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読後感想 山口佳延写生風景 絵と文 建築家・山口佳延 |
九 高雄・神護寺から清滝へ
高雄、栂尾、髞は三尾と云われる。秋ともなると錦秋織り成す三尾の光景は、素晴らしい眺めで、京都の紅葉の代名詞とも思っていた。訪ねようと以前より考えていたが、学生時代、友人と共に夏の暑い盛りに訪れただけで、ここ数回京都、奈良を訪れていたのだが、今だに探索の歩を入れていなかった。
昨秋室生寺を訪れた折の翌日に、栂尾の紅葉を愛でようと思っていた。たまたま室生で会った男が、
「栂尾の紅葉は、既に遅く葉が茶色に変わりつつある。まだ此処室生寺の紅葉の方が見れますよ」
栂尾の紅葉はこれからでは遅過ぎるような話だった。高雄、栂尾を訪れるのは、紅葉の頃でなければ意味がないのではと思っていた。けれども冷静に考え、紅葉の季節の混雑を思えば、新緑あるいは暑い盛りの夏も、空いていてよいかも知れない。
もうひとつ、三尾になかなか足が向かなかった訳は、京都市内から離れた山中にあるからかもしれない。
併し離れているとは云え、洛北大原ほど遠隔地ではない。大原へは高雄への距離に比べれば倍近い道程がある。京都の地図を拡げて見れば一目瞭然である。
それなのに何故遠く感ずるのか。高雄に至るには山を分け入って行かねばならないからか。深く考えた訳でもないが、高雄、栂尾には京都の秘境とまでは云わないが、それに近い心理的な遠さが私にはあった。
それだけに高雄、栂尾には神秘的魅力を抱いていた。知識としては、高雄神護寺の源頼朝像、中学の美術の教科書にも載る掛幅の頼朝像があった。もうひとつは栂尾高山寺の鳥獣人物戯画であった。
更に絵や仏像ではないが、川端康成の小説―古都―の舞台ともなった北山杉の里があった。北山杉の里は、栂尾の北四キロメートル程、入った山間に、杉の木立ちに抱かれてある。
小説古都の美しい文章に惹かれ、主人公・苗子が育った北山杉の杉木立ちの間を歩き、北山杉の絞丸太を磨く作業場、風景に触れて見たい気持は以前より持っていたのである。
四条大宮より高雄行きバスに乗る。平日のためかそれ程の込み具合いではない。車窓の風景を眺めていた。停留所の地名が次から次に車窓を流れてゆく。、千本釈迦堂、北野天満宮、等持院道、妙心寺北門前など、風情ある地名が続く。その都度、等持院は何処か、衣笠山は、妙心寺は・・・と車窓に眼をやった。等持院道など歴史を感じさせる名称で、聴くだけでも、胸がわくわくするような名だ。
連休の中日で行楽客が多く、仁和寺山門前で交通渋滞に巻き込まれた。仁和寺山門の基壇に大勢の探索者が立つ。車窓から眺める山門は圧倒的迫力だ。素早くスケッチを始める。描きかけて直に、バスは走り出した。残りは眼に焼き付いた残像を筆に載せる。
仁和寺を過ぎた辺から右手に田園風景が拡がり、閑静な住宅が緑葉に包まれて点在する。バスは坂道を走り、山間に入って行く。山間の対岸の山に躑躅(つつじ)の薄いピンク色をした花が見えた。処々に小さな群れを為して咲く姿は、可憐で物哀しい風情を感じさせる。
盛りの過ぎた山桜が、花開くのを忘れたかのように、今頃になって咲く姿には、物の哀れさえも感ずる。眼下に見下ろす民家の庭に立ち上がる八重桜が重そうに花を咲かせる。その光景の連なりに、やっと華やかな気持ちになってきた。
高雄終点で、これより先、栂尾方面へはJRバスで行かねばならない。まずは神護寺を探索することにした。
バス道路から直に清滝川に降る石段がある。石段の脇から枝振りの好い楓の枝葉が差し掛かる。巾二メートルほどの急な石段の右手は登り斜面、左方は降り斜面になり、両方の斜面から緑葉が石段を包み込むように差し伸べられる。早朝の柔らかな陽を受け、新緑の萌黄(もえぎ)色をした若葉を透過した瑞々(みずみず)しい彩は、とても文字では語り尽くせない。
穢のない少女の可憐さ、そして恐れを知らぬ少年のあどけなさを持つ。斜面には処々岩が剥き出し、荒々しさを現すが、新緑の若葉の前では、それさえも少年の姿に添えられた点景に想える。
