京都ー光と影 2

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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
六 祇園から八坂塔・清水寺へ
 
 阪急京都線長岡天神駅を過ぎた辺で、昨日訪れた西山山腹の勝持寺はどの辺か、眼を凝らす。けれども遠方から眺めるより、やはりその空間に入り、空間に埋没していた方が印象深い。
 四条河原町より四条通を八坂神社方面に足を進めた。四条大橋の欄干に持たれて眺める鴨川縁の景色が印象的だ。川岸に立ち並ぶ料理屋が、鴨川の堤に跳ね出してつくられたー床ーのリズミカルに連なる光景が面白い。ひとつひとつのー床ーは、安普請なつくりだが、其れ等が統一感を持って繋がる光景には、群としてアノニマスな魅力がある。
 橋の畔に付けられた階段を降り、鴨川縁の遊歩道に出た。三条大橋方面を遠望し、スケッチをしようと思った。
 四条大橋の橋桁下に路上生活者が三人、椅子に座って酒を呑んでいた。壁沿いに段ボールやら荷物が、ごちゃごちゃに置かれてある。 其処を横眼に通り過ぎる。まだ朝も早く、初秋とは云え、少し歩けば汗ばむ陽気である。でも川岸には、秋の気配が感じられ,心地好い涼やかな風が通り抜けて行く。
 スケッチの構図のポイントは、川縁に立ち並ぶ料理屋のー床ー、遠方に差し掛かる三条大橋そして鴨川の静かな流れである。
 まだ草木が色付くには早い季節だが、堤を包む草が、僅かに黄色に色変りしているように見える。鴨川の流れは静かで、川底の石に流れがぶつかり、さざ波が白く泡立って輝くのでなければ、流れているとは気付かない程なめらかな流れだ。
 川縁の跳ね出したー床ーを支える細い柱が無数に立ち上がり、眼がちかちかする。背には市街のビル群が、どんよりとした乳色の空気を切り取って立ち上がる。
 近寄れば巨(おお)きな三条大橋も、此処からは、薄い紙を差し渡しただけの頼りないものに思える。その遙か向こうには、なだらかな山並が佇んでいる。
 何とも云いようのない長閑な風景だ。自然の趣きを残した川が、斯様な形であることは、これ程までに、人間の気持を和ませるものなのか・・・。東京の隅田川なども、昔日にはこんな姿だったのか・・・。
 思い掛けず、気に入った鴨川の風景の絵になった。描き終えて四条大橋の橋桁を潜り、路上生活者のそばを通る。
 「此処は、風が通り抜けて気持ちがいですね」
 三人の路上生活者に声を掛けた。
 「そうだよ、此処は涼しいよ、川があるからね」
 怪訝(けげん)そうな眼つきで、座卓に座っている男が云った。三人は私の方を見上げ、一瞬間、喋るのを止めた。
 座卓に座っている山田は、タオルで鉢巻きをし、艶々として血色がよい顔だ。歳の頃は六十歳そこそこだ。右手の伊藤は、肘掛椅子に座り、食パンを千切って食べ、時々、紙パックの焼酎を紙コップに注いでは飲んでいた。伊藤は三人の内では一番歳嵩(としかさ)に見えた。もう一人の男は、私に背を向けて、小さな椅子に座り、一見、気が弱そうで、三人の内では一番、口数が少ない。
 「此処で生活していて、警察は職務質問しないか、ダンボールを強制的に撤去させられないか、先輩には家族は・・・、此処で生活していることを奥さんは・・・」
 「家族はいることはいるが、自由な生活がしたい。誰に拘束される訳でもなく、三日も此んな生活をしたら、自由で止められない。警察はそれ程煩く(うるさ)ないが、市役所の方が却って煩い。京都は観光で食ってる町だから・・・。四条大橋の橋桁の下にいることは家族は知らない。若い頃は我武者羅に働いてきた。あと何年生きられるか分からない。残りの人生を自由に過ごしたいよ」
 鉢巻き姿の山田は、焼酎を時々、コップに注(そそ)ぎ、喋っていた。あとの二人も、そうだそうだと頷き、笑っていた。
 「あそこが一つ空いてるようだが、私も此処に泊めてもらえるかなあ・・・」
 隅の空いていそうなダンボールを指差して云った。
「そうや、あそこは一つ空いている。あそこなら今日からでも泊まれる。前には、若い女や中年の女も泊まったことがあった。女には、俺のダンボールベッドを貸してやったよ。その時は、俺は外の何処かで寝た。男が泊まりたいと云っても、ダンボールは貸してやらない。勝手に空いてる処に寝てもらうだけや」
 伊藤は自分のダンボールを指差してそう云った。上の方、護岸のコンクリート壁から出た鉄筋には、幾つものボストンバックがぶら下がっていた。
 「若い女が泊まった夜、犯罪が起こらないの」
 「女にとっては、街中より、此処の方が、よっぽど安全だ。俺達が犯罪らしきことをしたら、此処にいられなくなってしまうよ」
 山田は焼酎を飲みながら、自説を述べた。 
「男は空いたコンクリートのスペースで、女にはダンボールベッドを空けてやるとは、随分、不公平だなあ・・・」
 「それはそうでしょ、中には、昨年、若い女が泊まったが、一緒に死んで呉れって泣いて頼まれ、困ってしまった。結構ちゃんとした女が来るよ」
 伊藤先輩はそう云って立ち上がり、ふらふらと川縁の方に歩いて行った。喋るのに飽きて散歩でもするのか、と伊藤先輩の背に眼をやった。先輩はやおら股間をまさぐり、鴨川に向けて放尿を始めたのだった。煙草の吸い殻は、鴨川に投げ捨てるやらで、自分勝手な印象だ。そこいらへんが、三人の諸先輩の理論と行動が違う。理論と行動が一致していれば、傾聴に値するのだったが・・・。
 
