京都ー光と影 3

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1 嵯峨野ー渡月橋から大悲閣千光寺へ-スケッチギャラリーへ
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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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十一 鞍馬寺から貴船神社へ
十二 
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一  嵯峨野ー渡月橋から大悲閣千光寺へ
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三  嵯峨野ー常寂光寺・落柿舎から二尊院へ
四  嵯峨野ー二尊院から祇王寺へ
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六  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ1
七  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ2
八  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ3
九  
十    
          
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読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
一 嵯峨野ー渡月橋から大悲閣千光寺へ
 
 大学卒業後、勤務先の設計事務所の先輩に名刺判サイズのモノクロ写真を見せた。確か嵯峨野の二尊院、山門から伸びた緩い坂道の参道を撮った写真だった、と記憶している。今では写真といえばカラー写真が当り前だ、当時カラー写真が普通になり、モノクロ写真を撮ることは変った男、と見られた。その時鈴木先輩は、
 「白黒とは変っているじゃない、鞍馬天狗が出てきそうだよ」
 と頬を緩めて云った。
 霧が掛った夕暮刻だったためか、白黒の濃淡が曖昧で先輩が云うように、写真の向うにベールを被った平安、鎌倉時代の光景が見えた。
 三十数年前の話であるが、時折鈴木先輩のこの話が脳裡を過ぎることがある。
 嵯峨野の原風景としてこの写真はあった。小倉山に連なる山々がその裾を緩やかに引き、里と混じり合う辺に東西に小暗い小径が走る。小径に面した人家、樹々が立上がる庭先から枝葉が差伸べられ、仄暗い小径を更に深い闇に包んでいた。
 今東西に小径が走る、と述べた。ところが、今改めて地図を開いてみた。正しくは南北に小径が走っているのである。嵯峨野の幹線小径とも云えるこの径が南北にあることを初めて知った。今までこの小径は東西に走っているものと許り思っていた。とすれば二尊院等の寺院は南面するのではなく山門は東に門戸を開いている事になる。私は無意識の裡に嵯峨野を南面させ吉野の金峯山寺蔵王堂と対峙させていたのかも知れない。
 嵯峨野は京都市街西北に位置し西方から御所を拝する立地にある。北方から拝する立地ではない。私の脳裡で細胞が九十度回転してしまった。嵯峨野は南北軸ではなく東西軸、言葉を変えれば横軸から歴史を見据えてきた事になる。それは思い描いていた嵯峨野の佇により近い佇だ。
 東西に走っているものと錯覚していた小径に足を進める人は殆ど無く、まだ二十代の若者の旺盛な知識欲のみがあった。若者の溢れ出る肉体と小径に現れた嵯峨野の侘しさは不思議に釣合がとれていた。
 しっとりとした空間に異質の種が投込まれているような光景だ。異質の種が投込まれたとしても小径は変ることもなく無言の相であった。
 無言の相であるが故に多くのことを語っていたのかも知れない。嵯峨野の小径、それは嵯峨野そのものであった。
 小径には家並が断続的に続き、枝葉に包まれた寺院の山門が小径に木戸を開けていた。それらの表情が小径にもの悲しい佇を醸し出していた。そんな情景が脳裡の片隅を占めていた。
 小径に面した具体的な寺院の名は二尊院ぐらいしか憶えていなかった。それぞれの寺院が如何なる歴史を辿ってきたか、そんなこともそれ程興味はなかった。嵯峨野を面的に形成している空間に興味を懐いていた。
 もともと嵯峨野その語感の響き、華麗な文化の奥に潜む侘しさを垣間見ていたのかも知れない。嵯峨野は私にとって京都の代名詞ともなっていた。
 けれどもそれ以来、嵯峨野を訪れることもなく三十数年の年月が経った。
 
