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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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十二 
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六  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ1
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読後感想
口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
四 大原の里ー三千院・宝泉院より寂光院へ
 
 京都駅前広場にはタイミングよく大原行バスが待っていた。バスは京都市街を河原町通を進んで行った。早朝の京都は、まだ活動のエンジンが掛かってから、僅かの刻が経つに過ぎない。
 京阪三条駅のバスターミナルで、バスは頭を南に向け、川端通を来た方向に戻り、バス停に止まった。京阪三条駅で数人の乗客を乗せ、ターミナルのある一角のブロックを一回りしてバスは来た道に戻り、鴨川沿いの川端通を北方に進んだ。
 途中、出町柳近辺で下鴨神社を包み込んだ糺の(ただす)森が、川向こうの左岸に見えて来た。糺の森の西側には賀茂川が流れ、東側には高野川が流れる。二つの流れが此処で合流し、鴨川の流れとなる。この巨樹の枝葉で蔽われた三角地帯に拡がる森が糺の森である。
 高野川の対岸に佇む糺の森は、社会の混沌(カオス)を呑み込み、混沌を混沌とも想わず、巨樹の枝葉の頂部のみを表に現し、混沌を包み込んで大きくその枝葉を揺らしていた。
 バスは糺の森の右方を流れる高野川沿いの川端通を進む。流れなりに河原に伸びる遊歩道を散歩をしたり、ジョギングをする人の姿が、ちらほら見掛かけられる長閑な風景だ。糺の森を過ぎても、高野川の対岸は緑葉に包まれ、処々枝葉の葉擦れから人家が覗く。中には別荘風の家が数軒、川岸に立つ。
 高野川の河原は拡々としていたが、暫く進む内に、川沿いの遊歩道も消え、川面は岸に立ち上がる樹々の緑葉に被われ、川幅は狭くなる。
 橋を渡り高野川は右方に流れを変えた。暫くして再び橋を渡った。川は左方になったり、右方になったり繰り返す。途中、八瀬でバスは五分程止まる。川沿いの道は山間を縫い、左右に孤を描いて伸びる。景色に気を取られている裡に、川は流れを変えていた。それでも、眼を凝らして車窓見る裡に、その姿を現す。川幅は山間を流れる小川のように狭くなっていた。
 その裡に眠気に襲われ、うとうとと微睡(まどろ)む。眼を醒ますと、車窓には緑に溢れた景色が流れ、バスは既に大原に着いていた。京都駅から一時間ほどの行程であった。窓外に流れる景色を眺め続けられたただけでも、充分に京都北方の山間の風情を愉しめた。
 九月十五日、敬老の日のためか、大原には結構人出(ひとで)が多い。けれどもバスの乗客には、立つ人がいる程ではなかった。
 大原の里には、昨年も訪れているため勝手がよく分かる。バス道路の右手のくねくねした坂道を上がって行く。以前訪れた際に五平餅(ごへいもち)を買った店があった。以前、店頭で五平餅を焼いていたのは若い男であった。けれども店先では五十歳前後の年配の男が五平餅を焼いていた。芳ばしい匂いに引かれ立ち止まる。
 「いらっしゃい」
 男は元気のいゝ声を発し、私の方に眼を向けた。
 「昨年、大原に来た折、この店で五平餅を食べました。後で文章を書こうと思って―ごへいもち―を辞典で調べたところ、辞典に―ごへいもち―は載ってないんですよ。どんな字を書くんですか」
 「そら載ってないやろ、五平餅は元々、長野で作られたらしいですよ。そうですか、よく憶えて呉れはって、有難いことや。ちょっと待っておくれやす」
 主人はそう云って、店先に横並びに設えられた餅網に五平餅をのせ、焼き始めた。
 「其処で食べておくれやす」
 主人は、傍の木製のベンチを指差した。庇の先端に懸けられた乳白のアクリル板に黒字で寺田屋、と書かれてあった。隣の煎餅屋と同じ経営らしく、通路を挟んで奥方で繋がっていた。
 「昨年は店先で若者が五平餅を焼いていましたが・・・」
 「あゝ、そうや、そうかも知れんかった」
 寺田屋は、三千院への坂道を上がりかけた処にある。其処は幾らか高処になり、前方が気持よく開けた眺めのいゝ処だ。対面の山がパノラマで眺められる。麓には民家の瓦屋根が連なり、長閑な風景だ。
 暫く五平餅を食べながら寺田屋の主人と話し込んだ。芳ばしい香りの五平餅で腹拵え(はらごしら)をしたところで足を先に進める。
 
