大和路ー光と影 1
薬師寺

サイトリスト  
古都ー光と影 TOP
大和路ー光と影1
大和路ー光と影2
大和路ー光と影3
京都ー光と影1
京都ー光と影2
京都ー光と影3
イタリアの町並

アフガニスタンの町並

5 斑鳩の里二―法隆寺 おすすめサイト
YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
法隆寺五重塔 法隆寺講堂
法隆寺綱封蔵 法隆寺夢殿
大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町
十三
大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
6
7
8
9
10
11
12
13
古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
五 斑鳩の里二―法隆寺
 
 大和路快速線も大分、慣れた。大阪発の便が悪ければ、大阪環状線天王寺駅で、難波駅発の奈良行に乗り換える方法もある。タイミングよく、天王寺駅で加茂行の快速電車が待合わせ中だ。
 JR法隆寺駅は寺と反対側の南口が、昔からの商店街である。寺側の北口は線路沿いに、文化住宅風の即製商店街が、国道まで立ち並び、伝統ある法隆寺の玄関口としては、首を傾げてしまう駅前風景である。小さな駅前広場から、真直に北方に伸びる古い商店街の道を進む。
 以前にも歩いた道、勝手はよく分かる。道は直に、賑やかな商店街にぶつかる。左方に折れれば、先方の国道を走る車が見える。国道を歩くのも風情がない。直に右方に折れ、住宅街の間道を行く。塀に差し掛かる百日紅のピンクの花が、綺麗だ。               車の往来が多い国道を横断し、田圃が点在する道を歩く。畔道をと思うが、かなり市街地化され、アスファルト道路より、六〇センチメートルほど下がって田があるだけである。加うる
に、田圃は飛び飛びにあるため、畔道をのんびり歩く環境ではない。
 崩れそうな土塀、焼きすぎの杉板を張った民家が点在し、くねくね曲がった道を進み、遥かに法隆寺の南大門を望む広い参道に出た。
 途中、近所の店で飲物、トマトを昼食用に買い求める。昨年、見かけた廃寺の件を店員さんに訊ねた。既に一部、毀(こわ)し始めているとの話だ。それは古い寺で、庫裡に住む人もなく、崩れかかっていた。見捨てられ、価値を失った如く見えたが、戦に破れた敗者の美学を具象的に現しているような寺だった。それ自体が持つ働きを機能している姿より、一層、全盛期の機能的な姿を想像させるに充分だ。
 
 二十数年前に訪ねたトルコのローマ時代の遺跡、山上に築かれたベルガマ帝国の都市は、さらに感銘深い廃虚だった。ベルガマの町の外れに、岩がゴロゴロした一木一草もない、荒れた山を登った処の、急峻な山の斜面に、ローマ時代の遺跡、野外劇場があった。
 馬蹄型に観客席があり、舞台は急角度で見降すように造られ、観客席の半分以上は崩れかかり、ゴロゴロした岩である。余りに急勾配すぎて、転落するのではと、錯覚を憶える程だった。併し舞台の背景は抜けるような青空で、麓はベルガマの旧い集落の赤茶けた屋根が、昔と変わらぬ姿で拡がっていた。
 かつてヨーロッパの野外劇場の幾つかを訪ねたことがあった。アテネのデイオニソス劇場、エフエソスの劇場等々があるが、私が見た野外劇場の中では、このベルガマの野外劇場が最も急峻であった。
 訪れる人も殆どない、廃虚の遺跡である。往時、栄えた頃の賑やかな様子、そして現在その空間だけが、遺跡となって存在する姿は、観る者に多くの夢と想像力を掻き立たせる。忘れられた遺跡だけに、一層、その感を強くするのであった。
 
