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9 山の辺の道一 大神神社・桧原神社・玄賓庵 おすすめサイト
YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
大神神社鳥居 大神神社 摂社
狭井神社 若宮神社参道
大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

9 山の辺の道一 大神神社・桧原神社・玄賓庵
 
 JR桜井線三輪駅より、まずは、大神神社へと思ったのだが、駅の東に出口がない。当然大神神社へのアプローチとして、三輪駅には、東口があるものと許り思っていたので、まてよ、何か私は勘違いしているのでは・・・。
 止むを得ず、西口に降り立つ。遠方に大きな石鳥居が見えた。大神神社は別称三輪明神とも呼ばれる。あの石鳥居が三輪明神で、西方に別の大神神社があるのではと、勝手に解釈した。駅前で商店の人に訊いた、
 「大神神社へは、その道をぐるっと廻って、線路を渡って行けます。あの大きな石鳥居は昭和六十年に完成した鳥居です。参道がずっと続いているんです」
 やっと理解できた。鉄道の線路は後からできたもので、大神神社の参道を分断して建設された訳だ。
 前方に、それらしき二人連れが歩いて行く。西に真直に伸びる駅前通りを進んで、右手に折れたところは、両側に、八百屋、雑貨屋などの小さな商店が立ち並んだ古い商店街である。
 午前十時半頃の早朝にも拘らず、商店街はすでに買物の主婦で賑わっている。商店街を通り過ぎ、広いアスファルト道路に出た。大神神社の参道だ。右方に折れ踏切を渡ったところで、参道は一段と巾広くなる。
 参道を進み、直に大神神社の鳥居が眼に入る。鬱蒼とした林が背後に控え、鳥居の向こうの幽暗な境内に玉砂利を敷詰めた一筋の参道が伸びていた。
 
 大神神社の御神体は背後の三輪山であり、境内は巨樹に蔽われる。三輪山には自由に登山できない。狭井神社(さいじんじゃ)の背後から、許可を得て登ることだけが許される。
 鳥居前の広場には茶店もあり、一部駐車場に利用され、数台の乗用車が駐まっていた。車の脇から鳥居を中心にして描く。鳥居の先は、ゆるくカーブし、玉砂利を敷詰めた人間的スケールの参道だ。樹木が生繁って薄暗く、荘厳な雰囲気が伝わってくる。
 鳥居を潜り、カーブした幽暗な参道の先、石段の頂に拝殿が見えてきた。拝殿は西暦二〇〇〇年を完成目標に、現在、解体修理中である。拝殿の周りには、パイプ足場が組まれ、職人が忙しそうに動き回る姿があった。御神体が三輪山である、神殿はなく、千鳥破風大宮造の向拝を持った拝殿が立つだけだ。桧皮葺(ひわだぶき)の格調の高い拝殿である。
 愚息の学業成就を願い、久延彦神社の御守りを買い求めた。大神神社境内には、幾つか縁つづきの神社、攝社がある。そのひとつが久延彦神社である。
 拝殿脇の石段を降り、木立ちの間道を北に歩く。予備知識もなく境内図も持たないため、先方に何があるのか分からないが、樹林に包まれた境内の空気に触れているだけでも心安らぐ。
 併し案内図がなくとも、境内に拡がる散策路の要所要所に、標識板が掲げられ、心配はない。左手に折れて行けば、久延彦神社への道だ。右手に折れ、直に小さな池が左方に木立ちに囲まれてあった。池の畔に朱色の小さな祠が見えてきた。掌を合わせ参拝する人もいるが、私はそのまゝ進む。広い石段頂に、狭井神社の拝殿が見えてきた。石段を上りきった処に標縄(しめなわ)が渡され、そこからは異なる空間であることを参拝者に示し、結界を現している。
 背には御神体の三輪山が控え、巨松が幾本も立ち上がる。昼尚暗く夏とは云え、冷気が漂う。雨でも降り出し、辺の様相が、これにも増して幽暗な空間にでもなれば、どんなに不安な気持になるか分からない。
 石段の下で描く間にも、幾人か通り過ぎて行く。手前の標縄が前景となり、緊張感のある空
間だ。境内の左手には、社務所が木立ちの枝葉の間に微かに見える。
 石段を上った拝殿前広場には、先客の子供連れの四人がいた。奥さんは外国人だ。その内の年寄りの男が祝詞を唱している。子供の学業成就をお願いしているのだろうか、外国人の奥さんも、神妙な顔で掌を合わせる。その姿を見て、友人のドイツ人建築家グチョー氏の日本での生活をふと思い出した。
 拝殿は桧皮葺で唐破風の向拝を持つ。向拝に続く拝殿は広い廊下風に奥に深く伸び、幽暗な空間は、微かにローソクの燈で照らされ、信者でなくとも神妙にならざるを得ない厳粛な空間だ。
 拝殿奥には―狭井の御神水―と呼ばれる霊泉がある。
 
