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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
十 伏見稲荷大社
 
 
 日曜日であるが、娘は大阪のある私立幼稚園の運動会に呼ばれ、朝四時三十分に起床すると云っていた。関西大学吹奏楽部部員全員が行くらしい。運動会の行進曲を演奏するのでだろう。ご祝儀が出ると云っていたが、その収入の全ては部活の運営費に回されるらしい。
 朝四時三十分、セットされたタイマーが三回、がんがん鳴った。けれども、娘は背中を出しタオルケットをぐるぐる巻にして、胸に抱いた儘、起きようとしない。
 タイマーが四回鳴ったのを潮時に、私は娘の背を叩いた。寝惚け眼だったが割に簡単に起き上がった。一人暮らしのため、私が滞在していなかったら、どうする積もりだったのか・・・。
 娘は、起床するなり、傍らの小机に並べてあった野菜ジュースをいきなり飲んだ。それから徐ろに、トイレに行きそして台所の流しで顔を洗った。娘はいつも、パジャマを着替える前に朝食を摂る習慣だ。牛乳と昨晩のうちに作っておいたおにぎりを一個食べた。
 食べ終わってからは、いつもと違い、素早く支度した。出掛けに梨を半切れ掴み、あっという間に、アパートの廊下に出た。瞬間、携帯電話のベルが、早朝の静寂を破り、変てこりんなメロディーで鳴った。
 何かを持って来るように、友達に頼まれていたらしく、部屋に戻って来た。ごそごそ隅に置いた箱から何かを捜し「じゃあねー」と云って,再びドアーを押し開け外に出た。
 二分位後に、再びバターンとドアーを閉め部屋に戻って来た。又忘れ物らしく、何かを持って、慌しく出て行った。これでは、いつ迄たっても大阪に行けないのでは・・・。豊津五時発の始発に乗るらしい。三回目は戻って来なかった。無事、始発に乗れたのだろう。
 
 お蔭で私も朝早く起床した。一日が有効に使えそうだ。アパートのバルコニーから阪急豊津駅が見える。早朝のため、まだ電車の本数は少ない。淡路駅方面行の電車が見えた。何分間隔で走っているのかは知らないが、今から向かえば、豊津駅まで歩いて四分位、阪急の一日フリーチケットを自動販売機で買ったりしていれば、十分位かかるだろう。
 梅田行の電車が発車したのを見計らい、私もコーポ滝川を出た。時計の針は五時二十分を差していた。豊津駅に着いたが、自動販売機では阪急一日フリーチケットは買えない。朝早いためか駅員もいない。ー用事の方はベルを押して下さいーと改札口の傍らに、貼紙がしてあった。
 念のため、ベルの釦を押した。直に男の声で、
 「お客さん、何処まで行きます」
 「京都までフリーチケットを買いたい・・・」
 「六時にならないと、係員は来ません。ベルの傍らに乗車証明書がある・・・。それを持って河原町まで行って下さい。後で私が河原町駅に電話をしておきます。河原町に行けば、分かるようにしておきます。」
 改札口の傍らを見回した。壁に掛けられた小さな袋に、四センチメートル角の薄いグリーン色をした乗車駅証明書が入っていた。私は乗車証明書を一枚、引き抜いた。証明書の駅名を書く欄に、鉛筆で豊津と書かれてあった。係員と話すうちにプラットフォームで、ガタンガタンと電車が辷り込む音がした。
 係員は、まだごちゃごちゃ説明していた。
 「電車が来たようなので・・・、分かりました」
 私は乗車駅証明書を持って、右手の階段を二段飛びでプラットフォームに駆け上がった。ところが、電車が辷り込んで来る様子はなかった。五分程、待つと梅田行が来た。早朝のためか、車内はがらんとして空いていた。
 阪急京都線を京都方面に電車は走る。進行方向の右手前方に、朝陽が昇って来た。宇治の辺か、
それとも更に先方、山の辺の道の三輪山あたりか・・・・・。執(いず)れにしても、東方の山並だ。
 山端すれすれに、朱色の横筋が水平に幾本も流れ、処々、黒い横筋が走る。朱と黒が微妙に混じり合い天空へ溶け込んでゆく。
 この朝焼けの光景を見れただけでも、早く起きた甲斐があった。朝焼けは中心になるにしたがい
赤みが深くなる。赤みの中心は徐々に上方に昇り、太陽の円い形を現して来た。茨木駅を通過した
辺では、その輝きは、眩しい程に強い光を放つ。
 幾分か眼を逸(そ)らし、左手の西山の山並に見蕩れていた。その間に、輝きは、ますます強い光を放つ。将に、御来光と云った印象の光景だった。
 
