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1 比叡山・延暦寺 1 比叡山・延暦寺・スケッチギャラリーへ おすすめサイト
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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
一 比叡山・延暦寺
 
 朝早く豊津を発ち、三条京阪からバスで比叡山を眼指す。銀閣寺道を抜け北白川を過ぎた辺から、バスは山間の道を走り、比叡山山麓に入って行く。道の両脇には山が迫り、只管(ひたすら)、山間を縫って進む。途中北白川天然ラジウム温泉街では、道沿いに温泉宿が立ち並び、ほっと息を吐(つ)く風景が拡がる。
 登るに連れ見晴らしが好くなり、山頂近くでは、八重桜が淡いピンク色の花を咲かせていた。都会で見る花弁より透き通って見え、気のせいか、穢れが見れない。枝垂桜も今を盛りと小さな可愛らしい薄紅色の花を、大きく弧を描いて垂れ下がった枝に釦のように鏤めていた。
 八重桜も枝垂桜も都会で愛でるより、空気が清々しいためか、瑞々しい相である。
 右手には、薄い乳色のベールの向こうに琵琶湖が霞んで見える。バスが右方の眼下に拡がる谷間を見下ろす開けた処に差し掛かった時、一瞬間、遥か彼方に琵琶湖を見渡せたが、あっという間に、湖水の光景は背に流れ、再びバスは山間の道に入って行った。
 谷間の樹木が途切れた左方には、これ又乳色のベールの向こうに、京都市街が霞んでいた。もう少し鮮かに眺められたら何んなであろうか。かなり近くに感じられて見えるのだろうか。
 ベールをかけて見えるのも、京都が遠くに思え奥床しい趣きがある。乗ってから一時間半程で比叡山バスセンターに着いた。もう少し車窓の景色を愉しみたいと思い、何時までも乗っていたかったが、終点のため降りなければならない。
 
 修学院離宮先の赤山禅院辺から登山道を歩いて比叡山に登り、山中の宿坊で一晩世話になって、比叡山の谷間に拡がる東塔、西塔、横川の各堂宇を心行くまで味わいたかった。帰りは琵琶湖側の坂本に降り、湖北の寂びた寺々を廻り、穏やかな風景に接し、近江長浜まで歩いてみたらどうであろうなどと、他愛もない事を昨年、赤山禅院近くに住む守本氏と話していた。その折、守本氏は、
 「それはい々計画かも知れんですわ、坂本から湖北まで歩かれますか、行けん事はないが、相当ありますよ」
 と呆れた表情で話していたのを思い出した。私の印象では坂本から湖北までは、驚く程の距離があるとは感じていなかった。単純に琵琶湖の湖水縁を一体的に連なる地域として捉えていただけであった。水上勉などは京都相国寺から歩いて若狭に帰ったではないか・・・。
 そうは云っても結局、安易に比叡山山頂までバスで来てしまったのである。
 まずは根本中堂へと進む。バスセンターにある売店の中を通り抜けて行った。不思議な事に、この先山門までの印象が欠落し、何んなアプローチだったのか、比叡山延暦寺山門は何んな光景だったのか全く記憶に残っていないのである。他事に気をとられていたためか。それとも根本中堂が想いの前面に浮き出、山門は眼に入らなかったのか・・・。
 受付を済ませ山内に足を踏み入れた。左手、比叡山国宝殿では、寺宝展が開催中である。鑑賞するとすれば、相当に時間がかかりそうだ。けれども入館する人もそう多くはなさそうなので、仏像をスケッチするには、丁度いい機会ではと思った。
 館内には歴代天台座主の坐像、書画が数多く展示されてある。仏像を全て描く訳には行かない。なるたけ立体感があり流動的彫刻を選びスケッチを始めた。慈恵大師坐像は筋骨隆々とし、眼玉をぐっと見開き、人の心を鋭く洞察する意志の強い表情をしていた。坐像と云えば、薄目を開けた穏やかな像が多い中で、慈恵大師坐像は、人間臭さが現れていていゝ。