 南大門を真直に伸びる参道の際からスケッチをする。夏のせいか、探索者は少ない。参道の片側は、立派な土産物店兼レストランである。
 両側に生繁る松の樹幹越しに、南大門の入母屋瓦葺屋根が朝の陽光を浴び、銀鼠色に輝く姿が垣間見えるのだった。
 南大門を潜れば、そこには開放的空間が拡がる。両側にベージュ色をした築地塀を従えた、巾の広い参道の正面に法隆寺の中門が立つ。左奥には、青空を背景に黒々とした五重塔が、そ
の端正な姿を現す。
 中門は二層の屋根を持ち、両側には松の木で見え隠れする廻廊が連なる。参道の築地塀の陰でスケッチを始めた。五重塔と中門が重なり合って見える。程よい間隔があれば、互いに緊張感があって、構図として調和がとれるのだが・・・。
 法隆寺の伽藍配置として、寺の規模からすると、これ位の巾の参道が程よいスケールなのだろうが、空間的に広すぎる印象を受ける。
 廻廊の左端、西側の受付から境内に歩を入れた。寺の中枢神域―金堂・五重塔・講堂―を廻廊で囲み、結界を現している。
 廻廊の単純な構造の繰返しは、リズム感さえ感ずる。日向は流石に暑いが、廻廊の日陰に入れば、心地好い風が通り抜ける。
 参拝者の日本人は少ない。サマーバケーションの西欧人、アジア系の観光客が多い。有名な寺ほど外国人が目につく。
 日中、探索者が軽装で三々五々、スナップ写真を撮ったり、堂塔を見物する姿を眼にするに、宗教的空間を感ずるよりも、歴史を飛び越え五重塔・金堂・講堂の堂塔伽藍が、無機的に立つ印象を受ける。                                   
 そんな中で、講堂を正面にした、中門の下でしばらく佇む。頭の中で、探索者の姿を消去する。―消去するというよりも、熱心な信者の姿に変身させる―左に五重塔、右に金堂が見える。講堂の背後には矢田丘陵が優しい山端を描き、丘陵を包む緑葉が銀鼠色に輝く瓦屋根と好く調和している。
 金堂には、止利仏師作の銅製釈迦三尊像が安置される。堂内は暗く、遠眼のため細かい表情は分からないが、飛鳥寺の飛鳥大仏とは、兄弟のような仏像だ。面長の顔、切長の眼、そして幽かに微笑んでいる表情に、荒削りだが、飛鳥時代の素朴な朗らかさを感ずる。
 
 五重塔の初層に、塑造(そぞう)の天蓋状のものがあった。洞窟のようで、初めは何を表現しているのか理解に苦しんだ。それは須弥山(しゅみせん)を現しているのであった。華麗な五重塔の美しさとは正反対に、塑造製のためか、縄文的な土着性を感ずる。
 飛鳥大仏にも見られたことだが、文化が形成される途上では、新しい文化の流れの中に、旧い文化、形態が取り込まれる事がある。却って、そこに時代の接点が感じられ、興味深い。
 塔の内陣の南面は弥勒菩薩の説法、西面は釈尊遺骨の分骨、東面は維摩居士と文殊菩薩の問答、北面は釈尊の入滅が表現されている。釈迦涅槃像の十大弟子の泣き叫ぶ姿が印象的だった。
 塔の基壇には、各面につけられた数段の石段で上がる。内部は暗く懐中電灯で照らさねば、よく分からない。昼光の微かな光で、照らされるのも宗教性があって、よいのかも知れない。
 五重塔は天に向かって、人間の意志を表現するかのように、青空に聳え立ち、境内の空間を支配する。
 中門の正面、大屋根を拡げた講堂は単層のため金堂、五重塔に比べ高さが低く、背後の丘陵の緑が講堂の甍(いらか)に映え、眼に眩しく映る。
 講堂の円柱の、手で触れた箇処の朱色の光明丹は剥げ掛かっている。太くて大きな欅の一本柱で、竪に幾筋もの割目が入っている。割目の幅が一センチメートル程のものもある。割目が入ることによって、柱の捩れが吸収されるのである。
 さらに、柱に打った釘の残りもあり、表面の幾筋もの割目と共に、年月を感じさせる。柱の礎石は、仕上の床面に、自然石のまゝに露出している。構造体を隠さず、あるがまゝに表現し、いかにも飛鳥人らしく朗らかだ。
 一般的に寺院の境内では、堂塔が大き過ぎ、部分を描くには支障はないのだが、スケッチの構図が難しい。
 法隆寺金堂、五重塔、講堂は境内の空間に対し、スケールが大きく、廻廊からは描きにくい。境内は自然に対し、人間の英知が表現され人工的である。廻廊内の境内は極端なまでに、自然の樹木を見かけない。見かけても、それは人工の一部として樹木が配置されてあるだけである。
 講堂を後に、廻廊伝いに廻廊の東端の出口に出る。直に鏡池があり、その前に東室の南端部を改造して造られた聖霊院が立つ。
 