 寺田屋の先で、坂道を右方に折れ、呂川(ろがわ)沿いの道を登って行く。左方に昨年スケッチをした店があった。此の坂道は三千院の参道なのである。参道の右手を流れる呂川は、石組されて深く切れ込み、底に僅かな流れが、さわさわと水音をたてていた。水に透け、自然石が赤錆びた輝きを放っている。
 参道の左手には、土産物屋や茶店が立ち並び、昨年スケッチした店は、硝子がピカピカに磨かれ清々しい印象だ。店の先方には、朱色のビーチパラソルがふわっと開いていた。抹茶を飲ませる店らしく、緋毛氈が敷かれた縁台が店先に出されていた。
 茶店に続く低い石垣と、垣根の緑葉そして奥の瓦屋根の家の中庭から立ち上がる樹木が、参道の上にまで枝葉を差し伸ばし、緑葉が藍青色の空に鮮かに輝いていた。
 昨年はスケッチに気を蕩られ、気付かなかったが、其処は土産物店があるだけでなく、左の奥方に大原郷土館の閑静な建物が立つ。
 郷土館の閑静な門の屋根が、水平に永く線を描き、軒端に沿って五葉松が水平に渡された丸太の上を這って伸び、空間的に深みのある風情を醸し出している。門に嵌(は)められた格子戸は、半分開かれていた。元々格子戸であるため、郷土館への石畳の様子が、格子の間から見通せる。 郷土館への石畳の右方には、店の縁台に緋毛氈が敷かれ、朱色に彩られていた。奥方に郷土館が、枝葉の葉擦れに僅かに垣間見られる。郷土館の屋根の棟の押えが古風な印象であった。館の背にも木立ちが覗き、郷土館は緑葉の海に漂う小舟のようにも思える。
 
 呂川沿いの参道を進む。大原近辺は声明で(しょうみょう)有名な地だ。けれども呂川のせらぎを聴いても、私には音曲の律(りつ)は聴こえて来ない。呂川は普通の川と変わらぬ川で、声明で有名であると云わなければ、見過ごしてしまいそうだ。
 呂川沿いの参道の左方には、志ば漬を売る土産物店が立ち並んでいる。志ば漬だけでなく、小物類も数多く店先に並べられ、奥まった中庭に面し懐石料理店も幾つかある。参道からも中庭を通して料理店の様子が窺える。料理店は、しっとりとした落着いた佇で、時間があれば、中庭を眺めながら緩っくりしたいところだ。
 土産物店は彩が豊かだ。朱、茶、白色そして漬物樽の青、電球が放つ橙色と玩具箱をひっくり返したように賑やかな印象だ。
 呂川の対岸には人家が立て込み、数本の樹木が立ち上がり、枝葉を川に差し掛けていた。
 
 土産物店が僅かの間途切れ、程なく参道沿いの最後の土産物店が現れた。其処では、店の屋根の部分と、参道を挟んだ川縁の手摺に立ち上げた竹の柱とに、程よい間隔で斜めに竹を差し掛け、竹と竹との間に葦簀(よしず)を掛け渡してあった。葦簀の影が道に落ち、参道に変化のある空間をつくっていた。
 かって訪れたモロッコの旧い町マラケシの旧市街(カスバ)では、迷路のように街路が伸び、街路の両側には、雑貨、皮製品など色々な品物を売る店や家内工業の作業所が立ち並んでいた。街路には大勢の人が行き交い、店を覗いて歩いていた。
 街路には道沿いに葦簀が掛け渡され、路地にそって葦簀が孤を描いていた。強烈な陽差しを受けた葦簀が投げ掛けた影が、踏み固められた荒土の路面に、白と黒のコントラストを描いていた。光と影が交錯して空気が揺らぎ、眩暈を憶えそうな複雑な空間をつくり出していた。
 モロッコのこの空間に比べ、三千院参道の葦簀が掛け渡された空間には、さゝやかではあるが、自然と人工が相瓦貫入した流動的空間を感じた。
 店の彩も豊かで、空間に変化がある。参道際からスケッチ始めた。祝日のためか、通り過ぎて行く人が多い。呂川沿いのため、空間的拡がりを感ずる。呂川に切れ込んだ石垣には、苔生した草が生え音曲の律が聴こえて来るような気もし無くはない。川あり葦簀ありで、此処には涼しい風が通り抜け、はっとして立ち止まる人が多い。
 葦簀通りを過ぎ、右手の呂川の護岸上の石垣上に、手づくり土産品を並べた店があった。店は小屋のようで、小さな簡単なものである。
 この小屋は建築基準法上、適法なのか一瞬間考えた。川の護岸は川の一部となるので、民間の建築物は許可されない筈であるが・・・。それとも小屋は小さく、十平方メートル以下であるので黙認されているのか・・・。
 其処から賑やかな四つ辻までは近い。左方には三千院への石段が伸びる。石段はかなり高さがあり、見上げるようだ。石段の右手には、スロープがつけられ、頂に土産物店の屋根だけが僅かに覗いていた。
 四つ辻の右方には、念仏寺への平坦な道が伸びる。念仏寺へは三分程で行ける。右に折れて橋を渡った畔に、風情のある土産物店があった。呂川沿いに横に永く伸びた建物は、土産物店にしておくには、勿体ないような閑雅な趣きを道に現している。
 杉皮を葺いた屋根には、苔やら草やらが生え、周りの緑葉に溶け込んでいた。横長に伸びた店は通常の建物より背を低く抑えてあるため、永さと水平線が強調されて見える。道から店内に容易に入れるように、段差は付けらていない。そんなためか、店内の空気が道空間に漂っている錯覚を憶えた。
 一間半毎に立ち上がる頼りなく細い柱も、此処では、閑寂さを感じさせる一要素なのかも知れない。店内に並べられている色取どりの土産物が、閑寂な空間の中にあって、華やかな彩を現す。閑寂さと華麗さが同居し、何の抵抗も憶えない。それどころか、其処では対極にあるそれぞれの空間が、互いに響き合い濃艶な空間を構成するのであった。それでも、果してこの空間は、閑寂な空間であるのか、それとも濃艶な空間であるのか考え込んでしまう。けれども、何んな空間であるのか、ひとつの言葉で定義づける必要はない。両極にある各要素が常に同居し、響き合っているのである。
 手前には、枝振りのよい楓の木が二本立ち上がる。傾いて立つ楓は屋根の辺で更にふたつの樹幹に別れ、四方八方に枝葉を差し掛け、土産物店のよい点景だ。
 見たところ建物前面の建具は全て外されている。多分、帰り掛けに外した板戸を嵌(は)め込むのであろう。土産物店はさりげなく、そうあることが当たり前のように立つ。社会常識に馴らされた我が身にとって、此処に閑寂で濃艶な空間があるのが不思議に想え、軽い眩暈を憶えるのであった。
 
