り(ひとだか)のする処には、緩い傾斜の石段が山に向かって伸び、石段の頂に瀟洒な(しょうしゃ)茅葺の安楽寺山門が立つ。
 山門のあり様(よう)は、法然院に似る。法然院山門より、一周り小さくした姿である。只、石段の長さは永く高い。山門で結界を築いているが、山門のレベルで寺域は平坦になり、背後は東山連峰の緑葉で、清々しい光景である。石段左手には、楓の古木が立ち上り、石段に鮮かな枝葉を差し伸べている。石段に落ちた鮮かな落葉は、まるで橙色の絨毯のようで、石段を上がるのを瞬間躊躇う。
 朱色の落葉に木洩陽が当たり、鮮かな彩を一段と強く現す。石段の陰の部分との対比に、更に奥床しさを感ずる。右方にも楓が一本立ち上り、其の枝葉が左手の楓と交錯して入り乱れ、紅葉の乱舞を想わせる光景だ。
 楓の樹幹の背は緑葉に包まれ、処々、木洩陽を受け、鮮かな楓の錦秋の名脇役を演ずるのであった。
 紅葉の葉擦れに、東山連峰の山端が優しい稜線を描き、藍青色の空が覗いていた。 これから法然院へ向かう人、そして永観堂へ向かう人達が、此の安楽寺参道石段下で立ち止まり、道に開けたエアーポケットのような空間に、眼を輝かせ、歩む足が一瞬間止まっていた。
 法然院から永観堂への此の道は、民家の垣根越しに差し伸べられる紅葉にも、さりげない趣きがあり、素晴らしい風景である。特に安楽寺入口では、瞬間水の流れが静止し淀み、渦を巻いて石段の頂の山門へと連なるかのような光景である。
 
 鎌倉時代初期、法然上人は弟子の住蓮、安楽と共に、東山山麓鹿ヶ谷に庵を築き、念仏三昧の修行をしていたが、一二〇六年、時の上皇後鳥羽院の熊野臨幸の留守中、上皇の女房鈴虫、松虫が住蓮、安楽を慕って出家し尼僧になった。其の寺が安楽寺である。
 此の事が上皇の逆鱗に触れ、法然は讃岐国へ流された。住蓮、安楽の両僧は死罪となり鈴虫、松虫は草庵のほとりで自害したと伝えられる。
 以後法然院は荒寺となったが、江戸時代初期一六八〇年、知恩院第三十八世萬無(ばんぶ)上人により再興され、現在の堂宇の整備がなされた。法然院と安楽寺には、其んな悲劇的ロマンがあった。法然院と安楽寺、善気山(ぜんきさん)の麓に立つ山門の姿と云い、空間の質が似ている所以(ゆえん)である。
 安楽寺石段を上がり山門前に出、低い木柵が据えられた門前で山内を眺める。左斜方に敷か
れた石畳の突き当たりに小ぢんまりとした本堂が、東山山麓の緑葉に包まれて立つ。将に静寂が支配する空間である。探索者を受付けない厳格な住職さんの顔が思い浮かぶ。
 更に東山沿いを南へ降れば、左手に霊鑑寺の山門が、巾広で緩い石段の頂に見えて来る。其処は細い道との四つ角である。寺域に接した南側の道は更に狭く、東山に向かって登り坂になる。道と石段とが接する処は、段なりに植込みがあり、境内と道との境は平坦になり、黒い柵が目立たないようにある。寺城から外れた処は、道なりに土塀が築かれ、石段下から見上げるに、変化ある表情を外部空間に現していた。
 土塀に差し掛かる紅葉が、さりげなく奥床しい。坂道の上方からハイキング姿のグループが降りて来た。霊鑑寺の背後は大文字山である。
 石段右手に平行してある道が、石段空間に広々とした効果を生み出し、伸びやかな印象を与える。
 霊鑑寺より哲学の道方面に、幾つか道を折れて降りる。直に哲学の道に出た。疏水縁には、流石に探索者が多い。
 朱色の鳥居に魅せられるように、大豊神社の参道に入る。石畳の先に咲き乱れる楓の紅・黄・橙色の艶やかな彩が、朱色の鳥居と好く響き合い、小ぢんまりとした綺麗な眺めである。再び
疏水縁を歩き、振り返った。先刻渡った小橋が疏水に架かり好い点景になっていた。両岸を石組された流れは、右手法然院方面に緩く弧を描き、土手際にある豊かな彩をした紅葉に吸い込まれてゆく。
 対岸の楓の錦秋が、疏水の流れの上に差し伸べられ、水面に紅色を映し優しい風情である。小橋を中心にして描いている間に、法然院で会った新潟の二人連れが、遠くで手を振って此方に来る。私よりかなり前に法然院を出た筈であるのに、何処かで食事でもしていたのであろう。
 
