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読後感想 山口佳延写生風景 絵と文 建築家・山口佳延 |
10 大和郡山城
近鉄奈良線大和西大寺駅周辺には大きな建物が、立ち並んでいる様子が車内からも見える。西大寺駅西方には大阪と県境を分ける矢田丘陵が南北に連なる。
矢田丘陵沿いには秋篠寺、西大寺、垂仁天皇陵を初めとした、歴史的風土が控える。樹々の枝葉に包まれ静かに佇む秋篠寺、その仄暗い本堂内で輝きを放つ伎芸天立像、それは刻を超越した姿だった。そのようなイメージを西大寺には持っていた。
突如として眼前に現れた近代的ビル群に、はっとするような驚きと同時に、秋篠寺とは異質の空間を感じた。車窓に流れるビルを眺め、木立の梢が風に揺れる風土とインターナショナルな均一空間との対比を考えた。
西大寺駅で近鉄橿原線に乗り換え、郡山駅に向かった。以前近鉄橿原線で郡山近辺を通過した際、蔦の絡まった石垣が線路沿いから、弧を描いて立ち上がるのを見た事があった。
それは、石垣の隅角部に隅櫓が端正な形を現していた印象的な光景であった。その時、おそらく郡山城跡であろうとは思っていた。現在、城内は県立高校になっているのでは・・・・勝手にそんな事を考え、車窓に流れ去る城壁を眺めた事を思い起こした。
近鉄郡山駅に降り立ち駅前通りを西に向かって歩き始めた。地形的には矢田丘陵への緩やかな坂道を上ることになる。大回りして郡山城跡に行こうとしたのである。城跡を取り巻き旧い武家屋敷や昔の佇を遺した民家が、城跡周辺に帯状に軒を連ねているに違いない、と推量したのである。
ところがそれらしき旧家は見当たらず、右方に折れると新興住宅街らしい殺風景で明るい街並が続いていた。城跡に入ろうとしたが、入口が解らない。それでも城跡を目指して足を進めた。左方に幾つか寺院があった。
幾らかでも矢田丘陵を上ってきたためか、視界が広く開けているが、近辺には変化に乏しい単調な空気が漂っていた。その中で少しでもイメージに合った風景を探し、殺風景な道路に土塀を連ねて口を開けた、山門と呼ぶにはいかにも小さな永慶寺の門を描いた。
開かれた門から境内を覗くと、大きな自然石が据えられた明るい庭の奥に、大きな本堂が立っていた。道を挟んだ反対側は広々としたグラウンドで、道とは鉄製のフエンスで境界を築いていた。
矢田丘陵が平坦になった静かで明るい道を進むと、城跡公園の堀端に出た。濠端沿いに郡山城跡が口を開けているに違いない、と思って乾いた空気が漂う濠端沿いを進んで行った。
けれども右方に樹々が立ち上がり、樹幹の間に城跡公園の石垣が垣間見えるのだが、城跡公園への入口は見当たらない。その内に右に下がって行く大通りに出てしまった。そこには頻繁に車が行き交い、車窓から眺めた郡山城の石垣、その華麗な面影は無かった。
やむを得ず大通りを右に折れた。道路の向側の高台には天理教郡山大教会が、その翼を大きく広げていた。大教会が立つ高台に至る、大通りに平行に付けられた緩い石段が、ゆったりした印象だ。その隣には木立に包まれた八幡神社の屋根が、梢の葉擦れに覗いていた。
私が歩いている側には、城跡公園の石垣が聳え立ち、手前には樹々が立ち上がっていた。この大通りは昔の堀を埋め立てて造ったのか、それとも切りどうしを利用したものか、どちらにしても無機的で殺伐とした空間だ。
速く擂鉢(すりばち)状空間から抜け出なければ、と思って歩いた。擂鉢の底に近鉄橿原線の踏切があった。橿原線の踏切を渡った角に文化センターが立つ。線路に平行に走る道路は最近できたらしく、朝の陽光を受け白い輝きを放っていた。
線路の方を振り返った。疎らに立ち上がった頼りない樹々、かなり離れていたため少なくとも此処からはそのように見えた。その樹々の枝葉が織りなす薄紅色、橙色そして緑色が入り交じった色合いを現した、薄い皮膜を通し郡山城の石垣が透けて見えた。