 四つ辻を真直に進めば、来迎院を経て音無の滝に至る。三千院への石段を上がろうか、来迎院への道を進もうか一瞬間迷う。三千院の先にある宝泉院にも行かねばならない。まずは真直に呂川沿いの山道を来迎院を目指すことにした。
 この辺から、右方を流れる呂川は自然の趣きを色濃くした流れに変わる。川床には岩石がごろごろと転がり、その間を縫って清流が流れ、深山幽谷の趣きがある。四つ辻から先の山道に入って来る探索者は、ぐっと少なくなる。先方には静寂な空気が流れ、この山道には昔日の大原の面影が色濃く残っているのでは・・・。
 山道の左手に来迎院の小さな山門が見えて来た。小さな入口の突き当たりに来迎院の受付がある。右手奥方の本堂に進んだ。
 本堂広縁の脇から堂内に足を踏み入れた。小さな本堂に、男女合わせて四人のグループが外陣の板の間に座り瞑想(めいそう)に耽(fけ)っていた。四人共、心もち頭を傾け、目を閉じ掌は印を結んでいた。
 寺で斯様な光景に出会ったのは始めてだ。余りの熱心さと静寂さで、足音をたてることさえも憚れ(はばか)た。先客の四人の脇に坐り、私まで印を結びたくなるような気持になった。小スケッチブックを取り出し、脇侍(きょうじ)の不動明王像、毘沙門天像を描く。時間は充分にある上に、静寂に包まれた堂内ゆえに、本尊薬師如来像を本格的に描けばよいものを、生来(せいらい)の性急さで、さらさらと数分で描くに止めてしまった。今日は大原のあの寺とこの寺を探索しようと決め、自らの行動の自由性に枷を嵌め込んでしまっている。都会育ちの哀れさが覗く。
 本堂の裏手、巨樹の差し掛ける枝葉に包まれ、聖応大師良忍上人三重石塔があった。其処は幽暗な空間で、妖気が漂っていた。始めて訪れた来迎院境内は世俗の喧騒(けんそう)とは無縁に静かな佇であった。
 
