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読後感想 山口佳延写生風景 絵と文 建築家・山口佳延 |
八 大徳寺
吹田豊津の娘の下宿先に落着く前に大徳寺を訪れようと大徳寺バス停に降り立った。一昨年秋に、大徳寺を訪れた際には、大徳寺境内の東側土塀沿いの道を、大徳寺一久なる店がある大徳寺通を進み、大徳寺の総門を潜った。
大徳寺一久は見た処、由緒ありそうな店構えであった。大徳寺御用達の店で精進料理を食べさせる料理屋だが、一休禅師が考え出した大徳寺納豆も売っている。女性同士あるいは夫婦連れの客が多く、一人旅の私には縁がなさそうだ。
この大徳寺境内の東端の側道とも云える大徳寺通に面し、何故総門が立つのか、ふと疑問に思った。大徳寺の南端を走る北大路通の方が、正式な山門の場所として相応しいのでは、と思うのは私許りではないだろう。
東端に立つ総門には前庭広場があり、タクシー、観光バスも駐車できる。ところがこの総門は脇門で、別の処により大きな山門が北大路通に面して立つのではと推測し、大徳寺バス停から北大路通を西方に進んだ。
北大路通は、道巾も広く交通量が多い。当然広い歩道があるため、歩くのに特別支障がある訳でもないが、大徳寺の歴史的印象とは隔絶した風景である。右手の大徳寺土塀も、伝統と権威を誇示するかのように、厚い壁を連ねて立つ。塀内から差し伸べられる枝葉だけが、気持を和ませて呉れる。
築地塀が切れ、深くアルコーブになった突き当たりに、小ぢんまりとした山門が立つ。記憶では、この山門を潜れば参道の両脇に幾つか塔頭が立ち並び、総門の傍らに至る筈だ。北大路通に沿って連なる築地塀は山門に向かって折れ曲がる。築地塀が山門から連なる塀とぶつかる辺では緑葉に包まれ、奥方には、一際太い樹幹が立ち上がる。その緑葉が山門に差し掛かり、風情ある姿を現す。
左手の低い石垣にも緑葉が絡みつき、奥方に大きな樹幹が立つ。山門には低い築地塀が連なり、前庭を包む緑葉で、その姿は見え隠れする。人間が造りあげた建築物が、緑葉で見え隠れする姿は、全てが見えるより奥床しく、優雅に感じられる。近代建築でも、どかーんとただ建物が立つより池、彫刻、樹木などの前景があれば建物とそれ等の点景が、互いに緊張関係をつくり、一層建物が引き立つ。
今回京都探索の始めてのスケッチをしようと、真新しいスケッチブックを開いた。昨秋以来、スケッチらしいスケッチはしていなかったので、一瞬間、戸惑いを感じたが、描く対象が私などの拙い能力を遥かに超えたものを内在しているため、直に慣れ筆が自由に画面を走る。
描く間に、数名の探索者が山門を潜り、朝の陽を受けた緑葉が差し掛かる石畳の参道に吸い込まれて行く。
歩道の石畳にスケッチブックを置き、色付け中に、中年の男が立ち止まり、熟っと描くのを黙って見詰める。二言三言、言葉を交わすが、男はニヤニヤするだけで話が進展しない。そうこうする内に自転車を停めて女性が描くのを離れた処で遠慮がちに微笑を浮かべて見ているが、其の内に私の背に廻って見始めた。
「大徳寺山門にしてはこの門は小振りですが、正面は何処なんでしょうか」
「正面はあの脇道を入った左手に少しひきこんであります。あちらには行かはりまへんでしたか」
と総門への道を指差した。この門は大徳寺南門であると云う。たいして上手とも思えない絵を微笑を浮かべ話す。女性は気楽なジャージ姿で、買物への途中であったようで、近在の人かと思い、訊ねた。
「大徳寺山門の直ぐ左の家です」
「へえ、それでは以前は大徳寺に関係した血筋なのでは・・・」
Tさんの家は以前は塗師だったが、今は止めてしまったらしい。描きながら山門の左手を見るに、木立ちの間に瀟洒な(しょうしゃ)二階建の家が覗く。遠眼でよく分からないが、そんなに古い造りではない。昭和中期に建てられたようだ。大徳寺塔頭大仙院、孤篷庵(こほうあん)、真珠庵について簡略に話を聴いたりする。
