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YKギャラリー YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。 |
1 西の京1―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵 | ||||
唐招提寺金堂 | 唐招提寺境内 | |||
薬師寺献茶会 | 薬師寺三重塔 | |||
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読後感想 山口佳延写生風景 絵と文 建築家・山口佳延 |
一 西の京1―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
大和路快速線を大阪方面から大和路に入り、車窓に広がる穏やかな風景を見ていた。法隆寺駅の辺から、彼方の濃い緑の山を背景に法隆寺五重塔が、民家の家並に浮かぶのが眼に入った。その姿はよほど注意して見なければ、見過ごしてしまいそうな位、家並に溶け込み目立たない姿である。
列車が法隆寺駅を過ぎ、塔はぐんぐん遠ざかり小さくなってゆき、やがて家並に溶け込んでいった。私はいつまでも五重塔を振り返って見つづけた。列車が大和郡山を過ぎ、奈良駅に近づいた辺で、田園風景の中に民家、ビルの混在した家並の向こうに二本の塔、薬師寺の東塔、西塔が眼に入った。よほど注意して見なければ気がつかない。
久し振りに訪ねた薬師寺は、西塔が再建されていた。西塔は宮大工西岡常一の作である。薬師寺の三重塔は、裳階(もこし)を付けているため一見、六重塔に見える。斑鳩の里で法隆寺五重塔、法
起寺三重塔と共に、斑鳩三塔と云われる法輪寺の三重塔も彼の作である。
かって渡辺保忠氏の建築史の講義で、西塔心柱の礎石に溜まった水面を東塔に向かって斜めに見ると、東塔が礎石の水面に映ると聴いたことを憶えている。学生時代に試してみたことがあったが、東塔が礎石の水面に映るまでその位置を捜すのは大変であった。その時には東塔が映るほどの水量もなく、話の種にと思い試したのだった。再建のなった西塔は朱色に染められていた。かつては金堂、講堂もかくあったのであろうと、天平の時代に想いをはせ、しばし塔の下に佇む。
金堂の前面に舞台を設け、献茶会がとり行われていた。右手に家元、左手に導師の僧侶が座り、金堂の内部では、数人の導師の僧侶が阿弥陀仏の周囲をゆっくりと廻っている。チベットのラマ教では、経蔵を一回転させると、全部の経典を読んだことになると云われ、それと似た教えなのだろう。
サウジアラビアのメッカのカーバ神殿でも、神殿の中庭にある石の周りを、多数の信者が波うつごとく渦まいているのを写真で見たことがある。お百度参りは古今東西同じなのであろう。
舞台の周囲の椅子席には、名取の先生方が座り、そのまわりを一般の見物人が多数とりまいている。寺でこのような儀式も行われるのかと伝統の深みを感じる光景であった。荘厳な金堂、
そして新緑の若葉を背景に、僧侶の紫の袈裟、舞台を取り巻く人達の衣裳、赤、青、黄、そして白とその彩が印象的であった。東塔の真下から、その斗?木組を手に取るように見ることができる。
深い庇を支えるため幾重にも持ち出された斗?、庇の屋根の重さを、フレームに入った屋根の重さでバランスを計っている。力学的に力の流れを考えて組まれた飛燕?木(ひえんだるき)、尾?木(おだるき)等の一本一本の材料が生きているように空中に舞う。深い軒端に配された斗?木組が、それぞれ意味のある使われ方をしているのが、建築史の専門家ではない私でも分かる。黒ずんだ木肌に数百年の風雪、そして地震に耐えてきた重みと、幾多の人間の歴史を見てきた深みを感ずる。
西塔がまだ再建されていなかった三十年前に薬師寺西方の大池を前景に、彼方の緑の木々に金堂、塔の甍がひっそりと浮かぶのを眺め大変、感動したことがあった。ぜひともその場所に行こうと、薬師寺の中門を出、廻廊沿いを西に歩いてゆく。
地図をたよりに地元の人に訊きながら、人家の問道を縫って十分ほど歩き、それらしき池の土手にぶつかった。見上げた処の高い土手の藪の狭い空地でスケッチをしている人がいた。歩いてきた方向を振り返った。薬師寺の三重塔が緑葉の海に浮かんでいた。土手の上ならさらに良い眺めだろうと、藪こぎして登ろうとしたが、私が探しているのは池が前面にあるところであると思い返し、土手の端を遠回りしてゆくことにした。
ゆるい坂道を車道に出、暫く進んで、池のさざ波が眼に入った。遙か遠方に塔がひっそりと佇む。塔を望みながらしばらく歩き、塔が正面に見える場所に出た。そこにはカメラを持った人が数人いた。道を挟んだ対面側には桜が満開に咲き誇っていた。池の降り気味の土手との間にはガードレールが白色の筋を描き、土手には勝手に入れない。思ったより、頻繁(ひんぱん)に車が行き交う道である。