 身形(みなり)のしっかりした美人が路上生活者の処に泊まりに来るとは、東京でも聴いたことがない。流石に此処は京都なのか・・・。
 放尿が終わって戻って来た伊藤先輩は、
 「此処からは、正面の山に大文字の送り火が眺められ、夏には子供達がする花火も、直そこに見え、退屈することはない」
 そうこうする内に、小椅子の男が立ち上がり、奥方から椅子を一脚出し、私にどうぞと勧めるのであった。前に置かれた小椅子に、私は腰を下ろした。
 焼酎を勧められたが、昼間から赤ら顔で、ふらふら京都の街を歩いているのでは様にならない。伊藤先輩は相変わらず食パンを千切って食べていた。先輩は四条河原を常宿としていない。京都に家があるらしいが、自由な生活を求め、以前の仲間と斯して一緒に生活するのだと云っていた。
 「それでは伊藤先輩は、出世した訳ですね、家を持つ身分になったのだから」
 私が笑いながら話すと、鉢巻姿の山田先輩は、
 「面白いことを云う男だ」
 「併し見方を変えれば、自由な生活から脱落したのでは・・・・。常識的な俗人から見れば、出世と見えるが・・・」
 私は、すっかり三人の仲間になり切って、そう云った。
 私は新宿の路上生活者のことや、関西大学に在学する娘が幼稚園に通っていた頃、公園で彼等に缶ジュースを貰ったことを話した。その時、男の顔には、郷里に残してきただろう子供の姿と私の娘とオーバーラップした影が覗いた。
 「自由な生活はできるが、恐くてできない人が多い。社会的な体面とか、家族のことを考え踏み切れない人が多い。何も俺達みたいな生活をしろとは云わないが、社会のしがれみに縛られた連中が多い」
 山田先輩が云った言葉が、言行一致で印象に残った。帰り掛けに、
 「又、遊びに来いよ、待っているからな」
 山田・伊藤両先輩が、帰り掛けた私の背に、そう言葉を投げてきた。
 新宿・京都の路上生活者の人間模様は別稿で更に掘り下げて述べたい。ここではー京・光と影ーが主題であるから・・・。
 
 川端通との交差点を八坂神社方向に進む。右手の南座前に凄い人集(ひとだか)りがあった。役者の顔見世興行でもあるのだろうか・・・。
 興味半分に私も人込みの後ろの方で、何が起こるのか眺めていた。傍らの見物人に訊くと、ーまね き上げーだと云っていた。客寄せのために看板などを建物の前面に掲げる儀式、祝いの日らしい。
 数分待っていたが、一向に儀式は始まらない。ただ待っていてもつまらない。人込みが切れた辺で、スケッチを始めた。なんせ見物人が多い、筆で一気に感ずる儘に描く。
 見物人の頭頭・・の海の上、南座の前面上部に役者の名前の入った看板が数段に渡って、少し傾げて揚げられている。
 見物人が多い中で一気にデッサンを済ませ、傍らの自転車の荷台にスケッチブックを載せ、色付けを始めた。描く間に、傍らの土産物店の店員さんが覗きに来る程度で、見物人は、役者が出て来るのを、今か今かと待ちわび、顔は建物の前面に設えられた、簡易な舞台のような台に向いていた。
 素早く十五分程で描き上げた。まだまねき上げ興行は始まらない。これでは何時になることやら。先に進むことにした。
 右手に紅殻壁の一力茶屋が見えた。三十年振りに今春、娘と共に京都を訪れた。娘の下宿探しに吹田に行った帰りだった。その時、京都在住の守本氏に久し振りに会った。昼食を摂ろうと車で、一力茶屋の側を通った。その際に守本氏が、
 「これが大石内蔵助で有名な一力茶屋ですよ」
 と聴いていたため、直に一力茶屋であることは分かった。一力茶屋の側道を建仁寺方面に足を踏み入れた。
 学生時代に何度か京都には訪れたが、祇園に足を踏み入れたのは初めてだ。今歩いている道は祇園のメインストリートで花見小路だ。
 道の両側には、土産物店、料理屋、町家が立ち並ぶ。一力茶屋の四条通側は、気のせいか防御的な印象を受けた。側道に現れた表情は昔日の佇を想わせる。
 二階の軒端と土庇の間の壁そして土庇下部の壁は、紅殻の土壁が塗られ、竪に組まれた細い格子が処々の窓に嵌まっている。紅殻の土壁が、内部空間の艶やかな様子を窺わせる。一方竪格子の肌理細(きめこま)かいデザインは艶やかな空間にあって、細やかな人情を感じさせる。
 
 一力茶屋は濃艶な空間と禁欲的空間、両極端の空間を合わせ持った建築だ。建物の足元廻りには、緩く弧を描いた竹製のー犬矢来ーが連なり、一層肌理細かさを強調するのであった。
 外部に現れた表情として、開口部に吊り下げられた簾は透き通るような軽い透過性を感じさせ、趣きのある表情を外部空間につくり出している。横並びに吊り下げられた簾が、色々な高さに巻き上げられ、通りに流動的空間を創り出す。
 一力茶屋をスケッチしている辺から見ると、入母屋屋根が柔らかな線を描く。葺き降りた屋根の頂部の三角壁にも紅殻が塗られ艶やかな表情を表していた。
 色見本帖で紅殻を見れば、かなり派手な色に見えるだろうが、眼前にある一力茶屋の紅殻の塗壁には、派手な印象を全く感じない。派手と表現よりも、それは祇園の街並に溶け込んでいる印象だ。
 小綺麗な土産物店の店先に据えられた、小さな置看板に、スケッチブックを見開きにのせ、この光景を描いた。時々、店の主人が出て来て、ちらっと眼線を投げ掛けて来たが、何も云わない。街並の風情を表現しようと、手前の町家を画面の右に描いた。建物は遠近法が狂ってしまえば、見るに耐えない絵になってしまう。処々、玄関先に植えられた灌木が差し掛ける枝葉が、空間の好い点景だ。
 一時間以上、描いていただろうか、二三十分で描き終わろうと当初は思っていたが、描く内に、こまではとつい考えてしまい、結局、長時間に亘ってスケッチをし続けた。
 その間、幾人かの観光客が通り過ぎて行き、思い思いの店に吸い込まれて行った。
 
 花見小路を南に下って行くに従い、幾つかの小径に交わる。西方に伸びた小径の突き当たりの方は進むに連れ、ビル街になり、それ程風情は感じられない。
 東方への小径は、両側に昔ながらの町家が立ち並び、花見小路には見られなかった、落着いた佇を現す。小径の突き当たりには、横に伸びた径に面した町家が、其のファサードを此方に向け、背には東山連山の山並が、薄紫色に霞む。
 小径に足を踏み入れた。小径から、更に細い径に別れる。径と云うより、路地と云ったらよいのか、家と家との隙間を通路として利用しているのである。隙間径には、自転車やオートバイが片隅に置かれ、生活の匂いを感じさせる。
 隙間径に面し、事務所の看板があったり、そこからだけしか入れない住宅の玄関まであったのには驚いた。建築基準法では、建物は四メートル以上の道に面しなければならない。幅員が四メートルに満たない場合には、建替に際しては、道路を四メートルにしなければならないと云う法四十二条二項道路の規定がある。
 隙間径はその執れにも該当しない。多分、鰻の寝床のように、長く建物が建ち、端部で四メートル道路に面するのであろう。そこに付けられた玄関は貸家のものに違いない。
 この隙間径は、冬の寒さの際はともかくとして、少なくとも、春から秋にかけて、陽差しの強い季節には、日陰になって、心地好い涼風が通り抜け涼しそうだ。実際に私が歩いた時には、陽差しが強く、径に足を踏み入れ、ほっとした気持ちになったのである。
 隙間径のところによっては、上方に上家が差し渡されたいるためトンネル状になり、複雑な径空間を外部に現していた。
 こ二年の間、祇園に三回訪れた。相前後するが、S君の父親が経営するーNーなる料
理屋は、花見小路から別れた小径の突き当たりの角にあった。立ち寄って挨拶しようと近付いて行った。D君、夜遅くまで働いて、昼刻の今頃は、まだ寝呆け眼で驚いてしまうのでは、簾のぶら下がった二階を見上げ、店の前を通り過ぎて行った。
 
