京都ー光と影 2

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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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十二 
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四  嵯峨野ー二尊院から祇王寺へ
五  嵯峨野ー仇野念仏寺から鳥居本平野屋・愛宕念仏寺へ
六  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ1
七  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ2
八  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ3
九  
十    
          
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読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
九 円通寺から岩倉へ
 
 朝から、しとしとと雨が落ちていた。小雨そぼ降る円通寺は又、格別の風情があるのではなかろうか・・・。多分、比叡山は乳色の空と、一体に溶け込み、その雄姿は識別できないかも知れない。
 なにはともあれ、四条河原町より岩倉行きのバスに乗った。バスは川端通を叡山鉄道と平行して走る。叡山電鉄から眺める車窓の光景と、バスの車窓からの眺めは、印象が違っていた。
 叡山鉄道の車窓からは、畑や山そして麓に連なる家々が、緑葉に浮かんでいた。バスの車窓からは、道路沿いに店舗が立ち並び、その背後に、民家や比叡山を見渡す眺めだ。眼前の店舗が占める比重が視界の八割もある。
 叡山電鉄からの光景を思い描いていた。それだけに、随分、開発された地域である印象を受けた。
 終点岩倉操車場に着いて私は一瞬間、バスを間違って乗って来てしまったのでは、そう思って、バス停の円い標識を確かめた。標識には判然とー岩倉操車場ーとあった。此処は紛れもなく岩倉だ。
 バスが走る岩倉の幹線道路は、巾員が数メートルもある。道路沿いには、五階建ほどの中層の共同住宅が彼方此方に立つ。面積の大きな駐車場を道路沿いにもったスーパーもある。幹線道路から入り込んだ脇道には、新しい木造の一軒家が、東京近辺と変わらぬ姿で立ち並ぶ。
 都会が、その儘、ぽんと田園風景の中に置かれ、その土地の歴史や伝統、風俗とは無縁にあった。点と点が道路と云う線で結ばれ、点から点へ移動するだけで、生活できる都市空間が其処にはあった。点が線そして面として周辺に拡がってゆき、もの自体が内在する質を現した都市、そんな質はこの岩倉には感じられなかった。
 
 私がこの近辺、円通寺、国立京都会議場を訪れたのは、かれこれ三十五年前である。その頃、この辺は田園風景に囲まれていた。時が経てば、都市も変貌して行く。三十五年振りに訪れたために、其の変貌が、極端に現れて感じられる。自分が住む町の三十五年前を振り返って見れば、その変化は理解できる筈のなのだが。
 幹線道路を西方に向かった。バスを降りた時より、雨脚は強くなる。この雨では円通寺の借景庭園では、遠方に比叡山は眺められないだろう。
 西方にむかっていると云ったが、なにを感違いしたのか、南方に向かう道を地図上で見ていた。ここから先へは、そんな訳で、自分が、どうして此処にいるのか理解できなかった。
 地図に載せられた寺などの施設が、最近、其処に引っ越して来たに違いない、と確信して歩いた。自分は間違ってなく、地図が移動した施設を正確に書き替えていない、と思い込む。
 突き当たった道を右方に折れた。この道も結構、交通量の多い道だ。十メートル程、進んで、左方に折れ、坂道の住宅街に入り込んで行った。この一角は、大きな敷地の家が石垣を高く積み上げ、固く扉を閉ざしていた。坂道の先方は山林に突き当たった。おかしいと思いながら、来た道を引き返す。道を訊きたいと思っても、行き交う人もいない。途中、角を折れ、道路と平行に歩いた。左手奥方、住宅の軒端が連なる向こうに一際高いストーバが見えた。ストーバとは仏舎利塔と同意語だが、私の脳裡には、一瞬間、ストーバと云う語が浮かんだ。
 京都の寺院にしては、珍しく石造の塔だる。新興宗教の本拠地に違いない。そう思って、特別、見たい気持も起こらなかった。
 突き当たりに駐車場があった。若い男女が駐車場に車を駐め、駐車場の向こうに見える道路を、急いで上がって行った。私は、際のブロック塀の崩れた処から駐車場を通り抜けた。
 駐車場の入り口に妙満寺(みょうまんじ)の看板が揚げてあった。矢印が今、男女が上がって行った方向に向いていた。
 私も道を上がって行った。左手に門があった。山門脇の石碑にー顕本法華宗総本山妙満寺ーとあった。
 あれっ、何故に此処に妙満寺があるのか、もっと東側に妙満寺はある筈だ。そう思ったが、折角、妙満寺まで来たのだから、山門を潜り、境内に足を踏み入れることにした。
 