九十九(つづら)折りに川岸に降りる石段に差し掛かる新緑の若葉が、幾層にも織り重なる。若葉の葉擦れに垣間見える清滝川の流れ、そして岩にぶつかり砕け散る流れが白く輝く光景を眼前にして思わず、
「新緑の高雄は紅葉の高雄に劣らず素晴らしいなあ!」
と独語を(ひとりごと)吐(は)く。何故に新緑より紅葉の季節に大勢の人が繰り出すのか。紅か緑ただ色が異なるだけなのに、人間には緑葉は見慣れているが、紅葉は華やかでほんの一瞬間の命だからだろうか。緑と紅、確かにその空間に身を委せれば、受ける印象は異なるであろう。新緑の若葉には瑞々しい若さがある。
此の楓の林は自然のものか、人間の手になるものか。人間の手になるものであれば、この空間的効果を予想して手を加えたのであろうか。そうであれば、その洞察力は人間技ではない。
自ら光を発するが如く輝く萌黄色をした若葉、石段、斜面に剥き出された岩石、清滝川の流れが三位一体となり素晴らしい空間を構成するのであった。
降り始めの石段片側に小学生の団体が一列に座り、先生の指令を待つ姿があった。小学生と一緒では、落着いて感激に浸る訳にはゆかないと諦めていたが、小学生達、行儀がよく大騒ぎする訳でもなく助かった。
九十九折りの石段を降り切った処に朱色の橋が掛かる。橋の畔で小学生の別動隊が、座って後続隊を待つ姿があった。
鮮かな新緑の若葉に包まれた山が、深い渓谷に切れ込み、其処に差し伸べられた朱色の橋、この光景を眼前にしただけで、高雄を訪れた価値は充分にある。
橋を渡り、振り返って、新緑の若葉を背景に朱色の橋を描く。何処も素晴らしい光景であり、神護寺探索の帰りに緩っくり描こうと思っていたが、帰路にはこの九十九折りの石段は通らず、清滝川沿いの散策路を清滝に出てしまった。
前方の三角地に茶店が立つ。茶店前の川沿いの平坦な道を、小学生の一連隊は進む。川沿いに清滝に出る道である。一連隊が神護寺に進まなくて本当によかった。
店を挟んだ右方には、急な石段がカーブして登り、緑葉に溶け込んで行く。登り口には―神護寺―と書かれた石碑が二本立ち幽暗な雰囲気だ。斯様に石碑が立つのは、さりげない佇を感じさせ趣きがあっていゝ。
両脇に楓の枝葉が差し掛かる急な石段が、山門近くまで連なる。九十九折りの石段だけでも素晴らしい空間だ。
新緑の若葉が差し掛かる石段を歩くだけでも、充分過ぎるほどの空間体験であるうえに、若葉に包まれた急な石段の頂に、小さな山門が現れた時には、素晴らしいと云うより驚きを感じた程だ。宗教心のない私でも、山門が光明の如く光り輝く様を感じた。足腰が弱った年寄りであれば、尚更その感を強くしたであろうと想われる。将にこの石段の参道は神護寺の結界を現しているのである。
幽暗な結界ではなく、若葉が光り輝く結界だ。此処は是が非でも描かねばならぬ。描き上げ石段を一歩一歩登るに連れ山門が僅かずつ大きく見えて来る。描いていた位置より素晴らしさが増幅する。山門を見上げる処、其処では山門のディテールが遠方でも分かる程の近さである。開かれた門からは境内の明るい様子が窺える。
近付き過ぎても描き難い、程好い場所の石段隅で本格的に腰を据え、リュックからラフコットン水彩紙を取り出して描き始めた。
石段は巾が広くなり、両脇から緑葉が複雑に絡み合って差し掛かる。山門上部はその緑葉で見え隠れし、一際奥床しく感じられ。山門両脇に連なる土塀の佇がさりげなく感じられ、萌黄色をした若葉に吸い込まれて行く。低潅木の若葉の間から立ち上がる樹幹が、山門の古色豊かな柱、梁と好く響き合う。
樹幹が地面と接する処では、樹幹の延長のように根が地面を這う姿が、力強く眼に映る。
デッサンが済み、色付けしようとスケッチブックを石段に載せた頃、前方で作務衣の小僧さんが竹箒で一段一段右から左へと掃いて来るのである。私は小僧さんより下方で描いているため、小僧さんが竹箒を一振りする毎に、砂やら砂利やらが飛んで来た。
若い小僧さんゆえに、私の処にまさか砂が飛んで来ているとは気付いてないようだ。そのう
ちに、私の傍らに掃き降りて来た。
「すいません、邪魔ですか」
「いえ、構いませんよ。絵を描いているんですか」
と小僧さんは掃く手を休め、覗き込む。
「神護寺で修行してるんですか」