 護法童子像は抹香臭くなく、口元をきりっと引き締め世間を斜(しゃ)に構えて眺め、その眼付は強い権力に圧(お)し潰(つぶ)されているかのように見える。
 火焔を背負った不動明王像は眼を吊り上げ不正を許さぬ表情を逞しい体に現した姿である。描く間、私はデイバッグを背負っていたため、何枚か描くうちに、肩に荷物が喰い込んで来た。国宝殿を半周した辺で館内の隅にデイバッグを置き、再び描き始めた。仏像も町の風景と同じで、思い付くまま自然に筆を運んだ方が気楽で、思ったように描けるような気がする。色付けは夜、娘のアパートでする予定だ。
 
 館内には長い時間、鑑賞者は私のみで、帰り掛けに中年の夫婦が来ただけである。確かに山内には見る堂宇が多く散在するため、のんびりと国宝殿で仏像を鑑賞する時間は持てないのであろう。お蔭で私は緩っくり、延暦寺の秘宝を鑑賞できた。
 別室に中国人画家の山水画が数多く壁に掛けられてあった。上手に描けているのだが、墨を多く塗り過ぎているきらいがあった。もう少し簡略化して描いた方が、山水画のよさが表現されるのでは・・・。どうしても多く描き過ぎてしまうのは誰しも同じ傾向だ。けれども画中の人物の表現は流石と思わせる程上手だった。
 国宝殿前の坂道を登り詰め、木立ちに囲まれた平坦な処に、朱色に塗られた大きな堂宇が立つ。立札には―大講堂―と記されている。東塔と西塔との分岐点のようで、右方に折れて伸びる道がある。道の角に立つ立札に―右・阿弥陀堂―とあった。左右どちらに進もうか一瞬間迷ってしまった。
 阿弥陀堂は、後で訪ねようと思った横川方面のため、後で廻る事にして、まずは大講堂前の広場に出ることにした。
 大講堂は、法華経の講義をしたりする学問修行の場であり、堂内には比叡山延暦寺で修行し各宗派の宗祖となった法然、親鸞、栄西、道元、日蓮などの像が安置されてある。
 
 東塔でも、これから訪ねる西塔、横川でも参道の両脇に各宗派の宗祖の人間模様が、大きな板に物語風に描かれ掲げられてあった。延暦寺は天台宗であり、古くから幾多の学僧が修行に励んで来た。学僧のある者は新たに一派を打ち立て宗祖となったのである。
 骨肉相食(こつにくあいは)むが如く、宗門を離れた者を徹底的に抑えつけるとまでは行かなくとも、宗門を離れた者を無視して相手にしない態度をされてもおかしくない筈であるが、延暦寺山内では其の様な気配は全くなく、逆に他の宗門をも受け入れる深い度量を感じるのである。
 その深い度量には、親が子の成長を黙って見詰めている姿を感ずる。子の何人かはその道では仏道を極めているかのように見える。その内の数派は、親の恩を忘れ自分一人で成長したかのような態度で、一世を風靡している。
 それでも各宗祖の像が安置されてある。比叡山の懐の深さを、それらを前にして垣間見た思いだ。
 大講堂脇の石段を降り茶店の前に出た。対面に巾広く傾斜の急な石段があり、下方に根本中堂の前庭広場が見えた。石段と云っても両脇が石段となるのみで、中央部は斜路になっている。
 広場に面して立つ根本中堂は、林立して立ち上がる杉の巨樹に囲まれる。巨樹の枝葉の間に、根本中堂の大屋根、それを囲む廻廊の緑青をふいた銅板屋根が垣間見えた。
 廻廊の中央部に唐破風屋根を付けた中堂への小さな入口が穿ってある。入口脇には、広場にぽつんとお札を売る小屋がひとつ立つのみである。
 石段の途中でスケッチを始めたが、堂宇が余りに巨大で、スケッチブックが小さ過ぎ描くのが難しい。根本中堂全体を画面に入れようとしても無理がある。此んな時には、部分で描き画面から食(は)み出る位にして描いた方が迫力のある絵になる。分かってはいるのだがそれがなかなか難しい。
 石段を降り広場に出た。右手にかなり高い急な石段が眼に入る。丁度根本中堂の東西の軸線上にある位置だ。石段の頂に堂が立つ。相当に下方から見上げる恰好なので、堂の軒下の斗?木組がよく現れて聳り立って見え、壮観な眺めだ。絶好の構図で、外国人探索者も記念撮影に余念がない。頂に立つ堂は、比叡山総門の文殊楼である。