 聖霊院の厨子には、木造聖徳太子坐像、四人の侍者像が安置される。廻廊の外側、廻廊に平行した南北に細長い建物東室は(ひがしむろ)、僧侶の住居、僧房であった。東にあるのが東室、西にあるのが西室である。
 東室の東側に平行して妻室がある。妻室と綱封蔵の間の通路の突き当たりに、百済観音堂を中心とする大宝蔵殿がある。此処には、中学の教科書にも載っている法隆寺の寺宝木造百済観音像、銅造夢違観音立像、玉虫厨子、橘夫人厨子等々の有名な仏像、工芸品が安置される。
 百済観音像はその由来がはっきりしない。私が中学生の時には、朝鮮の百済から日本に流れ着いた仏像であるため、百済観音の名があるものとばかり思っていた。多分、先生が冗談半分にそんな事を述べたのであろう。
 百済観音はほっそりとした十頭身ほどのスラリとした長身である。見るからに華奢な印象で、透明感のある観音像だ。流麗な衣の襞がさらにそれを強調している。
 止め金具の透し彫りに、玉虫の羽根を嵌め込んだ玉虫厨子は、今ではその輝きはない。複製した見本を見るに、玉虫の羽根の彩が、豊かで艶やかな印象だ。
 
 大宝蔵院に続く左方の収蔵庫群の白壁が夏の陽差しを浴び、照り輝いていた。鏡池の東側の木蔭で、綱封蔵(こうふうぞう)のスケッチをしようと、構図の好い場所を探す。傍のベンチの木蔭で韓国の女性が一人で、五つほどの荷物の番をしていた。観光客のようだ。私がスケッチをしている傍らで、何やら話しかけてくるのだが、日本語は全然分からず、英語で問い返しても、ニコニコしているだけだ。沢山の荷物を守るため、私に愛嬌を振りまいていたのだろう。
 綱封蔵は一階がピロティー(吹抜けの柱だけの空間)になり、上部の白壁を浮かしている。中央部がさらに吹抜けになり、そこには扉が付けられてある。メインの通りに建物の妻側を見せ、平側には長く寄棟の瓦屋根が伸びる。単純な構造だが、構造体の柱間の白壁が、屋根の瓦と好く調和している。金堂、五重塔の陰に隠れ、見過ごしがちだが、平安時代の建物らしく、流麗な印象を受ける。綱封蔵は僧綱(そうごう)が開閉する宝蔵であるところから―綱が封ずる蔵―綱封蔵と云われ、格式の高い蔵である。
 右奥には、細殿(ほそどの)、食堂(じきどう)が松の木越しに垣間見える。いずれも国宝に指定されている。
 一つの建物に、精々三十分位、長くても一時間ほどいるだけだが、この綱封蔵にしても、発願主、計画した匠、建設した棟梁等の力によって建設されたのだと思い、通過的に見ている自分の姿が小さく見えるのだった。
 
