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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
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九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

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一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
11 生駒聖天・宝山寺
 生駒と云う地名には、大阪との関連で結び着いていた。近鉄奈良線で生駒山系のトンネルを潜り、初めの駅であるためだろうか、かなり俗化された街並である先入観があった。
 生駒駅を降り立った。予想通り駅前には大きなビルが立ち並び、行き交う人も忙しそうであった。駅前に掛け渡された歩道橋が、正面のビルに突っ込んで行った。突き当たりに、生駒山上まで登る近鉄生駒ケーブルカーの駅があった。
 当初、歩いて宝山寺を探索することも考えた。けれども今夕、大阪福島のシンフォニーホールに、関西大学吹奏楽部定期演奏会を聴きにいかねばならない。演奏会終了後、夜行バスで帰京する予定だ。そのため、早めに行程を終えたかった。
 ケーブルカーを宝山寺で捨てた。幅広い石段が上方に伸びていた。ケーブルカーの駅から石段まで、街並の印象が欠落し思い出せない。四ヶ月前の探索に過ぎない、直に原稿を認め(したた)れば記憶が鮮やかに甦り、リアリテイーある文になっただろうに・・・・。
 斯様に記憶が欠落する場合が間々ある。欠落しているからと云って、決して悪い印象を持った訳ではない。記憶力の退化によるものか、あるいは考える事が余りに多く、脳細胞のキャパシテイを越えてしまったのか。記憶力が退化したと云っても、空間のエッセンスは脳細胞の奥深くに、心地よい響きを伴い閉じ込めてある。
 
 宝山寺で描いたワトソン紙のスケッチブックを本箱の端から抜き出した。そこには宝山寺の石段、秋色に包まれた石鳥居が描かれ、欠落した情景が鮮やかに甦った。
 石段両脇には旅館が軒を連ね、紅から橙色に鮮やかに変わりつつある紅葉が、家々の軒端から覗いていた。先方には緑葉の葉擦れに、薄紅色の葉が晩秋の冷たい風に靡いていた。
 石段は立ち並んだ旅館の玄関部で、奥行四メートル程の踊場となって緩やかに上り、右方の木立に吸い込まれて行った。
 ハガキ大の小スケッチブックに描いていた。右手から左方に物を運んでいた女が通り掛かり、
 「あっという間に描いて・・・・よく描けていますね」
 女は左方の旅館の人らしい、
 「ここの旅館の人ですか。沢山、旅館がありますね」
 「ええ、何とか旅館をやってます。以前は大阪方面の商店主さん達が、よう泊まりがけで宴会や忘年会に使ってくれましたが、今ではさっぱりです」
 女将は笑顔を浮かべてスケッチを覗き、云った。女将の笑顔の底には、諦めにも似た気楽さ、したたかな強さが見て取れた。
 「どうもお邪魔しました・・・・」
 女将は背を向け左方の旅館の通用口に嵌った、アルミサッシのドアーを押し開け旅館に入って行った。
 旅館の家並が途切れ、切石を整然と敷き並べた本格的な石段が、真直に伸びる。石段の頂には大きな石鳥居が、仁王立ちの如く立ちはだかっていた。太い注連縄が掛け渡され、豪快な印象だ。
 石鳥居の背後は深い樹林帯に包まれ、鬱蒼とした森だ。処々、太い樹幹が樹々の葉擦れに立ち上がり、梢の間から鈍色の空が覗いていた。そんな光景に、宝山寺の小事に拘らない破天荒(はてんこう)な性格を思った。
 石段の頂に、本堂の屋根が小さく見えた。聳え立つ石鳥居と本堂の屋根とは、強烈な遠近感があり一瞬、眩暈を憶えた。石段両脇には、献燈籠がびっしりと連なり、手前に来るほど大きくなり、石鳥居から本堂に吸い込まれそうな錯覚を憶えた。
 惣門(そうもん)、中門を潜り堂塔が立ち並ぶ石畳の境内に入った。と云ってもどの門が惣門、中門だったのか定かでない。入山した際に貰った宝山寺の栞によれば、そう記されていた。軒を連ねる堂塔についても、境内の案内図と記憶が微妙に交錯し、宝山寺を訪れたこと自体、幻だったのかも知れない。
 けれども原稿の眼前には、間違いなく宝山寺本堂の甍の波が描かれている。石鳥居が惣門で石畳の境内に入った門が中門だったに違いない。
 
