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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
聖林寺1 聖林寺参道
聖林寺石垣 パルテノン神殿
大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

8 聖林寺から談山神社へ
 
 JR桜井駅では聖林寺行バスの便が悪く、一時間待たねばならなかった。ブラブラ歩いて行けば途々、ハッとする空間に巡り会えるのではと期待し、歩き始めたが、以前それで、殺風景な自動車道を歩かされた憶えがあった。加うるに夏の盛りで暑そうだ。やはりバスを待つ事にした。
 バスの発車時刻まで桜井市内の探索をする。アパートの屋上から三輪山を遠望しようとしたが、正面玄関にはオートロックで鍵が掛かり、内に入れない。オートロックは便利で防犯上、都合がよいが、部外者には排他的だ。道空間の連続として、建築物の階段、廊下を計画すれば、都市空間に複雑でおもしろいエレメントを、付け加えることができるのだが。
 三輪山の遠望は諦め、それでは、と商店街の探索に切り替え、歩き始めた。やがて、まだ旧さが遺る桜井の商店街に出た。
 商店街の一角、左方に細い路地が伸びていた。人が辛うじて擦れ違える巾員である。片側は人家の板塀が屈曲し、反対側はトタン壁が、ギリギリまで迫る。板塀の内から、青々とした葉を繁らせた樹木の枝葉が伸びていた。午前中の買物の主婦が、路地に落ちたトタン壁の影の中を歩いている。
 何の変哲もない路地空間だが、旧い日本の道空間を垣間見るようで、思わずスケッチブックを取り出した。道が真直ではなく、僅かに右にカーブしているため、空間に動きがあり、リズムを感ずる。
 ゆるくカーブした道は、車が入れない人間的空間だ。役所の建築課に云わせれば、細い路地では、火事の際には、消防自動車も入れないで、危険であると云うだろう。建築基準法では、道路の巾員は四メートルにしなければならない法律になっている。数年後この路地も建替えの際には、四メートルになってしまうだろう。法律だから已むを得ないが、人間的空間が、徐々に、日本の町から失くなってゆくのは寂しい思いがする。
 描くのに夢中で、時間を忘れ、聖林寺へのバスの出発時刻の十分前になった。急いで食料品を買い込み、バス停に向かう。
 聖林寺への道は、町から離れるに連れ、田圃風景が拡がり、緑葉に囲まれた民家の家並にも、大和盆地の旧い歴史を感ずる。
 天理教のお膝元だけに、大層立派な天理教教会が、バス停近くに見える。バスは、時々乗客が乗降する程度で、ガランとした車内風景だ。
 聖林寺前バス停、傍らの橋に立った。西方の山腹に、聖林寺らしき寺の甍が、木立ちの間に小さく覗いていた。工事現場の搬出土を運ぶダンプカーを誘導するガードマンに訊ねると、やはり甍の波は聖林寺と云うことだった。
 聖林寺は、山腹に落着いた佇で立ち、周辺の村落の好いランドマークとなっている。遥かに望む本堂の入母屋屋根、山門の切妻屋根が織り重なり、小寺のわりに構成が複雑だ。
 山の縁に集落が水平に拡がり、周辺の風景よりも一段高所に聖林寺が、集落の中心であるかの如く立つ。いつも、寺院は集落の中心にある。寺は信仰の対象として存在するのは固(もと)より、他に公共施設のなかった時代には、コミュニティーセンターとして、集落の人々が集まる施設でもあった。寺の主である住職さんは、あらゆる意味において、人々の尊敬を受けていたのであった。
 聖林寺への道は、真直に伸び、山腹に向かって上り勾配である。上り勾配の道は、俗界から尊い空間へと、徐々に気持を高揚させる空間的効果がある。寺に近付くに連れ、参道の両側に、露払いするが如く、さりげなく民家が佇む。
 山門が間近に見える民家の四つ辻に差し掛かった時、右手の四つ辻の方で、ステゝコにランニング姿の六十才搦の男が、手招きし、
 「こっちへ来い」
 意味不明な事を、大声で叫ぶ。
 「聖林寺への道は、そっちからでないと行けませんか」
 眼前に聖林寺が見えるが、地元の人が云うからには、何か事情があるのでは、私はステゝコ姿の男の方に歩いて行った。
 男は、
 「聖林寺へ行くのか。バスは一時間に一本しかない。一緒に行こう」
 いかにも自分が聖林寺を案内してやろうと親しげに話しかけてきた。バスが一時間に一本だけしかない事が、聖林寺を参拝する事と、どのような因果関係があるのか。不審に思いながらも親切を無にしては失礼と、男と一緒に山門に向かって上って行く。聖林寺は眼前にあって、案内されなければ、迷う位置ではない。何故一緒に歩かねばならないのか、訳も分からないまゝ男と並んで上って行った。
 参道の左に男の家があった。男の家の玄関先を通り過ぎ、名前を訊くと、男は匠原と応えた。表札を見るに確かに―匠原―と書かれてあった。名前から察するに、
 「大工さんですか」
 「そうだ。名字を見れば分かるでしょう」
 男は匠原と書かれた表札を指差しながら応えた。家の二階には大きな窓があった。多分、バス停から参道を歩いてきた私の姿を見ていたのであろう。見知らぬ人と話をする快感に浸っているようにも思える。
 「息子が某国営テレビのアナウンサーをしている。よく憶えていてくれ」
 男は何度も念を押して話す。屡々老人は話が飛躍し、何の脈絡もなく自分が今、一番、思い考えている事を話す場合がある。面倒がらずにそれを聴いてやるのも大切だ。それは、老人に限らず、どの世代にもいる。繰り返し述べられると、流石(さすが)に閉口するが、そんな人に限って、人の話をよく聴かない。自分の事を話したくてウズウズしているのである。
 