 来迎院の栞によれば、大原の地には、平安時代初期に伝教大師最澄の弟子、慈覚大師円仁が声明の修練道場を開いた。声明とは、経文に音曲をつけて吟ずるもので、民謡、演歌を始めとした邦楽のルーツになった。声明は慈覚円仁によって中国から伝えられた。円仁が学んだ五台山太原では五台山念仏、所謂声明が盛んであった。円仁は日本に帰ってから、中国太原の地形に似たこの大原の地を中心にして、声明の道場を開いた。
 平安時代末期、聖王大師良忍は来迎院を建立した。良忍上人は円仁上人が伝えた声明を魚山(ぎょざん)流声明として集大成した。来迎院は盛時には、五十近くの坊があり、声明の修練道場として、多くの僧侶、貴族が集まり隆盛を極めたと云われる。
 当時、大原一帯の坊を魚山大原寺と総称していた。来迎院を上院来迎院、三千院の先にある勝林院を下院勝林院と称し、大原一帯の中心的な坊であった。
 一一五六年叡山は梶井政所を設置し魚山大原寺の統括を計った。統括を計ったと云えば聴こえはよいが、本当のところは、魚山大原寺が隆盛を極め、勢力が強くなるのを恐れたか、あるいは叡山が大原寺の潤沢な(じゅんたく)資産を手の内にしようとしたのではなかろうか。
 その一端が現在の三千院の城郭風な石垣や山門の佇に現れているように思える。三千院は寺院にしては、其の配置計画に防御的色彩が色濃く現れている。
 来迎院から更に上に呂川沿いの山道を登る。此処から上へは、殆ど探索者は行かない。山道への途次、上から降って来る男に会っただけだ。
十分程歩いて山道は樹木に包まれた崖に突き当たる。其処に高さ十数メートルの岩床を、滑り落ちるように滝があった。音無の滝は、処々岩床にぶつかって白い飛沫(しぶき)を上げ、滝壷に流れ落ちる。滝壷と云っても、それほど深くなさそうだ。
 薄曇のせいか、滝の両側に立ち上がる樹木の林内は薄暗く、水が流れ落ちる岩床のみが鈍い光を放つ。時々、雲の切れ間から日が差し、滝に差し掛かる枝葉が薄緑色に輝く瞬間があった。
 其の瞬間には、見る此方側も気持が晴々する。陽が当たらない空間では、全天空光で其のもの自体が持つ色は識別できるのだが、小暗い闇の世界に埋没し、岩床を滑り落ちる滝に吸い込まれて行きそうな気持だ。
 滝壺脇の小岩に腰を降ろし、若者が物想いに耽り、小さなノートに文を認めていた。大原のメインストリートの喧騒が嘘(うそ)のような静寂な音無の滝で、物想いに耽るなどは、この上もなく贅沢な一刻(ひととき)だ。来迎院と云い、音無の滝と云い、其の空間の情景が、若者を惹きつける要素を持っているに違いない。観光案内書の片隅には、音無の滝について小さく載っている。
 私も滝壷の上からスケッチを始めた。滝の両側に立ち上がる樹林帯が小暗く、闇のような絵になる。ただ滝の落ち始めの頂の処だけは僅かに明るく輝いていた。
 描く間に、灰色をした僧服を身に纏(まと)ったキリスト教の二人連れの尼僧のが来た。
 「わあっ綺麗、疲れたけど、此処まで来てよかった」
 二人連れの尼僧は音無の滝に感激している様子だった。其の裡に夫婦の探索者が上がってきた。来迎院から十分足らずとは云え、山道ゆえに疲れたのであろう。傍らの座るには都合のよい石に腰を下ろし、ぼんやりと音無の滝を眺めていた。描き終わって帰り掛けた時、
 「絵を描いているんですか」
 奥さんに声を掛けられた。
 「えゝ、気の向く儘、ただ描いている丈です」
 旦那は奥さんに、くっついて来ているような様子であった。一瞬間だったので判然とはしないが、濡れ落葉なる言葉を想い浮かべた。奥さんの眼はこう云っていた。
 「あなたも私にくっついて許りいないで、この人のように一人で出掛ければいのに・・・」
 華やかな錦秋織り成す紅葉の時もあっただろうに、儚い(はかな)落葉として一人、大原の里を探索するのも味があるのでは・・・。四つ辻への下り坂を、そんな事を想いながら歩いた。下山道でも、これから音無の滝に向かう幾人かに会った。
 四つ辻から三千院への石段を上がる。石段を上がり切った処の参道の左方には、土産物店が立ち並んでいた。店先の軒下には、志ば漬を始めとした土産物が所狭しと並べられ、店によっては、朱色のビーチパラソルを立ち上げ、其の下に緋毛氈を敷いた縁台を据えてあった。斯様な空間では、パラソルや緋毛氈の鮮かな朱色は華やかであり、禁欲的な宗教空間によく合う。
 土産物の色取どりの包紙、そして売子の女性の土着的衣裳が華やかな空間に彩を添え、何とも云えない穏やかな趣きを感ずる。
 彼方此方から聴こえる売子の呼込みの声が喧し(やかま)い程だ。遠慮深い人は声を掛けなければ、店内に入らないのだろう。この様な呼込みには、抵抗があるが効果はありそうだ。
 山門と三千院の境内とは、高い石垣で別られている。苔生した石垣は長く一直線に伸びる。山の斜面を切り開いて寺地を造成したのだろう。参道と境内のレベル差は四メートル程ある。石垣の上は植込みになり、連なる緑葉でその高さを感じさせない。石垣からセットバックして築地塀が伸びている。
 