 唐破風屋根をのせた受付で靴を脱ぎ、左手から廻廊伝いに中堂に導かれる。門前で根本中堂を正面に拝したが、眼前に立ち塞がる中堂の大屋根に圧倒的な迫力を感ずるのであった。
 遠眼でも其の巨大さの印象はあったが、杉の巨樹に囲まれた自然と対比して眺めていたためか、巨大であると云う事実だけで、真に迫った実感はなかった。自然の一部として根本中堂を捉えていたからかも知れない。
 其れが眼前に姿が現れた時には、確かに人間の造り上げた巨大な堂であることが眼を通し、体で受け止められる。人間の英知を結集した堂であることは姿を眼前にすれば分かる。
 
 建物は人間の眼線で、適度な間隔を保って接すれば、印象深く見られるのである。創建当初は鮮かな朱色に塗られていたであろうが、眼前にある根本中堂の木組に塗られた朱色は剥(は)げ掛かっている。薄い朱色と斑な白そして木部の素地が現れた薄茶色が混じり合った色合いに、風雪を潜り抜けて来た印象を受ける。
 堂前の中庭を囲む廻廊を進んだ。眼は風雪を経て立つ根本中堂に向けられる。歩く位置により堂の姿は刻々と変化し流れる。廻廊端部で、中堂の軒端を真上に見上げる位置になった。
 深い軒出を支える斗?木組には閑寂な趣きを感ずる。この様な構図は一気に描くに限る。丁寧に描こうとすると時間はかるし、意外と印象と違って描けてしまう場合が多い。受けた印象を細部に拘泥(こうでい)せずに筆が走るまに描く。
 
 何時でも、日本建築の深い軒出を支える斗?木組の木構造には、悠久な時の流れを感じるのである。其の斗?木組は構造力学上も理に適った木構造である。更に構造を美に昇華させた棟梁そして木組を刻み上げた匠達の技術には、ただただ感銘する許りである。
 中庭を囲んだ廻廊の正面に本堂を配置した寺院は、私の知る限りでは延暦寺根本中堂だけである。法隆寺のように、金堂や五重塔などの堂塔を廻廊で囲み、寺域の中枢神域を現す例はある。天台宗の根本中堂であるが故の手法なのか・・・。
 外陣の中央でお札を売る作務衣の僧侶がいた。拝観者に宗教について色々と説明している声が、聴くともなく耳に入る。ひと組目の団体が去り、ふた組目の数十人の団体客を外陣に座らせ、僧侶は、ひと組目の拝観者と全く同じ内容の事を説明していた。説明の流れも語尾も全く同じだ。ひと組目の際には、独自の内容を考え説明しているのかと思ったが・・・。延暦寺の歴史について客観的に述べればいものを、説教じみた説明には少々辟易(へきえき)するほどであった。
 
 根本中堂は、東塔の本堂としてだけでなく西塔、横川を含めた比叡山延暦寺全山の本堂でもある。最澄が創建した一乗止観院(いちじょうしかんいん)(比叡山寺)がその始まりである。世に名高い叡山焼討ち、織田信長と比叡山は敵対していた。その結果信長により比叡山は焼打ちに合い、全山焼亡してしまったが、寛永年間に徳川家光により再建されたのが、現在の根本中堂の姿である。
 堂内に足を踏み入れた。其の荘厳な空間を眼前にし、思わず茫然と佇む許りで、賛嘆の言葉も出ない。円柱は漆が塗られているのだろうか、暗紅色に黒光りし金属のような肌理(きめ)である。
 円柱は高さ一メートルの処で、巾十センチメートル位の鉄環で締め付けられ、打ち付けられた大きな釘頭と共に錆びた色が鈍(にぶ)い光を放つ。その錆び具合が長い歴史を感じさせ趣きがある。
 柱と柱の間に吊られた観音開きの框戸の大きいのにも驚かされた。扉を吊るす丁番の肉厚は分厚くて大きい。丁番も又、錆びが厚く盛り上がり、却(かえ)って重厚な印象を受けるのである。堂内部を数枚描く。堂内は撮影禁止であるが、スケッチは禁止されている訳ではない。
 根本中堂内陣では他寺の本堂では見られない手法が使われていた。外陣から中陣への円柱と円柱の間には重厚な敷居が小さな段板のように据えられ、敷居を跨ぐようにして中陣に足を進めることになる。円柱の根元を固める構造的意味もあるのだろうが、それは敷居と云うより床上に架けられた梁のようであり、材料の使い方が豪快だ。ちまちました小径木を上手に組み合わせる設計に慣れた我身にとって、其れは朗らかで図太く、どんな圧力にも屈服しない強い精神力さえも感ずるのである。
