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7 萬福寺から興聖寺・スケッチギャラリーへ
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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
黄檗山万福寺 三室戸寺本堂
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十二 
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四  嵯峨野ー二尊院から祇王寺へ
五  嵯峨野ー仇野念仏寺から鳥居本平野屋・愛宕念仏寺へ
六  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ1
七  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ2
八  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ3
九  
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読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
七 萬福寺から興聖寺
 
 修学院のM宅で目覚める。M氏に朝からパソコンの話を聴くが、奥様は朝早くから台所仕事で忙しそうである。
 突然、訪ねて一晩お世話になったが、奥様は嫌な顔もせず、何時もニコニコしていた。彼は猫、蛇の忌避剤製造で、洋服に臭が沁み込んでしまうらしい。服は洗濯すれば臭は消えるが、髪の毛は風呂に入って洗わなければ、臭が消えないため、人に会う場合には、一風呂浴びてから出かけるらしい。
 奥様に礼を述べ、朝九時、彼の車で黄檗山萬福寺を眼指す。京都市内を車窓から眺めるが、歩くのと異なり、風の気配が感じられず、東京にいるような気分だ。
 車道を南に向かって走り、JR東海道線を越えた辺から、道の両側には建売住宅が密集した地域に変わった。洗練された京都のイメージとは、程遠い光景だ。
 左手に過日訪れた醍醐寺の標識が眼に入った。其処から十五分程走れば萬福寺である。道を左に折れて直に、萬福寺への標識が眼に入った。
 萬福寺は東側に妙高峰を背負った緑葉に包まれた寺である。かつて学生時代に一度、訪れたと思うのだが、印象が全く残っていない。記憶が定かで無いが、山口県萩市にも黄檗山萬福寺の末寺があったように思う。
 黄檗山萬福寺は、日本三禅宗―臨済宗、曹洞宗、黄檗宗―の一つ黄檗宗の大本山で、中国明朝様式の伽藍配置だ。天王殿の本尊弥勒菩薩が布袋(ほてい)の姿をしていたり。更に開山隠元禅師の立像画に見られるように、中国風寺院である。
 日本の寺であるから、日本風に変化はしているのだろうが、他の日本寺院を見慣れていた私にとっては、異質の文化を感じさせる寺院であった。無意識の内に外来文化を排除する考えが、自分自身にあったのであろうか。
 
 受付を済ませ、放生池畔から大きな三門を見上げた。引きが少ないためか、雄大な三門が眼前に迫って来た。
 其処から描く。参道に差し掛かる松の枝葉で包まれ、三門の中心部が、竪長に見える丈である。両脇三分の二程は緑葉に包まれ、三門が僅かに垣間見れる。三門を支える円柱は、広々とした甍を想像させるかのように、樹幹の向こうにその姿を見せる。
 三門上層に―黄檗山―、下層に―萬福寺―と隠元禅師の筆になる扁額が掛けられ、開かれた門の遥か向こうに、天王殿が薄緑の松の枝葉に包まれていた。
 三門への参道に整然と敷き並べられた矩形の飛石は、中心軸に対し四十五度、振れて伸びる。その飛石の縁に薄い影ができ、幾何学的でリズミカルなデザインを感ずる。三門の開かれた扉巾より、幾らか狭い参道の両端には、縁石が真直に敷詰められている。
 飛石と真直に伸びた縁石の間は、ベージュ色をした砂が敷詰めてある。この参道のデザインだけでも勉強になる。後で萬福寺の栞を何気なく見ていた。参道の飛石を挟んだ縁石の両端を、雲水二十人程が二列縦隊で、三門を出、今将に托鉢の旅に出発する写真が載っていた。雲水が歩いている処が、この参道の飛石を挟んだ巾三十センチメートルほどの縁石の両端なのである。
 普通であれば参道の真中を歩くのだろうが、参道の両端を歩くことにより、中心が空間的にオープンになるため、三門の中心を見渡せ、かつ奥の天王殿も見える。写真を見、其のデザイン感覚の優れている事を思うと同時に、本道を外した謙虚な姿を感じた。因みに栞の裏には、
 謹白大衆(きんべだーちょん) 謹んで大衆に申し上ぐ
 生死事大(せんすすーだ) 生死は、事大にして
 無常迅速(うーちゃんしんそ) 無常は迅速なり 
 各宜醒覚(こーぎしんきょ) 各々、覚醒して
 慎勿放逸(しんうふぁんい) 無為に、時を過ごさぬように
 と書かれた巡照板が(じゅんしょうばん)載っていた。萬福寺では開創以来三百数年間、朝四時と宵九時にこの五連句を朗々と唱えて来たそうである。
 