来年春に京都法然院で、今迄描いた絵の原画展を開きたい旨を話したところ、ぜひ見たいので連絡先を教えてほしいと云われたが、私自身そう思っているだけで、決定した事ではないので、これは困ったと思ったが一応名刺を差し出した。
京都奈良探索の旅を終え帰郷すると、Tさんから絵葉書が届いていた。ご自身も絵を描くそうで、御主人が経営するコーヒーショップ店の外観が版画で刷られてあった。色は紫が掛った色合いで、窓の格子などが細かく表現された絵葉書だった。
法然院参道から茅葺の山門を眺めた時の素晴らしい印象を述べたところ、
「ぜひ今度、訪ねてみます。こんな恰好で失礼しました」
ジャージーに自転車姿を恐縮していたが、素顔の京都の空気に触れられて、余所行きの姿よりいゝ。Tさんは自転車で颯爽と風を切り、北大路通を東方に背を向け、ジャージー姿を徐々に小さくして行った。
この調子では今日は大徳寺だけで終わりそうだ。描き終え、南門に歩を入れた。門を潜った先には、石畳が真直に伸びる。石畳の両脇には枝振りの好い松が一列に並び、築地塀の連なる参道に彩を添えている。
石畳の参道両側には大徳寺塔頭が立ち並び、幾つかは拝観できる塔頭もある。塔頭竜源院は開門されていたが、門前に佇み、方丈までのアプローチ空間を見るに止める。巾の狭い石畳が方丈まで屈曲して伸び、両脇には背の低い灌木が緑葉を付けて連なる。緑葉が石畳に被さるように繁り、奥床しさを感じる反面、塵ひとつなく一分の隙もなく研ぎ澄まされた空間に拒否的な印象を受けた。
他の探索者も門前の立札を感心した様子で読むだけで、歩を入れる人は殆どいない。大徳寺は室町時代以降、有力大名の庇護を受け、多くの塔頭が建てられた。そんな背景により、現在でも多くの武将の墓がある。
大徳寺は室町時代初期には、南禅寺と共に京都五山の一位に列した。その後、一時は寺の繁栄は衰えたが、応仁の乱後、一休宗純により寺運は再興の曙光をみたのである。
一方、堺の豪商千利休との関係により、茶の湯の大徳寺とも云われるほど、茶の湯が大徳寺において盛んになった。
石畳の参道を真直に進んで三門脇に突き当たる。右手には大徳寺通に面し総門が立つ。左方に行けば、大徳寺の中心部への参道に連なる。
左手興臨院から南方に石畳が続く。竜源院築地塀から緑葉が瑞々しい新緑の若葉を覗かせる。土塀が緑葉で包み隠されるほどで、処々に大きな樹幹が立ち、空間に緊張感を与える。この石畳は閑雅な佇の門に行き着きそうであるが、念のため先方に歩を進めてみる。
突き当たりを右に折れ、更に石畳が伸びていた。巾の狭い石畳の両脇には、ほど好い広さの庭が土塀に囲まれてある。其処は庭一面、苔で蔽われ、昨夜来の雨で苔は瑞々しい鮮かな萌黄色の彩を放つ。朝の陽光を受け、キラキラ輝く様は神々しいほどで、木柵がなくとも俗人であれば、歩を踏み入れることを躊躇するであろう。
苔庭には木立ちが数本、疎(まば)らに立ち、三方は背の低い土塀で囲まれ、石畳の先方に小ぢんまりとした閑雅な門が立つ。遠眼で見るに、其処で再度、左方に折れ玄関に至るようだ。門から奥へは用事があるか、前以て予約をした精進料理を食する者でなければ行けそうもない。
手前で描く間に、和服で綺麗に着飾った女性が二人三人と門内に消えて行く。お茶会があるらしい。苔庭に伸びた一筋の石畳を楚々とした和服の女性が進む。今だかって、これ程の洗練された日本的空間に身を委せた憶えがない。
苔庭を囲む塀は自からの塀ではなく、別の塔頭との境界塀である。塀内は幾層にも緑葉が織り重なり、堂宇は殆ど眼に入らない。一口に緑葉と云っても、黄色に近い緑、青に近い緑そしてその間の微妙に変化した色々な緑で構成された色の饗宴である。訪れた朝、春の優しい陽光を受け、昨夜来の雨で洗われて緑葉は輝き、あるいは影になり、コントラストを判然とさせていた。
緑の饗宴空間は綺麗と一言で片付けられないほどの艶やかな空間だ。これが果たして宗教空間なのだろうか。現実と夢が交錯し軽い眩暈を憶えたのである。