 織田信長が明智光秀に討たれた本能寺は寺ではあったが、其の構えは、域郭風に造られていた。そんなデザイン的影響なのだろう。三千院は門跡寺院であるため、域郭風に構築する戦略的意義はない。しかし、三千院は梶井門跡の大原で、代官所として政所が置かれていたのが前身である。滋賀県の梶井に、堂塔が梨本門流の承雲によって建てられたのが、梶井門跡の始まりである。そう云われば、代官所として域郭風に造られる理由が分かる。
 門跡寺院とは、皇子、皇族が歴代、住職となる寺院である。天台五筒室門跡は妙法院、青蓮院、毘沙門堂、曼殊院そして三千院門跡である。
 石段を上がった処に、如何にも出入口は此処だけだと参拝客に対し、表現しているような山門が威風堂々と立つ。
 深い庇の山門を潜った。上部に緑の生垣を持った背の高い石垣が、正面に城の石垣の如く聳え立っていた。山門が立つ処は中間レベルである。石垣に沿って左右に別れる石段で境内のレベルに上がる。一気に境内に上がらず、緩衝地帯を考えている訳だ。
 山門の深い庇を額縁にし、三千院の方丈を望む。下屋の瓦屋根の上に、横架材が架け渡され、その一体性を保つために束が要所要所に設けられている。間の白壁とのコントラストが清潔な印象である。大屋根は天竜寺の方丈と同じ切妻型で、参拝客にその妻面を現している。石垣の白茶けた色、そして石垣を部分的に蔽っている緑、その上の生垣、生垣の中から立ち上がる樹幹が差し伸べる枝葉、それらが織り成す光景は、心憎いばかりの素晴らしい空間である。
 山門を潜り、背の高い石垣に沿った石段を上がり方丈に入った。多くの探索者が行き交う廊下を幾つか折れ、広縁に至る。庭園に面した広縁の先端には、既に探索者が列を為していた。
 廊下の突き当たりには、新しい建物だろうか、写経所があった。くねくね曲がって幾つかの部屋を見る。
 自分の興味の対象が其処には無いのであろうか、寺院の国宝級の展示品には、心踊らさせられるものがない。大寺院であればある程、印象に残らないのである。一日の内に、多くの宝物を見過ぎるためか、それとも宝物に価値を見出してないためか・・・。
 多分、視点を空間の光と影に据えているためであろうと想うのだが・・・。
 靴を穿き替え、疎(まば)らに樹木が立ち上がる林の中に立つ往生極楽院に足を向けた。往生極楽院は平安時代に建立された入母屋造りの小さな御堂である。
 本尊阿弥陀如来坐像が安置される天井は舟底天井である。本尊の左手には、勢至菩薩像、右手には、観世音菩薩像が安置されている筈だが、現在、東京の東武美術館で開催中の三千院国宝展に出展中だ。其処の天井は一段低く片流れの天井である。
 境内を廻り、山の方に上がった平坦な広場に出た。正面に朱色の真新しい観音堂が立つ。其処は三千院とは、異質の空間の印象で、スケッチをする気持が湧いてこない。
 広場隅にある休憩所で、金粉入りのお茶をご馳走になった。そのあと、休憩所脇の細い道を下る。途中、道が左方に折れた右隅に、石仏が祠に祀られてあった。その素朴な姿に、思わずスケッチブックを開いた。
 山門を出、来た方向と反対側に進んだ。昼刻で、律川(りつかわ)に架かる赤橋の畔に立つ店に入る。店内の律川沿いはガラス張りで外の景色が好く見える。川の対岸の白い土塀が流れに沿って段々になり、リズミカルである。塀から覗く樹々の枝葉、遠くの山並の薄緑の重なり、思わずスケッチブックを取り出した。一人旅の気楽さ、思い付く儘である。茶店を出、律川に架かる朱色の律橋を渡った、右手に後鳥羽順徳天皇大原陵がある。御陵は白砂が敷き詰められ、エアーポケットのような空間だ。前方には、巾の広い緩い石段が降っている。右手には草葉に蔽われた高い石垣が立ち上がり、その頂に緑の生垣が連なる。
 邸内の瓦屋根が木立ちの葉擦れの間に覗き、左手には低い石垣が連なる。満開の桜花、まだ芽吹き始めたばかりの樹木が石段に枝葉を差し掛けていた。そして石段の先には、大原問答で有名な勝林院の草葺屋根が木立ちの葉擦れに見え隠れしている。
 一本の樹木に至るまで、人間の意志の下(もと)に自然に植えられたかのようだ。石段は陽光を反射し、影の部分が鈍い光りを放ち、右手の石垣は下になるに従い広くなり緩くカーブする。
 往時の都人の繊細な美意識の展開を、思いがけず垣間みる想いだ。探索者も殆ど見掛けない。石段の下からスケッチを始めた。描く間にも、瞼に風のそよぎを感じ、ゆっくり時が流れてゆくのを憶えた。
 何気なく見ていた呂川、律川の両川が千年以上の昔から、先人の文化を受け継いできたのかと歴史の永さと深さを感ずる。勝林院、宝泉院、実光院も声明音律の寺で、来迎院と共に大原二流の一方の流派を成して来た。大原観光保勝会の案内書によれば、
 呂川、律川の川の名は、声明の呂曲と律曲に因んで名づけられ、今も二つの川がその韻を響かせて流れている。調子はずれのことを「呂律(ろれつ)が回らない」などと云うのもこのことから出ている
 
 勝林院を山門前で一望して左に折れた。道の両脇には樹々が鬱蒼と生繁り、いかにも山寺への道という印象だ。道が左右に別れる。右の突き当たりに、こぢんまりとした宝泉院の入口が緑に包まれてある。若いカップルが私と相前後して歩く。
 宝泉院は小さな寺のわりに訪ねる探索者が多い。寺は、魚山大原寺の下院勝林院住職の坊として現在に至っている。
 小ぢんまりとした玄関から伸びた廊下の突き当たりの左方に二間続きの小座敷がある。座敷には緋毛氈がL型に敷かれていた。座敷に足を踏み入れた時、丁度、緋毛氈に座っていた人達が立ち上がった。抹茶の接待をする女性が、
 「どうぞ座ってお待ち下さい」
 そう云って奥方に消えて行った。云われる儘に、緋毛氈に畏ま(かしこ)って座った。座敷内は薄暗い、けれども広縁の外には、この世の物とも想われない光景が繰り拡げられていた。
 私が座っている処からは、庭園は僅かしか見えない。庭園を隣接地と隔する低い垣根が、水平に永く伸び、その向こうには幾本もの竹が立ち上がる竹林が拡がっている。
 座敷の柱、鴨居、敷居が額縁になり、竹林の上方はそれに蹴られて見えない。竹林の中ほどの高さに繁る葉だけが座敷から見渡せる。殆どの竹は青やベージュ色をしたその樹幹が見えるに過ぎない。
 それ故に、竹の樹幹の間に遥か彼方の山並が薄紫色に霞み、藍青色をした空が背景になって輝いている。竹の樹幹はシルエットとなる程ではないが、幾らか色のトーンを落として立つ。
 夢のような光景を、広縁にL型に敷かれた緋毛氈に、若干膝を崩(くず)して、参拝客が座って眺めている。座敷内をうろうろと歩き回る探索者はいない。
 庭を眺める参拝客の背後に私はいる。其の参拝客自身が、庭の点景の一要素となって来た。
 竹は細い樹幹ゆえに、無数に立ち上がっていても気に障ることはない。竹林の向こうに行方の定まらぬ無限の空間が拡がり、エンドレス空間に吸い込まれてゆきそうであった。
 私は、一人緋毛氈に坐って素晴らしい光景を眺めていた。L型になった緋毛氈の角に、若い女性三人が庭園を背にして座り、私を含め四人で抹茶が出るのを待っていた。
 その時は、私もそう座るものだと思い、何の疑念も持たなかった。私は庭園を眼前にしていたのだが、彼女達は庭園を背にし、座敷の壁をみているのである。その内に茶を接待する女性が、
 「お抹茶を直にお持ちしますから、庭園を眺めながらお待ち下さい」
 そう云って手を庭の方に向け、彼女達に庭の方を向くように促した。女性達は、ばつが悪そうに、作り笑いを浮かべ、ゴソゴソと百八十度向きを替えた。彼女達は多分、宝泉院では、抹茶と和菓子の接待があるのを知っていたに違いない。抹茶が出されるのを、今か今かと期待し、待ち遠しかったのかも知れない。
 抹茶が出された頃には、私の隣に、中年の夫婦が座っていた。抹茶をごくんごくんと直に飲み、暫く借景庭園を眺めていた。この位置からスケッチしようか、どうしようかと考えていた。
描くには人が多過ぎる気がした。
 人が途絶えたのを見計らい、スケッチブックを拡げ、描き始めた。周りは知らない人ばかりゆえに気にもならない。顔見知りが一人でもいれば、意識して描かなかったかも知れない。
 其の内に五六人のグループが座敷に入って来た。私は座敷の奥方で描いていたため、探索者の腰ばかりが眼前を行き交う。瞬間、眼に焼き付いた光景を素早く、スケッチブックに落とした。
 