 萬福寺は東西の軸線上に三門、天王殿、本堂、法堂が並び、諸堂宇が廻廊で結ばれ寺域を形成する。寺域内の参道には、先刻述べたような四十五度に振られた飛石が据えられ、デザイン統一を計っている。
 京都市内の寺院に比べ、探索者はかなり少ないが、私の前には二十人程の団体客が境内に入って行った。東端の法堂では丁度、勤行の最中で、僧侶六人ほどがお経をあげていた。その光景を一筆書きで一気に描き上げる。色付けは夜、娘のアパートですることにした。
 萬福寺境内をぐるっと廻り、南側の脇門から三室戸(みむろど)寺への道を進む。萬福寺受付の人の話では、三室戸寺への道は、新興住宅街の道といっていた。途中までは確かに全国共通の文化住宅が立ち並ぶが、三室戸寺に近付くに連れ、昔からの街並も見られるようになった。
 低い石垣が積まれた街並を進み、三室戸寺への参道に出た。石でペーブされた道を、道なりに足を進める。交差点の要処要処に、右・・・左・・・と石碑が立てられてある。斯様に石碑が立っていれば、古さを感じ旅情が湧いて来る。
 正面に朱色の鳥居が見える真直な道が、三室戸寺の参道である。右手には駐車場がある。山腹にある寺のため、参道は登り坂である。
 朱色の鳥居を潜っても、道はまだ登り坂で、右手の谷には紫陽花(あじさい)の花畑が一面に拡がる。三室戸寺は紫陽花が咲き乱れる寺で有名だ。谷間の花が全て紫陽花で埋め尽くされる姿は見事な光景であろう。
 東京のYKギャラリー常連客ののT氏は、かつて奈良に住んでいたのだが、三室戸寺の紫陽花を鑑賞するため、わざわざ東京からその季節、春に三室戸を訪ねたと云うほどである。
 
 坂道の参道を登り切った処は平坦になり、正面に、寺域の割に巨大な本堂が眼前に現れた。軒下の斗?木組が迫力を持って迫る。重層入母屋屋根は、錦秋織り成す明神山を背景に、豪快な姿で佇む。右手朱色の三重塔方面には、一際、鮮かな紅葉が、黒々とした阿弥陀堂の古色蒼然とした姿に対し、華やかな光景を現していた。
 本堂左手背後には、十八神(じゅうはち)社の小さな社が連なり、水平的拡がりを感じさせる。登り坂の参道は平坦な処に出る。左手にはガラス張りの寺務所がある。本堂へは、前庭に付けられた斜めの参道でアプローチされる。
 前庭には、陶製の壺が広場一面に置かれ、アプローチ路の両脇にも直線的に並べられ、変わった寺だと思った。この壺には、七八月のシーズンには蓮の花が咲き揃うようだ。
 三室戸寺では、五月の躑躅(つつじ)、六月の紫陽花、七八月の蓮、そして秋の紅葉と、四季折々、自然の美しさを味わえる。
 前庭の谷側には、屋根が掛けられた見晴らし台がある。靴を脱いで上がるようになっていて、長いベンチまで置かれてある。紅葉の盛りは既に終わっていたが、見晴らし台から谷に拡がる紅葉の眺めは変化があって素晴らしい景色だ。
 右手に佇む朱色の三重塔へは、灌木に囲まれた細い道を歩く。遠くから望む三重塔は、錦秋の山並を背に、端正な姿を現す。けれども近付いて見上げても、軒端の斗?木組に肌理細かさを感じない。ディテールが大味で感動するものが無い。斗?木組の先端を垂直に切り落としているが、材料の勾配に対し矩折(かねお)りに切り落としたディテールの方が緊張感があって見応えのあ
る形になると思うのだが・・・。
 参道を降って行く。随分と長い参道だ。路面はアスファルト舗装されている。巾広い石段でペーブされた方が、参道らしく優雅な空間が演出できるのではと思うのだが・・・。阿弥陀堂のある寺域空間の古色蒼然とした姿に比べ、参道が味気ない空間である。
 
