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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
四 嵯峨野ー二尊院から祇王寺へ
 
 落柿舎から嵯峨野小径に足を進めた。小径の両側には樹々が立上がり、日中でも尚小暗い空間が続く。小径に差掛かる枝葉の葉擦れから閃光が差し、まだ活動の時間帯である、と気が付いた。時折樹立が途絶えて明るく開け、藍青色をした空が覗く。
 程なく二尊院総門前に出た。総門は嵯峨野小径からかなりバックして立つ。小径を挟んだ対面はアルコーブになり、数台のハイヤーが停まっていた。駐車場に接しーゆどうふーと書かれたレストランがあり、小径に面した大きなガラスが鈍色に輝いていた。
 三十数年前の二尊院はモノクロが支配する幽暗な世界だった記憶が脳裡の片隅に残っていた。訪れる人もなく、薄墨色に山内は染まり鎌倉時代の禅宗寺院ではないだろうか、と錯覚に陥ったことを鮮明に憶えている。
 眼前に立つ二尊院には明るく洗練された印象を憶えた。ゆったりとした石段が総門に至り、視線は開かれた大きな木戸を過ぎ、それに続いた参道に吸い寄せられる。ゆったりと上る石段が限りなく小さく収斂し築地塀の壁に突き当る。
 参道の左右から楓樹が覆い被さるように石段に差掛かる。楓樹の枝葉の葉擦れに石段が透け、春の柔らかな微風に揺れていた。総門の左右には白壁の築地塀が連なる。築地塀は曲折りに曲り、総門前の前庭空間を構成する。
 対面に停まっていたハイヤーの傍らに立ちキャンソン紙のスケッチブックを総門に翳した。引きもいい具合の構図だ。それからウエストポーチのチャックを右に引き筆ペンを引抜きキャップを外して胸ポケットに差込んだ。
 スケッチブックの上から三分の一辺、総門の軒端を水平に波打たせて引いた。軒端線は画面の半分強を占めた。これでスケッチブックの小宇宙を形成する比例関係は全て決った。
 この時描いた新緑の二尊院は、月日が経ったためか印象が薄れていた。翌年の晩秋二尊院総門前に立った。総門前に立上がる楓樹は、薄紅色に染まった枝葉を門の甍に差し伸ばし秋風に揺れていた。禁欲的でなければならない寺院が、何故斯様な華麗な空気を醸し出しているのだろうか、と先入観念に囚われた拙い頭で思った。
 寺院は時の権力と密接に関わりあっていた。二尊院においてもそれは例外ではなかった。二尊院は嵯峨天皇の勅願により、慈覚大師円仁を開祖として建立された、と云われる。当然当時として最高の空間を演出したであろうことは間違いない。
 
