!DOCTYPE HTML PUBLIC "-//W3C//DTD HTML 4.01 Transitional//EN"> 西大寺・秋篠寺から東大寺

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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
西大寺土塀 西大寺山門
秋篠寺本堂 東大寺二月堂
大和路インデックス  
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一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町
十三
大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
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3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺
 
 JR奈良駅より、奈良交通バスで、西大寺に向かった。途中、徒広い(だだっぴろ)平城宮跡が見渡せた。車窓から幾つかの再建された建物が見えた。朱色に塗られた朱雀門等である。平城宮跡は敷地が広大すぎ、まだ殺風景な景観だが、数十年後、平城宮の復元が完了した時には、往時の面影を現すことだろう。
 海龍王寺の山門が車窓に流れてゆく。海龍王寺は平城宮の北東の隅にあることから、別名隅寺とも云われる。数年前に訪れた時には、土塀は崩れかゝり、荒れ果てた寺であったが、それなりに風情があった。山門を見る限り、今は小綺麗に手入れされていた。海龍王寺については、高さ四メートル程の小さな五重塔で、その存在を知っていた。それで、かつて訪ねたわけだが、五重塔の記憶はすでに薄れ、崩土塀のそれのみが眼に浮かぶ。
 バスは遠廻りして走るため、西大寺まで三十分ほどかかった。でも、ゆっくり走るバスは、車窓から名所が眺められ、いゝものである。
 学生時代、友人と二人で普通列車で、東京から京都、小郡、津和野、島根、金沢、直江津、上野へと日本列島を半周したことがあった。普通列車ゆえに、急行、特急の待合わせのため、地方都市の駅で三十分以上、停車することがあった。そんな時は、列車に荷物を置いたまゝ、友人と共に町を急ぎ足で、一廻り散策したものだ。何も目的地に急いで着く許りが能ではない。途中、予定にない町を見るのも又楽しい。大層気に入ったりすれば、その町に宿泊することもあった。
 普通列車は先頭車両か、最後尾の車両に乗るとよい。駅に数分、停車する時でも、駅舎に邪魔されずに、街並を見れるから。
 
 西大寺のような大寺院にしては、小さな山門を潜り、石畳の道を西に真直に進めば、江戸時代創建の四王堂が右方に見えてくる。
 四王堂には、本尊十一面観音立像が安置される。亀山天皇の勅宣に(ちょくせん)より、京都十一面堂から移された観音像である。先客の三人組が、その大きさに、驚きの声を上げた。その筈である。仏高は六メートル以上もある、大きな仏像だ。
 十一面観音立像の両側には、持国天、多聞天、増長天、広目天の四天王が安置される。四天王の躍動感あふれる造型に、思わず足が止まる。写真、スケッチは御遠慮下さいとあるが、堂内は空いているし、簡単に描くのであれば許容範囲だろうと、増長天の迫力ある動きを描く。先客の三人組は、風のように次の堂に移り、天井の高い堂内には私一人だけである。描き終わりノンビリと、堂内を一廻りする。