 直に、こんもりとした緑葉の海に、聖林寺本堂の入母屋屋根の甍が、浮かぶのが見えてきた。左方には庫裡の瓦屋根が緑葉の間に覗く。背後の小丘は樹々で蔽われ、その光景は、恰も聖林寺を取巻く桃源郷のようだ。眼線近くには、野仏六体が横一列に並び、参道を挟んだ反対側には―聖林寺―の石碑が立つ。それは結界を現しているようであった。参拝者の心身の高揚を刺激する心憎い許りの空間装置である。
 遠景の小丘、中景の聖林寺の甍、近景の野仏、それらが黄緑、青緑、濃緑の海原に、渾然一体となって、宗教空間を形成している。
 温暖多湿な気候の中で、樹木に蔽われ、穏やかな光景だ。曖昧で明確な指標はないが、自然に包まれ、全てを包含する日本的風景を見る思いである。自然の前では、主題も副題もなく、全てが同列の要素を持ち、自然を構成しているのかも知れない。見る人の気持によって、聖林寺が主題になったりするのだろう。
 
 ギリシヤのパルテノン神殿、白亜の神殿は無機的な岩山の頂に佇立する。その姿は、アテネ市街どこからでも遠望することができる。日本の風景を見慣れている私には、それは、自然に立ち向かう姿に見える。自然に同化するのでなく、自然に対立する思考を感ずる。人間が造る建築物は、全て自然に抗するように、たとえば雨露を防ぐ、風を防ぐ、地震に耐えるよう考えられている。それは、聖林寺でもパルテノン神殿でも同じだろう。空間的現れ方が、その風土、
国民性によって違ってくると考えられる。
 確かに、岩山の頂に立つパルテノン神殿を見る時、古代のギリシヤ人の求心的精神性と同時
に、その技術力、芸術的豊かさを強く感じる。
 ある時代に人間の持つ内的なるものを、その時代の外的な最高の技術で表現した構築物は、観る者に感動を与えずにはおかない。
 