 嵯峨野に関する文の流れとしては、渡月橋を起点とし天竜寺、常寂光寺、落柿舎、二尊院、祇王寺、化野念仏寺と嵯峨野の小径を北方に向けて足を進めていく積りだ。
 三十数年振りに嵯峨野の土を踏んだ。
 早朝京都駅に降りたった。原宏の設計による京都駅、美観論争は数々あったには違いない。けれども今では京都の街並に溶け込んでいるような気がする。嵯峨野への山陰本線のプラットホームは駅舎の東の隅方、薄墨のタイルが敷詰められた階段を下った先方にある。
 広々としたプラットホームには多くの人が行交っていた。右方に停まる列車の窓に蛍光灯の明りが反射し鈍色に光っていた。列車の頭上に園部行、と角張った字が浮上がっていた。園部には三十数年前、不思議な縁で訪れたことがあった。園部その語感の響きに懐かしさが胸に湧いてきた。園部行列車内は程良い混み具合でぱらぱらと立つ人がいる程度だ。右側のボックス席に腰を下ろした。
 嵯峨嵐山までは丹波口、二条、花園、太秦を走り、京都駅から五つ目である。京都駅から嵯峨嵐山駅まではそれ程遠い距離ではない。けれども園部行列車は京都を抜け米子、松江に繋がっている、と思うと旅情を感じるに充分なローカル列車だ。長距離列車が市内の小さな駅に各駅に停車することは東京ではありえない。
 点在する駅を列車はゆっくりと進んで行く。程なく列車は嵯峨嵐山駅に滑り込んだ。
 駅舎の改札口には数人の観光客が観光案内パンフレットに眼を落していた。暫く立ち止っていた観光客は、それぞれ思い思いの方向に足を向け後姿を遠ざけていった。駅舎の右手には四角い箱形の建物、トロッコ嵯峨の乗場が並んでいる。
 駅前広場には、大きな二つの車輪を持った人力車が数台停まり、印半纏に身を包んだお兄さんが愛想笑いを浮べ客に近付いていた。駅舎の切符売場で嵯峨野の簡単な地図を貰った。地図に記された寺々に眼を落し三十年振りの嵯峨野を味わっていた。
 駅前広場から真直に広い道が下っている。道には店が軒を並べ、時折歩道を進む観光客が後姿を見せる。立並んだ店は土産物店や生活品を並べた店で観光地にしては静かな佇を残す。
 坂道を下っていった。坂道が突き当る道筋に小径が右斜めに伸び、右方に弧を描いて家並に吸込まれていた。足は小径に向いた。小径の両側には家が立て込んでいた。四年前のため記憶が判然としないが、道に面して閑静な家並が丈の高い垣根の枝葉の向うに覗いていた。
 古風な門の柱にー・・・・保養所ーと記されていた。家の敷地は道路面から一メートル程高く、枝葉の葉擦れに軒の垂木が尺五寸間隔で並んでいた。垂木は薄茶色に光沢を放ち簡素な美しさがあった。さりげない風情に接し嵯峨野に近付いてきた印象を憶えた。
 小径をくねくね曲って商店が立並んだ道に出た。地元の商店街に挟まって時折土産物店がガラス戸を開いていた。道の先方に人が行交い、時々観光バスが通り過ぎて行くのが遠目ながら解った。渡月橋に通ずる道路に違いない、と思い真直に伸びた道に足を進めた。
 路地裏の生活空間から一変し華やかな装いの観光空間に出た。眼前には天龍寺の築地塀が結界を築き、道の北方に伸びている。眼を南方に転ずれば広々とゆったりとした風景が空一杯に広がっている。
 三〇年前のこの近辺の記憶は判然としない。ただ眼前に展開する華やかな装い、彩豊かな品々を店先に並べた土産物店、行交う人達が纏ったカラフルな衣装は現実の姿だ。それは欲望の塊である、それは対面の天龍寺の禁欲的な築地塀と対峙し道を挟んで溶け合っている。
 