 仏像は大きなものより、小さい像の方が描きやすい。大きな仏像を描くには、仏像との距離が堂内ゆえに確保できないため、仏像の顔の部分とかで、描かないと形になり難い。
 受付の堂守の男は、臨機応変に、見て見ぬ振りをしてくれた。帰りがけに、
 「よい絵は描けましたか。私も描いてみたいと思ってる」
 しばし堂守と話込む。最近、管理社会が進むにつれ、規則ばかりの社会になってきた。規則は一つの規準で、ケースバイケースで物事が、考えられたらと思う。例外を許せば、収拾がつかなくなり、それを黙認した責任者が、責められるのだろう。止むを得ないと云えば、そうであるのだが・・・。
 四王堂の前面、南側には室町時代の兵火により焼失した東塔、八角七重塔の礎石跡が、基壇上にある。東塔再建の準備のためか、塔跡の周囲には、柵が廻らされ入れない。再建は、何年
後になるのか、その華麗な姿を見てみたい。
 併し、七重塔はなくとも東塔跡の静かな佇に、想像力を掻き立てられ、夢がふくらむ。
 東塔跡の西側には、本尊釈迦如来立像を安置する西大寺本堂が立つ。堂内でスケッチをしていたところ職務に忠実で真面目な堂守に、描く途中で、注意されてしまい残念だった。
 本堂の南西に愛染堂がある。秘仏愛染明王坐像は拝観できない。外部には緑の原色も鮮かな如来像が立つ。周囲の環境とは異質な空間だ。何故に緑なのか、もう少し素材を生かした材質で造れないものか・・・。
 東塔跡の南側に、日本最古と云われる、鐘楼がある。創建時は、どの位置にあったのか、不明確だが、現在は、最古と云われなければ、見過ごしてしまいそうにひっそりと佇んでいた。
 西大寺は奈良時代、東の東大寺に対し、西の大寺として称徳天皇が鎮護国家、平和祈願のために、発願して建立された。
 それだけに境内の雰囲気は朗らかだ。境内では、子供の遊ぶ姿も見られ、近所の人が境内を山門から西門へと通り抜けてゆく。朗らかな住職さんの人柄が偲ばれる。開放的な寺である。
 数枚スケッチしている間、私の後に来た探索グループは、次の探索路へと向かい、西大寺を後にする。私は、気楽に気の向くまゝ、足の向く方向に行く。
 境内北端に僅か許り開けられた裏門から出た。細い道だが、西大寺の変形した土塀が右手に連なり、古色豊かで、味わいのある景観だ。
 
 西大寺の北一・二キロメートル程の処に、秋篠寺がある。北へ北へと向かえば秋篠寺に辿り着く筈だ。途々(みちみち)、思いがけない空間に巡り会えるのではと期待し、一路秋篠寺への道を行く。
 ところが、とんでもない話で、新興住宅街に迷い込んでしまい、―新築売出中―の看板に、俗世間に引き戻された。住宅街の北の小丘の向こうが秋篠寺ではと、胸をワクワクさせ、近所の人に訊ねたが、丘の向こうには墓地があるだけで、秋篠寺は方向が違う、もっと東側だと教えられる。
 大回りして教えられた方向に行くと、畔道があった。畑の向こうに横筋を引いた道らしきものが光る。早速、畔道に入った。僅かの間だが、アスファルト道路を歩き疲れた身には、畔道は心地好い足触りを感じさせて呉れる。いくらか近道だったようだ。
 畔道は狭いアスファルト道路に突き当たった。左に一軒民家があった。道は田舎道らしく、両側には木が生繁り、緑葉を揺らす風にのって、家畜の糞尿の臭が何処からともなく流れてくるのだった。
 アスファルト道路を右に折れ、直に、左に曲がるさらに細い道との分かれ道に出た。細くゆるやかな坂道に折れた。細い坂道は巨樹の差しのべる枝で蔽われ、昼なお暗い道である。