 疏水縁を更に進み、左手に見える若王子神社への橋を渡る。右方の駐車した車の陰で、イーゼルを据え、本格的に水彩画を描く初老の男がいた。何んな絵を描くのか背後に回り、話し掛けたが、私の声が聞こえなかったのか、緊張していたのか、無愛想に返事もしない。折角、戸外でスケッチをしているのだから、楽しく刻を過ごした方がよいのではと思うが・・・。男は8号位の私にとっては大き目な水彩画を描いていた。
 車道から外れて石段があり、鳥居の方向に導かれる。鳥居前には、燈籠を両脇に持った小さな太鼓橋が、鳥居に突き刺さるようにある。
 鳥居を額縁にし、小さな本殿の入母屋屋根が見えた。緑青をふいた銅板葺屋根が右手に流れ、
緑葉に吸い込まれてゆく。左手の木立ちの中から立ち上る楓が、其の枝葉を鳥居に差し掛け、紅・橙色の華やかな錦秋で包み込んでいるのであった。
 背後の薄く煙る山並は優しい表情を現し、手前にある、木製の竪格子の朱色が紅葉の紅色と好く響き合う。此処から、さらさらとスケッチブックに筆を走らせた。
 太鼓橋を渡り、境内に歩を進める。意外と小さな神社で、横に長い境内には玉砂利が敷き詰められ、右奥の広場では、女性二人がスケッチ中だ。先刻の男とは同じ仲間で、男はベテランに属するらしい。私が見た処では、女性の水彩画の方が構図が大胆で、腕前が上なのではと思った。
 若王子神社からは、永観堂は直だ。永観堂からの探索者、そしてこれから永観堂に向かう人達の行き交う姿が目立つ。
 疏水縁の哲学の道は、この若王子神社の橋の畔で(ほとり)終わりである。西下して永観堂に向かう。
 
 永観堂の受付を済ませ、境内に足を踏み入れ、あっと息を呑んだ。紅葉の永観堂と云われるだけあって流石に素晴らしい眺めだ。眼に触れる紅葉全て楓の紅・黄・橙色の錦秋で、埋め尽くされ、此処が寺院なのかと錯覚を憶えるほどの光景である。
 楓の紅葉の葉擦れに覗く背後の東山連山は、一部黄色に彩られているが、過半は緑に蔽われた山並である。永観堂の楓は、明らかに人間の手が加えられた景観である。元々の樹相は、東山連山のように入り乱れ、数種の樹木で覆われていたに違いない。
 境内に入って直左手に、江戸時代創建の―蒸し風呂建築―があった。天井の高い建物の中に、更に小さな小屋があり、其れが今で云うサウナになっているのである。小屋の床には竹製の簀の子が敷かれてあるが、その小屋は、人一人が入ったら、身動きが出来ない程狭い。その昔一体、誰が此の中に入ったのだろうか。体だけ小屋に入れ頭を出した姿を思い浮かべ、思わずおかしさに顔が綻んだ。
 風呂建築隣接の方丈を入り、まずは永観堂の寺宝を鑑賞する。玄関左手の大広間では、岩崎巴人―僧でありかつ画家―の展覧会が開催中だ。多少、彩色された墨絵である。小さな絵から始まり、かなり大きな絵までバラエティーに富んだ展覧会だ。
 一気に描いた絵、それも余り描き込まずに、作者の表現したいものを主題にした絵がよかった。色をごてごて塗り、時間を費やした絵は、訴えるものが少ない。考え過ぎて、却って作者の意図が伝わって来ないのだろう。
 云うは易し行うは難しで、ついこれはと思う絵は、描き込んでしまう。時間がなく、一気に描いた時には、予想外の出来映えになる場合がある。上手に描けないで悩んで完成した絵でも、時々、完成してから眺めた時、意外な出来映えに驚く事もあるのだが・・・。
 