 石畳を敷き並べたオープンスペースを中心とし、アノニマスに堂塔の甍が立ち並び、外部空間に開放されるのは、いま潜って来た許りの大きな木戸の嵌った中門だけだ。
 中門を潜った空間は、外とは異なった空間、一つの目的を志向した共有空間を思わせる。中門右手に宝塔、屋根瓦を深く葺き降ろした本堂、その手前には天神様が立ち、ペーブされた石畳は本堂へ導くデザインがされている。石畳に足を踏み入れた参拝者は、無意識の裡に本堂に至る演出である。
 本堂の向こうには、甍の波のリズムを不連続にさせる柿葺の(こけらぶき)屋根を持った聖天堂、拝殿が柔らかなテクスチャーを現している。拝殿内部には幾つもの灯籠が吊り下げられ、橙色の輝きを周囲に放っている。
 聖天堂の背には、観音堂だろうか、方形屋根が聖天堂の柿葺屋根に顔を覗かせていた。観音堂左方には常楽殿の石垣が聳え立ち、屋根が僅かに見えた。
 ぐるっと巡って客殿、庫裡と連なり、閉じた空間を構成する。眼を下げると、聖天堂の前庭に至る緑青がふき、鈍い緑色をした鳥居が立つ。
 緑鳥居近辺には獅子、手水鉢、賽銭箱を初めとしたエレメントが据えられ、まるで玩具箱をひっくり返したような、滅茶苦茶な空間の相だ。
 斯様な囲まれた空間では、人は何かに憑かれたような精神状態になるに違いない。狭い空間に大勢の人で込み合えば、弥が上にも精神が高揚して来るだろう。
 群衆に方向性を喚起させるには、適度に囲まれた空間が演出されなければならない。宝山寺開祖湛海律師は、本能的に空間の演出を体得していたに違いない。
 寺域に限界がある山間の寺院であるため、狭い空間に密集して堂塔伽藍を計画する事になる。両者が永い歴史のうちに、自然に融合し細かいエレメントが一つ二つと増え、今の外部空間がある。五月一日から十日間続く大般若会式、その際の参拝者の群れはどんなであろうか、そんな事を思い描き、スケッチブックに筆を走らせた。
 描く間、初老の男が長い時間、背で見ていた。
 「鉛筆で下書きもせず、筆で直に描いて・・・・。色はどうするんですか」
 「筆でデッサンした後、直に彩色します。此処は空間構成が複雑で・・・・」
 そう云って、筆を走らせ痺れた手を二三回上下に振った。
 「よい絵になりそうですね」
 そう云って男は中門の方へ立ち去って行った。
 手が痺れた、と云った訳は、無意識の裡に筆を走らせているように見えるが、脳細胞と描く手が一体となって神経が対象物、画面に集中しているのである。描いている間は刻の経つのも忘れる程だ。描き終わったときには軟体動物のように、肩の力が抜けてゆき心地よい開放感を憶えるのが常だ。
 ハードな建築物としての堂宇(どうう)に対し、付属物として吊灯籠、幟、賽銭箱等々のエレメントが、宝山寺境内に土着的な雰囲気を醸し出している。
 参拝者の視線の先にはそれらの土着的なエレメントがあり、参拝者にとってアノニマスな堂宇は、エレメントの背景として認識されているに違いない。
 群れをなして進む参拝者は一心に商売繁盛の願を掛けているように見えた。
 
 オープンスペンスペースといえば、イタリアヴェネチアのサンマルコ広場が印象的だ。サンマルコ広場は、広場に続く南側の小広場がサンマルコ運河に開かれる。他のサイドはサンマルコ寺院が古風な表情を見せる。そしてカフェー等の店が軒を連ねたルネサンス期に建てられた、コ字形に立つ石造建築で囲まれている。
 其処では小広場を見渡せる位置に立たなければ、閉じられた空間で、広場を共有する人達は、サンマルコ広場と共に小宇宙を形成するであろう。
 広場を囲む建築は、広場のスケールに対し適度な高さが要求される。余りに見上げるような高さでは、開放的空間が得られず閉鎖的に成りすぎる。
 取り囲む建築は広場に訪れる人達に密接に関係し、広場と建築が相互に関連する要素を持つ必要がある。空間の相互貫入がなければ、ただの広い場所に成ってしまう。
 宝山寺の場合は現世利益、という宗教のため堂塔伽藍と広場が一体的となり、空間の相互貫入が見られる。
 人工的な甍の波の背後には葉を落とした樹々の梢から緑葉、地上での戯れを惜しむかのように薄紅色をした葉が、晩秋の冷たい風に靡いていた。
 更に眼を上方にやった。荒くれだった崩れ落ちてきそうな岸壁が聳え立っていた。その時には、よくある岸壁だと思っていた。宝山寺を去る際、再び岸壁を見上げた。注意して見ると岸壁の処々に岩窟が彫られ、微かではあるが菩薩像が彫られているのに気がついた。この岩窟は宝山寺発祥とも云える般若窟だ。
 般若窟に関し宝山寺ホームページに次ぎのように記されていた。