 総門に足を踏み入れ真直に伸びた参道が緩やかに上る。スケッチを描いていた処からは参道に差掛かる楓樹の枝葉は、空気のように透明な印象だった。ところが晩秋、枝葉の懐に足を踏み入れた時、余りの華やかさに、朱色から橙色に染まった色葉に包まれた胎内を彷徨しているような錯覚を憶えた。
 色葉には淡い緑が混じって混合しこの世のものとも思われない空気が参道を包んでいた。参道の出だしは幅広いステップの石段で始る。進むに連れ 石段のステップは幾らか狭くなり、蹴上げは高くなって石段を構成する石が鈍色に禁欲的な輝きを放っていた。
 離れた処から見えた白い幕のような横筋は、石段に対し水平に伸びた築地塀だった。築地塀は一メートル程高くなった土塁上に築かれ、頂には瓦を載せていた。土塁の堤を覆った緑葉が築地塀の白と響き合い、華やかな中にあって厳格な気品を漂わせていた。築地塀の頂は張出した楓樹の色付いた枝葉に見え隠れし、時折銀鼠色の顔を覗かせる。
 思わずウエストポーチのチャックを右に引いた。ウエストポーチの隅から筆ペンを引抜きキャップを外し口に銜えた。キャンソン紙のスケッチブックを石段の頂に翳した。石段の頂は平坦な道が築地塀に沿って左右に伸び、燃立つような色葉に吸込まれる。
 画面の中央に水平なラインを引いた。構図の主たる要素は石段だ。石段を引立てる要素として楓樹の色葉がある。禁欲的な石段と濃艶な装いの色葉が小倉山の中腹で好く響き合っている。
 春に訪れた際には行交う人影は疎らだったが、晩秋の二尊院には写真機を手にした探索者の波が寄せ、描く背を通り過ぎていった。
 デッサンを終え、石段の隅にスケッチブックを置いた。ウエストポーチからヴァンゴッホの水彩絵具を出しスケッチブックの右上に広げた。それからウエストポーチの小さなポケットから二連結になった水器を取りだし絵具の右下にキャップを外して置いた。
 朱色に白を混ぜ色葉をランダムに染上げた。それから橙色、緑色と筆を走らせた。ペインズグレイを微かに付けた筆の先端を、水器の中で鈍色に怪しげに光った水面に浸けた。その筆を画面の石段、水平に躊躇いもなく強い力で引いた。掠れた石段がスケッチブックに現れた。続けて石段側溝の石組を点々と描いた。描き終った頃、首から写真機をぶら下げた初老の男が通り、
 「絵は好いなあー余計な物は省けて・・・あなたの筆さばきはプロだ。好く雰囲気が表現されている」
 中腰になって描いていた私は頬を緩め、男の顔を見上げた。お世辞でも誉められれば嬉しくなる。
 「いえ素人です。写真のグループですか。皆さん写真機を持っていますね」
 「いやいや好く感じがでている。予定ではもう少し早く来る予定だった、けれども都合がつかない仲間が数人いて・・・。四五日早ければもっと素晴しい紅葉だったでしょうね。グループだからやむを得ないけど」
 男は少々不満な様子だったが、目には人の善さそうな光が差していた。傍らに歌碑が立つ。
 
     小倉山峯のもみじはこころあらは
             いまひとたびのみゆき待たなむ      藤原忠平貞信公
 
 描き上げ色葉が差掛かる石段をゆっくりと上っていった。白壁の築地塀を折れた。築地塀に山門が穿たれていた。二三段の石段を進み築地塀の中に足を踏み入れた。
 言忘れたが、先程スケッチしていた石段はー紅葉の馬場ーと云われ、二尊院境内でも指折の素晴しい景観である、と二尊院について調べていた時分った。二尊院の栞、境内地図にもー紅葉の馬場ーと記されていた。
 春を主体に述べている積りだったが、いつの間にか紅葉の二尊院になってしまった。情景を春に戻してみたい。
 足を踏み入れた山内、正面に本堂が立ち、前には柵で囲まれ数本の樹が立上がる。背には青々と繁った樹々が立上がり、本堂は緑に包まれていた。樹々の一つは軒端の松、という。傍らに歌碑が立つ。
 
   忍ばれんものともなしに小倉山
            軒端の松ぞ馴れて久しき          藤原定家
 
 本堂左端から広縁に上った。庭に面し明るく開けた広縁を進み拝所前に立った。小暗くなった奥方に二体の如来像が並列に並んで安置されている。右は釈迦如来像、左は阿弥陀如来像である。鎌倉時代の仏師、快慶の作と伝えらている。左右に二体の如来像が安置されているところから二尊院、と云われる。
 寺院の名称の由来についてはそれ程興味はなかった。人を惹き付ける空間に身を任せることに無常の喜びを憶えていた。つい最近、寺の栞に眼を通しその由来を知った。
 傍らの説明書によれば、釈迦如来は人が誕生し人生の旅路に出発する時に送出してくださるー発遣(ほっけん)の釈迦ーである。阿弥陀如来はその人が寿命をまっとうした時に極楽浄土より迎えてくれるー来迎の阿弥陀ーである。と記されていた。
 広縁隅に冊子が置いてあった。愚息に見せよう、と思い側に載せられた箱に百円入れ、くるくる巻いて輪ゴムで留めた冊子を掴んだ。
 