 綱封蔵のスケッチを、二十分ほどで描き上げ、東院への道を行く。八脚門の東大門を潜り、両側に築地塀が連なる、巾の広い道というより広場といった方が適当な、明るく開けた開放的空間にでた。昨年訪れた際は、南側の築地塀寄りに、沢山の露台(ろだい)を並べた土産物店があり、修学旅行生や子供連れの観光客で賑わっていた。流石に夏には観光客が少ないせいか露台はない。
 この広場は、イタリアのサンマルコ広場、シエナのカンポ広場と比べても、遜色ない広場だ。もともと日本では、リニアーな道的空間が発達したが、多くの人が集まる広場的空間は見られなかった。
 仮に此処を四脚門広場と名づける。四脚門広場の西端は、東大門を通り、法隆寺の西院伽藍へ続く。東大門の側を北へ進めば、左側に高い法隆寺の収蔵庫群のある築地塀、右方には小川が流れ、人気(ひとけ)の少ない道が真直に伸び、天満池の土手にぶつかる。
 東大門の側を南に、旧い街道を進むと、直に旧道に突き当たり、左に折れゝば、JR法隆寺駅方面への道にでる。
 広場の東端は、東院伽藍の入口、四脚門だ。四脚門から連なる築地塀に沿って、北へ進めば、中宮寺の裏手に出る。築地塀に沿って南へ進む道もある。
 広場に面し、律学院、塔頭の門が広場に開く。特に宗源寺の四脚門は立派で、四脚門広場の好い点景であった。
 四脚門広場は閉じられた空間である。東大門近辺、四脚門近辺で外部の空間へと繋(つな)がる。一方、シエナ・カンポ広場に見られる、イタリアの広場は、石造建築物で囲まれ、一体的空間を現している。
 四脚門広場は築地塀で囲まれ、塀越しに松の木が覗く。枝振りの好い松が青空を背景に、天高く伸び、北側の塔頭の築地塀は陽を受け輝いていた。南側の聖徳会館の築地塀は、日陰になり影を色濃くし、更に塀の影を石畳に投げ掛け、石畳の輝く部分とのコントラストが面白い。瓦の先端が投げ掛けたリズミカルな影に、細やかな印象を受けるのだった。
 四脚門広場は無意識のうちに、道的広場へと収斂(しゅうれん)した日本では珍しい広場といえる。
 四脚門広場の東端にある四脚門を潜れば、法隆寺東院伽藍になる。東院伽藍の中心になる夢殿は、西院伽藍の廻廊の四分の一程の長さの廻廊で囲まれる。
 境内は人工的空間で、白砂が敷詰められ、夢殿の八角形の屋根は、軽やかに拡がり、いかにも天平時代の建築らしく、朗らかである。
 東院伽藍の北には、講堂に相当する伝法堂があるのだが、堂の中には入れない。廻廊の北西端から境内を出た。そこで男がビラを配っていた。東院伽藍の北側に数軒あるレストランの一つの案内だ。不景気の折、客の数も減っているのだろうが、ビラを配布しても、それほど効果はないだろうに・・・。
 
 鐘楼の脇を通り、白砂を敷き詰めた殺風景な広場に出た。北側は境内図によれば太子殿、東に小ぢんまりとした中宮寺の入口があった。
 小さな受付を通り、境内を半周し本堂に至る。本堂の両側は人工的な池で、橋を渡って本堂に入る仕掛けだ。
 本堂は建築家白井晟一の設計である。直線的なデザインだが、やはり寺院は、木造瓦葺で、年月を感じさせる建築の方が私にとっては落着く。一人の建築家の能力も、歴史の深みの前では、見過ごされてしまう。
 中宮寺は、聖徳太子の母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后の御願によって創建された尼門跡寺院で、大和三門跡寺院の一つである。本堂の本尊弥勒菩薩半跏像は半跏の姿勢で、優しい微笑を浮かべ、清純な気品を漂わせた飛鳥時代の仏像である。中宮寺は法隆寺の賑やかさに比べ、静かで落着いた、いかにも門跡寺院に相応しい寺だ。
 四脚門を通り、築地塀沿いの道を北に向かう。しばらく歩いて民家の家並の中に、幾つか民家を改造したレストラン、茶店があった。法隆寺の裏通りのせいか、探索者の数は少ない。 先刻のチラシの店は、前面がガラス張りで綺麗な店だった。観光客が少ないせいか、昼刻だが客の姿はない。世界遺産法隆寺の華やかな裏には、一般民衆の生活がある。華やかな裏というより、一般民衆の生活の積み重ねの上に法隆寺があるのであろう。
 道は天満池の土手に突き当たる。大和盆地によく見られる溜池だ。結構高い土手が池の三方を取り囲む。水源は雨水だけなのか、湧水があるのか、定かではない。
 