宗教に抱く概念は、自からは禁欲的生活をし、民衆を救済するにあると思っていたが頂点に達したエリート集団は、斯様な艶な空間で生活できるのか。少なくとも民衆の財の集積に立脚した空間である事は間違いないであろう。
瞑想に耽るには、斯様な空間でなければならないのか。多分、連綿と続く歴史に培わ(つちか)れた結果として、今眼前にある空間があるのでだろう。
延暦寺でよく見掛けた―一隅を照らす―と書かれた立札を見る度に、こう思うのである。言ったり書いたりしているだけでは―一隅を照らさない―実践あるのみである。
日本全国、橋を掛けて歩いた奈良時代の僧行基の精神が分かるような気がして来た。この閑雅な苔庭を持つのは大徳寺塔頭大慈院である。
石畳を戻るうちにも数人の探索者と行き交う塔頭興臨院門前で―前田利家公墓所―の立札に、ふらふらっと門内に歩を入れた。細い石畳のアプローチは中央部で、石畳の巾分だけずれて伸びる。両脇は四角く刈り込んだ背の低い植込みが続く。これでは巾も狭く荷物を運ぶのにも一苦労ではと人事(ひとごと)ながら心配する。併しそんな事を考えては、斯様な閑雅な空間には住めないだろう。
興臨院は室町時代、畠山家の菩提寺であったが、畠山家の没落に伴い、前田家の菩提寺となったという寺の歴史がある。
方丈前庭は枯山水庭園である。庭園左手には花頭窓のある唐門が立つ。この唐門が、禅宗の
枯山水庭園の正式な門だと云う話だ。そう云えば、竜安寺、大徳寺大仙院・高桐院でも同じ様式の唐門があった。
庭園右手には、蓬来(ほうらい)の山を現したのか、大きな石が組まれ、小丘を為している。庭園は周りを厚い緑葉で囲まれ静寂に包まれていた。
五月の連休中だったためか、珍しく説明員がいた。ボランティア活動で説明員をかって出ているのかと思われる。説明員氏は色々と興臨院の歴史について、たとえば、本堂裏にある楓の紅葉は日本一だとか、本堂裏の書院に付けられた床の間は日本一古いとか説明するが、適当に聴き流しながら歩く。
確かに説明を聴けば、分かり易く知識が深まったような気になる。けれども、知識としての空間ではなく、空間が今に放つ芳香を感じられれば知識は二の次でよい。説明員氏はその手助けをして呉れればよい。
昭和初期に山口玄洞なる人物がいた。興臨院茶室は玄洞が寄進した茶室である。栂尾神護寺の金堂も玄洞が寄進したものだ。茶室ならば、ある程度の資産家であれば寄進も出来ようが、神護寺金堂ともなると、常識的に考えて個人の財力では到底及ぶところではない。それをやってのける玄洞とは一体何者なのか。
話によれば、山口玄洞が寄進した歴史的建造物は他にも数多くあるらしい。
茶室涵虚亭は真・行・草の天井を持った本格的建築である。説明員氏が床の間の由来について説明していたが、疑わしい説明であった。
床の間は元々、茶室において貴人が座るスペースだった。それが何時の頃にか、ディスプレイ空間に変化して行った。それが現在我々が眼にする、生花あるいは掛軸を掛けた一般的な床の間である。
床の間に関し、こんなエピソードがある。千利休が茶会を開いたところ、最後に茶席に入って来た貴人が座る場所がなく、さあどうしようと周りを見廻した。利休は咄嗟に貴人を床の間に座らせたという話だ。
床の間の由来から推して、利休の行動は理に適っていた訳である。
千利休の話が出たところで、秀吉と利休について述べてみたい。当時の政治経済の権力者であった秀吉、一方安土桃山時代における一流の文化人として自他共に認める利休。両者とも権力の頂点を極め、驕り(おご)があったと云えなくはない。
利休の大徳寺三門の普請に纏(まつ)わる話。重層入母屋造の楼閣風三門の築造に際し、利休は三門二階に雪踏(せった)を履いた自らの木像を安置した。
当時大徳寺は茶の湯の一方の中心として、幾多の武将、皇族の参詣を受けていたのである。当然秀吉もその例外ではない。
三門楼閣上に安置された利休木像が、山門を潜る秀吉の頭を踏み付ける事になる。この事が秀吉の逆鱗(げきりん)に触れ、利休の自決を招く結果となった。