 妙満寺境内の佇は整然とし、塵一つ落ちていないと思える程、清掃が行き届き、整然としていた。山門から伸びた石畳の突き当たりの石段の頂に、本堂が立つ。本堂の背後には、こんもりとした緑葉に包まれ、緑葉は左右になだらかな線を描き背を低くして連なっていた。
 左手奧には、先刻、遠望したストーバが、インド風の表情を現す。玉砂利を敷き詰めた庭を挟んで、石畳の両側には幾つかの塔頭が並んでいた。
 左手の塔頭の一つから、右手の方丈と思われる堂に、行き交う人の姿が、ちらほらあった。この妙満寺の佇には、新興宗教にありがちな新しさと、宗教的な統一感があった。
 今日は九月二十三日、お彼岸だ。法事客が多いに違いない。石畳に足を進め、宗務庁にった。玄関の左に事務所があった。硝子戸の小窓を、手の甲で叩いた。直に作務衣の小僧さんが出て来た。
 「この寺は拝観できますか」
 「どうぞ、自由にして下さい。。今日は法要があるさかい、人が多いですが・・・」
 傍らに置いてあった寺の案内書を貰った。小僧さんに円通寺への道を訊いた。小僧さんは、奥方から地図を持って来て、丁寧に教えて呉れた。それでやっと、私は、地図上の自分の位置を見誤って歩いて来たのに気がついた。
 寺の規模の割には狭い玄関である。そこでスリッパに履き替えた。右手には小部屋が幾つかあり、法要の控え室になっていた。私が僅かに顔を出したところ、何人かは、不思議そうな眼を向けて来た。
 
 本堂の方へ、渡り廊下を渡って行く。宗務庁から本堂へは、廻廊風に、渡り廊下が設けられているのである。
 本堂には、法事の参列者が数人、座っていた。本堂両脇の壁には、教祖日蓮と日什の生い立ちを描いた絵が揚げられていた。
 本尊の位置には日蓮上人の木像が安置されてあった。日蓮宗は偶像を信ぜず、只管、南無妙法蓮華教を唱えれば救われる、そう云う教えの宗教と思っていた。本堂を宗務庁に引き返し宗務庁の件の小僧さんに、
 「日蓮宗は偶像を信じないのに、何故、日蓮上人の木像があるんですか。妙満寺は、最近できたんですか、新興宗教ですか・・・」
 「確かに、あれは日蓮さんの木像です。それはそうですが・・・。新興宗教ではありません。七百年たっています」
 小僧さんは、手強い相手が来たな、と云った表情だ。小僧さんは、そのうちに、奥方に寺の歴史に詳しい僧侶を呼びに行こうとした.小僧さんに、
 「ありがとう御座いました・・・」
 私は、手を上げ、小僧さんが奥方に行くのを制しながら、そう云い、玄関の方に進んだ。
妙満寺境内に立った。ストーバだけは石造か鉄筋コンクリート造である。でも、本堂を始めとした堂芋は日本古来の木像建築だ。
 妙満寺は、昭和四十三年に昭和の大遷堂と称し、現在の地に移った。それ以前は、寺町二条にあって四百年ほどの間、寺町二条の妙満寺として親しまれていた
 妙満寺の小僧さんに教えられた通り、来た道を引き返し、住宅街の間道を円通寺を眼指す。住宅が立ち並んだ細い坂道を、くねくねと上がって行った。
 小丘を切り開いた処であるから、道は直角に交わっていない。再び方角が分からなくなった。両脚は幾らか細くなり、歩き易くなった。近在の人に訊いた。小丘を越えれば、円通寺への道があるらしい。
 小高い丘を越え、道は下り坂になった。相変わらず、人家が立て込んでいるが、今迄ほどでない。右方には稲田が拡がる。
 降り坂のためか、開けた印象だ。坂道も終わり、気がつかない内に平坦な道になった。少しずつ、イメージしていた岩倉の地の風情を感じ始めた。
 先方のT字路の右手に、円通寺と書かれた標識が壁に掛かり、矢印が左方を向いていた。円通寺はもうすぐ近くだ。T字路に町内地図が壁に掛かっていた。円通寺は左方に折れば、直
左手にある。
 小径を左方に折れた。二三人の探索者が歩いてた。円通寺から出て来たのだろう。左手、石畳の先に小さな円通寺山門が小雨そぼ降る中に立っていた。
 山門の左脇にー不許可酒肉・・・ーと彫られた石碑が立つ。のっけから、淫らな行為は許さない。そう宣告された印象だ。
 山門を潜って左方に、秩父宮殿下お手植の松があった。そう云えば円通寺は門跡寺院であった。
 石畳を右に行けば、十歩ほどで、円通寺の受付である。三十五年前に訪れた時の記憶には、このアプローチ賂は全く残っていない。
 玄関に足を踏み入れた。暗い堂内の右方、カウンターの中に、作務衣の若そうな僧侶が座っていた。
 私が三十五年前に会った住職の姿はない。あの当時、多分五十歳位だったのでは・・・今、私の眼前に座っているのは、先代の住職の息子なのか、従業員なのか、そんな事を思いながら受付を済ませた。
 「三十年振りに来ました。比叡山を借景にした庭園がすばらしかったので・・・」
 そう話し掛けたが、その事には無言であった。
 「カメラをお持ちですか。持っていたら、こちらに預かります」
 「持っていますが、写真は撮りません」
 「皆さん預かっていますので・・・」
 カメラと引換に木札を渡され、男はカウンター脇の木棚にカメラを入れた。初めから疑られているようで、印象が悪い。折角、先代の住職さんの話を聴かせてほしいと思っていたが・・・。多分、先代の住職さんの息子で現在の住職だろう。眼が現実の世事に向き、人間的余裕が感じられない。あるいは、まだ若いため、自分が考えているある一点に神経が集中し、他事に眼を向ける余裕がないのか・・・。
 時々、子供の声が聴こえるが、住職の子供なのか、住職の年齢から推し計り、それ位の子供がいてもおかしくない。本堂裏手の潮岳堂の広縁の拭き掃除をしていたのは、奧さんか、従業員か。
 