寂光院参道 寂光院 
 
 
 座敷の中央ならば、前に出た分、行き交う人の姿は少なくなるだろう。座敷中央で描き上げたデッサンの色付けを始めた。抹茶の接待をする女性に注意されるのでは、と恐る恐る色付けを始めた。
 「この天井は、関ヶ原合戦前に、石田三成方の西軍に攻められた伏見城の血天井を使った物です。鳥居元忠以下の徳川方東軍の数百名の魂が入っています」
 説明役の男がグループの人達に説明する。伏見城の血天井が何故、伏見城から遥かに離れた、此処大原の宝泉院の天井に使われたのか、頭の片隅で、其んなことを思いながら描き続けた。血天井を見たからと云って、感慨が湧くものでもない。私は、宝泉院が永い歳月のうちに培っ(つちか)て来た素晴らしい空間に惹かれる。
 描く間に背に人の気配を感じた。中年の夫婦が畳に膝を立て、描くのを見ていた。
 「随分速く描くんですね、其の絵具は何なのですか」
 「別に特別の絵具ではありません。十二色入りの固形絵具です。此処は素晴らしい寺ですね」
 「私達は京都に来た時はまず一番に、宝泉院のこの庭を見に来ます。高知から来ました。家が天台宗なもので、そんな関係から・・・。日本では天台宗の寺は少ないそうですよ、真言宗の寺は結構、各地にあるらしいが・・・」
 御主人の方は絵を描くらしい。主に室内で花とか花器と云った静物画を描くらしい。旅先でスケッチなどは殆ど描かず、只管、其処の空気に触れ、美味しいものを食べて歩くのが愉しみだと云っていた。
 そうこうする内に、若い女性が一緒に見始めた。夫婦の娘さんかと思っていたが、そうではない。誰かが覗いていれば、それに連られて興味深そうに絵に見入ることがよくある。
 緋毛氈に座る人達が身に纏った衣裳も、実際の色とは違った色、適当に思い付いた色をスケッチブックにのせる。画面にその背姿が現れた。
 眼前に広がる、見る対象である竹林の借景庭園、そして其の庭園を見る観賞者、両者が一体となって融合し、静かな佇の空間を構成する。鑑賞者は自からの眼前に拡がる竹林が、空間の主題と思って眺めているのだろうが、私が描く場所からは、観賞者の思い思いの姿、そして彼等が竹林に如何に対峠しているかが、空間の主題であるような気がする。
 庭園を観賞する時には、広縁の先端に出るのではなく、もう少し引いて座敷内から長押を額縁に見立てゝ見た方が、趣きがあるのだが・・・。此の借景庭園は盤桓園と称する。その意は、立ち去り難い。
 庭園盤恒園の曲折りになった手前の庭には、五葉松が見事な枝を四方八方に張り出し、ふわっとした松の葉をのせている。
 帰り掛けに、ふっと横に眼をやった。十帖間ほどの部屋に、若い女性が二人お茶を飲んでいた。綺麗に磨かれた硝子張りの向こうに壺庭が見えた。部屋の周りの壁には写真や絵が掛けられ、設えられた棚には、大原の里に関する資料が置かれてあった。中央の机には、ポットと湯飲茶碗が置かれてあり、自由にお茶が飲める。
 部屋と庭が硝子越しに一体的空間となり、なかなか風情のある眺めだ。欲を云えば、部屋がもう少し和風のつくりで、余計な資料がなければ更によかった。
 宝泉院を出てからは、殆どの探索者は、来た道を勝林院、三千院方面に戻って行った。私は其の道とは反対方向、津川沿いの参道を進んだ。私は昨春にもこの参道を降って行った。道が三千院の呂川に沿った参道の土産物店の一角に出ることを憶えていた。
 途中、立木が横倒しになったりして、野趣あふれる道だ。当然、行き交う人もいない。人家の間を抜け、程なく呂川沿いの参道に出た。
 例の(くだん)五平餅の店、寺田屋の店先を通る。
 「まだいたんですか、もうとっくにお帰りになったのかと思いました」
 主人が声を掛けて来た。
 「何せ、私は絵を描きながら歩いているもんだから、今頃になってしまいました。此処はいゝ眺めですね」
 私はそう云って、寺田屋の前に拡がる大原の里の風景に眼を向けた。
 今春、寂光院本堂は放火され焼亡してしまった。門前の漬物屋の主人は、今どうしているのか気になって、寂光院に行ってみることにした。昨春の寂光院訪問記を、茲(ここ)に記す。
 