 花見小路の東側に祇園歌舞練場がある。其処の竹塀が面白い。塀の上部には小屋根が伸び、壁には半割の竹が竪に打ち付けれていた。竹を打ち付けた釘は、通常の釘のように頭が平ではなく、釘の頭は鈎形になっていた。鉄の肉厚は厚く、錆びたとしても五十年は耐えるだろうと思われる。
 花見小路の突き当たりは、京都五山第三位の臨済宗建仁寺だ。私は建仁寺北門近くから入った。でも北門を潜った記憶がない。その近くの土塀に穿たれた脇門から入ったに違いない。花見小路から水が流れる如く自然に、何時の間にか建仁寺の境内に足を踏み入れていた。
 境内の石畳を、のんびりとした足どりで進む。石畳の奥方に切妻形の大屋根を現した方丈が見えた。方丈前には、拝観するかどうか考えている様子の探索者が二人いた。
 大寺院は、よっぽど強烈な印象がなければ、印象に残らない。それだけ多くの寺院を見ているのかも知れない。
 建仁寺庭園は、禅宗庭園であるゆえに当然枯山水庭園だ。土塀の手前に幾本かの細い樹木が立ち上がる。樹木の足元には灌木が囲み、その縁に護岸の如く石が立つ。差し詰めそれは島を現しているのであろう。
 土塀の中央には門が穿たれ、水平な土塀の静寂を破る。土塀の外には、黒々とした巨大な法堂、重層入母屋造の屋根が立ちはだかる。法堂(はっとう)は庭園の向こう正面に見え、圧迫感さえ感ずる。
 建仁寺の軸線は明確だ。南から勅使門、池、三門、法堂、方丈と南北に直線に連なる。南北軸の東西面には塔頭が(たっちゅう)立ち並ぶ。私はその南北軸の軸線上、方丈中央に座っているため、巨大な法堂を真正面に見据える形になった。
 
 建仁寺の堂宇は、骨太で武骨な男性的印象だ。同じ禅宗寺院の大徳寺の堂宇では、男性的と云うより、肌理細かな優しさを持った女性的印象を憶えた。
 それは、建仁寺の堂宇の空間体験をしたため、斯様な印象を持ったのかも知れない。確かに大徳寺塔頭、高桐院(こうとういん)、孤篷庵(こほうあん)には限りなく繊細な美意識を感ずるのである。
 方丈裏手の茶室東陽坊に進む。茶室近辺には藪蚊が多い。熟(じ)っとしてスケッチをする間に二箇処、
蚊に刺された。
 水屋の天井に架け渡した細い梁が、頼りなさそうに剥ぎ出る。水屋には客人は入らないためか、二畳台目の茶席に比べ素朴さが現れている。
 二畳台目の茶席の天井は、真・行・草三種類の相が現れ、平たい部分、片流れに降りた天井と、狭い茶室空間の中で、小宇宙を表す。 茶室東陽坊に建仁寺垣があった筈である。ところが、スケッチに夢中になり、建仁寺垣を特定するのを忘れた。
 建仁寺垣とは、四つ割り竹の皮を外にして平らに竪に据え、二つ割りの竹を押縁として、わらび縄で結んだ垣根である。造園の授業には必ず出てくる垣根の一つだ。建仁寺の寺僧が考案したところから、建仁寺垣を呼ばれる。 建仁寺の石畳を勅使門の方向に歩く。右手に巨大な法堂、三門が立つ。左方には、塔頭が幾つか立ち並ぶ。
 勅使門の辺は陰気で暗い。そうと云われなければ開かずの扉、時代の遺物としてしか受け留められない。
 建仁寺境内の北側を、くねくね曲がって八坂通の坂道に出た。時々、自動車が通り過ぎて行く。建仁寺境内の静かな佇から突然、俗世間に舞い戻った印象だ。
 坂道の上方に眼をやった。眼前に現れた光景に、私は息を呑み茫然と立ち尽くした。
 「うわっー、これは素晴らしい!」
 思わず独語を吐いた。
 坂道を登った突き当たりに、八坂塔が静かに佇んでいたのであった。坂道は先方になるに連れ僅かに屈曲し、限りなく狭くなって伸びる。
 坂道の両側には、木造の二階家が、ぎっしりと立ち並び、八坂塔まで続く。その二階家の連なりは、此処からは旧い人家のように見えた。
 私が立つ坂道から、数十メートル上がって、横に東大路通が南北に走る。其の通りは交通量が多く、バスや乗用車が、ひっきりなしに行き交う。其処には信号があるため、時々交通が途切れる。
 此処はぜひともスケッチをしなければ、私が立つ八坂通は一方通行らしく、時々、下から自動車が上がって来る。
 絵の構図を選ぶ。当然、八坂通の道路中央が八坂塔をよく眺められ、よいのは分かる。だが中央では、車が通るので危ない。道路の左側からは、左手の仕舞屋(しもたや)風人家に蹴(け)られ、塔の垂直性が表現できない。
 それでは、道路の右側はどうか、今度は右手の仕舞屋で塔が蹴られてしまい、この素晴らしい光景を表現するには充分とは云えない。やはり道路中央でなければならない。
 私は道路中央に立ち、スケッチブックを左腕に載せ、描き始めた。後ろで「プー」と車のクラクションが鳴った。私は振り返って道の左側に避(よ)けた。
 見た儘の印象を画面に走らせている積もりなのだが、八坂塔と、両側に立ち並ぶ仕舞屋の織りなす空間を、画面に表現するのは難しい。
 二回「プー」とクラクションを鳴らされ、その度に振り返って脇に避けた。ふっと右方に眼を向けた。オートバイに跨った白い上衣を着た板前風の若者がいた。気にも留めずに描き続けていた。
 