 かつて三室戸寺はユースホステルになっていたと思うが、私の記憶違いだろうか。私は学生時代に二回宿泊した事があった。
 記憶では三室戸寺は平地にあり、三重塔は無く、もっと狭い寺域だったような気がする。今見たような豪快な本堂は無かった。併し確かに三室戸寺だったような気がするのだが・・・。
 三室戸寺から間道を縫って、宇治上神社へ新興住宅街を縫って進む。直に―さわらびの道―に出た。
 さらわびの道の路面は、好くデザインされ、道には樹木の枝葉が差し掛かり、一人で歩いていても心地好い気分になる。処々に差し伸べられる楓は、風に吹かれて頼りな気で、紅・黄・橙色に彩られた枝葉は、少女のように可憐な趣きがあった。
 さわらびの道沿いの左手の高処に、土産物店風のブティックが見えて来た。其処は丁度、山に登る道と、真直に進む道との角である。
 南の宇治上神社方面から歩いて来る人、山から降って来る人、これから登る人達が行き交い、此処は、さわらびの道の十字路になっていた。
 探索者は、日曜日、紅葉を愛でながらハイキングを愉しんでいるように見える。十字路には歌碑が幾つか立つ。南に伸びた道は右に緩くカーブし、紅葉に包まれた錦秋に溶け込んでゆく。道の両側には、円い石が一メートル間隔に置かれてある。何の目的で置かれてあるのか直に分からないのが、無目的でよい。道には紅葉が差し掛かり、錦秋に溶け込んだ奥方から探索者が、二人三人と現れる。それが又風情があって印象的な光景だ。
 
万福寺僧侶 三室戸寺三重塔
 
 描き終え先に足を進める。先刻のカーブした処の左手に宇治上神社が洗練された姿で佇む。門前に掲げられた説明書によれば、宇治上神社は国宝に指定され、一連の京都の世界遺産の一つにも指定されている由緒ある神社である。
 境内に入って、右手社務所裏で、帽子を被った若い神職が、竹箒で掃除中であった。若いせいか、どことなく人目を気にしている風であった。
 其の奥に湧水の湧き出る祠がある。数段の石段を降りた処には、清流が小さな囲いの中を流れ、山側からは湧水が勢いよく流れ出ていた。地元の婦人が慣れた感じで、祠で清め、さっさっと歩を進め上の神社に向かって行った。私もまずは参拝と先に進む。
 宇治上神社の本殿、拝殿は国宝である。平安時代の創建で、日本最古の神社建築である。奥にある本殿は三つの社殿を桧皮葺の覆屋が包むという面白い建築である。先方の女性は手際よく、パンパンと柏手(かしわで)を打ち、三社を参拝して直に帰って行った。 
 スケッチをしようと思ったが、曇り空で気分が乗らない。正面拝殿前には、円錐形の盛砂がある。清めを表した砂である。宇治上神社は日本最古の神社建築だけに風格がある。こんな処に、斯様な立派な神社があろうとは思いがけない事だ。地元の人でなければ情報が入らず、分からないのであろう。有名な神社仏閣は情報が沢山あるため、遠方からも来れるが・・・。
 併し、探索者は―さわらびの道―を宇治上神社の境内には入らず、それどころか立ち止まりもせず、通り過ぎ、紅葉の差し掛かる道へと足を進めて行く。いかにも地元の探索グループのように見える。
 
