京都ー光と影 2

サイトリスト  
古都ー光と影 TOP
大和路ー光と影1
大和路ー光と影2
大和路ー光と影3
京都ー光と影1
京都ー光と影2
京都ー光と影3
イタリアの町並

アフガニスタンの町並

3 泉湧寺・東福寺
3 泉湧寺・東福寺・スケッチギャラリーへ
おすすめサイト
YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
東福寺通天橋 秋色 東福寺通天橋 新緑
東福寺 即宗院 庭園 東福寺 方丈より
京都インデックス  
    京都ー光と影1
一  等持院から金閣寺へ
二  銀閣寺から法然院へ
三  醍醐寺
四  上賀茂神社・社家
五  法然院から永観堂へ
六  今日庵から相国寺・下鴨神社へ
七  黄檗山萬福寺から興聖寺へ
八  大徳寺
九  高雄・神護寺から清滝へ
十  栂尾・高山寺から北山杉の里へ
十一 鞍馬寺から貴船神社へ
十二 
    京都ー光と影2
一  比叡山・延暦寺
二  曼殊院から詩仙堂へ
三  泉湧寺から東福寺へ
四  大原の里
五  西山の寺
六  祇園から八坂塔・清水寺へ
七  六角堂から楽美術館へ
八  赤山禅院から修学院離宮へ
九  円通寺から岩倉へ
十  伏見稲荷大社
十一 宇治・平等院
十二 桂離宮
    京都ー光と影3
一  嵯峨野ー渡月橋から大悲閣千光寺へ
二  嵯峨野ー天龍寺から常寂光寺・落柿舎へ
三  嵯峨野ー常寂光寺・落柿舎から二尊院へ
四  嵯峨野ー二尊院から祇王寺へ
五  嵯峨野ー仇野念仏寺から鳥居本平野屋・愛宕念仏寺へ
六  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ1
七  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ2
八  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ3
九  
十    
          
古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
三 泉湧寺・東福寺
 
 春の京都・奈良の旅も今日で最後で夕方の新幹線で東京へ帰る予定である。京都駅近くの泉湧寺を訪ねることにした。
 大成建設に勤める鈴木氏と昨秋、京都で落ち会った際に、彼が東福寺の紅葉は素晴らしいと話していたのを思いだした。その話しを聴いた時には、東福寺は京都駅の南方に位置し平坦な寺域で単調な景観なのでは、と勝手に思い込み、東山沿いの永観堂や疏水(そすい)縁の紅葉に比べ、どんな様かと思っていた。
 市バスを泉湧寺道で降りた。泉湧寺道は風情のある道と思い期待していたのだが、パス道路から入り込んで、僅か許りの商店が並び、その先は住宅街になったごく普通の道路であった。横道に逸(そ)れれば閑静な路地があるのではと期待していたが、似た様な風景が見られるだけであった。
 私の先入観でしかないが、JR東海道線を境にして北方には閑静な京都の市街地が拡がり、市街地の周辺の山麓沿いに銀閣寺、法然院、永観堂そして南禅寺等々の緑葉に包まれた寺院が連なり、東海道線の南方には、田園風景の拡がる中に東福寺、万福寺そして遠く離れて宇治平等院等の寺院が連なる、と云うより点在する印象であった。南方にも当然、古くからの民家は多数見られるのだろうが、私の印象では新興住宅街が拡がる風景が想い浮かぶのだった。
 何時の頃から、斯様な印象を持つようになったのかは分からない。多分、学生時代に友人と共に歩いた時か、近鉄線の車窓から眺めた光景がそうだったため、そんな印象を抱いたのかも知れない。
 何処でも其の様な新興住宅街はあるのだが、印象が強烈だったのかも知れない。昔はいざ知らず、現代になり、京都北方の都市計画は整備されたが、東海道線以南の都市計画は後回しになっていることは否めない事実であろう。
 