 道路中央で落着かないが、曲がりくねったデッサンが完成に近付き、背を振り返った。車が五台、私の背の坂道に、無言で停まっていた。変なオッサンが道路中央で絵など描いているが、直に終わるだろう。と描き終わるのを待っているような様子だった。
 丁度、描き終わり、右手を背の車に軽く上げ、道路右側に寄った。其処で色付けをする積もりだ。するとオートバイに跨った、例の板前の恰好をした白い上衣の若者が、
 「此の道は結構、交通量があって、危ないですよ」
 声を掛けて来た。若者は、私が描き始めた途中から描くのを見ていたようだ。
 「此処から眺める八坂塔は素晴らしいですね。道の脇からだと、八坂塔が建物に蹴られ、道路の真中からが一番い眺めになるんで・・・」
 「絵を画きながら京都を歩いているんですか」
 「娘が関西大学に行ってるもので、時々、京都、奈良をこうしてスケッチをしてるんです。絵を描くんですか」
 私は若者の眼を見てそう云った。若者は、この変てこりんなオッサンは一体、何をする男か、と云った不思議そうな顔付きで、
 「ゲイタンを卒業したんですが、自分に合った就職先がなく、親の手伝いを今はしています。執(いず)れ、デザイン関係の事務所で働きたいと考えています」
 「ゲイタン・・・」
 「え、京都芸術短期大学です。其処でデザインを専攻してました。学校に行っている頃は、絵も描いてましたが、今は全く描いていません」
 「京都は、描くところが沢山あり、休日にスケッチに出かければ・・・」
 私は地面に置いたスケッチブックに色付けしながら、若者と話し続けた。刻は昼を過ぎていた。私はディバックから、おにぎりを取り出した。
 「おにぎり食べますか」
 私はおにぎりを食べながら、サランラップにくるんだおにぎりを一個、若者の前に差し出した。
 「ええ・・・」
 若者は、サランラップを剥がし、おにぎりを頬張った。その内に私は、茹で玉子をディバックから取り出し、玉子の殻を剥いて食べ始めた。若者にも茹で玉子を一つ差し出した。若者はそれも遠慮なく食べるのであった。
 
 色付けも終わり、私は立ち上がって若者に向き合った。若者はラーメン屋か大衆食堂の従業員か・・・。
 「何処の店で働いているんですか」
 「父親が祇園で料理屋をしているので、其処で、裏方の皿洗いなどを今はしています。料理に触れるなどは、全くさせてもらえません。兄が、金沢で板前の修業をしてるんで、執れ兄が、父親の店を継ぐことになっています。私は外に出て就職口を探さねばなりません」
 「祇園の料亭の息子さんに、おにぎりなんて申し訳なかったですね」
 私は笑いながら若者に話した。
 「いやー、旨かったですよ。今日は久し振りに人と話しました」
 「祇園の店には、色々な人が来るでしょ」
 「でも、僕らは客の前には出して貰えません。料理なんかも、余ったものを食べるだけです」
 帰り掛けに私は名刺を渡し、小スケッチブックの片隅に若者の住所を書いて貰った。D 君の祇園の店では、一見(いちげん)の客は入れないそうだ。紹介がなければ、快く入れたもえないらしい。彼は私ならば連絡を呉れれば大丈夫だと云っていた。そうは云っても祇園で一晩、過ごすなどは、分不相応なことだ。
 彼は、オートバイの向きを替え、八坂通の坂道を東大路通方向に、エンジンを吹かし、交差点を左方に消えて行った。ほんの二三十分程の接触であったが、若者の葛藤の一端を垣間見た想いだ。
 D 君に会って、一年数ヶ月後平成十二年一月に、東京高田馬場の事務所に、一通の手紙が届いた。封筒の裏には、D・Sと大きな名前が記されてあった。でも住所は記されていない。八坂塔での出会い以来、既に一年以上経っていた。名前までは忘れていた。それでなくても、記憶力が悪くなっている今日この頃である。D とは一体、誰だろう。四角い薄茶色をした封筒をナイフで切った。
 ー八坂通で会ったSです憶えていますか、山口さんは相変わらず絵を描いているんですか。又山口さんの絵を見せて下さい・・・ー
 大きな字で、そんな様なことが簡単に書かれてあった。其処にも住所が記されていない。D 君には確かスケッチブックの片隅に住所を書いてもらった筈だ。一年前のスケッチブックを本棚の奥から引っ張り出して調べた。
 ー京都市左京区祇園・・・・ー
 小スケッチブックの片隅に彼の住所が記されていた。直に、イタリア、ギリシャそして京都を描いた数枚の絵葉書を送った。D 君、思い付いたように何故に一年数カ月振りに、便りを送って来たのだろうか・・・。私にはそれは分からないし訊かない。それに応えるだけである。
 それから数ヶ月経った、その年の暑い盛りの七月下旬、刻は日曜日の夕方六時頃だった。自宅に繋がる事務所の電話が「チリチリ・・・」と鳴った。又、自習室高田馬場の問合せの電話と思い、受話器を取った。
 「もしもし、ス・・・ですが、山口さんですか。今高田馬場にいるんですが・・・」
 私は誰だかよく分からない。
 「ハツ・・・・」
 「D ですが・・・」
 「あ何、高田馬場にいる。一人で、それでは直に此方に来いよ。道は分かる、早稲田通を
真直に・・・・。それじゃ待っているから」
 D 君が遙々、京都から東京に出て来たのである。それから再び、電話のベルが鳴った。道がよく分からないらしい。彼は携帯電話から掛けている。音声がまるみを帯び、聴き取り難い。
 「右手にコンビニミニストップがあるから、そこまで歩いて・・・」
 私は急いで外に出、ミニストップの前に向かった。顔は忘れたしまったが、直に彼だと分かった。彼は思ったより背が高い。まだ立った姿は見ていなかった。彼がオートバイに跨った姿だけしか見ていない。彼はまだ二十二三才である。私などより、私の息子の方が遙かに近い年齢だ。こうして会えば、町を歩く多くの若者と変わらない若者だ。
 彼は既に食事を済ませたらしい。拙宅は丁度、夕食刻だった。有り合わせの摘みでビールを喫み、久し振りに京都のことや若者の考えを聴いた。
 全部の若者がそうではないだろうが、高校、大学に通う年齢になっても、小学校や中学校時代の親友と頻繁に会うらしい。我々の立場からすれば、その時どきの友人と親交を深め新たな友人関係をつくり上げて行くことが大切だと思うのだが・・・。ただ、それだけ、幼い頃の友人を大切にし、深く交わっているのであろう。多分、人を蹴落としたり、表面上だけ親しげにすることを、よしとしないのであろう。
 D 君は、中学校が京都の自宅から遠かったため、親しい友人は小学校時代の友達が多いらしい。今回上京したのも、横浜に住む小学校時代の親友に会うためだったらしい。酒を喫む内にD 君は、
 「今度トランプの絵を描いて、つくって下さい。仏像の絵を集め、それをトランプに刷り込めば、結構いけるかも知れませんよ」
 「仏像でないと駄目かなあ。法隆寺とか竜安寺の絵ではどうかなあ。花札じゃ駄目なの」
 「それより、やはり仏像がいと思います。僕は色々なトランプを集める趣味があるんですよ」
 そう云われたみれば、聖林寺十一面観音像とか、法隆寺百済観音像などの絵を、トランプにしたら面白そうだ。トランプと云う発想が飛躍した考えで面白い。ユニオンジャックならぬ、ユニオンブッダとなるのかも知れない。
 
