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6 嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ一-スケッチギャラリーへ
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YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
大沢池桜花 北嵯峨田園風景
大沢池秋色 大覚寺玄関
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二  銀閣寺から法然院へ
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八  大徳寺
九  高雄・神護寺から清滝へ
十  栂尾・高山寺から北山杉の里へ
十一 鞍馬寺から貴船神社へ
十二 
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一  比叡山・延暦寺
二  曼殊院から詩仙堂へ
三  泉湧寺から東福寺へ
四  大原の里
五  西山の寺
六  祇園から八坂塔・清水寺へ
七  六角堂から楽美術館へ
八  赤山禅院から修学院離宮へ
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十一 宇治・平等院
十二 桂離宮
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二  嵯峨野ー天龍寺から常寂光寺・落柿舎へ
三  嵯峨野ー常寂光寺・落柿舎から二尊院へ
四  嵯峨野ー二尊院から祇王寺へ
五  嵯峨野ー仇野念仏寺から鳥居本平野屋・愛宕念仏寺へ
六  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ1
七  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ2
八  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ3
九  
十    
          
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読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
六 嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ一
 
 ここ四五年の間、大覚寺に数回訪れた。大覚寺と仁和寺等どの寺院、と特定はできないけれども寺院の廻廊や広縁で連結されたそれらの堂宇の印象が重なり合っていた。寺院空間に身を委せれば印象は鮮やかに甦って来るのだが・・・。
 山内に大小の堂宇が散らばり拙い予備知識しか持ち合せていないため、脳細胞のキャパシティーを遙かに越えてしまっていた。大覚寺その名の響きには三十数年前、学生時代からある種の憧れを懐いていた。
 脳細胞の抽斗に残る大覚寺の印象のひとつは、寺院が立つ立地であった。甍の伽藍配置は限りなくゼロに収斂していた。二尊院から続いた嵯峨野小径の外れ、そこはT字型になっていた、そんな光景が眼に浮かんだ。T字路を右方に折れた道筋に、薄墨色に染まった山門が大きくその戸を開いていた。山門が面する小径には時折車が通っていた。その光景は幾つかの断片を組み合わせ、勝手に創りあげた虚構の世界であることは、三十数年振りに大覚寺を訪れて分った。
 ただひとつだけ実像の大覚寺が記憶にあった。それは嵯峨野の延長線上に位置し、嵯峨野の中心からかなり離れていた事だった。一帯が北嵯峨と呼ばれることは、後で知った。
 大覚寺に至るルートには色々あって変化に富んでいる。大覚寺それ自体よりアプローチの道筋の光景に印象に残るものがあった。
 一、鳥居本仇野念仏寺、北嵯峨から大覚寺へ
 二、鳥居本仇野念仏寺、北嵯峨から直指庵を経、大覚寺へ
 三、嵯峨清涼寺を経由し大覚寺へ
 四、嵯峨嵐山駅から住宅地を抜け大沢池に至り大覚寺へ
 五、宇多野から広沢池を経由し大覚寺へ
 大覚寺へ至るルートを列挙してみた。改めて地図を開いて大覚寺周辺を見渡した。周辺には田園地帯が広がる、北嵯峨の緑地帯に浮んだオアシスのように大覚寺は甍を並べている。
 