 普通であれば、真直に行った方が確実に秋篠寺に着きそうだ。でも、暗く細い道の方が、先に何かありそうな予感がする。坂道の途中、左に一軒家があった。そこだけは開放的であり、巨樹が林立した昼なお暗い空間ではなく、明るい陽差しが、家庭菜園に降り注いでいた。親子なのだろう、菜園の草むしりに精を出している母娘の姿が、木立ちの間から見えた。
 親子に秋篠寺への道を訊ねた、突き当たりを右に曲がれば、直に秋篠寺ということだ。教えられた通りT字路を右に折れる。そこはさらに深い樹林帯を抜ける道で、うす暗く、夏とはいえ、冷やりした冷気を感じさせるほどである。女性の一人歩きでは、恐いかも知れない。鴉の鳴声が、無の空間の静寂を破って、不気味に聴こえ、恰も敵の来襲を告げているかのようだ。直だと云うが、どの位つづくのかと半信半疑で進んだ。左方の木漏れ陽が差した一角に秋篠寺の小さな東門の受付が見えた。一般の探索者とは、逆方向のアプローチで秋篠寺に来たことになる。
 左のアルコーブから陽が差し、秋篠寺の受付が見えてきた。不気味な林の中の道とは、打って変わり、境内は白砂が眼に眩しいくらいに、明るい空間である。境内の真中に、柱梁の間の壁を白く漆喰で塗り固めた本堂が、樹木に囲まれ、端正な姿を見せる。
 秋篠寺の現在の本堂は、創建当初は講堂だったが、金堂焼失後、鎌倉時代に大修理され、本堂として使われている。そう云えば、本堂にしては屋根が低く、単純な形である。本堂前の白砂に立つ石燈籠が、単純な空間に緊張感を醸し出す。
 受付を抜け、すぐ左に大元師明王像が安置される大元(たいげん)堂がある。堂への石段に腰を下ろし、西大寺から歩いて来た疲れを癒す。
 休憩しながら本堂を描く。本堂軒端の優しい反りが、直線で構成された機能的デザインの中で、艶な空間を現す。休憩しながらスケッチをするのは、時間が有効に使えてよい。疲れのせいか、思いきりの好い線が描ける。細かい処を気にしないためだろう。
 秋篠寺は西大寺に比べ、探索者の数が多い。伎芸天立像を拝観するのが目的なのだろう。
 
 本堂の妻側に開かれた入口から堂内に歩を入れた途端、そこは外の世界とは別世界で、幽暗な堂内は冷んやりとして涼しい。堂内には静かに薬師如来像、伎芸天立像を始めとした仏像を鑑賞する三人程の姿があった。
 幽暗な堂内だが、スポットライトで、入口側に安置された伎芸天を始めとして、日光・日光菩薩像、薬師如来像を照らし、適度な陰影を仏像に投げ掛けていた。光を受けた仏像は立体感が強調され、ふくよかで柔らかな質感が、よく現れている。
 入口側の左端に安置された伎芸天立像は、上半身を僅かに曲らせ、頭部をさらに僅か右に傾け。左膝を微かに前に出し、顔には微笑を浮かべ、合掌する人に慈愛の眼指(まなざし)を向けているのであった。
 長身のスラッとした体、形式にとらわれない自由な造形性を感ずる。一般に本尊の仏像は、形式を重んじ、俗界の我々人間と一線を画し、我々の手の届かない仏像が多い。伎芸天は本尊でないが故に、自由な造形が可能だったのか。
 伎芸天の頭部は天平時代の乾漆造、体の部分は鎌倉時代の寄木造だそうだが、何故に、そのように混構造で造られたのか、分業化のためか、工法のためか不思議である。
 写真で見ると、時代を感じさせるテクスチャーだが、スポットライトの光を受けた伎芸天立像の輝きは、人工的光線を、仏像の体内から発した仏光のように感じさせる。八百年以上昔の鎌倉時代を通り越し、昨日そこに、衆生救済のため安置されたかのような新しさ、現代性を感ずる。 武家社会の武骨な性格の対極に、斯様な円熟した文化があったという事は、一つの時代の文化の裏には、常に対極する文化が、存在するという事なのであろう。