「いや、アルバイトしてるんです。京都産業大学の学生です」
「そう云えば、大徳寺でも京都産業大学の―考古学を考える会―の学生が受付とか説明員をしてましたよ。やはり―考古学・・・―の学生なんですか」
と訊ねた。小僧さんは単独で神護寺でアルバイトをしているらしい。様(さま)になった作務衣の恰好を見た時には、田舎から出て来て、寺で厳しい修行をしているのだろうと思っていた。二言三言、言葉を交わしたが、学生らしいはにかみを浮かべ、多くを語らない。作務衣とは云え制服の効果は凄い。如何にも様になって見える。これが警察官だったりすると、同じ制服でもこちら側が身構えてしまう。
石段を登り山門に近付く、相当に古い山門だ。門脇の受付の男が、
「四百年程たっています」
「柱などかなり風化し、柱に虫が喰ったと思われる穴が沢山あるなあ」
と呟くと、
「私が神護寺に来て数十年経つが、その時と今でも、柱の状態は同じなので、まだこれから何十年経っても、今の状態と変わらないでしょう」
と感激しているのか、心配しているのか分からない私に云う。寺院の門と称される名称に山門、三門、楼門と三通りある。その他に南大門、東大門と方位の付いた門もあるが、其の違いが判然としない。今まではひと口に山門と呼んでしまっていた。
神護寺山門は、案内の栞によれば山門でなく楼門と書かれてある。どうやら楼閣風に中間に廻廊が廻された門は、楼門と呼ばれるようだ。何故に寺院の門が楼門でなければならぬのか。寺院は全ての民衆を受け入れ救済する空間の筈である。それは上賀茂神社の朱色の楼門でも感じた事であった。
一朝事が起きた戦事の際には、寺院が戦略的に重要な砦になるのを想定していたのであろう。それが形式化され、大寺院では楼閣風に建てられた。楼閣風に建てる事が寺院の品格、権威を表す事になったのではと考えられる。
機能主義的に考えれば、そう云う訳だろう。廻廊を廻らすには門の背が高くなければならぬ。従って上にのる屋根も大きく、軒出も深くなり、屋根を支える斗?(ときょう)木組も大きく複雑になる。構造的に意味のある木組がデザイン化され、今こうして見る者に深い感銘を与えるのである。
楼門の木部は素地仕上げされ、朱色には塗られていない。円柱の柔かな部分は風化し竪筋が浮き出、処々に割目が見られる。木部の表面は乾燥し切って、カラカラに乾いている。通常の建築用材の木材の含水率は十五%程である。要するに十五%は水分である訳だが、神護寺楼門の柱の含水率は限りなくゼロ%に近いのではと想われる程カラカラに乾いている。
更に円柱には虫が這入り込んだと想われる小穴が疎らに見られる。楼門が立ち上がってからの虫穴と想っていたが、受付の男の話によれば、四百年前に建設された時、と云うより、山林に自生していた時からの虫穴らしい。虫穴のない良好な用材を使えるだけの予算が無かったのではと話していた。
円柱の足元廻りには、どうしても雨水等が掛かり易く、濡れている事が多い。楼門の根元は、若干腐り掛け、あと数年もすれば改修せねばならないほどだ。軒出の斗?木組も遠眼であるが、風雪に耐えて来た様子が分かる。木の色と云うより、木に黒い染みがしみ込んだような斑な色で、見るだけであれば閑雅な佇であるのだが・・・。
神護寺山門いや楼門を潜るまで幾時間、経っただろうか。幾人の探索者が通り過ぎて行ったのか数えられない。
根が貧乏性のためか、素晴らしい空間に出会っても、ただ熟っとして眺める気にならぬ。絵を描きながらその素晴らしい光景を眼前にした方が、自然に空間に浸る事になり好都合だ。
風雪に耐えて来た円柱を掌で撫でながら、やっと楼門を潜る。其処は、楼門周辺の閑雅な佇とは一変して、砂利が敷詰められた徒広(だだっ)い広場である。広場の左手は深い林に包まれ、春とは云え明るい陽差しに慣れた眼には、林内は暗闇に見える。右方には陽光を浴び庫裡が立つ。邸内からは、土塀越しに緑葉が差し伸べられ、幾らか眼を和ませて呉れる。
古色蒼然とした楼門と、徒広いだけの広場。その落差は余りにもあり過ぎる。この空間の落差は神護寺の盛衰に由来するように想える。