 「般若窟の由来ー寺の境内に入りますと、本堂の後ろに般若窟が全容を現します。今にも崩れんばかりに切り立った巌山で、有史以前の火山の跡である事が学者の調査で判っています。般若窟の名は、役小角(役行者)がこの場所に般若経を納められた事に由来しています。
 開基 役小角ー舒明六年(六三四)一月、大和国葛城山の麓、茅原の里(現御所市)で産声を上げた役小角は幼くして仏道に帰依され、十八・九歳の頃には金剛葛城の山々で苦行修練を積まれました。その最中に般若窟にも立ち寄り修行をされました。この故事により、当山の開基を役小角としています。寛保元年(一七四一)寺社奉行に提出された「記録写」には、入唐前の弘法大師もこの地で修行されたと記述されています。
 役小角と前鬼・後鬼ー般若窟で修行中の小角に、二人の鬼が良民を苦しめているとの話が伝えられました。小角は早速、鬼共を引っ捕らえ、般若窟に閉じ込めでお諭しになりましたところ、鬼共は心を入れ替え小角にお仕えする事となりました。以来、前鬼・後鬼の名で忠実な僕として、小角に付き従いました。この鬼共が住んでいたのが、現在の生駒市・鬼取だそうです。
 霊峰 生駒山ー日本書記によりますと、中大兄皇子の母皇極天皇が、斉明天皇として再び即位された年(六五五)の記録に「大空の中に龍に乗れる者あり、かたち唐人に似たり。青き油笠を着て葛城の嶺より馳せて胆駒山(いこまやま)に隠る。午の時にいたりて住吉の松のいただきの上より西に向い馳せ去りぬ」とあります。この様に古くから生駒山は神霊の宿る山として崇められてきました。今も山中にお瀧場として、霊場が点在しています
 般若窟周辺のその後ー弘法大師以後、般若窟は生駒山中の霊場の中心としてなっていた様で、寛平年間に生駒仙という者がいて、この地で菩提を求めて行をしたと、元亨釈書の記事に見られます。しかし、どの様な道場・寺院が建てられていたかは、窺い知ることは出来ません」
 
 緑色に緑青の(りょくしょう)浮き上がった鳥居に向かった。左方、庫裡の受付に堂守の男が二三人、此方を見ていた。ー絵具が石畳に付着して・・・・ーと注意されるのでは、厭な予感が脳裏を過ぎった。庫裡の床は石畳のレベルに比べ、三十センチ位高い。堂守の男は椅子に座っているのだろうが、眼をやった一瞬男達はふんぞり返っているように見え、横柄な印象を受けた。
 何故、寺院に鳥居が、本堂と聖天堂、鳥居で結界を築いているように思える。それは判然とした結界ではなく、透明なフィルターにも似た結界だ。結界という言葉は相応しくないかも知れない。空間の変換をもたらすために挿入された装置、と云った方が適切だ。
 鳥居を潜り、聖天堂前庭に足を踏み入れた。太い樹を巾着風に彫り込んだ賽銭箱を初めとし、手の込んだ点景が処狭しと、彼方此方に鏤められ、一瞬軽い眩暈を憶えた。
 これらの点景は信者が寄進した物らしく、ー大阪府道頓堀・・・・商店連合会ー等と彫られていた。
少しずつ寄進され、永い歳月のうちに斯様な現世利益を実像として現した空間になったのであろう。
 聖天堂内部は小暗く、外陣に吊下げられた灯籠だけが、橙色の艶っぽい輝きを堂内に放ち、幽暗な空気が漂っていた。
 此処から先、どう境内を巡ったのか、再び記憶が欠落していた。聖天堂前庭は鳥居がある一方だけに開かれた、囲まれた空間の記憶が脳裏の片隅にあった。
 宝山寺探索の日記を繙いてみた。
 「聖天堂前庭奥の細い石段を上る。石段が折れ曲がる毎に寺務所、拝願所がある。拝願所がある都度、熱心に掌を合わせ拝む大勢の人達がいた。拝願所に座っていた堂守の男は、どの拝願所でも無愛想だ
 石段が終わりかけ、狭く細い石段の両脇にお地蔵様が立ち並ぶ。お地蔵様は朱色のちゃんちゃんこ(前掛け)を懸けていた。その連続は壮観な眺めだ。お地蔵様がのる石造の基壇には寄進者の名前が彫り込まれてあった」
 日記を読み進むに連れ、記憶が甦って来た。
 キャンソン紙のスケッチブックに、その時描いた宝山寺お地蔵様があった。大きな樹々が立ち上がる、深く幽暗な空間に川の流れの如く、一筋の帯が鈍色にくすんだ光を放つ。石段の帯は彼方の小暗い森に糸のように細くなって、溶け込んで行った。
 この光景を描き始めた。お地蔵様の連なりを克明に描こうとすると、気が狂いそうになる。感じた印象を手が動くまま、無意識の裡に描く。
 お地蔵様は鈍色に周りの空気に同化している。その中で色褪せた朱色の涎掛(よだれか)けが、黄泉の国での華やかな彩を現している。石段を行く人は少なく、時々、各お地蔵様に掌を合わせてお賽銭を置いていく奇特な参拝者が通る位だ。
 石段は延々と続き、上るに連れ自然の趣に溢れた山道になった。明るく開けた頂近くに殺風景な広場が、林に囲まれてあった。広場に面し安普請な堂があった。宝山寺奥の院だ。