この歴史的事実を知って、何んな三門なのか見てみたかった。現在三門前の堂宇が修理中でシートが掛けられ、其の奥の朱色の三門は陰に隠れ大きさの割に目立たない。でも、よく見るに朱色の塗りも剥げ掛かり、巨大な三門は風情のある姿を今に現していた。当然の事ながら三門の扉は閉められ、近付くことも出来ない。そう云えば昨年訪れた際にも、三門を潜った記憶がない。
大徳寺境内図には、三門と書かれてある。山門では何故いけないのか。広辞林によれば、
三門は寺の正門。特に禅宗寺院の楼門で、空・無相・無作の三解脱にたとえていう。中央の大きな門と左右の小さな門とから成る門。
とある。いずれにしても三門に自からの木像を安置したとは、現代に生きる私には信じられない事だ。後世幾代にも亙って自分の名声を世に知らしめたかったのか。
現代風に云えば、建築家、あるいは企画者の銅像を完成した建物の玄関横に据える事と、同じ思考なのであろう。発願主あるいは建築主の木像を安置するのであれば、理解できなくはない。
それとも利休自から建築資金を調達し三門建設の発願主となっていたのだろうか。後で分かったことだが、野上弥生子著『秀吉と利休』によれば、どうやら建築資金は利休が調達したらしいのである。
大徳寺では、勅使門、三門、仏殿、法堂、方丈が南北の軸線上に配されている。総門、南門は境内に入る門なのであり、境内の参道は本堂で云えば外陣に相当する。この南北軸線上にのる堂宇が大徳寺全山の内陣に相当する空間構成だ。
寺の規模が余りに大きく、塔頭がリニアーに立ち並ぶのでなく、面的に拡がっているためこの様な軸線構成がされたのであろう。
軸線の西側の石畳参道を探索者は歩いて行く。かって大徳寺を訪れた際は、夕方だったため、探索者は少なかったが、今回は午前中で、五月の陽光を浴びて新緑の若葉が瑞々しく輝き、境内には探索者の行き交う姿が数多く眼についた。
三門(金毛閣)を描こうと思ったが、眺めるだけでその気が起こらない。三門北側の仏殿へ石畳を外れて行く。殆ど探索者は行かない。仏殿右手の榧(かや)の大木が凄い。見るからに年を経て来ている印象で、樹幹に皺が寄り、主樹幹は途中で幾つかの副樹幹に別れ、斜上方に伸びる枝、真横に伸びる枝は地面から立てられた丸太で支えられ、垂れ下がるのを防いでいる。樹齢四百年程の榧の大木で、仏殿が建てられた頃に植えられたらしい。枝には僅か許りの緑葉を付け、風格ある姿で立っていた。
榧の大木の先にある石段を上り仏殿を覗く。瓦敷きの内部は、ガランとした荒削りな堂である。天井には円形に模様が描かれ、処々、雨漏りの染みが斑に地図を描く。正面には本尊の仏像が安置される。ガランとして武骨ではあるが、室町時代の質実剛健な気風を感ずる。仏殿の素朴さに接し、大徳寺が幾多の武将、大名に支持されて来たのが納得できた。
仏殿西の石畳参道に歩を進める。左手三玄院の門前に―石田三成墓所―の立札が立つ。開かれた門内を覗く。興臨院と似たアプローチ路が玄関に伸びていた。三玄院では、くの字形に細い石畳が低い灌木の間を縫って玄関に至る。どの塔頭でも、アプローチ空間の基本思想は同じであるが、その形が若干異なるのである。
寺の顔とも云うべきアプローチ空間で、塔頭の住職さんの宗教観を如何に表現するか、その努力が伝わって来る。アプローチ空間を集中的に見て歩くのも面白い。大学の卒業論文の題材としても、研究に値するのではないか。
石畳の突き当たりは大徳寺本坊だ。本坊築地塀に沿って、僅かに狭い石畳が奥方に連なる。左手には塔頭聚光院(じゅこういん)の築地塀があり、塀内から緑葉を覗かせる。石畳の先方には塔頭芳春院が立つ。以前訪れた際、この街路空間に魅了され、陽が落ち、薄暗い境内でスケッチをしたことを憶えている。
春の特別拝観で今日は本坊に入れる。石畳に面した門前に特別に設えられた受付が出されてあった。拝観券の置かれた机の前に学生風の若者が座っていた。彼等が受付だ。