 一ヶ月前、六月中旬に訪れた時の記憶を辿って進むことにする。
 梅雨空の季節、雨が乳色の筋を引く。愛宕念仏寺から平野屋、仇野念仏寺、と石畳の小径を歩いた。行交う人も少なく石畳は雨に洗われ冷たく光っていた。嵯峨野小径は右方に去り小径は直進する。五六歩で右に下る道があった。傍らの案内板にー寂庵ーと記されていた。小説家瀬戸内晴美の庵である。
 二三年前、久し振りに嵯峨野を訪れた際、普段着の嵯峨野の面影を求め、この道に足を進めた事があった。道の両側には家々が軒を並べ、数歩進んだところにー寂庵ーと案内板を掲げた閑静な家が立っていた。嵯峨野に瀬戸内晴美が庵を結んでいることは知っていたが、思わず、
 「此処が瀬戸内晴美の寂庵か」
 と声を放った。門の傍らで幼児を遊ばせていた母親が此方を見、頬を緩めた。
 「中に入れますよ」
 「突然では無理ではないですか」
 「先生はお会いしますよ、私が訊いてみます」
 と云って母親は子供の手を引張って寂庵の開かれた門を通り石段を上がって行こうとした。 迷惑になるのでは、と思って母親を押止め、
 「ご迷惑でしょうから・・・」
 「大丈夫ですよ先生は・・・」
 母親はぜひ先生に会うように、と云ってくれた。瀬戸内晴美が近所の人にこれほど親しまれているとは、それを知っただけで充分だった。
 梅雨空の時にはその道をとらず時折、車が通りすぎる道を直進した。アスファルトの道から別れ住宅地への道に逸れた。ぶらぶら歩くには閑静な道に限る。
 幾つか角を折れた。簡単な地図は持っていた、けれども殆ど開かない。風の流れのまま風情ある空気に向って足を進めた。
 やがて広々とした田園風景が現れた。住宅地が途切れ、畑の向うに樹々に囲まれた草屋根が見えた。草屋根の平部を此方側に向け、周囲を覆う下屋には瓦が葺いてあった。視線の先には二三軒の家が立っていたように記憶している。
 背の稜線は北山だろうか、青々とした山端を描いていた。遠目ながら草屋根の家の様子が幽かに窺える。主人の職業は農業あるいはサラリーマンだろうか、開かれたガラス戸の内部は暗く闇に包まれる。庭先では主人の長男と思われる男が白色の乗用車を洗っていた。サラリーマンだとしたらかなり贅沢な生活だ。とたわいもないことを思い草屋根の家を眺めながら歩いた。
 角々には細い棒に小さな案内板が打付けられー左大覚寺ーと矢印が記されていた。直指庵(じきしあん)と大覚寺、うろ覚えの相互の位置関係が脳裏の片隅にあった。まず直指庵を訪れ次に大覚寺に進もう、と何気なく考えた。
 
