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イタリアの町並

アフガニスタンの町並

10 室生寺 おすすめサイト
YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
室生寺 仁王門 室生寺 太鼓橋
室生寺 鎧坂 室生寺 金堂
大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

10 室生寺
 
 近鉄八木駅から室生口大野駅方面へは、山間を縫って電車は進む。右方の眺めは、山が迫り圧迫感があるが、左手は国道の向こうに丘陵が連なり、紅葉で彩を豊かにした山並は、日本画のような風景で素晴らしい眺めである。
 丘陵の麓は、古い集落が眼下に線状に連なり、途中下車して探索したい衝動にかられる。その光景は山間の昔からの道沿いに発展した集落を思わせる。
 車窓に流れる集落の連なりは、一日中、見ていても、見飽きない日本的風景である。この風景は何処まで続くのだろうか、伊勢湾まで連なるのか。
 帰京の際には、此のコースで名古屋まで出てみたい。電車は長谷駅を過ぎたが、相憎、乗り合わせた電車は榛原駅止まりであった。榛原駅で乗換え、室生口大野に向かう。室生口大野駅は高所にある駅で、バス停のある広場へは緩い階段を降りてゆく。タイミングよく十分程の待合わせで、バスは室生寺に向けて発車した。殆どの乗客は室生寺までの探索者のようだ。
 住宅街を通り過ぎ、宇陀川沿いの広々とした道に出た。対岸は浸食されたのか、隆起したのか、崖が垂直に切り立つ。処々、紅葉した楓の橙色の彩が優しさを現す。
 最も背の高い崖に、永い歳月、風雪に耐えてきたのだろうか、輪郭が不明確な大弥勒磨崖仏が車窓から見えた。大野の磨崖仏(まがいぶつ)だ。道沿いにある大野寺の弥勒仏である。一二〇九年に彫られたというから、八百年程たっている訳だ。
 確かに、大磨崖仏であるには違いないが、想像ではもっと巨大な仏像かと思っていた。
 
 磨崖仏と云えば、アフガニスタン・バーミアンの磨崖仏は巨大で迫力があった。アフガニスタン・カブールの西方二百四十キロメートルにあるバーミアン渓谷の大岩壁に其れは彫られていた。バーミアン渓谷の大岩壁には、五世紀頃から洞窟が掘られ僧侶が生活していた。
 更に高さ五十三メートルほどの大磨崖仏が彫られた。併し、チンギスハーンにより、石仏の顔面は削り落とされてしまった。イスラム教では偶像崇拝が禁じられている理由からであった。 大磨崖仏には階段が掘られ、頂部まで歩いて達することができる。嘗てバーミヤンを訪れた際に、私も磨崖仏の仏頭まで登ったが、魔崖仏の顔面は見事に削り落とされていた。削るだけでも大変な労力を要した事だろう、とその執念には恐れ入った事を憶えている。
 渓谷の対岸から、二つの大磨崖仏を遠望したが、その雄大さに、民衆の力の集積の大きさに圧倒されたことは、今でも鮮明に脳裡に焼き付いている。果てしなく拡がる広大な砂漠の中では、あれ位大きな磨崖仏でなければ、自然に対峙できなかったのであろう。日本の箱庭のような環境・光景の中では、彫りが浅く、優しい線が相応しいのかも知れない。
 
 バスは宇陀川沿いを進む。崖に色付く紅葉が自然で、野趣に富み、車窓からの眺めは変化ある光景である。
 宇陀川に掛かる橋を渡り、川から離れたが、ぼんやりと山の景色を眺めているうちに、何時の間にか、バスは再び川沿いを走っていた。室生川である。左手には錦秋織り成す山並が連なる。
 処々、崖の岩石が竪に割れ目を現し、屹立する男性的景観を見せる。岩石の層がもともと竪にあったのか、それとも、地殻変動により、岩盤が褶曲したのだろうか。
 聳り立つ崖、山端の緑葉・紅葉、力強い岩石の連なり、そして室生川の流れと、自然の優しさと厳しさとを合わせ持った光景が、室生寺まで続く。こんな風景を何時までも見ていたいと思い、ずっとバスに揺られていたかったが、直に室生寺に着いてしまった。
 帰りのバスは一時間に一本という事で、運転手に時刻をメモしておくようにアドバイスを受ける。
 左手には室生川が流れ、右方には土産物店が立ち並ぶ開放的で明るい道が弧を描いて伸びる。直に朱色の太鼓橋のある室生寺の入口、小広場に出た。
 