平安京造営の造営太夫であった和気清磨公が<高雄山寺>を建て、八二四年河内の神願寺と高雄山寺が合併し、神護国祚真言寺(そしんごんじ)と称したのが神護寺の始まりである。
その後、平安時代に堂塔のほとんどを焼失した。境内奥の弘法大師住居跡として立つ大師堂が当時の堂宇としては唯一残るのみである。
鎌倉時代になり、豪僧文覚(もんがく)上人が後白河法皇の勅許のもと、源頼朝の援助により神護寺を再興した。
この頼朝の援助と云うあたりが曲者である。文覚上人は相当に政治的駆引きに長けた僧だったのだろう。文覚上人は京を抜け出し秘かに都の情勢を伊豆の頼朝に伝え、頼朝に平家追討の挙兵を促した。上人は鎌倉幕府創立の一方の功労者とも云える僧侶だ。今風に云えば、信望する人物を国政の頂点に立てるべく、深謀術策を(しんぼうじゅっさく)練り、画策して大願を果たす黒幕的存在であった。権力を掌握すると同時に、信望者は権力者から便宜を受け、国からの各種の補助金を獲得する事になる。
将に文覚上人は政治的バランスを利用して、頼朝から神護寺再興の資金を得たのでは・・・。ひとりの人間が、国を憂えて政治的活動をすると同時に、自らの悟りを開くべく宗教活動をするなどは考えられない。
一朝事ある時にはこの広場では、鎧甲冑姿の武者、軍馬で埋め尽くされ、僧兵、御家人の混成部隊が、一気に京に駆け上って行く予定だったに違いない。そう考えると、楼門があるのも納得できる。閑雅な佇と、人間の血腥い(ちなまぐさ)争いとは、表裏一体なのかも知れない。
平和な現代、軍馬の隊列は考えられない。以下の如く徒広い広場の設計私案を思い描いた。 砂利の敷詰められた広場、巾二メートルほどの石畳が五大堂の裏手まで伸び、石畳の両脇には山桜が疎らに列を為し、一直線に伸びる。途中不整形な形の池が広場の巾いっぱいに現れ、石畳は池に差し掛けられた石橋を渡る。処々、苔生した石燈籠が置かれる。
右手鐘楼へ登る石段へのアプローチは、斜めに石畳を伸ばし、その石畳には楓の枝葉を差し掛ける。楼門より真直に伸びた石畳は金堂への石段下で、大きくふくらんで南へ伸び、五大堂、毘沙門堂へと枝別れし、右方の大師堂に至る。そんな広場の構想を思い描きながら、春とは云え強い陽光を浴びて進む。
右手石段の頂に鐘楼が立つ。鐘楼の基壇部分は曲線を描き、袴の如く板が竪張りにされてある。鐘楼の形態ではよくある形である。石段両脇は新緑の若葉に包まれ、石段に溢れ出る。
石段の登り始めに、左前方に伸びる道があった。石碑に―和気公墓道―とある。林の中を通る幽暗な空間の先方に和気清麿墓があるのであろう。境内一巡の後、寄ることにする。
五大堂脇を歩き毘沙門堂との間を抜ける。毘沙門堂の柱根元は風化が進み、今直にでも修復を要するのではと危惧する。
堂の間を抜け、右手に眼を向けた。巾広でかなり高い石段の頂に神護寺金堂が静かな佇で立つ姿があった。神護寺の写真集を繙(ひもと)くと、今私が立つ位置からの写真をよく見かける。
この構図は是非とも描かねばならぬ。かなり高い石段であるため、金堂足元廻りの基壇部は石段に蹴(け)られて見えない。恰も石段に舞い降りて来たかの如く、ふわっと石段上に金堂は姿を現す。
石段巾はかなり広いが、両脇を包む新緑の若葉が乱舞し、その半分ほどの姿を現すだけである。黄色から青色に混合した若葉と古色豊かな石段、金堂とは正反対の印象だが、好く響き合う。近代的鮮かさを持つ若葉とレトロの金堂、その取り合わせに意外性を感じ、人を惹き付けるのである。
左手前には松の木が一本傾げて立ち上がり、金堂の遥か上方までにも伸び、藍青色をした空に濃緑の葉を鏤め(ちりば)ている。右手前には都市部では既に散ってしまった枝垂桜が満開で薄いピンクの花を咲かせていた。濃艶と禁欲、対極にあるものが、同時に其処にある。日常的光景であるのか、非日常的光景であるのか、それとも、ただ淡々としてあるがままの空間なのか。将にあるがままの空間なのではないかと想うのであった。
遠眼で金堂の細部は判然とせぬが、石段と甍の水平線が好く響き合い、軒出の斗?木組の朱色がくすんで見える。
石段の頂に立つ堂は何時見ても素晴らしい。素晴らしい石段があるから堂も素晴らしい姿を
現すのである。
