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読後感想 山口佳延写生風景 絵と文 建築家・山口佳延 |
六 今井町・当麻寺
王寺から高田へのJR和歌山線の車窓から、緑の山並に、家並が這(は)い上っているのが眺められる。大阪のベッドタウンとして、宅地開発の波が押し寄せてきている光景を眼の当たりした。
このようにして、徐々に人間の手が、自然の中に浸食してゆくのであろう。天平の昔は、瓦屋根の集落が寄り添うように、林の中に垣間見えたに違いない。そんな事を思いながら、車窓に流れる緑葉に包まれた丘陵をぼんやり眺めていた。
列車は高田駅止まりである。プラット・ホームのベンチで地図を見ようと、ベンチに荷物を置き、その隅に座ろうとした。隣に座っていた高校生が、穏やかな顔付で、どうぞと席をずらせ、一つ空けてくれたのだった。見るからに好青年で、陽焼けした顔は精悍で、眼はどこまでも澄んでいた。
暫くして、奈良行きの普通列車が到着した。逞しい青年が降りて来て、件の(くだん)青年に、オッと片手を上げて合図を送り、二人して改札口への階段を上がって行った。その背姿には自からの行為を衒(てら)う様子も見えない。只、淡々とあるが儘の青年の姿があるだけであった。今の若者は・・・などと、云えたどころでない。
右手に、金剛山生駒山系を望み、畝傍に進む。大津皇子の眠る二上山はどれだろう、車窓から捜すが特定できない。
畝傍駅より線路沿いの細い道を行く。踏切を渡って程なく朱色の橋が見えてきた。朱色の橋は今井の寺内町への東の入口だ。橋を渡ったところは、今井町の東の外れで、通りには小さな商店が、幾つか並ぶ。まだそれ程、風情ある光景ではない。
北尊坊門跡の道を南に進み、二本目を右手に折れた道には、綺麗な街並が続く。今井の町内を東西に走る中尊坊通である。
中尊坊通はよく保存された街並で、一階は、出格子を始めとした木質系の材料で構成され、凹部に深い影を投げかける。処々、鉢植の樹木が置かれ、空間にほど好い調和を持たらしている。
二階は、白い塗籠壁(ぬりこめかべ)で、一部木製の格子が嵌められていた。建築材料は、木・塗壁・瓦・ガラスと統一されたデザインだ。旧い街並なので当然であると云ってしまえばそうであるのだが・・・。通りに投げ掛けられたリズミカルな屋根の影が印象的だ。
高木家を正面から描く。基本的デザイン要素は水平線、垂直線で構成され、まるで、モンドリアンの絵画を見る思いだ。一階部分は、二階より九〇センチメートル道路側に持ち出されている。そこには瓦の小屋根が設けられ、遠近感が創り出されることになる。屋根にのる丸瓦のリズミカルな形が空間に動きを醸し出す。
日陰でかつ、構図の好い場所を捜す。スケッチをしている最中には、神経を集中させているためか、陽差しの厳しさを忘れてしまう。
高木家の半間バックした玄関の柱に―見学ができます―との紙が貼ってあった。高木家の開かれた門に足を踏み入れる。土間の天井は木の骨組が、そのまゝ現れ、空間のイメージは軽快で、思ったより豪快ではない。木の断面も、最小限に使ってある。飛騨高山の日下部家土間の吹抜けに使われていた骨組には、大断面の梁が所狭しと架け渡され、圧倒された憶えがあった。
土間の入口に高木家住宅の小冊子が置いてあった。見学は二百円との覚書もある。土間の天井に見蕩れていた時、土間の奥の前栽(せんざい)に面した離れから御主人が出て来た。