 バス停の先、細い路地を左に曲がって寂光院に向かった。親切な年寄りが、途中まで私も行くからと、自転車を引いて案内してくれた。学生の頃旅先で、そんな時、親切に甘えて各処を案内して頂き、おまけに夕飯まで御馳走になり、郷土の歴史、風俗の話を神妙に耳を傾けたことを憶えている。揚げ句の果てに学生の恐い物知らずで、、一晩御厄介になったりした楽しい思い出がある。私の友人などは娘さんのお婿さんにどうかと、真剣に云われ、困っていた。まだ二十才の頃の話である。今考えると、それ程昔ではないがよき時代だったのかも知れない。
 伝説の乙が森(おつうがもり)という四つ辻で老人と別れ、私は真直に寂光院への坂道を進んだ。
 草生(くさお)川沿いの道は田舎道らしく長閑だ。右方には民家の家並が続き、左手の草生川沿いには田圃が連なる。その向こうには等高線に沿って一筋のベージュ色の線が光る。時々、行き交う車、里人が小さく見えるため、それが道だと分かる。
 
 寂光院から帰ってくる探索者の何人かと擦違った。夕暮の陽を浴びて皆、穏やかな顔をしている。ほどなく、左方に土産物店が数軒、軒を並べる場所に着いた。店先には、志ば漬を始めとした漬物が沢山並んでいる。この辺は木が生繁り、土産物店の背後には山が迫る。道も狭く、夕暮時のせいか薄暗い印象だ。繁った樹々が一部、途切れて石段が見える処が寂光院の入口だ。
 漬物屋前の入口に立つ。緩い勾配で石段がかなり上まで続く。石段が消えた辺は陽が差し、本堂の屋根が輝いていた。下から見上げているため、本堂は小さく見える。辺には建礼門院が隠棲した寺の佇が漂っていた。
 石段の参道両側には白い木肌の太い樹が適度の間隔で立つ。まだ早春で緑葉は付けてない。白い木肌と影のコントラスト、そして所々陽が差している石段の照り返しに、壇ノ浦の藻屑と消え果てたわが子安徳天皇、平家一門の冥福を祈った建礼門院・徳子の生きた曙光を感じた。
 源頼朝に平家追討の院宣を発した後白河法皇が、このような草深い大原の小寺寂光院に御幸された平家物語の時代を思い、
 
 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
 
 石段を見上げ、平家物語の一節を思い浮かべるのであった。
 一段一段、石段を平家物語の昔を思いながら上がる。俗界から仏界へ、心理的に清められるような空間だ。大寺院のように、圧倒する山門、本堂はないが物悲しい哀れを感ずる。
 境内は小ぢんまりとしている。正面に地蔵菩薩立像、建礼門院像そして侍女の阿波内侍(あわのないし)張子像が、安置されている小さな本堂が立つ。右手には、綺麗に石組された池がある。建礼門院がこの小宇宙を形成している空間で、三十六年の生涯を閉じるまで、生活していたことを考え、感慨を深くした。
 参道の石段を降りた正面にある漬物屋の若主人が
 「皆さん、こゝからよく絵を画いていますよ、一番よい構図です。私も墨絵を早書きで、時間の合間に画いているんですよ」
 と云って、店の小さな包装紙に印刷した墨絵を見せてくれた。店に筆と各色の墨を常に用意してあり、週一回絵画サークルで練習しているらしい。
 ベテランの仲間が、遠近感を表現するには、筆の先端に墨をつけ、ちょっと筆を水に浸して画くとよいなどと教えてくれるらしい。刻印まで自分で作って楽しんでいるようだ。店は母親と二人でしている。傍らで母親が息子の道楽話を、ニコニコして聴いていた。
 
 寂光院からの帰り道、草生川沿いを歩いて云った。行きは寂光院の物悲しさが頭に焼き付き、川沿いの風景もそんな思いで見ていた。帰り道は下り坂のためか、あるいは後に山があるせいか、眼前の風景は夕暮の陽を受け明るい。草生川に架かる小さな橋の処で道は左右に別れる。人の姿のある右手の道に足が向いた。
 左手の田圃の向こう、草生川対岸の道を陽光を浴びて三々五々、下る人がいる。私は来た道と違う道を歩いているのに気付き、対岸の道に出ようと田圃の畔道に入った。対岸に見える人家、探索者の姿が近付くにつれ大きくなる。陽光を浴びて瓦屋根が銀鼠色に輝き、生垣の緑と好いハーモニーを構成している。探索者も建礼門院を身近に感じたのか、穏やかな表情だ。
 大原の里では、まだ探索する処があるが、スケッチし乍の日程では、これが精一杯だ。孰れ(いず)機会があれば再度、訪れる積もりである。
 