 描いている間に、匠原さんは、どこへやら消え、姿を見かけない。何度も「忘れないでくれ」と云っていたのが、耳に残る。
 野仏の並んだ参道口を過ぎ、道はさらに傾斜がきつくなる。寺に近付くにつれ、すばらしい空間構成に思わず、感嘆の声を上げてしまった。
 そこは急坂な参道で、右方に小ぢんまりとした苔むした墓地がある処であった。道と墓地の間には、ごく小さな濠のような水路があり、水路の縁に生えた灌木や草が、古の(いにしえ)生活を思い起こさせる。左方は一段低くなり、畑地が下方に拡がる。
 私は坂の途中に立っているため、下から聖林寺の複雑に構成された堂宇(どうう)を、見上げる恰好になる。それ故に、一層、複雑な建築群が強調され、加うるに、遠近法により奥行きが実際より深くなるのであった。
 道は上に行くに従い平らになり道の先方が木立ちの緑葉に吸い込まれてゆく。無限の空間、エンドレス空間に身を置いているような錯覚を憶えた。そのエンドレス空間から、土地の老婆が、手を後手に組み、地平線から太陽が昇るが如く、少しずつその姿を大きくし、近付いて来た。生きた仏様の姿が現れてくるような幻想を感じるのだった。
 聖林寺の堂宇は、城郭風に放物線を描いた苔むした石垣の頂に、群青色の空を背景に、軽やかに波打つが如き表情を現す。
 手前の石垣の頂には、切妻瓦屋根を持つ山門が木立ち越しに覗く。山門へは、石垣で隠れたアルコーブ風にバックした石段で上がる。下から見上げているせいか、山門は華麗で、夏の光を受け、陰影でコントラストがはっきりし、空中に浮遊する鶴の頭のような形に見える。
 道沿いには、寺の庫裡と思われる建物が、石垣上に立つ。石垣より一メートルほど跳ね出した片持構造でその白い漆喰壁を支える。さらに軒庇が深く出ているため、動的空間を感ずる。坂道で奥が平坦になっているため、建物が道に吸い込まれてゆくような感覚を憶える。
 道が若干、左方にカーブし、庫裡は道なりに雁行することになる。
 片持構造の軒庇は濃い影をつくり、上部の漆喰壁の軽やかさを一層、強調している。それは、飛翔する鶴の華麗な翼(つばさ)のようだ。
 数度の兵火により焼亡した聖林寺の堂宇は、江戸時代、三輪山の玄心和上により再建された。
その形は恰も、聖林寺の境内に鶴が、舞い降り、その翼を休め、今、将に、飛び立って行くのではと思われるのである。
 
 本堂の広縁で中学生三人が騒いでいるが、特別に注意される風でもない。弁当を食べながら描く間に、中学生三人組が降りてきた。
 「内はどうだった。十一面観音立像は、よかった。内にはたくさん人がいた」
 「おばさんが一人いただけで、僕達だけでした。仏像は僕達には難しくてよく分かりません」
 中学生らしい答えが返ってきた。併し、いずれこの荘厳な空間は、彼等の原風景となって、心に刻まれるに違いない。
 描き終わって少し進み、山門を見上げる場所に出た。石垣の間の趣きのある石段を上り切った高所に、年代を感じさせる山門が立つ。一般的に山門は、両側に築地塀を従え寺域の中心に立つのが多い。聖林寺山門は敷地の関係上、寺域南東角に立つ。私が訪ねた時は、丁度昼頃だったので、山門は陽を浴びて輝き、陰を色濃く落としていた。
 山門の入口に、石垣の放物線の稜線が、天空を突き刺すような形で上に伸びる。
 前には見えなかった本堂の一部が、苔むした石垣の上に見上げられる。聖林寺は近付くにつれ、素晴らしい空間を現してくるのであった。
 聖林寺の境内は山腹を平坦に造成し、低い方の寺域に石垣を積み上げ、敷地としている。著名な寺院にしては、寺域が狭く、密度の高い空間である。
 国宝十一面観音立像を安置する堂は、余りにも狭く天井も低い。堂と、安置される仏像は表裏一体で、参拝者に対峙する空間の筈であるが・・・。十一面観音像を安置する堂は、最近鉄筋コンクリートで造られた堂である。奈良にある他の寺、たとえば唐招提寺の金堂とまでゆかずとも、その片隅ほどの空間でも聖林寺十一面観音立像の安置する場として考えられたら、と想うのであった。
 寺域が狭いため、境界の苔むした石垣上に迫り出して、建築群が建てられ、その優雅な姿を見ることができる。
 このような間近に見上げる構図は描き難いが、思うがまゝ、筆が運ぶまゝ、失敗を怖れずに描く。スケッチブックは、小説家の原稿用紙みたいな物である。対象物を見、自分の感じたまゝ、描けばよい。そう自らに云い聴かせ、筆を走らす。厚手の高価な紙より、ザラ紙の方が気楽に描ける。私は薄手のA4版キャソン紙を、いつも小脇に抱え、腰のウェストポーチには、鉛筆、筆、固型絵具、水器を入れ、直さま、取り出せるよう用意してある。齢のせいか、描く準備に時間がかかったりすれば、つい面倒に成りがちになるから。
 石段下で描く間、幾組かの探索者が寺に入り、そして帰って行った。折角素晴らしい空間に身を委せているのだから、ただ通過するだけでなく、スケッチでも描きながら、空間に浸っている方が性に会う。そろそろ私も十一面観音立像を拝すべく、山門への石段に足を踏み入れた。
 