 私は原風景にある母性を、伎芸天の内から溢れ出る芳香に、見い出しているに違いない。見い出すと云うより、伎芸天の流麗な姿にそれを求めているのかも知れない。
 伎芸天に間近に接し、今回の奈良探索の目的は、充分に達成された想いで、一杯である。
 
 伎芸天を描こうと思ったが、伎芸天は受付側に安置されているので、まず堂内右端の帝釈天を描くことにする。帝釈天も伎芸天同様、頭部は乾漆造、体部は寄木造である。
 静寂が支配する堂内には、仏像鑑賞の探索者が、入れ替わり立ち替わり入って来るが、常に三人ほどいるだけで、静かでシーンとした空間だ。
 六十才位の女性が、スケッチをしている私の周りを何度か通り過ぎた。帝釈天のスケッチを終え、本命の伎芸天に移ろうとした時、受付の方で、件の女性が、受付の若い男に、
 「此処はスケッチをしてよろしいんですか。向こうでスケッチをしている人がいるが・・」
 私の方を指差して、何やら、許可を求めている様子だ。
 そこは丁度受付の横になるのだが、伎芸天の前で、スケッチブックを構えた時、受付のアルバイトの若者が、スケッチは駄目だと云う。
 「鉛筆を使うだけで、色は塗りません」
 「写真、スケッチは、いけない事になっているんです」
 そう云われば、描く訳にはいかない。それほど混みあってない堂内、許される状態と思うのだが・・・。
 件の女性、スケッチをしたいのなら、人の迷惑にならないように、柱の隅でヒッソリと、描けば良いのに・・・。受付の若者では、管理者の代理人として、許可を求められゝば、構いませんとは云えないだろう。
 女性は申し訳なさそうに、私の方を見た。真面目で、奥床しい女性なのだろう。
 母親と堂内の仏像を鑑賞する小学生の女子が、ノートを抱え、受付の若者に訊ねた。
 「夏休みの宿題で、秋篠寺の由来を調べているので教えて下さい」
 「私はアルバイトなので、充分に教えられない。住職さんに電話で、教えてくれるかどうか、訊いてみましょう」
 と若者は答え、電話で住職さんに成り行きを説明し、子供との面会ができるかどうか、都合を訊いているが、洩れ聴こえてくる様子では、どうやら無理のようだ。
 私も人を使っている身。何から何まで上司の判断を仰ぐようでは、こちらの身が持たない。自分で勉強して判断できる事は、そうしなければならない。人に訊くほど楽な事はない。
 若者、秋篠寺でアルバイトをするのなら、少なくとも寺の歴史、仏像の一般評論ぐらいは勉強してほしい。写真を撮影してはいけないというマニュアルはあるが、秋篠寺の歴史を訊かれると云うマニュアルはなかったのだろう。住職さんの呆れた顔が目に浮かぶ。
 しばらく堂内で、伎芸天を始めとした仏像を、ゆっくり鑑賞する。私が今まで見た仏像では、興福寺の宝物館にある、山田寺の仏頭が最も印象に残っていたが、秋篠寺の伎芸天立像は、それに比肩する程、私の脳裡に焼き付いた。
 本堂の裏手に水道があった。本堂の陰になり、水はあるし、休憩するのには、もってこいの場所だ。
 伎芸天の余韻を愉しみながら、縁台で休んでいた。件の女性が来、
 「先程は、悪い事をしました。私が云わなければ、そのまゝ描けたでしょうに。私も少々、仏像のスケッチをするものですから、柱の影で描けば、よかったんでしょうね」
 と申し訳なさそうであった。
 女性は、法隆寺の夏期大学に、明日から参加すべく奈良を訪れているとの話。法隆寺の宿坊に泊まって、二日間、講義を受けるらしい。通常は、拝観できない仏像も見られるので、来年は申し込んだらどうかと勧められた。
 夏期大学の受講生には、仏像鑑賞が好きな人が多いらしい。十六才から六十五才までの人なら、申し込み資格があるとの話だ。