      心の糧七ヶ条
 一、此の世の中で一番楽しく立派なことは生涯を貫く仕事をもつことである
 一、此の世の中で一番さみしいことは自分のする仕事のないことである
 一、此の世の中で一番尊いことは人の為に奉仕して決して恩に着せないことである
 一、此の世の中で一番みにくいことは他人の生活をうらやむことである
 一、此の世の中で一番みじめなことは教養のないことである
 一、此の世の中で一番恥であり悲しいことはうそをつくことである
 一、此の世の中で一番素晴しいことは常に感謝の念を忘れず報恩の道を歩むことである
                            京都・嵯峨 小倉山二尊院
      人生五訓
あせるな
おこるな
いばるな
くさるな
おこたるな
                         京都・嵯峨 小倉山二尊院
      幸福の道
   家内仲良く    ゆすりあい
   先祖に感謝    親を大切に
   空気に感謝    社会に報恩
   身体を大切に   仕事に熱心
   人には親切    我身は努力
よく働いて    施しをする
不平不満や    愚痴をいわず
人を恨まず    羨まず
口をひかえて   腹立てず
親切正直     成功のもと
                         京都・嵯峨 小倉山二尊院
 
二尊院忠平作 二尊院定家作
 
 
 改めて冊子を広げてみた。愚息にと思ったが、自分自身に言聞かせた方が正鵠(せいこく)を射(い)ている名言である。結局冊子は愚息にも家族の誰にも見せていない。本箱の片隅から冊子を引張り出し、冊子に眼を落している。斯様な名言は人に押しつける言葉ではない。自ら見つけるものでは、と思った。
 本堂側面に坪庭がある。二尊院には四五回訪れただろうか、毎回この坪庭に面した畳敷きの広縁で一息吐くことが習慣であった。
 坪庭に面した広縁には誰もいない。広縁から一段下がって縁側があり、広縁との境に灰皿代りに火鉢が置いてある。胸のポケットからマイルドセブンを掴んだ。煙草を一本引抜き、ライターの摘みを押下げた。シュッと音がし橙色の炎が立上った。口に銜えたマイルドセブンを炎に近づけ吸込んだ。坪庭をぼんやりと眺め紫煙を吐いた。紫色をした煙がゆらゆらと立上った。紫煙の向う、梢の葉擦れに二尊院の堂宇が揺れていた。
 広縁に置いたコットマン紙のスケッチブックを右手に掴み、前方の堂宇に翳した。落着いた構図だ。ウエストポーチのチャックを右に引き、中からチャコール鉛筆を引抜いた。それからチャコール鉛筆のキャップを外し胸のポケットに差込んだ。
 左の掌にスケッチブックを載せ堂宇に視線をやった。一瞬緊張が走った。スケッチをしている際には、一見気楽に描いているようであるが、思ったより神経が張詰めている。特に描き始めには神経を集中させていることが常だ。
 坪庭外縁には処々石が据えられ一本、石燈籠が立上がる。坪庭から土塀へは綺麗に刈込まれた灌木が若葉を揺らしている。灌木の根元は整然とした地面が覗き、好く手入れされている様子が窺える。繁みの葉擦れにベージュ色をしたか細い幹が立上がる。
 樹々の梢の向う、二尊院堂宇の甍の波が端正な姿を見せる。左方に雁行して並んだ堂宇は甍の妻面を此方側に現す。堂宇は樹々の梢に浮んでいるような印象を憶えた。
