京都ー光と影 3

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8 嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ三 おすすめサイト
YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
大覚寺 近傍 広沢池
大沢池桜花1 大沢池桜花2
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十二 
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七  嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ2
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九  
十    
          
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読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
八 嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺へ三
 
 翌朝の朝食後、西浦は、
 「あなたは今日は何処へ行くんですか」
 「昨日大覚寺を訪れる時間がなかったため、午前中に大覚寺へ行こうか、と思っています。歩いて行くと随分あるような気がしますが・・・」
 「大覚寺まで歩いてもたいして時間は掛りませんよ、歩かねば・・・一緒に行きましょう」
 「そうですね」
 西浦はデイバッグを背負い玄関に足を進めた。ベッドに投出した荷物をデイバッグに詰直していると西浦が扉から顔を出した。
 「まだなの・・・」
 「ちょっと荷物が・・・」
 遅れ気味になったため既に西浦は出てしまった、と思っていた。
 急いで荷物をまとめ階段を下りた。玄関にはチェックアウトを終えた宿泊客が数人立っていた。西浦が手を上げ、
 「早くしなよ・・・」
 「西浦さん早いから・・・」
 玄関前のロータリーから坂道を下った。途中で振返った。三十年振りに訪れた宇多野ユースホステルの白壁が朝陽を受けて輝いていた。
 昨日歩いた道を大覚寺に向った。
 「この道わりと車が通るんですよね」
 「この位はしょうがないよ」
 車道の左側に設けられた歩道を並んで歩いて行った。暫く道の両側には丈の高い樹が立上がり小暗い空間が続いた。
 「京都に滞在している間、この道を北山に向って毎日歩いていたんですか。大覚寺の北側に直指庵がありますが、その裏手から北山に登れそうな様子でしたが・・・」
 「この道ばかり歩いてるよ。大覚寺の裏手からは北山には登れないよ、道ではなく藪の中を通っていけば別だが、そんなことをしていてはあわないよ」
 昨晩の話題、本来無東西 何処有・・とは異なり無から狭義の有の話になった。
 「わしは借地権を持っている家に住んでいるが、いずれ借地権を所有権として買取る積りだ。いろいろ事情があって今は無理だけれども」
 行者さんでも借地権とか所有権等、無の世界からかけ離れた現実に向合っているのだ、と西浦の淡々とした横顔を見た。
 「私は二億三千万円の借金があって、今のところは利息元金共で月百三十万円返済しています。返済金が月百三十万円ですから収入はそれ以上なければならない。あと十八年この状態が続くんですよ。のんびりと京都を探索している場合ではないんですよ」
 「借金も財産の内、と云うから・・・でもあなたは二億三千万円の借金ではなく、逆に二億三千万円の現金を持っているように見えるよ。それはあなたの徳だよ」
 のんびり絵を描きながれら京都を探索している男が、二億三千万円の借金があるとは西浦は思いも寄らなかったのであろう。
 右手に清々しい大気に包まれ、広々とした広沢池が見えた。池の対岸はこんもりとした山々が紫色に輝いていた。
 「この池、以前は水量が少なかっただよなあ、水門の工事をしたのかも知れない」
 と西浦は話していた、けれども西浦が広沢池を通りがかった際、たまたま池の水を抜いている最中ではなかったのか、と後で思った。
 広沢池の端部に立つ児神社の三叉路に出た。真直に進む道と北西に田園を貫く小道を右手で指差した。
 「来たときは一本向うの道を通りましたが、この道も大覚寺に行く筈ですよ」
 「じゃあ此処で・・・」
 「行者さんの修業として此方を通って行くのも好いんじゃないですか」
 ザックを背負った西浦は意表をつかれた表情を此方に向けた。
 「よく云うよ、あなたもたいしたものだ。人を引込んでゆくところがある」
 と云いながら西浦は予定のコースを変更し、二人して千代の古道とよばれる小道に足を踏み入れた。
 北嵯峨の田園風景が、山々が連なる裾野まで広がる。穏やかな光景の中、昨晩初めてあった行者さんと肩を並べて歩いている事に不思議な思いがした。
 西浦は七十歳とは思えない力強いストライクで進んだ。左方に樹々の梢が織りなす緑が島のように浮んでいる。其方に向って一本道を折れた。程なく大覚寺前の駐車場に出た。
 大覚寺前で西浦と肩を並べて立ち止った。
 「いろいろ有難う御座いました。お元気で・・・」
 掌を軽く挙げ、頬が張って矍鑠とした顔貌をした西浦を見た。             
 「わしは此方に行くから」
 西浦は大覚寺前から南に延びた道路を指差し向きを変え道路を下っていった。西浦が背負ったザックは左右に揺れていた。私はザックが小さくなるまでその場に立っていた。
 西浦が振返り左右に手を振った。私も右手を高く上げぐるぐる廻した。
 