 河原町駅では、既に豊津駅から連絡があったらしく、改札口の係員は、
 「連絡は来ていますよ、ハイッ、阪急一日フリーチケットです 千六百円です。こゝに京都市内の地図があります」
 駅員は、にこにこと応対していた。東京では考えられない、親切な駅員さん達だ。
 フリーチッケットには、清水の舞台が描かれ、それだけでも記念になるチケットだ。まずは伏見稲
荷大社を眼指す。稲荷大社バス停より、商店街を進む。京阪本線、JR奈良線の踏切を渡った辺か
ら通りには、稲荷大社参道の雰囲気を漂わせた店が立ち並ぶ。南北に走る本町通の向こうに、朱色の鳥居が見えて来た。
 一の鳥居から石畳の参道が、右方に若干、屈曲して先方に伸びる。伸びた先に二の鳥居が立つ、参道の両側には、土産物店が立ち並び、看板やら展示品やらで色取りどりに華やかに彩られていた。
 二の鳥居の後ろは樹々で包まれ、その背には、稲荷山だろうか、山並が小ぢんまりと山端を描き、薄紫色に霞む。
 私は二の鳥居を潜り、伏見稲荷の側面に出た。大きな神社であるため各所からアプローチできる。実はこの参道は、伏見稲荷大社の脇の参道であった。
 まだ朝八時頃だっただろうか。境内には、探索者の人影が程良い具合にあった。大社の従業員、いや巫女さんが、今日一日の勤めの準備に追われ、広い境内を行き交う同僚に、
 「おはようございます」
 挨拶の言葉を投げ掛けていた。中には時候の挨拶を交わしている人もいた。そんな中を一人暇そうにスケッチブックを小脇に抱え、のんびりと玉砂利の敷き詰められた境内を進んだ。
 本殿、楼門を結ぶ東西の軸線上の西方に、大きな朱色の鳥居が眼に入った。伏見稲荷大社のメインの参道だ。一面に敷石が敷き詰められた徒広い(だだっぴろ)参道には、鳥居を潜って車も入れる。
 大きな鳥居を潜ると参集殿があり、その前の駐車場に数台の車が駐まっていた。まだ朝も早いため境内には参拝客は少なく、閑散とした空気が流れる。楼門、本殿は大きく立派で、朱の色も鮮か
な建築である。
 
 本殿左手の石段を上がった奥方の小暗い空間に、閑寂な小さな唐門が見えた。石段の下方には朱色の鳥居が空間を切り取って立つ。唐破風屋根の背後は深い緑葉で蔽われ、静寂に包まれた空間だ。
 伏見稲荷大社奥社と立札にあったように思う。奥社をスケッチし始めてから、時々、石段を静かに上がって行く人が幾人かいた。直に再び石段を降りて来る人、頂の右方に消えて行く人、小暗い空間に静かな空気が漂う。石段の空間は行き止まりではないのだろうか・・・。描いている処から見る限り、石段の頂の幽暗な空間は袋小路になっているように思える。
 デッサンが仕上がり、石段にスケッチブックを置き、色付けを始めた。巫女さんが忙しそうに私の背を行き交う。石畳が汚れるから絵具は使わないように、注意されるのでは、と思い背を振り返った。けれども伏見稲荷大社の巫女さんは、そんなせゝこましいことは云わない。
 描き上げ石段を上がって行った。そこは小さな広場になっていた。右方に朱色の小さな鳥居がトンネル状に伸び、地面には石段がつけられ、小暗い林内に溶け込んで行った。
 これだと思った。先刻来、写真でよく見る朱色の鳥居のトンネルは何処にあるのかと思っていたところだ。認識不足の私は、伏見稲荷大社の境内は、鳥居のトンネルの先に、小さな祠でもあって其処で終わりだろう、と軽く考えていた。
 広場の傍らで、お線香を売るために簡単な台を設え(しつら)ている最中の男がいた。
 「鳥居のトンネルの先には何があるんですか」
 台に白い布を掛け、その上にお線香を並べ、準備中の男に声を掛けた。
 「こんな感じで稲荷山の山頂近く迄、参道が続いていますよ。全部廻れば二時間位かゝりますよ」
 男は鳥居のトンネルを指差して云った。 私は鳥居の方に眼をやって、
 「へえー、鳥居がずっーと連続しているんですか」
 どう連続するのか、半信半疑で男の話を聴いた。朱色の鳥居のため当然、朱いのだが、鳥居の根元は、鉄板でも巻かれているのか黒く塗られていた。
 石段を上がって来た人の幾人かは、脇眼も振らず鳥居のトンネルに入って登って行った。誘われるように私も朱色のトンネルに足を踏み入れた。
 トンネルの参道には、石段がつけられ、赤鳥居がびっしりと連なる。坂道の参道は、緩く弧を描き何処までも伸びていた。これほどの赤鳥居の連なりとは、驚いたと云うより、その徹底した鳥居の繰り返しに呆れ返った印象の方が強かった。
 登る方からは見えないのだが、降りる方からは、鳥居の柱に寄進者の名前が黒く大きな字で書かれてあった。古い鳥居は、足元が腐朽し、辛うじて立つ。時々、上から探索者が降りて来る。
 登るに連れ汗が滲み出る。先方に平になった石畳が見えた。建築物があり、一帯は密度の濃い空間が拡がる様子が下方からも見てとれる。熊鷹社だ。
 