 堂内祈祷受付所、堂守の男が手持無沙汰に此方を眺めていた。其方に近付き、
 「この先には何かありますか」
 広場から外れた山道を指差し訊いた。
 「其処の案内板を見れば解るでしょ・・・」
 堂守の素っ気ない返事が返ってきた。当然、案内板を読めば一目瞭然であることは訊く前から解っている。宝山寺を守る堂守の男と言葉を交わし、宝山寺の歴史、参拝者の現世利益等々、生の声を聴きたかった。
 宝山寺案内書によれば、生駒山頂上近くまで山道が続いている風だった。生駒山頂上までは行く積もりはなかった。ただどのように道が付けられているのかを知りたかった。
 伏見稲荷大社では、各種の塚が立ち並んだ奥社へ至る石段の参道両脇に、朱色に染められた鳥居がトンネル状に連なっていた。伏見稲荷大社背後に控える稲荷山を弧を描き、参道が巡っていた。その奇想天外なデザイン感覚に茫然と息を呑んだことは、記憶に新しい。
 宝山寺においても、伏見稲荷大社の空間に似た土着的デザインを思い、お地蔵様が立ち並んだ石段の参道が、生駒山中腹から山頂へ弧を描いて連なっているに違いない。そう推測していた。道は更に続いていたが、幅の狭い参道に目通り十センチ程の木が掛け渡され、通行止めされていた。
 参道は般若窟に至り、弥勒菩薩像を拝観出来るのかも知れない。般若窟は今にも岸壁にへばり付いた岩が、剥がれ落ちてきそうな位脆い印象を受けた。
 
 来た道を下って行った。本堂、聖天堂を見下ろす眺めの好い処に出た。其処から、宝山寺主要伽藍が一望の下だ。思わず、小脇に抱えていたスケッチブックを左手に持ち替え、本堂、聖天堂前庭を中心にして構えた。
 宝山寺中心部、本堂前のオープンスペースともいえる石畳空間を甍の波が取り囲む。甍の波はアノニマスに色々な方向に向き、周りの樹々の梢に溶け込んでいた。複雑に折り重なった屋根は、確かに、観る者に対し無秩序な空間構成を思わせる。
 スケッチブックを構えたところまでは良かったが、この滅茶苦茶になった無秩序な空間を表現するとなると、肩にずしりと重しがかかり、ほっと溜息を吐いた。
 滅茶苦茶な空間と云っても、広場を構成する、という共通の目的、同一性がある。その一点では統一感ある空間だ。
 個が色々な方向を眼指し、一見ばらばらな社会にも似、宝山寺の甍の波は社会の縮図とも思える。
 整然と規範に則った宗教空間には、エリートコースを歩む秀才の面影が浮かぶ。端正な形の裏には、どろどろとした人間模様を内包しているように見える。
 一方、規範に外れた無秩序な宗教空間では、現世利益のためならば目的をオブラートに包み込むこともなく、判然とそれをあらわす。それは少年の無謀とも思える行動に似、スマートではないが、社会の一方の代表だ。そこにはエリートには隠された、少年の天衣無縫な明るさが現れている。宝山寺の甍の波を眼前にし、そんな感慨を憶えた。
 甍の波を描き上げ、それらを眼下に石段を下って濃緑の鳥居を潜り、聖天堂が立つ空間に下りた。そこは種々雑多な要素で溢れ、自分も現世利益を得るためお布施をしなければ・・・・、そんな気になるのが不思議な位だ。
 原木を巾着型に彫り込んだ賽銭箱、布製のそれらしく上部を紐で縛った形で、布の皺まで表現されている。それはてかてかと光沢を放ち、、石か金属で作製されているのでは、と一瞬我が眼を疑った。賽銭箱下部の台が引き出せるように作られ、お賽銭の回収方法にも面白い仕掛けが考えてあった。
 聖天堂の軒端に取り付いた樋受(とようけ)金物は、住宅に使用されるそれのように華奢な物ではなく、野太くてごつくダイナミックな鉄製の金物だ。それが葺き下りた垂木の木端(こば)に打ち付けられ、しっかりと横樋を掴んでいた。
 眼を竪樋に転ずれば、その足元周りのデザインが面白い。一般的には竪樋のアンカーは建築物本体からとるのが常識的な納まりだ。ここでは、竪樋下部に廻された鉄製の金具から、アールを描いた細くて軽やかな金具を四辺から持ち出し犬走りに石で固定されていた。四角の竪樋は犬走りの上五センチで切られ、雨水は犬走りに流れるようになっていた。
 聖天堂の軒端には四周、細工の込んだ吊灯籠が下げられ、宗教建築らしい雰囲気が漂っている。垂木からぶら下げられたそれも豪快でダイナミックなデザインだ。ウエストポーチのチャックを右に引き、小スケッチブックを引き抜いた。それからウエストポーチ隅からペンテル製筆ペンを引っ張り出し、それらを一つ一つ描き始めた。
 
宝山寺 賽銭入れ 宝山寺 樋受
 
 売店横に座布団が敷き並べたベンチが幾つかあった。角のベンチでは、既に二人連れの先客がお茶を喫んでいた。広場に近いベンチには誰もいなかった。肩からデイバッグを降ろし、ベンチに投げ出した。