 背が高く豪快な築地塀が正面に連なる。築地塀の足元は石組された水路が切られている。石橋から東側に伸びた水路に視線を投げた。先方には開けた空間が広がっている。
 築地塀の高さに比べ水路の巾は狭い、そのため遠近感が強調され奥行のある構図となる。水路端から立上がった樹々の梢が初夏の風に靡いていた。川と呼ぶには小さく可愛らしいが、大覚寺の栞にこの水路は有栖川、と名付けられていた。
 栞には大覚寺山内を取巻いて濠のように水路が切られていた。西北方の谷筋から流れ出た水流は大覚寺山内西方に至る。これは城郭建築か、と眼が地図に吸い寄せられた。それも一瞬の刻だ。大覚寺は嵯峨御所とも呼ばれ、濠を必要としていない舘であった。それに時代は平安時代初頭、戦いとは無縁の社会だった。
 延暦十三年(七九四)、桓武天皇は平安京に遷都した。二十年後に即位した嵯峨天皇は、都より離れた葛野の地に嵯峨院を建立した、大覚寺の前身・嵯峨離宮である。
 嵯峨天皇の皇女・正子内親王が清和天皇に上奏し大覚寺と、改めた。嵯峨天皇の孫にあたる恒寂入道親王が開山として迎えられた。
 豪華で華やかな大覚寺内部空間には溜息が出るほど圧倒されるが、一般民衆には縁遠い内部空間より、この水路が切られた築地塀沿いの空間の方が親しみが持てる。
 築地塀に沿って進んだ。隅に堂宇に入る門が切られていた。正面拝観受付の左方、アプローチに沿って屋根に瓦を載せた展示スペースが並ぶ。五十センチメートル程の高さ、奥行三尺の畳を敷いた展示台が、上屋に沿って伸びる。
 展示台には大振りな花器に活けられた生花が、鮮やかな彩をあらわしていた。参拝客は嵯峨御流派生花に迎えられ受付に至る動線が計られている。抹香臭く格式張ったエントランス空間を見慣れた身にとって奥深い華やかさを憶える。
 門の隅から展示スペースを眺めた。程良い遠近感だ。ウエストポーチのチャックを右に引いた。中から筆ペンを引抜きキャップをを外して口に銜えた。
 左掌にキャンソン紙のスケッチブックを載せた。筆を画面左方スケッチブックの上から四分の一ほどの位置に据え、展示スペースに載った瓦、棟のラインを若干下がり気味に引いた。
 それから軒端を棟のラインに平行に波打たせた。展示スペース屋根の向うに木立が立上がり、葉群の間を風が渡り揺れている。恐らくプライベートな中庭があるのであろう。中庭を取巻いて堂宇の甍が重なり合っていた。
 デッサンが上がりスケッチブックを地面に置いた。ウエストポーチからヴァンゴッホ固形水彩絵具を取りだしスケッチブックの右上に拡げた。小ポケットから水器壺を出し絵具の下に蓋を外して置いた。
 樹々の梢に渡る風に揺れる緑葉が、銀鼠色に輝いた堂宇の甍と好く響き合う。筆の先に黄色を載せ緑と混ぜて緑葉の明るい部分に滑らせた。最後に展示された花々を朱色に染上げ、展示台に敷かれた緋毛氈に薄紅色を載せた。
 活花嵯峨御流は嵯峨天皇が嵯峨離宮庭内で手折られた菊を瓶に生けたことに始まる、と云われる。
 脳裏の片隅にイメージとしてあった嵯峨天皇は、安定した世の中で只菅風雅に身を置いた天皇であった。嵯峨天皇は書道に堪能で、日本三筆の一人に数えられている。
 嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのみかちこ)(壇林皇后)は橘清友、橘奈良麻呂、橘諸兄と遡り県犬養橘三千代に辿り着く。立身出世の権化のような女官であり、権謀術策を弄した女傑であった橘三千代に至るとは、人の血は数代を経て薄まってくるのだろうか、それとも皇后橘嘉智子は橘三千代のような女だったのだろうか。
 