描き上げ、石段に歩を進める。石段を登るに連れ、金堂下部は姿を消し、丁度石段中端で堂の下部は全く姿を消す。金堂の甍だけが天空に浮かぶ。その構図が何とも云えず好い。これから先に何んなに素晴らしい空間が待ち構えているのか、分かっていても期待に胸ふくらむのだった。その演出は心憎い許りだ。
石段を登りきって金堂前広場に立つ。眼前にある金堂を眼の当たりにし、今更ながらその巨大さに驚く。巾広の石段上に築かれた基壇もかなり高い。先刻描いた際には全く姿を現していなかった基壇であった。前庭広場左方に立ち上がる枝垂桜がピンク色の花を咲かせ、趣きのある風情である。
神護寺金堂は応仁の乱で兵火を受け、焼亡したが、昭和十年山口玄洞の寄進により再建された。これだけの規模で古式に則り(のっと)再建されたのには驚かされた。再建と云えば、現代では鉄筋コンクリートでされるのが普通である。山口玄洞なる人物の財力と共にその職人魂には感服する許りである。
金堂内部の木組柱、梁、斗?木組も外部と同じように、朱色に染められてある。昭和の大工技術も相当なものだと再認識した。
金堂には、国宝薬師如来立像が、両脇に日光、月光菩薩像、十二神将像、四天王像を従えて安置されてある。
薬師如来立像は桧の一木造で、平安時代・貞観期(じょうがんき)の作品である。唇には紅を差し、肉感的な如来像であることが、衣の襞を通しても窺える。
石段を降り―かわらけ投げ―で有名な地蔵院への道を進む。山道を降って、直に広く開けた明るい広場に出た。左手に売店があり、右手奥に陰気で目立たない小さな堂が立つ。地蔵院だ。広場の先は谷が深く切れ込み、緑葉の海が果てしなく拡がる。かわらけ投げとは何なのか、ひとりでいる男に訊ねた。
「ここから谷に向かって<かわらけ>を投げると、願い事が適うと云われて、子供の頃、親に連れられ、やっと此処まで来たと云って、必らず―かわらけ投げ―をしたものです」
「床に敷いてある瓦を砕いて投げるんですか」
「あの瓦じゃない。かわらけと云って、その売店で売っていますが、小さな白い素焼きの器です。それが遠くに美しく飛ぶと、願い事が適うらしいですよ」
「ここから投げると、下に人がいたら危ないですね」
私が危ないですねと云ったもので、男は拍子抜けしたような様子であった。
広場に来た道とは異なる、上の細道を金堂石段前広場に戻る。再び、徒広い広場に出、鐘楼横の道を折れ、和気清麿公墓への道を進む。途中、金堂でも会った背が高く余所余所しい印象の男と擦れ違い、互いに軽く頭を下げ挨拶を交わした。人が多い処では互いに無愛想だが、行き交う人も少ない処では、互いに相手を認め合うものである。
あとは、もう一組のグループと擦れ違った位で、和気公への道には殆ど探索者は入って来ない。道は幾らか登りであるが、全般的には平坦な林の中を通る道だ。
そろそろ墓も近い辺と思われる処で、道は緩くカーブして僅かに登る。カーブした前後数メートルの道に鮮かな萌黄色をした苔が生えていた。緑の柔かなジュータンが敷詰められてあるような光景だ。苔とは云え新緑の若芽で瑞々しい色合いである。
道の両脇に立ち上がる楓の新緑の若葉と同じ淡い萌黄色で、互いに好く調和する。道の処々に僅かに薄茶色の地肌を覗かせるが、一面に敷き詰められた緑の苔に溶け込んでいる。
道の片方は降り斜面、もう一方は登り斜面で、中腹に付けられた明るい山道である。此処だけに苔が生え、他では見当たらない。苔が生えるほど、常に湿気があるようにも思えない。
私が訪れた時は、春の盛りの五月初旬だったので特にカラッとしていたのかも知れない。山の斜面の内側に湾曲した道のため、当然、斜面に落ちた雨は、内側の谷に少しずつ集まる。それ故に常に地面が湿潤で、苔が自生しているのであろう。
道が弧を描いて伸びているため流動的な空間になり、一層、素晴らしく感じられるのかも知れない。振り返って描くが、緑一色の素晴らしさを表現するのは難しい。
描く間に四人組の若者が通り過ぎて行った、彼等は山の上方でワイワイ騒いでいたが、直に彼等は下山して来た。和気公墓は直近くらしい。
僅かに平坦になった中腹に、柵に囲まれ和気清麿墓は立つ。木立ちが繁る中に、燈籠と墓石が立つ。地面に木の根が這い、閑雅な佇だ。上部が自然に欠けたかのように見える墓石の周りには、僅か許りの岩がごろごろと転がっていて、一際その感を強く持つ。