 翌日、彼は友人と二人で、私の吉祥寺営業所に来た。吉祥寺営業所の半分は、YKギャラリーなる画廊としてある。私が描いた絵を見たいと云って、横浜に住み、眼鏡の会社の営業をしているM君と一緒だった。
 二人は画廊の応接机の前に並んでいた。小学校や中学校時代の友人と、こうして成人後も利害を抜きにして会えることは、複雑に人間関係が交錯する社会、経済の論理が支配する無機的社会において、一方の生き方、あるいは自分が自分であるための一つの切り口ではなかろうか、と思えて来た。
 どこどこ大学を卒業したと云う学歴に拘っているより、よほど人間的であるし、偽らない生き方なのかも知れない。
 「息子さんとか友人と一緒に京都に来て下さい。僕も友人を集めておきます。一緒に何処かに行きましょう」
 彼は帰り掛けにそう云った。
 「近くと云っても、京都は東京から見れば遠いし、東京の近くの鎌倉は、京都からは遙かに遠い」
 そう云ったら、D 君は笑っていた。
 八月中旬、再び彼から電話が来た。
 「盆に東京に行くといってましたが、体調を崩し、入院して行けなくなってしまいました」
 彼は、八月の盆に休みが取れると云って、再び東京に来る筈だった。体調が元通りに回復できるにこしたことはないが、そうなったらなったで、病院で一人、静かに物想いに耽るのもいかも知れない。
 彼との川の流れが、京都八坂通から東京吉祥寺にまで流れ着いた。
 
 八坂通の坂道を上がり、東大路通に出た。東大路通には引っきりなしに車が行き交っていた。八坂塔に近付くに連れ、塔は少しずつ大きくなる。石畳の両側に立ち並ぶ仕舞屋も、その造りが判然として来た。石畳は、八坂塔に向かって登り坂であるため、空間に変化が醸し出され、流動的な印象だ。八坂塔を見上げる恰好だ。塔は実際の高さより高く認識され、優雅に聳え立ち、惚れ惚れするような眺めだ。
 足を進めるに従い、石畳の道は、思ったより道幅が広く、豊かな空間要素に囲まれていた。足を一歩又一歩と踏み出す毎に、八坂塔を中心にした空間は輝きを放つ。私は、胸がわくわくと沸き立つ気持を抑えきれない。
 石畳の両側に立ち並ぶのは、仕舞屋ではなかった。石畳は、八坂塔法観寺の参道であった。そして両側に立ち並ぶのは、土産物店や日常品を売る店、食料品店だったのである。
 それ等の店が、生き生きと石畳の参道に、其の表情を現すのであった。一つ一つの店は、これはと云って、見蕩れる建物ではない。中には、もう少し考えて建てたら、と思うような新しい建物もあった。ところが、それ等が群として石畳沿いに連なる姿は、八坂塔を引き立てるためにあるかのように、自らを従の姿に律している。
 主の八坂塔を従の家屋が支える。それが故に塔は素晴らしい姿に見えるに違いない。全てが主の空間であっては、この煌(きら)めくような荘厳な空間は生まれて来ないだろう。
 
 両側に立ち並ぶ土産物店のファザードが判然と分かるに及び、沸き立った気持は頂点に達した。遠眼であるが、八坂塔の軒の斗?(ときょう)木組の詳細も(ヂイテール)手に取るように、その斗組(ますぐみ)を現す。軽やかな弧を描いた五層の瓦屋根は、木の葉の集まりの如く背の藍青色の空に浮かぶ。
 青空に浮き上がり、透き通った相輪が、木の葉の浮遊の余韻を楽しむかのように、永く天空に尾を引いている。
 石畳の参道の突き当たりには、楓だろうか、紅色の枝葉が参道いっぱいに差し掛かり、黒々とした塔に艶やかな彩を添える。
 土産物店の角でスケッチをした。これ以上、前方に進めば、塔が前面に出すぎてしまう。眺めるには圧倒的迫力を感ずるのだが、参道と五重塔、主と従空間が織り成す見事な空間を捉えられない。
 描く処からは、参道沿いに軒を連ねた土産物店、五重塔が迫り、東山の山並は見えない。塔と軒を連ねた家並以外は、空間の外である。藍青色に澄み渡った広々とした空が天空いっぱいにあるのみだ。恰もこの空間は小宇宙を形成しているかのようだ。
 描く間に、数人の参拝客が石畳を行き交う。優雅で荘厳な空間を無意識の裡に、自からの胎内に受け留め、どの人も穏やかな気持が、全身に溢れ出ている。
 八坂塔は、八坂通を上がった界隈を通る小径の十字路に立つ。東西南北どの方向からアプローチしても、軒を連ねた家並みの透き間を通る参道の向こうに、塔を望むことができる。これぞ将にシンボルタワーと云うべき都市のランドマークではなかろうか。
 法観寺八坂塔の築地塀沿いの石畳を進む。左方に法観寺の参観受付が板塀の切れ間にあった。応仁の乱で堂宇が焼亡し、法観寺には五重塔が残るのみでは、と思っていた。他に薬師堂、太子堂が今に残ることは後で知った。五重塔内部にも入れるらしい。八坂塔を横に眺め、通り過ぎてしまい残念であった。
 二年坂、産寧坂に続く石畳に足を踏み入れた。石畳は不整形に、右方に緩い弧を描いて登る。石畳の参道に立ち並ぶ家々の塀内から立ち上がる樹々の枝葉が覗く。西側の参道に比べ緑葉に溢れている。
 緩く弧を描いた石畳を一歩二歩と進む。僅かに参道の勾配は強(きつ)くなる。何処からが、二年坂であるか判然としない。八坂塔を振り返った処は、既に二年坂かも知れない。
 此処からは二層目に浮かぶ塔の屋根は、立ち並ぶ軒の連なりと緑葉に包まれ見えない。塔の三層目から上の軽やかな木の葉の集まりが、広々とした空に浮かぶ。
 上がって来た分、眼線が高くなり、参道は降って、左方の家並に吸い込まれてゆく。多分、自然発生的に道がつけらたのであろう。紙の上で計画した場合には、斯様な有機的で自然な道にはならない。
 私がスケッチをしている傍らの座るのに都合のよい石垣に、老人が腰を下ろし、行き交う参拝客を見やっていた。人の好さそうな老人で、時折、描く私の方に眼を向ける。そのうちに緩っくりと覚束無い足どりで、私の背に回り、
 「私も以前、水彩画を少し描いていましたが、最近はさっぱり描かなくなった。時々、こうして彼方此方、見て回ってるだけで・・・」
 描くのを覗きながら老人は、心なしか寂しそうに微笑を浮かべていた。
 「この近くですか」
 「下京区・・・近くには角屋が・・・」
 老人はそう云って、もとの石垣に戻り腰を下ろした。八坂塔、石畳の参道そして両側に立ち並ぶ家並が織り成す光景は、絵葉書のような眺めだ。行き交う参拝客は歩く足を止め、八坂塔を背景に写真機を構え、素晴らしい光景を眩しそうに眺めていた。
 そんな時、老人は、
 「写真を撮りましょう」
 そう云って、参拝客に近付き、サービスしていた。朝からそうしていたのかどうかは分からないが、私が立ち去る時には、まだ帰る様子は見られなかった。
 今日一日、特にしなければならない事もなく、社会との接点を、行き交う人達を眺めたり、人が喜ぶこをとをすることに、見出しているかに思えた。
 行き交う人達、写真を撮ってやった人達は晴れやかな空気を振り撒いて、思い思いの方向に背を向け去って行った。何時も残るのは、石垣に腰を下ろした寂しげな老人である。時々、後ろに人の気配を感じ、背を振り返った。描くのを覗いて行く人達が、晴れやかな微笑を浮かべていた。老人は私とは、目と鼻の先の石垣に腰を下ろしている。多分、行き交う人達は、老人と私とは親子と思っているに違いない。絵は思ったより、よい出来映えだった。
 