 大広間のギャラリーを出、広縁伝いに寺宝を見て歩く。主に襖絵が多い。堂を幾つか入ったり、出たりして数多くの寺宝を見るが、印象が薄い。
 階段を幾つか上がって、多宝塔下方の阿弥陀堂に出た。有名な―見返り阿弥陀如来―が安置されてある堂だ。堂内は薄暗く、内陣の柱には漆が塗られ、ロウソクの灯に反射し、柱が黒い輝きを放つ。見返り阿弥陀如来は、金網に囲まれ、内陣奥に安置されてある。像高一メートル足らずの思ったより小さな仏像である。
 永観堂は、数多くの優れた人材を輩出したが、中でも後世―永観堂―と称せられることになった由来の永観(ようかん)律師は有名である。
 永観律師は、広大な禅林寺の境内の一角に、窮乏の民衆を救うため、施療院を建てた。其処に梅林―悲田梅―を育て、其の果実を民衆に施したと伝えられる。
 永観堂案内書によれば、
 永保二年二月十五日の早朝、いつもの通り、永観律師が念仏行道をしていた時、本尊阿弥陀如来が壇上より降り、先導して行道を始めたので、律師は夢ではないかと不思議に思い、立ち止まると、それを見咎められた阿弥陀様が、左に見返りつつ「永観おそし」と呼びかけた。我に返った律師は、顧みておられる阿弥陀様の尊容を拝して―奇瑞の相を後世永く留めたまえ―との願いを聞きとどけられたと伝えられる―顧如来(みかえりにょらい)―の物語がある。
 
 堂を左廻りに進み、仏様を拝するに、阿弥陀如来は確かに、左に見返り、微笑を浮かべ、親しみの持てるお顔を此方に向けているのである。 顧如来の由来は案内書にある通りだが、私には違って見えた。
 阿弥陀様の正面拝殿で、艶ぽい男女が掌を合わせ、何やら願事をしているが、阿弥陀様は、余りの美男、美女を眼の当たりにし、願事を聞き届けるのは、何処へやら、思わず眼を逸(そ)らし、横を向いてしまったのではと、其んな事を思わせる程、親しみの持てる仏様である。
 堂の広縁を、ぐるっと廻って、多宝塔への階段を行く。縁の突き当たりで、ビニール袋に入れた靴に履き替えねばならない。
 多宝塔は境内の最も高い処にある。平坦な砂利道を進めば、直に多宝塔を見上げて歩く石段になる。石段の踊場を右に折れた。正面に、塔が見上げられる。軒裏の斗?木組が朱色に染められ、相輪が真直に伸び、斗?部を貫いて塔礎に降りるのが見えるようだ。二層の反りを持った屋根が華麗に、翼を拡げて羽搏く。左右の楓の枝葉が塔を包み、乱舞する錦秋と、朱色の斗?が融合していた。
 紅葉の葉擦れに、遠方の緑葉が顔を出し、私の眼前で、紅・黄・橙色そして緑色が混じり合い、自然の織り成す色のグラデュエーションを奏でていた。此処では、主題は多宝塔で、差し掛かる紅葉の錦秋は、塔に道を開け、塔を守り立て、花を添える補査役、副題である。其れだけに、紅・黄・橙色に染められた紅葉は、奥床しく、謙虚で自らの美しさを、空間に現すのだった。
 