 中陣に立ち並ぶ円柱の間に手摺が据えられ、内陣と空間的に分離される。当然床面には、先刻のような重厚な敷居が据えられてある。
 其処から先が内陣である。幽かな風で揺らめく不滅の法灯のみで照らされた内陣は眼を凝らし、暫くの間見詰めねば物の姿が判然としない。内陣の中央厨子には本尊薬師如来像が安置され、中央厨子の両脇にも厨子が置かれてあった。
 厨子には細かく彫刻が施され、微光漂う幽暗で、終わりのない吸い込まれそうな空間に、宗教心のない私でも神妙にならざるを得ない。
 内陣床は中陣床より一.五メートル下がり、床には敷瓦が一面に敷詰められている。床は底なし沼の如く暗く、幽暗な空間に溶け込む。恐ろしい魔物に取り憑(ツ)かれ、早くこの場を去らなければ、二度と俗界に戻れないのでは・・・。
 中陣と内陣の境を分ける手摺の下方に、敷居に沿い、横に長く板が伸びていた。暗くて、手摺に身を乗り出して見なければ気付かない。
 注意して見ると、長く伸びた板上に等間隔に座蒲団が置かれ、その前に経机が置かれてあるのが分かる。成程、僧侶は此処に座り、朝晩の勤行を勤め、千数百年、不滅の法灯を受け継いで来たのか、と異例尽くめの手法に伝統の重さを想うのであった。
 後日資料を読んだところ、内陣床が低くしてあるのは、仏像や法灯が座った参拝者の目の高さと同じにするためで、仏も人もひとつであると云う仏教の―仏凡一如(ぶつぼんいちにょ)―の考えを表していると云う。後で参拝した西塔の釈迦堂でも同じ手法が見られた。
 根本中堂裏手の小丘を散策し、先刻の急な石段頂にある文殊楼に出た。反対側の石段下に宿坊らしき施設があり、その前庭に修学旅行生の中学生が大勢いた。其の内に彼等はぞろぞろと石段を登って来た。
 私はまさか、文殊楼内部の拝観は、できないものと思っていたが、中学生の団体は先生の引率の下(もと)に次から次へと文殊楼の内部に消えて行った。楼内からは中学生がキャッキャッと騒ぐ声が洩れて来る。
 中学生が去るのを脇の丘頂で昼食を摂りながら待つ。丘頂は根本中堂を眼下に眺められる見晴らしの好い処だ。
 中学生が去ったのを見計らい文殊楼の正面に出た。文殊楼は延暦寺の総門として立つのであるが、現実には文殊楼側からアプローチできる参拝者は、先刻のように宿坊に宿泊する修学旅行生だけなのではと思われる。
 文殊楼と根本中堂は、急な石段を挟み、真直に同じ軸線上にある。形式的な楼門なのだろうか。楼門入口に据えられた、緑のカーペットが敷かれた緩いスロープに導かれ内部に入る。
 入った処に急な梯子状の階段が掛けられてあった。かなり急傾斜のため、少し横向き加減にして登らなければ、足を踏み外しそうになる。これでは中学生が騒ぐのも無理はない。
 楼門上部の中央正面に柵で囲まれ、文殊菩薩像が根本中堂を背にして安置されてある。内部は簡素な造りで、白木の儘である。天井は極端に低く二メートル程しかなく、外部には廻廊が廻らされてある。
 楼門の内部には始めて登ったのであるが、将か楼門の上部に、こう云ったものが安置されてあるとは思ってもいなかった。大徳寺三門金毛閣の内部もこんな具合なのだろうか。千利休は文殊菩薩でなく、雪踏を履いた自からの立像を置いてしまったのである。三門を潜る参詣者の頭を常に抑え付けている事になる。秀吉でなくとも、常識人であればこれは少々、行き過ぎた行動ではと思うに違いない。文殊楼の文殊菩薩像を見、そう思った。
 軸線上の石段の遥か向こうに、杉の巨樹の樹幹を額縁に、根本中堂が見渡せる。根本中堂は比叡山中腹の窪地に林立する巨樹の枝葉に包まれ、大地にへばり付くようにある。春の陽差しを受けて輝く姿は、千数百年の歳月を経て立つには違いないが、自然の一部として巨樹の枝葉に溶け込んでいる。