 直指庵へは嘗て二回ほど訪れたことがあった。拙い記憶では大覚寺西、北方に走る側道を辿れば、直指庵に至る筈であった。
 嵯峨野の外れに位置する鳥居本、仇野念仏寺から広々とした北嵯峨の田園地帯を歩いてきた。大覚寺を通らず斜めに直指庵へ向おう、と樹々の梢を眺め思った。時折、小径の交差点に立つ標識に直指庵や大覚寺への矢印が掛けられていた。
 大覚寺の西側道にしてはかなり東側に進んでしまったように思った。恐らく記憶違いでは、と一瞬不安な面持ちになった。けれども進む道が間違ったとしても誰に迷惑をかけることもない。そんなことを意に関せずのんびりと直指庵を目指した。
 小径は北山に向って微かに上りになる。上るに従い家々の軒は閑散とし樹々の梢には青々とした葉が繁る。北山に繁った若葉、風に戦ぐ囁きが聞えてきそうなほど山々は近くなった。
 小径が山に向って真直に伸びる、記憶の底にあった直指庵への引込路に違いない。進むに連れ小径の両側に竹垣が連なり道幅は極端に狭くなった。この先に果して直指庵が現れるのだろうか、と初めて訪れる人は不安になるかも知れない。
 小径が左方にカーブした角、鬱蒼とした林中に茶店が立ち、大きなガラス戸から橙色の明りが漏れていた。直指庵は近いことのサインだ。
 左方に折れた。草屋根を葺いたこぢんまりとした門が木戸を開けていた。記憶が鮮やかに甦ってきた、直指庵である。門を潜って二三歩、受付の小屋が立つ。沢山の竹が立上がる園内は静かな空気に包まれ、他の探索者は訪れてきている様子は感じられない。一人ゆったりとした刻を費やす事が出来るかも知れない。
 梅雨空の雨の下、山内は乳色の皮膜に覆われ樹々の梢からは滴が落ちる。弧を描いた小径の先、山内の高処に寺院にしては小振りな、庵にしては大きな直指庵が立つ。庵は山内に広げた樹々の枝葉の葉擦れにひっそりと佇む。
 小さな門に較べ広々とした山内は樹々が立上がり鬱蒼とした林だ。幾本も立上がる楓樹は二三メートルほどの高さから数本の枝に別れ、重なり合って天をつく。枝葉の背には東山だろうか、天空に消え入りそうな山端が覗く。
 小径の反対側は竹林、雨滴を充分に吸込んだ竹は艶々とした木肌を現し、青々とした葉を繁らせていた。滑らかな弧を描いた石段に足を進めた。庵前は幾らか広くなって樹々の梢も切れ明るい。小径は平になって先に延びる。
 庵玄関前に据えられた沓摺石にスニーカーが三足並んでいた。庵内は静かな空気が漂い、探索者の影は見えない。沓摺石の傍らの傘立てにカラフルな傘が三本刺さっていた。色物傘の隣に地味な黒色の傘を差込んだ。雨に打たれグチョグチョになった靴から足を抜いた。靴下は絞れば水が滴り落ちそうなほど濡れていた。
 濡縁のような式台に足を掛け玄関の座敷に足を踏み入れた。外に開かれた座敷には、住職さん作、と思われる絵が色紙に描かれ並べてあった。
 二面が開放された座敷に足を進めた。中年の女が三人、座敷中央に据えられた机に置いてあった大学ノートに読耽っていた。二人は座敷に廻された広縁に座り、一人は机に向って難しい表情でページを捲っている。
 机に斜めに向合った女の前に腰を下ろした。ふっくらした頬に薄紅を差した女は何かに憑かれたように大学ノートに眼を落していた。
 「・・・・・」
 女は真剣な眼差しで大学ノートを読み耽る。
 「雨で大変だったですね」
 ぽつりと呟いた。女は大学ノートに落した眼を上げた。
 「でも幾らか小降りになってきたようで・・・、お一人ですか」
 「ええ、前にも直指庵には訪れたことはありました。雨に濡れた直指庵はどんなか、と思って・・・想い出草は読んでどうでしたか」
 女が眼を落している大学ノートはー想い出草ーと名付けられる。直指庵を訪れた悩みを裡に秘めた人達が、自らの心を吐露した文章が想い出草に綴ってある。直指庵には四五冊の想い出草ノートが置いてある。広縁に腰を下ろしている二人も別の想い出草に読み耽っていた。
 想い出草に自らの心の裡を記しているのは、殆ど女性だ。年齢構成は十代から五十代と多岐に渡り社会の断片を垣間見れる。
 「前にも直指庵に来たことがありますが、静かですね。寂庵に寂聴さんの法話を聴くために北九州から来ました。法話を申込んだら運良く三人とも当ったもので・・・」
 三人の女も想い出草に思いを認め(したた)たい様子だった、けれども三人では心の裡を書き綴る訳にはいかないだろう。そうするには一人で直指庵に来なければならない。
 座敷の奥には想い出草に書込むための小部屋があるらしい。想い出草に眼を通すと、何度も訪れる女性が多いことに気が付く。女の心を吐露した想い出草が人づてに伝わり、直指庵はいつしかー駆け込み寺ーと呼ばれるようになった。
 以前、直指庵を訪れた時、想い出草に綴られていた文が脳裏を掠めた。
 雨脚が和らいだのを見計らい三人の女は腰を上げた。 
 「ごゆっくりどうぞ」
 と云って玄関の間に足を進めた。想い出草ノートの一冊を手に取った。ぱらぱらとページを捲った。一字一句思いを込めた文が、丁寧な自体で浮上がっていた。
 「前は一人でしたが、今回は主人と直指庵を訪れました。これで三回目です。平成十五年六月十六日 柴崎篤子」
 など簡潔な文も幾つかあった。中には想い出草ノート一ページに及ぶ長文が綴られていた。文末尾に記されたサインは本名と思われる。
 「初めて直指庵を訪れたのは前の彼とつきあっていた頃でした。その後、彼の友達とつきあうようになりました。主人がいながらそんなことをして、と悩みつつ又、直指庵に足が向いて・・・平成十五年六月十六日 築山篤子」
 わざわざ直指庵に足を運び、自らの心の裡を想い出草に認める。それは自分の周りに存在する人間より、顔も合わせたことがない不特定多数の人に理解されることにより心が落着くのであろうか。直指庵を訪れる人であれば分ってもらえる、と見えない相手に訴えかけているような気がしてならない。
 同じ空間を共有する仲間意識が、固く閉ざされた心の裡を開かせるのかも知れない。それは同姓に問いかけているのか、あるいは異性に語りかけているのだろうか。小径が北山に入りかけた静寂に包まれた北嵯峨の地を選び、恐らく自らに語りかけているに違いない。
 葉を打つ雨脚はいつしか静かになった。時折、鬱蒼と繁った庭に眼を向けた。山内には人の気配はない。微風に揺れる枝葉の騒めきが、透明な空気に流れ座敷に伝わった。
 
直指庵 大覚寺嵯峨御流
 
 
 
