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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
二 曼殊院・詩仙堂
 
 バスが一乗寺下り松町に差し掛かった時、車窓から見えた道路標識―曼殊院道―に惹かれ急いで降りた。曼殊院へは次の停留所一乗寺清水町の方が近い筈であった。こで降りて、曼殊院道を歩き曼殊院に至るのも趣きがあっていのでは、と思ったのである。
 曼殊院道の坂道を上がる。道は三差路に突き当たった。角に立つ風情ある石碑には、真直に進めば詩仙堂、左斜めは雲母(きらら)坂と刻まれてあった。曼殊院へは雲母坂方面に折れて行かねばならない。雲母坂なる風流な名に惹かれ、足は雲母坂へと当然の如く向いて行った
 雲母坂を真直に進めば、赤山禅院への道に突き当たり、比叡山への登山口に至る。雲母坂は巾六メートル程の道路で結構自動車が行き交う道である。比叡山西麓を道は緩い勾配で登って行く。
 雲母坂に面しリニアーに風情のある旧家が連なる街並を期待していたが、歴史的風景は点として僅かに残るのみである。春とは云え、陽光がアスファルト道路に照り返し汗ばむ程だ。
 左方に陽を受け一際、趣きのある店が現れた。奥方が店の入口で、手前に瀟洒な(しょうしゃ)門があり、開かれた扉から庭石が据えられた中庭が見え、塀内から立ち上がる若葉が瑞々しく陽光を浴び、煌めいていた。
 店前に修学旅行の中学生数人がタクシーで乗り付け、店内に消えて行った。名の通った店なのであろう。最近の修学旅行生は優雅だ。以前にも数回、修学旅行生がタクシーで名所旧跡を廻っているのに会ったことがある。その方が時間が有効に使えてよいのかも知れない。
 先生に引率されて行列を為しゾロゾロ歩くのではなく、四五人のグループで行動する修学旅行生を京都では、多く見掛ける。我々の中学生の頃より遥かに自立心があるように思える。
 
 私などは、中学生の時はおろか高校時代でも、高校に自転車で通学していたため、滅多に電車に乗る機会はなかった。たまに高田馬場の大学本部に出かける際など、新宿での乗り替え方がよく分からず、不安な気持だった憶えがある。
 焼いた杉板を家の外壁に竪張りに打ちつけた家が処々に見られる。杉板が黒く現れ、樹木の萌黄色や瓦の銀鼠色とよく響き合う。木を焼いて表面を僅かに炭化させてあり、炭化することにより腐食し難くなるのである。
 丸太を地面に打ち込み柵などを造る場合でも、丸太を焼き焦げ目を付けて打ち込む。特に土中に入る部分はそうすることにより長期間、腐食させずに済むのである。
 外壁に張った焼杉板は物理的に、そうしているのだが、斑に黒くなった杉板は風情があり、自然とよく調和している。      
 雲母坂沿いの坂道に面し、ぽつんぽつんと其の様な風情のある家が立つ。道は緩い登り坂で右にカーブする。細道と交差した左方に、閑雅な佇の崩土塀が連なる一角があった。
 崩土塀の背は低く、頂には瓦がのせられ、以前には連なっていたと思われるが、一部分崩れた儘で土塀の連なりは途切れていた。塀内からは新緑の瑞々しい若葉が覗き、其の内の幾本かは細い道に差し掛かっている。道は降って土塀に溶け込み、遥か彼方に薄紫色に霞む嵯峨野の山に吸い込まれて行く。
 何気ない当たり前の風景だが、道空間に心地好い趣きを現している。手前の隅でスケッチを始めたが、此んな細道でも意外と交通量が多い。描いている間、車の運転手には迷惑だったが徐行してもらった。
 雲母坂の角で近所の主婦が井戸端会議中であった。此んな処を描いている物好きな男がいる、と云ったような様子で私の方をチラッとみていた。毎日見慣れてしまうと、其の風景が当たり前に感じられ、不思議な事に好さを見過ごしてしまいがちになる。
 井戸端会議中の主婦を横目に坂を登る。登るに連れ家も疎(まば)らになり、庭から差し伸べられる枝葉に穏やかな風情を感ずる。道は少しずつ山深く分け入って行く。
 道の両脇に躑躅が鮮かな彩を現し一列に長く連なる。薄紅色の列は先方にある石段まで続く。躑躅の列の奥には、道に沿って楓が立ち上がり石段に差し掛かる。楓の萌黄色の若葉が道を包み込み、清々(すがすが)しい印象を受ける一方、艶な華やかさを感じた。この道は曼殊院の参道である。
 左手参道より下がった処に池があり、その向こうに茶店が店を拡げている。何処かで似た風景を歩いた憶えがある。大原の三千院だ。どちらが曼殊院で三千院はどちらだったか一瞬間、眩暈を憶えた。
 薄紅色の列の突き当たりの土手の上には立派な築地塀が横に長く伸びていた。築地塀の中央に大きな山門が見上げる恰好で立つ。参道は築地塀に突き当たり、塀沿いに左手に折れて進む。
 この塀沿いの参道が又、三千院と似ている。まだ半信半疑だ。三千院であるならば、築地塀の連続の左手に土産物店が立ち並び、緋毛氈(ひもうせん)の縁台に朱色のパラソルを差し掛けた店があり、店の前の立派な石段の頂には、城郭の門の如く山門が聳り立っている筈だ。
 併し、左に折れても、記憶にある緋毛氈の縁台も、立派な山門の姿も現れない。矢張り三千院ではなかった。三千院のこの風景はスケッチをしたのでよく憶えていたのだが、錯覚に陥ってしまった。
 
