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2 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺 おすすめサイト
YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
浄瑠璃寺山門 浄瑠璃寺本堂
当尾地蔵 岩船寺五輪塔
大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町
十三
大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
 
 大阪から浄瑠璃寺への入口駅である賀茂駅へは、大和路快速線が朝方、数本出ている。乗り継ぎがスムーズでなければ、浄瑠璃寺へのバスを二時間も待たねばならない。
 私が学生の頃は大阪から奈良への関西本線の便数は少なく、時刻表を見て計画した記憶がある。
 加茂から浄瑠璃寺までの直行便のバスには、間に合わず、県道を走るバスを浄瑠璃寺口で捨て、浄瑠璃寺への道をのんびりと歩いて行った。
 当時この浄瑠璃寺口からの道は林に囲まれ、山奥の印象だった。今は、浄瑠璃寺への道はアスファルト舗装され、道巾も六メートルほどあり、両側には、ところどころ人家もあり、思ったより開放的で明るい道になっていた。
 始めて、この道を友人と歩いた時には、この浄瑠璃寺への道は細い砂利道で、両側には木が
生繁っていた。この先に、眼指す寺があるのだろうかと不安な気持で歩いた。
 浄瑠璃寺まで四十分ほどの道程だが、当時、三時間ほどあるいたような憶えがある。人間の記憶など、あてにならない。それだけ山奥の寺で、奥深く分け行ったという事であろう。
 飛騨高山の近くの合掌造の村、加須良部落への道と、浄瑠璃寺への道とは、似た印象の道だった。この二つの道の印象が重なり合い錯覚に陥っていた。三時間かゝったのは加須良部落への道かも知れない。いずれにしても似たアプローチだ。
 途中、アスファルト道路が、田圃を囲むように大きく湾曲し、山の縁にリニアーに形成された集落の端部に、微かに白く見えた。田圃、板塀の集落、そして背後の濃緑の山が織りなす変化のある景観だ。
 例によって近道しようと、アスファルト道路から田圃の畔道に足を踏み入れた。車は通らないし、土の柔らかな感触に浄瑠璃寺の優しさを想いながら、心地好い春風を身に受けて畔道を歩く。
 小川に、掛かる丸木橋を渡って人家の下を通る道に出た。丁度そこで、アスファルト道路は山に入る道と別れる。山に入る道をとれば、浄瑠璃寺への道だ。
 山道を十五分ほど歩いて当尾の里に出た。名勝史跡浄瑠璃寺庭園の石碑が眼に入る。生垣に両側から、色取りどりの木が重なりあう。石造の巾の狭い水路を持った石畳の参道の正面に、小ぢんまりと山門が佇む。五段の石段で一メートルほど高い処に、山門は立つ。
 両側には土塀が連なり、塀越しに樹木の青々とした葉が覗く。門内には、浄土ヶ池の周りの樹木の枝葉が萌黄色(もえぎいろ)に彩られ、手前には、満開の桜が山門の瓦屋根を優しく包み込んでいる。背後の山は思ったより低く、薄紫色に優しい姿を現し、群青色の空が印象的だ。
 素朴で朗らかな当尾の里人の人柄に接しているような風景だ。山門を石碑の傍らから描くが、参道の奥行きに対し、山門が小さくなり過ぎた。帰りがけに振り返って、もう少し近くで、山門を中心に据え、もう一枚スケッチをした。参拝客の男が、此処からが一番よい構図で皆さん写真をとったり、絵を描いていると話していた。
 
