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4 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺 おすすめサイト
YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
桜井の民家 稚桜神社
橘寺遠望 左 橘寺遠望 右
大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町
十三
大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
 
 桜井から飛鳥への道は、旧い集落が丘沿いの道に、点在しているイメージである。私はいつも始めての町や村を訪ねる際、歴史的景観、洗練された近代的デザインを期待して歩く。期待するというよりもそれを確信している。少なくとも線的にはなくとも、点で期待するものがあれば満足である。
 桜井は、思ったより大きな町だ。駅近辺にはビルが立ち並ぶ。最近は、どこの町に行っても広く立派な道路が計画されている。
 駅から十五分ほど歩いて、広い上り坂の道路の際に、安倍文殊院の看板が眼に入った。道路の両側は林で、散策するには殺風景な感じの処であった。坂道を右に折れれば安倍文殊院だ。
 智恵を授ける安倍の文殊さんと云われる。本尊文殊菩薩像は、天橋立の切戸の文殊、山形県亀岡の文殊と共に、日本三文殊と云われる菩薩像である。
 境内の文殊池の周囲の土手の桜が満開だ。池の中に、阿倍仲麻呂を祀る金閣浮御堂が立つ。鉄筋コンクリート造で、歴史的空間の中では、異和感のある形であった。
 寺域全体が公園風に計画され、私が訪ねた時は、彼方此方(あちこち)で家族連れの花見客が、弁当を拡げていた。
 境内を通り抜け小さな裏口から出、一路飛鳥へと向かう。車道を行けば、迷わないだろうが、つい遠廻りでも細い畔道に足が向く。
 田圃は直に棚田に変わる。この辺は小丘陵、古墳が多い。暫く歩いて丘沿いの道と、林の中に入る道に分かれる。 農作業中の農婦が仕事の手を休め、訝(いぶか)しそうにこちらを見ている。
 飛鳥は丘の向こうだろうと、丘越えの道を進む。なだらかな丘の道を登ったり降ったりするうちに、左方に農家のある、平らな所に出た。棚田の下の方に、時々、小さな車が走る道が見えた。竹藪の側の斜面を降り小道に出た。
 斯様な空間で、農作業をしながら晴耕雨読三昧、歴史ある山々を眺め、生活ができたらなどと、何気なく考えながら歩く。
 まだ高校生の頃、美術評論家坂崎乙郎先生のドイツ語の授業があった。美術評論家が何故ドイツ語の先生に、と思うであろう。先生は海外生活が長く、ドイツ語が堪能だったのである。学生に人気があり、授業時間の後半になると、
 「先生、外国の話、お願いします」
 今まで本に眼を落としていた先生は、徐に(おもむろ)誰を見るともなく、顔を上げる。別のことを考えているような表情だ。学生が再度、
 「外国の話、して下さい」
 先生は、ニッコリとして本を閉じ、軽く眼鏡に触れる仕草をし、ゆっくりと語り始める。教訓を垂れる訳でもなく、ただ淡々と語るだけである。
 そんな坂崎先生の話の一つに、地中海に面した国、レバノンでの少年との出会いの話がある。
 「ヨーロッパから日本への帰り、中近東のレバノンのパール・バックの神殿を見たが、悠久の歴史を感じました。夕方、人気(ひとけ)のない海岸で、太陽が地中海に沈むのを見た。海が赤く輝き、それがすばらしいんだなあ。少年が一人、私にどこから来たのか訊いたんだが、少年が僕も日本へ行ってみたい。と目を輝かしているんだなあ。私は何もいらないから、此処で毎日、海に沈む太陽を見て過ごせたらどんなに素晴らしいだろうかと、少年の目を見て云いました。その時、私は少年と立場を替え、ずっとそこに住めたら、と本当に思いました」
 先生の外国での体験談は、毎週聴いていたが、この地中海の海岸での少年との出会いの話だけは、今でもよく憶えている。
 休日登山の際、山から下り、平凡な里道を歩いている時、しばしば先生のこの話を思い出すことがある。
 