 左方の茶店なのか、事務所あるいは社務所なのか、まあ便宜上茶店としておこう。茶店は狭い石
畳に面し、横に永く伸びていた。朝早いためか、作務衣(さむえ)の初老の男が、竹箒で石畳を掃いていた。
 茶店前の石畳を真直に行けば、先方に赤鳥居が続く。熊鷹社一帯には、所狭しと石塚が立ち並ぶ。神社ゆえに墓である筈はない。一体これは何なのか・・・・・。
 茶店に面した石畳は奥方まで伸びる。石畳の巾は、横向きにならなければ、擦れ違えないほど狭い。両側にぎっしりと石塚が立ち並ぶ。石畳から別れて、もっと狭く、一人だけしか通れない石塚の
間の通路が、ラビリンス都市の如く連なっていた。石塚の形、大きさは千差万別で、一つとして同じ
形の石塚はない。 この空間は一体全体、何なのか・・・・・。私には都市の縮図に見えた。石畳を骨格とし、アノニマスにアミーバーの如く、四方八方に自然発生的に発展して行った都市のようだ。
 熊鷹社の石塚群を実測調査をすれば、大学の卒業論文になるであろう。そんなことを考えながら、石塚の奥方に分け入った。
 奥方、通路がクランクした処で、若い女二人が、ある一つの塚に花を供え、蝋燭に火を灯(とも)していた。二人は塚に掌を合わせ、熱心に祈りを捧げていた。私の足音に気付き、一瞬間、二人は振り返った。けれども二人はなおも掌を合わせ祈り続けていた。通路が余りにも狭く、私はそれ以上、近付かなかったが、それさえも許さない二人の熱心さであった。
 二人の若い女は、あの石塚でなければならなかったのか。社の祠あるいは墓石の前であれば私は掌を合わせることは理解できたが・・・・。その訳は下山路の腰痛大明神の神主さんに聴いて分かった。
 
 石畳を掃いていた作務衣の男に
 「此処は面白い処ですね、この連続で上まで繋がっているんですか・・・」
 「まだまだ上の方に有りますよ、上にも茶店がありますよ」
 男は穏やかな顔に微笑を浮かべ、そう云った。
 更に進む。石段が一段落した頂に、赤鳥居を額縁にして、茶店が斜めに小さく見えた。其処には
赤鳥居は架けられていない。
 赤鳥居の連なりが途切れ、自然の石段が上方に伸びていた。突然、開放的気分になった。赤鳥居に囲まれ、集中していた神経が解き放たれ、赤鳥居を抜けた瞬間、赤鳥居の就縛か(しゅうばく)ら解放された心理状態になるのだった。其処は三つ辻を過ぎたところの三徳社の茶店だ。
 緩やかな石段は僅かに弧を描き、茶店のある頂に伸びる。頂の茶店や緑葉には、陽が燦々(さんさん)と降り注ぎ、赤鳥居の中の空間とは別世界のような光明に満たされた空間だ。
 緑葉の中へ斜めに突き刺さる茶店の屋根の背には、緑滴る(したた)緑海が控える。弧を描いて上がる石段の左方には、ごつごつした石が石段に沿ってある。苔生した石には処々、緑葉が入り込み、無機的な石と有機的な緑葉とがよく響き合う。   
 描く間に、参拝客、ハイキングの人達が、幾人も行き交う。近在の人であろうか、一人で散歩する人、二三人で連れだって歴史探索する人といろいろだ。
 熟(じっ)として描く間に、藪蚊が顔や手に、まとわり付き落着かない。時々、煙草に火を点け紫煙を燻(くゆ)らせ、藪蚊の攻撃をかわさねばならない。散歩帰りの年配の女性が、
 「まあ随分早く描いてしまうんですね」
 「この場所はい風景ですね」
 「上の方に行けば、まだ沢山よい風景の処がありますよ。此処は赤鳥居の中ですが、赤鳥居を見下ろし、その向こうに京都市街が眺められる、広々とした眺めですよ」
 「行き交う人達は参拝客ですか」
 「そう云う人達もいますが、私は毎日、稲荷山を一廻りしてるんですよ」
 東京でも早朝、公園を散歩する人達がいる。そんな風に散歩する軽い気持で、探索者は伏見稲荷大社、稲荷山を歩いているらしい。それだけ伏見稲荷大社は、近在の人達に親しまれているのだろう。醍醐寺の奥の院への道でも此処と似た経験をした。拝観料に関係なく自由に境内に入れば、そう云ったことが可能なのだろう。
 石段を上がって茶店の前を通った。三和土(たたき)に置かれた机の前に三人の男が座っていた。私は茶店を横眼にし、先に進んだ。
 