 山門を潜り、樹木が数多く立ち上がる中庭に出た。正面には本堂があり、左側に、受付のある庫裡が立つ。本堂、庫裡の規模に比べ、寺域は極端に狭い。大きな住宅の敷地内に、母屋、離れが立つような空間構成である。
 寺域が狭いのは前に述べた如く、山腹を造成して寺域を造っているため、敷地の拡張が難しいという物理的理由がある。
 植込みの間を抜け受付に進む。小ぢんまりとした中庭である。
 受付の年配の女性も、数年前まで絵を描いていたらしいが、最近では、もっぱら鑑賞するだ
けだとの話だ。 三輪出身の一水会の画家の画集を手元に置き、時々、繙い(ひもと)ているそうだ。
 「絵を見ていると、本当に心が和みます」
 と穏やかな眼差しで、話していた。
 「聖林寺の御本尊はお地蔵様で、右の本堂に安置されています。十一面観音像は、渡り廊下を通って、奥の御堂に安置されています」
 受付嬢の話だが、私は、てっきり十一面観音像が聖林寺の本尊だと思っていた。お地蔵様が御本尊とは考えてもいなかった。お地蔵様と聞くと、左手を前に出した、路傍のそれだけしか思いつかない。
 本堂の中では、四人連れの参拝客がお地蔵様の前で、畏まって座っていた。女性の住職さんが、忙しそうに、厄除けの準備の最中だ。邪魔ではと思い、別室の十一面観音像を先に拝観しようと、渡り廊下の方に進んだ。
 渡り廊下の先、お堂の入口の横壁に、いくつか万葉集の歌が掲げられてあった。
 
  夕すれば小倉(をぐら)の山に鳴く鹿は今夜(こよひ)は鳴かずい寝(ね)にけらしも     崗本天皇
 
 折口信夫の説明では、聖林寺の背後には小倉山が拡がっているが、都が平安京に移ってから、京の宮人は、二尊院がある嵯峨の小倉山にその名を移し、奈良の都を懐かしんだそうだ。
 奈良を訪れて、幾度か折口信夫の名を眼にした。彼の作品で、当麻寺を舞台にした神秘的な歴史小説―死者の書―は、題名自体、ロマンを感じさせる響きがある。
 狭い堂の入口に立ち、十一面観音立像を正面に拝する。スラッとした長身の容姿、ふくよかな顔、体は流麗な衣に包み。衣の華麗な曲線が均正のとれた姿を強調する。十一面観音像に関する知識はないが、明らかに天平白鳳時代を思い起こさせる像である。
 観音様は顔、腰つきの線を見るに女性的である。しかし胸は明らかに男性のものだ。後で入室してきた人の話によれば、観音様は、男でもなく、女性でもないらしい。
 木心乾漆像の下塗りの漆が黒く、斑に見え、上塗りの金箔と好く調和している。古色豊かな仏像だ。
 和辻哲郎の古寺巡礼によれば、聖林寺十一面観音像は、もとは大神神社の神宮寺の大御輪寺の本尊で、明治時代の廃仏毀釈運動の際、大神神社の外に、打ち捨てられていた。たまたまそこを通り掛かった聖林寺の住職さんが、余りにも、勿体無いことだと、観音像をご自分の寺に
持ち帰り、持仏としたとの話である。
 別の説では、明治時代、廃仏毀釈運動が始まる前に、秘かに聖林寺に移されたらしい。いずれにしても、今では考えられない話である。
 