神護寺を訪れる探索者でも、此処まで来る人は少ない。来る時に、五六人と擦れ違ったに過ぎない。帰り路でも、先刻の新緑の苔道に暫くの間、見蕩れたのであった。
和気公墓入口に戻り、鐘楼への石段の下方で、先刻描いた鐘楼の色付けを始めた。其処の光景が素晴らしいと思えば、私のようにスケッチをする人もいれば、光景を写真に撮る人もいる。スペイン人を連れた上品な老婦人が緩っくりと鐘楼への石段を登る姿があった。覚束無い足取りであるが、その姿と古風な鐘楼との取合わせに、如何にも刻が緩るやかに流れ、穏やかな空間を感ずる。
刻は正午を回り、徒広い広場は、陽の照り返しで暑く、春とは云え汗ばむ程だ。楼門を潜り、楼門下で見上げた。今更ながら、歴史を感じさせる軒出の斗?木組に、感慨深い想いになるのだった。
今日は、春の特別拝観日で、本坊の書院で国宝級の寺宝が展示されている。
樹木の緑葉で溢れた前庭を歩き玄関に進む。正面に石南花(しゃくなげ)の淡い朱色の花が紅一点と許り咲き乱れる。本坊も立派な建物かと思っていたが、それほど古くはなく期待はずれであった。
神護寺と云えば、源頼朝肖像掛幅で有名である。実物を鑑賞するのは始めてだ。書院の座敷二部屋にわたり、掛軸、書、屏風等の寺宝が展示されてある。
頼朝肖像画は気品のある顔立ちで、黒の式服に包まれた体からは高貴な香りが匂い立つ。文覚上人四十五箇条起請文も今に残り、国宝指定されている。
どうもこの手の寺宝には、価値ある寺宝なのだろうが、魂を奪い立たせる衝撃を感じない。
此処にも、アルバイト学生が補佐役でいた。素人っぽくて新鮮で好い。帰り掛けに門前の受付の学生に清滝への道を訊ねたが、分からない。折角、一時的かも知れぬが、神護寺に身を置くのだから、近辺の地理、歴史を少しだけでも勉強すれば面白いのでは・・・。
石段を下山する。登って来た時にはそれ程感じなかったが、石段を見下ろすと、こんなに急峻な参道を登って来たのかと驚く。年寄りでは神護寺参詣も、さぞ大変な事だろう。 けれども、新緑の若葉の葉擦れに差す陽が石段に落ち、処々、照り輝く様に、晴れ晴れとした気分になった。
暗い処では石は、此方から語り掛けない限り、熟と土に埋もれ何も語ろうとしないが、一度(ひとたび)、陽を受ければ、埋もれて中に詰まった不満、希望を一気に吐き出し、光の乱舞を繰り広げるのである。
輝く石に差し掛かる楓の若葉も光の戯れ(たわむ)を愉しむかのように、木立ちの間を駆け抜ける風に揺れていた。下山路は登山の時とは違った趣きがあった。
下山途中、石段が屈曲した見晴らしの好い処で、デイバッグを背負った初老の男に会う。右手には茶店があった。私は対岸の杉林が伐採された山腹を指差して、
「あの杉が伐採された処に咲くピンク色の花は何なんだろう」
と何気なく呟く、
「あれは躑躅(つつじ)じゃないでしょうか。バスの車窓からも処々見えましたよ。此処は好い眺めですね。私は昼すぎに栂尾高山寺を出て来ました。どちらを廻ったきましたか」
「ああ、あれは躑躅(つつじ)ですか、風に靡いて風情のある眺めですね。私は、絵を描きながら歩いているので、十時頃神護寺に着いたが、皆さんの半分も進みません」
対岸の杉、楓の緑葉とは異なる、白っぽい緑葉の木は何の木か訊ねたが、男も分からない。先刻も近在の人に訊ねたが誰も分からなかった。
多分?(ぶな)の一種の樹木と思うのだが。何処でだか、?の種の何とかと、書かれた立札を見た憶えがあった。
躑躅(つつじ)の群落が山一面にあるのでなく、処々にぽっんぽっん(・・・・・・)とあるのが自己主張がなく謙虚でよい。更に、躑躅、杉林、?林の中に、一本又一本と細い幹を伸ばし、桜花が棚引くのが遠望できる。閑寂な自然の佇の中で寂しげに見え気持が和む。
男と共に話しながら石段を降りる。男は大阪から来たと云う。栂尾高雄は紅葉より新緑の方が素晴らしいのではと、新緑の若葉の瑞々しい色合いに見蕩れていた。
話しながら歩くうちに、清滝川沿いの散策路に出た。神護寺への道を登り始めた時、小学生の一連隊が進んで行った清滝川沿いの道を進み、清滝から嵯峨野方面に抜ける事にする。