 朱色の太鼓橋を眼前にして、アッと息を呑んだ。小広場の右手前には、―女人高野室生寺―の石碑が立ち、車止と刻まれた石の車止が大地から生まれ出たかのように立ち上り、空間に緊張感を醸し出すのであった。
 朱色の橋が楓の橙色と好く響き合い、一体的重なり合いがある。太鼓橋ゆえに橋の中央がふくらみ、その向こうに室生寺表門の桧皮葺屋根が陽光を吸収し、鮮かに織り成す紅葉の葉擦れに垣間見られる。表門全体が見えないのが、奥床しく、そして探索者に未知なる物への期待感を抱かせる効果を生んでいる。
 表門の背は、紅・黄・橙色の楓の錦秋で蔽い包まれ、この世の物とも想われない華やかな光景を現す。開放的な室生川を挟んでいるため、見晴らしが好く、一層その素晴らしさが際立っている。
 室生寺では、室生川が結界の役目をする。自然を上手に利用した結界だ。東山山麓法然院では、人工的に盛土をして結界を築いていた。
 結界の手法だけ見ても、寺院によって違いがあり、興味深いものがある。其、感動的寺院では、巧に結界空間を創り出しているのが見られる。
 朝豊津を出る頃は曇空だったが、陽が昇るに連れ、どんよりとしたベールを引き分け、陽が差してきた。鮮かな葉群は陽を浴び、紅から黄・橙色と色取どりの光を反射させ、恰も錦秋の鏡のような光の乱舞を眼前に繰り広げるのだった。それは化粧で着飾った中年の姿ではなく、初々しい生娘(きむすめ)の姿だ。
 
 太鼓橋には影ができ、明暗がひとつの要素に混在して、変化のある光景である。太鼓橋に打ち付けられた滑り止めの横桟を踏み、橋の頂きに近づくに連れ、表門が眼前に迫る。右手の楓の鮮かな紅葉が表門に差し掛かり、背の山の緑葉、紅・黄・橙色の錦秋が近づき、楓葉の一枚一枚が識別できる。眼下には深い室生川の流れがある。朱色の太鼓橋の中央で、自分が舞台の主人公であるかのような錯覚を憶えた。
 対岸に繰り拡げられる錦秋織り成す光景は、恰も極楽浄土の世界を現実界に具現しているかのようだ。
 学生時代に室生寺を訪れたことがあったが、この世のものとも思われぬ、この鮮かな空間の拡がりは記憶にも残っていない。年齢により感ずる所が変化してきているのか、それともこの素晴らしい光景を忘れてしまったのか。
 表門、錦秋をバックに、何人もの探索者がスナップ写真を撮る。私もカメラのシャッターを押すのを頼まれる。よい構図の処では順番待ちで皆さん写真に納まっている。
 表門の先には庫裡の屋根が紅葉に包まれて見えるが、我々一般の探索者は、此処からは入れない。
 
 表門前から川沿いに参道が伸びる。左方には錦秋の極楽浄土の世界が織り重なり、右手には広々と深く切れ込んだ室生川の流れがある。川底の岩石が水に透けて輝き、優しい流れを感じさせる。対岸には人家が川沿いに連なり、人工と自然が好く調和した光景である。
 少しクランクして右に折れると、正面に朱色の仁王門が姿を現す。仁王門を取り巻く環境が素晴らしい。手前には巨樹の楓の紅葉が山門に差し掛かり、左手には茅葺屋根の小さな売店が落着いた佇で立つ。背後には緑豊かな山並が、仁王門の背景の如く横たわる。朱色の仁王門が楓の紅葉と好く響き合い、紅葉の秋でなければ味わえない光景である。
 仁王門を潜って、小さな広場に出る。大勢の探索者が広場を左に折れて行く。其処は高い石段―鎧坂―が何処までも続き、頂きに金堂の桧皮葺屋根が僅かに覗く。屋根には草が生え、風情ある光景である。
 石段の正面に立ちスケッチを始めた。広場の端の方なので、探索者の迷惑にはならないと思うが、何人もの探索者が、後ろを通り覗いて行くのである。
 