 此処からの眺めが気に入った訳は、落着いた坪庭がある、と云うより坪庭を前景として雁行する甍の波が、落着いた佇を醸し出しているからであろう。デッサンを終え縁側にスケッチブックを置いた。
 ウエストポーチからヴァンゴッホの固形水彩絵具を取りだしスケッチブックの右上に広げた。それから小ポケットから水器壺を出し、水彩絵具の下にキャップを外して置いた。
 緑に黄色をパレット代りのビニールの上で混ぜた。筆の先端を色につけ、坪庭周辺に立上がる梢に走らせた。画面に萌黄色をした若やいだ青葉が浮きでた。それから遠方に立上がる枝葉を、トーンを落した緑色で染上げた。
 梢の間に覗いた甍の波は、ペインズグレイに微かに水を湿らせ、一気に筆を走らせた。ペインズグレイの掠れた色彩が甍のテクスチャーを好く現している、と立上がってスケッチブックを見下ろした。
 描いている間、二三人の探索者が広縁に腰を下ろし坪庭に視線を走らせていた。どの人も多くは語らず、横顔に和らいだ表情を浮べていた。色付けも終り、ほっと溜息を吐いた。胸ポケッットからマイルドセブンを引抜いた。ライターの青い炎に煙草を近づけて深く吸込み、紫煙を吐いた。ゆらゆらと紫煙が立上り甍の波が陽炎のように揺れた。
 それ以来、二尊院の坪庭に四回訪れた。その度に広縁に腰を下ろしこの甍の波を描いた。京都を訪れる際には、幾つかの寺院を訪れた。各寺院が重なって二尊院なのか大覚寺あるいは仁和寺であるのか分らなくなっていた。
 二尊院を例にとれば、この坪庭に腰を下ろした時、初めて二尊院である、と再認識した。脳細胞のキャパシティーが容量オーバーしているためだろうか、各寺院の印象がごちゃごちゃに入交じっていた。三回目位からは二尊院空間は脳細胞の片隅にインプットされ、総門に立った際には、二尊院の空間体系が甦ってきた。
 坪庭を眺める探索者は一時途切れ、再び数人の探索者が広縁に腰を下ろし無言で甍の波に視線を投げていた。スケッチブックを畳み広縁を去る頃には、人影はなくひっそりとして時間が静止しているような静かさであった。
 本堂北側、しあわせの鐘と名付けられた釣鐘が架かっていた。しあわせの鐘と弁財天堂に挟まれ、急傾斜な石段が真直に上っていた。傍らに立つ石碑にー法然上人御廟ーと彫られていた。
 巾の狭い石段の両側には、隙間なく樹々が立上がり辺には幽暗な空気が漂う。それは明るく開かれた本堂の広縁とは対照的な空間だ。石段の頂に枝葉に包まれ小さな祠が見えた。思わずウエストポーチから小スケッチブックを引張り出した。筆ペンを右手に掴み思い付くまま一気に描き上げた。
 スキャナーからパソコンに取込んだ画像ファイルには、同じアングルからのスケッチが三枚あった。毎回坪庭のスケッチを描いてからのため張詰めた神経の余韻が残っていた。そのため三枚とも一気に描いたスケッチだった。
 石段に足を進める人はいない。辺には忘れ去られたような幽暗な空気が流れる。頂に立つ祠の中央に大きな石が据えてあった。幽暗な石段に比べ、無機的な内部空間であり、据えられた石に対し違和感を憶えた。左方奥には藤原定家時雨亭跡がある、と栞に記されていた。恐らくー時雨亭跡ーと彫られた石碑が立つのみであろう。
 祠の右方は平坦な地が広がり、山側に緩く上り斜面に墓石が林立する。どれも名のある公家の墓石らしく難しそうな戒名が彫られていた。墓石は数百年経っているのだろうか、石の鉄分が浮き出、苔生していた。
 
