京都ー光と影 2

サイトリスト  
古都ー光と影 TOP
大和路ー光と影1
大和路ー光と影2
大和路ー光と影3
京都ー光と影1
京都ー光と影2
京都ー光と影3
イタリアの町並

アフガニスタンの町並

11 宇治・平等院   おすすめサイト
YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
平等院鳳凰堂 平等院観音堂
宇治川 宇治上神社
京都インデックス  
    京都ー光と影1
一  等持院から金閣寺へ
二  銀閣寺から法然院へ
三  醍醐寺
四  上賀茂神社・社家
五  法然院から永観堂へ
六  今日庵から相国寺・下鴨神社へ
七  黄檗山萬福寺から興聖寺へ
八  大徳寺
九  高雄・神護寺から清滝へ
十  栂尾・高山寺から北山杉の里へ
十一 鞍馬寺から貴船神社へ
十二 
    京都ー光と影2
一  比叡山・延暦寺
二  曼殊院から詩仙堂へ
三  泉湧寺から東福寺へ
四  大原の里
五  西山の寺
六  祇園から八坂塔・清水寺へ
七  六角堂から楽美術館へ
八  赤山禅院から修学院離宮へ
九  円通寺から岩倉へ
十  伏見稲荷大社
十一 宇治・平等院
十二 桂離宮
    京都ー光と影3
一  嵯峨野ー渡月橋から大悲閣千光寺へ
二  嵯峨野ー天龍寺から常寂光寺・落柿舎へ
三  嵯峨野ー常寂光寺・落柿舎から二尊院へ
四  嵯峨野ー二尊院から祇王寺へ
五  嵯峨野ー仇野念仏寺から鳥居本平野屋・愛宕念仏寺へ
六  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ1
七  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ2
八  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ3
九  
十    
          
古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
十一 宇治・平等院
 
 
 水量豊富な宇治川に掛かる宇治大橋を対岸の平等院方面に進み、石段の参道のとば口にある観光案内所で宇治に関する資料を手に入れた。
 石段の参道沿いには小綺麗な土産物店が立ち並ぶ。朝早いためか参道を歩く探索者はまだ少ない。
 程なく平等院の朱色の門が姿を現した。受付を入った左手に観音堂が立つ。平等院は造営当時には阿弥陀堂、金堂、講堂、法華堂、不動堂、経蔵、宝蔵などの堂宇が立っていたが、源平・南北朝の争乱により、その殆どは焼失し、現在、阿弥陀堂、観音堂、鐘楼が残るのみである。
 観音堂は鎌倉時代に再建された建築である。観音堂は鎌倉期の気風を今に伝え、堂内には古色蒼然とした武骨な空気が漂う。
 化粧天井を支える丸太の?木は外の軒から勾配なりに堂内に貫入する。柱や梁は乾燥し切ってからからに乾く。内陣と外陣を分ける列柱から、外側に控え梁が柱ごとに架け渡される。その上方に丸太の?木が上る。架け渡された対面には、歳月を感じさせる板戸が立てられ、出入り口のみが開放された小暗い空間だ。
 探索者は堂内に足を踏み入れ、ぐるっと見回し直に出て行く。私は見張人の女性の反対側で堂内を描き始めた。半分程画いた時、私の方に見張人が歩いて来た。
 「私は交替するので早く描いてほしい・・・」
 「はい、スケッチはいけないんですか・・・。色は使いませんが・・・」
 そう云われ急いで見た印象を筆にのせた。平等院では写真撮影だけでなくスケッチも描いてはいけないようだ。
 荒々しい堂内を描きながら、鎌倉時代の堂内に現代人の私が存在していること自体が不思議に思えてきた。それだけ内部空間に鎌倉時代の気風が現れているのかもしれない。
 観音堂の傍らに種田山頭火の句碑が立つ。
 
  春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏
 
 漂泊の(ひょうはく)詩人種田山頭火もかって平等院を訪れたのか。山頭火は行乞し(ぎょうこつ)ながら全国を旅して歩いた俳人であった。路傍の名もない草花や民衆を詠んだ句が多いと思っていた。斯様な空間に接していたとは・・・。
 鳳凰堂の阿字池の縁石工事が行われ、阿字池の水量は少ない。左翼の楼の背後の道を浄土院に向かった。
 小さな浄土院の前庭の隅に源三位頼政(げんさんみよりまさ)の辞世の歌碑が立つ。
 