 泉湧寺道を登って突き当たりに小振りな総門が佇み、門脇に泉湧(せんにゅう)寺塔頭(たっちゅう)即成院が道に開放
的な姿で立つ。
 総門を潜ってもなお車道が続く。車道兼用の参道のようである。路面はアスファルト道路で、まだ泉湧寺境内に足を進めた印象はない。
 道路は永く右方に緩く弧を描いて伸び、両脇には躑躅の植込みが連なり、今が満開で鮮かな彩を参道に添えていた。
 併し、何時も石畳で両脇に巨樹が立ち並ぶ幽暗な参道を見慣れていたので、この参道には無表情で機能主義的な印象を受けた。もう少し空間の要素を考えれば、これだけの参道故に、素晴らしい参道空間になるのでは、と想い巡らすのであった。
 石畳道の両脇に水路を切り、処々に燈籠を並べ、アルコーブを設けたりし道に変化を持たせれば、更に荘厳な宗教空間になるのでは・・・。
 
 参道途中で、泉湧寺塔頭今熊野観音寺への坂道に外れて歩く。今迄の参道は殺風景であったが、今熊野観音寺への参道は巾が広く降り坂で、鬱蒼と木立ちが生繁った中を縫って参道は付けられ、昼尚暗い宗教的空間であった。
 今熊野観音寺への道を行こうかどうか、迷いつつ少し進む。そうこうする内に谷を渡る橋が見え、両脇の木立ちから差し掛かる枝葉に気持を掻き立てられ、足が自然に其方に向く。
 暫く小暗い参道を歩く。上方には明るく陽が差しているようだ。坂道を上り、小高い平坦な処に陽を受け本堂が立つ。本堂の裏手は深い緑葉で包まれたいた。
 靴を脱ぎ、堂内を拝観する。観光ルートからは外れているためか、探索者は少ない。地元の女性が一人堂内を見て廻っているだけである。一廻りして外に出た。一枚スケッチをしようと辺を見廻しよい構図を捜す。本堂前の広場で若者のグループが三脚を据え写真を撮る姿があった。
 「絵葉書用の写真でも撮っているんですか」
 「いいえ雑誌の写真です」
 と言葉少なに返事をした。一見プロのカメラマン風なので、今迄にも幾人かの観光客に話し掛けられ答えるのも面倒な風である。彼等は本堂の写真を撮り終え
 「今度は何処にしようか、あの多宝塔なんか宜さそうじゃん」
 本堂脇の上方に、緑葉から覗く多宝塔に眼をやった。
 彼らの視線の先には、山の中腹に朱色の多宝塔が緑葉に浮かぶ姿があった。眼線にばかり気をとられ、目を上方に向けていなかったため、今迄多宝塔があるとは気付かなかった。
 なかなかいい構図である。私は本堂の甍越しに多宝塔を描き始めた。スケッチが半ば出来かかった頃、
 「描くの早いですね」
 突然後から声を掛けられた。声のする方を振り返った。先刻ひとりで本堂を拝観していた女性が立っていた。
 「思い付く儘描いているだけです」 
 「それにしても、あっと云う間に描いてしまうんですね」
 四号ほどの小さなスケッチブックに筆でサラサラと十分程で描くので、彼女はそう思ったのだろう。S さんは観光客でもなさそうなので、何で泉湧寺に参拝しているのかを訊ねた。
 「高校一年の長男が学校に行かなくなり、折角、京都の私立中学に入学した次男も、兄の姿を見て影響されたのか、入学して五日目で不登校になってしまい、今日は京都にカウンセラーの話を聴きに来て時間まで寺廻りをしている訳です。先生が毎日のように様子を見に家の方に来ます」
 私は多宝塔を描きながら聴いていた。Sさんは、京都の南、浄瑠璃寺のある町加茂に住まいがあるそうだ。賀茂から京都に出るには、大和路線で木津に出、JR京都線で京都に行くルートになる。
 乗り継ぎ時間等を勘案すると、加茂から京都まで二時間程かかり、中学生では大変だなあと思いながら耳を傾けた。京都の進学校に入学できたのに五日目で学校に行かなくなっては、両親にとってはさぞ御苦労な事ではと、人事(ひとごと)ながら心配したのである。
 