 それほど三千院と曼殊院との参道空間は似た要素を持っていた。そう云えば、両院とも門跡寺院であり、明治時代までは皇室の内親王が門跡として入った寺であった。
 位置的にも山麓に立つ寺院であり、その造りも閑雅な寂びた佇の姿である。自然を取り込んだ枯山水庭園にも似た風情がある。
 兎も角、今訪ねようとしている寺は間違いなく曼殊院だ。寺を幾つか見て歩く内に、それぞれの寺が私の頭の中で交錯し、印象が重なり合い錯覚に陥る事が間々あるのであった。
 けれども見方を変えれば、斯様な錯覚も日常性から非日常的空間へ一瞬間とは云え浸れる貴重な刻のような気もする。その儘浸り続け、幻想の世界へと彷徨(さまよ)い良尚法(りょうしょう)親王、桂宮智仁(ともひと)親王に巡り会って、小堀遠州の作庭記を曼殊院の<黄昏の間>で語り明かすのも夢のようで、考えるだけでも胸がわくわくする。
 桂宮智仁(ともひと)親王の名が出たところで、曼殊院の開創について述べてみたい。曼殊院の栞によれば、曼殊院の前身は、比叡山西塔北谷の東尾坊(とうびぼう)と称した。住持是算(ぜさん)国師が菅原氏の出であったので、天暦元年(九四七)に北野天満宮が造営されるやその別当職に任ぜられた。その際、坊舎は金閣寺の辺に移り、以後明治の初めまで、北野天満宮の別当職を兼務した。
 平安初期に東尾坊を改め、曼殊院と号した。そして江戸初期に現在の地比叡山西麓に移った。桂宮智仁親王の次男良尚法親王の時であった。智仁親王は桂離宮の開創者であり、建築、絵画、庭園に造詣が深く、曼殊院造営に際しても多大な援助をされたと云う。堂宇を雁行させる形は桂離宮にも見られる手法である。
 杉戸のひょうたん形の引手に見られるように、桂離宮と類似した意匠が随所に見られる。京都の西と東に位置する桂離宮と曼殊院は名実共に親子の関係であった。
 虎の間、竹の間と襖絵を見、庭園に面する広縁に出た。正面右手に霧島躑躅の鮮かな朱色の花が眼に入った。曼殊院の閑雅な佇と、真紅の鮮かな彩とは対極を為しているが、互いに好く響き合う。
 閑雅さの裏には華やかさを常に秘め、華やかさの裏には閑寂な趣きを秘めている。対極を為して、相互に閑寂な趣きや華やかさをより一層引き立てているのである。
 土塀に囲まれ、白砂の敷かれた庭園が、雁行した書院なりに奥方に連なる。其方には霧島躑躅の姿はなく、新緑の瑞々しい若葉で包まれ、素晴らしい光景である。書院が雁行しているため空間に変化があり、流動的印象である。
 広縁の出隅から眼前に拡がる光景を見渡した。一昨年秋に訪れた時には、紅葉を愛でる人が次から次へと引っきり無しに行き交い、流石(さすが)に京都の紅葉は凄いと感心するやら驚くやらであった。それに比べ、新緑の曼殊院は行き交う人も疎らで落着いた印象だ。庭園に突き出た隅の書院では、ひとり佇み枯山水庭園を魅せられたような面持ちで、愛でる女性がいたりして風情のある光景である。
 
