京都ー光と影 2

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7  六角堂・楽美術館   おすすめサイト
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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
六角堂2 六角堂1
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二  銀閣寺から法然院へ
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四  上賀茂神社・社家
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七  黄檗山萬福寺から興聖寺へ
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十一 鞍馬寺から貴船神社へ
十二 
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六  祇園から八坂塔・清水寺へ
七  六角堂から楽美術館へ
八  赤山禅院から修学院離宮へ
九  円通寺から岩倉へ
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十一 宇治・平等院
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三  嵯峨野ー常寂光寺・落柿舎から二尊院へ
四  嵯峨野ー二尊院から祇王寺へ
五  嵯峨野ー仇野念仏寺から鳥居本平野屋・愛宕念仏寺へ
六  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ1
七  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ2
八  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ3
九  
十    
          
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読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
七  六角堂・楽美術館
 
 京都御苑内の宮内庁京都事務所で‘桂離宮参観の予約をする予定だ。四条烏丸から烏丸通の雑踏の中、京都御所を眼指す。烏丸通は京都の中心的な業務街だ。行き交う人はスーツ姿のビジネスマンが多い。
 非日常的なーハレーの空間に接する日が多かつた。スーツ姿を前に、日常的なーケーの空間に引き戻された印象だ。京都に住む人にとつては,京都のーハレーの空間に身を委ねたとしても、意識としては、非日常的体験ではないかもしれない。
 空間としての距離がゼロに近い。遠く離れた東京から京都へは五百キロメートルほど離れ、新幹線でも三時間かかる。自宅からでは、ほぼ四時間の旅程だ。
 新幹線ではなく、夜行の鈍行列車では、八時間近くかかつたように想う。そこに至る時間が長い場合には、かなり遠方に来た印象で、空間的な拡がりを感ずる。
 シルクロードを旅していた時、インドとパキスタンとの国境の町アムリッツアーからパキスタンのラホールを駆け抜け、一気にアフガニスタンとの国境に着いた。国境近くの町ペシャワールで仮眠し、カイバル峠を越え、アフガニスタンの首都カブールに入った。
 その間、確かに二日間だったように憶えている。カブールの安宿の窪んだベッドに、下痢気味の体を横たえ、三日前は何処にいたんだろう、とふっと考えた。
 三日前には、国を一つ越えたインドのアムリッツアーにいたのである。そのとき、三日前が、三ケ月前なのでは、と錯覚に陥った事を今でもよく憶えている。
 時間は経っていないのだが、空間的な距離と同時に、文化的な飛躍が余りに大きかったため、そう感じたのである。時間と空間そして文化の飛躍が、非日常的体験へとつながってゆくのに違いない。
      
 スーツ姿の日常的な男達を、異質の人間として眺めた。けれども、時間と空間が元にもどれば、自らが異質の人間の仲間入りをするのである。時間と空間、文化の飛躍は実に素晴らしく、面白い体験を与えて呉れる。
 烏丸通が六角通と交わる交差点から、六角堂の山門が、枝葉の葉擦れに覗いていた。門前に立ち、門内の賑わいを暫く眺めていた。ビル街の中に立つ寺であるため、風情ある寺であるとは期待していなかった。
 ところが、六角堂がある一角だけは、狭い境内に参拝客が行き交い、昔からの町堂の(ちょうどう)面影を色濃く遺し、活気ある賑わいを見せていた。
 境内に足を踏み入れる前に、山門の対面に立つ鉄筋コンクリート造タイル張りの大きなビルを見あげた。S氏が設計した池坊関係のビルはこれだろうか。S氏はアプローチ設計のコンセプトとして、法然院の参道から境内に至る結界の手法を思い描いた。
 法然院では参道から数段の石段を上がり、瀟洒な山門のレベルに至る。境内へは、其処から、上がった分だけ石段で下がるのである。山門の処では、両脇に土塀を廻らし結界を築く。わざわざ石段で上げ、心理的な効果を図っていた。
 私はそうS氏から聴いた。一度、レベルを上げ、それから下げる手法だ。六角堂山門の対面の建物は、大きな階段を上がった先方にエントランスホールがあった。法然院に比べ、階段は随分、幅広く高いと感じた。私はビルのエントランスホールに入った。何処か下がるところがある筈だと、ホールの中を捜すが、それらしき階段は見当たらない
 受付の男に、
 「このビルはT建設が最近、造ったんですか」
 「いや、これはK建設で、建設後十年程たっています」
 どうもS氏の設計ではなさそうだ。私は再び六角堂山門に戻った。山門を潜ると、両脇に地摺れの柳が立ち上がり、本堂は、手前の柳の枝葉で両脇が包まれ、中央部分のみが覗く。山門から本堂の礼堂までの空間は、密度が濃く、古色蒼然とした雰囲気だ。
 