 私の息子も似た道を経験した。と云うより目下紆余曲折した方向を模索している最中なので、
 「私の息子は昨年公立中学校を卒業したが、小学生の時から地元のサッカーチームに所属し将来はJリーグに入るのを夢見、親も驚く程一生懸命にサッカーをして、一時はクラブチームの柏レイソルのセレクションをパスし、Jリーガーに片足を突込んだかに見えたが、それも束の間二三回練習に行ったきりで、柏レイソルを退めてしまった。サッカーが強い東京の私立高校に入学したが、高校のサッカー部も直に退めてしまった。猛者連の中で自らの力を眼の当たりにして挫折したのだろう。夢が大きかっただけに其のショックも大きかっただろうと思う。そうこうする内に私立高校も退めてしまった。昨年夏、都立高校の編入試験に無事パスし、秋から都立高校に通っています」
 話すうちにsさんに、向こうの観音様を描いて呉れないかと頼まれた。観音様の慈悲深い姿に救われるような気持になったらしいのである。
 多宝塔を描き上げ観音様の方に歩いて行く。本堂脇に観音堂がある。観音堂前の入口にぼけ防止の観音像が立つ。黒御影石でつくられているためか、黒光りしてテカテカした新しそうな像だ。幼児が二人、観音様の足元で、纏(まと)わり遊ぶ姿の像である。Sさんは幼児が、あどけない顔を観音様に向ける姿の像に、慈悲深い印象を受け、涙が零(こぼ)れたと云っていた。私は仏像を見ても、それを彫刻、文化としては鑑賞するが、信仰の対象として拝む宗教的な気持にはなれない。
 「観音像を見て、そのような気持になれるんですか」
 Sさんの豊かな感受性に感心したのである。小スケッチブックゆえに観音像の全体は入らない。たとえ入れたとしても迫力のない絵になってしまう。
 「観音像全体を入れると描くのに時間がかかり、それにスケッチブックが小さくて入らないので部分で描きます」
 十分程で観音像の顔の部分を描き、Sさんに渡す。値段(いくら)ですかと訊かれ、Sさんは財布からお金を出そうとした。
 「いいえ結構です」
速成に描いてお金など頂く訳にはゆかない。それでは連絡先は・・・と訊かれ、私は財布に一枚だけ残っていた名刺を取り出し、sさんに渡した。
 Sさんは子供の通う中学にカウンセラーを受けに行かねばならない。来た道を話をしながら泉湧寺への参道に戻る。
 「自からの選択した道を正しいと信じて進むのが大切なのでは・・・。他人から見て、もしその道が間違った道だとしても、人それぞれ歩む道、生きる道が異なるのだから・・・。本人が歩む道が間違いだと思ったのであれば、その時には軌道修正して進めばよいのでは・・・」
 泉湧寺の巾広の参道に出、私は泉湧寺仏殿の方向へ、Sさんは泉湧寺道の方向に行き、泉湧寺参道を左右に別れた。
 