 一昨年秋と同じ広縁の出隅に立ちスケッチを始めた。広縁は雁行し、奥の書院へと連なる。先端には瓦葺の土庇を支える独立柱がさりげなく立ち、穏やかな空間に緊張感を醸(かも)し出している。
 開放的な広縁は障子の開け放たれた書院の座敷に続き、開け放たれた障子の向こうには、書院の座敷を通して彼方の萌黄色の若葉が輝くのが眼に入る。内部と外部の境界が曖昧で若葉を揺らした風が通り抜け、静かなざわめきが聴こえてる。
 障子が開け放たれた座敷では、ひとり女性が座り、風のざわめきに静かに耳を傾ける姿があった。
 障子が立てられていない小壁は、暗紅色の土壁で掠(かす)れて見え、紅色の華やかさの印象はなく、紅色の壁と云われなければ気付かない程、さりげない佇に溶け込んでいる。
 土庇の上方には、書院の桧皮葺(ひわだぶき)の寄棟屋根がのせられ、陽差しを受けて柔らかなテクスチャーを現す。棟押えの瓦の先端には小さな鬼瓦がのせられ三方から集まる屋根の稜線を押えている。
 土庇、寄棟屋根の?木が等間隔に付けられ、黒色の斑点がリズミカルである。私が立っている広縁の庇の?木が剥き出し、先方の光景の額縁の如くある。新緑に包まれた曼殊院の水彩画を見ているような光景だ。
 広縁の直そばには石組された中から灌木が一本立ち上がり、少し許りの緑葉を付けている。庭園の中央辺には、五葉の松が曲りくねって立ち、樹幹の周りには、石が僅かに顔を出し、鈍い光を放つ。樹齢四百年と云われる五葉の松は、風格があり、這うような形で枝を横に張り出し見事な枝振りである。
 白砂は水の流れを表現し、緑を縫って流れ、鶴島、亀島を囲むように連なる。背には、黄色から青色に少しずつ変化した若葉が、互いに混じり合い柔らかな綿のように一面に拡がっている。枝葉の葉擦れには藍青色をした空が透けて見える。頼りな気な淡い彩のざわめきは、処々青葉に覗く細い樹幹により、始めて楓の新緑であると認識できる。それ程、瑞々しい若葉なのである。
 
 紅葉の季節に曼殊院を訪れた時には、眼前にある楓の萌黄色の若葉の一枚一枚が紅色に色付き、比叡山山麓を渡る秋風に葉を靡(なび)かせていた。処々鮮かな黄色、橙色の葉群となり、風に揺れる姿はこの世の光景とも想われなかった。
 鮮かな紅色は橙色に重なり、更に背の緑葉とも交じり合い、幾層もの色の混合が眼前に開けていた。表に現れた紅色だけが眼に飛び込み、緑葉が消去され、全山紅葉の乱舞であったような錯覚を憶えた程だ。
 錦秋織り成す紅葉には自然の乱舞を思ったが、新緑の瑞々しい若葉には少年の清しさを感ずる。双方共素晴らしい光景には違いない。何方(どちら)が優れ、何方が劣ると云った問題ではない。対象を見る人の受け留め方、どの様な印象を受けたかが大切なのであろう。
 少年の可能性を秘めた若葉の曼殊院そして円熟した艶ぽい女性を思わせる紅葉の曼殊院。夏の曼殊院には恐らく、青年の噎(む)せ返るようなエネルギーを感じるだろう。そして雪景色の冬の曼殊院は佳境に入った老壮を感じるのでは・・・。
 自然との対話空間があればこそ、春夏秋冬を人生の刻になぞらえて眺められる。其んな事を想い、良尚法親王はこの地に曼殊院の造営を思い付いたのではなかろうか。
 