 女性は、バスの時刻が近いから、もう一度伎芸天を見ていこうと独語を吐き歩いていった。そう云いながらも、伎芸天の安置された本堂を通り越し、門の方に消えて行った。
 何せ私は、スケッチを中断させられたので気分が悪い。伎芸天に別れ難く、幽暗な本堂に再びあしを踏み入れた。受付の若者に軽く会釈し、伎芸天の前にしばし佇む。

秋篠寺 帝釈天像 西大寺 四天王像
 
 秋篠寺より、歩いて近鉄平群駅に向かった。例によって、期待する空間に出会えるのではと思うのであったが、暑いだけで、期待はずれに終わる。多少、田圃の畔道を歩いた位だ。
 平群駅から奈良駅までは直だ。近鉄奈良駅から興福寺沿いの道を東大寺に向かう。途中、大きな交差点で、スロープのある地下道があった。地上では横断できない。多くの修学旅行生が来るため、横断を容易にするように設計され、自転車も通れる。地下道を潜ると、その先に日吉館がある筈だ。
 奈良国立博物館前の日吉館が、閉鎖されたのは新聞を読んで知っていた。現在どうなっているのか、懐かしく思う。幾つか骨董屋が続く並びに日吉館が見えた。
 もしかしたら再開しているのではと、微かな期待を抱き、車道左側の仕舞屋(ももたや)の家並を眺めた。小さなアクリル板に、日吉館と書かれてあったが、ドアーが閉鎖され昔日の面影はない。かつてガラス戸の上の小壁に掲げられていた、歌人会津八一揮毫(きごう)の「日吉館」の看板はすでに外され、ガラス戸が冷たく光っていた。
 秋艸道人会津八一は、奈良を訪れた際には、この日吉館を常宿としていた。私も学生時代、二度ほど宿泊したことがあった。
 日吉館の女将が、近年、亡くなったことは、新聞の物故欄を見て知っていた。
 日吉館の女将は名物女将で有名だった。三十年前に―あおによし―なるテレビドラマが放映されたことがあった。日吉館の女将の半生を描いたドラマだった。確か真野響子が主演していたと記憶している。
 会津八一が常宿としていた時代は、人も少なく、ゆったりとしていたのだろうが、私が訪ねた頃は、芋を洗うが如く、多くの若者で賑わっていた。午後投宿のため、日吉館のガラス戸を開けた、玄関に客の荷物が、たくさん置いてあるのが眼に入った。畳敷きの玄関の間で小柄な女将が、一人一人客の吟味をするのである。
 「今日泊まらせて頂きたいのですが」
 恐る恐る、梅干しのようにしわくちゃになった顔をした、小さな体の女将に話しかけた。
 「今日も明日も満員で泊まれません」
 と冷たく断られてしまった。
 「早稲田の建築学科の学生です。建築史の渡辺保忠先生の講義を受けて・・・」
 と話すと、女将は、渡辺先生をよく御存知らしく、突然、愛想がよくなり、
 「保忠先生は元気ですか」
 と話がはずんだのであった。我々学生は、渡辺保忠先生を通称、保忠先生と呼んでいた。
 門前払いを喰うところだったが、保忠先生の御威光により、一晩お世話になれそうだ。
 「そこに荷物を置いて、又あとで来なさい」
 これで、由緒ある日吉館に泊まれる。一瞬間女将の背に後光が差し、しわくちゃになった顔が輝いて見えた。
 私が泊まった二回とも、日吉館の夕食は、スキ焼鍋だった。それも宿泊客の人数が多く、交代制であった。長テーブルを座敷に並べ、始めて会う者同士、和気あいあいと、鍋を突(つつ)いたのを懐かしく思い出す。早く食べた方が、たくさん食べられる。だからといって、意地きたなく、一人で多く食べる人もいなかった。
 風呂は一つだけしかなく、当時、まだ薪で焚いていた。これ又、交代制である。三十人以上の客が入浴するので、順番が回ってくるのは容易でない。
 寝るのも満員で、一人当たり半畳ほどの専有スペースだけで、まるで山小屋に、泊まっているようであった。