 三徳社からほどなく、明るく開け、右方に茶店が立つ四つ辻に着いた。茶店前の辻になった広場には、休憩中の探索者が幾人もいた。辻の先方は小暗い林になり、右手に折れる道、真直に林の中に分け入って行く道があった。 辻の左方に眼を向けた。一瞬間その光景は、石の小山のような印象だった。小石の積まれた小山には石段が伸びる。数段の石段を上がった処に立つ鳥居を潜って行く。
 鳥居を潜った正面に、一際大きな御神体と思われる石が基壇上に据えられ、前に焼香台の石が置かれてあった。御神体の周りには、無数の石塚が取り囲んでいる。
 御神体の石を中心に、半円形に細い通路が回され、所狭しと石塚が立ち並ぶ。処々、石塚の前で香を焚き、お祈りをする人の姿があった。四重ほどの半円が御神体を取り巻く、私は二重目の半円の小径に足を踏み入れた。
 御神体の石の背の辺の石塚で家族連れの信者が香を焚き、お祈り中だ。石塚の間を三重目の通路に入り、御神体の周りを歩き鳥居前に出た。山の中腹に築かれているため、それほど大きな面積がとれない。狭い地域に、ぎゅうぎゅうに石塚が立つのである。一体これは何を目的として築かれてあるのか。
 斯様な石塚が、これから進む道筋に幾つも立つ。三ノ峯下社、間峯荷田社、二ノ峯中社、一ノ峯上社、剱石長者社、春繁社などの石塚である。
 四つ辻より小暗い林内に踏み入って行った。今迄の乾いた明るい空間とは異なり、林内に立ち上がる巨樹に妖精が宿っているのでは、と思われる程、幽暗な空間で湿っぽい空気が漂っていた。四つ辻から足を踏み入れた道は、反時計回りに稲荷山の参道を進んでいるものと許り思っていたが、実は時計回りに山内を廻っているのに途中で気がついた。
 四つ辻から足を踏み入れて直にあったのは、大杉社だったか、その都度、記録を認め(したた)ておけばよいものを、つい忘れたしまう。
 右方に拡がって幾つかの社が林内に立ち、その奥方に苔生した石塚の一群があった。例によって通路の両側に、所狭しと石塚が立つ。石塚が湿っぽい空気のためか、苔生し、石の肌と苔が入り混じって歴史を感じさせる佇を現していた。
 幽暗な湿っぽい空間の中で、自然と石塚を中心とした人工とが溶けあい、何処から何処までが自然であるのか曖昧な空間だ。曖昧なだけにその空間には惹きつけられる。
 
 大杉社から小暗い参道を少し行ったところに、清明舎がある。此処も大杉社と同じように幽暗な空間で、苔生した石塚が立ち並び、道の突き当たり、深い緑色になった岩壁を、小さな流れが滑り落ちていた。この石塚群は都市の縮図を現しているように見えた。一つ一つの小さな石塚が都市の巨大なビルのように思える。
 都市では無機的な印象のビル群だが、此処では、遙かに有機的な関連性をもって石塚が立つのである。似たような幾つかの社に参拝し、起伏のある参道を一周し四つ辻に戻った。
 四つ辻には、先刻より参拝客が増えていた。子供を連れた団体が辻の広場で休憩中だ。茶店の中にもちらほら人影が見えた。四つ辻からは京都市街が一望の下にできる。
 鳥居を眼下にしその向こうに市街が沈んで見える。遙か彼方には西山の連山だろうか、薄紫色に山並が霞む。京都市街の東側には、比叡山、東山連山の山並、西側は嵐山、西山連山の山並が南北に連なり、市街は両連山の自然に溢れた緑のベルト地帯に挟まれ、都市の情景としては理想的姿である。
 市街地には、賀茂川、桂川の水の流れを持ち、潤いある景観を現す。東山、西山の両連山は緑のベルト地帯を市街に持たらす一方、市街の発展を阻害する要素でもありうる。
 市街の発展が食い止められると云う意味では、阻害要因であろうが、無秩序に面的に都市が拡がって行くのを防いでいる、い意味での効果を、両連山のベルト地帯は生み出しているとも云える。
 市街は線状に、JR東海道線や阪急京都線を骨格として、東西方向に伸び、大都会大阪に至る。現在では、京都、大阪の両都市が、緑のベルト地帯に挟まれ、程よい距離で発展していると云える。少なくとも都市にはこれ位の空間的な隔(へだ)たりがほしい。
 四つ辻から三つ辻へ降る。三つ辻を登って来た参道を熊鷹社には出ずに、もう一つの下山路を進む。左手に朱色の地に腰痛大明神と白抜きされた幟が数本、風に揺れていた。例によって道沿いに石塚が立ち並ぶ。他の社のそれに比べ、幽暗な印象は受けなかった。社としては他と比較し小さいようだ。
 