 墓石群の一角で、墓石の手前に並んだ灯籠上部に足場丸太を三又に組み、灯籠を据える作業をしていた。三又頂部からチェーンブロックの鎖が垂れ、灯籠上部を吊し微妙な位置を決めていた。思わず小スケッチブックに筆を走らせた。
 石製の手摺で囲まれた一つの墓石の周りに数人の男女が忙しそうに動いていた。
 「何をしているんですか」
 誰にともなく訊いた。
 「拓本をとっているんです」
 四人の男女は同志社大学の学生だ。拓本の取り方を教えてもらった。
 「画仙紙を墓石に貼って要所要所をテープで留め、画仙紙を霧吹で湿らせます。次にねり墨を付け中に綿を詰め底部を平にした布で、小刻みに画仙紙を叩きます。字が浮き出たところで画仙紙を剥がします」
 かなり根気のいる作業だ。髪の毛を後ろで束ねた眼もとの涼やかな女子学生は、顔に作り笑いを浮べて云った。ウエストポーチのチャックを右に引き、中から小スケッチブックを取りだした。墓石の傍らに立ち、底部が平になった布を小刻みに叩いている女に視線を据え、一気に筆を走らせた。
 先生らしき男が下から上がってきた。男はちらっと此方に視線を向けた。もう一つのグループが下の方で拓本を取っているらしい。
 平坦な道の先に角倉了以、素庵親子の墓があった。墓は四角い庭を持ちその一辺に並んで立っていた。
 平坦な道に面した墓石群は一見荒れているように見えなくもない、けれども数百年の風雪を潜り抜けてきた歴史の深さが現れ、古色蒼然とした空気が漂う。世が世ならば私などが斯様な処でうろうろ出来なかったであろう。
 藤原朝臣・・・と彫られた墓石を見、どんな人で、いかなる人生を送ったのだろうか、などと現代と数百年前を行ったり来たりするのであった。先刻の冊子に記されたー心の糧七ヶ条ーを目指して生きていたのだろうか。
 陰気な坂道を下った。板東妻三郎墓と記された標識が坂道の道筋に立つ。もう一組の拓本とりの学生が、坂道から分岐して広がる墓石群の一角で作業中だった。坂道を折れ、墓石群の一角に足を進めた。
 此方では、先刻の墓石に比べ大きな墓石の拓本を取っていた。おおきな画仙紙であるため紙の途中が破れていた。傍らで作業中の男子学生は、
 「破れてしまったので拓本の上の方だけ取る事に変更しました」
 男は人の善さそうな表情を浮べ、左手で頭を掻いて云った。裏道のような坂道を下り、築地塀に沿った道に出た。
 紅葉の馬場を通り過ぎ、総門横の茶店手前に西行の歌碑が立つ。傍らの石碑にー西行法師庵跡ーと刻まれていた。
 
   我がものと秋の梢を思うかな
         小倉の里に家居せしよ里          西行
 
 総門を潜り嵯峨野小径に立った。総門をスケッチした処にはハイヤーが停まっていた。
 二尊院の築地塀づたいに小径を北に足を進めた。程なく小径はクランクする。角の茶店の嵌め殺しのガラスが鈍色に光っていた。店内に数人の華やいだ客が見えた。
 嵯峨野小径に開かれた店、こみちのガラス戸を引いた。店内は厨房があるカウンターを境に左右に分れている。小径に沿った明るい四人席に向い肩からデイバッグを下ろし子椅子に置いた。注文した食事ができるまでスケッチの色付けを、とウエストポーチのチャックを右に引き、中からヴァンゴッホの固形水彩絵具を取りだしテーブルの右上に開いた。小ポケットから二連結になった水器壺を出し蓋を外して水彩絵具の下に置いた。
 正面にキャンソン紙のスケッチブックを開いた。脳裡の片隅にあった色の残影を画面に滑らせた。数時間前の残影であるため色彩が鮮やかに甦ってきた。描きつつ何気なく外の嵯峨野小径に眼をやった。ガラス越しに二人の女がスケッチを覗いていた。横を向いた瞬間、女と眼が会った。女は頬を緩め大きな眼に微笑を浮べてニッコリとし頭を垂れた。つられて私も軽く頭を下げた。その間数秒、女は小径を祇王寺の方向に背を向けて行った。
 お手ふきに使う紙タオルが筆の水分を調節するのに具合がいい。時々店の女将が此方に視線を向けた。テーブルが汚れるので色付けは止めるように、と注意をされるのでは、と女将の視線を受止めた。食後、小スケッチブックの色付けを始めた。
 茶店こみちを出た。嵯峨野小径は右に折れる。角に石碑が立つ。石碑によれば真直に緩い坂道は、祇王寺への小径だ。嵯峨野の早朝には、小径は閑散としていた。昼下りの小径には団体客を中心として人が溢れてきた。
 祇王寺への小径には、人の塊が断続的に流れ有名観光地の様相を呈してきた。小径の道筋に一見荒くれだって見えるが、その中にも閑寂な趣を現した築地塀が続いていた。築地塀の連続が穿たれた処に荒々しい樹木が二本立上がり、二本の樹木の間、斜めに石段が切れ込んでいる。石段は上るに連れ細くなっているためパースペクティブが強調される。石段の頂には築地塀に対し斜めに山門が立つ。
 塀内からは小径に萌黄色に輝いた若葉が枝葉を差し伸ばしていた。斜めに上る石段正面に立った。小脇に抱えていたキャンソン紙のスケッチブックを左の掌に載せ、ウエストポーチから筆ペンを引抜き山門に視線を据えた。山門の棟瓦を水平に引いた。パースペクティブになった石段には、両脇に立上がる樹木の根が食込み、傍らに据えられた岩を鷲掴みにしていた。食後の気怠い空気に、神経が麻痺し滑らかに筆が走った。
 晩秋に訪れた際、塀内には朱色から橙色に微妙に変化した秋色が一帯を支配し、荒くれだった築地塀と好く響き合っていた。
 寺の名は壇林寺。嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子(壇林皇后)が創建された寺、と案内板に記されていた。人の流れは壇林寺を見向きもせず先に足を進める。
 学壇、学林について高校生の頃調べたことがあった。壇(だん)あるいは林(りん)には学問に関する意味が含まれる、と当時識った。恐らく壇林寺は嘗て学問所を兼ねた寺院であったに違いない。そんな事を考え人の流れのまま、山内には入らず壇林寺山門に佇んでいた。
 