土間に面した座敷―うりば―から上がる。高木家は今井町の重要文化財の民家の中では、まだ新しい部類だと云う。うりばに接する座敷―なかのま―の壁側は押入、北側の座敷―ざしき
―は前栽に面する。
前栽には灌木が植えられ、陽を浴びキラキラと輝いている。太陽高度の低い十月から三月にかけては、全く陽は差さないらしい。
前栽の向前に(むかうまえ)は、新しい母家が立つ。前栽は囲まれた空間のため、座敷から眺めやる空間は小宇宙を形成しているような印象だ。書院付の床の間を持った座敷の黒光りした長押には、桃を型取った釘隠しが使われ、歴史を感じさせる。なかのまの道路側は、黒光りした箱階段のある座敷―みせおく―である。
高木家は江戸時代の文政年間の創建である。当時の民家は、冠婚葬祭が自分の家で、執り行われるように、二間続きの座敷にするのが、家造りの原則だったようだ。天領だった江戸時代、代官を迎え入れる応接間としての機能もあったと云われる。
此処の御主人は片寄った考えの人だった。土間から上がった座敷を見学中、家の造りの説明はそこそこに、関係ないことを云うのである。代官には、食べられない菓子を土産に持たせる。この世の中全て金次第‥‥‥。
自分の政治経済論を勝手にまくし立て、私が何のために、旧い民家を見学しに来ているのか、理解されていない。御自分が、どのような考えを持とうが、構わないが、私はこの民家の歴史、構造を見学に来ているのだ。早々に帰ろうと、機会を窺って失礼する。今井町は江戸時代、相当に裕福だったようだ。多分このような旦那衆が多かったのだろう。他の重要文化財の民家も、こうでは、かなわない。外から見て、内部空間を思い浮かべるに止める。
中尊坊通を西に進めば、角に河合家がある。角に建てられているため家の全体が見渡せる。河合家は現在でも酒屋を営む。人の出入りが頻繁で、空間が現在も、生きている印象を受ける。
一階は木で格子、出格子を構成し、二階の壁は白く塗籠壁で造られている。その中に、円型に家紋がデザインされ重厚な印象である。脇道に沿って家が立ち、奥が深い。奥方は酒倉になっているのであろう。道路を挟んで駐車場があり、そこから全体が見渡せ、スケッチをするのに都合がよい。スケッチをしている間も、店員や客が出たり入ったり、活気がある。ピカピカした重要文化財より、多少創建当初の形から、変わっていたとしても、時代に合わせ、機能している家の方が、現代に息づいた文化財として、見る者に歴史的印象を与える。
今井町は十六世紀に、一向宗本願寺坊主の今井兵部が、称念寺を中心に、今井町の農民を門徒化し、全国から商人、浪人を集めて都市計画を行い、寺内町を形成していった。さらに、町の周囲に、濠を廻らして防備を固め、自衛して他の勢力に対抗し自治権を確立して行った。
特に戦国時代、石山本願寺と共に、時の新興大名織田信長に抵抗した歴史があった、けれども天正三年に、織田信長に降復した。伊勢長島のように皆殺しされずに済んだのは、明智光秀の力によるところが多かったといわれる。
以来、商業都市として、大阪・堺と共に発展して来た。江戸時代には、一時大和郡山藩領となったが、以後、幕府直轄の天領となり、堺と共に自治権が認められた。
―大和の金は今井に七分―と云われるほど、江戸時代は繁栄し、大名に金銭を貸付けていたこともあった。
戦国時代の不安定な社会の中で、自衛のため、周囲に濠を廻らせ環濠集落にし、寺内町を形成したため、立地的に現代まで、旧さが遺ったのであろう。