 直指庵山内、庵右手に散策路が伸びる。散策路の道筋には、石柵で囲まれた津崎村岡の墓が立つ。庵の背後、小高い竹林の中には開祖独照性円の墓堂が立つ。
 直指庵の歴史については詳しくない。建築学科の卒業旅行の時だった、と記憶しているが、京都奈良に点在する寺院について話すうちに、
 「直指庵が好いらしいよ」
 と友人のひとりがぽつりと云った。けれども学生時代に訪れたかどうか、記憶は曖昧だ。大覚寺の近くに直指庵があることだけは、脳裏の抽斗の片隅にあった。建築を学ぶ学生の眼から寺院を捉えるため、歴史的な事実といった視点から寺院を眺めることはなかった。
 興味の対象は、歴史的な事実がその空間に如何なる影響を及し、現在の空間が存在するかにあった。結果としてその空間が我々に訴えかける、なにものかが感じられなければならなかった。直指庵にはそれがあった。
 独照性円が南禅寺栖雲庵から北嵯峨細谷の地に、正保三年(一六四六)草庵を結んだのが直指庵の始りである。一時、山内には大伽藍が甍を並べていた、と云われるが、江戸時代末期には独照の墓堂が立つのみとなった。
 幕末、嵯峨大覚寺宮の家来、津崎左京の娘矩子は近衛家の侍女として仕えた。後の近衛家老女津崎村岡である。
 尊皇攘夷運動が吹き荒れた幕末、村岡は左大臣近衛忠熙と水戸藩士との間にあって、両者の意志の疎通をはかった。その結果、攘夷の密勅が降された。安政六年、攘夷派とみなされた村岡は捕えられて江戸に護送され投獄された。
 晩年、村岡は浄土宗の寺として直指庵を再興し、近衛家代々の冥福を祈った。村岡は北嵯峨の寂びた地で四季折々の風月に身を委せ、里人に小倉百人一首を教えたりし地の人の教養につとめた。
 直指庵の栞に眼を通し津崎村岡の生き様を詳しく知った。村岡は尊皇攘夷に徹していた主君、左大臣近衛忠熙に忠節を尽すためにそのような行動を取った、と思われる。文を認めるのと同時に、奈良時代に生きた県犬養宿禰三千代に関する小説を読んでいた。
 県犬養宿禰三千代(あがたのいぬかいのすくねみちよ)やけに長ったらしい名であるが、最後の三千代なる名には以前聞きおぼえがあった。三千代は犬の番を業とする家門に生れた人物である。三千代は藤原不比等と同時代人であり、不比等との間に多比能(たびの)、安宿媛(あすかひめ)二人の子をもうけた。安宿媛は聖武天皇の夫人となった。後の光明皇后だ。
 三千代は今で云う宮内庁長官にまで上り詰め、権力を恣に(ほしいまま)した。そんな三千代と村岡のイメージが直指庵山内で重なった。
 山内の散策路を下り庵を振返った。時折、雨滴が落ちる。この位の雨滴なら大丈夫だ、と思いウエストポーチのチャックを右に引き、中から筆ペンを引抜いた。キャップを外し口に銜えた。それから小脇に抱えたキャンソン紙のスケッチブックを左掌に載せた。
 筆を庵の棟に載せ一気に横に引いた。後は思い付くまま筆を走らせた。描きつつ権力と寂びた空間を考えた。互いに相反するようで、実は表裏一体なのではなかろうか。それとも市井の人間、権力者に拘らず、人間の行着くところは寂びた空間なのであろうか。雨滴が二三滴跳ね、画面を滲ませた。滴はキャンソン紙と一体となって画面に吸込まれていった。
 来た小径を下って行った。落柿舎では間断なく降注いでいた白い筋で、彼方の嵐山が霞んでいた。小径から閑静な佇の里に出た頃には、夕暮の陽光が差し、白い筋は蜘蛛の糸のようにきらきら輝いていた。
 