 描き終わった頃、老夫婦が通り掛かり、
 「スケッチをしてるのですか、随分描きましたね、何日位京都にいるんですか。あれっ奈良にも行ったんですか」
 「ええ娘が大阪吹田に下宿してるものですから時々京都、奈良に来るんです。曼殊院は静かでいい寺ですね」
 絵を描きながら気楽に話をするのもコミュニケーションが出来てよい。鉛筆でデッサンしているので筆より時間がかかる。鉛筆の線をどうしても何度もなぞってしまう。矢張り一気に筆で描いた方がよかったか・・・。色付けを広縁にスケッチブックを置いて始めた。
 其の内、彼方の書院でひとり佇む女性も来たりして、皆さん車座になって広縁隅に座り、曼殊院の歴史やら自分の話をするのであった。夫婦は既に現役を退き、時々斯うして閑静な寺廻りなどをして過ごしていると云う。女性は阪急だか近鉄で、一日自由に乗り降りできるキップを持ち、大阪堺から遙々来たと云う。女性は堺で塾を経営し百人程生徒がいるとの話だ。
 「私の女房も塾を経営しているが、生徒は二十数名程しかいません。百人とは凄いですね」
 「公文の塾ですから私が講師の手配やらをしなければならず、早く帰って準備しなければなりません」
 と云いながらも随分と余裕がありそうだ。話しながら彩色していると、つい何度も色を塗り重ねてしまい、濁った色になってしまった。色を重ねるのは二回位が限度であろう。夫婦とは詩仙堂でも又会った。詩仙堂の庭園で、私の方に向かって手を上げ親し気に話し掛けて来た。一瞬間私も以前からの知人だったような気分であった。書院を一廻りして玄関に戻る。
 庫裡の隅に竃があり、其の壁面には柱が立ち上がる。松丸太が横に一間おきに架け渡され、柱に差さる梁も二段構えで架け渡され豪快な構造の木組である。天井は切妻型で三角形状になり太い?木が屋根の勾配なりに登り、構造体が素直に現れ自然なデザインで心安まる空間だ。
 あの庭に面した書院の寂(さ)びた佇とは異なり武骨な印象である。
 