 けれども数十年前の空気が辺に漂っていることは感じられる。華やかな眼前の光景は仮の姿で内在するエッセンスは変らない。華やかであればあるほど奥に潜む寂しげな姿が見える。
 渡月橋の辺は一際広々と開け、橋の向うには民家だろうか甍の波が背の青葉に点々と浮んでいる。この時には、橋の下を流れる川の名は知らなかった。
 穏やかな川の流れは保津川、大堰川と名を変え、この渡月橋近辺からは桂川、とその名を変える。桂川を下流に下れば堤のすぐ傍に桂離宮が立つ。
 渡月橋の畔に立った。道と川との境に街路樹が立上がり処々にベンチが置いてあった。道を挟んだ反対側には土産物店が軒を並べ、店先には色取り取りの品で溢れていた。午前中だったためか観光客の姿は疎らだ。
 桂川縁の堤を下流に下り、渡月橋を振返った。川の流れはゆったりとし川面を微かに波立たせ、辺には穏やかな空気が流れる。
 ここから眺める渡月橋は浮橋のように頼りなく水辺に浮んでいる。橋を支える薄墨色になった橋桁、方杖がリズミカルに均等間隔に水面に顔を出す。
 橋桁を通し向うに見える水面は大きく弧を描き右方に吸込まれていく。橋の背は薄紅色に染まり、処々萌黄色に若やいだ青葉が顔を覗かせている。山端は二三の頂を繋ぎ、緩やかなカーブを描いて北は清滝方面へ、南は西山へと尾を引いている。
 堤と川の間、コンクリートブロックを敷詰めた川岸から橋に向け右手に抱えていたスケッチブックを翳した。絵のアングルとして変化のある構図だ。
 ウエストポーチのチャックを右に引き、縦にに入れてあったチャコール鉛筆を引抜いた。久し振りのスケッチのため、描き始めは手が堅くなっていた。けれども描き進むうちに画面の上をチャコール鉛筆が滑らかに走った。
 対岸の橋畔の背、瓦屋根が鈍い輝きを放っていた。旅館か民家であろう、それは背の桜花に溢れた嵐山と好く響き合っている。
 デッサンを終え、ウエストポーチからヴァンゴッホの水彩絵具を取りだして拡げ、コンクリートブロックの上に並べた。筆を引張り出して水器に浸け、たっぷりと水を含ませて固形絵具に水を垂らした。まず川縁に立上がる街路樹の若葉に筆を走らせ、それから背の薄紅色に染上がった嵐山を赤に白を混ぜて描いた。
 描く間、渡月橋の周りにゆったりとした川の流れのような穏やかな空気が流れ、時間が静止しているのでは、と錯覚を憶えた。
 他日、阪急嵐山駅から渡月橋方面に足を進めた時。小さな橋の上に人だかりがあった。川で魚を獲っている男がいたのである。私は同じように橋上で立ち止り川面を見下ろした。川の流れは澱んでいた。暫くして顔を上げた。
 眼前にお伽の国の光景が繰広げられていた。川の右岸には料亭風の佇の民家が数軒軒を並べ、家と家の隙間から青葉が顔を覗かせ萌黄色に輝いている。家から川面に下りられるらしく川との境界を現す低い護岸の連続が切れている。
 家は護岸に沿って建てられ、護岸との隙間には若葉が線状に繁っていた。恐らく連続する家は料亭と思われる。川に面する側が見晴しが利く表であろう。銀鼠色をした屋根、縦張りになった薄茶色をした板壁、板壁に穿たれたガラス窓、突出た部屋の小庇、萌黄色に輝く若葉の帯それらが絡み合い有機的な空間を構成している。
 左岸、料亭の対岸の川岸は桜花が連なり、水面に淡紅色の筋を引いていた。桜花とお伽の国の光景とが好く調和し不思議な空間を演出している。
 川は右方に弧を描き桜花に吸込まれる。弧を描いているため界隈に動きのある空間を醸し出している。川は背に控えるお椀を伏せたような小山、川の畔に咲誇る桜花より更に淡い紅色に染上がった嵐山の裾を巻いて流れる。
 キャンソン紙のスケッチブックを桜花に翳した。ウエストポーチからチャコール鉛筆を引張り出し描き始めた。右方の料亭が思いの外複雑でごちゃごちゃし眼前の穏やかな光景とは異なり張詰めた気持で鉛筆を走らせた。デッサンを終えた、けれども此処ではとても色付けはできる状態ではない。前面に広がった風景を眼に焼付け、後で色付けすることにした。数時間以内であれば残像が鮮明に甦ってくる。
 今立つこのポイント、此処が正確にどの場所であるのか、そのときには気にも留めていなかった。淡紅色に覆われた胎内にいる錯覚を憶え、夢の中を彷徨していた一刻に全てを忘れ去っていた。
 後日、この風景についてYKギャラリーの常連客の田中氏に話した。
 「其処は中之島ですよ、その川は保津川から分岐した川で川岸に軒を並べている家はお茶屋さんですよ」
 と田中氏は頬を弛めて云った。
 「そう云われれば橋を渡った処は、川沿いにリニアーに展開する嵐山公園、公園に面して店が軒を並べていました。その裏側になる訳か・・・」
 たすき掛に腕を組み、窓外に展開する新緑の若葉を見詰めその時の情景を思い浮べた。
 動線を辿れば当然解ることである。料亭いやお茶屋さんの向うには広々とした嵐山公園が広がる。眼前の光景からそれは予想することは出来ない。お伽の国が独立して存在している錯覚を憶えてしまう。
 吹田豊津から阪急京都線、桂駅で阪急嵐山線に乗継ぎ嵐山駅に至るルートは幾度も通った。渡月橋から嵯峨野に抜けるには必ず中之島の嵐山公園を通る。背に控える嵐山が薄紅色に染まる春、辺に気怠い空気が漂い樹々の葉が濃い緑にむせ返る盛夏、そして嵐山が朱色から黄色へと色取り取りの秋色に色付いた晩秋、そのどれをも経験した。ただ心身が凍り付くような厳冬には接していない。
 薄紅色に染まったお伽の国の穏やかな空気は、厳冬期には張詰めるような空気が支配しているのだろうか・・・。
 