 石段の陽の当たった処はベージュ色に光り、樹陰の部分と好いコントラストを描き変化がある。石段の両端は石段なりに水路が切られ、両側の樹林帯の地面と縁を切っている。
 石段の上がり始めの左手には、樹幹が薄茶色に光る大きな楓が立ち上がる。紅・黄・橙色の葉をつけた枝葉が、石段上に差し伸べられ、恰も錦秋のトンネルのように石段を蔽っている。上がり始めの探索者は、差し掛けられる楓の紅葉を仰ぎ見、
 「ワッー何て綺麗なんだろう」
 と感嘆の声を放つのであった。枝は石段の反対側まで波打って伸び、緑葉と混じり合い、色彩の交響曲を見ているようだ。石段中腹にも、楓の紅葉が石段に差し掛かり、交互に交錯して空間に遠近感を現し、複雑な景観を構成する。
 樹木の枝葉に覆われた石段であるが、石段には処々、木洩れ陽が戯れ、頂の金堂屋根には微かに陽が当たり輝いている。更に背後の山にも陽が差し、紅・黄・橙色に、処々穏やかな彩を輝かせるのであった。
 樹林の幽暗な空間と、木立ちの隙間から差す陽に当たって、鮮かに輝き戯れる錦秋の光景とのコントラストが互いに響き合い、素晴らしい光景である。
 石段を四分の一ほど登った処に踊り場がある。其処から望む金堂を取り巻く景観も、下から観る景観以上に印象に残る空間である。
 
 この空間の主題は、幾段もの石段である。副題のエレメントとして、鮮かな紅葉、そして頂に小さく見える金堂がある。紅葉が素晴らしければ素晴らしい程、金堂に溶け込むかのように伸びる石段が引き立てられる。
 石段を上がるに連れ、少しずつ金堂の姿が大きくなり、恰も靄が徐々に引いて姿を現して来るかのようだ。登り詰めた頂は小広場である。正面は金堂、左手には、弥勒菩薩像を安置する
弥勒堂がある。弥勒堂の中は薄暗く、その奥方に像が安置される。
 金堂は相当に旧い。柱梁の朱色は褪色し、剥げている箇所と薄い朱色が混じり合い、斑なテクスチャーを見せる。其れが歴史を感じさせ、閑雅な趣を現すのである。平安時代の創建故にその旧さが構造体である柱や梁の斑なテクスチャーに現われている。
 下から見上げた際に、横に長く伸びる手摺が見えたが、下部が吹抜けのデッキの手摺であった。金堂の桧皮葺の水平線を強調した屋根と相俟って、広がりのある御堂である。
 山腹に立つ寺であるが故に、寺地にレベル差ができる。一層分高いレベルにあるデッキには、側面の石段を上がり、側面のデッキの真中辺から入る。其処が地面と同じレベルなるのである。 広場から眺めた時には、デッキに見えたが、それは金堂の広縁と云った方がよいかも知れない。
 
 広縁を廻ってみた。円柱、板壁には小さな穴が無数に空いているのに気付く。始めは、何かを打ち付けた穴の跡だと思ったが、虫に喰われたか、風化した穴のようにも見える。
 さらに、円柱には幾筋もの竪ヒビ割れが見える。その部分を熟と眺め、竪に木目の浮き出た割れ目を、掌でそっと撫でた。思ったより木肌はつるつるしていた。
 平安時代から、風雪に耐え無言で、連綿と立ってきたのを思えば、感慨深いものがある。掌で撫でた時には、平安時代の匠と対話しているような身近な気持になった。
 金堂内ではスポットライトを浴び、釈迦如来を始めとした諸仏が光り輝き、手前には、小振りの十二神将が諸仏を守るが如く安置される。
 中央に釈迦如来、右に薬師如来、地蔵菩薩左には文殊菩薩、十一面観音が安置される。全て貞観時代の木造立像である。
 金堂は堂としては、小さく天井も低い。併し堂内は落着いた空間である。。奇を衒う事もなく人間的で民家に近い印象を受ける。奥方には、年寄りの見張りの女性が、手持無沙汰な様子である。
 金堂外陣の天井は、木を剥き出した化粧?木で、天井は低く人間的スケールを感ずる。よく見れば、内陣も外陣より一段高い化粧?木である。外部の軒の?木が、其の儘内陣に入り込み、空間の相互貫入がされている。
 金堂は創建当初は本堂であったが、室町時代末に灌頂堂が(かんちょうどう)建てられ、そこが本堂になってからは金堂と呼ばれ、本尊釈迦如来立像を安置する御堂となったのである。
 金堂内陣は平安初期の創建であったが、江戸時代に正面一間通しの礼堂が付け加えられた。
 一見しただけでは、増築されたとは気付かない程、よく調和がとれ美しい御堂である。
 金堂より一段高い小広場に石段を上がり、更に高い処にある小広場に出る。其処には石の柵で囲まれた池がある。
 正面に本堂灌頂堂が閑雅な佇で立つ。右方の大きな楓の枝葉が、本堂の桧皮葺屋根に差し掛かり、淡い光を受けた楓の紅・黄・橙色が眼に鮮かに映る。彩豊かな楓葉に透けて、桧皮葺屋根が覗き、その奥床しさは女人高野室生寺に相応しい空間である。
 