 山門を潜って、直、木立ちに囲まれた浄土ヶ池が新緑の枝葉の葉擦れに水面を現す。池の周囲を廻遊できるように小道がつけられ、池畔には灌木が植えられ、濃緑色の鏡のような水面に新緑の若葉を映す。南側の小島には小さな祠が祀られている。
 池は不整形な円みを帯び、枝振りのよい松の枝葉が池に差しのべられ、山里の寺らしい落着いた浄土式庭園に相応しい池である。
 山の頂に近い境内には池を挟み東西に堂塔がある。西側に本堂が緑林を背にし池に正面を向けて佇む。東側には、四メートルほど石段で上った処に、木立ちに囲まれ朱色の三重塔が、本堂に対峙して立つ。塔の最上層の屋根に差し掛かる桜花が人の心を和ませる。周囲の樹木のスカイラインも、小ぢんまりとした寺とよく調和している。
 池畔の細道を右から左回りに歩き本堂の前に出た。此処から見る三重塔は、端正で美しい。三重塔は高いところに立っているため、遠方から拝すると、塔の全体が望め、実際の位置よりも手前にあるような効果をだしている。
 三重塔は桧皮葺(ひわだぶき)の屋根をのせ、軒端はやさしい曲線を描く。平安末、京都の一条大宮から移築された塔であり、薬師仏が一層目に安置される。意識的に石段の頂に立てられたのだろうか。空間に流動性があって朗らかな印象である。
 本堂は、あとで見学することにして、まずは庭園を廻ることにした。本堂のはずれで、池畔の道と、三重塔への登り道に分かれる。眼下に静かな水面を現した池を望みながら、木立ちの間を登る。直に三重塔が緑葉の葉擦れに見え隠れしてくる。そう云えば下から見上げたとき、塔の前でスケッチをする男を見かけた。
 塔の前庭に据えられたベンチに座り、スケッチブックを持った件の(くだん)男が、弁当を拡げていた。
昼刻だったので私も男の隣で弁当を拡げた。彼の絵はボールペンで、細部に至るまで克明に描いてあった。
 私もかっては建築物を克明に描いていた時期があった。男は年の頃、六十才前後か、多分、設計関係の人だろうと思いながら、浄瑠璃寺の今昔を聴いた。話すうちに思った通り男は近在の建築関係の人で本堂を描くのに三日ほど費やしているらしい。
 男は仏画の模写を、ボールペンと色鉛筆で克明に仕上げ、寺院に寄贈等もしているらしい。本堂の絵は見応えがあるものであった。性格上、省略できないらしく、短時間でサラッと描くのは苦手のようだ。
 そろそろ私も描こうと思い、男と別れて石段を降り、池を前景に本堂のスケッチを始めた。浄瑠璃寺には、九体の阿弥陀如来像が安置されているところから、別名、九体寺と云われる。かつては日本全国に数多くあったが、現在では、こゝ浄瑠璃寺だけに遺っている。
 今日は障子が閉められ、外から阿弥陀如来を拝することはできない。桁行十一間の柱間から九体の阿弥陀如来坐像の姿を思い浮かべる。障子が開放された際には、各柱間に見える九体の阿弥陀如来像の宗教的な御姿は、宗教的で、極楽浄土の体現となるに違いない。
 ゆるやかなカーブを描き、銀色に輝いて水平に長く伸びる寄棟屋根、背後に織りなす木立ち、樹幹越しに透けて見える空、平地と山の付け根に、浄瑠璃寺はあるがまゝの形で立っている。
 こゝで大和路を、こよなく愛した会津八一が詠んだ南京新唱ー浄瑠璃寺にてーを思い浮かべる。
 
 じゃうるり の な を なつかしみ みゆき ふる 
 
               はる の やまべ を ひとり ゆく なり
 
 描いている処は、本堂を正面に見る場所だ。水面に投影されて水紋に揺れる阿弥陀堂、浄土の世界に吸い込まれてゆくような錯覚を憶えた。
 池を一周して、山門に戻り、再び廻る。本堂の前の池畔で、住職さんが草花の手入れをしていた。その傍(かたわ)らで、暫(しばら)く美しい三重塔に見とれる。
 「本堂の仏像、見る価値あるかしら」との、若い女性の声が聴こえた。都会の女の声は聴こえないかのように、住職さんは、もくもくと草むしり、私は三重塔を描いていた。以前、訪れた薬師寺の三重塔は、青空に華麗なシルエットを描いていた。一方、浄瑠璃寺の三重塔は緑を背景に、ひっそりと佇んでいた。
 阿弥陀堂の妻側から本堂に足を踏み入れた。天井が低く、奥に長い本堂に、九体阿弥陀仏が台座の上に安置され、金色に輝いていた。通路側の天井は寺院のわりには低く、三メートルほどである。
 内陣の天井は屋根の勾配なりに登る化粧?木が剥きでた切妻型天井で、黒光りした梁がかけられている。黒光りした化粧?木と、?木と?木の隙間に塗られた白い漆喰とのコントラストが印象的だ。九体の阿弥陀如来像が一列に並び、東方の苑池を挟んで立つ三重塔に安置されている薬師仏に対峙する姿は、壮観である。
 東方の薬師仏に遺送され、煩悩(ぼんのう)の河を越えて彼岸の阿弥陀仏に迎えられ、西方浄土に至る構図が建築化され、手に取るように明確だ。理論の視覚化がなされ、分かりやすい。寄木造で漆箔を施した中尊をスケッチする。観光客も少なく、静かなお堂だ。去り難い気持でいつまでも阿弥陀仏の前に佇んでいた。