 デイバッグは軽そうに見えても、背負い続けていれば、じわじわと肩に食い込み疲れる。スケッチブックをベンチに拡げ、ウエストポーチからステンレス製の水壺を引っ張り出して、絵付けが未完了のページを捲り、色を付け始めた。
 デッサンを見、描かれた光景が鮮やかに甦ってきた。瞼に浮かんだ色彩を躊躇いもなく画面にのせた。時には、現実の色とは違った色合いになる場合があるが、印象を描くには、現実とは違っていても、却って空間のエッセンスが表現されていれば構わない。
 デッサン上に表現された筆による遠近法を、色の濃淡で更に強調し手前から奥方に吸い込まれるように筆を走らせた。
 七十歳がらみの女が、ベンチの背に回り描くのを眺めていた。
 「あんたどこから来はったんか・・・・」
 「東京から・・・・。今日、帰る予定です」
 「・・・・・」
 女は感心したような、物好きな人だ、といった表情で此方を見、眼を見開き頷いた。
 中門を潜ると、左手に広くて明るい土産物店があった。今夕、関西大学吹奏楽部の定期演奏会が、大阪福島のシンフォニーホールで開かれる。大学四年生の娘にとっては、最後の演奏会になる。娘は、
 「何も持ってこなくていいよ、差し入れなら菓子ぐらいで・・・・」
 と云っていた。
 丁度よかった。宝山寺土産物店で差し入れの品を手に入れておく事にした。菓子などの土産物が整然と並べられ、蛍光灯が燦々と輝く店内に足を踏み入れた。店内には店員が二人いた。店内をぐるっと一回り巡った。差し入れにしても可笑しくなさそうな菓子を探した。ある品を手に取り、レジ台に乗せた。スケッチブックを台に置き、ズボンの腰のポケットから札入れを引き抜き、
 「演奏会の差し入れにこの菓子でどうかなあ」
 二人並んだ、左の女に向かって云った。
 「差し入れならば・・・・がいいかも知れません」
 女はカウンターの中から出、奥方の土産物台に向かった。私は女の背に就いていった。
 「これは柿を・・・・してつくったお菓子です。お土産には宜しいかと思いますが・・・」
 女は色々な包装紙に包まれた土産物が並んだ、下の台に掌を向けそう云った。
 私は女が指差した土産物を掴み、手に持ってみた。ずしりと重い感触が掌に伝わった。外見は小さな土産物だが、中身は濃そうで詰まっている印象を受けた。
 「これなら嵩張らなくて良さそうだなあ・・・・」
 「・・・・・」
 女は笑顔を浮かべ頷いた。
 差し入れ用と東京へのお土産用に、もみじ柿の包みを四つ掴みレジの方に行った。レジの前で、丸顔で眼がくりくりとして可愛らしい女が、レジ台に置いてあったワトソン紙のスケッチブックをぱらぱら捲っていた。
 「これにしました」
 もみじ柿の包みをカウンターに置き、女に云った。
 「ちょっと絵を見せて頂きました」
 「ああ・・・絵を描くんですか」
 くりくりとした眼に笑顔を浮かべた女に云った。女は恥ずかしそうに、
 「内の主人も定年まであと五年、それで最近水彩画を描き初め・・・・、私は描きませんが・・・・。まだ初めた許りで、色をベタッと塗ってしまいとてもこんな風には、暇があれば色々な本を見て勉強していますよ。いいですねすらすら描けて、宝山寺はどうでしたか」
 「宝山寺は滅茶苦茶な空間で面白かったですよ。娘が関西大学四回生で、関大の定期演奏会を聴きにいくついでに、宝山寺に寄ってみました」
 女の目元に親しみのこもった親近感がみえた。
 「うちの主人は関大の法学部卒業、お嬢さんは学部はどちらですか」
 「社会学部ですが、実体はースイソウガクブーみたいですよ」
 「他の絵も見せて頂ければ・・・・」
 「インターネットで山口佳延と入力すれば、京都、奈良に関する紀行文が幾つか出ますよ」
 「息子がフエデリックに勤めているので見てみます」
 女は嬉しそうに云った。
 「フエデリック・・・」
 「コンピューターメーカーのフエデリックです。それでは宝山寺の事も書くんですか・・」
 「暇を見、ぼつぼつ宝山寺の事も書く積もりです」
 女は話しながらレジを済ませ、
 「すいません関大の定期演奏会にいくのを、引き留めてしまって」
 そう云って頭を軽く下げた。その隣でほかの女が無言で、私と女のやり取りを聴いていた。 「それでは・・・・」
 女に向かって右手を、肩ぐらいまで上げ、参道に面したアルミサッシの嵌った出口方に歩いて行った。
 帰京後、もみじ柿の包みを開いた。一箱に羊羹ほどの大きさをしたもみじ柿が二本入っていた。それは一センチ程の竹を編んだ簀の子にくるまれ、輪ゴムでしっかりと留めてあった。