 二年坂の石畳に足を踏み入れて行った。石畳の参道の両側には、ウインドーの硝子を、ぴかぴかに磨いた瀟洒な店が立ち並ぶ。二年坂の石畳は真直に伸びる。けれども、何処までも連なって伸びるのではなく、程好い長さで弧を描いたり、屈曲して伸びるのであった。
 石畳は、右方に鈍角に曲がった石段に突き当たる。石段は頂の清水坂まで真直に伸びる。石段を上がった途中に、幾つか店に入る入口がある。上方の左手に石垣が見えた。石垣上に築かれた塀内から立ち上がった木立ち樹木の緑葉が、旧いつくりの家並に彩を添えていた。
 階段は、高低差のある道や広場を相互に連結する機能を持つ。ただ連結するだけの機能的階段もある。ローマのスペイン階段の場合、階段を広場的空間と捉え、興味深い計画である。産寧坂は、二年坂と上の清水坂結ぶ道空間だ。石段の両側に軒を並べる家並が、石段に有機的表情を現す。折れ曲がっているが故に、流動的空間を感じ、二人三人と石段を行き交う人達も華やいだ姿だ。
 清水坂に上がった突き当たりに、鉄骨造サイディング張りの如何にも安普請に見える白い建物が立つ。これが、旧い木造の店であったら、産寧坂の素晴らしさはどんなであったろう、と思いながらスケッチをした。
 
八坂塔 八坂塔
八坂塔 祇園 白川.
 
 
 産寧坂を緩っくり上がり、清水坂に出た。清水坂は、二年坂、産寧坂に比べ、はるかに参拝客が多く、肩と肩が触れ合う程だ。今までの静かな佇が嘘のような賑わいだ。カメラを肩からぶら下げた外国人が彼方此方、店を覗きながら歩く姿が多い。それもその筈である。清水坂は、清水寺へのメインの参道なのである。
 一昨年、吹田に下宿探しに来た折、守本氏、娘と三人で、清水坂を上がって行った。その時観光客が行き交う清水坂の雑踏に、京都の一端を垣間見た憶えがあった。
 平成十二年は清水寺御本尊御開帳の年に当たる。三十三年に一度の秘仏御開帳である。そのポスターは何気なく見ていた。清水寺に来て、三十三年に一度の御開帳だと云われた。けれども、それ程期待していた訳ではない。
 人波の流れに従い、仁王門、西門を潜り、清水寺境内に足を踏み入れた。紅葉の頃のような混雑はない。けれども、人の流れの儘、進まねばならない気持になるのが不思議だ。殆どの探索者は、只管、清水の舞台のある本堂を目指す。
 周囲の堂宇に落着いて眼を向ける余裕がない。たまたま、その時がそう云った心境だったのか。いやそうではない。大寺院には、見るべき仏像や堂宇が、彼方此方に其処にあるのが、当たり前のように、眼前にあり、足を二歩三歩を進める内にも、別の国宝級の寺宝ががあるために、参拝する側は感覚を麻痺させてしまうのに違いない。
 本堂の手前に、最近、落慶した経蔵が立つ。三十三年振りの御開帳の催事の一つとしてー祈りの花びら染展ーが行われていた。
 花をモチーフに、現代的な感覚でデザインした、文殊菩薩像などが染められていた。小柄な女性が作者らしく、鑑賞者の間を忙しそうに飛び回っていた。こういった場所で展示会が出来る作者は、色々な階層の人達に、作品を見て貰え、羨ましい限りだ。
 仁王門の石段を上がった境内は平坦である。なるべく、平らな処を選んで寺地としたのであろう。境内には、リニアーに堂宇が立ち並ぶ。
 経蔵を出、人の流れの儘、本堂に足を向けた。本堂までの境内の道沿いに、何んな堂宇があったのか記憶に残っていない。それだけ、行き交う人の流れに眼がいったに違いない。流れは本堂の舞台で澱む。
 右手の舞台には、大勢の参拝客が、舞台からの眺めを愉しんでいた。受付で、右方の舞台に足を踏み入れる人、左方の暗い堂内に入る人に別れる。左方へは、本尊御開帳への道である。其方へ入るには、別に拝観料を払わねばならない。
 本尊御開帳への道は、列を為し込み合う。列の後尾に並び堂内の本尊裏手に回り込む。堂内は真っ暗だ、手探りで一歩二歩、足を踏み出す。本尊裏側から本尊の左方に回り込むのである。暗闇の中で、参拝客の話し声が、騒々(ざわざわ)と聴こえるのみだ。本尊の右手に出た。蝋燭の仄かな灯で、右手の上に安置された像が、ほんの僅か照らされていた。動きのある像であることは識別できるが、何と云う像なのか分からない。
 その像からは荘厳な印象を受けた。私が像を見上げている処は、本尊の正面に向かった隅角部だ。角の入隅になった処は、立ち止まっても、人の流れの障害にはならない。
 私は顔を上げ、幽かに浮き出た像を描き始めた。それこそ、感じた儘、あっと云う間に描き上げた。その間、一分程の刻だった。通り過ぎながら覗いて行った参拝客が、
 「よく感じが表現されている。よくこんな暗い処で描けますね」
 そう云って、人の群れに押し流されて行った。絵は殆ど影の部分で占められ、そこがどのような形になっているのかは、仄かに照らされた部分から、押し計るしかない。
 後で出口の傍らにいた堂宇の男に訊いた。私が描いた像は、風神像であった。後日、私のスケッチブックをぱらぱら捲って、仄かに照らされたこのスケッチを見て、
 「この絵は動きを感じ、流動的でいゝ」
 一分間位で描いたに過ぎないのに、私は、そうかなあと、再びその絵を眺めた。同じ絵を、もう一度描けと云われても、それは不可能であろう。一瞬間、脳裡の片隅でS君を想った。これをトランプの図柄にしたらと。
 人の流れに押され、本尊十一面千手観音菩薩像の正面に出た。仄かな灯明に浮き上がった観音像の記憶はあるが、暗い印象のみが残り、受けた印象の記憶がないのである。
 水の流れのように、本尊を横目に見て進み、本堂内陣を押し流されるように表に出た。
 清水の舞台からは、京都市街が一望の下である。京都タワー、東寺五重塔が遙か彼方に霞んでいた。舞台は水捌けのため、外に向かって傾斜している。
 舞台と外陣には、太い列柱が幾本も立ち空間を分けている。外陣は阿弥陀堂の前庭に抜けられ、内部であるのか外部空間であるのか曖昧だ。外陣で掌を合わせる人、太い梁のような敷居に腰を下ろす人、その前を阿弥陀堂に抜けて行く人と様々である。
 外陣空間は、巾に対し上に高い。頂部には、蔀戸(しとみど)が斜めに差し掛けられる。蔀戸を下げるのは、何んな時なのか、外陣の高さ全てを蓋うほどの高さはなさそうだが・・・。
 蔀戸と云っても、格子に組まれ、裏板がはってあるもんでは無く、格子に組まれているだけで何も張っていない。視覚的には、格子で影になるが、見通せるのである。
 