石垣には、鈍色に輝きを放った甍を頂に載せた城壁が水平に連なる。城壁の腰には杉板が南京下見板張りされ、杉板の水平線と押縁の縦線が古風な落着きを現す。瓦が葺き下りた軒端と南京下見板との隙間には漆喰壁だろうか、落着いたベージュ色をした壁が、木立の華やかな枝葉の葉擦れに覗いていた。
城壁の左端は二層の屋根を持った隅櫓で押さえられる。隅櫓の南京下見板張りされた腰部は、袴状に下部になるにつれ拡がっている。一層目の屋根の軒出を支える、斜めに持ち出された方杖が、穏やかな空間にあって緊張感を醸し出している。
隅櫓の二層の屋根は端部で反り、棟両端には鴟尾(しび)が載せられてあり、小さいながら郡山城天守閣なのでは、と錯覚を憶えた。
城壁の向こうには、複雑に入り組んだ入母屋風屋根の瓦が小さく見えた。この建物は城内に立つ公民館である事は、後で城内を巡り解った。 城壁右端は数本立ち上がっている背の高い巨樹、松の枝葉に吸い込まれる。
文化センターのアプローチ路に、曲線を描いてある植込の角に立ち、肩からデイバッグを植込の縁石に降ろした。中からコットマン水彩紙のスケッチブックを取り出し、ウエストポーチのチャックを右に引き、チャコールペンシルの黒を引き抜きスケッチを始めた。
乾いた風に戦ぐ薄紅色から橙色に色付いた彩豊かな枝葉には、紅葉の盛りは過ぎたとはいえ、背の石垣と共に古風な華やぎを感じる。
線路際から立ち上がる石垣は、一度平坦な地面になる。其処から樹々が立ち上がり、更に奥まって城壁が載る石垣が立つ。平坦な地面には色とりどりに彩られた落葉が、カラフルなカーペットのような印象だ。
彩豊かな落葉と無機的な鈍色に輝きを放つ石垣は、好く響き合っていた。それらのエレメントが朝の柔らかな陽光と戯れ、さざ波に陽が射してきらきらと輝いているような穏やかな印象を憶えた。
対象物が物陰に隠れ、その一部が眼に入る斯様な光景は、典型的な日本的風景だ。
手前の線路を数分おきに電車が駆け抜けていく。此処から郡山城跡を眺めると、線路が走るだけに広々とし、開放的で明るい空気が漂っているのが感じられる。
線路沿いを進み、踏切に出た。踏切を渡れば郡山城跡へ行けそうだ。踏切を渡るとアスファルト舗装された道路の坂道になる。踏切を境に道沿いの光景は、現代的な街並から古風な街並に変わった。幾つか角を折れ、濠沿いの長閑な道に出た。
左方にこんもりとした植込みを介し水を湛えた堀、その向こう水面から苔生した石垣が立ち上がる。石垣の頂には樹々が立ち薄紅色の枝葉が風に靡いていた。
右手には枝葉に包まれた数軒の民家が並び、柔らかな緑葉の中から葉を落とした柿木が、そのベージュ色をした細い枝を広げていた。枝の先には橙色の実をたわわに付け、藍青色の空を背景に、緩やかに弧を描いていた。
正面には石垣が道から立ち上がり、薄い緑の皮膜を通し城郭の入母屋屋根の甍が透けている。石垣は左端で大きく口を開け頂に豪快な追手門が載る。道は石垣に突き当たって左に折れ、緩い坂道になって石垣沿いを上り追手門に取り付くのが、薄紅色に染まった皮膜に透けているのが解る。
石垣、城郭、民家そして薄紅色から緑葉に鮮やかに色付いた枝葉、空間を構成するエレメントの一つ一つをとれば、ごくありふれた風景かも知れない。ゆっくりと刻が流れ、爽やかな風に、薄紅色に染まった皮膜が靡いていた。
復元された追手門を潜り城内に足を踏み入れた。坂道を進むと大きな広場に出た。広場の周縁に置かれたベンチで、弁当を広げているグループが二三組いた。
広場の周囲は木立で囲まれ、一方に古風な建物、公民館が立つ。無意識のうちに足は公民館に向いて行った。公民館の一階は郡山城の歴史を展示した資料館になっている。
郡山城には、古くは筒井城から移った筒井順慶、豊臣時代には大和大納言と云われた秀吉の弟秀長、徳川時代には水野勝成、松平忠明、本多政勝、松平信之、本多忠平らの徳川幕府譜代の大名が居城した。