 四ヶ月経った今でも、まだこの竹の簀の子をとってある。中に入っていたもみじ柿の栞に、 「そのまま広げて花瓶敷きとしてご利用下さい」
 と書かれてあった。更に、、
 「竹を十センチに切り、中心に穴をあけ斜線部分を表裏ともうすく削ります。心棒のヒゴは市販の竹串を利用してください。長さ十二センチが適当」
 栞の片隅に幅一センチの竹の再利用について書かれてあった。
 その味はといえば、私は三センチ位に切って一気に食べたが、薄く切って茶菓、ウイスキーの友とするらしい。天然の渋柿を原料としているためか、干柿を羊羹状にし深い甘みを付加した野趣味豊かな民俗茶菓である。
 石段の参道を下り、両側に旅館が軒を連ねた道に出た。近鉄生駒駅まで、歩いても十五分位らしい。演奏会開演まで電車に乗っている時間を入れても一時間程、余裕がある。近鉄生駒駅までの途々(みちみち)、興味深い街並に出会すかも知れない。初めて歩く道には、心がときめくような光景が期待できる。ケーブルカーには乗らずぶらぶら歩いて生駒駅に行くことにした。
 旅館街を通り過ぎると、道の両側には民家が軒を並べる。石段と傾斜の緩い石畳が交互に繰り返す。この道も昔は宝山寺参道だったらしく、民家が立ち並んだ石段に石の鳥居が立つ。
 民家の中の鳥居、宝山寺の栄枯盛衰を感じさせると同時に、飛躍した空間構成を感じさせ軽い眩暈を憶えた。
 
 スケッチをしようとしたが、この先にまだ違った風景があるのでは、と思って鳥居を潜り、僅かに左方に折れた石段に進んだ。暫く歩いて振り返った。道が曲がっていたためか鳥居の姿は、既にそこにはなかった。心残りはあったが石段を先に進んだ。
 石段両脇に立ち上がった樹々の枯枝が、道に差し掛かる。処々、緑の葉、淡い朱色に染まった葉が枯枝の間から見えた。
 滅茶苦茶な宝山寺の空間とは対照的に、それは頼りない位控え目な枯れた印象を憶えた。ゆっくり石段を下りた。人は殆ど通らない。民家の主と思(おぼ)しき人が、家の前を掃き掃除しているのを見かける位だ。
 少し進んで振り返った。淡い朱色、薄い緑の霞の中に、葉を落とした木立の樹幹、四方に伸びた枝が、手前に出、そのベージュ色をした肌を浮き上がらせていた。朱と緑が織りなす霞の向こうには、夕暮が迫った空が抜けていた。
 小脇に抱えていたスケッチブックを構え、霞の向こうに溶け込んだ石段を見上げた。同地域にこれ程異なる空間があろうとは、事象の表と裏、あるいはハレとケを現した空間を思わせる。宝山寺とこの石段、どちらが表でどっちが裏だろうか。常識的には、宝山寺が表でこの石段は裏だろう。地域的に分割して事象を見れば、そうなるかもしれない。
 けれども地域的な事象は分割すべきものではなく、両者を一体的に見なければならない。生駒山の中心、宝山寺自体がその内面にもつ表と裏、あるいはハレとケである。滅茶苦茶な伽藍配置は宝山寺の顔であり表舞台だ。この石段を中心とした木立が織りなす光景は、豪快な空間に潜んだ優しさかも知れない。
 石段に置いたデイバッグから、パンの残りを取り出して口に頬張った。描く傍らで白毛の猫が上目遣いに様子を窺い、デイバッグを狙っていた。隙あらば、デイバッグに飛び込んで行きそうな気配だ。
 「しっしっ・・・・」
 追い払おうとするが、猫は僅かに後ずさりするだけで、狙いをデイバッグに定めていた。
 石段下方から若夫婦が上がってきた。若夫婦はスーパーの袋をぶら下げ、鳥の唐揚げを口に運んでいた。若夫婦はスケッチをしている私の脇を通った。
 男が、僅かに肉が付いた唐揚げの骨を、猫に投げた。咄嗟に、猫は唐揚げに食らい付き人家の隙間に走り込んで行った。私は男と眼があった。男は笑いながら石段を上がって行った。
 筆ペンによるデッサンが出来上がった頃、石段上方から初老の女が、にこやかな表情をつくり下りて来た。女の知人が下から上がって来ている、と思って私は石段下方を振り返った。其方には人影はみえない。そのうちに女は描く傍らに来、私に向かって軽く頭を下げ、
 「絵を見せて下さい」
 「はい・・・・」
 丁度、デッサンが上がり、石畳みにスケッチブックを置いて色付けしようとしたところだった。取りあえず色付けは止め、、石畳みに投げ出されたスケッチブックを、初老の女の前に押し出した。
 女の年の頃は、六十五歳前後と思われ、眼鏡を掛けていた。作家の橋田須賀子に似、頬骨が張った人の良さそうな顔貌で、視線を一点に定め不正は絶対に許さない、といった印象を一瞬思った。建築計画する時の近隣対策の際、このように正義感に燃えた女は、手強い相手になるだろう。私自身、にこにこした顔の底に、何故かそんな勝手な事を思っていた。
 女はキャンソン紙のスケッチブックの一ページ目から見始めた。