 此処では、比叡山を包む杉の巨樹が堂宇を引き立て、堂宇と好く響き合う。巨樹に包まれていなければ殺風景な光景になっていたかも知れない。
 急な石段を降り中腹で振り返った。文殊楼の斗?木(ときょう)組を現した軒端が深く跳ね出し、軽やかに翼を広げ飛翔する鶴の姿の如く浮き立っているのである。石段に蹴られて文殊楼下部構造が見えないだけに、その印象を強く持つ。その飛翔する姿は雄大で優雅である。石段両脇から差し掛かる杉の巨樹の枝葉の葉擦れに、垣間見られる抜けるように透き通った藍青色の空に、今将に飛び立とうとしている。
 文殊楼は延暦寺の総門である。根本中堂への参詣者のアプローチの仕方が面白い。宿坊のある処から急な石段を登り、まず文殊楼に至り、其処から眼下に杉の巨樹に埋もれて立つ根本中堂を見渡し、急な石段を一気に降り、根本中堂に至る手法である。地形を巧に利用し、文殊楼のレベルで結界を築いている訳である。
 規模は小さいが、法然院山門に見られる結界の築き方に似た手法だ。自然の地形を巧に利用した結界構築法は、空間に流動性を与え、無意識のうちに、参詣者に宗教的気分の高揚を持たらしていると云える。
 
延暦寺 不動明王像 延暦寺 文殊楼 
 
 
 大講堂を右方に見、阿弥陀堂への道を進む。巨樹の枝葉で蔽われた道を行く人は少なく、静寂な道だ。直に石段で上がった処に戒壇院が立つ。訪れる人も殆どなく、巨樹の向こうに静かに佇む。
 阿弥陀堂の標識に誘われ木立ちの差し掛かる中を進む。右方に広々とした石段が穏やかに伸びる。石段の頂の奥に、軒端を水平に伸ばし、両脇に軽やかな反りを持った流麗な堂が姿を現す。石段に蹴られ、緑青色の銅版屋根だけが覗く。石段の頂と堂の軒端が描く水平線とは紙の厚さほどの隙間を保つのみで、銅板で葺かれた屋根が、地上にふわっと浮いて立っているのではと一瞬間、錯覚を憶えた。
 石段を上るに連れ、徐々に堂の足元廻りが現れてきたが、堂全体が眼に入るより、石段に蹴られ、下方が隠された姿の方が、未知のものを期待させ、奥床しくてよかった。
 両脇から若葉が差し掛かる石段を上る。正面に朱色に塗られた新しい普請の堂が立つ。阿弥陀堂だ。東塔も隣接して立つ。昭和十二年に篤志家(とくしか)の寄進により再建された堂塔である。
 阿弥陀堂前庭に咲く枝垂桜が瑞々しく、空間のよい点景となっている。この阿弥陀堂の一角は新しいためか、それ程の感慨はない。
 杉の巨樹が林立する道を西塔へと進む。林の中に埋もれるように幾つかの小さな堂を過ぎ、閑雅な石段が降る参道に出た。広々と開けた石段は先方に進むに従い巾狭くなる。降りの石段で更に先方が細くなっているので、遠近法が強調され、実体より高低差があるような錯覚を憶える。草深い山奥に突然現れた光景に、思わず息を呑み、
 「これは素晴らしい空間だ」
 と独語を吐いた。石段の両脇には石燈籠が等間隔で立つ。左手は一メートルほどの高さに石垣が積まれ、緑葉に蔽われたなだらかな斜面に連なる。処々に杉の巨樹が林立し、林内は乾いた幽暗さを感じさせる空間だ。
 石段の端には水路が切られ、草に包まれた斜面が降る。上方では、巨樹の若葉が陽を浴びて輝き、枝葉の間から藍青色をした空が覗く。深閑とした静寂の空間に乾いた印象を想うのは、この輝きがあるせいだろう。
 先方の石段は緩く右方に弧を描き、深閑とした林に溶け込んでゆく。其処には僅かに陽が差し、先方に開けた空間があるのを暗示するのである。石段は整然と並べられてはいない。自然の儘に敷かれてあり、その幾つかは大理石の白のように、透き通るような白で、数多くの参詣者が歩いたためか、円みを帯びており、永い歴史を経て来ている印象だ。
 無理なく自然の儘に構築され、石段を取り巻く要素である石燈籠や石垣が自然の一部分としてあり、全ての要素が自然に同化した空間だ。
 