 小径の突き当りは樹々が繁って小暗い空間だ。車のターンスペースに二三台のタクシーが停まっている。右方に穂垣が屈曲して連なり、どん詰りに簡単な板屋根を差掛けただけの寂びた冠木門(かぶきもん)が木戸を開けていた。
 穂垣の向うに細い幹の楓樹が幾本も立上がる。鬱蒼として小暗い空間に柔らかな陽が差し込み、若葉が光の騒めきに揺れている。冠木門に足を踏み入れた。門に接した右手に立つ受付で拝観の手続をし山内に入った。
 祇王寺山内には楓樹が処狭しと立上がる。道標にしたがい庵から離れた庭の先端に立った。楓樹の幹から分れた枝、枝から分れた小枝に薄い紙のように広がった枝葉が空一杯に広がる。楓樹の樹間に茅葺の庵が埋っている。
 一本一本の楓樹から差掛けられた枝葉が重なり合い、山内は萌黄色に染まった若葉に包まれる。若葉の葉擦れに点々と青空が覗いていた。枝葉を見上げているため若葉を透過した光は、柔らかな淡緑色となって庭に拡散される。淡緑色の光は宝石を鏤めたように輝き微風に揺れていた。
 拡散された光は、一面苔に包まれた庭に舞落ちる。舞落ちた微光を吸収し起伏がある苔群は生き物のように波打ち、幻想的な光景を現している。淡緑色の微光の向うにひっそりと茅葺の庵が佇む。茅葺屋根の裾には瓦屋根を持った下屋が、末広がりに張出し萌黄色に輝いた若葉に吸込まれていた。
 人の流れを避け庵に視線を据えた。ウエストポーチから筆ペンを引抜いた。それから小脇に抱えていたキャンソン紙のスケッチブックを左の掌に載せた。断続的な人の流れが廻ってこないうちに、と思って一気に筆を走らせた。人一人が通れるくらいの散策路であるため、色付けは後ですることにした。
 狭い庭の周辺を廻り庵前面に出た。中に二三人の人影が見えた。庵内は静寂な空気が流れ、時間が静止しているような雰囲気だった。庵前面を通り小冊子が置かれた広縁に至る。堂内の座敷には女が二人神妙な表情で畏まっている。静寂を破ってはいけない、と思い暫く広縁前に立ち小暗い堂内を見詰めていた。
 広縁につま先を掛け小暗い堂内に足を踏み入れた。女は座敷端部に長く伸びた須弥壇(しゅみだん)を見据えていた。無言の姿に、多くの事象を語りかけているように見えた。奥の座敷には花燈窓(かとうまど)から仄かな光が差込んでいる。須弥壇を横目にし、仄かな光にぼんやりと浮上がった座敷に足を進めた。
 四畳半ほどの座敷の壁には、祇王寺を彩る四季の写真が掛けられていた。庭に開かれた窓には、新緑の若葉が溢れ、足下の草むらに草花を鏤めた鹿威(ししおど)しが覗く。
 祇王寺では視界に入る事象全てが、繊細で細やか、強い吐息にも崩れ落ちそうな程華奢な相を現している。清盛の思い人だった祇王、その儚い人生が脳裡を掠めた。
 光が燦々と降注いだ時から、一転先も見えない闇中の影。影を慕って母刀自そして妹の祇女、自らの影を祇王に見た仏御前が寄添うように苦楽を共にしていた。それは権力の対極にある無の世界かも知れない。
 一方嵯峨野の地で斯様な生活が可能なことを考慮すれば、白拍子祇王の背後にはベールを被った権力があったのかも知れない。落柿舎を結んだ向井去来を考えれば、そんな推測も正鵠(せいこく)を射(い)ているであろう。
 それでも生涯、権力者側から社会を眺める人生に比べ、光に対し影とも云える祇王の生活はより人間的で視野の広いものであった、と云える。
 仏間に畏まっている女と入れ替りに仏間に入った。正面須弥壇中央左に清盛、続いて祇王そして母刀自の各像、中央右に大日如来、続いて祇女そして仏御前の各像が安置される。須弥壇上部から仄かな明りが降注ぐ。小暗い仏間に微光を受けた像が浮上がる。
 つい数時間前に眼にした、二尊院に安置される釈迦如来像に比べ、それは頼りない位に小さな像である。往時の栄華と小像の落差には、寂しさと同時に儚ささえも憶える。
 落差の深さに身が引き締るような気持になり、庵を出た。爽やかな微風が樹間を駆抜け若葉を揺らした。石段を二三段上がった平地に幾つかの墓石が立つ。一つは清盛供養塔、一つは祇王祇女母刀自墓と記されていた。
 庵の傍らに立ち庭を眺めた。目元の涼しげな祇王の輪郭が、風に揺れる若葉と重なった。
 