 曼殊院より間道を縫って詩仙堂へ向かう。一昨年秋歩いた道、小さな寺の土塀から楓の紅葉が道に差し伸べられ、橙色から紅色に微妙に変化した夢のような光景に出会ったのを今でも鮮明に記憶している。
 その時は、曼殊院での人の多さに、気の休まらぬ刻(とき)を過ごした後で、間道のためか、行き交う人もいなかった。ひとり錦秋織り成す静寂な空間に佇み、素晴らしい光景を描いていた。時折観光客を乗せた黒塗りのハイヤーが静寂を破るのだが、直に元の閑寂さを取り戻す。四つ辻の向こうの民家の庭先から差し掛かる紅葉が、比叡山から流れ来る冷たい風を受けて枝葉を揺らし、さりげなく奥床しい風情であった。
 秋の風情はそんなだったが、新緑の若葉は何んなだろう、その光景が何時現われるか、もう少し先方だろうかと胸をわくわくさせて歩を進めた。ところが何時迄たっても、その姿は現れない。致頭(とうとう)期待を裏切られてしまい、詩仙堂の通りに出てしまった。途々、石垣の築かれた上に土塀が連なる家があった。土塀隅の邸内の庭から一本樹木が立ち上がり、瑞々しい若葉を付けて天高く伸び、民家の立て込む中で一服の清涼剤の如くあった。民家の主人に会わずとも、その風情に接すると、ほのぼのと主人の姿が浮かんでくる。
 期待して歩くが、何時の間にか、幾らか広い道に出た。左に登る坂道には、探索者らしき二三人の姿があった。タクシーが駐車するのも見え、運転手が暇そうな様子で、脇の土産物店の店先で煙草を吹かしていた。詩仙堂の入口はもう直其処である。
 詩仙堂を過ぎ坂道の上方に八大神社の参道入口がある。鬱蒼と木立ちが生繁り昼尚暗い参道だ。八大神社は宮本武蔵が吉岡一門を相手にひとりで闘った一乗寺下り松ゆかりの地である。
 八大神社入口の対面に野仏庵がある。風情ある門に惹かれ傍に進む。門の周りは緑葉に包まれ風情のある光景だ。門から閑雅な佇で、石畳が奥方に伸び、突き当たりに野仏が祀られてある。野仏庵は資産家の所有らしく、庵を見せて呉れそうであったが、アプローチ路が長く、洗練された露地空間で畏れ多い印象を受け、入るのを思い止まる。
 坂道を降り詩仙堂に戻る。竹垣を両脇に従えた小さな閑寂な門から、巾の狭い石段が上方に伸びる。京都らしい静寂なアプローチ路である。
 詩仙堂は正しくは凹凸?(おうとつか)と呼ばれる。寺の栞によれば、凹凸?とは、文字通り、でこぼこした土地に建つ住居という意味だそうだ。凹凸?十境なる閑寂なる空間を、詩仙堂を造営した石川丈山は見たてた。其の一つがこの静寂な門であり、小有洞と(しょうゆうどう)称される。他にも老梅関(ろうばいかん)の門、読書室としての詩仙堂、猟芸巣等(りゅうげいそう)々があるが、余り名称に拘っていると空間の本質を見失ってしまう。造営者が意図しない空間でも、素晴らしい空間がある。意図に囚われて、単なる知識の吸収に終わっては、空間の本質は見られない。見る者によって本質の受け留め方は異なっても構わない。
 両脇に竹垣が連なる石段を静かに上る。頂は狭く、上方には堂上の楼嘯月楼が(しょうげつろう)詩仙堂の屋根から突き出て現れ、小振りではあるが密度の濃い姿で立つ。
 受付から座敷越しに、陽差しを受けた瑞々しい若葉が覗いていた。紅葉の詩仙堂は訪れた事があるが新緑の詩仙堂は始めてだ。
 書院の座敷の眼前に拡がる萌黄色に燃え立った新緑の織り成す光景に、人間の研ぎ澄まされた感性の集積を想うのである。
 秋の紅一色の光景から、春の緑に包まれた光景、紅葉と新緑。何故紅葉の季節には人が多いのか、緑一色も又素晴らしい眺めだ。紅葉はハレ(・ ・)の光景、緑葉はケ(・)の光景か。ハレ(・ ・)とケ(・)の両方の空間に身を置くことにより、錦秋の季節、ハレ(・ ・)の紅葉が一層映えて見える。
 日常的なケ(・)の空間を体験し、始めて、非日常的なハレ(・ ・)の空間の素晴らしさが実感できるに違いない。
 
詩仙堂左 詩仙堂右
 
 
 詩仙堂の座敷前の小庭は小さいわりに拡がりがあるように思える。下のレベルの庭との境に植込みが設けられ、下の庭の対岸は奥深い樹々で埋め尽くされる。そして緑葉の森の遥か彼方は森の連続なのか、枝葉が織り重なり、重畳たる景観を呈する。この森は借景なのだろうか、それ共山内の連続なのだろうか。
 上庭と下庭との境の植込みで蹴られて下庭を歩く人の姿は消去され、重畳たる緑葉の連なりが、植込みに浮遊するかのように視界全体に拡がる。広大な光景をひとり専有し、小宇宙を形成するのである。
 この空間の効果は、上庭の円くそして横に長く綺麗に刈り込まれた植込みにより生み出されている。眼を近くに向ければ植込みで囲まれた上庭の細やかな光景を愉しめ、近景に疲れた眼を上げれば、雄大な光景を瞬時にして捉えられるのである。
 紅葉の季節ともなれば、上庭に立ち上がる数本の楓が紅、黄、橙色の葉群を鏤め(ちりば)、下庭では楓が、あと数日の生命を惜しむかのように、色取どりの鮮かな彩を現す姿があるのである。その姿は紅葉の乱舞と云うより色彩の交響曲のようであった。
 華やかさの中に、あと数日の饗宴を残すのみであるのを思えば、儚さ(はかな)さえも感ずる光景であった。たまたま居合わせた三四人のグループ、漏れ聴こえてくる話によれば、その内の一人はフランスの著名な文化人だそうだ。彼等は詩仙堂の座敷から、眼前に拡がるこの煌めいた楓の黄色から紅色に微妙に変化した錦秋を眼にし、
 「自然は絵画にならないと信じていたが、この光景を眼にし、自然の景色自体が絵画になるのを始めて私は知った」
 茫然とした面持ちグループのフランス人は呟いていた。自然を絵画にする以上に、眼前の自然自体が絵画になっている。言葉を変えれば、これだけの自然を絵画にすることは畏れ多いという風に私は解釈したのである。
 その時私は、座敷前に拡がる光景を前に、思わず息を呑み、暫く棒立ちになり、大勢の人が行き交うのも忘れ、眼前の光景に見蕩れていたのであった。
 詩仙堂に隣接する猟芸巣前(りょうげいそう)の広縁より庭に降りた。堂前の上庭とは燈籠を囲む植木で分割された庭を石段へと進む。両脇から綺麗に刈り込まれた灌木が迫(せ)り出した石段を下庭へと降りる。其処には探索者が三人歩むだけである。紅葉の季節の賑わいが嘘のように思える程、静かな庭の佇だ。
 小暗い林中には水の流れがあるらしいが、竹矢来がされ林中には入れない。隅に鹿(しし)おどしが据えられてある。さりげない風情で小暗い空間に鹿おどしの姿を眼にするだけでも、閑寂な趣きを感ずる。
 もともと、鹿おどしは、鹿猪が庭園を荒すのを防ぐ目的で据えられたのだが、静寂な空間で、その発する響を丈山はこよなく愛したと云われる。鹿おどしは僧都(そうず)、添水とも呼ばれる。閑寂な庭園では、水の流れを巧に利用し、必ずと云っていほど据えられてある。
 幽暗な林の中を窺うべくもないが、其処には滝があり下庭に水の流れをつくり出しているらしい。流れを確認しに行ったのか、男が一人、立入禁止の小暗い林中に踏み込んで行ったが、直に出て来た。見れば、少人数のグループを引率した年寄りであった。
 