 狭井神社から標識に従い、久延彦神社に向かう。きた道の途中の、角に茶店があった。道の対面にある池を借景にし、池側に大きな硝子窓を開いた閑静な店だ。
 狭井神社で参拝していた四人連れの姿が、茶店の大きな硝子窓越しに見えた。三輪名物の三輪ソーメンでも食しているのだろうか。
 山の辺の道は三輪山の裾野に通じているだけに、起伏に富んだ道である。途中から道は山道になるが、よく整備され、階段などは丸太で造られ歩き易い。
 暫くして道が、二つに別れる。左手の山道は明るく開けている。真直に行った方が間違いなさそうである。
 併し、明るい方に吸い寄せられ、左手に山道を折れてゆく。山道は直に小丘に出た。小丘の狭い頂に、探策者が一人いた。其処からは大和盆地が一望の下、すばらしいパノラマが拡がっていた。思わず、
 「素晴らしい景色ですね、どれが二上山ですか」
 先客の中年の男は地元の人らしく、
 「遙かに見える二瘤が二上山の雄岳、雌岳。左方に連なっているのが金剛山、右の連山が生駒山系。真中が畝傍山、右が耳成山、左の連続しているのが天香久山じゃないかなあ」
 春に、天香久山を越え、飛鳥に探索したのを思い出し、
 「あれが天香久山ですか、結構なだらかに拡がっていますね。甘樫丘(あまがしのおか)は見えませんか」
 男は指を差しながら、
 「天香久山の向こうで、見えないようです」
 甘樫丘からの大和盆地の眺望も、歴史のロマンを感じさせる眺めだった。畝傍山の北側には一昨日訪ねた今井町の寺内町がある筈である。
 山並に囲まれた桜井から高田方面には、家が密集して立ち、白、茶、黒の色合いが山並の緑と好く調和している。生駒山系の裾野にも人家が浸食している様子がよく分かる。あと数年もすれば、さらに浸食が進み、裾野を這い上がって行くことだろう。
 耳成山の右手には、大神神社のコンクリートの大鳥居が、一際大きく目立って立つ。こうして見ると、大和盆地も随分と開発が進んでいるのがよく分かる。
 小さく見えるひとつひとつの家、その周辺に拡がる緑葉を始めとした田園風景に、地域の生活と歴史を想う。風土記の丘にふさわしい小丘だ。
 
 ひとつひとつの個が群となり、個は群の内に埋没するのか、あるいは群の大義に従い、個を捨てるのか。一人一人の生き方、考え方は大切であるが、大きな社会の観点から見ると、大きな影響はない。個は全体に呑み込まれる。しかし個の集まりが全体となる。個が確立していなければ全体の目標は得られない。個と全体は互いにフィードバックし合い、試行錯誤して時代を切り開いて行く。
 生駒山系の麓に拡がる集落の家並を望み、豆粒ほどの小さな家が、寄り添うように集まり助け合いながら集落を形成する光景を遠望し、そんな事を思う。
 生駒山系の左の端には二上山雄岳、雌岳の二つの頂が優しい稜線を描く。大津皇子の悲劇を思い、大伯皇女の歌が眼に浮かぶ。
 