 外陣を抜け、釈迦堂の前に出た。其の前庭から、音羽の滝に一気に降る石段が真直に伸びる。石を溝形に刳り貫いてつくった三本の導水路から、三筋の糸が弧を描き池に流れ落ちる。導水路は、石で組まれた柱、梁で支えられ、円く弧を描いていた屋根は木で組まれていた。三筋の糸が落ちる処には数人の参拝客が並び、柄杓(ひしゃく)で流れ落ちる水を受けていた。
 音羽の滝のご利益は不老長寿、無病息災と云われるが、三筋の流れのそれぞれに、どんなご利益があるのかは忘れたがあるらしい。全部を叶えるには、三筋の流れ全てを飲まねばならない。其んなことを伏見稲荷大社の宮司さんの奥さんが云っていた。
 釈迦堂から奥院に足を進めた。右手は深く切れ込み、その向こうに清水寺本堂が見渡せる。本堂は、切れ込んだ谷から立ち上がる楓を中心とした樹々の枝葉で、両側が包まれ、舞台を中心とした部分だけが覗く。
 殆どの探索者は、釈迦堂前の永く伸びた石段を音羽の滝に降りて行き、奥院方面には、一部の探索者だけが足を踏み入れて行く。右方は谷が深く切れ込み、処々に杉の巨樹が立ち上がる。枝葉の葉擦れに現れた樹幹が、本堂の舞台に林の如く立つ柱と、好く響き合う。
 
 平安末期に焼亡した清水寺本堂は徳川家光によって再建された。寝殿造風の桧皮葺屋根の両側の軒先には、入母屋屋根が設けられている。本堂の大屋根は寄棟造だ。棟押えの丸太が田舎家のような形で、豪快な姿である。でも親しみを感じさせる形だ。
 此処からは、舞台の井桁に組んだ柱や梁は、少しだけ見えるが、下方の造りは、谷間に生繁った緑葉で蔽われて見えない。スケッチを描き上げた時には、いじけた絵と思って気に喰わなかった。けれども今、斯うして絵を前にして眺めてみれば、結構、清水寺の舞台の印象は伝わって来る。
 なだらかな山道を折れ、音羽の滝に出た。其処には、三筋の流れ落ちる水を、柄杓で受け喜びを隠しきれない参拝客で賑わっていた。
 舞台下方の道を進む。下から見上げると、舞台を支える架構体がダイナミックである。柱が林の如く林立し、横架材の梁が幾段も架け渡される。処々、庇のように見える小さな笠木が柱の頭に付けられ、陰影を深めていた。
 清水寺の堂宇が立ち並ぶ境内は、此処からは、かなり高処にある。石垣が弧を描いて上方に伸び、華麗で迫力のある光景だ。恰も城郭の石垣のようで雄大である。忠僕茶屋の側を通り、清水坂に出た。
 
 清水坂に面し大日堂があった。大日堂は道に面して立派な門が築かれている。足を踏み入れたところは、こちんこちんに固まった土間で、祭壇には仏像が安置されていた。
 京都では、よくこのような小さな御堂を見かける。四条通にもあった。寺なのか神社であるのかは分からない。それだけ信仰が身近にあって、生活の一部になっているのであろう。
 四条河原町の御堂を始めて見た時には、はっとして一瞬間、立ち止まった。京都の人にとってみれば、当たり前の風景で、別段、気を留める様子でもない。時々、年配の人が御堂に向かって掌を合わせていた。
 産寧坂の石段を緩っくり降り、気がついた時には二年坂だった。夕暮だが、観光客が思い思いの店を覗き込む姿がぱらぱらとあった。進むに連れ、二年坂の佇は、夕暮の寂しさを感じさせ、人影も疎らになる。小物類を軒先に並べた店は、品物を片付け閉める準備を始め出した。清水坂から遠ざかるに連れ、寂しさは一層深くなる。
 