 嵯峨天皇は桓武天皇、光仁天皇、施基親王と遡り天智天皇に辿り着く。大海人皇子(天武天皇)に壬申の乱で滅ぼされた近江派皇族が数代後に天皇位を手にするとは、政争にに明け暮れた天武天皇を始めとし女帝持統天皇さえも予想も付かなかった事であろう。
 右方に眼をやった。白砂の敷かれたアプローチの先に格式ある玄関が開いていた。大覚寺式台玄関だ。瓦屋根に連続した銅板葺きの唐破風屋根が格調高い玄関であることを現す。
 活花嵯峨御流に続いてスケッチブックを構えた。アプローチへの道筋に数本の樹が幾筋もの細い樹幹を現して立上がる。葉群が円型に弧を描いた塊となって青空を突刺していた。ひょろひょろと立上がっているためだろうか、木立が天空に飛翔するような錯覚を憶える。
 奧には宸殿だろうか、その翼を大らかに拡げている。西浦と別れどの位経っただろうか、まだ大覚寺の受付に至っていない。スケッチを描きながら探索しているため極端にゆっくりとした歩みだ。
 受付を済ませ廊下から続いた広縁を進んだ。大覚寺は門跡寺院である。そのためだろうか境内に塔頭が見当らなかった。以前訪れたことのある宝ヶ池の円通寺は皇室関係の寺院(円通寺は幡枝離宮の一部が寺院となって残った歴史がある)であるため檀家をとってはいけない、と住職が云っていた。大覚寺においても円通寺のように檀家はいないのであろう。
 山内に塔頭が立並んでいないため、堂宇は一塊の群となって山内西方に甍を連ねている。一塊になり複雑に入組んだ堂宇を、目的空間としての室の外縁に廻した廊下、広縁で繋ぎ合せている。玄関からどのようなルートをとったかを大覚寺伽藍配置を見ながら辿ってみた。
 受付がある玄関から式台玄関を右方に見る。正面の土産物等を置いた売店には高校生の男女が店内に並べられた品々を嬉々とした表情を浮べて覗き込んでいる。廊下の隅に置かれたダンボールに入ったスリッパを取りだした。廊下を進み売店の角を曲った。
 廊下は宸殿の横腹に突き当る。宸殿の広縁を廻って宸殿正面に出た。後水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物である。広々とした前庭には右近の橘、左近の梅がシンメトリーに配される。この辺でスケッチを描こう、と思ったが、広々と広がった光景に捉えどころのない空間を憶えほんの数分間だけ立ち止って広縁を先に進んだ。
 宸殿を取巻く広縁、渡廊下を進み御影堂に出、更に進んだ。此処にいたりどんなルートを辿ってきたのか空間配列がこんがらかってきた。突出たり凹んだ広縁の先に大覚寺本堂である五大堂が立つ。
 五大堂には不動明王を中心とし五大明王が安置される。五大堂東面には開放的な観月台としての舞台が大沢池に面して設けられている。一昨年の春、それは桜花が盛りの季節だった。JR嵯峨嵐山駅から大覚寺を目指した。
 しとしとと春雨が細い糸を引く中、住宅が立並んだ間道を北方に向った。大覚寺大沢池の畔に咲誇る桜花を眼にした時には、白い筋が落ちてくるのも忘れスケッチブックに筆を走らせたことは、前述したとおりだ。
 嵯峨天皇に続き後嵯峨上皇、後宇多法皇が大覚寺門跡となった。皇位が二分された南北朝時代、上皇が大覚寺に住んでいたことから南朝は大覚寺統と呼ばれた。
 南朝の御所として政務を執っていた人達は、明るく開けた五大堂の舞台に立ち自らの精神も解き放たれたに違いない。
 五大堂売店の背面を通る広縁を進んだ。勅封心経殿を庭先に眺め、大覚寺の裏庭とも云える空間が流れる。
 広縁の角を幾つか折れ正寝殿広縁に出た。正寝殿には小部屋が並ぶ。見事な襖絵が描かれた部屋は立派ではあるが、近辺には息が詰りそうな空気が漂っていた。
 大覚寺堂宇の配置計画においては、外部に開放された広縁あるいは廊下によって目的空間である各室を連結する手法がとられている。
 この動線計画は数多くの室に有効な採光、通風そして独立性を確保するには有効な手法である、と思われる。改めて大覚寺伽藍を前にしなければ今、歩いてきた堂宇の全貌を掴むことは出来ない。それほど複雑に絡み合った伽藍配置だ
 不思議なことに大覚寺堂宇について一枚のスケッチも描かなかった。完成された空間であるため、スケッチを描くことを拒否していたのかも知れない。あるいは自分自身が完成された空間より未完成ではあるが、自らの意志が入り込める余地が残った空間に共感を憶えているのかも知れない。
 活花嵯峨御流、大沢池を描いた数枚のスケッチは手元にある。大覚寺伽藍において活花嵯峨御流、大沢池近辺に、意志が入り込める余地があった事になるのだろうか。       
 
西浦行者 言 嵯峨野近傍
 
 
        

ナバスさんはメシェッド北方の山岳地帯に絨毯の買い付けのために、時々イランに帰る。山岳地帯の平地に立ち上げた住居パオを回るらしい。小生は町のメシェッドは知っているが、山岳地帯は知らない。
「わたしが行ったら拉致されてしまうかもしれないなー。イラクは内乱状態、イランは治安はどうですか」
「イランハダイジョウブ」
ナバスは澄んだ眼を輝かせていた。 5嵯峨野ー化野念仏寺から鳥居本平野屋・愛宕念仏寺へ戻る 7嵯峨野ー北嵯峨・直指庵から大覚寺2につづく
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