永観堂多宝塔 哲学の道秋色
 石段を登り詰めた基壇部は、思ったより狭かったが、此処からの眺望は素晴らしい。遥か彼方に、嵐山、高雄山に連なる山端が優しい稜線を描き、薄緑色に霞んで、夕暮の空に溶け入っている。麓には、渡月橋、嵯峨野天竜寺、化野念仏寺が、紅葉に包まれてある筈だ。
 多宝塔からは、其の鮮かな紅葉も、あるかなしかの薄い色でしか識別できない。緑葉と紅葉は混じり合い、ひとつの彩になって眼に入る。
 中間部は京都市街が群れのつながりとなって横に拡がり、処々、寺院の紅葉、緑葉が都市のオアシスの如く、其の彩を現している。
 手前には、東山山麓の緑葉、紅葉が市街に溶け入って、夕暮の陽光を受け、淡く澄んだ彩が眼下に流れる如くある。
 ひとつひとつの個は、彼方を向いたり、此方を向いたり、アノニマスな考え、動き方をし、一見統一性が無く無秩序に見えるが、こうして遠望すると、個の集合である全体都市は、一つの方向に向いているように見える。其れは、あらゆる混沌(カオス)を飲み込んだ箱船のようにも想える。
 臥龍廊(がりゅうろう)を降り、堂宇の広縁を幾つか折れ、方丈に出た。陽光に輝いていた錦秋も、トーンを落とし、落着いた紅葉の姿を現していた。
 方丈玄関から探索者で賑わう境内を人の流れの儘、山内に足を進める。境内の散策路には、両側から楓の紅葉が差し掛かり、錦秋のトンネルをなす。紅・黄・橙色に彩られた紅葉は、西方の嵐山連山の影になり、陽光を浴びた輝きは既に消え、落着いた彩を現す。
 御影堂への石段に、楓の枝葉が差し伸べられ、堂の大屋根が、錦秋の森に溶け入っていた。多くの探索者は紅葉に包まれた巾広の散策路を満足気に歩き、脇道に逸れる人は僅かである。
 平坦な道の突き当たりに、其処だけ淡い陽光を受けた楓が、山の付け根に、樹幹を心持ち右に傾げて立つ。陽光を浴び、紅色から橙色に透き通るような紅葉は、少女のような優しい純粋な輝きを見せている。其処だけが陽光を受けているだけに、一層其の感を強く持つ。
 探索者の誰もが、今日、最後の紅葉を愛でる思いで、
 「わあ、綺麗だ」
 と賛嘆の声を発し、夕方の優しい陽差しを受けた可憐な紅葉を背景に、記念撮影に余念がないのであった。
 輝く紅葉の上方、斜面の上に鐘楼があり、左手に鐘楼へ登る石段がある。丁度、鐘を撞く刻か、墨染の衣に身を包んだ小僧さんが、鐘楼で鐘を撞いていた。石段下で、鐘を撞く風情のある姿を見上げる探索者も少なくない。
 眼鏡を掛けた小僧さんは、探索者の視線を意識してか少々、緊張しているように見えた。石段を上がって、暫く鐘を撞く小僧さんの姿を見ていた。多くの探索者の眼前ゆえに、人の目も気になるに違いない。
 