 玄関から続く、小暗い廊下の突き当たり、左方から仄かに光が洩れていた。当然、光が洩れた処が書院の入口に違いない。惹かれるように、其処から書院に足を踏み入れた。一瞬間、私はあっと息を呑んだ。
 書院の広縁の向こうに、庭園が開け、新緑のような萌黄色に濡れた緑葉が、瑞々しい輝きを放っていた。朝早くから降り続いていた雨も、私が円通寺に足を踏み入れるのを、待っていた如くのように、大気に吸い込まれていった。
 雨上がりの庭園、これほど素晴らしい空間には滅多に、お目に掛かれないだろう。降り注いだ雨滴で葉が洗われ、艶々として、一段とその輝きを深めていた。
 書院の中央に足を進めるに従い、眼に入る光景が、眼前一杯に開け、声を発することも出来ない程の光景だ。
 巾一メートル程の広縁は敷居を挟んで座敷になる。座敷の畳の上には、薄緑の茣蓙(ござ)が敷かれてある。畳のモデュール、三尺、六尺間隔で畳の筋が浮き上がっているため、それと分かる。
 先客の夫婦が座敷に、ちょこんと並んで座り、何処からともなく流れて来るテープの説明を聴いていた。テープは一巡して終わった。でも、私が足を踏み入れたことにより、再び何処からともなく、抑えのきいた男の声で、流れて来た。新しい参観者が、座敷に入る度に、それは流れて来る。私は計四回、男の声を聴いただろうか。
 二三回、広縁を行ったり来たりした。それから座敷奧の襖を背にして座った。それ以上、後ろに下がれないように、そこには、竹の棒が一本、襖に平行に置かれてあった。
 熟っと眼前の庭園と対峙する。それから徐に(おもむろ)スケッチブックを畳に置き、描き始めた。庭園鑑賞者は少なく、落着いて描ける。落ち着いて描いた絵が必ずしも、気に入った絵とは限らないのだが・・・。
 広縁、鴨居、柱を額縁に見立て、その向こうに庭園そして比叡山が、見渡せる構図にする。上下の画面を半分以上は、庭園ではなく、広縁、畳、鴨居、小壁で占める。そう描くことにより、庭園を奧に押しやり、遙か彼方の比叡山を、更に奧に押しやることができる。
 横に永い庭園には、一面に苔が生え、萌黄色をした絨毯のように、柔らかなテクスチャーを現す。庭園の地面の襞が、苔の凹凸となって現れ、大海の波のうねりのようだ。庭園中央には、石がその頭だけを、苔の海から覗かせ、離れ小島の石は、徐々に、群となって寄り集まり、大きな島を形づくってゆく。
 其れらが、内陣とも云える庭園を外陣と隔する高さ一・五メートルの水平に一直線に伸びた、まぜ垣に溶け込んでゆく。まぜ垣は、名前の通り、数十種類の樹を織り混ぜてつくられた垣根である。
 まぜ垣の向こうには、桧の巨樹が、疎らに立ち上がる。その内の一本の巨樹は、まぜ垣を分断する如く立つ。書院奥方から眺めた時には、書院の小壁に蹴られて、桧の巨樹は、その樹幹と、中間部の緑葉だけが見えた。左方では、まぜ垣に被さるように、楓が雨上がりの端々しい枝葉を差し伸べていた。紅葉の秋ともなれば、鮮やかな紅色に染められることだろう。
 その先には、竹の葉群が、こんもりとした形で頭を(こうべ)垂れていた。其れらの葉群の透き間、遙か彼方の薄紫色に霞んだ比叡山が,乳色のベールを被って横たわっていた。乳色をした空に、比叡山の山端は溶け込みそうだ。それ程、空と山端は判然としない。けれども、比叡山が姿を現しただけでも幸運と思わねばならない。
 