 「まあーよく描けて・・・。どの位の時間で描くんですか」
 「二三十分でしょうか、速く描いた方が印象を的確に表現されるような気がします。どんな絵を描くんですか」
 「カルチャースクールに通っています。そこでは人物だけしか描きません。町に出て描きたいと思っています。けれども、なかなかこうは描けない。私も外で描きたいんだが・・・・。たまに町に出、描くと人物を入れることにより、絵をカバーしています」
 スケッチブックを前に、石畳で女と並んで中腰になり話していた。
 「宝山寺は滅茶苦茶な空間でしたが、自由な精神を感じる寺でした。この辺は緑も豊富、空気も綺麗で羨ましいですね」
 「私達は縁あって、そこの三軒向こうを買いました。大阪に勤めに出ていたが、定年で辞め、今ではずっと此処にいます。此処は空気が綺麗で・・・・、たまに大阪に出ると咽喉(のど)が痛くなります」
 女は左手を挙げ三軒向こうの家に向けた。女の掌の先に視線をやった。三軒向こう、と云っても此処からはかなり離れていた。視線の先に、トレーニングウエアーを着込んだ男が、木立の影に見え隠れした。男は家の道路際を清掃しているようだった。
 「あの掃除をしている人が、ご主人様ですか」
 「・・・・・」
 女は顔を上げ頷いた。
 「聖天さんの燈籠にーよくゆーと書かれてあったでしょ」
 「よくゆ・・・・」
 よくゆ、と云われても何なのか解らなかった。
 「湛海さんは毎朝二時に起き何故か解らないが、聖天さんに油を塗っていた、という話です。宝山寺では寺に寄進することは、すなわち油を寄進するという事です。それで燈籠にー浴油ーと書かれてある訳です」
 「えっ聖天さんに油を塗っていたんですか」
 「宝山寺では寄進は油を買うためらしい、今でもそうしているらしいですよ。人の話によれば、貫首になるとその油を買うことが大変だったそうですよ」
 「それで燈籠に浴油と書かれてあったのか。初めは浴だから風呂と関係があるのでは、と思っていた。でもそれほど深くは考えてはいなかった」
 女は宝山寺について色々と話して呉れた。
 「昔はこの辺は盗賊が多く、物騒な処だったらしい。役行者・役小角や弘法大師・空海もきたのだが、何時までも開けず寂しい処だった。そんな所を湛海さんが中興し、現在の宝山寺がある、と云われています」
 宝山寺について、何の知識も無かったため、女の話は大変勉強になった。
 「今では、平和そうに見えますが、当時は物騒な処だったんですね。あっー大阪に六時までに行かねば・・・・。関西大学の応援団吹奏楽部の定期演奏会が福島のシンフォニーホールであるもんで・・・」
 「それはどうも・・・お忙しいのにお引き留めし申し訳ありませんでした。私の家は其処ですから、今度、宝山寺に来られた際にはぜひ寄って下さい」
 女は掌を、左方三軒目の家に向け云った。その表情には、寂しそうで心残りがあるような影が差していた。
 「はい・・・・」
 私は女の掌の先に眼をやった。石段に沿って立ち並んだ家々は立て込み、どれが女の家かは解らなかった。
 
 女が云っていた湛海さんについて詳しく知りたいと思い、帰京後、宝山寺のホームページで湛海律師に関する項を検索した。
 「中興開山・湛海律師の入山ー延宝六年(一六七八)十月十日に湛海律師がこの山に入られましたが、その頃の山は鬼や化け物などの妖怪が住み着いて人々を脅すので、村人と言っても午後四時を過ぎると山には入りませんでした。しかし、村民たちは貧しく、山の木を切ると火難に合ったり、病気になると言われても、その崇りを恐れずに山林を荒らし、菜畑村は大和の国で一番貧しい村と言われていました。この事を心配していた庄屋は、これは般若の岩屋の罰を受けているからであろうと、山を治めてくれる行者を探し求め、不動尊の行者として名が知れ渡っていた湛海に白羽の矢をたてました。その頃湛海は風の森の南禅寺(御所市)に居住して、十万枚の不動護摩供の修行をするための準備をしていましたが場所も狭く水も充分でない上、不動明王より護摩供に適した 土地に移るようにとの御指図を受けていました。庄屋の話を伝え聞くや、湛海は二つ返事で生駒へ移ることを決心、庄屋を道案内として山に入られました」
 
 石畳に拡げられたヴァンゴッホの固形絵具、携帯用筆を右手で掴みウエストポーチの開いた口に滑らせた。
 「演奏会には間に合いますか、引き留めてしまって・・・・」
 「まだ大丈夫ですよ、それでは・・・・」
 私は女に向かって軽く手を挙げ、向きを変え石段を下り始めた。女は帰る様子がなかった。石段を十段位下った。背に視線を感じ石段上方を振り返った。女はまだ此方を向いていた。女は慎ましく背筋を伸ばして一点を見詰め、深く腰を折った。私は頭を下げ、石段を下りて行った。