角倉了以 嵐狭館
 
 
 渡月橋の南、道路を挟んだ丘の中腹に法輪寺が立つ。過日、松尾大社から西山の付根を風情のある街並を探しつつ嵯峨街道を北に向けて歩いた。
 西山の付根の狭い裏道には小さな家が立て込み、思い描いていた嵯峨野のイメージには程遠い街並だった。それでもひとつぐらいは惚れ込むような空間があるだろう、と思って嵯峨街道から分岐した坂道を左に折れた。確かー法輪寺ーと記された看板が坂道の角に架かっていた。
 傾斜のきついくねくね折れ曲った坂道を上って行った。程なく明るく開けた山の中腹に出た。正面に山を背にした本堂が立つ。人が行交い華やかな空気が漂う渡月橋近辺とは異なり、観光客が二三人本堂前の広場を歩いているに過ぎない。
 広場に接し広く人工地盤で出来た展望台が突出ていた。本堂にはそれ程興味が起らず、明るく開けた展望台に足を進めた。一段下がった先端に年輩の男がいた。男は微笑を浮べ此方に顔を向けた。
 「うわっー随分眺めがいいですね・・・。あれが渡月橋ですね、あの林に囲まれているのが天龍寺・・・」
 男の傍らで独語を吐いた。
 「ああそうですよ、あっちに清涼寺が見えますよ」
 男が指差した先に、緑海に浮んだ甍が茜色に染まっていた。
 右手に抱えていたキャンソン紙のスケッチブックを展望台の幅広い手摺に載せた。ウエストポーチから絵具と水器壺を取りだしスケッチブックの右手に置いた。それから筆を引張り出した。デッサンを省略し、白紙の画面に緑色に染まった筆を横に滑らせた。次は何の躊躇いもなくペインズグレイを筆の先端につけ僅かに水に湿らせてスケッチブックに走らせた。
 描くうちに雨滴が一滴、緑色に染まった画面に落ちた。小さな滴が同心円を描いて滲んだ。滴の同心円は二つ三つと続いた。それでもそれもたいして気にならない。前に現在、高砂熱学工業九州支店長として活躍している大学の学友中島翼氏が、
 「山口、スケッチの良さはその時の情景が現れるところにあるんだよ。風に吹かれれば線が曲る、なにも線は真直でなければならない、そんな規則はないんだよ」
 中島の話が頭を過ぎった。それでも雨滴が断続的になれば画面全体が斑模様になってしまい描いた本人でなければ理解できない絵になってしまう。
 法輪寺が立つ山は嵐山の中腹である。法輪寺の本尊は虚空蔵菩薩であり、関西方面の人にとって嵯峨の虚空蔵さんとして身近に親しまれている。法輪寺のホームページによれば、
 「法輪寺は十三まいり(知恵参(ちえまいり))としても京都の人々に親しまれている。京都では三月から五月にかけて、十三日の日に数え年十三歳になった男女が着飾って、健やかな成長を願い法輪寺などに参詣します」
 何気なく立ち寄った寺院だが、それぞれの寺院は伝統ある歴史を秘めていることを実感した。いろいろな歴史を秘め、細かく研究すると錆付いた脳細胞がパニックを起しそうだ。
 