埋木の花さくこともなかりしにみのなるはてぞ哀れなりける
 
 治承四年(一一八0年)源頼政は以仁王(もちひとおう)を奉じ平清盛打倒の兵を挙げた。源平の対立の萌芽だった事件であると云えなくもないが、この時には源平同士が体制、反体制に別れて戦った。源頼政は宇治川付近で追いつめられ、自害したと伝えられる。
 境内の裏手の道を歩き鳳凰堂の右翼に出た。右翼の楼には、パートの女性が三人いた。鳳凰堂へは此処から簀を(すのこ)敷いた渡り廊下を進む。
 鳳凰堂近辺にもパートの女性が大勢いる。私が訪れた時は早朝のためか空(す)いていた。けれどもシーズンともなれば観光客や修学旅行生でごった返すのだろう。大勢のパートの女性がいなければ整理がつかないに違いない。 女性達は没個性的である。参拝客に対する対応で疲れているのか、それとも接客を面倒に思っているのか分からなかったが、彼女達の対応は素っ気ない印象だ。
 鳳凰堂は天喜元年(一0五三年)に造営された阿弥陀堂である。一千年以上たっている訳だ。堂内は華麗な堂の名残(なごり)を思い起こさせ、古色蒼然とした空気が漂う。
 堂内の柱、梁を始めとした木部、白と茶色が混じり合い斑に(まだら)見える。一瞬間それが何うしてそうあるのか分からない。ただ旧いが故にそうあるのだろう位に思った。
 斑模様は木部に描かれた宝相華(ほうそうげ)が剥げ落ちた跡であった。宝相華は架空の華で尊い華だと云われる。宝相華が堂内の木部のありとあらゆる面に埋め尽くされた光景は、古色蒼然とは対照的に、豪華絢爛(ごうかけんらん)たる雰囲気だったに違いない。
 創建当初の鳳凰堂の姿と眼前にある趣きのある堂、どちらが宗教空間として優れているか。当然私は眼前の鳳凰堂を好む。宝相華が剥げ落ちたには違いないが、千年の時を潜り抜けて来た物の深みを感じるのであった。
 本尊阿弥陀仏の上を蓋う天蓋は、木彫で透彫に(すかしぼり)宝相華が彫られた上に金箔が施され、燦然(さんぜん)と輝きを放つ。一瞬間、眩暈を憶え、くらくらとし眼に入る光景が緩っくりと揺らぐのだった。
 堂の壁上部の小壁には雲中供養菩薩像の小像が五十一体、懸けられている筈だったが、現在、平等院展出品され白壁があるのみだ。
 
 本尊阿弥陀如来像は寄木造で漆箔が施されている。かなりの部分金箔が剥落し、下地の漆が黒く剥き出、上体の衣の辺では黒と金箔が混じり合い斑になって衣の襞の流れに続く。穏やかな顔の側面も漆と金箔の斑模様になって顎に続く。長い歳月のなせる技だ。斯様に金箔を貼れと云われても不可能だろう。漆の黒と金箔、色の印象として対極に置かれた物同士が混在し、入り交じって趣きのあるテクスチャーを醸し出している。
 阿弥陀如来像は仏師定朝の(じょうちょう)晩年の作である。縦、横に幾つかに分けられ、合体してつくられた寄木造だ。一千年以上たったわりには、その継ぎ目は表面にあらわれていない。内部は刳(えぐ)ってあり、木材の乾燥収縮によるヒビ割れを防いでいる。
 阿弥陀如来像は丈六像と(じょうろくぞう)云われる。丈六とは、一丈六尺、像が立った時の高さは五メートルほどである。因みに坐像は三メートルほどの高さだ。 堂内の人の手が触れた柱は、人の油でつるつるとして光沢があったが、手が触れられない高処部はざらざらとしたテクスチャーであった。
 鳳凰堂の扉には九品来迎図(くぼんらいごうず)が描かれる。黒い線描、緑色に処々色付けされ、長い歳月よく残されていたものだ。と感心する許りだ。
 パートの女性のマニュアル通りの説明を三回ほど聴いた。平等院では、ローテションを組んで、次から次に彼女達は持ち場を変わって行く。
 
 右翼の楼を出、鳳凰堂の正面に出た。阿字池を挟み枝振りのよい松の木の向こうに華麗な鳳凰堂が、両翼を従えて立つ。水量が少ないためか水面に映(うつ)る堂は現れなかった。
 鳳凰堂を中心に水平な廻廊が両翼に連なり安定感がある。背後には緑葉が僅かに覗き、藍青色の空が一面に拡がっていた。吹晒しの廻廊は透け、対岸の緑葉が柱廊の間に見渡せる。空間の相互貫入があり流動的空間である。 描き易い場所を捜す。少し斜めから鳳凰堂を眺めた。右翼の楼は画面に入らず、左翼の楼は松の木の横に張った枝葉の葉擦れに微かに見える程度だ。
 スケッチを始めて暫くして振り返った。南門受付から、此方に向かって、パートの女性が歩いて来るのが見えた。
 持ち場を移動するらしく、私の傍らに来た。
 「スケッチはいけないことになっているので、なるたけ早目に描いて下さい。うるさくてすいませんね」
 「外でもいけないんですか・・・」
 早目に描くように云われても、この構図を描くには時間がかかる。色付けは後でするにしても、デッサンは済まさねば、細かいことは気にせず、二度目の注意が来る迄に素早く描き上げた。
 
