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読後感想 山口佳延写生風景 絵と文 建築家・山口佳延 |
十二 興福寺・奈良町
JR大和路線の車窓風景は旧い家並が車窓を流れ、歴史を感じさせ興味深い。JR大和路線に比べ、近鉄線沿いは、開発が進み中低層の建築物が連続する風景である。車窓から旅情を愉しむにはJR大和路線の方がいゝ。私鉄は便利なのか、開発に積極的なのか、それともサービスがよいせいだろうか。私鉄の方が庶民的な印象で、乗降も頻繁であるのだが。
近鉄奈良駅より奈良公園興福寺宝物館への大通りを進む。右手に奈良公園が見えてきた。自動車道の大通りを避け、広々と緑地の広がる奈良公園に歩を進める。
右方正面、緑葉の葉擦れに興福寺五重塔が、黒々とした姿を現す。塔二層目から下部は緑葉で見え隠れし、三層目から上部が、曇天の空に溶け込むかの如く立つ。五層目上部に一際高く相輪が空に伸び、安定感のある光景だ。
前日は雨だったためか、それとも朝も早いせいか、木々の緑葉は水を含み、瑞々しく輝いている。緑地を囲む柵の傍らで五重塔を描く。砂利敷き参道の突き当たりの両脇に置かれた石燈籠が、足元を引き締め、好い点景である。
朱色に染められた塔を遠方から眺めれば、楓の紅葉と好く響き合い趣きがあるが、興福寺五重塔のように、木肌が黒ずんで古色豊かな塔も風格があっていい。
五重塔は寺の規模により、その大きさや、高さが異なる。三重塔もそうである。興福寺五重塔は巨きく圧倒的な迫力を持って其処に立つ。朝靄の立ち籠める中に黒い固まりが端正な姿で佇み、反りのある屋根にのる甍は、全天空光を受け鈍い光を放つ。塔の各層を鳥の翼にたとえれば、相輪部は鳥の尾であり、天高く伸び安定感がある。
公園内の中金堂前庭で、遺跡の発掘調査が行われていた。フェンスの内側の発掘現場では、掘り起こした土を運ぶベルトコンベアーが、うなり声をたてて忙しそうに動き、残土を小山に積み上げていた。
フェンスの中では、NHK、朝日新聞の腕章を付けた報道陣が、幾人も忙しそうに動き回っている。新発見でもあったのだろうか。金網越しに覗いたところ、礎石の跡が幾つか現れている。年寄りの作業員ばかり十五人ほどが、掘り起こした土を籠に入れ、コンベア―に運ぶ姿と、忙しそうに動き回る報道陣が交錯し、活気ある発掘現場である。
発掘現場近くの興福寺宝物館に進んだ。見学の目的は山田寺仏頭である。薄暗い堂内の中ほどに、仏頭はスポットライトの光を受けて安置され、惚れ惚れするような微笑を浮かべ、遠く彼岸の世界を見詰めていた。山田寺仏頭は銅製であるが、金属でこれだけの表情を表現した造詣力に感心させられる。
いくらか上を向いた顔の左頬は、火災にあった際であろうか、凹んで痛々しく見える。ふっくらとした顔は、指で触れれば、弾力がありそうなほど、有機的なテクスチャーだ。無機的な銅を、このように有機的な形に造型するには、仏師の優れた感性が必要だったであろう。
頭頂の被り物は欠け、その破断面を剥き出している。それも歴史を感じさせ趣きがある。
山田寺仏頭は字句の通り、仏頭のみがあるだけである。それ故我々でも、間近に接せられる訳で、優しい表情も手に取るように分かる。
もし山田寺仏頭が、仏頭だけでなく、完全な形として伝えられ、本尊薬師如来像として内陣奥に安置されていたとしたら、私は多分、これだけの感銘は受けなかったのかも知れない。完成された美しさより、破壊された美しさの哀れを誘う姿に、それ自体に内在する本質を感ずるのであった。