 境内を出、さわらびの道を降って行った。直に宇治上神社の朱色の鳥居が立つ。私は反対側からアプローチしてきたため、鳥居を潜って境内に入るのでなく、鳥居を潜って境内を出た訳
である。
 参道の右手に民家風の古風な社務所があった。唐破風屋根の正式な玄関だけが、神社の社務所を思わせる造りである。―宇治上神社社務所―と看板が掲げられていなければ、社務所とは分からなかったであろう。恐らく、私の思う所では、かつては宇治上神社の社家であったに違いない。
 此処で振り返った。朱色の鳥居が大きな姿を現しているのが眼に入った。鳥居の門型が額縁になり、その門型の中に今探索してきた宇治上神社の拝殿、本殿の桧皮葺の屋根が折り重なり、その閑雅な姿を現す。
 紅葉の鮮かさは見られ無いが、緑葉の織り重なりに、神社の永い歴史を感ずる。此処でスケッチを描き始めた。三々五々通り過ぎて行く探索者のグループは、宇治上神社の境内には入らず、こんもりと刈り込まれた庭木の手前を左手に折れ、さわらびの道に吸い込まれてゆく。
 背後の仏頭山が緑色に棚引いて優しい姿を見せる。緑葉に包まれた朱色の鳥居が其れを切り取って、さわらびの道を導き入れ、空間に遠近感を現す。
 描き終え、参道を更に降る。左手に宇治神社があったが、境内は雑然として人気(ひとけ)がない。宇治上神社の境内を探索した後ゆえに、感激するものがない。
 けれども、かつては宇治上神社も宇治神社も同じ宇治神社であって、宇治神社の上社、下社としての神社だったと云われる。
 宇治神社の境内を一廻りして、境内の一角から、遥か彼方に宇治川の流れを眼にすることができる。思ったより流れが速く、川の水も澄んだ清流だ。
 再び参道に出た。この辺からは、参道両脇には、旧い民家の家並が連なり、風情を感ずる光景である。
 
 直に、参道は宇治川沿いの遊歩道に合流する。散策路の路面は石でペーブされ、歩くのに心地好い。大勢の探索者が行き交い、彼等自身が空間の一つの点景になっている。萬福寺の受付で聴いた興聖寺は、この散策路を宇治川沿いに南西に歩けば、辿り着く筈だ。
 散策路の右手は広々とした宇治川の流れであり、左手には、茶店等が立ち並びオープンスペースとしては、これに勝る空間は無い。宇治川は川巾も相当に広く、思ったより流れが速く綺麗だ。抱いていたイメージと実体とは全く異なり、遥かに雄大にしてロマンがある川の流れであった。
 川向こうには、平等院がある筈だ。眼で平等院の甍を追うが、遠過ぎて特定できない。此んな風景の中で育った子供、そして生活できる人達は羨しい限りだ。
 散策路を暫く歩く、左手高処に茅葺の瀟洒な(しょうしゃ)家が立つ。宇治川が見渡せるように鍵方に硝子窓があり、如何にも資産家の別荘といった造りだ。表札には―○○○株式会社―と刻まれてあり、会社の保養所らしい。土庇は銅版で葺かれ閑雅な風情である。スケッチをしようとしたが、会社の保養所では描く気が起こらない。商業主義的精神を感じるからかも知れない。
 