 南門から宇治川沿いを歩いていった。左方の平等院の境内に立ち上がる樹木の葉擦れに鳳凰堂が僅かに覗く。
 宇治川の堤に降りた処に観光センターが立つ。ラウンジに数人の探索者がソファーに腰を下ろしお茶を喫んでいた。観光センターの受付で対鳳庵(たいほうあん)の入場券を買った。
 宇治市営の対鳳庵では、各流派の茶会が開かれると云う話だ。今日は裏千家の先生が来ているらしい。裏千家と云えば、道に三段の結界を築いた今日庵が本部である。
 先生に今日庵について訊ねたいことが沢山あった。ラウンジの硝子戸の外の対鳳庵に至る飛石を進んだ。
 対鳳庵は庵と呼ぶほど古い茶室ではない。手入れが行き届いているためかまだ新しい建築の印象だ。聴くところによれば、対鳳庵は昭和三十年頃、現在の地に建設され、最近新しく立て替えられたらしい。
 躙口は(にじりぐち)何処だろう。庭先に立ち庵を眺めた。何処からともなく小太りの紺色の着物姿の女性が現れた。
 「さあどうぞ・・・」
 女性はそう云って庵の角にある踏石に手を向けた。手の先に建物に入る小さな踏石があった。云われるま踏石で靴を脱ぎ、硝子戸を引いた。足を踏み入れた処は二間ほど奧に伸びた廊下である。左手に八帖の広間茶席があった。
 私は奥方、床の間の前に座った。畳の藺草の匂いが茶席に漂い、心地好い酔いのような錯覚を憶えた。
 先刻の紺色の着物に身を包んだ女性が、
 「いらっしゃいませ」
 三つ指をついて挨拶し直に出ていった。入れ替わり、緊張した面持ちの女性が私の眼前で三つ指をつき、 
 「いらっしゃいませ」
 と云って深々と頭を垂れ茶を点(た)て始めた。その後、ベージュ色の着物をきた幾らか若い女性が和菓子を私の前に並べた。
 女性は三つ指をつき心なしか緊張した面持ちであった。そのうちに紺色姿の女性が再び現れ、私の対面に座った。話し相手を務めるのだろうか。
 茶席では主人と客人は心をちらっと覗かせるような会話をするものだと云うことは、安土桃山時代、秀吉と利休の関係を眺めても分かる。紺色姿の女性は微笑を浮かべ、私の前に座るだけだ。
 「裏千家ですと今日庵にはいらっしゃたことがありますか。我々には畏れ多く、とても入ることはできません」
 「先生は行ったことはあるかも知れません。私達はまだ・・・」
 「先日楽美術館を訪れた時、楽焼の土は伏見の方から持って来る話をしていました。仕入れた土は三代寝かせてから使うらしいですよ。宇治にも陶芸の上林記念館が近くにありますね」
どうも秀吉と利休のように、話は旨く噛み合わない。話は途切れ途切れになる。隣室が水屋らしく物音が聴こえて来た。次の客が入って来たのと入れ替わりに私は対鳳庵を出た。
 朱色の橋を宇治川の中州、浮島に渡った。浮島は公園になり、よく整備されていた。けれども、探索者が歩く姿は殆どない。
 宇治川は水量が豊かで川巾もかなりあり、川縁には心地好い風が流れる。玉石で護岸された棚を乗り越えた。石敷きの堤で宇治川の上流をスケッチし始めた。
 宇治川の対岸に朝日山が大きく見える。朝日山の麓には昨秋訪れた興聖寺が緑葉に抱かれてある。朝日山の山端は緩っくりと右下がりに落ち、遙か彼方、宇治川と溶け合う。右方にも丘陵が伸び優しい山端である。それらの光景を一心不乱に描いた。
 浮島と対岸を結ぶ朝霧橋を進む。渡り切った処に宇治神社の石段があった。宇治神社の境内を通り、宇治上神社への参道を進んだ。昨秋スケッチした朱色の鳥居が先方に姿を現した。
 スケッチブックの画用紙が一杯になってしまった。スケッチブックのカバーの堅い紙に鳥居を描いた。思ったより描き易い、ハードカバーであるからマットがなくても額に入れられそうだ。
このページのトップに戻る

リンク集

メールはこちらへ


Copyright(C) Sousekei All rights reserved.