遺跡に纏(まつ)わる話として以下のような体験があった。ギリシャデルフィーのアポロン神殿を始めとした、山の斜面に構成された古代遺跡は、現在その礎石を残すのみである。アポロン神殿の石柱のみは、一部立てられてある。礎石から古代ギリシャの面影を想像する事は、完全な形で遺っているよりも、更にロマンがあり、古代ギリシャの完成された姿を見る以上に想像力は飛躍し、四方八方に拡がるのであった。
興福寺に何故、山田寺仏頭があるのか、以前には疑問を持たなかった。山田寺が廃寺になったが故に、仏頭が興福寺にあるのだろう位にしか考えていなかった。
実は、興福寺の僧兵が山田寺を攻め、山田寺の薬師如来像を奪って、興福寺に持って来てしまったと云う話だ。ところが、平安時代末期、平重衡の南都焼き打ちに合い、興福寺自体が焼亡してしまった。その時、山田寺薬師如来像の仏頭のみが、焼跡から掘り起こされ、現在の山田寺仏頭があるのである。
北の比叡山延暦寺と共に、南都興福寺の僧兵は、聞きしに勝る無謀勝手な行動をし、時の朝廷にまで強訴し、自らの主張を通したと云われる。
現在、国宝館にある山田寺仏頭を、美術品として鑑賞する際には気付かないが、その経緯、歴史を振り返れば、人間の勝手な行動は昔も今も変わらないと思うのは私許りではあるまい。
堂内の柱に―写真・スケッチは禁止―の貼紙がしてあった。鉛筆だけで描くならば、許されるであろう。そう思って、山田寺仏頭を描き始めたのだが、警備員に注意されるのでは、と周囲の目を気にしてしまい、落着いて描けない。本来であれば、受付事務所で許可申請をし、腕章をして描かねばならないらしい。
堂内の警備員に、
「簡単に鉛筆で描くだけですが、よろしいですか」
と訊いた。
「鉛筆だけなら、よろしいんじゃないですか」
大目に見て呉れそうな返事だ。大目に見て呉れるとは云っても、堂内は修学旅行生で、押すな押すなの騒ぎだ。とても落着いて絵など描く雰囲気ではない。
暫く他の仏像を鑑賞し、中学生が帰るのを待つが、先客の修学旅行生が去っても、次から次に見学者が訪れる。
堂内奥に展示された阿修羅立像は、東洋文化と西洋文化が混合した形で、ガンダーラ風の顔立ちである。童子のような顔は、暗紅色に染められリアリティーのある像だ。
三輪山の麓、玄賓庵(げんぴんあん)の隠者玄賓僧都の坐像が、国宝館にあった。説明書によれば、玄賓僧都は興福寺の大僧都に推されたが、形だけの栄耀栄華を拒み、岡山の寺の住職となった。その後、三輪山山麓に玄賓庵と称する庵を築き、世俗を離れて隠棲した。
玄賓僧都坐像を見、過日訪れた玄賓庵の主玄賓僧都が、興福寺の僧であった事を知った。三輪山山麓の庵を訪ねた際には、偏屈な僧の印象を抱いていたが、玄賓庵を結んだ経緯を知り、私は玄賓僧都に惚れ込み、何時までも其の坐像の前に佇むのであった。
興福寺国宝館を後に、奈良町の街並、民家の探索路を行く。奈良公園を抜け、興福寺南円堂側の石段を降り、猿沢池の畔に(ほとり)歩を進める。猿沢池は有名な割には、その池畔を散策した事がなかった。
池畔から東北方を見上げた。興福寺五重塔が、池畔に伸びる樹木の緑葉の葉擦れに垣間見られる。曇り空のせいか、塔は靄の中に、灰色がかった空に溶け込むかのように佇んでいた。
その姿を見、全てが現れるより、薄靄の中に垣間見える塔の方が、閑雅な趣きを感ずるのであった。
猿沢池東端を、南北に走る車道を南に進む。右手に―ならまちセンター―がある。其処で奈良町の地図を手に入れ、先に進んだ。まだ風情のある街並は現れて来ないが、暫くして、東西に走る小道の両側に旧い街並が現れた。
其の一筋に歩を入れ、旧い街並をゆっくりと進む。町並保存修景デザインが、徐々に見られるようになる。今井町の寺内町ほど整然としてはいないが、それだけに生活の匂いを感じさせ、生きた保存方法が感じられる。