 雨がぽつりぽつりと落ち始めた。まだ傘を差す程の雨滴ではない。大阪で一人暮らしの娘が、一ヶ月程前から腰を痛めていた。医者に通っているかどうかは訊いていなかった。一人暮らしのため体調が芳しくないと、心細いに違いない。腰痛のお守りを買おうと思った。
 参道から一・五メートル下がった処に腰痛大明神の社があった。崖下と云う程ではないが、参道より下の社に石段を下りて行った。
 硝子戸を引き、腰痛大明神社に足を踏み入れた。神主さんだろうか、四十絡みの男が出かけるところで、玄関の三和土で靴を履いていた。
 「腰痛のお守り、ありますか・・・」
 「はい、お茶を入れて差し上げて・・・」
 男は奥方にいた奥さんと思われる女性に云って、慌(あわ)ただしく外に出て行った。入れ替わりに白っぽい服に身を包んだ奥さんが此方に静かに歩いて来た。
 「家族に腰痛もちがいるもんで、一ついただけますか」
 「はい、それはそれは・・・」
 奥さんは幾つかお守りを箱の中から取り出し見せて呉れた。その中から朱色の布に金糸を縫い込んだ標準的なものを選んだ。
 奥さんは傍らのポットから湯を注ぎ茶の仕度をし、三和土の隅に置かれた長椅子に手を向け、
 「そちらに座って、喫んで下さい」
 そう云って、お盆にのせた湯呑茶碗を私の方に差し出した。私は長椅子に腰を下ろし、茶を喫んだ。茶を喫みながら奥さんと話す。
 「丁度主人は国勢調査に出かけて・・・」
 「あっそうですか。伏見稲荷に初めて訪れました。普通の神社と違って、随分奥に深く、変わっていますね。各社に石塚が沢山、墓でもないし一体あれは何の目的でああしてるのですか・・・。掌を合わせる人は、観光客でもなさそうだし・・・」
 私は今迄、不思議に思っていたことを訊ねた。奥さんは微笑を浮かべ。
 「あ、あれは塚で、願がかなった人が塚を立てるんですよ。お墓などではありません。各塚には、それぞれ番号が付いていて塚の所有者がいるんですよ。所有者がいると云っても、そうでない人がその塚に、お祈りしても構いませんが・・・。人の塚にお祈りして願が叶い、自分の塚を立てる人もいますよ。
 塚の所有者が亡くなって無縁塚になる塚もある。そう云う時には、次の施主が現れその塚を護ってゆく。現在では塚のあきはありません」
 「鳥居に寄進者の名前が大きく書かれていました」
 「鳥居はまだあきがありますよ。小鳥居は五十万位、大鳥居は二百万円から三百万円位します」
 あれだけの数の鳥居、相当の金額になる。そんなことを考え、奥さんの話を聴いた。出入口の傍らの戸棚の上に、葉書大の水彩画が掛かっていた。以前、参拝客から贈られた絵だと奥さんは云っていた。
 田園風景の中の田舎家を描いた透明水彩画で、軽いタッチで描かれ雰囲気がよく表現されていた。そのうちに奥さんは私のスケッチブックを、パラパラ捲(めく)り見始めた。
 先刻、出かけて行った人はやはり御主人で、腰痛大明神社の神主さんだ。各社の神主さんは、親から子に受け継がれ世襲される社が殆どらしい。受け継がれない場合には、ほかから神主さんが来ると云う。
 狭い三和土の玄関は二十帖敷きの広間と一室になり、正面に祭壇が据えてある。祭壇には、ピカピカ光るものがあったような気がする。二三日は何だったか記憶にあったのだが、細かくは憶えていない。やはりスケッチしておけば・・・。
 そのうちに常連らしい近在の年配の客が入って来た。神主さんも国勢調査から戻って来た。近在では数十年前までは、呪いの言葉を木に三寸釘で打ち突け、恨みに思った人を呪い殺すため一心不乱に髪を振り乱して祈った人がいたらしい。
 特に女の場合は、業(ごう)が深く怖いらしい、そう奥さんは云っていた。時々神主さんが相槌を打つ、そんなことを四人で話していた。
 一時間以上、腰痛大明神社にいただろうか、雨が本格的に降り出してきたが、神主さんが戻って暫くして、木立ちの梢から陽が差して来た。頃合いを見計らい私は腰痛大明神社を出た。
 