 少し降って円く竹矢来で囲まれた植込みを廻り、広場に出た。奥方に薄紅色の葉を付けた垣根に囲まれ瀟洒な残月軒が緑葉に包まれてある。中には入れず、垣根越しに覗くだけである。
 広場隅の樹蔭で詩仙堂を描く。スケッチブックを見開きに、左方に残月軒、右方に詩仙堂を入れた構図である。私の場合、真四角な構図より、横長にした構図の方が落着く、その水平的な拡がりのある構図の方を好む。
 下庭には小暗い林内からの水の流れがある。小さな流れの対岸では、菖蒲がその葉を風に揺らし、涼しげである。手前にはこんもりとした緑葉が幾つかの石で囲まれ、広場側に迫り出し、広場に微妙な変化をもたらしている。
 流れ際には柿の木が四方に枝を張って立ち上がり、萌黄色の若葉が瑞々しく眼に映る。その葉擦れに詩仙堂が見え隠れする姿には、心憎い許りの空間的演出を感ずるのであった。
 上庭の植込みが横に長く伸び、堂の下方はその植込みで蹴られて隠され、緑葉の海に浮かぶ屋形船のような姿である。手前の屋形船は方形屋根を持ち、緑葉の海に葺き降りた瓦が輝き、雁行した奥方のそれは、桧皮葺屋根であり、薄茶色をした傾斜の急な屋根が僅かに覗く。
 屋形船の背は緑海で埋め尽くされる。萌黄色の葉群から斜めに覗く樹幹は、舟を漕ぐ櫂(かい)であるかのようだ。一口に緑海と云っても、黄色に近い緑、青に近い緑そしてその間を微妙に変化させた混合体である。
 混合体の透間から藍青色の空が垣間見える。その光景は、詩仙堂の屋形船が残月軒の小舟を従えて、水平的に拡がる緑海を滑る姿であるかのようだ。緑葉の条は波であり、高木のそれは大波であろうか。
 堂の座敷から見渡した光景が丈山の主たる作庭の主題だったのだろうが、見る側でなく見られる側の副題とも云えるだろう眼前に拡がる緑海を滑る屋形船は、主題を凌駕する程の空間的な質を内在している。
 