 本堂正面の階段を広縁に上がる。堂内は薄暗く、奥方に本尊如意輪観音像が小さく見えた。幽かに輪郭が分かる程度だ。燈明の灯で観音像の二つの眼のみが、??(けいけい)と、人を射る眼光を放つのである。タイムスリップして、平安時代から現代を見通しているかの如く、二筋の眼光が放たれているのである。
 「お前は浮かれて探索などしていてよいのか、昔人は、毎日食べる物のない時があった。生活してゆくのが精一杯で、とてもお前のように、探索の旅に出る余裕など無かった。」
 「確かに俺もそう思う。併し観音様お前さんが平安時代以来、其処に六本の腕を四方八方に伸ばし、胡坐なんぞ組んで国宝いや違った重要文化財などと云って鎮座ましますのは、一般民
衆から搾取し、富みを一部権力者階級に集積した結果ではないのか。
 平安時代であれば、貧民出の俺など、とても新幹線に乗って、はるばる奈良下り(くんだ)に旅する等は、夢の又夢だ。
 室生寺などと言う立派な寺も、下積みの民衆の力があったればこそ、可能だったのではないのか」
 と鋭い眼光を前に、他愛もない空想を巡らすのであった。
 
室生寺 室生寺
 
 
 本堂の広縁を廻る。金堂より旧いのではと思うほど、円柱はヒビ割れ、小穴も空いている。掠れたテクスチャーは相当の年月を感じさせる。
 本堂は鎌倉時代の創建だが、千数百年よく維持できたものだと、不思議な気持になった。中には円柱がヒビ割れていると云うよりも、裂けて割口を大きく空けた隅柱もある。
 風雪に耐えて来た柱の割れ目を熟と見詰めていると、昔の匠の姿が見えてくるようだ。鎌倉時代の匠の姿を追い求め、広縁を一廻りする。広縁の裂けた隅柱際で、礼拝所を描く。軒?木の深さを感じ、斗?木組の複雑さと同時に、そのリズミカルな構成に荘厳な宗教性を想う。どの参拝者も、信心深く本尊に掌を合わせる姿が印象的であった。
 本堂の階段を降りる。正面池の向こうで、写真三脚を構える男女がいる。写真家のいる処は大体に構図の好い処である。
 本堂の桧皮葺屋根には、薄の(すすき)ようなヒョロヒョロした草が数本生えている。如何にも素朴な感じで心地好い。堂の左方には五重塔、奥院への緩く奥行きのある石段が、両脇の緑葉に吸い込まれて行く。
 本堂への石畳が遠近感を感じさせ、緑葉・紅葉の華やかさと、好い対比をなす。左方奥院への石段脇の黒い樹幹が、好い点景で空間が映える。背の山は、黄緑混じりの緑葉に包まれ、素晴らしい光景である。
 本堂を後に、下の小広場に戻った、探索者が、奥院へ十五分位で行けると話していた。奥院へは数時間かかると思っていた。十五分位ならば私の足ならば直である。
 