本坊方丈の玄関には、竃の(かまど)焚口が幾つかある。台所だった処だ。靴を脱いで上がった板の間は食堂(じきどう)で、板の間の上部には、食卓らしき巾が狭く長い座卓が鴨居と手前にある竹の棒に掛け渡してあった。座卓は十数卓あり、その掛け方が面白い。
テーブルの先方は鴨居に掛け、前方には竹が一本鴨居より二十センチメートルほど高い位置に横に伸ばされ、テーブルを斜めにしてのせてある。床面を整理整頓するには、好いアイデアである。ただ地震の際には、テーブルが落下しそうで危険だ。拙宅でも応用できそうで暫く見蕩れる。
広縁を進み右手に折れ、枯山水庭園のある広縁に出た。興臨院と設計思想は同じ庭園だ。一日に幾つも庭園、寺院を探索していると、一つ一つの寺院の印象が薄れてしまう。特徴のある空間であれば記憶に鮮明に残るのだが、そうでない場合には、記憶の外になってしまう。歳のせい許りではないと思うが・・・。
春の特別拝観時、大徳寺では、京都産業大学―考古学を考える会―のサークルの学生が説明役や受付役をしている。本坊、真珠庵(しんじゅあん)、孤篷庵(こほうあん)・・・彼等の説明は慣れない感じで、多少躓いたりして、覚束無(おぼつかな)いが学生らしく新鮮でいい。
本坊脇の芳春院への石畳を右手に折れ、大仙院を訪ねる。其処は丁度本坊の北側の裏手に当たる。二三のグループの探索者は殆ど真直に、芳春院に進む。何故か分からぬが、観光バスの団体客は大仙院への石畳に入って行くのである。
受付に入るなり、受付の女性は客慣れしているのか、それとも拝観者が多くて神経が麻痺していたのか、女性の横柄な態度に出喰わした。
受付をしている最中に、丁度住職さんらしき人が外に出て来たが、件の(くだん)女性は住職さんに対してもぞんざいな口振りである。住職さんはその時、何処に行くのかと詰問されたような表情で、
「それは俺のことか」
と自分の顔に指差して云っていた。住職さんは眼玉がギョロッとして、比叡山延暦寺の慈恵大師のような顔貌だ。体つきは如何にも筋骨隆々とし、格闘技の選手のような風貌である。
住職さんも、従業員かアルバイトかは定かではないが、此んな若者を使って行くのは大変な事だと同情する。建前でも人を導く僧侶であれば尚更の事である。
大仙院方丈玄関ホールには売店が併設され、商業主義的印象を受ける。大仙院の各堂宇でも住職さんの色紙が販売され、ボランティア学生が、
「宜(よろ)しかったら、こちらも販売されていますのでご覧下さい」
と説明する。少し行き過ぎではと思うのは私許りではないだろう。云う事と行いが違うのではと、冷ややかな眼で見る。大寺院塔頭の檀家が何人位いて、どうなっているのかは分からない。拝観収入で寺の運営が為されているのか。そうであるならば、拝観できない他の塔頭の経済的基盤はどうなっているのか。そんな事は一過性の探索者には関係ない事なのかもしれないが・・・。
室町時代のように有力大名の庇護が無い現代、大仙院の生き方は時代に合致した方向なのかも知れない。自からの智慧で生き抜く、したたかささえも感ずる。
方丈売店を抜け、大仙院枯山水庭園を眼前にする広縁に出る。円錐形に寄り添って二つの盛砂がある。庭園左手には花頭窓を持つ勅使門がある。興臨院と同じ手法の禅宗庭園である。
大仙院枯山水庭園は土塀で俗界との結界を築く。土塀手前には二段構えで低い垣根があり、垣根に隠れて土塀は殆ど見えない。海を表現する砂には波状に箒目(ほっきめ)の筋が入り、盛砂近くで砂紋となって現れる。右端には沙羅双樹の木が細い樹幹を立ち上げ、ぱらぱらと緑葉を付けていた。本堂脇の蓬来の庭には狭い空間に大小の石が配され、舟を表したり、滝を表現している。小舟を操って川を下り、滝を躱(かわ)して橋を潜り、本堂前庭園の大海に至る構図である。
小舟が幾多の難関を潜り抜け大海に至る枯山水庭園を、人生の縮図と見立てている。思想の空間化が明確で分かり易い。広縁に座り、ゆっくり鑑賞したいところだが、入れ替わり立ち替わり団体客が入って来て、静かに鑑賞する雰囲気ではない。