 民家の間のアスファルト道を、暫く歩いて行った。道が拡がり、先の方は狭くなる開放的場所に出た。右手には一際立派な板塀に囲まれた民家が立つ。板塀は長く続き、道がクランクしたところに、赤い土塀が覗く。
 いかにも旧家といった印象だ。板塀下に切られた水路が空間に緊張感を醸し出す。左方には小高い山がある。全山樹木の緑葉で蔽われ、右方の黒板塀との対比が面白い。
 道のアルコーブの五段ほどの石段を上った処に鳥居が立つ。石段の手前には―稚桜神(わかざくら)社―の石碑が立つ。
 私が知る限り、神社の参道は、道の突き当たりか、道に対して直角にある。稚桜神社は道に
平行に石段があり、親しみが持てる空間を演出する。舞台的空間である。
 板塀際で、スケッチを始めた。四十絡みの男が、如何にも町の歴史を説明しましょう、といった感じで奥の赤い土塀の方から近付いてきた。
 男の話によれば、板塀の家の主は江戸時代、回船問屋で財をなし、城主に金子を貸し付けるほどの富豪だったらしい。お金の担保にとった土地は広大で、取城まで自から所有する土地の中を歩いて行けるほどであったと云う。   
 東京でも、たまに駅まで、他人の土地を通らずに、行けるほどの大地主だった人の話を聴いた事がある。まさに城まで他人の土地を通らないで行けた訳だ。
 今では板塀の中は畑になっているらしいが、以前は赤土塀の棟続きの立派な家が立ち、大層、見映えのする庭があったとの事だ。現在も近郷では大きな家らしい。ちなみに当主は、〇〇銀行の監査役という話である。
 神社の本殿は、一九九八年の台風で破損し、補修費一〇〇〇万円が未だに集まらず、男は困っている様子だった。
 