 スケッチを終え、石段をひとり静かに降りた。石段下方から比叡山参詣の親王殿下の駕籠が登って来るのではないかと、錯覚に陥りそうになる程、人気(ひとけ)がなく静寂に包まれた空間であった。
 石段は途中から、土と石混じりの参道になる。道は左方にカーブして降る。突然正面に明るく開けた空間が展開する。正面眼下に色取どりの若葉に包まれた御堂が現れた。予期しない光景であった。何処からともなく舞い降りて眼前で翼を休め、参詣する者を待ち受けるかのように、築地塀が横に長く伸び、正面の中門が開かれているのであった。
 築地塀の向こうに、庭を挟み本堂が静かに緑葉に包まれて佇む。石段の下方には、塀との間にベージュ色をした砂混じりの土の巾広な道が左右に伸びていた。左方から三人連れ立ったグループが現れ此方に向かって石段を登ってくる。私が描いている脇を通り過ぎ、彼等はあの閑寂な石段を登って行った。
 土手からは巨樹が斜めに立ち上がり、静寂な空間の中にも荒々しい印象を受けた。
 比叡山で御堂に出会う時には、斯様に眼下に見渡すか、文殊楼の如く、見上げるかのどちらかである。其れが空間に変化があって驚きがあり、意外性があって印象に強く残る。
 石段を降り立札を見る―浄土院―とあった。脇門より境内に入る。廻廊で囲まれた中庭の砂には禅寺風に砂紋が描かれ、庭に面して本堂が立つが、本堂の障子は締められて中は覗けない。庫裡が静かに佇み、一般の探索者が足を踏み入れるのは許されない空気だ。
 浄土院でも緩っくりしたかったが、これから横川まで進み最終のシャトルバスに乗らねばならないため、庭内を一廻りするに止(とど)める。
 脇門を出たところの、塀際で、大工二人と、橙色の袈裟姿の若い住職さんが、塀の普請の打合せをしている最中である。板塀の瓦屋根を支える持出し桁の普請らしく、大工が指矩(さしがね)で寸法を測り、白紙の紙に指矩で実測図を描いていた。
 私も専門分野ゆえに、どう直すのか、少しの間見ていたが、氏素姓の分からぬ者が口を挟んでは、胡散臭(うさんくさ)がれるだけだろうと思い直に先に進んだ。間々このような時に、知識をひけらかす者もいるが、当事者にとっては、責任のない者の助言などは有り難迷惑だ。
 
 この辺は既に比叡山延暦寺の西塔伽藍である。杉の巨樹が鬱蒼と林立する中に朱色の二対の堂があった。右手が法華堂、左手が常行堂で、朱色の渡り廊下で両堂は連結される。渡り廊下は吹晒しで、下部は通り抜けられ釈迦堂への参道となる。
 二つの同じ形をした堂が連結された空間は緊張感を持ち意外性があってい。渡り廊下を天秤棒にして、力持ちの弁慶が両堂を担いだと云う伝説から―弁慶のにない堂―とも呼ばれる。
 此処でも、立ち上がる杉の巨樹がにない堂を引き立て、長い歴史の上に幽暗な空間を創り上げていた。
 ゲートのようなにない堂の渡り廊下を潜ると、石段が降り、正面に緑葉に包まれ、釈迦堂が立つのが見渡せる。緑青をふいた銅板葺の大屋根が、これから参詣する者をしっかりと受け留める。手前には前面広場が開け雄大な光景である。此処でも巨樹の林立する林に囲まれ、堂が立つ。
 西塔境内は東塔のそれに比べ、探索者はぐっと少なくなる。森閑とした比叡山を味わう向きには西塔の方が適当かも知れない。
 釈迦堂は根本中堂と似た造りである。外陣に対し内陣は一段下がって築かれていた。根本中堂では内陣の床は敷瓦であったが釈迦堂のそれは土間であった。床の仕上げとして、敷瓦を敷き詰める場合と、土間にするのとでは、予算が違うのである。
 左手小丘の頂、石段に導かれて進んだ処に鐘楼が立つ。釈迦堂から樹幹越しに見えるその姿に閑雅な佇を感ずる。少々疲れを感じ始め遠望するに止める。比叡山を緩っくり探索するには、山頂の宿坊か、琵琶湖側の坂本あたりで泊まらねばならない。日帰りで、あれもこれもと、欲ばって見るのは矢張り無理がある。