人の流れが途切れたのを見計らい、広縁にスケッチブックを置き、一気に枯山水庭園を描き上げた。広縁が静寂に包まれたのは、この時のほんの一瞬間に過ぎない。
団体客が入って来たかと思ったが、本堂裏手の食堂に使われているらしい座敷に、皆さん導かれ消えて行った。昼刻なので精進料理でも食するのであろう。描く間、彼等が広縁に現れなくて助かった。
何んな名建築、名園でも、ごった返すような人込みの中では、知識として見るのならいざ知らず、空間を味わう環境にはならない。
住職さんも此んなに頻繁に探索者と云うか観光客の相手をしていては、さぞかし大変な事だろう。多分、夜全ての探索者の姿が消えた時、禅宗寺院本来の姿になり、瞑想に耽るのであろう。静寂に包まれるのは早朝と夜半だけなのかもしれない。
大仙院に隣接して塔頭真珠庵がある。築地塀の白壁に落ちた軒瓦の影がリズミカルな線を描く。手前に釣瓶井戸があり静かな佇を感じさせる。邸内の緑葉に包まれた甍の(いらか)連なりは、俗界の喧騒とは無縁に数百年の歳月を経て来たのを想わせる。因みに真珠庵は一休宗純の開創である。
大仙院より境内を西北に走る広い参道を塔頭孤篷庵に向かう。右方、参道に面し閉ざされた門が立つ。信長ゆかりの寺、総見院だ。立札に―信長公墓所―とある。此処も世の喧騒とは無縁の寺だ。総見院の塀が途切れた角を左方南に進めば高桐院がある。
昨秋大徳寺を訪れた際は、紅葉の盛りの時であった。その時は、京都市街から何処か風情のある街並はないかと探しながら、ひとりでぶらぶら歩いていた。
偶然、不審庵、今日庵の閑雅な佇の外部空間に接し、其の素晴らしさに感激した時だった。その際更に街並を抜けて大徳寺まで来たのだが、刻は既に夕刻に近く、陽もとっぷりと暮れかかっていた。
夕刻ゆえに塔頭の拝観は無理だろうから、せめて境内の匂いだけでもと、境内を歩いていた。其の時、背から脇目も振らず、何かの目的に進む集団が私を追い越して行った。一体何の集団だろうかと思い、遅れて私も従(つ)いて歩いた。角を折れ今までより巾の狭い参道に入り、とある塔頭の角を折れた。其処には両側に土塀が連なる細い石畳が奥方に伸びていた。集団は他処は我々には関係ないと云った様子で、其のアプローチ路の先方にある玄関に進んで行った。
脇に立つ立札に―高桐院―とあった。私も集団に紛れ込み従いて行った。高桐院はまだ拝観できるようだった。
高桐院の玄関には沢山の履物が置かれてあった。本堂広縁に出た時、思わず、あっと息を呑み茫然と立ち尽くした。
苔に蔽われた庭園に、楓が数本枝葉を差し伸べ、それが紅・黄・橙色に鮮かに紅葉しているのである。彩豊かな枝葉は、夕暮の微光を受け、最後の光の戯れを愉しむが如く頼りな気に微風に揺れていた。その光景はこの世の相と(すがた)は思えない。恰も(あたか)浄土世界を現しているかのような印象を受けた。
それほど広くもない庭には、薄い垣根がまわされ、背後は鬱蒼とした木立ちに包まれ、幽暗な世界であった。処々、枝葉の葉擦れから淡い空が覗く程度であった。ただ本堂前の庭だけに、陽が差し、少女のような可憐さで、紅葉が戯れているのだった。
苔はじめじめとした質感ではなく、限りなく透明感を持った緑で、その上に一枚二枚と光の戯れに飽きた色葉がひらひらと舞い落ち、静かに横たわるのである。
自からが落葉である事に気付かず、一瞬間戯れから離れ、疲れを癒しているかのように見えた。
本堂広縁でこの光景を愛でる探索者は、何時までも席を立とうとしない。
幾重にも重なる木立ちに囲まれた真珠のような空間だ。重層的に重なった木立ちが結界を築き、一層内部空間の密度が濃くなっている。人間の創り出した自然空間として、その素晴らしさに茫然とし、絵を描く事すら拒否する光景であった。
高桐院を出た刻には、とっぷりと日も暮れ、辺は薄暗く、夕闇に包まれていた。今見て来た光景は現実のものだったのか、夢と現を(うつつ)行ったり来たり交錯したのだった。