 新しい外来文化、所謂、文明開花の意気に燃えた明治時代には、日本古来の文化を否定した時代でもあった。廃仏毀釈の例のように、伝統文化が排斥された。例えば奈良興福寺五重塔が、風呂の薪として買い手を求めた等の、嘘か本当か分からぬような話もある。
 新しい政体を正当化するため、古い体制を批判したのだろう。併し、何時の時代にも、それに抵抗する良識ある人がいる。聖林寺十一面観音立像も、そんな人達によって拾われ、今、我々がこうして眼にすることができる。
 最近では、中国の文化大革命にその例がある。伝統の何たるかも分からぬ紅衛兵により、伝統文化、芸術が破壊され、伝統文化を擁護する作家、文化人を始めとした人達にまで、反省を求めた。共産主義国家の体制を維持するため、それ以前の文化を否定した革命であった。
 恰も、一般民衆から自発的に起こった運動に見せ掛けているが、椎力中枢機関の指導下の運動であった。
 探索者の数は少ないため、狭い堂内であるが、ゆっくり鑑賞できる。十一面観音立像を描くが、仏像の顔を描くのは難しい。少しプロポーションを間違えれば、イメージが全く違ってしまう。建物を描くのは慣れているが、仏像を描くのには慣れてないせいだろうか。
 ふくよかな顔だち、切れ長の眼は厚い瞼を微かに開き、慈悲深い眼差しを、俗界の我々に向けている。頭頂の周囲には、曲線を描いた踊った装飾がある。描きながら、最初は何を現しているのか瞬間には分からなかった。頭頂の中心部にある観音の分身とも思える顔を見、十一面観音だと再認識する。観音様の分身が頭頂を取り巻き、慈悲の眼差しを、四方に発している造型だ。その造型を眼前にすれば、十一面観音なのだから当然のようだが、十一面観音像を始めて彫った、作者の奇想天外な発想を想うのであった。
 観音像の耳は、我々の耳に比して長く、首近くまで達する。遠眼でかつ薄暗いため、描き始めはそれが何であるのか気がつかない。そう云えば子供の頃、耳が大きい子供には福が来ると、聴いていた。 量感のある胸、肩、胸の一部を包む衣の流麗な立体感のある表現に、作者の類稀な才能を感ずる。無から形ある有を創り出す、喜びと同時に、作者の精神的苦悩が、背後の闇の内に垣間見られる。
 作者は、無意識のうちに、光と影の交響曲を奏でる指揮者だ。指揮者の下には、何人もの演
奏者がいたことだろう。
 右手は下げ、指先は動きのある表現で、迷える子羊を導くかのようだ。左手は蓮花を生けた水瓶を小脇に持つ。水瓶は僅かに傾けられている。
 手と衣だけが、動きのある表現をし、直立不動の姿で、一千年人間の歴史を見、多くの人の信仰の対象であり続け、今、将に、此処に存在するのである。有のものには限りある生命がある。しかし十一面観音立像には生命を超越した宇宙さえも感じるのであった。
 聖林寺を探索し、残念な事がひとつだけあった。十一面観音像が安置される堂が、余りにもその空間に相応しくなく、そして堂へのアプローチ空間が、堂裏の厠に導かれるのではと、錯覚に陥るほど粗末な空間であることだ。
 十一面観音像の終(つい)の住栖(すみか)としての明確な意志が見えない。空間を具体的に表現する建築家を選ぶ必要があるだろう。
 本堂の本尊石造子安延命地蔵は安産、子授けに霊験がある。先刻の参拝客も安産の祈願をしていたようだ。土着的なお地蔵様と、観音様の洗練された上品さ、そのふたつの取り合わせが面白く興味深い。
 本堂の窓から見渡す、眼下に拡がるパノラマの田圃風景は穏やかで、印象的だ。手前には民家の家並が陽の光を反射してキラキラ輝き、周りを取りまく田園の緑の稲穂が風に靡いている。
彼方のなだらかな山並は青味がかり、いつまで観ていても飽きることのない光景である。去り難い気持だ。
 聖林寺で大分ゆっくり過ごした。山門を出、麓の村へ探索に行く。民家の間を縫って進み、直に農道に出た。山の方には、聖林寺の複雑な甍の構成が木立ちの向こうに見える。参道を来た時より、かなり斜めに見ている。前よりさらに甍が折り重なる構成が、際立って見えるのであった。
 スケッチを始めたが、風が強く、スケッチブックが煽(あお)られ、そうこうするうちに、俄雨が(にわかあめ)落ちてき、絵具が滲みだした。これでは無理だ。早々にスケッチ切り上げ、畑の中の道を談山神社へのバス停に向かった。
 