坂道を東に進み、右方に一際立派な長屋門が見えてきた。今西家書院である。長屋門の開かれた門の石畳に立ち、内を覗いた。門から真直に伸びた石畳が、土塀に突き当たる。左側には、軒を低くし、水平に軒瓦が奥に伸びる。その軒瓦のリズミカルな先端の連なりに細やかな印象を受ける。白壁が出っぱったり、凹んだりして、ほぼ一間おきに立つ柱が、変化ある壁面を構成する。足元廻りには、水捌けのための小さな水路が石組されてあり、肌理細かいデザイン感覚を感ずる。
土塀の内からは緑葉が覗き、書院の内外流動的空間を想像させる。石畳の右手には、緑葉をつけた樹木が二本立ち上がる。長屋門を額縁にし、このアプローチ空間を描き始めた。寺でも町家でも、アプローチ空間に接した時には、主の性格が垣間見られ興味深い。
今西家住宅前の坂道を進み、バス道路に出た。道路を挟んだ反対側に旧い風情のある街並が連なる。電柱の住居表示に、高畑町とあった。奈良町を過ぎ何時の間にか、高畑町に歩を進めたことになる。
幾つか角を折れ、坂道を上がった左手に細い路地があった。路地の両側には土塀が複雑に連なり閑静な佇だ。塀内からは、緑葉、紅葉が覗き、枝葉の間から大きな柿木が空間を支配する如く見え、オレンジ色の実を付けていた。其の先に、木造二階建の一見楼閣風に見える民家が立つ。もしかしたら志賀直哉旧宅かも知れない。路地は緩く左にカーブし、変化のある流動的空間だ。楼閣が構図として好い点景になり、直に小スケッチブックを取出し描き始めた。買物帰りの主婦に訊ねた。直哉旧宅はまだ先方で、楼閣風住居は個人の家らしい。今では塀を築く場合、直にブロック塀にする事が多いが、此様に土塀にし、頂に瓦をのせるだけでも外部空間に住む人の表情が現れ、風情ある光景になる。
楼閣風住宅の角を右に折れた。気の向くままに探索しているので、後で地図を広げ、どの様に歩いたのか擦(なぞ)ってみるが、自分でも分からない。歩く内に、右手に志賀直哉旧宅が、うねった土塀の中に見えてきた。
過日訪れた際には、中には入らなかった。今回は見学しようとしたが、生憎、木曜日は休館日で休みだ。現在、直哉旧宅は奈良女子大学セミナーとして使われている。
文豪の旧宅に相応しく邸内には樹木が生繁り、閑静な佇だ。木立ち越しに、瀟洒な二階建の旧宅が垣間見れる。
更に坂を上がる。右手路地の崩土塀が古色豊かで、思わずスケッチブックを取り出した。瓦が木端立(こばだて)に塀に塗り込められ、幾層もの黒い横筋を引いていた。どれひとつとして同じ形はなく、個性的である。瓦と瓦の間の土壁は深味のあるベージュ色で、こそげ落ちたり、凹んだりして歴史を感じさせる。とてもで無いが、最初からこの様な閑雅な佇の仕上げには出来ない。風雪を経た歳月のなせる技である。
細い路地をクランクして歩を進め、幾らか広い道に出た。道を挟んだ正面に、これ又、閑雅な趣きの崩土塀が現れる。先刻スケッチした土塀よりも、空間的拡がりを持つ。
連続した土塀には古風な門が穿たれ、さりげない感じである。まるで時代劇のセットを、生きた形で見ているかのようだ。塀の足元には、石組された結構深い水路が切られ、門の処には薄くて平らな石橋が架けられてある。
土塀には処々、竪筋、横筋が入ったり、崩れ掛けたりして味わい深い。土塀にのる軒瓦が、リズミカルな動きを見せ、塀に薄い陰を描くのである。
邸内からは緑葉を付けた樹木が覗き、緑葉の葉擦れに、母家の銀鼠色に輝く屋根が塀側に葺き降りるのが垣間見える。平に葺き降りているせいか、空間に拡がりを感ずる。瓦屋根の背後には、どんよりとした空があるだけで、他の人工的構築物は何も視野に入らない。左手には、落葉して枝だけ残した木立ちが立つ。道が幾らか右方に降り勾配のため、土塀は右になるに従い、背が高くなり変化ある空間だ。此処は是非とも描かねばならない。
私が描いている路地は、地元の人の生活道路らしく、幾人かの買物帰りの主婦が通り過ぎて行く。