 六角堂礼堂の前に立った。内陣中央に観音像が安置され、両脇中央には、天蓋が吊り下げられ、黄金色に燦然(さんぜん)と輝きを放つ。境内に立つ研修生の宿舎脇で六角堂のスケッチを始めた。
 六角堂の複雑な造形が外部に現れ、屋根の形が描くのに難しい。併し此処からでなければ、六角堂の印象は表現できない。描き始めのスタートで、六角堂を小さく描きすぎ、ちまちました絵になってしまった。
 描きおわった頃、薄緑色をした作業衣姿の男が私の傍らにきた。
 「短い間にさらさらと描いてしまいましたね」
 「どうも、絵がちまちましすぎてしまった」
 「皆さん、此処からよく絵を描いていますよ。中には朝きて夕方まで描いている人もいますよ。夏休みには、子供達が大勢、描きに来てました」
 男は境内の鳩の世話をするため六角堂に勤めているらしい。 
 「六角堂の住職は、池坊専永氏で、住職さんの奥さんは国会議員をしてますよ」      「えっ、華道家元の池坊専永氏は僧侶なんですか、それはしらなかった。奥さんの保子女史が国会議員であることは、一時話題に上っていたので・・・」
 六角堂は正式には頂法寺(ちょうほうじ)と称する。頂法寺の一つの坊として池坊があった。十二世の住職池坊専慶は活花の名手であり、立華(りっか)の祖といわれた。以来、池坊は伝統的に活花の指導的立場を確立してきた。
 池坊流活花に関し、そんな歴史的背景があったことを、始めて男から聴いて知った。現在の家元専永氏は、時々、僧侶の袈裟姿で六角堂に来るらしい。専永氏には娘さんが二人いて、姉だか妹の主人は大蔵省に、以前、勤めていたらしい。現在は何の職業なのか、その人が頂法寺を跡を継ぐのか、娘さんが継ぐのか、そこまでは男は知らなかった。
 
 「専永氏が動物を愛護するため、斯様に境内には、沢山の鳩がいる。鳩の世話をするのが、私の務めです」
 男は微笑を浮かべて云った。そう云われて見れば、六角堂の天井に、左右に一つずつ四十センチーメートル四方に穴が切られあり、そこに鳩が入って行った。暗い天井裏で鳩が翼を休めているのが、切られた穴から見えた。穴の周囲は、鳩の糞で斑に盛り上がり、眺めている間にも、数羽の鳩が、天井裏に潜(もぐ)り込んで行った。
 鳩を敵視し、軒下回りを金網で防護する寺院が多い中で、六角堂の住職専永氏は、広い識見を持ち合わせた僧侶であることが窺える。
 男と話す裡に、S氏の設計した建物は、池坊学園ではと思った。池坊学園は此処から少し歩いた処にあるらしい。S氏は学校建築が専門である。多分、池坊学園がS氏の設計した建物に違いない。
 
 男と話しながら、同じ位置から二枚目を描き始めた。一枚目のスケッチは、小さくちまちました絵で、気に食わなかったから。私が描き始めて直に、男は去って行った。
 六角堂の横幅と背の高さは同じ位だ。まず手前の軒端の線をスケッチブック上にどの位の長さで描き入れるかによって、全てのプロポーションが決まる。
 その時には。頭の中で画面構成を思い描いているのは当然だ。そこのところを間違えば、自分がイメージした絵にはならない。
 二枚目は、大胆に軒端の線を長く引いた。思った通り、ダイナミックな絵に変身していった。一枚目のスケッチとは見違える出来映えだ。
 
六角堂礼堂 楽記念館
 
 
 六角堂の形は正六角形の形ではなく、拝殿に面した辺の長さは、他の五辺に比べて永い。拝殿の平面は長方形で、六角堂とは構造的には切り離され、柱は兼用していない。空間として一体の構造として見えるのだが。
 拝殿の天井からは、大きな提灯が吊り下げられている。提灯の朱色が剥げかかり、如何にも歳月を経て来ている印象だ。拝殿の左右には、六角堂に対し平行に、厚板の長椅子が設えられ、本堂である六角堂と相俟って、古色蒼然とした趣きを現す。
 
 六角堂は現在、高層ビルに囲まれる。ビルは、殆ど池坊に関係した施設のようだ。作業員の男の話によれば、ゼネコンはK建設らしい。私は、てっきりT建設が池坊のお抱えゼネコンと思っていた。
 ビルの階によっては、衣料品店、土産物店、予備校等のテナントが入っていた。
 烏丸通に面したビルのエレベーターは、展望エレベーターだ。六角堂を上空から眺められ、六角堂の屋根伏が手に取るように分かる。展望台はなく、動くエレベーターから眺めるだけだが、複雑に入り組んだ六角堂の造形が見渡せる。ビル内のエントランスホールを烏丸通に抜け、一路、宮内庁京都事務所へ進む。陽差しが強く、烏丸通を歩くには暑い。ビル街をあるくのも風情がない。途中、烏丸通東側の間道を進んだ。
 