 私が描く間に、二人三人と時々、参観者が訪れる。東京の書道の先生と大阪在住の二人連れの年配の女性と、色づけしながら話す。
 「私達は、京都を訪れた時には必ず、円通寺の庭園を見に来ます。絵を描きながらだと、永くいられていいですね。私達も永くいたいんですが・・・」
 「今日は雨模様で、探索者も少く、円通寺の庭を見るにはよかったですね、比叡山も顔を出して呉れたし・・・」
 そう云いながら、二人は暫く、絵を覗き込んでいた。私はかなり永い間、静かな座敷に一人きりでいた。丁度昼刻だ。ディバックから、おにぎりを出し、座敷に座って食べた。これ程、静かな円通寺は珍しいのでは、おにぎりを食べながら、まぜ垣の向こうに霞んだ比叡山の姿を、心行くまで眺めるのであった。
 描き上げた絵が、今ひとつ気に入らなかった。もう一枚、速描きで素早く仕上げた。
 円通寺は、後水尾天皇が造営した幡枝(はたえだ)離宮の下御茶屋だった。、幡枝離宮、上御茶屋は現在は残っておらず、下御茶屋の庭園と御殿が、円通寺の堂宇として残るのみだ。
 幡枝離宮の下御茶屋が何故に寺になったかと云えば、修学院離宮が造営されるや、霊元天皇御母新広義門院の叔母、文英尼公に御殿が下賜され、円通寺となったのである。以来、円通寺は、後水尾天皇以降の歴代皇族の御尊碑が祀られている。皇族関係の寺院ゆえに、檀家はとってはならないらしい。
 円通寺を始めて訪れた三十五年前、書院で先代の住職さんに円通寺の借景庭園について、話を聴いたのを憶えている。その時、私は友人と二人で書院にいた。当時、今ほど参拝客はいなかった。かなり永い時間、住職さんと我々二人だけで、眼前に繰り拡げられた庭園を眺めていた。
 黒染めの袈裟姿の長身の住職さんだった。あれから三十五年、変わらぬ姿で円通寺は幡枝の地に佇んでいた。けれども、庭園から望む前方では、高速道路計画があるらしい。それに関する資料が、書院に展示されてあった。現住職さんは率先して円通寺の借景庭園保存運動をしている。
 間道を縫って、岩倉の実相院方面に進んだ。民家がぽつんぽつんと並ぶ道を過ぎる。何時の間にか、農道に足を踏み入れた。稲が撓に実っている稲田からは、虫の声が、音の波となって伝わってくる。私が歩いている稲田の中のこの道だけが、開発を免れていた。叡山電鉄の線路を渡る。この辺は木野駅の近くだ。線路沿いの道を緩っくりと進む。左手の奥まった処に、鰻屋があった。道から凹状にへこんだ突き当たりに、風情のある門が築かれてあった。門を入った奥方、柱や梁の木部を暗紅色に塗った二階家が店だ。家の周りは緑葉で包まれ、緑葉と木部の暗紅色が好く響き合う。
 この道沿いに立つ家は、杉や梁の木部を暗紅色に塗った家が多い。町並修景の一環として、そうしているのであろう。
 歩く道には、少しずつ交通量がふえてきた。岩倉川に差し掛かる橋を渡り、川沿いを左方に折れた。朝から降り続いていた雨も上がり、雲の切れ間から陽が差してきた。
 