描き終わって絵の道具を片付けていた。品のよい老婦人が、今、私が描いていた閑雅な門を引き入りかけた。私は咄嗟に、婦人の背に声をかけた。
「風情ある土塀ですね、余りに素晴らしいので、今描かせて頂きました」
婦人は振り返り、
「皆さんよく絵を描いていますよ。春日さんの社家だったんですよ。四百年前に造られました。ごゆっくりどうぞ・・・」
と云って婦人は門内に消えていった。暫くして、再び出て来られて、
「今、熱いお茶をお持ちしますから、待っていて下さいね。直にお持ちします」
私がペットボトルの烏龍茶を飲んでいたので、侘しそうに見えたのだろうか。
春日大社の社家と云う事は、以前は神職だった筈である。直に婦人は、円いお盆にお茶と和菓子をのせ、門から出て来た。私は左手の石垣の上にお盆を置き、遠慮なく頂いた。見知らぬ漂泊人に対する、格式のある社家の奥様の、親切に恐縮した一刻であった。
「今、お見せしたい物があるので、お待ちください」
婦人は再び門内に消えて行き、今度は絵皿を持って出て来た。私が描いていたのと同じ構図で、絵皿に紺色で社家の土塀が描かれてあった。
「以前ここをスケッチしていた人が、送って呉れたんですよ・・・」
婦人は、余り多くを語らない。四百年の風雪に耐えて来たお屋敷を見せて貰いたかったが、流石に其れは言い出せなかった。
表札に藤間家とあった。絵を抽象的に把えるのは、自分自身にその対象物の本質を理解する能力、そして感性がなければ描けない。
この四百年を経た藤間家の空間は、今将(まさ)に其処にある。崩土塀を始めとした外部空間を忠実に表現すれば、それ自体が絵画になり得る光景である。
上賀茂神社の社家錦部家、春日大社の社家藤間家と、現在でも当時の建築が、生きた形で残
っている。民家調査として、興味ある題材である。大学の卒業論文として取り上げるのも面白いのではなかろうか。
藤間家の門前から東方へ坂道を上る。この道は、両側に閑静な家が連なる旧い街並だ。右方に石垣を組み、その上に、土塀をのせた豪快な家が見えてきた。
自然石を積上げた石垣には緑葉が生え、石と緑葉が好く響きあっている。一瞬間、余りに立派なため寺の石垣かと思ったが、近付いて見ると、表札に―大田―と書かれてあり、個人の家であった。
登り坂の道は、僅かに左にカーブし変化のある道空間だ。大田家邸内から差し掛かる緑葉が、空間に穏やかな彩を添え、坂道は左手の紅葉、緑葉が入り混じった光景に溶け込んで行く。
坂道を更に進む。道はゴチャゴチャし、左斜めに進む道と、右方にクランクして進む不整形な道とも広場とも云えぬ処に出た。左の角には八百屋がある。そう云えば、過日この辺を探索した折に、この八百屋でミカンを買ったのを思い出した。
ゴチャゴチャした角を右に折れる。この道が又、素晴らしい道空間だ。左方に―福井の大師―と刻まれた石碑が山門脇に立つ。山門から、下部は石積された土塀が、雁行し連なって降る。塀内からは、緑葉を付けた枝が道に差し伸べられ、落葉し橙色の実だけを付けた柿木が、枯れた印象であり、好い点景だ。道の右方も落着いた街並を構成している。
降り勾配の道の向こうから数人の探索者が上がって来る。先方には、新薬師寺があるらしい。この道は奈良町のメイン探索ルートになっていたのである。
福井の大師前の道を降る。右手に新薬師寺の小さな山門が見えて来た。左手角には、崩土塀が閑雅な表情を現す。この道は以前訪れた際にも通った記憶がある。新薬師寺の山門はそれに連なる土塀面より、半間ほど出端って柱が立つ。山門が道に出て建つ。ベージュ色をした土塀から境内の枝葉が覗き、山門の屋根に差し伸べられている。