 でも、夕食後女将の昔話を聴け、思い出深い一晩を過ごすことができた。
 そんな学生時代の頃を思い出し、日吉館の前で暫く佇む。小さな旅館だが、幾多の文化人が通り過ぎていった旧きよき時代を想うのであった。
 
 東大寺への大通りを左方に折れた。南大門に近付くにつれ、その大きさに、しばし足が止まった。圧倒的迫力の高さと拡がりがある。片側に露店が立ち並び、店先のカラフルな彩の土産物店が、参道らしい雰囲気をつくり出している。樹陰を捜しスケッチを始めた。スケッチ中、通り過ぎてゆく探索者の言葉が聴くともなく耳に入る、韓国や台湾など、東洋系の言葉が多い。
 仰ぎ見る南大門は、これが人間の創ったものか、と思われるほど巨大である。地震の横力に対抗するため筋違でなく、水平の成(せい)の高い貫と垂直の柱、束で木造フレームを構成している。深い軒出を支える斗?(ときょう)・肘木(ひじき)の連続に、重厚さの中にも軽快なリズムを感ずる。余りにも軒出
が深いため、途中水平の貫で、先端の横振れを防ぐ構造である。
 その直線構成は、恰も、モンドリアンの絵画を想わせる。直線で構成された巨大空間である。 南大門の太い柱の隅で、大仏殿を描く。遠方から眺める大仏殿の大きさを頭で考えているだけで、実体のそれを掴みきれない。人間の姿と比較すればその巨大さが分かるのだが。
 その空間に身を委せ、仰ぎ見る南大門は、その巨大さに、ただただ息を呑む許りである。
 南大門は風通しも好く、幾人もの人が、その下で休憩中だ。スケッチに彩色しようとするが、人通りが多く諦める。参道の片側には土産物屋の露店が立ち並び、参道空間に心地好い雰囲気を醸し出すのであった。
 参道は巨松が差し掛ける緑葉に蔽われ、大仏殿の大屋根と参道の巾分、大仏殿の一部が垣間見えるだけで、大屋根が緑葉に浮かんでいるかのようだ。
 さらに近付いた際、大仏殿の廻廊の真中にある南門から見える大仏殿には、その大きさに驚かされた。正面の破風状の屋根、大屋根そして大屋根を支える出肘木の黒々とした形に重厚さを感じた。それらが眼前に壁の如く立つ。一度決定したら、どんな困難も、ものともせず、何が何でもやり抜く、強固な意志と実行力を、大仏殿は現している。
 この強烈な印象を絵にするのは難しい。上手に描くのではなく、印象を表現するのだが、悩んでしまう。対象物全体を描くのではなく、画面から食出(はみで)る位にして、一気に描くしかない。印象が表現できればよい。
 しばらく南門の基壇上、竪格子の下に座り、大仏殿を仰ぎ見る。南門は石段を上がった高所にある故、風通しがよく、参道の石畳を歩く色取どりの人の群れがよく見渡せる。四人連れの親子も、ホッとした表情で休憩中である。
 廻廊の左端の受付を通り、廻廊を進む。左手に大仏殿が眼に飛び込む。先刻の南門より僅かに近付いただけだが、それはまるで巨大な軍艦が地上に、舞い降りて来た如く、其処に立つのであった。 大仏殿に安置されている、毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)を信仰の対象にするというより、その大仏殿の壁自体が、信仰の対象なのではと感じる。
 さらに大仏殿に近付くにつれ、圧倒的巨大さに、宗教的な荘厳さを感じるほどだ。大仏殿の石段を上がった処で、さらにその感をつよくするのであった。
 大仏殿に入ると、巨大な毘盧舎那仏を蓋う堂内の骨組は、外部空間構造を、内部空間に貫入させている。そこには、外部も内部もない。一体的な空間を認識させる御堂がある。