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孤篷庵 茶席忘筌の間 | 孤篷庵庭園 |
孤篷庵への広く幽暗な参道の左方は高桐院の木立ちで、厚い林に包まれ、今尚往時の面影を止(とど)める。参道と高桐院寺地とは、一・五メートル程の高さの歴史を感じさせる土手が築かれている。土手からも樹木が立ち上がり、歳月を経て、樹幹が土手に喰い込み、根っ子が土手側面に生き物の如く絡みつき、ぞっとするような宗教性を感ずる。この様に参道なり道と土手で結界を築く手法は、苔寺西芳寺でも、以前見た事がある。
西芳寺の参道からは境内の人の動きは識別できない。当然西芳寺境内からは参道を人が行き交う様子は窺い(うかが)知れない。普通に見ていては見過ごしてしまう処だ。公共的な参道と半公共的空間である境内を、柔かな土手で結界を築くのは、土塀で結界を築くのとは異なり、結界が曖昧になる。結界は完璧でなければならない理由はない。却って其の曖昧さが日本的でよい。
座敷から広縁、踏石そして庭へ、内部空間から外部空間へと連なる日本建築の空間の相互貫入の特徴が、此の土手の結界にも現れている。
西芳寺の結界空間は素晴らしいものであった。西芳寺川沿いの道から、西芳寺川越しに境内を望めば。川べりに築かれた土手に立ち上がる樹幹の間を通して、紅・黄・橙色に彩られた境内の輝きを眼にする事が出来る。樹幹の群れが黒いシルエットの額縁になり、陽光を浴びた境内の錦秋織り成す彩が、絵画のように見えるのであった。
幽暗な参道を抜け、今宮門前通に出た。此処で大徳寺境内は終わりである。孤篷庵へは更に緩い坂を上がって行かねばならない。今宮門前通の右手に、今宮神社の朱色の楼門が正面に見えた。まずは塔頭孤篷庵へと、紫野高校グラウンドを右手に見て進む、グラウンドを過ぎ、直左手に校舎があった。授業も終わったのか放課後の部活動の生徒が、彼方此方でグループを為し、活き活きとした表情で走る姿が見られる。
若さの特権を満喫し、長い人生の中で、最も自由闊達な年代なのではと思いながら彼等の背姿を見る。
校舎を過ぎ、左方に孤篷庵特別拝観の立札が見えてきた。例によって京都産業大学の学生が迎えて呉れた。
孤篷庵には学生時代に一度訪れたことがあった。その時は建築学科の教授と一緒だったので拝観できたが、通常は拝観できない塔頭のひとつである。その時見学した茶室忘筌(ぼうせん)は印象的で
あった。
方丈玄関から広縁をぐるっと廻り、枯山水庭園を見渡す広縁に出た。枯山水庭園と云うよりも、よく見られる緑豊かな庭園と云った印象だ。
大仙院に見られた立砂はなく、庭園には砂と云うよりも、黄土色のさらさらとした土が現れ、庭園の周りは樹木で結界が築かれ、静寂に包まれていた。
本堂の庇が広縁を蓋い庭園の方にまで深く伸び、広縁に深い影を投げ掛けていた。庭園左方に立つ編笠門は庭園の好い点景である。編笠門の屋根は柿葺で(こけらぶき)あり、弧を描き閑雅な佇で、緑葉の海に浮かんでいた。
緑葉の海の処々に黒く樹幹が覗き、閑雅な空間の中に野趣に富んだ光景を現す。庭園に面する広縁でも、学生が辿々(たどたど)しく孤篷庵庭園について探索者に説明するのに一生懸命だ。
私が来た時は他の探索者は二三人程度だったが、程なく数人のグループが幾組か訪れ、静かに庭園と向き合う風情ではなくなる。なるたけ人気(ひとけ)のない処を選び、書院の方に行ったり茶室忘筌(ぼうせん)に入ったり、少しでも孤篷庵の素晴らしい空間に静かに向き合おうとした。
茶室<忘筌>は狭い空間に小宇宙を形成する。忘筌の座敷に座り、燈籠のある小庭に眼を向けた。何処から何処までが忘筌なのか判然としない。内外部空間が曖昧で空間の相互貫入がなされている。
座敷、広縁、踏石、手水鉢のある庭そして垣根と、何の抵抗もなく空間が流れる。境界があるとすれば、広縁の外縁に宙吊りになった障子がそれだろう。