 直に興聖寺石門が左手に見えてきた。緑葉で包まれた緩い斜面に穿たれた石門前には、探索グループが何組かスナップ写真を撮っている。石門からは次から次へと探索者が現れる。
 石門前には石碑が立ち、石門の右柱には、琴ノ坂石門(総門)と書かれてあった。屋根には瓦が葺かれ、普通の山門と変わらないが。柱梁が石で出来ているので石門と呼ばれる。
 石門前に立って私は一瞬間、息を呑み込んだ。無意識の裡に遠近法になったのか、意識的にその手法を使ったのかは定かで無いが、今迄私は、斯様な空間に接した事がない。
 石門から遥か彼方に見える楼門までの参道は登り坂である。石門前から遥か彼方に立つ楼門が石門の石梁の下端の位置に見える。それだけの勾配がある訳である。この参道は琴坂と呼ばれる。琴坂の路面は砂利混じりの固い土である。坂の両脇には、かなり深い水路が切られてある。
 坂は山の斜面を掘削して造られているため、坂の両脇には土手ができる。土手には、荒々しく、表面がゴツゴツした自然石が積まれているだけに自然な趣きを感ずる。その石積土手が石組された水路から、大地から生まれ出ずるが如く立ち上がる。永い歴史の風雪により、石積の色合いは黒ずんだテクスチャーだ。
 琴坂の両側は、木立ちが生繁って鬱蒼とし、昼尚暗い幽暗な世界だ。私が訪ねた時は、夕方で、かつ曇っていたため強い光が差す事はなかったが、もし日中で晴れていれば、この空間に一筋の光明の如く光の筋が引かれたであろう。
 遥か遠方の楼門近辺には、幾らか陽が差しているのか、頼りな気に楓の紅色の枝葉が輝き棚引いていた。参道の琴坂はまだ迷える煩悩の世界である。苦しく、紆余曲折した煩悩世界の対岸に、煩悩を乗り越えた世界、平和で穏やかな空間が輝く。楼門に差す陽はまさしく光明である。
 併し煩悩の世界に身を委せるも光明が見えているのか、煩悩に埋没したまま、光明さえも見えずに、煩悩の世界を彷徨(さまよう)う子羊の如くあるのか・・・。
 興聖寺琴坂は真直に伸び、光明は判然と示される。他所において子羊は迷路に迷い込み、其処では幽暗な坂が葛折りに折れ曲がっている。遥か上方に光明があるも、木立ちの陰、幽暗な空間どころか、暗黒の樹海の暗闇の中に煩悩の世界が待ち受けている。けれども光明は彷徨(ほうこう)の上に現れるに違いない。煩悩の彷徨が深ければ深いほど、光明の輝きは、深く澄み渡っているに違いない。
 其んな事を考えながら石門を潜り、琴坂に歩を進める。長い真直な坂道ゆえにパースペクティブが強調され、恰もエンドレス空間のようだ。遥か彼方の光明を眼指し、探索者は永い坂道を只管進んで行く。
 この琴坂は興聖寺の結界を現す。法然院の結界は、山門そしてそれに連なる土塀のラインを高く築く事により構成されていたが、此処では、幽暗な永い坂道を築く事により、結界空間が演出されているのであった。
 