 丸太町通との交差点、烏丸丸太町に着いた。右前方に樹々が生繁った森がある。京都御苑だ。丸太町通に面した右方に南門が見えた。南門を潜り、御苑の中を抜け、乾御(いぬい)門近くの宮内庁京都事務所に進む。
 京都御苑は東京で云えば、皇居外苑に相当する。京都御所の建礼門(けんれいもん)に達する玉砂利を敷き詰めた道は、徒(だだ)っ広く、儀式でもあって道の両側に、見物人が押し寄せてでもいなければ、無味乾燥で権力主義的な空間であるに過ぎない。
 それでも、松の木が立ち上がる緑地帯を挟んだ道は、程よいスケールを持ち、緑葉に包まれた空間で心地好い。緑地帯の木陰にレジャーシートを敷き、小さな子供を連れた母親のグループがいた。私が通り掛かったときには丁度、昼食中だった。
 あどけない恰好の子供達の姿を見、ふっと思った。彼等が中学、高校に行く頃には、自我が目覚め、親に反抗したりするのだろう。連れ添う母親は、まだその苦労は知らない。今は、母親の意志の儘、母親の影響の下に動き回る子供達、母親同士も和気藹々(わきあいあい)と、賑やかな刻を過ごしているが・・・。
 
 宮内庁京都事務所は、木立ちに囲まれた閑静な処に立つ。平家の水平線を強調した鉄筋コンクリートの建物で、ミースファンデルローエのフアンスワース邸を思わせるデザインだ。
 水平に架け渡されたプレキャストコンクリート製の階段を二三段上がり、ガラス戸を押し開けた。狭い客溜まりには、既に、外国人二三人と日本人が、中央に置かれた記帳台に向かい、申込用紙に記入中で、参観の申込みをしていた。
 宮内庁京都事務所では、桂離宮、修学院離宮、仙洞御所の参観申込が出来る。外国人であれば、当日の申込も可能であるが、日本人は翌日以降の申込予約だけが受付けられる。
 事務所には数人の職員が忙しそうに動き回る。受付には三台のパソコンが置かれ、口頭で桂離宮の参観希望日を云えば、予約状況を検索して呉れる。
 修学院離宮は翌日の予約をとれたが、桂離宮に関しては、一週間後の月曜日になってしまった。申込用紙に所定の事項を記入し、最後に車の免許証を提示し、本人であることを確認し申込完了だ。
 職員が話すには、紅葉のシーズンの秋は、十二月五日頃まで、予約が一杯で、参観は五日以降になるらしい。それも九月中旬の予約状況のことである。通常では、郵送で参観予約をする。参観希望日の三ケ月前から受付けている。
 