享保九(一七二四)柳沢吉保の子吉里が甲府十五万石から大和郡山に転封になり、以後、柳沢家が六代続き明治維新を迎えた。
城郭の軒瓦に描かれた家紋には、郡山城を居城とした各大名の栄枯盛衰が、形となって現れ歴史が甦ってきた。
資料館には朴(ほお)の木で作成したと思われる、平城京羅城門の大きな模型が展示されていた。朴の木は柔らかく、工作するのに適した材料だ。羅城門の模型は本格的な造りで、屋根瓦はリアルに作成され、丸瓦一枚一枚に筋を入れてあった。相当な時間を費やしたと思われる。模型脇に篤志家の寄付による事が記されてあった。
城跡公園の散策路を行く。城内には樹々が繁り、水が涸れた濠は草木で埋め尽され、弧を描いて立上がる石垣に這い上がっていた。銀鼠色に輝きを放った石垣の処々に、薄い緑色の皮膜が掛る。石垣の頂から伸びた樹々は晩秋とは云え、瑞々しい色合の枝葉を濠にまで拡げていた。
左方、天守閣の石垣は幾つかに折れ曲って走るため、隅角部の幾筋もの稜線が弧を描いて立上り、野趣溢れた光景を見せていた。
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大和郡山 川本家 | 大和郡山天守閣石垣 |
濠沿いの散策路を天守閣の石垣に眼をやりながら歩き、天守閣基部に出た。其処からは自然石を敷き並べた石段が緩いカーブを描いて伸びる。
思ったより狭い天守閣に、親子四人連れがいた。七五三の祝らしく鮮やかな朱色に彩られた着物姿の女子は、天守閣の礎石らしい大きな石にちょこん、と腰を下ろしカメラに向っていた。
傍らに葉を落し、ごつごつと曲りくねった樹幹が立つ。その枝に真新しい白布が懸けてあった。女子の父親は本格的なカメラマンらしく、ジュラルミン製のカメラケースを三脚の側に置き、長い時間カメラのファインダーを覗いていた。
母親は幾らか離れ、アルミ製の反射板を両手に掲げて照明係を務め、時々、女子の着物の裾を整えていた。母親の傍らでは妹の女子がまとわりつき、遊んでいた。そのうちに妹は退屈したのか、天守閣を走り回っていた。
「危ないから気を付けて・・・・」
母親の声が響いた。
天守閣にいるのは、この七五三の親子連れと私だけだ。私は離れた処にあるベンチにスケッチブックを載せ、デイバッグからセロファンにくるまれた御握りを取出し、口に頬張った。御握りを食べながら、まだ色付けをしていなかったスケッチに色をつけ始めた。
天守閣からの眺めは好かった。天守閣北方、城跡を取巻く樹々の向う、遙か彼方に薬師寺東塔、西塔がぼんやりと浮んでいた。薬師寺三重塔、背後の山端が薄紫色の空気に溶け入りそうにあった。東西両塔の間には薬師寺金堂の甍が翼を拡げている姿が、小さく見えた。
再び七五三の親子を振返った。相変らず女子は燈籠の礎石に腰を下ろしていた。少し躊躇ったが、ウエストポーチから小スケッチブックを引抜き、七五三の親子に向って構えた。
郡山城天守閣の石垣に逆さ地蔵が使われている、と城内の案内板に記されてあった。石垣として逆さ地蔵がある処には、簡便なトタン屋根が差掛けられ、中に小さな祠が祀られていた。
逆さ地蔵は石垣内部に頭から突っ込まれ、懐中電灯で照らさねばそれとは解らない。逆さ地蔵が埋込まれている石垣近辺には、他にも小さな地蔵が幾つか、石垣として石と石の間に挟まれていた。それぞれの地蔵前には供物や草花が活けてあった。
秀長が秀吉の命により郡山城に入部し(にゅうぶ)た際、城の大改修を行った。大阪の藩屏(はんぺい)とすると同時に、大和の寺社勢力に対する要として、堅固な城郭を築く必要があった。郡山藩は大和、紀伊、和泉三国の百万石を納める大藩であった。
天守閣から石段を下り、濠に沿った両側の石垣が見渡せる構図の好い処に出た。右手に小脇に抱えたキャンソン紙のスケッチブックを、左手に持替え筆を走らせた。