この道は三十年前には砂利道で、車の通行も殆どなく、道から自然に溜池の土手に入れた。溜池越しに薬師寺の堂塔、左から金堂、西塔そして東塔の相輪が木々の間に見え隠れする。背後には若草山がなだらかな稜線を描き、霞んで見える。一部白茶けて見えるところは山焼きの跡だそうだ、山焼きの頃も風情のある眺めであろう。
瓦屋根が鈍い光を放つ部分と、暗く沈んだ部分、そして塔、金堂の軒下の濃い影の部分が、木々の濃い緑と調和し、自然と同化した光景である。柱は樹木、瓦は土を原料として作られる。自然に産出するものを建築材料として加工し、構築しているため、自然と一体的な光景になるのであろう。
近代建築はインターナショナルスタイルであることが多いが、旧い建築には風土、構法からくる地域性がある。薬師寺の周辺には木造二階建が多く、金堂、塔の手前には緑のベルトを間に介して伽藍の規模に対し、程よいスケール感をもって民家の家並が連続している。三重塔を中心にした光景はバロック音楽を奏(かな)でているような印象であった。
薬師寺の西方、大池から近鉄橿原線の踏切を越え、近道して唐招提寺に向かおうとしたところ、薬師寺三重塔が間近に望める、来た道に戻ってしまった。大池に行く時は塔が常に後ろにあった。今度は、塔を前に見ながら民家の間を歩くことになり、得した気持になった。
民家の間道を抜け、直に正面に唐招提寺の西脇門が見える道に出た。脇門と云うだけに小ぢんまりした門であった。道の両側には旧い民家が立ち並び、瓦屋根の連なりにはリズムがあり、唐招提寺への道に相応しい空間であった。
西脇門には低い土塀が左右に連なる。背後の境内には、新緑の鮮かな若葉があふれ、薄い褐色の旧い土塀や銀色の瓦が古色豊かな空間を構成している、ひとつひとつの空間要素を眼前にして、思わず天平の時代に迷い込んでしまったのでは、と心地好い眩暈を感ずるのであった。
長い歴史のうちに自然と人間の造り出した建築、都市が、天平の朗らかなハーモニーを現している。西脇門のスケッチを見ていた時、ハイドンのセレナードが流れてきた。空間の響きに
交響曲の音階せえも感じるのであった。
西脇門を右方に折れ、土塀伝いに歩けば、直に南大門だ。南大門の向こうには、金堂が昔と変わらぬ佇で、参拝客を迎えるのであった。
アプローチの両側は木立ちの緑葉で蔽われ、枝葉が参拝客を包み込むかのように、参道に差し掛かっていた。
金堂の柱はギリシアのパルテノン神殿に見られるエンタシスになり、軟らかい印象を受ける。地上から軒までの高さに比べ、屋根の背が高く、見上げてもそれを感じる程だ。
学生の頃、唐招提寺の建築図集を見て、金堂の屋根の面積の大きいのに驚いた憶えがあった。人間の眼は下から見上げるため、上方の部位は蹴られて小さく見える。ところが、立面図は正面に立って描くことになり、実際の高さになる訳で、見上げた場合と比べ、面積が大きくなるのである。
寄棟屋根の両端に鳥の尾のような形をした鴟尾(しび)がのせられ、棟の水平性を天空へと導き、空間に流動感を醸し出す。スケールの大きな屋根だが、威圧感はなく、人を受け止める海のようである。
南大門から金堂までの参道の距離も、適度なスケールなのかも知れない。正面は奥行一間、
横に長くピロティになっているため、深みがあり金堂に色濃く陰を落とし、参拝客を包み込むかのようだ。南大門の下で、天平の時代の気分に浸りながらスケッチを始めた。
唐招提寺金堂の円みを帯びたエンタシスの柱の前で歌人会津八一は、
おほてら の まろき はしら の つきかげ を
つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ
と詠んだ。会津八一は号を秋艸道人と(しゅうそうどうじん)称し、早稲田大学文学部で教鞭を執っていた頃、奈良国立博物館前にあった旅館日吉館に泊り、大和路を歩き、数多くの歌を詠んだ
私の恩師、渡辺保忠教授は会津八一の講義を受けたことがあった。美学の講義の際に、先生は眼を閉じ、石臼を挽くかのように左手で臼の心棒を支え、右手で把手を持ち円く回すような恰好で、緩っくり右手を回転させるのであった。手を回す動作が、唐招提寺金堂の円柱を表現しているのである。
先生は手を回しながら、陶酔し切った様子で、
「おほてら の まろき ・・・・」
と朗々と吟じるのであった。会津八一もそうして講義をしたらしい。渡辺保忠教授の講義を通し、歌人会津八一の片鱗に触れた一駒であった。
唐招提寺の境内は樹相が豊富で、平地に立つ寺院にしては、珍しく多くの緑葉に包まれている。金堂と講堂の間の空間には、玉砂利が敷き詰められ、そこだけはエアーポケットのような人工的環境である。