 うつそみの人なる吾や明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟世(いろせ)とわが見む
 
 二上山の麓、当麻寺の朗らかな境内は望むべくも無いが、光り輝く畝傍山の向こうに、当麻寺の往時の姿が、絵巻物の如く眼に浮かぶのであった
 平安京に遷都されるまでこの大和盆地に平城京が築かれ、日本の中心として文化が華開き、飛鳥・白鳳・天平の時代背景となった。歴史上の出来事と、眼前の田園風景とが重なり合い、この丘を去り難くなる。
 見晴らしのよい小丘を降って、大神神社の攝社久延彦神社に向かう。久延彦神社は学業成就の神様が祀られているだけに、境内には絵馬で一杯だ。ひとつひとつ見てゆくと面白い。
 〇〇大学合格・△△高校合格・勉強ができるように・現役で合格するように、見ていて飽きない。知ってる高校・大学があったりすれば、思わず読んで、顔が綻んでくる。神社の拝殿前広場から眺める大和盆地の光景も、先刻の小丘に劣らず印象に残った。
 私が先刻の小丘で大和盆地のパノラマを満喫していた際、下の道を幾人も通り過ぎて行った。こんなに、すばらしい風景を立ち寄りもしないで勿体無いことだ。久延彦神社でも私一人だけで、探索者は誰もいない。
 
 拝殿前広場の鉄骨階段を降り、山の辺の道を進む。大神神社からかなり北に来ていると思っていたが、何時の間にか、広い広場に出た。左側には土産物店がある。見覚えのある光景だ。大神神社の鳥居もある。何の事はない、大神神社の鳥居前の広場だ。
 大神神社の境内を一周し、元の場所に戻って来た訳であった。起伏のある山の辺の道を見晴らしの好い小丘、久延彦神社と歩いてきた故に、すでに大神神社から大分離れていたのでは、と錯覚に陥っていた。同じ道を駅方面に歩くより、山の辺の道に連なるに違いない細い路地の方が何かがありそうだ。
 旧い民家が立ち並ぶ路地を北に向かい、直に三メートルほどの細いアスファルト道路に出た。行き交う車もなく、静かな佇の道だ。道が左に折れた方から、若いカップルが歩いて来た。右は若宮神社の境内らしく、鳥居が木立ちの枝葉の間に見える。山の辺の道は、恋人たちの―さ
ゝやきの小道―にもなっているのだろう。
 若宮神社の境内は細道より一段高く、かなり広い神域だ。三輪山に向かって鳥居が立つだけで拝殿はない。どことなく天皇御陵に似た印象を受ける。
 入口の石段から緩い降り坂になった参道は、微かに左にカーブして伸びる。参道沿いの家は、決して立派とは云えないが、緑葉をつけた木立ちの中を連続的に立ち並び、道に対し切妻型を現した瓦屋根が淡い光を受け、雁行して参道に収斂してゆく。参道との境の茶色の塀もカーブなりに連続する。瓦屋根、白壁、板塀、樹々の緑葉それらの各エレメントが上手に構成され、万葉の時代を彷彿(ほうふつ)とさせ、住む人の素朴な生活が思い浮かべられる光景であった。
 若宮神社の参道を降って、只管(ひたすら)、山の辺の道を進む。何時の間にか集落も過ぎ、民家の姿も消えた。山の辺の道は山道になり、左手に大和盆地が木立ち越しに見え隠れする。ハイキング気分になってきた。道は深い林の中を通る。一筋の道が奈良まで続いているのかどうか、不安な気持になるのだった。
 左方の池際の平坦な草が生えた処で、中学生風の四人組が、テントを張りキャンプをするのが見えた。林の中に、一軒ポツンと立つ家の子なのだろうか。自転車に乗ったりして遊んでいた。
 キャンプをするには陰気な場所だ。其の内の一人が自転車を引き、大廻りに私の歩いている道筋の先方に出、此方に近付いてくる。
 右側は、高さ二・五メートルほどの草が生えた土手である。土手の上には木もなく、広々として池のようだ。奥の方に小屋の屋根が微かに覗く。誰かが住んでいるのか、それとも、神社があるのだろうか。好奇心を抱き、見に行こうと思ったが、寄り道ばかりしていては、先に進めない。土手を横眼にしながら、何なのかを想像するに止(とど)める。
 自転車の子供に訊ねた。
 「土手の上には池があり、・・神社の祠がある。親の話では、女の人が池に引き摺り込まれて自殺したらしい」
 