 描く間に、イタリア人の四人グループが微笑を浮かべて近づき、
 「・・・・・・」
 突然イタリア語で話し掛けられた。云っている内容は大凡(おおよそ)見当がつくが、私は微笑を浮かべるのみである。一緒に歩いていた通訳が寄って来て、
 「ペインターなのかと訊いているんですよ」
 画家などと、そんなに畏れ多い者ではない。
 「ただ好きで描いてるだけで、本職は建築の設計です」
 イタリア人は「オオッ・・・」と手を上げ、分かったといった風で、地面に置いたスケッチブックを暫く覗き込んでいた。
 秋に訪ねた際には、立ち上がった柿の木は葉を既に落とし、橙色の柿実だけを幾つか付け、風情のある光景であった。処々に立ち上がる楓は黄色から橙色、紅色と微妙に変化した彩を表し、現実の姿とも思われない華やかな光景を現していた。
 円く刈り込まれた植木にヒラヒラと舞い落ちた紅色の楓葉は、余りにも鮮かで、木に咲く花ではないかと一瞬間、錯覚を憶えた。
 
 帰り掛けに石段下の小広場で、堂を見上げた。上庭と下庭の境の緑葉が横に伸び、差し掛かる緑葉の隙間に登る石段で、緑葉の流れは深く切り落とされ、石の帯になっていた。
 緑葉の連なりは、堂の軒端に合わさり、殆ど堂の屋根だけを眼にするのみである。左方詩仙堂の奥方には、嘯月楼が瓦屋根から顔を覗かせる。楼の横腹から桧皮葺屋根の棟押えの束が横に伸び、右方入母屋屋根の三角部分で止まる。棟押えから桧皮葺屋根が葺き降り、連なる緑葉すれすれで止まる。堂の背後には、緑海が迫る。これは将に緑海に浮かぶ屋形船である。
 この光景は以前、詩仙堂を訪ねた際には、気付かなかった。多分、鮮かな紅葉に見蕩れ、見過ごしたのだろう。この素晴らしい光景に、思わず息を呑んだ。
 空間のひとつひとつの要素に人間の意志が感じられる。堂の屋形船は云うに及ばず。上庭と下庭の境に連なる緑葉の海、緑葉の切間(きれま)にある石段そして藍青色の空さえにも、強い意志が現れている。意志の現れ方は前面に目立ってあるのではなく、控え目にさりげなくあるのが、奥床しくてい
 何時の間にか、探索者が目につくようになる。関西地方の歴史研究グループも多い。私が散策する間は、人が少なく静かな庭の風情であった。
 石段を上がり書院に戻る。書院隅から雁行した詩仙堂を眺める。堂内部は小暗く、上庭には陽光が差し、暗と陽の対比が印象的だ。堂の庇を受ける柱が細く見え、柱と柱の間には、さらに向こうの緑葉が覗くのである。
 書院では、京都見物で疲れたのか、お婆さんが仰向けに寝転んで京都の地図を見ていた。子供達三人は、お婆さんをひとり座敷に寝かせ庭の散策に出かけて行った。お婆さんにとっては詩仙堂を見るより、子供達と一緒に行動するのが楽しいかのようだ。お婆さんにとって、詩仙堂は刺身の具(つま)のような存在だ。
 
 帰りのバスの車中、修学旅行の中学生が大勢、銀閣寺で乗り込んで来た。バスはかなり混み合い平安神宮の辺で数人の中学生が降りた。仲間がひとり居ないらしく外が騒がしい。降車口脇で
 「小野塚いるか、オノズカ・・・」
 二三回呼んでも車内からは返事がない。さては小野塚君はバスに乗っていないか、途中で逸(はぐ)れてしまったな。まあ中学生だから、道を訊き訊きして旅館にひとりで辿り着けるだろう、などと余計な考えを巡らせていた。再び、
 「小野塚いるのか、降りるんだぞ・・・」
 すると車内から女性の高い声で、
 「ハイ・・・」
 と返事はあったものの一向に降車口に来る様子がない。私も後方の声がした方を振り返った。他の乗客も心配気な様子で、どうしたんだろうと騒ついて来た。車内が混雑して出て来れないのか、それとも後の乗車口から降りたのかと思った。そのうちにバスの運転手が、
 「寝てるんですか・・・」
 と声をかけた「ハイ・・・」と返事をしたのだから寝ている筈はない。運転手のかけた声に、車内は思わず、可愛い年頃だと云った感じで一瞬間どよめいた。其の内に制服姿の女の子が混み合う車内を掻き分け降車口に向かって行った。その間ほんの数分の刻であったが、バスの運転手さんの当意即妙な対応に、私もつい顔が綻んだ。
2 曼殊院・詩仙堂・スケッチギャラリーへつづく
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