道の前方には、高い建物は見られない。先方には、民家が小さく見え、道は右方の土塀に吸い込まれ、上方には広々とした空が一面に拡がる長閑な風景である。
山門を通り越し、崩土塀の角に出た。土塀沿いを東に行けば、白豪寺への道だそうだ。崩土塀には、紅、緑、橙色をした蔦(つた)が、土塀上から這い下がり、足元から蔦が這い上がって伸び土塀に絡み付く。処々、土塀の小舞下地が剥き出し、ザラザラしたテクスチャーのベージュ色の土塀と彩豊かな蔦は、好く響き合うのである。
自然の土から造られた土塀は、境界を明確にするため、其の機能を果たし、今将に、其の役目を終え、自然の土に戻りつつある印象を持つ。そんな事を中の住人に云えば、
「お前は他国から来て、勝手に何を云っているのだ。土塀の中で俺達は、これからも生活をして行くのだ。感覚で物事を云うな」
などと、云われそうだ。併し、此様な土塀は道に豊かな表情を表し、街並の景観に好いエレメントを与える。傍らの店のおかみさんに訊ねた。
「土塀の中は、お寺さんではなく、普通の個人の家です。土塀の先方が崩れてトタンが被せてなければ、土塀が連続して好かったのにね」
土塀の背後には、山並が霞み、空と山端との境界が判然としない。山並はどんよりした空に溶け入り、土塀伝いの白豪寺への道は田園風景に吸込まれて行くのであった。
崩れ土塀の対面は、新薬師寺南門である。門前に小さな神社が二社ある。左手にある鏡神(かがみ)社は新薬師寺の鎮守として創建された。右方には比売(ひめ)神社がある。比売神社は、万葉の故事に詳しい郷土史家が、日本書紀等の文献により天武天皇の娘十市皇女の墓であると信じ、私財で建てた神社である。此処が―ヒメ塚―と呼ばれ、近くに十市皇女ゆかりの赤穂神社がある事から、十市皇女墓であると、割り出したらしい。
新薬師寺の南門の脇門を潜り、境内に足を踏み入れた。南門と一直線の軸線上に軽やかな甍を持つ端正な本堂が立つ。此の軸線上には、本堂に比べ、大きな燈籠が立ち、境内のよい点景である。
新薬師寺本堂は、小ぢんまりとした本堂だ。軒端の線は低く水平線が強調され、両脇で僅かに反りが付けられ気品が感じられる。正面に向かって穏やかに甍が葺き降ろされ、端正な本堂だ。正面から拝した時には、本堂両脇は緑葉で包まれ、一層、其の華麗さが強調されて現れていた。
妻側の入口から本堂に入る。小ぢんまりした本堂で、木組を剥き出した化粧?木がリズミカルに葺き降り、化粧?木相互の間は、白く漆喰で塗られ、?木と好く響き合っていた。
本堂屋根は入母屋造のため、南北面の天井では?木が登り、妻側の東西面でも?木が登る。内部空間を見れば、外部空間を彷彿とさせるデザインで、天平時代の朗らかな気風を感ずるのである。
歴史を感じさせる円柱が均等な間隔で立ち上がり、単純明快な内部空間だ。堂の中央部分には、円形の須弥壇が置かれ、須弥壇の端部に円く仏像が安置される。
正面中央に、本尊薬師如来坐像が安置され、本尊を中心にして左右に十二神将が、須弥壇の壇端に沿って円形に安置され、本尊薬師如来坐像を守るが如く取り巻く。
どの像も動きがあり興味ある造型だ。中でも達企羅(めいきら)大将は流動的である。左手を高く上げ、右手は腰に回された帯の下に添え、顔は吠えているかのような物凄い形相だ。体は僅かに曲らせ力強い印象を受ける。
かつて、新薬師寺本堂を訪ねた時の記憶では、堂内は埃っぽく、壁よりには雑然と、仏像が転がされて置かれ、まるで仏像の倉庫のような印象だった。今こうして本堂に身を置いて見るに、本堂は白壁も綺麗に塗られ、床に敷かれ、黒光りした敷瓦も清潔で、雑然とした印象はなく、簡素で奥床しく感じられる。併し、とても多くの国宝を安置した堂とは思えない。そこが又、自己主張が無くてよい。