左方、天守閣側の石垣は高く、隅角部の石積みは楔型に石垣面に食込む。右方には一段低い石垣が弧を描き、濠に立上がった木立の枝葉に吸い込まれる。石垣の頂には樹々の薄紅色から橙色に変化した枝葉、淡い緑葉が入り乱れていた。男性的な野趣溢れた空気と同時に、女性的な優しさを併せ持った風景だ。
郡山城が醸し出すこの穏やかな空気は何に由来するのだろうか。この風景と秀吉の影に隠れた病弱な豊臣秀長の姿が重なった。
大和郡山と云えば柳沢吉里ではなく、まず豊臣秀長の名が浮ぶ。それ程、郡山と秀長は密接に結び付いて私の記憶にあった。百万石の太守とは云え、終生、秀吉の補佐役に徹していた秀長の謙虚で優しい人柄を思った。
整然と刈込まれた植込みが石垣の頂に沿い、狭い道が付いていた。左方は石垣が濠に落込んでいる。カーブした植込みに沿って進み、植込みの切れ間をすり抜け、古風な建物の前に出た。柳沢吉里以来の柳沢家に伝わる資料を展示した柳沢文庫である。
車寄せがある玄関の引戸が開いていた。タイルが張ってある玄関の床に幾足もの靴が並んでいた。随分、見学者がみえているものだ。玄関に並んだ履物に眼をやっていると、廊下奥から眼鏡を掛けた初老の男が出て来た。
「資料館、見学できますか」
綻んだ顔をした男の眼を見、訊いた。
「はい自由にご覧になって下さい」
男は愛想良くそう応えた。入場料はフリーらしい。靴を脱いで玄関の上框に右足をかけ、ざわざわした座敷の資料館に足を踏み入れた。
座敷には十数人の学生風の若者が、二列に並んだ座敷用テーブルに沢山の古文書を積上げ、一つ一つ丁寧に捲って調査していた。年嵩(としかさ)のいった男は、大学の研究室の助手なのか、指示を仰ぐ若者がいた。
座敷の周囲の壁にはガラスケースが並び、中に郡山城絵図面や古文書が展示されていた。古文書を調査中の学生の間を縫ってそれらを見て回った。
別室の資料室には、柳沢家に伝わる古文書や藩祖柳沢吉保の屋敷、駒込の六義園絵図面などが展示されていた。展示品の中で、豊臣秀長以来の軒瓦に描かれた家紋は郡山城の歴史を感じさせ面白い。
郡山城跡は保存にありがちな行過ぎた公園化がされてなく、自然と人工が好く調和し街並修景のよい参考例だ。
来た道を進んで踏切を渡り、雑然とした住宅街を、洞泉寺を眼指した。近辺には郡山城跡とは、相反した街並が続く。この落差は何に因(よ)るものか・・・・。
市街地では広域道路はインターナショナルな景観を古都にもたらす。旧き物から新しき物への階層が何の脈絡もなく突然現れる。
少なくとも二段階位のクッションでもあれば、戦国時代から現代、穏やかな空間から経済優先主義の空間、そしてそれらの双方向空間が印象的に感じられるのでは、と落差が激しい街並を歩き思った。
市街地の道筋、単調な軒の連なりに一際、大きな瓦屋根が大空に翼を拡げている光景が幾つかあった。山門の柱に掲げられた看板には浄土宗、浄土真宗、と記された寺が殆どだ。大阪石山本願寺に近かったためか、大和郡山には浄土宗、浄土真宗の寺院が多く点在する。現在、環濠集落として街並が保存修景されている、大和の今井町も浄土真宗本願寺派常念寺を中心とした寺内町として発展した。
寺院門前に立つが、境内は小ぢんまりとし門の正面に小さな本堂が立ち、本堂に隣接して寺の庫裏が並んでいた。
家族的な印象で、狭い境内に足を踏み入れれば住職さんの家族の生活に邪魔になりそうだ。と思って門前から立て込んだ境内を眺めるに止めた。
幾つか角を折れて商店街を歩き、再び細い路地に入って薬園(やくおん)八幡神社に出た。扉や柱、梁が黒済んだ門には注連縄が懸けられ、紙垂(かみしで)がひらひらと風に舞っていた。
石畳の正面に唐破風屋根の拝殿が立つ。屋根は此方側に葺き下って、鈍色に輝きを放ちどっしりと構えていた。
薬園八幡神社は戦国時代の無骨さと、安土桃山時代の華麗さの両文化を併せ持った神社である。境内には永い歴史を潜り抜けてきた素朴な風が吹き抜け、市街地の中にあってエアーポケットのような空間だ。自転車に乗った中学生が待合せ、三人で門外に消えて行った。