   萌え出づるも枯れるも同じ野辺の草
          いずれか秋にあはではつべき       祇王
 
 清盛の寵愛は白拍子仏御前にうつった、祇王は屋敷を追い出される。祇王が清盛の屋敷を去る時、障子に書きとめた歌と云われる。萌え出づるのは仏御前、枯るるのは祇王。野辺の草は秋になると枯れ果ててしまう。人もまた、誰しもいつかは恋人に飽きられてしまう。と祇王は人生の儚さを詠んだ。
 祇王寺には翌年の晩秋にも訪れた。冠木門の外、穂垣越しに山内に立上がった幾本もの楓樹が、朱色から橙色そして黄色と色取り取りの色葉を広げ、華やかな装いを現していた。その時は、余りの人の多さに山内に入ることを躊躇った。垣根の外から垣間見る秋色には、又ひと味違った趣を憶える。
 
 祇王寺冠木門脇から細い階段が上方に伸びていた。階段上口に男女が進もうか引返すか迷っている。女が男の肩を叩いて引返そう、と云っている様子だ。階段上口に掛けられた案内標識に滝口寺、と記され矢印が上に向く。
 階段の頂に受付の小屋が立つ。訪れる人も多くなさそうな様子、小窓から女の視線を受けた。引返したくなるような印象を受けた。けれども山内に入った。前庭の向うに明るく開けた庵が立つ。庵は手入れもままならないらしく畳の縁は擦切れ、かなり痛んでいる様子だ。
 滝口入道と横笛の小像が床間に安置されている、けれども住職はいない寺かも知れない。滝口入道と横笛の悲恋を秘めた寺であるには違いないが、悲恋の空気が伝わってこない。祇王寺より高処に立つため、悲恋とは程遠い乾いた空気が流れているからだろうか。
 山内には誰もいない、乾いた庵の広縁に寝ころんで紫煙を薫らせ、小倉山に渡る空気を吸込んだ。                                                  
        
4 嵯峨野ー二尊院から祇王寺へ-スケッチギャラリーへつづく
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