寺伝によれば新薬師寺は、天平十九年(七四七)に聖武天皇眼病平癒祈願の為、勅願により光明皇后によって建立された。創建当初は、南都十大寺の一つに数えられ、境内には七堂伽藍の甍を連ね、僧一千人を擁したと記録にある。建立から三十三年後、西塔に落雷し、現本堂を遺し、全て焼亡した。
現本堂は創建当初は食堂(じきどう)であったらしい。七堂伽藍を擁した本堂にしては、本堂は小ぢんまりとした印象だ。南門、東門が、鎌倉時代に再建された事から推察するに、現伽藍配置は鎌倉時代に再構成されたと考えられる。
かって、新薬師寺を訪ねた時には、古美術愛好の若者が、数多く庫裡に宿泊していた記憶があった。其の事を堂守の年寄りに話す。
「昔も来られた事がありますか。今は観光客が、多くなりましたが、当時宿泊して下さった皆さんのお蔭で、此処までやって来れました。有難い事です」
と述べていた。堂守の年寄りは三十年ほど前から新薬師寺に勤めていたらしい。―新薬師寺の栞―によれば、現在も、古美術行脚者の宿泊が可能だ。庫裡の方に回り庭に出た。庭に面した座敷の緋毛氈にはテーブルが置かれてあり、そこで湯豆腐料理が食せるようだ。住職さんも、時代の流れに合わせ趣向を考えているように見えた。
かって歩いた境内を懐かしく思い起こし、再び本堂正面に立ち、本堂を描き始めた。千数百年連綿と、今ある位置に佇んでいたことを改めて再認識し、人間の思想が、形あるその姿に受け継がれているのをつくづく想う。本堂の姿に接する事により、天平の御代の人間の考え、姿を思い浮かべられる。人間の感性に訴える造型の重要性を想うのであった。
新薬師寺南門を潜り、来た道を帰る。来るときは登りであったが、帰りには降りになる家並を見下ろし、遥か彼方の街並を遠望する。同じ景観である筈なのに、登りの時に受けた印象とは異なる光景で、朗らかな気分になった。
奈良町の旧い街並を進み、近鉄奈良駅に出た。帰りの電車の車窓から、生駒山系に這い上がる家並が見えた。学生時代に泊まった生駒山中にひっそりと佇む千光寺、住職さんは、今も元気にしているだろうか。住職さん夫婦、それに四人の娘さんの家族であった。今考えると娘さん達は、山深い道を歩いて学校に通ったり、都会に出たのだろうか。そんな事を懐かしく思い出し、ぼんやりと車窓に流れる光景を眺めるのであった。
五ページに認めた、
ー実は、興福寺の僧兵が山田寺を攻め、山田寺の薬師如来像を奪って、興福寺に持って来てしまったと云う話だ。ところが、平安時代末期、平重衡の南都焼き打ちに合い、興福寺自体が焼亡してしまった。その時、山田寺薬師如来像の仏頭のみが、焼跡から掘り起こされ、現在の山田寺仏頭があるのである。ー
この件の歴史的事実について読者の方から貴重な意見を頂いた。それによると、
治承四年(一一八〇)十二月二十八日、平重衡の南都焼き討ちによって焼亡した東金堂は、直ぐに再建にかかり一一八二年に西金堂と共に上棟した。ところが肝心の本尊がなかった。そこで興福寺の僧兵は東金堂の本尊として安置するために、一一八七年に飛鳥の山田寺から薬師三尊像を奪ってきた。それが眼前の山田寺仏頭である。
東金堂が再建されて一七〇後の一三五六年、東金堂は再度焼失してしまった。十数年後再び東金堂は再建された。
凡そ五〇年後の応永一八年(一四一一)閏十月十五日、またもや東金堂は焼失、落雷による被災だった、という。その際に焼け落ちた薬師如来像の頭部が山田寺仏頭である、と言われている。
わずかに上方、彼岸を見詰め微笑を浮かべた山田寺仏頭、その表情からはそんな数奇な運命、歴史的事実を垣間見ることはできない。
人間の争いとは無縁にただ一点を見据え、ふくよかな顔を眼前に現した山田寺仏頭が脳裏の片隅を過ぎった。
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