 談山神社バス停には、土産物店が二軒あったが、シーズンオフのせいか客は見当たらない。春秋のシーズンの団体の参拝客で店は成り立っているのだろうか。神社へのルートは下からの道と、上からの道と二通りある。
 上からのアプローチの方が、どことなく風情がありそうだ。アスファルト道路を上って行く。直に、民家の脇、草の生えた細い道の脇に、談山神社近道の道標があった。半信半疑で近道を
進んだのだが、田舎の裏道のような草道になってしまった。途中、民家の庭先に出たり、林の中を通ったり、一体この道は、談山神社に通じているのだろうかと、不安な気持ちだ。併し、多少遠廻りでも、この方が長閑で、心安まる。
 民家の庭先に、白いテーブルが据えられ、傍らに数本の特製抹茶と印字された赤い幟が立つ。この草道は談山神社への間道のようだ。秋の紅葉シーズンには、家族連れで賑わう道なのだろう。
 ハイキング気分で、草道を歩き、キャンプ場のような小さな広場に出た。周囲三方は樹木で覆われ、夏とはいえ冷気が漂う処だ。
 谷側は開放的で、木立ちの間から、彼方の山が望め、談山神社の堂塔が山腹に点在する。 樹々は青々として、鮮かだ。手前側は薄緑、山頂に上るにつれ、濃い松の緑になり、遠眼でも、その太い茶の幹が、伽藍の柱の如く、力強く伸びるのが分かる。
 十三重塔の焦げ茶色の桧皮葺(ひわだぶき)屋根上半分が、まるで木の葉のように緑海に浮かび、屋根を貫く華麗な相輪は樹幹のように立ち上がっていた。
 十三重塔の桧皮葺屋根は、屋根両端に反りがつけられ、軽やかなリズムを奏(かな)でる。
 神社仏閣の屋根に、反りが付けられるのは、ただ単に水平にした場合に、重苦しく、参拝者に威圧感を与えるからだろうか。
 それだけではない筈である。私は神社仏閣を特別研究した訳ではないが、観る者に感銘を与え、美しく、安定感のある建築は、構造的にも理に適ったものである。千数百年の歴史―その間には、大地震、強風もあったであろう―に耐えて現在あることが証明している。研究すべき対象であろう。
 塔の左手には、 権殿の入母屋屋根だけが、緑葉の中に望める。右手には、本殿、拝殿が一際、鮮かな朱色を木立ちの間に現す。
 談山神社に関する予備知識も無く、スケッチをしている際には、山腹に長く伸び、見晴らしの好さそうなこの拝殿は、宿坊だろうと思っていた。大勢の友人知己と共に、見晴らしの好い畳敷き大広間で、社会の喧騒を忘れ、数日間過ごせたらなどと考え、以下のような、たわいもない空想を浮かべながら描く。
 