境内の通路には、民家の間道のような庶民的な気安さを感ずる。寺域の北西にある本坊蔵松院が面する道には、前面に植え込みのある土塀があり、内から立ち上がった樹木の緑葉が道に差し掛かり、もう一方の側には、満開の桜花を付けた枝葉が道に差し伸べられ、おゝらかだが、閑寂で緊張感のある禁欲的空間に、艶やかな彩を現している。寺域全体が北に上り勾配のため、道の両側に微妙に変化のある景観をつくり出すのであった。
土塀伝いの左手に御影堂が見える。興福寺一乗院の宸殿を移築したものだ。此処に、日本画家・東山魁夷の障壁画と乾漆造鑑真和上坐像が安置されている筈だが、残念なことに一般公開はされていない。
樹木の生繁った鑑真和上御廟、新宝蔵を抜け、東室と礼堂の間のピロティを潜ったところは、開放的空間であった。右手に南北に長い東室が伸び、正面の石段の頂には、旧開山堂の入母屋造の瓦屋根が木立ちの間に覗く。
開山堂へ通ずる古色豊かな石段、左手の御影堂への道に出るゆるやかな石段、それらに差し掛かる枝葉、空間を構成するひとつひとつの要素がさりげなく佇み、全体の空間となって響き合う。今私がスケッチをしている場所は明るく開放的である。薄暗い空間から明るく開けた空間、その構成は心憎い許りだ。
唐招提寺から、のどかな田園風景の中を、垂仁(すいにん)天皇陵に向かう。午後も、陽が落ち、行き交う人も少ない道には、物悲しい風が吹き抜け、時々、レンタサイクルの観光客とすれ違うのみだ。昔は田圃道だったような道を、親子連れがノンビリと歩いていた。
そんな田圃の拡がりの中に、こんもりと松が生繁った小丘、垂仁天皇陵が見えて来た。遠方からは、石の鳥居、監視小屋が田圃より一段高い処に、小さく霞んで見える。
旧い田圃道の際で、スケッチをする。描きながら、生まれ育った武蔵野の原風景を思い起こす。スケッチのあと、近道しようと、畔道に足を踏み入れた。性格上いつも、人と異なる行動を仕勝である。どうせ歩くなら気に入ったところと思うのであった。時々、行き止まりになっ
たりして、きた道に引き返すこともあった。今回は無事、御陵の監視小屋のある広場の下まで辿り着いた。ところが、植込みに簡易なフェンスが設置されていた。隅の方に、人が乗り越えた踏跡があった。それでは私もと、フェンスを乗り越え鳥居のある広場に出た。
天皇陵は幾つか見たが、どの御陵も鬱蒼とした林で蔽われ、時間が静止したような印象を受けたのを憶えている。今まで見てきた天皇陵では、玉砂利の敷き詰められた前庭には、監視小屋と鳥居があり、鳥居の背後には樹木に蔽われた小丘が、静かな佇を感じさせてあった。
垂仁天皇陵は周囲に濠をめぐらし、満々と水を湛(たた)えている。周囲の地形を考えるに、濠を掘った残土を積み上げ、墳丘を築いたと思われる。水は東方の秋篠川から引いたのか、溜まり水なのか、いずれにしても大土木工事だったであろう。
独立した前方後円墳の墳丘を見、中の石室はどうなっているのか、盗掘はなかったのだろうかと思い巡らす。
エジプトのピラミッドは、東方のわれらの有機的な御陵とは、正反対で、無機的な大石造構築物だ。間近に見るピラミッドの、表面は思ったよりも荒削りで、石が階段状に積み上げられているため、登ることが可能である。
ファラオの石室へは、内部の狭い通路を通って、登ることができる。数ヶ所、関門はあったようだ。ピラミッドでも盗掘は頻繁(ひんぱん)にあった。
盗掘を避けるため、ナイル川のほとり、テーベの王家の谷の山腹に、目立たぬように横穴を掘って石室を造った。
そんな一つ、ツタン・カーメンの王墓を訪ねたことがあった。とても王家の墓とは想像もつかない崩れかかった山腹に、その入口はあった。
入口を入って、巾二メートル程の、ゆるい階段で降って行く。両側の壁には、エンジ色で王家の葬列が描かれ、それは数千年、経過しているとは思えないほど、鮮かな色であった。 玄室―ファラオの墓が安置されている室―に近付くにつれ、その時、私一人だったため、荘厳な空間に圧倒され、ファラオの護衛の近習がどこからともなく現れ、身柄を拘束されるのでは、と恐ろしい錯覚に陥った。
幾つか、階段を折れ、思ったより狭く、天井高も二メートル程の玄室に出る。玄室は岩を刳り貫いて造られ、壁にはエンジ色で葬列が描かれてあった。横長の玄室の真中に、石棺が数千年の時を刻んで、静謐(せいひつ)に安置されてあった。
王家の谷には幾多のファラオの王墓があったが、かなりの数の王墓が盗掘された。黄金のマスクが発見されたツタン・カーメンの王墓は、盗掘を免れた数少ない王墓のひとつであった。
エジプトのファラオの悲劇的ではあるが、豪華絢爛たる文化、そして日本の天皇の縄文的文化、両文化を想いながら、松の生繁った墳丘、垂仁天皇陵の濠端を、ひとり緩っくりと歩いて行った。
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