男と相前後して話しながら歩く。左手は清滝川の清流、対岸には楓の枝葉が差し掛かり、右手の山側にも新緑の若葉が道に差し伸べられ、変化のある素晴らしい景色だ。
川の流れが真直に伸びた光景より、左あるいは右に蛇行した流れの方が、若葉の姿が織り重なり景観に変化がでる。清流は流れに顔を出した岩石を現しては直に消え、そして再び現れ、その繰返しで流れゆく。流れの右岸を歩き、差し掛かる橋を渡って左岸を歩き、再び右岸に出る。その度に景観に変化が生まれるである。
日溜りに北山杉の絞丸太の林があった。その林は川沿いの道に続く山の斜面にある。狭い地域であるが様子が手に取るように分かり面白い。
ヒョロヒョロと伸びた弱々しい姿の杉の木には、地面から一.五メートルほどの高さから四五メートル位の高さまで、杉の木に白いプラスチックの細棒を数本番線で締め付けてある。
絞丸太の竪筋を付けるための細棒である。これを見るまでは、絞丸太の竪筋は、竹を番線などで締め付けてつくられるものと許り思っていた。
杉林には既に伐採を終えたであろう杉の切り株も見られる。面白い事に、番線で締め付けられた杉の木は、一本に付き五本ほどのロープで杉の木上部から他の杉の木の根元へ引っ張ってあった。
絞丸太用杉の木はヒョロヒョロとしているため強風に耐えられず、倒れてしまうので斯うしてある。杉の木は相当に密生して植林されているため、一本一本が自らの力では風に耐えられないのである。他処でも杉の植林帯を見たが、一平方メートルに二本程の杉の木が植えられ、林内は薄暗く、自然の力が感じられる林ではなかった。
その姿と云うか人工的生産装置を見るまでは、北山杉の絞丸太の杉林は、もっと自然に伸び伸び育っているのではと思っていた。杉林は管理(コントロール)された林であり、違った景観を期待してい
た私にとっては意外な印象であった。
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神護寺三門 | 清滝 |
他日、奈良明日香村の甘樫丘の(あまがしおか)麓の製材所でこの話をした時、製材所の主人は、
「絞丸太は細棒を番線で締め付けた部分だけ使うだけです。番線を巻くのは一人の職人が一日に六本位しか出来ない。それで絞丸太が一本五千円位にしか売れないんですよ。五千円は小売価格だから、生産地から出荷する値段は、もっと安い事になる。大変ですよ」
と云っていた。五千円には人件費、丸太代、流通費が含まれている訳だから、相当に安い価格になる訳だ。
栂尾から北山杉の里を歩いた時も土地の人が、
「絞丸太の値段は、高値の時を知っている職人は、阿呆らしくてやってられまへん」
と嘆いていた。
川端康成の小説―古都―にも出て来る北山杉の絞丸太作業所に時間が許せば、訪ねたいと思っていたが、刻は既に二時を回り、とても緩っくり見て歩く訳には行かない。
小説古都では苗子と八重子の離れ離れになった双子の姉妹が偶然、北山杉の里の絞丸太を磨く作業所で会ってからの人間模様が、美しい文体で表現されている。
景色の好い清滝川沿いを右方の山に入り、今度は清滝川支流沿いを進む。石がゴロゴロと道に剥き出した山道だ。
暫くして、川向こうに清滝の観光施設が新緑の若葉の葉擦れに垣間見えて来た。自然の中に長く浸っていると、何故か人工的な施設が見えて来るとほっとするのである。
自然環境に埋没したい気持と共に、人間の営みが見える環境に身を委せたい気持が交錯する。勝手な考えで、厳しい自然環境で生活せねばならぬ人達にとってみれば、甘い考えの都会人だと彼等の眼には映るであろう。
ほどなく橋の畔に出た。右方の山道に進めば愛宕山への参道だ。右前方へは旅館街への細道が伸びる。遠眼でも風情のありそうな家並が道に沿って続くのが分かる。
橋を渡り対岸に出たが、駐車場があるだけで、以前写真で見た風情のある佇の旅館は見当たらない。確か川沿いに風情のある旅館があった筈であるが・・・。
男と元の橋の畔に戻る。男はこれから渡月橋方面まで歩く予定だそうだ。別れ際に男は、
「又、何処かで会えるといいですね」
男は軽く手を上げ、細道の家並方面に消えて行った。