 寂光院焼亡後、寂光院への途々に点在していた店は、一部の民宿を残し、殆ど閉鎖状態だ。一軒の民宿は宿泊客が多そうで、其処だけは探索者で賑わっていた。
 寂光院への永い石段がある近辺は、どんよりした空模様のためか、暗い空気が漂っていた。その辺は陽が差し掛けていたとしても、行き交う人がいなければ、両側から立ち上がる巨樹の差し伸べる枝葉で、囚暗い空間であったであろう。
 寂光院に入る石段の対面に構える漬物屋は店を開いていた。小暗い参道の左手の店先に、若主人と母親が店を守っていた。寂光院への参拝客が激減している時だけに、その姿は店を守る、と云った方が適切な光景だ。
 私は店先に近付いて行った。店の対面の寂光院への石段入口は、簡単な扉で閉められ、本堂焼亡の経緯(いきさつ)が書かれた貼紙がされてあった。
 「寂光院が放火されて大変だったですね。私は昨年も来て、墨絵を見せてもらいました。もしかしたら店は閉鎖してしまっているのでは・・・」
 「あゝ思い出しました。そう云えばそうでしたね。うちはこれしか出来ないので店は開けています。」
 主人はスケッチブックを開け、仏像やら山門を描いた墨絵を見せて呉れた。一気に筆を走らせたデッサンの上に、淡い色彩をのせた流動感ある絵だ。
 京・大原寂光院門前翠月の味のしおりの表側には、主人の描いた寂光院への石段の墨絵が使われている。主人の名は、奥典朗と云う。私が母親と勘違いしていた女性は、実は主人の奥さんだそうで、大変失礼なことを云ってしまった。主人は五十歳で、幾らか私より若い。
 「寂光院は再建中です。よく来る京都府警の刑事さんが絵の好きな人で、自分で篆刻(てんこく)もする人で、ほら、これが刑事さんが彫って呉れた篆刻です」
 そう云って篆刻を私の方に差し出した。奥さんは店の右脇の方に腰を下ろし、時々話の輪に入ってくる。
 こゝから奥方一帯は奥家が所有する山らしい。
 対面の石段脇にある、以前は土産物店だったような家も奥家が所有する。其の家の二階に夫婦は住んでいる。
 「あの一階をギャラリーにして、絵の仲間と共に孰れ、グループ展を開きたいと思っているんですよ。ところが、この辺は湿気が多く、絵のためにはよくないんじゃないかと思っているんですよ」
 そう云って主人は家の方に眼をやった。道の奥の方の倉庫風の建物、それに続く山も所有しているらしい。
 「其んなに沢山、土地や家を持って、凄(すご)い資産家じゃないですか」
 「いやー此んな山奥ですから東京などに比べたら、資産と呼べるようなもんじゃないですよ」
 先方の道幅は、更に細くなり、小暗い闇に溶け込んで行った。私は細く暗い道に眼をやり、水上勉のことを考えた。
 「水上勉は、此んな暗い道を京から若狭へ歩いて逃げて行ったのかなあ。鳥居本の方にある、あれは若狭街道ですか、水上勉が歩いた道は」
 「水上勉の小説を読むんですか、読み終わった単行本があるので、今とりに行ってきます」
 奥さんは、対面脇にある家の方に小走りに走って行った。奥さんは直に戻って来て、
 「これは,もう読み終わったから,差し上げます。持って行かれて読んでみて下さい」
 それは水上勉の―虫のいのちにも―と題の付いた短編集だった。ぱらぱらとページを捲る。処々、几帳面に定規で、竪に赤線が引いてあった。奥さんは、読み始めた頃は、水上勉のファンではなかったらしい。けれども、何とかと云う小説を読んで以来、水上勉のファンになったのだそうだ。
 店先で話している間にも,数人の探索者が寂光院に訪ねて来た。門前の貼紙を見て帰る人、漬物屋翠月に寄る人と、各人まちまちである。翠月に寄っても、店頭を覗くだけで、その儘帰る人が殆だ。私は―ぶぶ漬―の小さな袋詰を買う。
 ぶぶ漬は、塩漬にしておいた山ブキ、実山椒を大原の清流から吸い上げた水で塩抜きし、それに昆布、しいたけ、きくらげを加え、濃口醤油、たまり醤油、味醂、砂糖を少々加え、じっくりと炊いてつくる。
 と栞に記されてあった。夜、娘のアパートに帰って、カレーライスを食べた時、薤の(らっきょ)替りに、ぶぶ漬を添えた。山椒の実の仏教的な芳香が、口一杯に拡がって行った。
 翠月は、屋根を差し掛けただけの簡単な造りだ。、夜には多分、戸を前面に立てるのであろう。背後は急峻な(きゅうしゅん)山が迫る。店は狭い道に面しているため、道に沿って横に永く漬物が並べてある。
 主人は店頭の右隅に、いつも墨絵の道具としてスケッチブック、筆、顔彩を用意してあり、客足が途絶えた時に、筆を走らせるらしい。
 「絵の立体感を表現するには、筆の先に少し絵具をつけ、その後、筆の先を少し水に浸(つ)けて画面に走らせるとよい」
 昨春、主人はそう云っていた。私も其の技法を試してみた。主人が云う通り、立体感が表現でき、動きのある絵になる。筆に浸ける水の分量により、色の濃さに微妙な変化が現れる。
 翠月で、一時間程、主人と話していただろうか、その内に空模様が怪しくなり、ごろごろと雷鳴が轟い(とどろ)た。寂光院への少ない探索者も途絶えて来た。私は大原のバス停へ急いで戻った。
4 大原の里ー三千院・宝泉院より寂光院へ・スケッチギャラリーへつづく
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