 複雑に織り成す直線のデザインを眼前にし、ディテールのすばらしさと同時に、天平人の朗らかな気風に接する喜びを感ずる。
 堂内の柱の巨大さ、その柱に巻かれた鉄バンド、鉄釘、床面に現れた柱の礎石、どれを見ても、本物のデザイン思想が息づいている。
 冷んやりとした堂内を一廻りする。裏側には再建するであろう七重塔の模型がある。堂内の太い柱の存在感は、宗教的な荘厳さを高め、観る物に、畏敬の念を抱かせるに充分である。
 東大寺は、奈良時代に聖武天皇の発願により、総国分寺として創建されたが、平重衝の南都焼討により、堂塔を悉く焼失した。現在の堂塔は江戸時代に再建されたものである。大仏殿は創建時の約六割ほどの規模になってしまったが、それでも今見てきたような巨大さだ。創建当時の光景は、如何許りであったろうか。
 
 大仏殿の廻廊を出、横に長く伸び勾配の緩い石段を二月堂に進む。石段の正面は、手向山八幡宮である。探索者の数は少なく、東大寺参道に比べ、いかにも古都奈良の風情を感じさせる。八幡宮の手前を左方に折れ、二月堂の石段の中腹に出た。
 下から見上げる二月堂の舞台は、端正な形である。舞台を支える木造の片持梁が、リズミカルに澄み渡った奈良の空に浮かび、大仏殿の男性的な意志の強固さに対し、女性的な肌理(きめ)細かい優しさを現す。
 二月堂の整然と、据えられた石段を上がって、小さな広場に出る。広場の右側に寺務所があった。そこで拝観料を払うのかと思ったが、奈良の寺院にしては珍しく、拝観料は必要なく、自由に拝観できる。二月堂は何とかは金次第などと、世知辛いことは云わず、朗らかで大陸的だ。
 左側の舞台の前面では、大和平野を一望できる。時刻は、陽も落ち四時を少し回る。夕方の弱い陽を受け、奈良盆地がキラキラと輝き、ひとつひとつの輝きが、大海原に浮遊する小舟のように想える。
 手前には、青々と樹々が繁り、そんな木立ちの中に、大仏殿の大屋根が覗く。まるで緑の絨毯に浮かんでいるかのようだ。
 二月堂の舞台には探索者は六人ほどしかいない。それぞれ一日の探索の最後なのだろう、舞台に据えられた木製のベンチに腰掛け、心行くまで、このパノラマを愉しんでいる。私も、手水鉢から流れ落ちる一筋の冷たい水で汗を拭い、一息ついた。雄大な光景を眼前に、ホッとする一時(ひととき)である。
 舞台の先端、太い手摺にスケッチブックを乗せて描くが、光景が雄大で、画巾が足りない。
 二月堂の反対側の急な階段を降り、石畳の広場に出た。左に行けば、東大寺の表に出る。僅
かに右にクランクし、真直に歩く。
 確かこの辺だった筈だ。学生時代友人と共に歩いた石畳の道、道の両側は高い築地塀だった。築地塀内は、社会と隔絶した、高貴な人の住栖(すみか)なのか・・・。その研ぎ澄まされた空間を今でも判然と憶えている。
 見覚えのある石畳である。石畳は巾広く、不整形に屈曲し、道なりに高い築地塀が連続する。道はゆるい下り勾配で、なだらかである。築地塀は拒否的で人を寄せ付けない。一般民衆のものであったデザイン、たとえば土塀などの土着的空間を収斂さ(しゅうれん)せ、雲上人のそれへと昇華させた空間性を感ずる。道を中心にした外部空間に如実に、それが現れている。そんな一つに東大寺の住職さんが住んでいるのだろうか。
 雲上人の空間から、ハッとするような庶民的感じの美人が、和辻哲郎の古寺巡礼を小脇に抱えて、出て来れば雲上人空間も、俄然、身近に思え安心するのだが・・・。
 ゆったりと屈曲した築地塀に沿って、石畳を下から、若い女性二人が上がってくる。彩豊かな服に身を包み、知的な表情である。無機的な石の空間の中、絵になる光景であった。