 参道の右手には民家や神社が混在し、左方には神社が連続的に立ち並ぶ。これらの神社が伏見稲荷大社と、どんな関連があるのか・・・。
 稲荷大社のバス停から一度京都駅に出、東大路通を馬町で下車、河井寛次郎記念館に向かった。東大路通より西へ二つ角を折れた二間位の通りに面し、古風な黒板塀の軒の低い家が立ち並ぶ。その中で竪張りの板を黒く塗った一際、目立つ町家が河井寛次郎記念館だ。
 通りには、二人連れで歩く人の姿がぱらぱらとある。記念館の半間ほど凹んだ玄関で立ち止まり、中に吸い込まれて行った。私は隣家の対面の軒下でスケッチを始めた。今日は九月の最後の日曜日、通りに面した隣家の竪格子のはまった部屋から、家族団欒の華やいだ話し声が聴こえた。
 通り庭に続く玄関の左手、通りに面したーみせーと呼ばれる部屋は居間になっているようだ。私は黒っぽい格子戸を引き分け記念館に足を踏み入れた。
 通り庭が奥方迄のび右方に受付があった。柱や梁が濃茶なのだが、入った一瞬間には黒っぽい印象を受けた。受付に続いた部屋はラウンジである。中庭に嵌められた硝子窓からは陽が差し込み、小暗い通り庭から足を踏み入れた時には、一気に開放的な気分になった。
 ラウンジの中央に大きな机が据えられ、その上には、色々な美術書が積み上げられていた。中庭を挟んだ対面に線状にギャラリが伸びる。陳列ケースを見ながら細く長いギャラリーを先に進む。突き当たりに風情のある茶室が立ち、その際を回り込む。ベージュ色をした素焼窯が、さらさらとしたテクスチャーを現していた。なめらかな曲面を描いた窯で、周りに幾つか素焼きの器が置いてあった。窯だけ見ていても造形的に面白い窯だ。素早く小スケッチブックに描いた。
 
 素焼窯の先、陶房に面し、休憩所がある。ギャラリーの突き当たりには、かなり使い込んだ風に見える登り窯が野趣溢れる姿であった。恰も巨大なが坂道を登っているような恰好だ。
 私は登り窯を間近に見るのは初めてだ。一番下の前面は幾らか低く掘られて焚口が口を開け、周りには丸太が竪横、斜めに架け渡され、骨太で荒々しい印象を受けた。
 焚口から蒲鉾形の頂を持った室が七室、連続して登る。各段の室に至る階段が脇に築かれ、室の入口の際には煉瓦が置かれてあった。
 室の入口は五十センチメートル位の巾で、竪に細長く、木口(こぐち)には煉瓦が剥き出る。焚口に火が点(つ)けられる時には、この入口は煉瓦で塞がれる。
 頂部の一つの室に入って行った。細長い室の両側に器が並べられ、下方の室との仕切壁に幾つか穴が穿たれていた。焚口からの熱や煙が流れるための穴である。
 細長い室は反対側に通り抜けできる。登り窯の上方には、骨組が剥き出た屋根が差し掛けられていた。陶芸家は室に器を並べたり、焚口に火種(ひだね)を突込んだりするのを一人でやっていたのだろうか・・・。
 弟子がいれば当然、弟子が手伝ったりするのであろうが、室に器を並べたり、火種を絶やさないようにするのは大変な労働に違いない。
 山林の広々とした処に立つ登り窯は写真で見たことがあった。町中の住居の一角に登り窯が設えられていようとは・・・。この登り窯から数の名作が生み出された。感慨深い想いで使い込まれた姿を見るのであった。
 ギャラリーを引き返しラウンジの隅の階段で二階に進んだ。二階には吹抜けがあり、一階のラウンジと一体的空間を構成する。この吹抜けを中心として幾つかの室があり、各室の机に作品が展示されていた。
 吹抜けに接した書斎に置かれてあった巨樹を輪切りにした円形机そして厚板を(えぐ)りとって座板にした椅子、手作りの自然な温(ぬく)もりが感じられ印象的であった。
 ラウンジに戻り、中央の美術書が積み上げられた机の脇の椅子に腰を下ろし、ラウンジを中心とした吹抜空間のスケッチを始めた。
 吹抜けの四周に架け渡された自然の儘に曲がった梁の上方に二階が見渡せる。吹抜けもこれ位のスケールであれば、空間の相互貫入が認識でき、荒々しい梁と共に豪快な空間が感じられる。柱と梁の間の壁はベージュ色をした土壁で、剥き出た黒っぽい柱梁とよく響き合う。
 注意しなければ見過ごしてしまいそうだが、隣室沿いに立つ戸棚、戸棚と云うよりショーケースと云った方がよいかも知れない。それには土塀の屋根のように切妻型の屋根がのせられ、空間のよい点景になっている。
 