 林に囲まれた一筋の道、背後には三輪山の樹林帯が連なる。土手のあった処から、林の中の暗い道に入る。夏でも薄暗く、じめじめした妖気漂う空間だ。魔物に取り憑(つ)かれそうで、気味悪いが、それだけに、突然、何かが起こりそうで胸がドキドキする。
 記憶が定かでなく、山の辺の道からの眺望が、各処でオーバーラップし、情景が相前後しているかも知れない。
 林の中の道を抜け、大和盆地に明るく開けたアスファルト道路に出た。道路と云っても、山腹に等高線に沿って付けられた道で、自然に溢れた道である。手前にはミカン畑が拡がり、その下には、民家の瓦屋根が緑葉の海に浮かび、遥か彼方には、奈良盆地が薄紫色に霞む。山の辺の道も、この辺では集落が、麓近くまで拡がり、処々に万葉集の歌碑が立つ。歌の素養があれば、愉しみが倍加するだろう。石碑に刻まれた歌を口誦す。
 
 倭(やまと)は国のまほろば たたなづく 青垣(あおがき) 山隠(やまごも)れる 倭しうるはし     日本武尊
 
 三輪山の山辺まその 木綿(ゆう)みじか木綿 かくのみ故に 長くと思ひき    高市皇子
 
 生駒山系・大和盆地の朗らかで、素朴な光景に眼をやりながら、東京の人工的都市を想う。
眼前の光景を眼にして、奈良時代の息吹が陽炎のように、ゆらゆらと、立ち昇るのが見える。
大都会では、陽炎の如く立ち昇るのは、都市化の波だ。山の辺の道と大都会、同じ日本であることが、不思議に感じられる。唯単に、開発を免れているとかの問題ではない。
 時代によって息吹が異なる。その息吹の表現の仕方も別だ。帰京した際、夕方東京・山手線の車窓から、真赤な夕焼けが見えた。朱色の横筋が幾重にも重なり合い、ビルの谷間に吸い込まれてゆく。ビル群は黒くシルエットになり、大小のビルが恰も音階の如く、ハーモニーを持って見えた。その光景は時間が静止しているようにも見え、現代都市の息吹を現し、山の辺の道の素晴らしい光景に、勝るとも劣らなぬ眺めであった。
 
 山腹をさらに進み、再び林に入る。湿気があり、暗く石がゴロゴロと転がった細い道を、小型トラックが追い越して行く。運転手は初老の男だ。荷台には、鍬が乗せられてあった。
 細道の突き当たりを左に折れた処は、少々暗いが人間の強い意志を感じる洗練された空間が開けていた。
 何故、山深い斯様な処に、これほどの素晴らしい空間があるのかと、息を呑み、茫然と佇むのであった。
 私は地図を持たないので、右方の塀内には何の建物が立つのか分からない。巾一・五メートル程の細道は、不整形に石が敷詰められ、野趣豊かなテクスチャーの坂道で上り勾配であった。細道の左手は下がって灌木の林であり、手前には目通り一〇センチメートル程の中木が、大きく枝を伸ばし、道に枝葉を差し掛けていた。道の右端は自然に落ち込んで水路になり、処々に草が生えたりして、歴史を感じさせる光景である。そこから荒石積みの土塀の基礎が、大地から生えている如く立ち上がる。
 その上に、ベージュがかった、横筋が数本走る築地塀が築かれている。塀の切れた処は山門なのだろう、石碑が立つのが見える。私は傾斜した石畳の下方にいるので、塀のパースペクティブが強まり、実際より強調された空間のような印象である。
 手前の塀に枝葉の影が落ち、先方は光を浴び、白い輝きを放つ。道の突き当たりも、白く輝いた塀で、石畳は右方に折れているらしい。
 塀内から差し掛かる緑葉が、土と石だけの空間に、有機的な彩を添える。当初は、名のある人の居宅と思ったが、石碑が立つのを見ると、寺院に違いない。石畳を挟んで、灌木、土塀、そして樹々の緑葉が織りなす見事な空間だ。人間の感性に問い掛ける道、そして道に現れた閑雅な土塀、それらの各エレメントが構成する見事な空間に接する時、其処に住む人の生活の表情に触れる思いがするのであった。
 