 初日は、権殿(ごんでん)際の古代信仰なごりの磐座(いわくら)の傍らを、大和川に沿って登り、藤原鎌足公墓所となる神社背後の御破裂山(ごはれつやま)に行く。山頂からは大和平野を一望のもとに眺める。降りには、中大兄皇子が鎌足と、蘇我入鹿を滅ぼす相談―いわゆる大化改新―をした談い(かたら)山に寄り、律令国家
体制が整いつゝある時代の若い息吹に燃えた青春群像を眼の当たりに、自身の青春時代を思い起こして語り合う。
 道すがら樹木の一本一本、打捨てられた石にも、歴史とロマンを感じる事だろう。山を後にした各人の後姿は、物悲しく背を落とした姿だ。再び、明日から、厳しい社会の重圧に、耐えてゆかねばならない。併し、山での青春群像を各人、持ち続けてゆくに違いない。
 対岸の談山神社を愉しみながら描き、其処で暫く休憩する。余りゆっくりもしていられない。木立ちの中の山道を進み、直にアスファルト道路に出た。道脇の道標によれば、左への登り道は、明日香に至る。前以て地図を調べておいた故、談山神社の西二キロメートルに明日香村があるのは知っていた。併しどんな道なのかは分からない。道標がある位ゆえに、分かり易い道には違いないだろう。
 右方に少し進んだところに、談山神社の西入山口の受付があった。私はどうやら、神社の奥の入口に来たらしい。受付の男に訊ねた。明日香まで、一時間程のハイキングコースであると云う。談山神社の帰りには、明日香に出ようと思いつゝ、境内に歩を進めた。
 境内を緩っくり進み、十三重塔を見上げる砂利敷きの広場に出た。左に権殿、右に神廟拝所の朱色の建物がある。背後の緑葉に包まれた御破裂山も間近に迫っていた。
 十三重塔の桧皮葺屋根は、樹皮をスライスした如く軽やかな印象である。塔の足元は樹木の緑葉に隠れ、塔が緑海に浮かんでいるかのようだ。相輪はシンボリックで、塔の垂直性を表現するに充分だ。相輪部は下から屋根に接する露盤、伏鉢、透明感のある九輪、透かし彫りの水煙、竜車、頂の宝珠の各エレメントで構成される。さしずめ現代建築では、垂直性を表現するとなると、一本の鉄骨の柱に、飾り金物でも溶接して造るのだろう。
 古来よりの技法では、塔の礎石から相輪部まで、一本の心柱を据え付け、相輪の九輪を始めとした各エレメントを上から落とし込む。相輪部は塔の内部からの連続構造である。だからこそ、観る者に力強い印象を与え、地中から飛翔する姿に見えるのだろう。地震力に対し、心柱で揺れを柔らかに吸収してしまう柔構造である。
 
パルテノン神殿遠望 談山神社遠望
 
 権殿への石段の頂で、男がイーゼルを据え、十号ほどの水彩画を描いていた。十三重塔は画面から食出(はみだ)し、構図は大胆な感じだ。鉛筆の下書きでは、垂木の一本一本を丹念に描いてあったが、濃淡がなく単調だ。これだけ鉛筆で丁寧に描いたならば、鉛筆のタッチで画を完成した方がよいのではと、人事(ひとごと)ながら思う。
 東側の本殿へ自然に足が向く。朱色に塗られた大層立派な建物だ。私が参拝するのは場違い
ではと思ったが、念のため受付の巫女さんに尋ねたところ、自由に参拝できるとの返事、懼れ多いと思いながら、スノコの沓脱場で靴を履き替え、拝殿に向かった。
 千畳敷の拝殿は朱塗りの舞台造である。高所のせいか、風通しがよく、冷気さえも感ずるほどだ。中央の天井には、香木伽羅(きゃら)が使われ、伽羅の間とも呼ばれる。本殿は対岸でのスケッチで、宿坊と勘違いした建物である。舞台造と云われるだけに、眺望は素晴らしい。紅葉シーズンには、対岸の山が全山鮮かな錦繍で(きんしゅう)交響楽を奏でることだろう。
 拝殿は、現在は宝物殿として使われ、大化改新に関する絵巻物等が展示してある。私は仏像、建築、庭園はじっくり鑑賞するが、書画、巻物に関しては、それほど興味深く鑑賞しない場合が多い。
 先客の親子連れの四人も帰り、千畳敷拝殿には私一人だけになる。ガラスケースに納められた如意輪観音像を描こうと、畳に座り構図を決めようと思うが、スポットライトで左右を照らされ、影がはっきり出ない。加うるに、光がガラスケースに反射し、描きにくい。顔を上げたり下げたり、眼に入る光を調節せねばならない。
 何せ千畳敷に私一人だけだ。これほど贅沢な環境は無いだろう。落着いて描ける。
 千畳敷の拝殿に横になり、一休みしようとしたが、巫女さんが見廻りに来るのではと、思い止(とど)まる。それでなくても、相当長時間、一人で拝殿にいる。一体あの男は拝殿で一人で何をしてるのか、多分、不審に思っているに違いない。
 