真如堂本堂 金戒光明寺本堂
 
 
 河井寛次郎の作品は、自然の風物が寛次郎の内在する精神を通して表現されている。寛次郎のデッサンにそれが現れ、皿に描かれ焼かれた形は、リアルな自然ではないが、それ以上の自然が表現されている。それは寛次郎の眼を通した自然であるが故に、そうあるのに違いない。
 自然は刻々と変化し姿を変える。自然の永い一瞬間だけを表現するのではなく、自然の永い流れを把み表現されねばならない。見る人の瞬間において、永い流れは一瞬の刻となる。寛次郎の作品には、永い流れと共に其の一瞬を感じる。
 そのことは、寛次郎の作品にだけではなく、寛次郎の設計になる記念館の全体計画にも感じる。
特にラウンジの吹抜け空間に強くそれを想う。
 東大通をバスで向かったが、運転手の手違いで次のバス停近衛通まで連れて行かれてしまった。車内放送のテープと走る位置とが多少擦れていたらしい。降車釦を押したのだが、熊野神社前には止まらず、近衛通りに過ぎて行った。運転手は、
 「このテープが擦れて・・・」
 そう云って運転手はぼやいていた。まあ、此処から歩いても行けるだろう。軽く考え東大路通から東方に向かい真如堂を眼指した。
 私は、真如堂は白川通に面して山門があったと思い、まずは東の白川通に出ようとした。閑散とした冷たい無機的な道筋を東へ東へと歩を進めた。
 T字路に差し掛かり学生風の若者に白川通への道を訊いた。
 「此処からだと吉田神社を越えて行かねばならない。一度南の丸太町通に出て、東に行って白川通に出た方が速いかも知れない」
 簡単な地図では、真如堂の裏に出る道がのっていた。
 「その道は険しく大変だと思いますよ」
 若者はそう云っていた。険しいと云っても、何も南アルプスに登る訳でもない。私は簡単に真如堂の裏手に出る道があると確信していた。二人目の若者に教えられた道を進み、角を幾つか曲がって行った。辺は夕暮の空気が漂い始め、心身共に冷たい空気を感じた。
 それでも何とか大きな寺らしき光景が現れた。門脇の仏具屋さんの奥さんに、
 「此処は真如堂ですか」
 「此処は金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)です。真如堂へは、金戒光明寺の境内を抜け・・・・の裏手の道を行けば出れますよ」
 金戒光明寺、今迄に聴いたこともない寺である。山門を潜り境内に足を踏み入れた。知らない割には大きな寺院だ。広々とした境内はゆったりとしていた。一つ一つの堂宇は立派で豪快な造りで、堂宇の間には樹木が悠然と立ち上がり、山内に悠然と枝葉を差し掛けていた。
 一つの堂の基壇の端部に足をぶらぶらさせ、中学生位の女の子が二人で腰を下ろしていた。観光案内書のような色刷の小さな本をひろげて、二人でポテトチップスを食べていた。傍らの木に犬が繋がれいた。二人は近在の中学生に違いない。境内で会ったのは、その中学生だけだ。都会の真中にこれほどのオープンスペースがあるとは夢のような空間だ。それだけ広々としているのが当り前のようにあった。
 
 石段の頂に立つ本堂をスケッチした。余りに空間がゆったりとして、せこましい生活に慣
れた私にはその空間を捉えきれず、自分自身が大海に漂う木の葉のように思えた。
 描き終わって石段を上がって行った。左右に広い石畳が伸びる。右方に折れ奥の立派な堂に見蕩れていた。
 後ろから小型のバンが石段を此方に向かって走って来た。石畳の際によけ、バンを見送ろうとした。私の前でバンが停まった。助手席の下げられた窓から若い女の声が聴こえた。
 「真如堂は分かりましたか」
 「ああ、先刻はありがとうございました。金戒光明寺も立派な寺で、絵など描いてまだ真如堂には行ってません」
 「あの道を堂の間を縫ってくねくね行けば真如堂の方に行けますよ」
 「ああそうですか・・・」
 バンの運転手の女は、先刻、金戒光明寺の山門前で道を訊ねた仏具屋の若奥さんだった。私はバンに向かって軽く頭を下げた。バンは直に発進し石畳の先を右に折れ消えて行った。
 多分、仏具屋の奥さんは、あのオッサンは檀家でもないのに、何故に金戒光明寺の境内をぶらついているのだろうと、思ったに違いない。
 金戒光明寺の裏参道には、塔頭が幾つか立ち並ぶ。田舎の道を歩いているような気持になる長閑な通りだ。
 直右手に背の低い緑葉の向こうに真如堂の小さな朱色をした門が見えた。竪長の石を敷き詰めた石畳が、門を通り越し奥方に伸び、緑に溶け込んでゆく。
 門の右方の奥には三重塔が緑海に浮かび、天空に塔の相輪を浮き上がらせていた。右手前の鮮やかな花が咲き乱れた花畑から、石碑が立ち上がる。石碑にはー真如堂ーと彫られてあった。
 門を潜り境内に足を踏み入れた。境内では子供が遊んでいた。緩い勾配のスロープ状の石段の正面に本堂が立つ。
 石段の両側からは楓の枝葉が差し伸べられ、その葉擦れから本堂が見え隠れする静かな佇の堂だ。真如堂は錦秋織りなす頃には、隠れた紅葉のスポットとして人気があるらしい。
 緩く登る石段を上がり切った左方、垣根が途切れた辺に楓が立ち上がる。樹幹が程よい高さで弧を描いて石壇上に伸び、幾本もの枝に細かく別れ、石段に枝葉を差し掛ける。その楓の枝葉の葉擦れに本堂が垣間見られ穏やかで優しい光景を現していた。楓の枝葉はかなり上方まで伸び、夕暮の淡く穏やかな空気が、枝葉の葉擦れに覗いていた。
 楓の枝葉が差し掛かる左方に休憩所かあるいは宿坊と思われる建物が樹々の梢の間に覗く。其方から子供の遊ぶ声が聴こえてきた。三四人の子供が石段の頂に出、本堂を背景に遊んでいた。時々母親の華やいだ声が風と共に流れてくる。
 そんな声がスケッチをする間に聴くともなく、私の眼に流れ込んでくるのである。何とも日本的風景で心安まる刻だ。
 そのうちに母親が遊びの輪の中に、のんびりとした足取りで入って来た。遠くの方から、 「さとしーもう遅いから帰ってきなさい」
 女の声が木立ちの葉擦れに聴こえた。
 「まだ遊ぶよ」
 私の方に近づき、絵を覗き込みながら幼稚園に通う年頃の男の子が、声を張り上げた。
 「坊やお母さんが呼んでいるよ」
 石段に置いたスケッチブックに色付けしながら、私は男の子に向かって云った。楓の木の下で遊んでいたのは近所の子供達だったのである。
 