 道を幾つか折れ、小公園を抜け、名園依水園の門前に出た。入園時刻は既に過ぎ入れない。次の機会にはぜひ訪ねたい。
 陽もかなり落ち、西大寺、秋篠寺そして東大寺と歩き続け、流石(さすが)に疲れてきた。奈良公園に出、興福寺南円堂を描こうとしたが、写真に納めるだけにする。振り返って眼に入った若草山の緑が、夕陽を浴び、輝く姿が印象的だった。
 
 JR奈良駅への下り坂の商店街、三条通りは、一見東京の原宿風の佇で、若者、小さな子供連れの親子が行き交う。筆硯店、道沿いの寺院の構えに、古都の雰囲気を感ずる。東京では、たくさん見かける一〇〇円ショップもある。A4版ファイル、筆を買って外に出た。不気味な雨雲が空一面に拡がり、ポツンと二粒三粒雨が落ち、直に大粒の雨が、激しく路面を叩きつけてきた。けれども奈良駅の方角、西方は明るく陽が差している。天気雨で、駅も近いし傘は差さずに濡れてゆく。
 奈良駅に駆け込むや、いつもと違い何やら様子がおかしい。改札口に大勢の人が群れていた。駅構内放送に耳を澄ます。大阪の天王寺駅近くで架線事故があったらしい、大和路線は不通、近鉄線への振り替え輸送をしているとの事だ。
 JR桜井線に乗り南回りで行っても、天王寺は通らなければならない。近鉄線で行こうと思ったりしたが、丁度良い機会なので、JR奈良線で京都廻りで吹田に帰ることにした。
 かって数回、奈良線で京都から奈良へ乗った事があった。いずれ奈良線の車窓の風景を愉しみたいと思っていたところだった。
 奈良線は大和路線ほど頻繁(ひんぱん)に快速は運行していないらしく、京都行の普通列車に乗った。思ったより乗客は少ない。快速のボックス席と違い、普通列車のボックス席は気分が落着く。普通列車だから当然各駅停車だ。車窓からの風景もゆっくり流れ、大和路の旅らしい旅情を感じさせる。何も早く目的地に着くだけが、よいことではない。
 奈良線の車窓からの風景は、大和路線に比して古い民家が数多く遺り、素朴な印象である。山の緑葉の葉擦れに民家の集落が、流れては消えてゆく。民家の銀鼠色の瓦屋根が印象的だ。
 土着的に人間の造り出した集落に接すると、自然に対峙(たいじ)するのでなく、自然に逆らわずに、溶け込んでいるように想える。建築材料は木、土、泥を焼いた瓦等々の自然材料を、使用しているため、周囲の景観に同化しているのであろう。スケールも木造二階建が多く、違和感がない。 奈良を出、しばらく進むと、奈良線の沿線に上狛駅がある。学生時代、岡本君の親類柳沢家が上狛にあり、一週間ほどお世話になったことを思い出した。上狛は環濠集落の村―今では村というより町―である。記憶では小さな集落だったが、車窓から見る上狛集落は思ったより、遙かに大きく、柳沢家はどの辺だったか、見当もつかない。
 柳沢家は鎌倉時代から続く、古い伝統のある家で、岡本君の話によれば、長屋門は鎌倉時代の建物だそうだ。長屋門の二階には、彼が幼少の頃、青大将が住みついていたと云う。そこには、鎌倉時代の兜もあり、薄暗い室内で思わず、源平の御代の華麗な生活が眼に浮かんだのを憶えている。まだ、二十才の青年の頃の話だ。
 上狛駅で降りようと思ったが、既に夕方六時を回っていたので、次の機会に訪ねる事にする。 列車が京都に近付くにつれ、車窓の光景も密集した民家が混在した風景に変わってきた。その内に睡魔に襲われて眠りにつき、ふっと目覚める。そんな事を何度か繰り返すうちに、いつの間にか京都駅に着いた。 三十年振りの奈良線は、歴史の佇を今に残し、忘れ去った時代を蘇らせてくれるのに充分であった。
 
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