中尊坊通の突き当たりを右方に折れ、中町筋を行く。道の両側には、時代劇のセットのような家が立ち並ぶ。保存ともなると、こんな形でしか遺せないのかと、考えてしまう光景で、没個性的な家が連続して立っていた。 中町筋は先刻の中尊坊通と比べ、家の格が落ちるのか軒が低く、長屋風に建てられている。
音村家から出て来た奥さんが、
「時代劇、TVのドキュメンタリー、絵などを描きに、よく人が訪ねて来るんですよ。昔と比べて、今の今井町はどうですか」
と訊ねられ
「以前はもう少し生活の匂いがあったように思う。綺麗になり過ぎ、活気が無くなってきている印象です」
「私もそう思う、でも役所から少しの補助金を貰うためには、細かいところまで指導され、自由に出来ないんですよ」
けれども、そうしなければ、今の今井町の歴史的景観がないのも事実だ。保存の方法論の難しさを改めて考えさせられる中町筋の街並であった。
中町筋を進み、三本目の角を左方に曲がると、正面に楼門風の建物が見えてきた。よいランドマークだ。称念寺の楼門である。
東西に伸びる御堂筋に面する称念寺の本堂は、大きくカーブした屋根を持つ。周囲の小さな町家、狭い道に比べ、突然大きなスケールを現し、眼前に迫ってくるのだった。
そのスケールアウトした大きさに、かつての今井町の財力を感ずる。さらに狭い場所に無理矢理造られたような鐘楼を見るに、財力に裏付けられた当時の旦那衆の傲慢ささえ見えてくる。
だからと云って、それを批判しているのではない。当時の人間の赤裸々な姿が現れているようで、本当の今井町に巡り会えた思いであった。
さらに移築された山門、崩れ掛かって、御堂筋に味わいのある空間を創出している土塀、本堂と相俟って、圧倒的迫力だ。
他の民家が保存修復されているのに対し、公共建築とも云える寺院が、荒廃した儘、打捨てられている現状には、余りにも不釣合な印象を受けた。併し、この称念寺に私は今井町本来の姿を見た。
かつての今井町の財力、ゴリ押しの性格が、破天荒な称念寺の形に表現されている。今井町の一部豪商の性格を垣間見る思いだ。
称念寺前の今井町づくりセンターで休憩する。中庭の飛石の先方に、小さな事務所と便所がある。センターの隣は土産物店―夢ら咲長屋―である。主人がセンターにジュースを買いに来た。夏のためか、観光客も数少なく主人は暇そうであり、暫く今井町の歴史を話して呉れた。称念寺をゆっくりと眺め、強い陽差しの中、スケッチを始めた。
御堂筋を称念寺の土塀沿いに、西に進めば、左手に落着いた豊田家住宅がある。それは質素で静かに佇み、印象深い空間だ。此処は重要文化財に指定されている訳ではない。右手は黒板
塀で、塀越しに鮮かな緑葉を付けた枝が道に差し伸べられていた。
さらに進んで、左方の奥に広場があり、自然に足が其方に向く。地図は持っているが、殆ど見ない。其処は春日神社の境内で、近所の母親が子供を遊ばせていた。殺風景な境内である。
来た道を引き返す。正面に、豪壮な土塀の内側に蔵と母屋の瓦屋根が見えてきた。今西家住宅だ。広い庭には、樹木が生繁っている。
西の外れの環豪の反対側からスケッチをする。今西家住宅はハッ棟造りである。雁行した妻側の入母屋造の屋根、それを従える如く、平入りの瓦屋根が横に長く伸び、樹木に吸い込まれてゆく。外壁は白漆喰塗籠壁で、民家と云うより、城郭を思わせる造りである。
母家の手前には、瓦屋根を持つ築地塀が伸びる。塀の上部は白壁、下部は南京下見板張りである。日本古来の建築材料を使ったデザインだが、テカテカピカピカしたデザインを見慣れた眼には、そこに新しいデザイン感覚を感ずる。