 二年坂を八坂塔の方向には降りずに、右方に折れて行った。京都霊山観音神社に至る維新の道に出た。護国神社には、坂本龍馬、中岡慎太郎を始めとした維新の志士の墓がある。そんな訳で維新の道と云うのであろう。
 石塀小路(いしべいこうじ)を歩きたいと思い、高台寺通に進んだ。右手の角は小公園で、石塀小路に入る脇の土産物店は、硝子のショーウィンドーに戸を嵌め、帰り支度中だ。高台寺通の先方も風情がある眺めである。石塀小路に入る前に、高台寺通を先の方まで歩いてみた。右手に細く高い石段が伸びていた。石段の頂には、小さな門に楓の枝葉が差し掛かり、優しげな風情だ。石段脇の立札にーねねの道ーとあった。
 もう少し高台寺通を進み、来た道を戻って来た。戸を嵌めていた店員さんが、店から出て来て、高台寺通を北方へ帰って行った。
 石塀小路の入口に水道検針の小母さんが、オートバイで乗りつけた。石塀小路に入る処には黒い梁状のゲートが架け渡されてあった。
 「この一角は、何んな店があるんですか。よく旧い儘に残って、風情のある通りですね」
 「石塀小路には旅館とか、喫茶店があるんと違いますか。いつ頃から、こんな風になったのか分かりません」
石塀小路は日中でも、行き交う人は少ない。石畳の小路には水が打たれ、冷やかな輝きを放つ。小路に現れた表情には統一感がある。黒板塀を腰に打ち突け、頂には瓦をのせ、その間の小壁は漆喰が塗られている塀。柱を等間隔に立ち上げ、その間には漆喰壁を持った家々が、静かな佇の小路に軒を並べる。
 足を踏み入れた石畳の小路は瀟洒な家に突き当たった。右方斜めに折れ、左角の家から庭木の緑葉が覗き、板塀に差し掛かる。突き当たりの右手は、袋小路で、アクリルの小さな白い看板が掛かる。旅館なのか料理屋であるのか、店の名前が書かれるのみで分からない。多分、料理旅館ではなかろうか。
 看板が掲げられているからには、入っても構わないのだろうが、門内に足を踏み入れるどころか、近付いて門前に佇むことさえ憚れるような、拒否的な表情である。
 研ぎ澄まされた路地空間に、近寄り難い印象を受けた。袋小路に踏み入って、周りを眺め佇むのみだ。
 袋小路の対面には、石畳の小路が真直に伸びる。それは下河原町通に向かう小路である。
 小路の途中、右方に伸びる径に折れた。直に、アクリルの小さな看板を掲げた店だか旅館の通用門口から、黒い服を身に纏(まと)った店の従業員らしき女が出て来た。丁度、店を見上げる私と鉢合わせになった。
 「この店は料理屋さんなのか、旅館なのか、予約なしでも入れるんですか」
 「此処は旅館ですよ、夕食はないが、一万円で泊まれますよ」
 女が一万円と云ったか一万五千円と云ったか忘れた。どちらにしても、思ったより安い。女は颯爽と先方の突き当たりの小路を左に折れて行った。私もその後ろを歩いて行った。突き当たりを左方に折れた。其処に、例の水道検針員の小母さんが、束になった検針票を手に、小路に立ち並んだ家々の標札を眼を皿のようにして見上げていた。一瞬間、眼が合った。小母さんは微笑を浮かべ、
 「よく会いますね」
 「石塀小路は結構、奥まで伸びていますね」
 そう云って、検針員の傍らを通り過ぎて行った。検針員とは、その後もう一度、小路で会った。計三回会ったことになる。その時、検針員は遠くの下河原町通にオートバイを駐めていたようだ。多分、石塀小路の自治会では、オートバイ等の車両の乗り入れを、自粛しているに違いない。
 
 小路の先方、下河原町通に出た処に、トンネル状に黒い門が横に架け渡されていた。陽が落ち掛かって小路の佇は暗さを一層深め、行き交う人もいない。一枚ぐらいは、スケッチをしようと、よい構図を捜しながら石塀小路を歩く。
 下河原町通に一度出、粟田口から石塀小路に再び足を踏み入れた。ますます小路には、暗い大気が漂っていた。
 高台寺通に近い、クランクした小路の片隅で描き始めた。暗くて絵を描く刻ではない、そう思いながらも、石塀小路の研ぎ澄まされた空間、限り無くゼロに収斂し(しゅうれん)た路地空間を記憶に留(とど)めておきたい気持が、暗さに勝った。
 其処は高台寺通を入って、クランクした処だ。前方には冷たい表情の石畳が伸び、再び右方にクランクした小路空間である。クランクするが故に、先方に未知の空間がるのでは、と期待させる。
 描く間に蜻蛉の如く、緩っくりと黒衣の女が現れた。その姿は闇と溶け合っているが、歩が進められるに連れ、闇から抜け出、大きな姿になって、近付いて来た。一方背から音もなく初老の男が近付いて私の前を通り過ぎ、その背を徐々に小さくし、薄墨に包まれた路地空間に溶け込んで行った。
 静寂が支配する幽暗な無の空間である。ただ立って描く私の姿のみが、無の空間にあって、有の要素を現しているに過ぎない。石塀小路には、陽が燦々と降り注ぎ煌めいた空間より、眼前に繰り拡がる薄墨に染まった無の空間の方が、路地空間の本質を現しているのでは・・・。
 デッサンが終わり掛けた頃、背に人の気配を感じ、振り返った。若い花やいだ女が二人、無言で立っていた。振り返った一瞬間、二人は微笑を浮かべ、
 「随分速く描いてしまうんですね、あっと云う間に形になって・・・」
 眼鼻だちの判然とした方が私の眼を見てそう云った。片方のふっくらとした顔に可愛らしい眼をつけた女は、デッサンの終わった絵を、興味深そうに覗き込んでいた。
 「これから簡単に色付けするんですよ。この石塀小路には、京都の研ぎ澄まされた空間が収斂されてるように思える。素晴らしい路地空間ですよ。よく此処を御存知だったですね」
 石畳にスケッチブックを置き、色付けしながら話した。女もしゃがんで、私が色付けするのを終わるまで見るのであった。女は、
 「高台寺通から、何となく面白そうで、この小路に踏み込んで来てしまったが、凄くいゝところですね。もう沢山、描いたんですか」
 色付けしながら、もう一冊のスケッチブックを取り出し、女に差し出した。その間にも二三人の人影が通り過ぎて行く。闇に包まれた路地の隅で、三人のしゃがむ姿に、何をしているのだろうと、無言で覗き込み、背を少しずつ小さくさせ、闇のベールの掛かった小路の奥に、吸い込まれた行った。
 
 二人の女は埼玉から、三都物語と銘打って、大阪、神戸、京都と旅し、最後に京都に来た。と云っていた。今日神戸から京都に来たらしく、二人共、いくらか大き目の防水のきいた布製のバックを持っていた。
 三都物語とは名前の響きはいゝが、京都だけに絞って、緩っくり旅した方が、落着いた旅ができるのでは・・・。そう思いながら二人の話を聴いた。けれども、幽暗な石塀小路の研ぎ澄まされた空間と、はち切れん許かりの肢体につけた花やいだ衣裳、乾いた空気を持った可憐な女、それらは対極にあるには違いないが、夕暮の薄墨に染まった空間とよく響き合っていた。
 描き上げ、絵の道具を片付け、三人で石塀小路を下河原町通の粟田口に向かって歩き始めた。下河原町通に出、角を折れ東大路通のバス道路に出た。
 二人は、これから京都駅の南側のホテルに戻ると云って、バス停に向かった。私は、祇園を抜け四条河原町に、ぶらぶら歩いて行った。 
6 祇園から八坂塔・清水寺へ-スケッチギャラリーへ
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