 大門を潜った左手の石畳の奥方に楊貴妃観音堂が立つ。楊貴妃観音像が安置される堂である。かっては百年に一度開扉された秘仏であったが、昭和三十年以来、何時でも拝観できるようになった。秘仏となると興味をそそられるが、自由に拝観できるとなると有難味が薄れる。
 広い降り坂の参道を降り切った処に、重層入母屋造の重厚な仏殿が立つ。軸線上の仏殿の背に舎利殿が続き、更に背後には本坊が控え、樹々に包まれてあった。
 参道上方から泉湧寺の堂宇を一望できる。小丘が織り重なる微妙な襞を為したエアーポケットのような平坦な地に、泉湧寺は春の陽光を受け、其の甍を輝かせ静かに佇んでいた。西方を小丘に囲まれた平坦な寺地に木立ちに埋もれて立ち、穏やかな光景である。
 眼前の仏殿は一際巨大で、他の堂宇を従えて立っているかのように見える。右方には立派な唐門の背に霊明殿の桧皮葺の屋根が閑雅な佇で立つ。霊明殿には、天智天皇以来の歴代天皇の御尊牌が奉祀されている。
 仁治三年(一二四二)四条天皇が泉湧寺に葬られて以来、歴代天皇の山陵がこの地に営まれ、皇室の菩提所、御香華院と呼ばれたのである。泉湧寺が―御寺(みてら)―と称される所以である。
 この仏殿に降る参道の坂道はコンクリートに小砂利を入れた仕上げで、肌理細かさに欠ける印象だ。この参道こそ緩い石段でつくられてあれば、それ丈で驚くような空間になったのでは・・・。併し味気ない参道は眼下に拡がる堂宇の光景に眼を奪われ気にはならない。
 寺域の構成として室生寺、長谷寺など山の中腹に建つ寺院では、上に登るに従い、処々に平坦地を確保して堂宇を築き、頂の平坦地あるいは平坦に築いた寺地に、本堂を建てる手法がとられていた。それはそれで重層的に連なる要素が絡みあい素晴らしい空間を構成するのであった。一方、泉湧寺のように、丘陵地帯の一箇処に平坦な寺地を確保し、平面的に堂宇を建てる手法がある。流動的でダイナミックな空間は得られないが、便利で機能的空間は得られる。
 仏殿には不愛想な堂守が一人いた。何気なく話し掛けても、ラジオでも聴いているのか、耳にイヤーホンを突込み、聞こえないのか聞こえない振りをしているのか定かではなく、何の応答もない。
 堂守は不愛想であるが、仏殿の内部空間は荒削りで迫力がある。内陣正面に、釈迦、弥陀、弥勒の三尊仏が、三体同列に、背には後背を持って、蓮華台に安置されている。堂内の大きさに対し三尊仏は小さく小振りだ。
 柱と梁の噛み合わせの斗?木組の構成が複雑で流動的である。天井は貼らずに化粧?木が架け渡され、木肌が薄茶色に見える。内陣の天井だけは、斗?が四方から迫り、四角になった平坦な部分に龍の絵が描かれてあった。
 この内部空間は描くのは難しい。一気に思い付く儘何の躊躇もなく筆を動かさねばならぬ。細部に囚われてしまえば、時間がかかるだけで、絵の勢いが失われてしまう。
 三尊仏の背後は板壁で、横張りに張られた板の色合いは白茶けて斑である。けれども、それが歴史を感じさせ閑雅な趣きがあっていい。天井の斗?部分から太い鉄棒で天蓋が三本吊り下げられてある。
 内陣の柱から脇の柱に差し掛かる馬形の繋梁も豪快だ。木組は相当に複雑にされているのだろうが、見る者に細かい処は意識させず、自由奔放に各部材が跳ね回るのである。
 堂内の説明書によれば、この堂では塗壁は一切なく、全て板壁だそうだ。そう云えば堂に入った瞬間、他の寺院の堂とは違った印象を持ったのは、塗壁の白が眼に入らなかったからに違いない。
 円柱は白茶けて斑になり、歴史を感じさせる。風化が進行しているようにも見え趣きのある仏殿である。帰り掛けに堂守の男に再度、言葉を掛けたが相変らず無言で無表情であった。
 大坊の土塀の左手隅から入る。襖絵が主体の座敷を幾つか見て廻る。皇室の関係者が参拝の折に控えた座敷もあり、その情景を思い浮かべると、今更ながら泉湧寺が皇室の菩提所としての御寺であるのが実感できる。
 庭に面した広縁で疲れた体を休める。庭には大きな楓の木が新緑の若葉を付け、月輪山から流れる風に、その葉を揺らす騒(ざわ)めきが聴こえてきそうだ。
 庭の右手に、緑葉に囲まれ泉湧寺型燈籠が立つ。周りには、数百年の昔に築かれたであろう石組がされ、緑葉と好く響き合う。其処から程好い間隔をおいて、竪に長く五輪塔風の燈籠が立つ。此処では更に濃い緑葉に包まれる。静寂な小暗い佇の中に、古木が曲がりくなって立上り、閑寂な趣きを表している。
 探索者は私ひとりだけである。広縁でおにぎりを食べた。足を伸ばし、身心ともにゆったりとした気分になる。都会の喧騒が嘘のように、静かな刻が流れてゆくのであった。
 