西向きになった茶室に、西の陽が直(じか)に当たらぬよう、小ぢんまりとした垣根が庭の外縁に庭の半分ほどの巾で立つ。強いて云えば、この小垣根が茶室<忘筌>空間と境内域との結界かもしれない。さりげなく立つ小垣根だが、其の空間的な効果は鬱蒼とした木立ちの林に勝るとも劣らない。
宙吊りになった障子に当たる全天空光は、柔かな微光となり、忘筌の座敷に、仄(ほの)かな光となって空間を照らす。この宙吊りの障子は陽光を受け止める装置とも云える。
宙吊り障子の下部は開放され、小庭を鑑賞する装置となる。開放されてあるので装置と称するより、小庭を観るために柱、敷居、鴨居で額縁を構成していると云える。
小庭には燈籠、手水鉢が点景としてある。小庭右方には庭を区切るが如く、座敷の広縁が竪に伸び、小垣根に溶け込んで行く。
小垣根が途切れた左方は、書院の枯山水庭園へと連なる。其処には結界を現すかのように、薄い苔状の緑葉が小垣根に連続する。
広縁外縁より内部側は柱、梁、鴨居、障子の竪横の線、そして広縁に張られた板の目地の線、畳の竪横の線で構成される。その竪横の構成空間は、露路の流れる如くある自然の線とは対照的に人工的である。
流動的でありながら、人工と自然との対比が判然とし、一体的空間を構成しているのである。茶室<忘筌>を去り難く、何度も出たり入ったりして、其の空間に浸っていた。
何人の探索者が通り過ぎて行っただろうか、京都産業大学の説明員氏とも顔見知りになる。関西大学応援団吹奏楽部でラッパを吹く娘を思いながら、同じ学生でも色々な学生生活を過ごしているのだと思い、説明員氏による孤篷庵の歴史についての話を、バックグラウンドミュージックの如く聴くのであった。
今宮神社の朱色の楼門は今宮通に面して立つ。楼門は立派で素晴らしいのだが、面する今宮通が結構、交通量が多く落着かない。楼門が通りに対し、引きがあって立つのであれば空間的余裕が生まれ、楼門も引き立つのであろうが・・・。
楼門を潜り本殿に向かう。正面に桧皮葺屋根を持つ古風な佇の本殿が立つ。唐破風屋根の拝
殿の両脇には廻廊が横に連なる。水平線を強調した廻廊の上方一段高くなった処に、緑葉に包まれて奥殿が立つ。
拝殿、廻廊の桧皮葺屋根そして奥殿の桧皮葺屋根が手前に葺き降り、描く処から見るに、各屋根が重層的に現れ、古色蒼然とした佇の印象を受けた。
今宮神社境内には、大徳寺から流れた探索者が二三人散策する程度で、孤篷庵に比べ静かだ。近在の親子が境内を散歩する姿があった。
都市部の神社のせいか、今宮神社は乾いた空間で、地元に密着した神社の印象を受けた。五月五日が祭礼の日らしく神興の準備中であった。
朱色の楼門から出るのでは、自動車路で風情がない。小さな東門を潜る。出て直、参道の両側に、あぶり餅を店先であぶって食わせる店が二軒立つ。
炭火であぶった香ばしい匂いが風と共に流れてくる。暖簾越しに店内の客の足元が垣間見られ、風に吹かれて暖簾が揺れ一瞬間、店内の様子が見えた。香ばしい匂いに惹かれ店内に入ろうとしたが、ひとりで入ってもと思い止まる。
参道に並ぶあぶり餅屋の紺色の大きな暖簾は風情があり、振り返って描こうとしたが、昼下がりの気怠さに圧(お)され通り過ぎてしまった。
左手路地の向こうに、緑葉が絡み付いた風情ある崩土塀が見えた。古い寺かと思い歩を進めたが、土塀内には普通の民家が立つだけであった。一昔前は立派な古い家が立っていたのだろうと思わせるほど、趣きのある崩土塀であった。
交差点を南に降る。道巾は狭く、途中からさらに狭くなり車の進入は出来そうにない。先方に―大徳寺―と書かれた小さな立札が立つ。大徳寺境内は夜間でも通行可能のようで、各処に進入路がある。境内の参道は、建築基準法上の道路に認定されているのだろうかなどと、つまらぬ事を考えながら両脇に塀が立つ細い道を進み、再び大徳寺境内に入った。
午前中に歩いた参道をなぞるように進み、総門を出た。自分が気怠い気分のせいか、人気(ひとけ)のない総門には午後の気怠い空気が漂っていた。
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