 鳥居脇を左に見、さらに進む。先刻の赤土塀の一角は、道からの引込路が中庭風になっていた。路地の三方には、瓦屋根が複雑に織り重なり、立派な門、出窓等が空間要素として路地にその表情を現す。
 路地の隅に伸びた灌木の緑葉、壁際の草花が空間に彩を沿え、瓦屋根越しに覗く木立ちが、
塀の中の有機的な空間を連想させる。一見、統一感のないアノニマスな美しさがある。家運の隆盛と共に、次から次に建築され、現在の姿になったのであろう。
 稚桜神社の山林の木立ちを左手に見、アスファルト道路を進む。田園風景、民家の間を抜け、部落の集落に入って行く道と、右方に折れる三差路に出た。丁度、角に座るのに都合の良い石があった。かなり歩いてきて流石に疲れた。石に腰を下ろし小休止する。
 まだ春も早く、畑には茶褐色の土が覗く。畑が途切れた処に、白壁の土塀が横に伸びていた。土塀の端は灌木の緑葉に溶け入って見えない。手前の方に咲き誇る桜花に早春の空気を感ずる。
 土塀越しに、切妻屋根の母屋が見える。ゆるい勾配の瓦屋根で、棟押えが立派な安定感のある民家である。この家が集落の入口らしく、道が土塀の端に吸い込まれるように走る。
 道の反対側には土蔵が立つ。土蔵は、土塀と緊張感のある空間を構成している。集落の背後は林の連続で、新緑の淡い緑葉が早春の陽光をうけ眼に眩しい。多分、集落はリニアーに道路沿いに連なっているのだろう。そちらは飛鳥地方とは方向が違いそうだ。三差路からスケッチをし集落の遠望を愉しむ。
 三十分ほど休憩して三差路を右方に折れ、明日香村への道を行く。民家の間道を抜け、新しい立派なアスファルト道路に出た。平日のためか、車はほとんど通らない。
 両側が田園風景の処に、突然、幅員数十メートルの道路、歴史的景観を楽しみながら歩く者にとって違和感のある光景だ。自動車利用者にとっては、さぞかし便利なことだろうが。
 暫くすると、右方に―万葉の森スポーツセンター―の大きな標識が目に入った。車道よりはましだろうと自然に足が其方に向かう。右方に合宿用の宿舎がある辺で、人工的道は行き止まりになってしまった。かまわず進み、畑の中の広い道に出た。畔道とまでゆかないが車道より、歩くのには心地好い。
 道は降り坂になった。後で地図を見、万葉の森は大和三山の一つ天香久山だったことが分かった。最初から知っていれば、もう少し味わいながら歩いたかも知れない。
 程なく、林に蔽われた小高い丘の基部に、神域と俗界を空間的に結界するが如く、鳥居が眼に入った。左手には献燈籠等の装置、右手には、飛鳥坐(あすかざ)神社の石碑が緑葉に包まれて立つ。
 燈籠の基部の自然石に座り休んでいた六十年配の男が
 「鳥居はもともと、鳥が翼を休めるために止まる。いわゆる鳥が居(お)わした、そこに語源があるという話ですよ。今、上で神主さんに神社の由来を聴いてきました」
 「随分、飛鳥坐神社とは由緒ある名前ですね。神主さんは飛鳥という名前ですか」
 宮司さんは飛鳥時代から受け継がれた家系の方で、雲上人のような人ではないかと思った。
 「飛鳥という苗字ですが、普通の人と変わらない人ですよ。上で皆さんに、本人じかに案内してますよ」
 私はこうして、大和地方の天平白鳳時代の原風景を廻り、空間を外から探索しているのである。いや外というよりも、鳥居が見える私の位置は、空間の一部、自分自身が空間を構成している一要素のような気もする。難しく考えなくても、簡単に云えば、敷地の外か内かということだ。
 背後の緑に蔽われた丘、遙か彼方の薄紫の山並、風雨に耐えてきた鳥居、さりげなく立つ苔生した石碑、普段着姿で近所の子供を連れたおばさん、木立ちの間から覗く瓦屋根等々、そんな色々な要素で構成された空間から絵画的、音楽的リズムを自分自身が、どれだけ感じられるかが大切だ。私が体験している対象物の具体的な歴史はその次の段階だ。次の段階と云うよりも、私の眼はすでに、見えない歴史を見ているのかも知れない。
 とはいえ、こうして文章を書く場合には、具体的歴史も勉強せねばならないが・・・。
 
  
飛鳥寺遠望 左 飛鳥寺遠望 右
 
 集落の小道を、歴史探索グループの後について進み、飛鳥寺の駐車場に出た。飛鳥寺は田園風景の中に生垣に囲まれて立つ。さして広くもない境内には、本尊飛鳥大仏が安置された小さな本堂、それに鐘楼、観音堂がある。周囲が畑の田園地帯であるため、思ったより広々とした境内である。いかにも歴史の盛衰を感じさせる寺だ。
 飛鳥寺は、推古天皇の御代に創建された日本最古の寺である。創建当時は塔を中心に、北に中金堂、東に東金堂、西に西金堂が配置され、廻廊が廻らされていた。廻廊の外側には講堂があり、壮大な規模で法隆寺の三倍ほどの寺域があった。
 飛鳥大仏は止利仏師作の金銅釈迦如来像である。日本最古の仏像と云われる。面長の顔に微笑を浮かべ、切長の目を大きく見開いている。衣の襞は太く、日本最古の仏像だけに、素朴で逞しい印象を受ける。法隆寺百済観音像が弥生的な仏像と云うならば、飛鳥大仏は縄文的な仏像である。
 飛鳥寺西門を出、少し進んだ畑の一角に、蘇我入鹿の首塚と伝えられる鎌倉時代の五輪塔があった。
 かつては畑の中に時代から取り残され、首塚はあった。余り人目につかなかったが、今回訪ねた際には、首塚の周辺には石が積まれ、小公園風に整備されていた。
 一人で歴史探索中の男が
 「以前は畑の中にあって、いゝ感じだったんだよなあ。最近はどこも綺麗に整備されて、つ
くなった」
 私も同感だ。入鹿が壬申の乱で、中大兄皇子に討たれた飛鳥時代を思い浮かべるには、以前の首塚の方が相応しい。
 首塚から戻り、飛鳥寺西の生垣に、平行に走る狭い農道に出た。畑の先、飛鳥寺の生垣の緑葉が田園風景と好く調和している。左に本堂の瓦屋根、右に鐘楼がある。生垣の外縁は畑地の連続だ。処々に灌木が植えられ、畑地の先は線状に集落が連なる。背には奈良盆地の東方の山並が薄紫色に霞む。それぞれが、緑葉の木立ちに見え隠れし、自然に限りなく同化した景観である。   
 陽も傾いてきているせいか、夜の帳がおりる頃はどんな生活があるのだろうか、と思い巡らせた。居酒屋、コンビニエンス・ストアーのある高田馬場の夜をふと思った。
 