 京都嵯峨野、奈良吉野山に尽きせぬ憧れを懐いている。何故嵯峨野と吉野であるのか自分でも判然としない。対象が深い歴史と謎を秘めているためだろうか。嵯峨野は時の権力と密接に絡み合いながら寂びた空間を構成してきた。
 一方吉野は山の民として権力に対峙してきた。役行者は吉野山中を駆巡っていた。役行者は金峰山寺蔵王堂の開創者とも云える。その金峰山寺仁王門の連続に蔵王堂は立つ。蔵王堂は都側の参道にその尻を向けていることが判明したことは記憶に新しい。
 嵯峨野と吉野それは里の民と山の民の構図に置換えることが出来ないだろうか。確かに異種の空間、といえるかも知れない。嵐山について調べていた時、嵐山の桜樹は後嵯峨上皇の亀山殿造営の際、吉野から移された事実が分った。里の民と山の民の接点がひとつだけでも見つけられホッとしているところだ。
 保津川北岸は以前数回歩いた事があった。北岸には陽が燦々と降注ぎ行交う観光客は華やかな装いで、眩しそうに対岸の嵐山を眺めていた。対岸の嵐山が保津川に落込む縁を時々、人影が昆虫のように動く。山影で濃くなった緑葉が川に沿って一筋の湾曲した航跡を描き右方に延びていた。ぼんやりと小暗くなった航跡に眼をやった。
 航跡の先にどんな空間があるのだろうか、と何気なく考えた。地図を拡げた。山の中腹にー大悲閣千光寺ーと緑葉に埋れて記されていた。ー大悲閣ー名から受ける印象では、小さく寂びた寺院を思い描いていた。何れ訪れたい、と思っていた。
 春にはまだ間がある二月上旬、大成建設建築設計室長の職にある学友鈴木晋氏と共に京都を訪れた。私は一日早く訪れていたため東山山麓、樹々に包まれひっそりと佇む法然院で鈴木晋氏と待合せた。
 待合せ場所は法然院の何処という事もなかった。一時間前に法然院に着いた。黒門をスケッチしてから光明が差す山門に通ずる、石畳の参道に足を進めた。屈曲した参道の彼方に山門が佇む、そこから画面に筆を走らせていた。人気のない参道、肩を叩かれた。振返ると晋の笑顔があった。
 文学書を小脇に抱え、髪をきりっと束ねた目元の涼しげな女性であれば、小説になりそうな情景では、と思いつつ鈴木氏に顔を向けた。
 鈴木氏と私は偶然、互いに法然院の黒門から参道を通り山門に至る空間を絶賛したことがあった。
 その旅の際、晋と共に茶室待庵を見ての帰り大悲閣千光寺を訪れた。阪急嵐山駅方面から散策し保津川右岸に足を進めた。橋の畔に遊覧船の船着場があった。一般観光客向けの遊覧船の船着場ではと思った。ところが先方に立つ嵐山温泉嵐橋館への専用の船着場であることが、先に歩いて行った時分った。
 小さな車が通れるほどの細道を右方に保津川の流れを眼にして進んだ。渡月橋の華やかな賑わいが遠いことに思える程静寂に包まれた道だ。時々軽トラックが走り抜ける。その度に山側に体を寄せ車をかわした。細道が何処まで続いていたのかは忘れた。道筋に石や樹根が剥き出した山道を通ったように記憶している。二年前のため記憶が曖昧になっていた。
 遊覧船が樹々の緑を映した川面を滑るようにゆっくりと進む。
 「舟に乗せて貰えば良かったなあ」
 晋は笑いながら云った。
 「嵐橋館に泊る事にすれば舟に乗せて呉れたかなあ」
 遊覧船のデッキに十人程の客が立ち、岸辺の風景を眺めていた。程なく嵐橋館への石段に出た。石段は緑葉に挟まれ左に弧を描き枝葉に吸込まれる。此処でゆっくりしたい、と思ったけれども左方に折れた幅の狭い石段に足を進めた。
 九十九折になった急傾斜な石段を登り詰めると千光寺山門が門戸を開いていた。山門から更に石段が続き正面に鐘楼が立っていた。此処から下方を俯瞰した。眼下に保津川の川面が山の樹々を映し緑色の航跡を描いていた。
 大悲閣千光寺は、山の斜面の平坦な処を利用して立っているため山内は狭く、二三の建築が立つだけだ。拝観料を納める建物は、仮設小屋で板囲いしただけの簡単なものだった。がたついた板戸を押開け若い男が出てきた。手前には数種類の土産品が並べてあった。見晴しの好さそうな建物には数人の男女がいた。
 一見、住宅のような建物の広間には雑然と物が並べてあり、中央隅に角倉了以像が置かれてあった。二方に開けたガラス戸から京都の山々が見渡せる。先客の男女はガラス戸に顔を寄せ、眼下に展開する素晴らしい景色にうっとりとした様子だ。此処からスケッチをした、けれども記憶が曖昧になっていて、スケッチだけではどんな風景だったかは掴めない。
 描き終わり振り返った。てウエストポーチから小スケッチブックを引張り出し、広間に置かれた角倉了以像を筆ペンで描いた。大悲閣千光寺は角倉了以が河川開削工事関係者の菩提を弔うために創建された寺院である。
 