白壁と銀鼠色の瓦屋根、板塀、樹木の緑葉、背後にはコバルトブルーの空、それらが好く調和した空間である。
今西家は、領主、代官の町方支配に協力した惣年寄の筆頭で、今井町の自治権を委ねられていた家柄である。四百数十年前に建てられた家だ。
本町筋を東に進む。来た道の遥か向こうに、今西家住宅が小さく見える。道の両側には、飛び飛びに土産物店、民家を改造した茶房が立つ。この通りも風情のある空間だ。
本町筋の数本目の道を右に曲がり、町の南端に出、旧環濠沿いに東に歩き道が不整形に屈曲した処に出た。
南北に通る細い路地、北口門へ抜ける道である。路地に面して切妻屋根、塀の白壁、板塀、
塀に乗る瓦、道際に切られた水路がある。それらのエレメントは町の発展と共に徐々に、つくられていったのであろう。路地に落ちた影は、建物の高低差を道に投げ掛け変化がある光景だ。瓦の細やかなラインが投げ掛けた影は、リズミカルに路地に絵を描き、刻と共に戯れ、路地空間で愉しんでいるかのような錯覚を憶えた。 路地に生活の表情が溢れ出、今井町の自然の姿を見たような気がした。
大和八木駅より当麻寺に向かう。
大和八木駅から当麻寺駅までは近い。当麻寺駅の駅前広場を西に真直に走る道の突き当たりに、当麻寺仁王門(東大門)が立つ。
背後には、二上山(にじょうざん)の雌岳、雄岳の二峰が二瘤駱駝の背の如く、寄り添うように並ぶ。
二上山、当麻寺には、学生時代から何やら詳しい歴史は分からなかったが、ロマンを抱いていた。二上山は大津皇子、当麻寺に関しては中将姫伝説にまつわる当麻曼陀羅で知っていた。その名には、どことなく物悲しい響きが、秘められていた。
二上山の右の瘤、雄岳山頂には大津皇子の墓がある。天智天皇の没後、大海人皇子と大友皇子の皇位継承権争い、所謂、壬申の乱に際し、大津皇子は、父大海人皇子(後の天武天皇)と共に、渦中の人となった。大海人皇子が皇位継承し天武天皇として即位するや、大津皇子も政治に参画し、その力量を発揮した。懐風藻によれば、大津皇子は、体格もよく、優れた人物で、次期天皇に相応しい器量を持った青年だったようだ。
天武天皇の死後、数日にして大津皇子は、草壁皇子の母、皇后(持統天皇)の策謀により、逮捕され刑死する。妃の山辺皇女も大津皇子の死に殉じた。
大津皇子の姉大来(おおく)皇女は弟の死を悼み、
うつそみの人なる吾や明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟世(いろせ)とわが見む
と詠み、伊勢神宮斎王の任務のため、伊勢へ旅立ってゆく。その大伯皇女も、程なくその任を解かれた。
大伯皇女のこの歌が、印象に強く残っていた。高校生の時には、二上山を弟大津皇子の姿と思って、歌を残し、伊勢に旅立って行ったと習った。別説では、斎王の任を解かれてから、弟の死を嘆いて詠んだ歌であるという。けれども私は、高校生時代の記憶にある説の方に、ロマンがあって惹(ひ)かれる。大伯皇女は伊勢への途上、何度も振り返り、二上山を仰ぎ見たことであろう。
大津皇子の眠る、二上山雄岳は標高五一七メートル程の山であり、そんな歴史のロマンを秘め静かに佇む。駅から真直に伸びる道は二上山山麓に溶け込んでゆく。麓は民家の屋根が、複雑に交錯し午後の陽を浴びていた。さらに手前には田圃が広がり、稲が撓に(たわわ)実をつけ、黄金色に輝きを放つ。民家の玄関先の日陰で、二上山に眠る大津皇子にまつわる悲劇を思いながらスケッチを始めた。
当麻寺への参道は印象的だ。石組の塀、ブロック塀が、現在でも往時の生活の匂いを感じさせる。生垣、庭から伸びる樹木の緑葉が、住む人の優しい性格を表現している空間である。