 下から鍬を手に下げた野良着姿の初老の男が上がってきた。先刻の小型トラックの運転手だ。先方に畑でもあるのだろうか。深い林に包まれた空間の主は、誰なのか訊ねた。
 
玄賓庵 長岳寺
 
 
 「玄賓庵(げんぴんあん)いうて、千二百年程前に玄賓僧都いう坊さん、役の行者が京都から人里離れた地を
求めて庵を築き、道場を開いたと云われてます。お年寄りが団体でお参りに来はります。若者はほとんど来はりまへん。遠方の寺の住職さんも参拝に来はります。世阿称作の謡曲―三輪―の舞台として有名だと聴いている」
 私は予備知識もないので玄賓と聴いて、一体何の事なのか理解できない。古老の話を聴くにつれ、この地に隠棲した反骨精神に燃えた行者の輪郭が思い浮かんできた。
 奈良を探索していると―差別をなくそう―の貼紙を眼にすることが多い。関西地方では、同和問題を多く抱えていることは知っていたが・・・。
 かつて住井すえ著―橋のない川―を読んだ。確か奈良の葛城郡の農村地帯が舞台であったと思う。後に全国水平社運動を起こし、その理事長になった主人公は幼年時代、友達から石を投げられたり、エッタと呼ばれて、仲間外れにされ苛められる。自分も弟も苛められるのだが、主人公は石を投げられる弟を庇い、悪口雑言にめげず成長して行く。その小説の中の主人公の姿が思い浮かんだ。
 古老に、差別について訊ねた。
 「以前は確かに差別はあったが、私達は町会の寄合でも、互いに平等に発言している。昔は結婚にも支障があったが、今では男女の気持の方が強く、障害は無くなってきた。職業も色々です」
 随分永く、古老と共に玄賓庵前にいた。暗くて湿気があり、藪蚊がブンブン飛び交う。二人で煙草を吸って、蚊を寄せ付けないようにして、話し込んだ。
 古老は玄賓庵前の坂道を上って行く、私は素晴らしい空間のスケッチを始めた。
 描き終えて石畳を上る。上り切った処は平坦になり、玄賓庵の山門になる。山門の中、右側に荒れた庭が見えた。左の塀沿いに向こうの道からのアプローチ路に平行に小さな本堂の側壁が立つ。入口には通行止を表す丸太が横に掛け渡され拒否的印象を受ける。多分、探索者が無断で入山するのを防いでいるのだろう。
 石畳の突き当たりは住職さんの家なのだろうか、木造平屋建の家が立つ。親子で家庭菜園の手入れをする姿を見かける。玄賓庵のアプローチ路に向かって庭が開かれ、往来しやすく計画されている。
 玄賓庵と住宅の間道を進み、暗い林の中に入る。ちょろちょろと水の流れる川があり、右方には小さな滝もある。いかにも魔物が出そうで、妖気漂う空間である。夜一人で歩くとなると、私でも、恐ろしくなりそうだ。 
 暗い林中を抜け、程なく明るい道に出た。右手に白砂を敷き詰めた広場があった。桧原(ひばら)神社だ。広場の奥には巨松が幾本も立ち上がり、緑葉に囲まれ、鳥居が三輪山を背にして立つ。結界を現す朱色の木柵が、緑葉の中に見え隠れする。西に大きく開けた明るい境内である。
 鳥居への巾四メートル程の参道は、広場とは、石組された小さな水路で空間的に分離され、入口から鳥居前の拝所に、無意識のうちにアプローチされる。
 大神神社攝社である桧原神社の御神体は三輪山だったが、現在は山中にある盤座(いわくら)を御神体とする。天照大神が伊勢に鎮座する前に、この地に宮があったことから、元伊勢とも呼ばれる。
 三輪山を背にした鳥居を描く間に、若い神主さんが、竹箒で白砂に筋目を入れ、私の方に近付いてきた。邪魔かと思い、スケッチブックを片付けようとしたところ神主さんは、
 「そのまゝでよいですよ、ゆっくりして下さい」
 と声を掛けられた。境内が、汚れるからスケッチは為(し)ないように、注意されるかも知れないと一瞬間思ったが、私の思い過ごしだった。
 桧原神社のあるこの辺は、三輪山の中腹でもかなり下の方だが、西側柿畑の向こうに、畝傍山・耳成山・天香久山の大和三山、さらに二上山に連なる生駒山系が遠望できる。夕方、二上山が赤く染まる時には何んなにか素晴らしい光景であろうか。
 標縄が掛けられた入口横に茶店があった。眺めは好さそうだったが、内には客は誰もいない。
 桧原神社をあとにして先に進む。今迄のように鬱蒼とした林中でなく、大和盆地を木立ち越しに望む、明るく開放的なゆったりとした道である。処々に万葉集の歌碑が立つ。紅葉の頃の錦繍織り成す光景も素晴らしいことであろう。
 山の辺の道には、幾つもの古墳、神社が点在する。歴史街道と云われる所以である。
 桧原神社を出、暫くして、雨がポツリポツリと落ちてきた。畑の向こうの民家の家並、遥か彼方に拡がる大和盆地そして西方の大和三山、二上山が靄に包まれ物悲しい表情を現す。
 林中の山道は一本道で、分かり易いが、集落の中の道では、孰(いず)れが山の辺の道と称される道であるのか分かり難い。併し、道が二つに別れても、自分の選んだ道が、常に山の辺の道のようである。山の辺の道は数本あるのだろうか。
 