円通寺庭園 木野町鰻屋
 
 
 学校帰りの小学生、女の子五人が川沿いの道を遊びながら帰って行く。道の左方には旧い家が、奥方まで立て込み、其方へ折れて行く道が幾本かあった。右方には岩倉川を挟んで、対岸に畑地が拡がる。前方には薄っすらと山影が望める。田舎の長閑な田園風景で、心地好い道だ。岩倉川は、それ程、水量は多くない。川底に転がる石が、野趣に溢れた風情を一層引き立てていた。
 左手に折れる坂道の角に石碑が立つ。ー岩倉具視・・ーとあった。坂道を左方に折れた。岩倉川の川沿いもよかったが、この坂道も趣きのある道だ。何が趣きがあるのだと云われても表現し難い。集落全体が落着いた佇を現し、緩っくりと刻がながれてゆく空気を、その空間に身を委ねていると感ずるのである。前を歩く小学生に、
 「この辺に、岩倉具視の家はあるかなあ」
 と声を掛けた。小学生は、
 「イワクラ・・・」
 怪訝そうな眼を、私の方に向けた。まだ日本の歴史を習う学年ではなさそうだ。
 右方に折れ、一・五メートル位の小径に入って行った。径は側溝に蓋を被せただけの極細通路になってしまった。それでも、通路は先に伸びていた。
 斯様な街路空間は、生活の匂いが醸し出され、いつまで歩いても飽きない。通路は、両側に家が軒を連ねる道に出た。実相院は近いに違いない。
 先方にバスが停まっていた。あそこが実相院入口であろう。その一本手前に右に折れる道があった。道の隅に、岩倉具視旧居と看板が掲げてあった。
 道を折れた左手に、白い土塀が連なり、手前に門が穿たれていた。立ち上がる樹木の枝葉で包まれた向こうに、茅葺の母屋が見えた。参観しようと思った。今日はオリンピック・サッカー準決勝、日本対アメリカ戦だ。早目に吹田に帰らねば・・・。
 
 バス回転広場に面し、実相院四脚門が、数段の石段の頂に立つ。四脚門の西脇には、石垣の上に築かれた築地塀が連なる。境内は緑葉で包まれ、開かれた門から境内が見渡せる。枝葉の葉擦れに、客殿の入口が覗いていた。築地塀の中には、趣きのある実相院境内の空間を感じとれる。築地塀の外には、その趣きがない。突然、異種空間に切り変わる。外には、日本建築特有の曖昧さが感じられない。
 内部から外部へ、あるいは外部から内部へと変化する際の、空間の相互貫入が見られない。突然、四脚門で流れが遮断されるのである。変化する際の余韻が感じられない。
 客殿の玄関に足を踏み入れた瞬間、その自由闊達な、伸び伸びとした空気を感じた。入って直の座敷の向こうには、庭園が拡がる。対岸には瀟洒な離れが立つ。背には緑葉に包まれた山が控えていた。
 広縁の隅に、寒山拾得の(かんざんじっとく)石碑が寝かせてあった。幾つかの書院には、狩野派の描いた襖絵を、手に取るように見ることが出来る。其れらの展示方法にしても、懐の深さを感ずる。 実相院の古文書によれば、実相院は岩倉具視を庇護する一方、松平春嶽ら幕閣の上洛時の宿所ともなった。幕末、倒幕佐幕両派と結びつきがあった。その朗らかな精神を、実相院の客殿の内部空間に感じた。
 四脚門空間についての私見は、実相院にとっては片腹痛い物言いに聴こえるだろう。実相院の歴史について、僅かな知識で述べる私に、そう云っているように思えた。
 四脚門前の広場に面したバス停には、既に数人の探索者が並んでいた。岩倉の里は、その名の響きのように、長閑な里であった。
 さあ今晩は、サッカー日本対アメリカ戦だ。   
9 円通寺から岩倉へ-スケッチギャラリーへつづく
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