そして背景には常に二上山の雄岳、雌岳が佇む。近付くにつれ当麻寺の三重塔が、微かに林
に浮かんで見え、二層の屋根を持つ仁王門は、圧倒的迫力で参道を歩む人を迎えて呉れる。
参道の突き当たり、仁王門の手前には数軒の土産物店が並ぶ。夏の暑さのためか、流石に探索者は少ない。
仁王門の石段の頂には、広い寺域が拡がる。鐘楼を正面にして右に屈曲し、さらに西に進めば、左方に塔頭の中之坊がある。中之坊は中将姫が(ちゅうじょうひめ)、剃髪した寺として伝えられる。石州作の庭は、大和三名園の一つである。中之坊を拝観したりすれば、時間が足りそうもないので、そのまゝ進む。
さらに進むと、右に講堂、左に金堂、そして正面に本堂曼陀羅堂(まんだらどう)が見えてくる。講堂は豪快な空間で、本尊阿弥陀如来像が安置される。
曼陀羅堂は高い基壇上に建てられているため、巾広の石段を上がって左手の受付から堂内に入るようになる。曼陀羅堂は自由奔放で豪快な空間だ。格天井を持つ外陣から太い柱が立ち上がる内陣に足を踏み入れた。内陣は?木、梁が朱色に染められ、?木と?木の間には白く漆喰が塗られ、そのコントラストが、リズミカルで現代的デザインだ。オランダのリートフェルトの家具、そしてモンドリアンの直線で構成された絵画を思わせ、そのデザイン感覚には、天平人の朗らかな息吹を感ずる。
内陣の真中に黒光りした扁平な菱形をした曼陀羅厨子がある。そこに、文亀曼陀羅が納められている。国宝当麻曼陀羅は現在、宝蔵に安置されている。
当麻寺の本尊は仏像ではなく、当麻曼陀羅である。既成概念に囚われない自由な発想を感じる。
そういえば、偶像崇拝を禁ずるイスラム教のモスクでは、祭壇に当たるミヒラブが、聖地メッカの方向に配置されているだけである。信者の回教徒は、自然にメッカのカーバ神殿に祈りを捧げることになる。
文亀曼陀羅は三・七九メートル四方の大きな曼陀羅である。形と感覚には形式に囚われない印象を受けた。それは、当麻曼陀羅を文亀年間(室町時代)に転写したものである。
根本曼陀羅と呼ばれる当麻曼陀羅は、天平宝字七年中将姫が蓮糸を以って織りあげ、西方極楽浄土を現していると、伝えられる。
藤原豊成の姫中将姫は、阿弥陀仏に会うため、お告げにより、近江より蓮茎(れんけい)を集め、糸を紡ぎ五色に染め上げ、当麻曼陀羅を織りあげた。織り上げた後、姫は阿弥陀如来の迎えで、西方極楽浄土へと旅立って行く。中将姫にまつわる説話である。
講堂、金堂を受付の人が、案内してくれた。講堂には阿弥陀如来像、金堂には弥勒如来像が安置される。堂内は暗く雑然としているが、それがかえって朗らかな印象で、武骨であるが、豪放磊落(ごうほうらいらく)な鎌倉時代の息吹を感ずる。拝観している間、受付の人が、お堂の隅で待っているの
で、気になってゆっくり鑑賞できない。
金堂の裏、南側に日本最古と云われる、天平時代の石燈籠がさりげなく置かれてあった。
曼陀羅堂の裏手(私が裏手と思っているだけで実際は表なのかも知れない)南側の狭い砂利道の坂の上、正面に西塔の三重塔が基壇上に聳え立つ。三重塔は奈良時代の創建である。軒出が深く、古色豊かな塔だ。塔の周りは樹木に包まれ、特別、塔を観光名所にしている風にも見えない。静かに、あるがまゝに佇むのであった。
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今井町路地 | 当麻寺西塔 |