 土手を右方に折れ、斑鳩神社への道を行こうと思ったが、文化住宅が立ち並ぶだけで神社境内特有の鎮守の森の様子がない。引き返し土手沿いの道を行く。樹木に覆われた丘が斑鳩神社だ。
 自動車道路に面したアルコーブから一気に直登する、急な石段の頂に、神社の唐破風屋根の上部が少しだけ覗いていた。石段の参道の両側には、樹木が生繁り、参道に差し掛かっている。小丘全体が神域なのであろう。
 急な石段を登り詰めた処に小さな広場があり、正面には神殿、左方には社務所、右方には手水鉢が木立ちに囲まれてあった。観光地から外れているためか、参拝客は誰もいない。
 境内では、私一人だけだ。気儘にスケッチをしながら、緩っくりと昼食を摂る。描いている間に一人、茶髪で、ヘルメットを小脇にかかえた青年が参拝に来ただけだ。
 山里を散策して、こんもりと緑葉に覆われた小丘に出会ったりすれば、ある期待感を持って見る。かすかに人工的な石が据えてあれば、神社に違いないと確信する。時々、ただの小丘だったりするが、神社である確率が高い。
 鎮守の森は、我々の目を和ませて呉れる。徐々に都市化の波が町の周辺部に押し寄せる昨今、数少ない、生態形を保存している空間である。子供の元気な声が聴こえてくれば、こちらも元気が出るというものだ。飛鳥の甘樫丘で、幼児に廻り会った宗教的ともいえる体験を、思い出した。
 斑鳩神社の石段を降り、天満池の土手の上を歩く。陽を遮るものは何もない。池には天満池の名の如く、満々と水を湛え(たた)ていた。池の土手下は道路で、北側には道路を挟んで墓地が拡がっていた。天満池を半周した辺から斑鳩神社の鎮守の森が、こんもりと小さく見える。池の水面に、緑葉に包まれた小丘が映る。天満池から法隆寺の五重塔は、見えるか見えない程度で、余り目立たない。 
 半周した処は林の入口になり、立看板に―蝮に注意―の警告板が立てられていた。林に入る踏跡から老人が出て来た。
 「蝮が出ますか。この山道は、法隆寺の裏に出ますか」
 と声をかけた。怪訝そうな表情で老人は
 「蝮は出るかどうかは何とも云えない。法隆寺の裏には出ますよ」
 老人は、私の顔を疑い深い目で見るのであった。
 構わず林への道に踏み込んだ。時々、人が入ってきているようで、道の踏跡は、しっかりとしていた。林内に入って直、道の片側に畑が見えた。先刻の老人は、畑の持ち主だったのであろう。畑が荒らされないように、なるべくなら、人に入って来てほしくなかったに違いない。蝮が出そうな気配は全くない。多分あの立看板も、老人が立てたのだろう。
 法隆寺の裏まで、三十分位かかると思っていたのだが、畑を通り越し、両側に樹木が生繁った細い道を過ぎ、五分ほどで、大宝蔵殿、朱色に染められた百済観音堂の裏道に出た。余りに、呆気無く着いてしまったので拍子抜けしたのだった。林内から木立ち越しに法隆寺の甍(いらか)の波を愉しみたかったのだが。
 