 京都御苑の西方五百メートルの処に楽美術館はある。御苑から歩いても行ける距離だ。烏丸通を越え、閑静な佇の道を選びながら進む。幾つか角を折れ、新町通を過ぎた辺に、閑静な板塀を連ねた家があった。
 板塀の上には瓦がのせられ、手入れのゆきとどいた庭木が板塀の向こうに立ち上がり、瑞々(みずみず)しい緑葉に包まれていた。庭木の樹幹の向こうには、入母屋屋根をのせた母家が佇む。窓に嵌まった硝子はぴかぴかに磨かれていた。家の主の几帳面な性格が現れると共に、芸術的センスを思い浮かべさせる家だ。
 細い道を右方に折れ、左手に楽美術館があった。 そう云えば、その時は楽美術館とは、気付かなかったが、この前を歩いた憶えがあった。不審庵、今日庵を訪れた時だ。
 楽美術館は鉄筋コンクリート造である。隣接して瀟洒な木造の建物が立つ。楽家の本家だ。道沿いに連なる壁は、家屋の一部だろうか、腰には竪に板が打ち付けられ、かなり高処のその上には漆喰が塗られ、持出桁に支えられ、頂の小屋根には瓦がのせられている。
 処々、出窓が壁面から飛び出し変化ある表情を、道に現す。足元周りの犬走りには、弧を描いた駒返しが設けられ、京都らしい風情を、かもし出す。
 連続的に連なる壁に、凹んで幾らか高い門が築かれ、両脇の壁に挟まれ、格子戸が嵌まっていた。塀内からは枝葉が、溢れん許りに瑞々しい姿を現していた。
 道路から飛び石伝いを奥まった玄関に進んだ。靴を脱ぎ、黒御影石のカウンターで受付を済ませる。黒御影石カウンターの背の黒い引戸を引き開け、ラウンジに足を踏み入れた。
 エントランスホールは、幽かな明かりで仄暗かったが、足を踏み入れたラウンジは、前面が矩折(かねお)りに総硝子張りで、ラウンジに足を踏み入れた途端、庭の緑葉が眼に飛び込んできた。ラウンジには円い藤椅子が幾つか置かれてあった。左手の展示室では、先客が二三人、展示品を鑑賞中だったようだが、ラウンジには誰もいない。
 歳のせいか、体は疲れないのだが、膝下が怠く疲れ、籐椅子に腰を下ろした。年配の夫婦が展示室から出て来たのと入れ替わりに、展示室に足を踏み入れた。
 三千家―表千家、裏千家、武者小路千家ーを中心として、千家の歴代当主が焼いた茶器が、壁の周りにぐるりと嵌め込まれた硝子ケースに展示されていた。
 赤楽焼茶器、黒楽焼茶器を中心として展示される。楽焼の特徴は轆轤(ろくろ)を使わないことらしい。それだけに、各茶器は不整形な形で、肌の温もりを感じさせ、味わいのある茶器である。
 一つ一つの説明書を読むには、時間もかかるし、立ち尽くしていなければならない。先客は、母娘の二人だけである。茶器の展示となると、お茶に興味ある人か、お茶の先生が多いのだろう。一階の展示室を一回りしたところで、再びラウンジに戻り小休止した。
 休む間に、和服姿の中年三人組がラウンジに入って来た。今日庵にでも行った帰りだろうか。女が三人寄れば姦(かしま)しい、その字句通り騒々しく、傍らで休む私には、聞くに耐えない。折角、静かなラウンジであるのに・・・。五十歳は越えているだろうか、中の一人はお茶の先生のようだ。
 これでは敵わぬ、私は先に展示室に入った。中二階、二階へと進む。一階では三千家の歴代当主の作品が展示されていたが、二階には、三千家から別れた、石州流や薮内流を始めとした流派の歴代当主が焼いた茶器が展示されていた。各流派の歴代当主は、陶芸の道では素人である。それだけに自由な発想が感じられる作品が多く、寂びた裡にも大胆なデサイン感覚を表現した茶器だ。
 
 ラウンジに嵌まった格子戸を引き開け、エントランスホールに出た。漆黒の輝きを放った黒御影石のカウンターのうえに幾種類かの案内書が並べてあった。楽美術館の予定表や、北村美術館の案内書だ。 
 カウンターの前に立ち止まり、案内書を見ていた。受付の向こうの扉を押し開け、学芸員らしき女が、心持ち頭を傾げて出て来た。北村美術館を含めた幾つかの美術館について訊いた。それから楽美術館について、 
 「此処は常設展ですか。千利休と関係があるんですか」
 「いつもは楽焼を展示してあります。今回は。茶道家元の作品を中心とした展示になっています。楽家は元々、陶芸家で、千家に茶器を納入してました。当時、陶芸に使う土は伏見方面から買い求めた。この美術館が立つ場所は、その土の置場だったそうですよ。隣接した木造の家が、楽本家です」
 「へえー、土の置場があったんですか。伏見の土でないと駄目なんですか」
 「伏見の土がよかったらしいですよ、今では違った処の土をいれてます。土は三代、寝かせた上で、始めて陶芸に使います。今、楽家の当主が使っている土は三代前に集めた土ですよ」
 「三代前の土とは、かなり古い土ですね、江戸時代に集められたものですね」
 私は陶芸については、詳しくない。古伊万里とか赤絵と云った名称を知っている程度だ。
 「陶芸に使う土は、長い間、寝かせると、石のように固まるんで、それを砕いて石粉状にするんです。砕いた石粉を、体重を掛け何度も捏(こ)ねて作品をつくる訳です。それは大変な作業らしいですよ。楽焼は轆轤を使わず、手の動きだけで形にする特殊な技法を受け継いでいます。今日、展示されている作品は、家元さんのもので陶芸に関しては素人さんです。本当の楽焼は大変なものです。けれども素人であるだけに、自由な形になっているとも云えます。楽焼の職人は体力も使い、一人前になるには大変ですよ」
 話を聴くうちに、年配の夫婦が、ガラス戸を押し開けて入って来た。頃合いを見計らい学芸員の女に礼を述べ、夫婦と入れ替わりに、飛石伝いを外に出た。
 楽美術館から少し行った処の一条通を左方に折れた。楽美術館で見掛けた、陶芸家風の男と相前後して、一条戻橋のバス停に向かった。男は先に着き、バス停のベンチに座っていた。彼とは道では黙礼した程度だった。
 男は芸術大学の教授のようにも見える。男も私のことを何者なのか、と恩っているようだ。そうこうする内に、四条大宮行のバスが来た。男は方角が違うのか、大宮行のバスには乗らない。車窓から、ベンチに座る男を見送った。自分が疲れていたためか、車内には気怠い空気が漂っていた。
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