 脇の参道から幽暗な林に伸びる道を進む。境内は緑葉で包まれ処々、陽を受け、新緑の若葉が小鳥の囀(さえずり)の如く輝いて見える。
 造園された境内の先方の石段の頂に布袋尊三宝大荒神堂が立つ。堂の唐破風屋根の破風が優雅な弧を描き、軒端の木組がぼんやりと小暗く浮いていた。
 石段の両脇は穏やかな陽を受け、萌黄色をした若葉で包まれる。その中を薄茶色の樹幹が立ち上がり、新緑の瑞々しい若葉と好く響き合う。堂の背後には樹木が林立し深閑とした空間である。
 描いている数分の間にも、時々、探索者が訪れる。杖をついた老婆、案内書を手にした女性が通り過ぎる。探索ルートからは外れているので、時間がたっぷりある人か、好奇心旺盛な人が訪れるのであろう。
 来た道を帰る。右手には自然の小路が伸びる。左手は谷が深く切れ込み、対岸は谷から緑葉が這い上がり、高く山に連なる。谷に差し掛けられた橋を進み、泉湧寺の参道に出た。
 かって工人は自然の地形を巧に使い、ある時は石垣を築いて平坦部を確保したり、等高線なりに参道を切り拓いて来た。始めてこの地に堂宇を築いた工人達はどの様な設計思想を持って、切り拓いたのか。今ある姿を眺めるのは容易であるが、寺地として自然の地形を変えた工人の技術には興味を持たざるを得ない。
 仏殿前の参道を登る。参道の脇の小暗い処に木立ちに囲まれて清少納言の歌碑が立つ。
 
 夜をこめて鳥のそら音ははかるともよにあふ坂の関はゆるさじ
 
 幽暗(ゆうあん)な雰囲気の中に、歌が刻まれた自然石と五輪塔が並んで立つ。藤原行成の返歌
 
 逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬも開けて待つとか
 
東福寺 参道 泉湧寺仏殿
 
 
 清少納言と藤原行成の逢瀬の恋歌が石に刻まれ、暫し遠昔の脱俗した人間模様を想う。
 躑躅が咲き誇る参道左手に市立月輪中学が緑に包まれてある。近辺の起伏ある路地をグループで走る中学生の姿があった。中学生の集団に誘われるように閑静な路地に足を向け、マラソン中の生徒に、
 「これは何という中学校、この道は東福寺に出れる。道は奥に連なり向こう側に出られるかなあ」
 東福寺に行くのに、大通りに出るより、路地を歩いた方が面白そうだ。
 「月輪中学です。出れます」
 と頼りなさそうに応える。併し、道は小さな寺に突き当たってしまった。脇の石段を降りると、先刻のマラソン中の中学生が又回って来た。生徒は私の顔を見、どうしたのかと云った顔付きである。
 遥か彼方に、黒いシルエットになった五重塔が、民家の家並越しに霞んでいた。私は其方を指差し、
 「あの五重塔が東福寺ではないか」
 東福寺にしては、方角が西に向きすぎ、その上遠過ぎるような気がしたが・・・。
 「あれは東寺の五重塔だ。東福寺へは、あの日赤の看板・・・」
 と其の方向を指差す。まあ大体の方角が分かれば大丈夫だろう。中学生に軽く手を上げて別れ先に進む。
 路地を幾つか曲がり進んで行ったのはいいが、袋小路に出てしまった。既に左も右も分からない。大通りに出ねばならないか・・・。路地の両側には小さな家が立ち並び、家の縁は緑葉に包まれた崖になってしまった。家が連なっていて崖上に出る道は見つかりそうもない。近所の人に訊いた。
 「あの細い道の突き当たりを右に折れ、更に細い道を幾つかくねくね曲がって行けば東福寺に出れます。かなり分かり難いと思います」
 こうなったら教えられた通り行くだけだ。丁度、家と家の隙間から二人連れが出て来た。其の隙間に踏込んだのはいいが、丘陵沿いに細い道が伸び、再び人家の細道に入って行ってしまった。
 大筋では、この丘陵沿いを進めば東福寺に行き着けるだろう。丘陵の頂が東福寺の境内に違いないと信じて進む。
 丘陵沿いのくねくねした道を進む。小さな家が連続的に連なる。暫くして参道らしき広い道に出、やっと迷路から抜け出た。無秩序にアミーバーの如く触手を伸ばしたラビリンス部落から抜け出、突然、築地塀の連なる立派な参道に出た時には、一瞬間、文化のギャップに眩暈を憶えた。
 東福寺のどの辺を進んでいるのか分からない。孰れにしても参道を真直に進めば東福寺三門に辿り着けるだろう。
 