 この裏道は年代を感じさせ、絵になる空間だ。法隆寺の波打つ土塀は、表の立派な築地塀に比べ、簡素で親しみが持てる。土塀の反対側には民家が立ち並ぶ。民家の塀越しに伸びる樹木の緑葉が、空間のよい点景になっていた。
 道の西端は突き当たりのようだ。東側は右手に折れれば、東大門への道に出る。
 私はこの山道は、法隆寺西の西里地区の旧い集落に出るものと許り思っていた。予期しない意外性は、気持に飛躍を与えて呉れ、心地好い気分である。
 東大門への道を南に進む。右方には立派な築地塀が続く、左方はより低い築地塀の連続で、石組された深い水路を流れる清流に透けて、苔生した石が見える。正面に見える聖徳会館の小さな門が、築地塀に穿たれていた。
 左方の律学院の境内から、松の木が伸び、枝葉が道に差し掛かる。時々、車が通るが、静かで落着いた空間だ。右方の築地塀の犬走りでスケッチをしている間に、法隆寺の営繕係らしき五人連れが歩いてきた。数枚のスケッチを見て、
 「西円堂には行きましたか」
 と訊かれ、私も勉強不足で、
 「そんなにいゝとこですか」
 と色々、訊いた。綱封蔵をスケッチした時、建物の名称を分からない儘だったので尋ねた。一人の職人さんが、携帯電話で寺務所に問い合わせて呉れ、綱封蔵と分かった。五人の男達は律学院に出入りする左官職人だった。
 再び東大門を潜り、西院伽藍に歩を入れた。西大門近くの弁天池に面し、西茶所の休憩所があった。中で数人、お茶を飲んでいる。休憩所と云っても、昔の旧い建物で、創建当初から西茶所として、参拝客に親しまれていたらしい。
 西茶所の親切な女性従業員に、西里地区の旧い集落の件を訊くが、よく分からない。法隆寺に比べ、一般的に知られていないのであろう。
 西茶所の斜右に、西室、三経院が立つ。西室に沿って歩き、左方の石段を上った処、小高い
丘に八角形の西円堂が見える。石段の両側から、木が生繁って緑のトンネルだ。トンネルの向こうに、銀鼠色の瓦をのせ、朱色に染められた西円堂が見え隠れする。レベル差を上手に計画したこのような空間は、いつ見ても印象的だ。
 石段の頂の正面に本堂があり、左手は寺務所である。本堂の周囲、犬走りは石畳の基壇になり、参拝客が歩いて廻れる。近在の中年の女性が、先刻来、数回石畳の周りを廻って薬師如来に願を掛けていた。
 「石段の下で、絵を描いていましたね」
 私は気付いていなかった。
 「お百度参りをしているのですか」
 「西円堂の薬師さんは、病気をよく治してくれるんですよ。百度なんて、とんでもない三度、廻っています。下の祠にも、お参りしています」
 西円堂の本尊は、乾漆薬師如来坐像で、峰の薬師とも呼ばれ、近在の人に親しまれている。女性は下の石の祠でも、掌を合わせていた。信心深い人である。
 
 西円堂の境内の東北の隅、階段を上がった処に、出口らしき門が立つ。寺務所の人は出られないと云う。でも念のため門の側まで行く。やはり門は閉められ、出入はできない。地図には、門の向こうに道があり、近くにウォーナー塔がある筈であるが・・・。
  
法隆寺西円堂 法隆寺西里地区集落
 
 西円堂をあとにし、きた道を戻る。西茶所で、再び茶を飲んだ。感じのいゝ茶所である。
 西大門を出た処は、西に向かって直線上に古い街並が続く。道の両側には古い土塀が連なり、中には冠木門を持つ家もある。土塀越しに母屋の瓦屋根が陽を受け輝く様子が見え、さりげなく伸びた樹木の緑葉が、静かな佇を感じさせる。中には土蔵風民家もある。
 よく千数百年の間、このような空間が維持できたものだ。一人でも異端者がいれば、この空間の雰囲気は、壊れてしまったであろう。
 塀や瓦屋根のリズミカルな影が道に落ち、強いコントラストを現す。道は法隆寺西大門に向かって降り勾配である。そのため塀に微妙な高さの変化ができ、無意識のうちに、空間に動きを感ずる。
 家の表札には、法隆寺北とあった。私が探している西里地区ではない。もっと旧い集落、西里地区があるのではと、期待して歩く。しかしいつの間にか、集落の外縁に出てしまった。立看板に―西里地区自治会―とあった。やはり今、私が歩いて来た道が、案内書で見た法隆寺西の旧い集落なのだろうか。
 人通りが少ないため、訊ねる人もいない。ある一軒で車を清掃している人に訊ねた。やはりこの一帯が西里地区だとの話だ。特に、西大門から西に伸びた道が旧い集落だということである。
 この道の両側には旧家が並んでいるが、家の北側の背後は矢田丘陵で、家はない。山の縁(へり)に
なる訳だ。集落は山の縁から発展し、徐々に平野部に伸びてくるのがよく分かる。南へ伸びた道を行くと、徐々に新旧混在した街並に変わってきた。
 田圃の畔道があった。でも町中の畔道は道路よりかなり低い。下りるのは諦め、参道の反対側に見えた法隆寺センターに行くことにした。此処で宮大工西岡常一の業績の大きさに触れ、法隆寺探索の心地好い疲れを癒した。
このページのトップに戻る

リンク集

メールはこちらへ


Copyright(C) Sousekei All rights reserved.