男と別れて、再び橋を渡り暫く橋上で佇む。思い付いたように橋の畔の川に降り、細道を進む。緑葉が瑞々しく現れた川沿いを下流に向かって歩き始めた。
朱色の可愛らしい橋が新緑の若葉に包まれ、清滝川に差し渡されている。橋の両端は緑葉に吸い込まれ、朱色の橋が若葉の海に浮かんでいるかのようだ。川床にある岩石、川べりに露出した岩石が柔らかな若葉と好く響き合う。朱色の橋を支えるアーチ形のコンクリートの桁が柔かな線を描く。背後には薄紫色の緑葉に包まれた山が控え、早春の趣きのある光景である。川では釣人の男が二人、流れから顔を覗かせた岩から釣糸を垂れていた。
川沿いの草の生えた道を朱色の橋に向かって歩く。先刻別れた男が橋を渡ってゆく小さな背姿が見えた。旅館街の家並の立ち並ぶ細道が朱色の橋に通じているらしい。
斜路を進み橋に出た。直に左方に向かって道路が登る。橋の畔に川べりに降りる石段があった。石段脇の石積みに老人が腰を下ろし、対岸の光景を愉しんでいた。私は男と同じ道を川沿いに渡月橋へ向かおうと石段を降り掛けた。
何気なく対岸に眼を向けた。川沿いの上部に旅館が二軒、横並びに崖上に立つ姿が眼に入った。黄色から青色に混じり合った新緑の若葉が背に控え、手前にも若葉が古い建物に被さる。川面から立ち上がり剥き出した岩、処々、水面から突き出た岩が、荒々しい印象だが、光景の好い点景だ。
右手の旅館は崖から迫り出し三層に亙って建てられてある。見たところ相当に古く、自然と一体に同化した素晴らしい光景である。
この景観が以前写真で見た光景だ。左方の小さな旅館は閉鎖され、右手は現在も営業中らしい。傍らに座っている老人が、
「不景気で旅館が閉鎖になってしまう。行楽客は旅館に行かないで、自分達でキャンプしたり、川原でバーベキューしたりで利用客が減って来た」
と私が描く背に言葉を投げ掛けて来た。話す内に空模様が怪しくなりだした。描き終わった頃、小母さんが石段を降りて行って、直に戻って来た。何気なく話すに、小母さんは右手の旅
館の女将らしく、
「私のところは営業しています・・・」
と寂しそうに話す。規模が大きな旅館ゆえに宿泊客も相当の人数がいないと大変だろう。私は絵を描いているだけだが東京に帰れば、我身の問題として難問が山積みされているので人事(ひとごと)とは思えない。見た目と実体はかなり違うのであろう。
其の内に雷がゴロゴロと雷鳴を轟かせる。まだ大丈夫と思い素早く色付けするが、雷鳴が一段と激しくなる。スケッチブックにポツンと雨が落ち、絵具を滲ませる。
これではとても渡月橋までは歩けない。早々にスケッチブックを片付け、バスで市内に向かおうと思ったが、バス停が何処にあるのか分からない。
訊ねる人もいない、うろうろする内に、橋の方から二人連れがやって来た。愛宕山からの下山客のようだ。道の上方にバス停があるらしい。一緒に坂道を歩いて行く。直に京阪バス停留所があった。タイミングよく京都行バスが待機中だ。
嵐山近辺で降りようと思い、停留所の案内員に訊ねた。
「京福嵐山駅レディースホテル前で降りるのがよい」
と親切に教えて呉れる。バスが発車して、直に愛宕念仏寺前を通る。余りの近さに、清滝は嵯峨野からこんなに近いのかと驚いた。
京福嵐山駅は道路から引っ込んである。駅舎屋根の破風に―レディースホテル―と書かれた大きな看板が掲げられてあった。女性だけしか泊まれないホテルだが、最初に考え出した人は、随分思い切った経営方針を打ち出したものだ。
折角嵯峨野まで来たのだからと、天竜寺参道を新緑の若葉を見ながら歩くことにした。石畳の参道は静かだ。参道に差し掛かる若葉が瑞々しく綺麗である。
天竜寺方丈前を左に折れ、紅葉の頃歩いた湯豆腐店がある閑静な道を進む。秋には、あれだけ鮮かな彩を現わしていた楓は、新緑の瑞々しい若葉を枝いっぱいに付けていた。
直に保津川べりに突き当たる。対岸の嵐山の新緑がいい。嵐山は、遠方から眺めるには紅葉より新緑の方が素晴らしい光景だ。遥か向こうには、渡月橋がマッチ棒のごとく薄く両岸に差し掛かる姿があった。
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