 拝殿で気儘な時を過ごし外に出、清めの水で一息入れる。眠気も醒め、さあこれから飛鳥へと思ったが、刻は夕暮、時間的に無理だ。もう暫く、談山神社の境内を散策することにした。
 奥の談い山、御破裂山へ行くのも時間的に無理だ。山腹にある神社は、高低差があって、木立ち越しに建物の屋根が見えたり、軒を見上げたり、空間に変化があり、流動的だ。石段を上がったり下がったりして、予期せぬ空間に出会った時には、探索の疲れも忘れ、未知の空間に遭遇した時の驚きさえも感ずる。併し年寄りの参拝者にとっては、山の神社は起伏があって、参拝も一苦労なことだろう。
 拝殿前広場から赤鳥居まで、真直に降る石段がある。石段の数は百三十段、左側には樹齢五〇〇年の神杉が、石段に緑葉の天井の如く枝葉を差し掛けている。等高線なりに計画された石段も、自然で親しみ易く、無意識な意志を感じるが、このように真直に何の躊躇もなく伸びる石段には、意識的な意志を感じるのであった。
 石段下の鳥居は談山神社正面入口だ。私は逆方向から、石段に辿り着いた訳である。通常の参拝者は、赤鳥居を潜り、百三十段の石段を上がって、本殿前に出る。参拝者は右手に神杉を仰拝し、石段を一歩一歩上がるたびに、精神の統一を計り、神に近付いてゆく。敷地の高低差を利用し、精神的高揚を空間化しているのであった。
 赤鳥居を潜り、現実に引き戻される。受付の女性が、朱色の木柵を閉じ始めていた。閉門なのだろうかと思い訊ねた。
 「まだ境内にいても構わないが、私は帰ります」
 女性は早く家に帰って、夕食の仕度をせねばならないらしく、そゝくさと帰り支度を始め出した。
 百三十段の壮観な石段を描こうとしたが、夕方で少々、疲れも出、スケッチブックを開く気力が失せていた。朱色の木柵の外、広い石段に腰を下ろし、前に描いたスケッチに彩色することにした。
 アスファルト道路の向側には、鉄筋コンクリート五階建の立派なホテルが立つ。シーズンオフなのか、宿泊客の姿を殆ど見掛けない。これだけ大きなホテルだけに、春秋のシーズンだけで、経営が成り立つのだろうか、人事ながら心配だ。
 桜井行バスの時刻が近付いてきた。車道を降って行く途々、左方に由緒のありそうな燈籠が幾つか立っていたが、疲れたためかぼんやりと見るに止める。バスの乗客は私だけで、途中、多武峰で四人グループが乗ってきただけで空いていた。山間の景色を車窓から堪能しようと流れる風景に眼を向けるが、睡魔に襲われ、何時のまにか眠りについてしまった。
 桜井駅から奈良駅までの車窓の風景、所謂―山辺の道―の沿線風景を、ぼんやりと眺める。三輪山を御神体とする大神神社がこんもりとした林の中に埋まっていた。
 天理教の敷島大教会が、車窓の正面の幾らか高い処に堂々と立つ。周りは田園風景で、唐破風の緑青をふいた銅板屋根の緑色が、周りの緑葉と好く響き合っていた。
 巻向駅近くの民家も興味深い。山辺の縁から民家が建ち始め、線路側に伸びてきているが、線路と民家の間には田圃が多く、よい緩衝地帯になっている。田圃はかなり広く拡がって稲穂が風を受け、棚引いている光景は、いつまで眺めていても飽きることがない風景である。
 田圃、民家の石垣、鼠色の瓦屋根、背後の青緑の山並が、次から次に変化し、互いに重なり合い、流れ去ったかと思うと、又現れる。素朴な車窓からの風景に、日本的原風景を想うのであった。
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