 幽暗な空間を歩く探索者は、恰も彷徨(さまよ)える小羊のように思える。
 宇治川の流れを背に、木立ちの枝葉に包まれたこの幽暗な坂道を歩く時、静寂な空間の中で、宇治川の豪快な流音が、厚い枝葉を透過し、優しい穏やかな琴の音の如く響くので―琴坂―と呼ばれているそうだ。
 幽暗な琴坂を登って山門に近付くに連れ、坂道に差し掛かる楓の紅・黄・橙色の枝葉のグラデュエーションの混合が彷徨える子羊を待ち受け、彼岸の浄土世界に到達したような錯覚を憶える。巧な空間演出である。琴坂を登り切った処は平坦になり四方紅葉に包まれる。左手の広場では、数組の探索グループが写真撮影中だ。
 琴坂の紅葉は永観堂の紅葉のような派手な華やかさでなく、控目で、山中にヒッソリと佇み、誰にも見られずに風に靡いていた。
 琴坂を登り詰めた少し手前でスケッチをする。三脚を据え優しい紅葉を、陽を透過した葉裏から撮影する人も三四人いる。
 山門は中国風である。入口部分のレベルは、漆喰で白く塗られ、角は円みを帯びる。それに連なる塀も漆喰で仕上げられ白く輝く。山門の二層目は木構造で、廻廊が廻らされ、手摺の水平線が樹幹の垂直線と好く響き合い、空間に緊張感がかもし出されていた。
 山門の入母屋瓦葺屋根には、小寺にしては、珍しく、棟の両端に鴟尾の形をした瓦がのせられてある。両端が僅かではあるが、軽やかに反りが付けられ、如何にも穏やかな形である。
 山門の背後には、椀を伏せたように、なだらかな山端が澄み渡った空を切り取り、処々、紅葉した山並がエンジ色に霞む。山の名は朝日山だ。
 山門手前の斜めに差し掛かる緑葉、左手に背の高い松の緑葉が、背後の朝日山の山端を突き抜け、澄んだ青空に躍っている。差し掛かる緑葉の葉擦れから塀、山門が覗き、穏やかな光景である。
 中国風山門入口から、境内奥が見渡せ、先方の探索者が豆粒のように小さく見える。参道の琴坂から数段の石段で山門入口になり、その連続で境内が続き、奥行のある構図だ。
 山門を潜れば、廻廊、堂宇に囲まれた中庭になる。処々に低灌木が植えられ、正面に本堂が立つ。参道の琴坂、中国風の山門、そして本堂と一直線の軸線だ。其の軸線は朝日山山頂に至る。神社であれば、恰も朝日山が御神体のような印象になるであろう。
 紅葉の盛りは終わったとは云え、境内には数人の探索者が、そぞろ歩く姿が見られる。道場際には―座禅中のため静かに拝観するように―との貼紙があった。拝観料を徴収するわけでもなく、開放的な寺院である。外部空間の穏やかさと云い、山内の拡がりと云い、住職さんの人間に対する包み込むような優しさを感ずる。過日訪れた法然院と似た空間の質を感じた。境内を民衆に開放し、無言の教えを説く空間である。
 興聖寺でもう少し、ゆっくり散策したかったが、大阪の福島にある大阪シンフォニーホールで開催される関西大学吹奏楽団定期演奏会に行かねばならない。
 幽暗な参道琴坂を降る。石門の向こうに宇治川の川面が、白く輝き、豆粒のように見える。石門前では数人の探索者が別れを惜しむかのように、記念撮影中であった。
 宇治川沿いの遊歩道を京阪電鉄宇治駅に向かう。宇治川の川巾は広く、対岸の楓の紅葉が薄衣を掛けたようにくすんでいる。陽が当たれば、キラキラ輝き鮮かな彩を現すだろうに・・・。
 宇治駅近辺には土産物店が数軒ある。対岸に渡る宇治橋の畔に駅はあった。私は大阪方面への私鉄路線がよく理解できていない。けれども宇治駅駅員が親切で、駅員は中書島駅で京橋方面行二番線の急行に必ず乗るように再三云っていた。急行の方が早く京橋駅に着くからである。京橋駅で大阪環状線に乗り替え福島駅に行くように、と親切に教えて呉れた。
 
 京阪電鉄の車窓からの眺めは、枚方駅手前位から、ベタッとした文化住宅が連なる。大阪に近付くに連れ、高層住宅が多く林立する光景に変化する。
 大阪と京都、奈良は同一商圏ゆえに、斯様な光景になるのは当然の事であるが、どうしても、京都、奈良の歴史的な佇を期待して眺めてしまうため、一体これは何うなっているのだと、がっかりした気持になるが、止むを得ないことであろう。
 京橋駅近辺の商店街で、娘の定期演奏会の差入れのため菓子を買おうと菓子店を捜すが、食物屋ばかりが多く、菓子店がなかなか見つからない。やっと一軒小さな菓子店を捜し、栗饅頭を買求め、一路大阪シンフォニーホールに急ぐ。
 大阪シンフォニーホールでは聴衆が満員に近い。私の席は前列四列目程の処だ。吹奏楽団入場で直に、娘は分かった。一列目手前から二番目である。後で娘に聞いたところ、私がいるのが直に分かったという。意外と落着いて演奏していたのである。
 大学に入学した年の夏ぐらい迄は、私が訪ねた時には、娘は夜、早めに帰宅していたが。入学して二年も経った現在では、演奏会の練習とやらで帰りは深夜に及ぶ。おまけに、長期間滞在した際には、一体何時まで大阪にいるのかと、一国一城の主気取りである。
 住めば都で、吹田の豊津にあるコーポ滝川なるアパートに一週間も滞在していれば、豊津駅からアパート迄歩く途々には、八百屋さんの知合いも出来たりして、私の現住所は一体、東京なのか、豊津なのか一瞬間分からなくなることもあった。
7 萬福寺から興聖寺・スケッチギャラリーへつづく
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