 本堂左方の石段に、台風で倒された杉の巨樹が数本横たわる。巨樹が倒れ掛かって壊された五重塔は、現在修復中で、シートに包まれ華麗な姿は見れない。
 かつて室生寺を訪れた際に、石段の頂に立つ五重塔を拝した。総高は十六・六メートルで、屋外に立つ五重塔としては、我国最小の塔である。写真で見る限り、かなりの高さがあるように見えるが、周囲の景観と比べれば、五重塔は小振りでそのスケール感が分かる。
奥院への道は、自然の中に造られた人間の道を強く感じさせる。道は細く階段状に整備され、自然の地形なりにカーブした山道の両側には、杉の巨樹が立ち並ぶ。道巾に比べ、背の高い巨樹故に、スリット的道空間で、深山幽谷の趣きがある。
 巨樹の杉肌は薄茶色で、枝は少なく、はるか上方に枝葉が僅か許りあるのみで、一層、幹の高さが強調されるのである。
 杉の樹林帯を過ぎた辺からは、うんざりする程の段数の多い石段が遥か上方まで連なっている。頂に御堂が僅かに覗いていた。先方に眼を向ければ、気が遠くなりそうになるほど石段が連なるため見上げないように、一歩一歩上がる。そろそろ頂かと思ったが、右に折れ、更に石段が続く。只管、登って辿り着いた小広場には、広場を囲むように寺務所、御影堂、位牌堂がある。
 どことなく殺風景で陰気な印象を受け、拍子抜けして立っていた。寺務所には寺男が一人で手持ち無沙汰にしていた。探索者は先客のカップルが二人、位牌堂前のベンチで休憩しているだけであった。
 位牌堂は舞台造りで、周囲を広縁に囲まれ、他の堂と同じように見るだけで入れない。苦労
して上がってきた割には感激が乏しい。カップルも心無しか暗い印象であった。
 奥院にて小休止し下山する。降りの急な石段が膝に堪える。石段が途切れた辺で、アディダスのトレーナーを着た女性たちが登って来るのに会った。学生が合宿に来ているのかと思ったが、顔を見るに、皆さん中年の顔付である。何処か田舎の農協の団体旅行かと思い訊ねた。徳島県のママさんバレーのチームだそうだ。
 「ママさんバレーの全国大会が奈良・橿原市立体育館で行われ、徳島代表で出場したんです。二回まで勝ち進んだが、三回戦で敗退し、奈良を見物しているんですよ」
 「徳島県代表になっただけでも、凄いですね。二回戦まで勝ち進んだ訳だから、全国でも相当に強いチームだといえますね」
 皆さん満面に微笑みを浮かべ楽しそうであった。バレー選手だけに、山道を苦も無く登って行った。
 登りと降りでは、同じ山道でも、景色の印象が違って見える。降りでは山道を上から見下ろす事になる。更に、麓の明るい景色が、樹間越しに垣間見え、山道を登った時の疲れを忘れさせる程、心地好い光景が眼下に開ける。
 再び灌頂堂、金堂を廻り、先刻の高い石段を降りる。夕方で探索者の姿は殆ど無い。登った時の賑わいが嘘のように、静寂が空間を支配する。
 石段の踊場で振り返り、其の巧なデザインを改ためて想うのであった。錦秋の紅葉には、昼の輝きとは違った、日常性のさりげない美しさが現れていた。
 
 人気(ひとけ)の無い境内を歩き、仁王門を潜る。寺男が帰り仕度中で、木柵を据えるのを、仁王門脇の一段高い休憩所で眺める。日中の鮮かな錦秋を思い返し、去り難い気持である。
 庫裡脇の慶雲殿で、地元の写真家の展示会が行われていた。案内板に誘われるように慶雲殿に入って行った。奈良近辺の写真で、何の作品も力作揃いであった。
 庫裡前庭の石畳にも、楓の枝葉が差し掛かり、彩豊かな紅葉で、陽は落ちたとは云え、華やかな光景だ。
 表門脇の通用門を潜り、室生川沿いの参道に出た。紅・黄・橙色の鮮かな彩を内に秘めた枝葉が左方から弧を描いて差し伸べられ、室生川の川面を過(よぎ)る風に靡いていた。
 朱色の太鼓橋の中央で、紅葉に包まれた表門を振り返った。陽が燦々(さんさん)と降り注いでいた日中の乱舞は過ぎ、人影のない門前は、何も無かったかの如くある。来る日の乱舞を夢見、夜の帳がおりるのを待つかのような寂しげな佇だ。
 室生寺は八世紀末に興福寺の僧賢憬(けんえい)が、皇族の病気平癒の祈願の行場として、建立したのが始まりで、其の後を継いだ修円の時代に、その礎が固められたと云われている。
 併し、一説によると白鳳年間、天武天皇の勅願により、役行者が開き、後弘法大師空海が再興し、真言宗の道場として堂塔が建立されたとも伝えられる。
 他日訪ねた吉野・金峯山寺の蔵王堂の開創役行者と深い結び付きがあることを後で知った。併し、蔵王堂のような自由奔放な造形とは正反対の繊細な女性的造型性を感ずる寺であった。
 室生寺は女人禁制の高野山に対し、女人の済度(さいど)のため、女人の登山を許した。―女人高野―と云われる所以は、その優しい造型性にあるのだろう。
 帰りのバスでは、来た時とは反対側の席だった。室生川沿いの崖に彩られた紅葉が、車窓に流れ、いくら見ていても飽きない風景である。秋の陽は釣瓶落としと云われる如く、駅に着いた頃には、日はとっぷり暮れ切っていた。朱色の太鼓橋の彩豊かな楓の乱舞は、遠い刻(とき)の出来事のように想えた。
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