 石段を降り、帰り掛けに山の方を振り返った。多宝塔と御影堂屋根が、緑葉、紅葉の織り成す錦秋の山腹に覗いていた。ぐっと前方は紅・黄・橙色に彩られた錦秋である。全山緑葉、紅葉で包まれた景色も素晴らしいが、少しだけ端正な塔が垣間見られる光景も、奥床しくてよい。
 此処で、三脚を据え、錦秋を撮影する写真家が二人いた。好い構図だ。
 其処で私もスケッチを描き始めた。少したってから背に人の気配を感じ、振り返った。若いカップル二人が、私のスケッチをにこにこして見ていた。
 「絵を描くんですか」
 と私は気楽に訊ねた。
 「何んな風に描くのか、見させて下さい」
 と男の方が、にこにこして応えた。女性は、恥ずかしそうに男の陰に隠れる仕草をする。
 小スケッチブックなので、直にデッサンを終えた。参道の砂利道に、スケッチブックを置き、色付けを始めた。カップルはまだ背で見ている。
 色付けを始めて直に、もう一人の視線を感じ、私は少し首を横に向けた。先刻、鐘を撞いていた若い小僧さんが、微笑を浮かべ私が描くのを見ていた。錦秋織り成す華やかな散策路で、脇道とは云え人通りが結構ある。私は砂利道に置いたスケッチブックに簡単に色付けしながら、
 「先刻、鐘楼で鐘を撞いていましたね。大勢の人に見られて、緊張しませんでしたか。恰好よかったですよ」
 と話し掛けた。
 「鐘を撞くのを見られると、快感を覚えます。私は鐘を撞く役目ですから。私も色鉛筆で絵を描きます。もう少し大き目の画用紙に短時間で仕上げてしまいます」
 近くで話す小僧さんは、まだ若く、眼鏡の奥に光る目が無邪気に輝く。私は別のスケッチブックを見ていて下さい。と云ってスケッチブックを渡した。小僧さんは、参道砂利道に、べたっと胡坐をかき、前屈みになってスケッチブックを興味深そうに見始めた。然(そ)う斯(こ)うするうちに、小僧さんの上席の坊さんまで来て、にこにこして絵を見始めた。
 「仏教大学を卒業して、永観堂に修行に来ているんですか」
 小僧さんは、砂利道に置かれたスケッチブックを、ぱらぱらとめくりながら、
 「まだ永観堂に来て、半年位しか経っていません。仏教大学ではなく、普通の大学を今年卒業しました。名古屋の長善寺の住職が私の父ですので、孰(いず)れ跡を嗣ぐ事になります。父の寺は浄土宗で、本山が此処、永観堂禅林寺です。三年間修行して国に帰る予定です」
 
 小僧さんの名は、土屋監堂と云う。永観堂は、禅林寺と云う寺名から考えて、てっきり、禅宗寺院と許り思っていたが、正式には、浄土宗西山禅林寺派の総本山だと云う。
 小僧さんはまだ京都の寺院については、詳しくない。私が、法然院の全てを受け入れる素晴らしい空間、そしてその空間を創った住職さんの優しい心について、先刻探索して来た印象を話し、ぜひ一度、訪ねてみれば、何かの参考になるのでは、と余計なお節介をしてしまった。
 時々、顔を上げて小僧さんの方を見たりして、私は眼前の錦秋織り成す多宝塔を描く。一心不乱に筆を動かし、顔を上げた時、中腰で描く私と参道に座って、スケッチブックを見ている小僧さんの周りに、二十人程の大きな輪が出来、皆さん、小僧さんが開いているスケッチブックと描画中の私の姿を眺めているのであった。
 一瞬間に、これだけの人が集まってしまった。紅葉の季節、途切れなく探索者が通る。ほんの数秒で人垣ができてしまう。
 色付けを終え、筆を洗って顔を上げた時、輪の中の若い女性が、私の方に向けてカメラを構えていたが、描き終わってしまったので残念そうな様子であった。もう一度、筆を動かすポーズをして、余裕のあるところを示す。背方では、
 「この人、もしかして有名な人なんじゃないの」
 と若やいだ声がする。見る程の絵ではないが、私自身が、錦秋織り成す紅葉の中で、好い点景のひとつの要素だったのかも知れない。
 大道芸人の役者は、斯様な心境なのでは・・・。投銭用の帽子でも置いてあれば、御祝儀を投げ入れる人が、いそうな雰囲気だった。
 描き上げて片付け始めた頃には、見物人は水が引くように去って行った。
 小僧さんと、暫く立話をし、境内を降った。陽も翳り、風が吹き始めて来た。日中あれだけ大勢いた探索者も、何処に消えたのか、静かな境内の佇になっていた。
 永観堂から、南禅寺方面に歩く。直に南禅寺北側に出た。秋の陽は―釣瓶落とし―と云われる如く、境内は薄暗く、モノトーンの世界が支配する空間である。境内を急ぎ足で廻る。三門を潜る頃には、更に深い闇が山内を包み、人影も殆ど見掛けない闇のベールを掛けた幽暗な空間が境内を蔽っていた。
5 法然院から永観堂へ・スケッチギャラリー
このページのトップに戻る

リンク集

メールはこちらへ


Copyright(C) Sousekei All rights reserved.