さて東塔の三重塔へは、どのように行ったらよいものか。東塔は林の中腹にあり、三層の瓦屋根が、山の緑葉に溶け込むかのように見えるのだが。もしかしたら、塔頭中之坊の境内に建てられているのか・・・。
金堂の裏手の坂道の上、正面に念仏院の墓地の入口がある。山門の手前を左手に折れた正面に東塔が、西塔と同じように、俗界の喧騒とは無縁に立っていた。やはり塔の周りは林に包まれ、何故、此処に立派な三重塔があるのか不思議な感じがする。
東西両三重塔が、どんな経緯で、今ある処に立っているのか、当麻寺の歴史の面白いところだ。それほど唐突に両塔は存在する。
東・西三重塔を持つ、双塔式伽藍を奈良時代の創建当初の形のまゝ今に遺しているのは当麻寺だけだ。
当麻寺を短時間、探索して、一見、堂塔が何の脈絡もなく、自然発生的に建てられているような印象を受けた。特に三重塔は空いたスペースに無理に建てられた印象である。これには当麻寺の複雑な歴史が隠されている。
当麻寺の寺伝には、用明天皇の皇子麻呂子親王が、河内国交野郡山田郷に、万法院禅林寺を草創されたのを、親王の孫、当麻国見が、現在の寺地に移し、寺号を当麻寺としたとある。
当初は真言宗の寺であったが、平安時代の浄土信仰が、極楽浄土を表現した当麻曼陀羅への信仰を集め、数多くの浄土宗門徒の信仰の対象となった。
その結果、真言宗伽藍配置と浄土宗伽藍配置が、混合し現在のアノニマスな伽藍配置が形成されたものと思われる。
異宗派の混在を許容した精神が、当麻寺境内を歩いていても感じられる。曼陀羅堂、講堂を始めとした寺の建物、特に東西両塔の一見、無計画に思える配置、そして各建築の豪快なデザインを観るに、細かい事は気に留めない、スケールの大きさを感ずる。
建築家として、私ならば東・西両塔へのアプローチの方法は、曼陀羅堂と金堂の間から、緩い石段を計画し、正面に三重塔を建てる。塔へのアプローチの両側には、上に瓦を乗せた築地塀を伸ばし、築地塀の一部に塔頭の門を穿(うが)ち、築地塀に変化と動きを持たせる計画にするだろう。
さらに各堂を結ぶ道には、巾三メートルほどの赤御影石の万成で石畳とし、参拝客の動線
を明確にすると同時に、寺域空間に動的空間を表現する。併し実体としての当麻寺は、それが一体何になるのだと、私に問いかけてくる。
当麻寺の寺域空間には、異宗派の混在が持たらす、自由な空気が漂っている。現在の不景気な社会、リストラの嵐に翻弄される中高年、それよりもさらに過酷な歴史的事実、鎌倉時代、
平重衡による南都焼打を当麻寺は経験している。ゼロから出発して寺を再興し、なお悠然と構えている姿は朗らかでロマンを感ずる。
夕刻、境内を仁王門に進み、曼陀羅堂を振り返った時、真赤な太陽が二上山の山端に落ち、陽を背に受けた堂塔は黒々とシルエットを描いていた。
陽を背に、曼陀羅堂は黒い巨大な塊となって、二上山の山麓に、圧倒的迫力を持って立つのであった。既に境内には人の影はなく沈黙の支配する無言の相である。無言であるが故に幾千もの行を語っているのであった。
混沌たる歴史的事実そして社会の中で、尚悠然と構え、自からの信ずる意思をその形に現し、圧倒的迫力を漲ら(みなぎ)せる当麻寺の堂塔は森羅万象を包み込むのであった。そう述べること自体、当麻寺に言わせれば
「お前がそう云ったからとて、それ自体、どんな意味があるのか。つべこべ云わずに再度、出直して来い」
曼陀羅堂の黒い塊はそう語っていた。
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