郡山駅で貰った簡単な地図によれば、薬園八幡神社の近くに洞泉寺、源九郎稲荷神社があった。最近、完成したらしい立派な道路に出た。洞泉寺、源九郎稲荷神社、と書かれた標識が、信号が取付けられたポールから持出されていた。
車道を歩くのは風情がない。信号を渡り標識に記された矢印の方向へ、細道を進んで行った。けれども角を折れると、突き当りにスロープが見え、風情のない鉄筋コンクリート製の建物が立つ。通りすがりの自転車に乗った高校生に訊いた。
「洞泉寺はどう行ったら・・・・」
「どうせんじ・・・そんな寺がそう云えばあっちの方にあったような・・・」
怪訝そうな表情で高校生は右の掌で左方を指した。
「彼処に見える自動販売機の処を左に曲れば洞泉寺があった」
高校生に教えられた通り、自動販売機の処を左に折れた。路地を曲って進むと、突き当りに寺院らしき空間が拡がっていた。正面に洞泉寺の石柱が二本立ち、石柱の間に鉄製の格子戸が嵌められ、門は閉じられていた。洞泉寺左手には朱色が褪せて剥げ掛った簡便な鳥居が立っていた。
鳥居から続いた石畳の先に、これも朱色の褪せた源九郎稲荷神社本殿が立つ。洞泉寺にも源九郎稲荷神社にも人の気配は感じられない。人を寄せ付けない殺伐とした空気が漂っていた。
洞泉寺の脇門が開いた。少しの間ならば構わないだろう、と思って鉄製の扉を押しあけ洞泉寺境内に足を踏み入れた。砂利が敷詰められた中、飛石状に石が据えてあった。
奥方に本堂大屋根の甍が、近辺の雰囲気とは無縁に聳え立っていた。本堂前は殺風景な広場になっていた。其処にも門があったような記憶だが、門は閉じられていた。本来、民衆に開かれている筈の門が閉じられ、自らの殻に閉じこもっている。殻を破って民衆の中に溶け込んで行ったら・・・・。
洞泉寺近くの路地に面し三階建木造家屋があった。二つの切妻型建物が平に葺き下り台所、水回りと思われる空間によって連結されている。
道側の棟が三階建で主屋、と思われる。奥の二階建は副屋であろう。三階建の妻側には、軽い庇が差掛けられた小窓が四つ、竪張りの板壁に穿たれていた。道に面した平側には連続的に窓が切られ、瓦が載った本格的な庇が付く。
この三階建木造家屋には無駄な装飾は見えず、あっさりとした簡単明瞭な印象を持った。そのデザインには機能主義的で論理的知性さえも浮き出ていた。
描いている側を土地の古老が通り掛った。
「この建物は何方が所有しているのですか」
後ろ手に組んで歩いてくる古老に訊いた。
「川本さんで・・・今は住んでいません」
「空家なんですか」
「川本さんは茶道の家元さんでJR郡山駅近くに新しい家を造って・・・・。この建物は市が買いはった。資料館にするそうです」
「流石に・・・郡山市は眼の付けどころが・・・・」
私は感心して古老に云った。
感心している様子を見て古老は、
「あんた何処から来はった」
「東京から・・・スケッチをしながら旅を・・・・」
いつの間にか古老は去って行った。川本家手前の寺では女が二人忙しそうにしていた。そのうちに坊さんが出て来、
「あんた何処から来はった」
坊さんの声が風に流れて来た。暫くしてお経を唱えるのが聞えた。坊さんの後ろで女は頭を垂れていた。どうやら女は、久し振りに郷里に帰って来て父母の墓参りに寺に来たらしい。スケッチを描きながら、そんな事を思った。
描き終り筆、ヴアンゴッホの絵具をウエストポーチに差入れ、歩き始めた。裏のアパートから若い男女が出てきた。
「駅はこっち・・・」
掌を西方に向け訊いた。
「近鉄・・・」
「ええ」
「真直いきはったら駅です」
男の方が手を先方に向け教えて呉れた。
男が教えて呉れた通り細い路地を進み、幾つか角を折れ近鉄郡山駅に着いた。
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