 参道の先の深い谷に上家が付いた橋が掛かるのが見えた。橋と一口に云ってもただの機能的な橋とは違った形である。橋の対岸には楓の瑞々しい若葉が繁り、此方側とは異なる光景である。
 買物帰りの主婦も通り、切妻型の屋根を此方に向けているのを見、東福寺の門ではと思い、
 「あれは橋ですか」
 と子供を連れた主婦に訊いた。
 「ええ橋ですよ」
 不思議そうな様子で応えた。このオッサン、橋かどうか見れば分かりそうなものに、何を訊こうとするのか。私も橋なのは当然分かるが、何故に此処に屋根の掛かった閑寂な(かんじゃく)趣きの橋があるのかを訊きたかったのだが、余りに非日常的風景ゆえに、つい言葉少なになってしまったのである。
 切妻型に破風を表し、頂に鴟尾(しび)をのせ優雅な姿である。切妻の破風の下方には門形に柱梁が組まれ、柱梁の結合部には剛性を保つため、弧を描いた方杖が付けられている。それらの架構体が一間(いっけん)間隔に向こう岸まで十五メートル程の長さに連なっている。小さな架構体であるが、その姿にはリズミカルで気高い趣きを感ずる。
 架構体の両脇には土塀を従え、建築化を強調している。橋の手前に、七〇センチメートルぐらいの高さの細長い石が、自転車が通れる間隔で数本立ち上る。車止めの石である。人間だけの空間であるのがいい。橋は抜道になっているらしく、閑寂な空間のわりに人通りが多い。
 ラビリンス空間をなんとか抜けてきてまだ刻(とき)も経ってなく、アミーバーが頭の片隅に遺っているだけに、整然として気品ある空間に接し、これが同じ東福寺界隈の光景なのかと戸惑い、一瞬間、橋に足を入れるのが躊躇(ためら)われた。
 一瞬間の戸惑いに、気を取り直し車止めをすり抜け、橋の中央部に進んだ。向こう岸にも車止めがあり、道が真直に伸びて連なるのがパースペクティブに望める。
 正面許りに気を取られていたが、何気なく谷の遥か彼方に眼をやった時、其処に繰り拡げられた光景に、思わず息を呑んだ。
 眼下を流れる三ノ橋川の両岸は、一面に楓の若葉で埋め尽くされ、若葉は優しい陽を受けて萌黄色に輝き、光の騒めきを愉しんでいるかのように煌めいていた。若葉は川面にも映り、文字通り一面の緑海である。
 若葉から抜け出るかのように、川の流れに直交して、屋根を持った橋が差し掛けられている。橋の右寄りには立見台であろうか、展望台が切妻屋根を此方側に向け、出端って立つ。谷からは鉄筋コンクリート製の矩形の柱が立ち上がる。
 右方には東福寺の堂宇の大きな入母屋屋根が、緑海に浮かぶ。橋、堂宇の背後にも若葉が緑のラインを描き、優しい姿を現していた。
 全てが瑞々しい若葉に埋もれ、堂宇のほんの一部分だけが顔を覗かせているのである。若葉に埋もれると云うより若葉の海に浮遊している、と云った方が適切かも知れない。
 鈴木氏が昨秋、東福寺の紅葉は素晴らしいと云っていたのが、この眼前に繰り拡げられた光景を眼にして理解できたのである。
 余段になるが、ここで鈴木氏と同じ印象を持ったもう一つの光景について述べてみたい。それは法然院の結界空間についてである。法然院参道の突き当たりに茅葺の小さな山門が立つ。ここでは参道から数段の石段で一度その山門が立つレベルに参詣者を導き、法然院境内へは、上がった高さだけ、今度は石段で下がってアプローチすると云う巧な手法が使われていた。鈴木氏は京都の池坊会館のアプローチの設計にこの法然院の手法を取り入れた。取り入れたと云うより、たまたま同じ手法だったのだろう。私もこの法然院の山門が現す結界空間について、始めて眼にした際にはただただ茫然と見蕩れる許りだったのを憶えている。
 