 飛鳥寺の西方に三輪山、天香久山、畝傍山の大和三山そして大和盆地が一望できる甘樫丘が(あまかしのおか)ある。三十年前に建築学科の友人と二人で登った。登ると云っても、一五〇メートル程の丘である。併し平地を歩き慣れた足では、山に登る感じだった。登り始めから中腹まで、樹々が鬱蒼とし昼なお暗い山道で、大和三山が一望できるどころではなかった。
 頂に近付くに連れ、かすかに子供の歌声が、風に流れてきた。麓から聴こえてくるのか、どうやら頂上からのようであった。平らに永く伸びた頂上では、小学校低学年の子供数人が、
 「勝って嬉しい花いちもんめリエちゃんがほしい……」
 昔懐かしい花いちもんめの遊びに夢中であった。木立ちの葉擦れから大和三山、大和盆地が見え隠れする。麓の生活の匂いのする空間とは異なり、純粋な宗教的空間に接する思いだった。私が二十才の時であった。
 あの時から、すでに三十五年の歳月が経っている。あの子供達も、四十才前後の年令であろう。この甘樫丘での宗教的とも云える体験は、私が幼児と出会った原風景となっている。
 いまこの甘樫丘へは自動車でいけるそうだ。残念の一言に尽きる。
 
 飛鳥寺西側の農道を南方に進む。長閑な風景が続く。レンタサイクルの飛鳥探索者らしき人が、夕暮の畑の広場で、本を見ながら何やら見入っている。直に自転車で飛鳥寺方面に走り去って行く。走り去ると、又別のグループが自転車で来る。何かがありそうだが、此処からは、遙か遠方なのでよく分からない。
 程なく其処に近付くと―飛鳥板蓋宮跡―の板碑が立っていた。小学校の先生らしき男女三人が由来を話し合っている。話の内容から遠足か修学旅行の下準備の調査に訪れているようだ。探索にしてはどこかよそよそしいグループだ。
 雨に洗われて黒光りした玉石の礎石、排水溝と思われる溝に積まれた玉石が連続し、地面は芝状の草で蔽われていた。それらがそれほど広くもない地域に拡がっている。柱穴らしき石組も見える。
 名前の如く板蓋の宮殿で、大化改新の頃は、中大兄皇子らの宮中人が、華やかな生活を営んでいたのであろう。ある時は政争の場ともなった。鈍い輝きを放つ礎石を眼前に、血腥い(ちなまぐさ)争いの歴史を思った。中大兄皇子が蘇我入鹿の首をはねた大化改新は、この飛鳥板蓋宮が舞台だった。
 