 描き終わり石段を上がった。左方の休憩所らしき建物は、既に戸が閉められていた。宿坊ではなく休憩所のようだ。風に流れて聴こえてきたのは此処からではなく、休憩所の木立ちの向こう、下方の道から聴こえてきたようだ。夕暮のほっとした気怠さが漂う一刻であった。
 広い境内は静寂に包まれ、外国人の家族連れが本堂の方から、緩っくりとした足取りで石段を降り、微笑を浮かべ山門に向かって石畳を歩いて行った。一人旅なのか若者が、石段を上がり切った処で三脚を据え、写真機を本堂に向けていた。人影はそれだけだ。人間を包み込むかのような広とした境内には、ゆったりとした刻が流れ、子供の声さえも樹々のざわめきのように思える。風の戦(そよ)ぎが聴こえるほど静かな境内だ。
 本堂の右手は小暗く、奥方、木立ちの中に分け入ってゆく道があった。右方に学者風の男達が三人、黒鞄を手に下げ先方に話しながら歩いて行く。年齢的に考えて多分、京都大学の助手かも知れない。聴こえてくる話題の内容は、教授か研究者の説に関する論評のようであった。
 刻は夕暮、其の道は、山の中腹に拡がった墓地に入って行った。斜面に立ち並ぶ墓石群の向こう、遙かに京都市街が眼下に拡がり、夕暮のベールをかけられていた。墓石群の頂には、緑葉を背に三重の文殊塔が、ひっそりと聳え立つ。文殊塔の(もんじゅのとう)前から、立ち並んだ墓石群の間を一気に降る細い石段があった。男達は其方に折れ、降りて行った。
 この石段は一体、何処に出るのか分からない儘、私も男達の後ろをついて歩いた。墓石群が立ち上がる向こうに海の如く拡がる眺めは素晴らしい光景だ。後で分かったのだが、この墓地は金戒光明寺の寺域であった。真如堂と金戒光明寺の境界が判然としないのである。
 石段を降りるのは、男達三人と私が相前後して歩くだけだ。広とした光景を我々だけが専有し、小宇宙を形成しているような錯覚を憶えた。男達は学者に間違いない。石段を緩っくりと降りてゆく男達は、ある学説を愉しそうに論じ合っていた。論ずるために、わざわざ金戒光明寺の静寂に包まれた墓地群を選んで歩いているに違いない。
 陽はとっぷりと暮れ、少しずつ夜の帳が(とばり)降りて来た。私は男達を追い抜き石段を降りた。池に差し掛かった石橋の先で作務衣の小僧さんが竹箒で参道を掃いていた。其処は歩いてきた石段より巾が広がっていた。作務衣の小僧さんに訊いた。
 「丸太町通はどう行ったら・・・」
 「其の石段を向こうに行けば直ですよ」
 作務衣の小僧さんは、今渡った石段を指差して云った。
 私は細く小暗い径を抜けて行った。左方の岡崎神社の塀伝いに丸太町通に出た。神社の提灯には明かりが灯る。丸太町通を行き交う車のヘッドライトが一瞬間、送り火のように見えた。
 静寂な小宇宙の空間体験の余韻が残り、送り火と錯覚した。けれどもそれも一瞬の間だった。私は現実に引き戻され丸太町通を歩いて行った。   
10 伏見稲荷大社-スケッチギャラリーへつづく
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