 集落内を走る道は、巾六メートル程の舗装された道で、ゆるくカーブする。民家の門前に万葉集の歌碑があったりして、長閑な道だ。雨が本格的に降り出し、自然に足も速くなる。とても天理駅まで歩ける時間は残っていない。巻向駅への道を進むことにした。桜井線の車窓から眺めた時、巻向駅の奈良寄りの東側に、立派な土塀のある民家があった。其処に行く事にする。
 古墳の山を右手に見、穴師(あなし)なる地名の処を歩く。珍しい地名から推察するに、旧い民家が点在していそうだ。古墳は盗掘されたのか、荒れた山肌を道路に露出している。車道と右方に折れる細い道に分かれる。細道の際で、ミカンの木の手入れをしていた農婦に訊ねた。   
 「車道を行けば、巻向へ早く行けます。遠廻りでよければ、細い道を左に曲がって行っても巻向駅出れますよ」
 細道の方が旧い民家がありそうで、其方に進む。程なく巻向の市街地に出た。小さな交差点で、左にするか右に行くか迷っていた時、前から買物帰りの主婦が歩いてきた。
 「この辺に、電車から見えたのですが、駅の手前の方に立派な土塀を持った家がある筈ですが・・・」
 と訊ねた。
 「何と云う家ですか。線路沿いには、道はありません。線路を歩いて行かはるんですか」
 電車から見ただけで、家の名前など知る由もない。主婦は一緒に捜してくれたが、それらしき家は見当たらない。記憶はあてにならない。車窓から見た時には、手前の線路沿いに田圃が拡がり、その向こうに土塀が横に連なり、蔵の切妻屋根が線路に向いていた筈なのに。速い列車の車窓から眺めていたため、もしかしたら、全く場所が違っていたのかも知れない。
 所在の定かでない家を捜しているため、いくら探し回ってもないかも知れず、主婦に、一人で捜しますからと、礼を云って別れ、右方に折れ、風情のある民家を探しに行った。
 商店街が途切れた辺で、線路側に折れた道に面し、T酒造会社があった。旧い家で母屋が隣接してあり、門から玄関へのアプローチは綺麗に手入れされていた。併し、線路側からの景観は、捜し求めている土塀のある家とは違うのであった。
 ますます雨脚が強くなりだした。探索は諦め、他日再訪する事にして、商店街を巻向駅に向かった。
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