 釈迦堂脇の道を進み横川を眼指す。此処から横川まで歩く人は更に少ない。東塔の雑踏が嘘のようで、山は深閑と静まり返っている。時折、横川方面から歩いて来る探索者がいるが、私は一人でもくもくと歩く。今から数十年前にこの横川への山道でひとり旅の女子大生が殺害された事件があった。印象に残った事件であったのでよく覚えている。都会と自然が表裏一体となった空間の側面を比叡山は持つため、女性のひとり歩きは危険であろう。こんな山奥で襲われた女性はどんなにか恐ろしい気持だったことだろうか、などと考えながら山道を只管歩く。
 山道は尾根伝いに付けられているため、それ程起伏はない。それだけに簡単に考えて登ってしまうのだろう。
 途々、法然上人ゆかりの黒谷清龍寺への道標があったが、寄り道せずに先に進む。中間地点に左右の林が途切れて見晴らしの好い処があった。其処には玉体杉と呼ばれる古木が岩と岩の間に立つ。
 山道脇に立つ玉体杉からは、遥か彼方に京都方面が薄紫色に霞み、反対側には、琵琶湖が乳色のベールの向こうにぼんやりと拡がり、対岸の長浜の町だろうか、建物が乳色の空に溶け込んでいた。
 
 比叡山ドライブウエイに沿って山道は伸びる。この辺でも猿が出没するらしく―野猿に注意―の立札が木に打ち付けられてある。其処で横川に向かう老夫婦に会った。横川に向かう探索者に会ったのは始めてだ。シャトルバスで行けば東塔伽藍から十分足らずで横川に行けるため、バス便を使う人が多いのだろう。
 横川発の最終のシャトルバスに乗らねばならないと思いつ山道を歩く。横川まであと何分で着けるかなどと考えると落着かなく、随分長い時間、歩いたような気になった。
 なにはともあれ横川バス停に着いた。最終バス便は四時二十分、あと四十分ある。横川堂塔を駆け足で探索しよう。
 バス停のある駐車場より、広い降り坂を横川堂塔に向かった。道の左方には、日蓮上人の生い立ちを描いた絵が幾枚か立て掛けられてある。子供騙しで稚拙(ちせつ)な絵だが、生い立ちが絵に表現され、分かり易い。
 左方に荒れた池を見ながら進む。右手高処に朱色の鮮かな舞台造りの横川中堂が現れた。横川中堂は写真で見識ってはいた。低い位置にある参道から見上げられる井桁に組まれた鮮かな朱色に塗られた柱、梁が印象的だった。脇に付けられた石段で中堂の前庭に出た。
 横川中堂は木造と思って見ていたが、どうも肌理が固い印象を受ける。朱色の塗りも固い質感が感じられる。実は横川中堂は鉄筋コンクリートで再建された堂だったのである。
 一見しただけでは、それとは判別がつかないが、円柱の肌理を注意して見ると、固い肌理であることが分かる。掌で撫でても固い感触であり、手の甲で叩いてみると、木の柔らかさはなく、固く詰まった響きがする。
 横川中堂の内陣も東塔の根本中堂と同じ手法で造られ、内陣の床は外陣より下げられてある。
 前庭の奥方に鬱蒼とした木立ちに包まれ道が伸びる。樹々の枝葉が差し掛かる道を、ひとり気の向く儘進んで行った。林の奥に小堂が立つ。時代に取り残されたような佇である。それだけに幽暗な宗教的な雰囲気がある。横川は延暦寺三塔の中で、最も静かで往時の面影を遺している印象を受けた。
 横川は最澄の弟子慈覚大師円仁によって開かれ、源信、親鸞、日蓮、道元などの名僧が修行した地でもある。
 幽暗な道を降った処に元三(がんさん)大師堂がある。元三慈恵大師の住居跡で元三大師を本尊としている。横川のお大師さんとして親しまれ、おみくじの元祖だそうだ。門前から中庭越しに本堂を描いた。横川では最も印象に残る寺であった。
 此処から一気に下山する。左手に朱色の横川中堂を見、坂道を登って行った。今日一日歩き詰めで疲れを感じた。
 出発五分前に着いたバス停には、既に五人、探索者がシャトルバスの出発を待っていた。
 駆け足で比叡山を探索してしまった。出来れば山内で泊まり、琵琶湖側の坂本に降り湖西から湖北に出、鄙びた寺を廻り湖北に遺る幾つかの十一面観音像を拝して見たかった。 
1 比叡山・延暦寺・スケッチギャラリーへつづく
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