 角倉了以について、高瀬川を開削したことで知るに過ぎない。読み方は恐らくーすみのくらりょういーであろう、けれどもー・・・・りょうにーであるかも知れない、と自信をなくし広辞苑を繙いてみた。
 間違いなく読み方はーすみのくらりょういーであった。同時に広辞苑に角倉について、
 「嵯峨角倉の近傍に住んだからいう。了以を祖とする江戸時代の豪商。本姓吉田氏」
 続いて広辞苑は角倉素庵について、
 「江戸初期の学者・書家、貿易商。了以の子。名は与一。藤原惺窩の門人。書を本阿弥光悦に学んで一家をを成し(角倉流)嵯峨本(角倉本)を刊行父の海外貿易・土木事業にも協力」
 角倉了以について、
 「江戸初期の豪商・土木家。名は光好。洛西嵯峨に住む。算数・地理を学び、一六〇四年(慶長九)頃より安南国に朱印船(角倉船)を派遣して貿易を営む。嵯峨の大堰川・富士川・天竜川の水路を開き、また京都に高瀬川を開削」
 と記されていた。
 大悲閣千光寺の広間に置かれた角倉了以像には苦労人の表情が現れていた。贅肉とは縁のないはがねのような躰であり、ぐっと大きく眼を見開き正面を見据えていた。
 一方、大悲閣に置かれてあったかどうか不明であるが、素庵の像は父了以とは反対にふっくらと肉が付いていた。了以と素庵の両像、厳しい試練を経てきた創始者と、潤沢な資金に恵まれた二代目の性格が好く表現されている。
 仮設小屋の受付に冊子が置かれてあった。小屋の番人の男が認めた詩であろうか、
 