 板蓋宮跡から明日香村役場近辺の車道沿いの商店街は近い。不整形な四差路を真直南へ進めば、岡寺の参道に出る道だ。北東の坂道は岡寺の駐車場に出る。両側に店舗の並ぶ参道へ出る車道を進み、直に左に曲がれば岡寺の参道である。岡寺は山の中腹にある寺だ。石の鳥居を潜って坂道の参道を上る。
 朱塗りの仁王門の傍らに受付がある。閉門時刻が近付き、拝観できるか心配であったが、何
とか境内に入れた。岡寺は山の起伏を上手に利用した山寺である。
 線状に参拝客のルートがある。奥の左手が本尊如意輪観音像の安置された本堂である。塑像観音像としては、日本最大で最古だ。案内パンフレットによれば、インド、中国、日本三国の土で弘法大師自ら手を加えた像ということだ。
 本堂で如意輪観音像のスケッチ始めた。白く塗られた像は塑像ー土で造られた像ーのためか軟らかな円みを帯び、土着的な印象である。
 閉門時刻が近く、案内人の中年の女性がいかにも帰りたそうな様子だ。まだ大丈夫ですよ、と云いながらも板戸を少しずつ閉めるのである。
 早々に切り上げ本堂を後にする。続いて案内人も出てきた。境内でゆっくりしたかったが、
注意される前に門を出ることにした。
 岡寺の山門を出、片側に水路が切られた参道を降る。右手に枝振りの立派な桜木が参道に枝を差し伸ばしている。治田神社の桜だ。
 満開の桜花、そして赤い幟、(のぼり)左手の旧い民家の漆喰壁、複雑に織り重なる瓦屋根、それらが
変化のある景観を構成している。背景には飛鳥地方の優しい山並が、薄紫色に霞む。岡寺への参道は、旧い面影を失わずに遺した趣きのある参道であった。
 参道を味わいながら歩き、車道に出た。近鉄岡寺駅まで、裏道を飛鳥の風情を愉しみながら散策しようと思ったが、時刻は夕方五時を回っている。それに、少々疲れたため明日香村役場前を通り、近鉄岡寺行のバス停に行く事にした。
 
 飛鳥川に架かる橋で信号待ちをしていた。髪毛は茶髪、化粧は今風、コスチュームも原宿風、底の高いポックリ靴を履いた若い女性と一緒になった。
 大阪か奈良市街のスナックに勤めに行くのだろうか。女性とバス停まで相前後して歩く。歴史的背景に対比して見るに、その取り合わせが非日常的で面白い。天平の姫を思い起こすような光景だ。
 バスの時刻まで十数分ある。途中、山裾に見えた寺をスケッチしようと、バス停の先の路地を左に折れ、寺の方向から来る人に訊いた。橘寺だ。
 手前の棚田は、ゆるい登り勾配で横長に拡がる。寺への道は左手の農道を上り、短手の方から入るらしい。けれどもそこまでゆく時間はない。
 白い土塀が横に長く伸び、棚田と結界を築く。スケッチしながら見るに、土塀を基壇として本堂を始めとする各建築が立っているようだ。土塀を譜線として本堂、如意輪堂、経堂、庫裡‥‥が音譜のようで、好いハーモニーを感ずる。棚田の緑、背景の緑葉、銀鼠色の瓦屋根、白い築地塀、各要素が素朴でさりげない佇だ。
 学生の頃、友人と共に橘寺を訪ねている筈であったが、甘樫丘で受けたような強烈な印象は
なかった。聖徳太子生誕の地といわれ、用明天皇の離宮だった寺である。
 飛鳥の地で、一度は訪ねたいと前から思っていた山田寺跡、豊浦寺跡、川原寺跡の探索は、次の機会に譲る事にする。それらの寺で、発掘された礎石から往時の伽藍配置を想像するだけでも、飛鳥人の生活が眼に浮かぶ。
 入鹿の首塚のように、一つの石でも残っていれば、周辺に建築的空間を想像させる。変に再建しない方が、歴史的空間の佇を現せはしないだろうか。
 かつて訪れたギリシャ・クレタ島クノッソス神殿は何やら迷宮らしく造られていた。いくらか史実に基ずいて建てられているのだろうが、紀元前の遺跡のイメージを抱いて訪れただけに、その再建の仕方には失望するやら幻滅するやらであった。
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