 大覚寺堂宇を見て歩くには、一時間もあれば充分だろう。直指庵から大覚寺へは、樹々に包まれ閑静な家々が建並んだ大覚寺側道を十分ほど進めば着く筈だ。
 簡単な地図は携帯していた、けれども広げようともしない。地図を頼りに歩いた場合、目的地だけが脳細胞の抽斗に脹らんでしまい、目的地への道筋に現れる驚くような空間を見過してしまう。
 もし道筋に素晴しい空間が待受けていたとしても、予め詳細な知識を脳細胞にインプットはしない。知らずに歩き突然、惚れ惚れする空間が現れた時の沸立つような気持には変えられないのである。
 直指庵が大覚寺西側に沿った道の延長上にあるとすれば、若干東に逸れたとしても遠回りにはならないだろう、と足は左へと折れた。何れ道は大覚寺の北側築地塀に行当るに違いない。ところが十分経ってもそれらしき築地塀の影すらも現れない。行交った里人に、
 「大覚寺はどっちですか」
 「あの林の方ですよ」
 男は東南の方向、青々とした緑海を指差した。大覚寺からかなり離れた処に来てしまった。男が指差した方向、木立が疎らに立上がる中を一本道が田を分け入って筋を伸していた。
 其処まではかなりの距離があった。今から訪れたとしても二三十分、大覚寺山内に身を委せるだけだろう。樹々に包まれた大覚寺を遠望し、大覚寺を訪れることは諦めた。
 大覚寺からかなり離れ田畑に一筋の航跡が斜めに伸びる。何に対して斜めであるか、無意識の裡に大覚寺を基準として北嵯峨の田園風景を眺めていた。広々とした田畑には処々こんもりとした林が浮んでいた。
 田畑が終わりかけた裾野には家々の瓦屋根が樹々の梢に浮ぶ。それは手が届く距離であるが、地平線であるかのような錯覚を憶えた。
 気が遠くなるような年月こんな風景だったのだろう。地平線の向うに北嵯峨の里人のごくありふれた生活が浮んでいた。
 里人の生活空間は権力者からの視点では寂びた空間として捉えられるのかも知れない。眼前に展開する光景には北嵯峨の地に繰広げられた権力闘争は覗いていなかった。
 大覚寺を訪れることは諦めたところで、針路を西南に定め宇多野ユースホステルを目指した。宇多野ユースホステルには前以て連絡してあり、予約をしてある。宇多野ユースホステルは国営のユースホステルである。
 学生時代、京都旅行の折宇多野ユースホステルに二泊したことがあった。その際、五十歳過ぎの宿泊者が数名いたことが印象に残っていた。
 娘が関西大学に在籍していた時には、躊躇いもなく豊津の娘のアパート・コーポ滝川をねぐらとしていた。娘が卒業後、逗留先がなくなり関西から足が遠のいてしまった。一時は京都四条大橋の畔でダンボール生活をする伊藤先輩を訪ねようとも思った。世界が異なる人間の赤裸々な話を聴くことができ、あるいは底辺から社会を見詰めるごとができて面白いのでは、と女房に話したことがあった。
 「もう学生ではないんだから、ユースホステルとかダンボールハウスなどと云わないで、よく歳を考えた方がいいんじゃないの」
 と云って呆れた顔をしていた。当面は安くて気兼ねなく泊れる宿泊先は寺院かユースホステルではないか、と思っている。それでも宿泊先が決っていることは心配もなく気が楽だ。
 シリアの首都ダマスカスでは、パルミュラの遺跡から長距離バスで、一気に南下し夜十一寺頃ダマスカスに着いた。それから安宿探しが始った。
 外国人を泊めてくれる安宿はなく、暗い住宅街の路地をザックを背負いとぼとぼと歩いた。どの辺に安宿が点在するのかも知らない。安宿がありそうな臭いを嗅ぎつけ路地から路地を渡り歩くだけだった。
 けれども不思議に安宿が見つかった。時刻は午前二時だった。安宿が見つからなければ一晩中歩く積りであった。
 暗い住宅街の一角、一つだけ街灯が立っていた。街灯の明りが映って路面が鈍色の妖しげな光を宿していた。開いていた木戸に足を踏み入れた。
 悪漢に身を拘束され、殺されても分らないだろう、と脳裏の片隅に不安がなかった、と云えば嘘になる。けれどもその時は一晩泊れればそれでよかった。
 木戸は中庭に続いていた。中庭に面し幾つか室があった。指差された室には、既に五人の初老の男が疲れた表情でベッドに横たわっていた。
 案内人の男はとばくちに近いベッドを指差した。この夜中に何故彼等はベッドに横にならないで起きているのだろう、と男の表情を見て思った。
 歩き疲れ眠かった。ザックをベッドの足に括り付け、ベッドに横になった。疲れた表情をした男達の視線を感じながらも、パルミュラの遺跡が頭に浮び漂っていた。
 そんな異国での経験と比較すれば、言葉の障害があるわけではなく同じ日本人、気心が知れた者同士である。宿を探すことも土地の人との交流が深められ面白い。簡単に宿が見つかったりすれば、平和で助かる、と思う反面飼慣らされた猫のようになった姿が鏡に映る。
        
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