          心 こころ
 心に 物なき時は、心ひろく体やすらかなり。
 心に 慢な(うぬぼれ)き時は、愛敬うしなはず。
 心に 欲なき時は、義理をおこなふ。
 心に 私なき時は、疑ふことなし。
 心に 驕(おご)りなき時は、人を敬う。
 心に 誤りなき時は、人を畏れず。
 心に 邪見なき時は、人を育つる。
 心に 貪り(むさぼ)なき時は、人にへつらうことなし。
 心に 怒りなき時は、言葉やわらかなり。
 心に 堪忍ある時は、事を調う(ととの)。
 心に 曇りなき時は、心、静かなり。
 心に 勇ある時は、悔むことなし。
 心に 孝行ある時は、忠節あつし。
 心に 自慢なき時は、人の善を知る。
 心に 迷いなき時は、人をとがめず。
 
 思わず隠れたくなるような詩である。けれどもそのような心が、あったりなかったりするのが俗人の人間であろう。それらの心を発散させず、自らの胎内に包み込んでおくことにより、心の詩の本質である微光が、自らの周りに一筋の航跡となって走るのでは・・・・。
 受付で貰った大悲閣の栞に芭蕉と会津八一の歌が記されていた。
 
     花の山 二町のぼれば 大悲閣              芭蕉
 
     だいひかく うつらうつらに のぼりきて 
               おかのかなたの みやこをぞみる   会津八一
 
 大和路をこよなく愛した会津八一が大悲閣を訪れていたことを初めて知った。
 緑に染まった保津川の川面を眼下にし急傾斜の石段を下った。程なく嵐峡館との分岐点に出た。鈍色に輝きを放った石段の前に暫く佇んでいた。石段は緩い傾斜で上り樹々が差掛ける枝葉に吸込まれる。
 吸込まれた先、緑葉の葉擦れに切妻型をした瓦屋根が覗いている。その向うにも瓦屋根の平側が、山峡の弱い光を吸収し折れ曲って連なっている。
 此処から俯瞰したところでは、保津川に面し山峡に立つ嵐峡館は、川沿いにリニアーな形態で先に延びているかに思える。石段に足を進めた。石段を上りきった処は平坦になって幾らか広くなり、先に小径が延びていた。
 手前に立つ本館と思われる建物の玄関先には石灯籠が置かれ、橙色の灯が透間から洩れていた。灯籠の周りには丈の低い樹の枝葉が差伸べられる。玄関に立てられた格子戸からは寂しげな灯が洩れ、石畳を柔かく照らしていた。
 嵐峡館の敷地内には幾つかの建物がリニアーに点在する。小径を旅館の幹線の廊下として使用し各施設を連結する手法がとられている。
 この旅館に泊って保津川を眺めたらさぞかし素晴しいことだろう、と思いながら足を進めた。程なく小径は建物に突き当ってしまった。来た小径を石段に戻り振返った。
 ウエストポーチのチャックを右に引き小スケッチブックを取りだした。それから筆ペンを引抜き、石段を中心に据え一気に筆を走らせた。描いている間、晋は石段の下方で保津川の川面を眺めていた。
 小径から下がった畔、コンクリートで出来た船着場に、着いて間もない遊覧船が横付になっていた。舟から七八人の男女が船着場に降りたった。船着場からは温泉旅館嵐峡館の家並が枝葉の葉擦れに見え隠れしているに違いない。しっとりとした嵐峡館を見上げ寂しげな風情の中、華やかな空気が伝わって来た。
        
1 嵯峨野ー渡月橋から大悲閣千光寺へ-スケッチギャラリーへつづく
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