浄瑠璃寺三重塔 岩船寺三重塔

 浄瑠璃寺から岩船寺への途々には、無人の野菜、漬物売小屋が幾つかあって、百円を空き缶に入れるようになっている。私も、一人暮らしの娘にと漬物を買う。
 この販売方法は、現在では一般的になって、どこの観光地でも、よく見かける。聞くところによれば、当尾の里の青年団が、少しでも活動資金を念出しようと始めたとの事だ。この地が、日本で最初に、この販売方法を考え出したのであろう。
 以前は、もっと素朴な感じだったように思う。持ってゆかれないのかと、友人と人事(ひとごと)ながら、心配した記憶がある。村人の素朴な人柄に、思わず顔が綻ん(ほころ)だ。
 車道を降って、直に山道と別れる。右方に曲がれば、林の中に山道が延び、岩船寺まで歩いて三十分だ。この一帯は石仏の道と云われるほど石仏が路傍に点在する。数多くの石仏が鎌倉時代に彫られたのである。
 嘗て(かつ)は狭い山道で行き交う人も少なかったが、最近では、山道はよく整備され明るい。ポピュラーなハイキングコースになっているようで、数人の石仏巡りグループに行き会った。
 上部を灌木で蔽われ、一面だけを表に現した巨石があった。内陣をイメージして、岩面を一段浅く縁取りし、地蔵菩薩像が彫られていた。何とも野趣豊かで、微笑ましい石仏である。石仏の前には、花入れもあり、草花が生けてあった。 峻厳なアルプスの山もよいが、山の辺の人間の息吹を感ずる道も、ホッとした気持にさせて呉れる。                降り道になり、三差路に出た。右手、登り坂の石段の頂に、古風な山門が眼に入った。岩船寺だ。山門右手の受付に初老の男がいた。男は昔の岩船寺についても詳しく知っていた。
 男の話によると、先代の住職さんは既に亡く、息子さんの代で、お孫さんが副住職で活躍しているらしい。庫裡の方から、子供の元気な声が聴こえた。先代の奥様は三年前に亡くなられたらしい。
 始めて岩船寺を訪れた時は、まだ本堂は旧いまゝで、見るからに崩れそうで、雨漏りもしそうであった。奥さんは普通の農家のおばさんのようで、親しみのある方であった。寺は崩れかゝっていたが、数十人の若い参拝客―私も今は愛知工業大学の教授をしている、尾形君と一緒だった―を前に、お茶を若者に振る舞い、いかにも楽しそうに、本堂建替えの夢を話していたのが思い出される。その時、奥さんに勧められた茶菓子落雁(らくがん)の味を今でもよく憶えていて、大和の寺々を思い起こす際に、その情景が脳裡を過(よぎ)ぎるのである。
 江戸時代初期、文了律師によって建てられた本堂は、昭和六十三年に再建された。山門を潜って正面の石段の頂に三重塔の端正な姿が眼に入った。
 浄瑠璃寺三重塔は軸組部を光明丹で朱色に塗ってあった。岩船寺の塔は塗りものが剥げたのか、当初から塗ってなかったのか分からないが軸組部は素地のまゝで趣きがある。背後の鬱蒼とした林に同化し、古色豊かである。満開の桜花が野趣に富んだ景観に、一点の華やかさを添えていた。
 境内は三方を山に囲まれ小ぢんまりとしている。一段高い塔の手前は苑池である。花の季節には、桜、つゝじ、紫陽花、睡蓮、紅葉と色取どりの花が咲く。関西花の寺霊場第十五番札所と云われる所以である。
 
 右手には再建された本堂、左手には、十三重石塔、五輪塔、石室不動明王立像が並んでいる。池際の草木を右に見、苑池の周りを三重塔へ向かう。塔の正面の軸線に対し僅かに左に擦れ、石段がある。石段を上って、塔の前庭に出る。
 間近に見る三重塔は、数百年、風雨に晒(さら)され、木肌には年輪が浮き出てヒビ割れ、木組の部分は少々、口があいている。これから二十年位は問題はないだろうが、数百年、今の姿の状態を保つには、朱色で光明丹を塗り保護膜をつくる必要がある。
 三方を山で囲まれ、かつ塔の背後には山が迫っているため、風通しが悪く、湿気の多い土地である。いまのまゝの方が、歴史を感じさせ印象的であるのだが・・・。
 塔の横から貝吹岩への道を行く。木立ちの中を歩いて五分ほどの処に貝吹岩はある。岩船寺は最盛期には境内に三十九の坊舎があった。山岳寺のため連絡事がある際は、各坊舎を廻るのは大変であった、見晴らしがよく、音もよく吹き通る貝吹岩で、法螺貝(ほらがい)を吹き、各坊舎の僧の集合を計った。
 貝吹岩の辺からは、確かに見晴らしがよい。今では見渡す山は、樹木の緑葉で蔽われている。かつては全山に亘り坊舎が分散し、甍の波はさぞ美しかったであろう。来た道を引き返す。先方に広場が見えてきた。広場の片隅に小さな神社があった。岩船寺伽藍守護の白山神社だ。
 町の土木課の職員が、排水溝でも造るのか、三人で測量をしている最中であった。一人は女性である。土木にも女性の進出が多くあると聴いてはいた。
 山門前に戻り、本堂の脇で、苑池ごしに三重塔を描く。筆を走らせながら紅葉の頃も、さぞかし見応えのある眺望だろうなどと思うのであった。池の小島に立ち上がる小さく、枝振りのよい一本松が空間を引き締めている。描いている間、庫裡の方から元気な子供の声が聴こえてきた。
 本堂では、若い副住職さんがお子さんの遊び相手をしていた。家族的な寺だ。欅造の阿弥陀如来坐像の周りには持国天、増長天、広目天、多聞天、四天王像が東西南北に安置され、簡素な感じだ。先代の奥様のご苦労が偲ばれる寺であった。
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