 云い遅れたが、緑海に浮かぶこの橋は通天橋と(つうてんきょう)呼ばれ、私が立つ橋は臥雲橋(がうんきょう)と呼ばれる。臥雲橋を渡って、道は真直に伸び、左手には東福寺の築地塀が土手の上に立つ。境内のレベルが高いのであろうと思われる。なだらかに築かれた土手からは楓が僅かに傾げて斜めに立ち上がって、堀沿いに連なる。
 楓の樹幹の連なりが、今通り過ぎて来た許りの臥雲橋の閑寂なリズムのある柱の連なりの連続であるような錯覚を憶え、印象的だ。土手に剥き出た楓の根が穏やかな光景の中で、荒削りな表情を見せる。優雅さと豪快さとを合わせ持つ姿が面白い。
 日下門から境内に入る。泉湧寺で小半日程費やした程だから、東福寺を廻るには優に一日要すると思われる。今日の所は自由に歩ける境内を探索するに止める。
 境内南端に立つ三門に足を進めた。三門は重層入母屋造の屋根を持った巨大な三門である。室町時代初期の創建で日本最古の三門と云われる。余りに巨大であるため、軒隅部先端の四隅に四十センチメートル程の角材で突支棒(つっかいぼう)がされてある。
 地震時には、深く出た軒が瓦の重みで揺すられる。軒出は片持構造ゆえに、地震力の影響が大きくなる。安全を見越して、こうして突支棒をするのは止むを得ない気がする。併し今迄数百年の間、地震、風の力に対し倒壊もせず、よく耐えてきたものだと、三門下で豪快にして巨大な姿を見上げる。
 三門周辺には柵が設けられ近寄ることは出来ない。三門の背を回り東側に出た。背と云うより表になるのではないかと思うのだが・・・。
 東福寺の伽藍配置は不思議な配置だ。通常であれば、三門を潜って南北の軸線上に配された本堂に至る訳である。併し三門の南側は土塀が廻らされ、人が通る門らしき架構体は見当たらない。塀の外には民家が立ち、其方からはアプローチできそうもない。
 横腹から三門の正面に回り込み、三門を潜る導入路しか考えられない。それとも創建当初には違った形で三門にアプローチできたのか。
 後日、東福寺境内図を調べたところ、三門南の土塀外に勅使門があった。勅使門そばには六波羅門がある。してみるとやはり南側からアプローチできる筈だ。ただ単に私の見過ごしだったのか。秋、錦秋の東福寺を訪ねる際に確認せねばならぬ。
 本堂の拝観、通天橋へ行くのも秋にゆずることにする。東福寺がこれほど大きな伽藍配置の大寺院とは知らずに来てしまった。室町時代に京雀たちに<東福寺の伽藍づら>と揶揄(やゆ)された所以も分かる気がする。臥雲橋から緑海に浮かぶ通天橋を眺められただけでも充分であった。
 京都市内の南方に、斯様に起伏があって、素晴らしい処があるとは、始めて知った。改めて地図を開いて眺める。東方の比叡山系が南に流れ、山稜の中腹に小高い大文字山が飛び出し、その起伏の連なりが、泉湧寺、東福寺の背に控える月輪山になる。その流れが更に伏見稲荷大社の背の稲荷山へと連なっているのが分かる。
 それらの山稜の山麓には、北は修学院離宮から始まり、南は泉湧寺、東福寺の伽藍が緑葉に抱かれて佇んでいる。先入観念とは恐ろしいもので今までは、京都北方ばかりに眼が向けられていた。地形は北から南に連なっている、と云う当たり前の事実を改ためて再認識した一日であった。
3 泉湧寺・東福寺・スケッチギャラリーへつづく
このページのトップに戻る

リンク集

メールはこちらへ


Copyright(C) Sousekei All rights reserved.