 暫く行って再度、振り返った。石段を上がって行く、女の小さな背があった。再び振り返ることはなく、石段をゆっくりと下りて行った。
 女の眼には真実とは何なのか、と考えている輝きが差していた。輝きの裏には真実とはかけ離れた経験を数多くしてきた事実が垣間見えた。
 でも女は何故に家に寄るように云ったのか、他日本当に女の家に寄ったとすれば・・・・、それは社交辞令だったのか。そんな事を思いつつ、眼前に霞む夕暮の大和盆地を見渡した。
 石段が市街地に入りかけた右方に祠があった。近付いて見ると生駒太子堂、と分厚い板に書かれてあった。今日最後のスケッチ、と思い小スケッチブックに描き始めた。市街地に入ったためか行き交う人が多くなった。
 軒の低い家が並んだ市街地を抜け、幾つか角を折れて近鉄生駒駅に着いた。
 
 大阪福島、シンフォニーホールには六時頃着いた。既にタイルが張られたホール前庭には、大勢の人が、彼方此方にグループをつくっていた。
 入口左方、チケット売場に引換券を出し本券と引き替え、それを入口に並ぶ学生に差し出した。
 「はい二階のバルコニー席です」
 「・・・・・」
 エントランスホールは若者で溢れかえっていた。左手奥の一角に差し入れの受付コーナーがあり、まだ高校生の面影が残った女子学生が四人、カウンターの中に緊張した面持ちで立っていた。前にも一度、シンフォニーホールに来ていたので要領は解る。其方に足を運び、デイバッグを肩から降ろした。デイバッグの中から宝山寺で買った、もみじ柿の菓子箱を一つ取り出し、受付の女子学生の前に置いた。学生は白い小さな紙を差し出し、
 「どなたに届けるか、これにお書き下さい」
 「はい・・・・」
 白い紙にーTO 山口 FROM 山口ーと書き込んだ。差し入れの受付を終え、ホールを振り返った。学生はジーパンやセーターを着込んだ普段着姿が多い。けれども五十年輩の親世代の格好は、背広を着込んだ正装した姿が殆どだ。
 宝山寺探索の帰りの私は、ベージュ色をした作業着風ズボンに茶色のハーフコートを引っ掛けたラフな格好だ。その上絵具、小スケッチブックの入った大きめのウエストポーチを、腰に巻き付けていた。音楽会での服装にしては眼を引く格好だ。それでも宝山寺探索の帰り、と思えばたいして気にもならない。
 ロビー側面の階段を上り、バルコニー席フロアーに出た。重くて重厚な防音扉のステンレスヘアーライン仕上げされた、縦長の把手を掴み手前に引いた。広く開けたホールが眼前に拡がった。バルコニー席はほぼ満席に近い。
 指定席の両サイドには、出演者の友人だろうか若者が座っていた。開演まで第四十回定期演奏会、案内の小冊子に眼を通した。観客でざわざわしているうちに、舞台の幕が引かれた。
 指揮者台を中心とし演奏者の椅子が同心円に並べられ、後方には二列横並びに椅子が並んでいた。まもなく黒いスカート、ズボンに、鮮やかな純白の白さが眩しい上着を身に着けた関西大学吹奏楽部団員が、緊張した面持ちで入場してきた。
 吹奏楽部団員が席に着くまで、ざわざわとした騒めきがホールを包んだ。山口里枝が前列左から三番目に座っているのは直に解った。山口里枝はクラリネットのパートリーダーだ、
 吹奏楽部団員各自、それぞれの楽器のテスト音が、ピー、フーとホールに響いた。演奏会は作詞服部嘉香、作曲山田耕筰である関西大学学歌で始まった。
 「自然の秀麗 人の親和 たぐいなき 此の学園 
      我等立つ 人生の曙に 燦たる理想 仰ぎつつ 
           学は一途 純正の 若き心に 讃えなん 
               関西大学 関西大学 関西大学 長き歴史」
 演奏会の時、貰ってきた、関西大学吹奏楽部第四十回定期演奏会の小冊子一ページ目に、学歌の詞がそう記されてあった。
 J・ハーデルマン作曲コルテージュ、J・ヴァアンデルロースト作曲交響詩モンタニャールの詩が続けて演奏された。私はモンタニャールの詩が演奏されている最中、キャンソン紙のスケッチブックを膝にのせ、ウエッストポーチから筆ペンを引き抜いて演奏会の光景を描き始めた。舞台は横に広く拡がっているため、スケッチブック左右見開きで描かねば、ちまちました絵になりそうだ。
 吹奏楽部団員が演奏するモンタニャールの詩が、バックグラウンドミュウージックとなって心地よい響きを伴い、筆がすらすらと滑らかに走った。
 休憩を挟み・グラズノフ作曲バレエ音楽四季より秋、G・ホルスト作曲組曲惑星作品三十二より、と演奏は続いた。クラッシク音楽について疎い上に、一心不乱に筆ペンを走らせていたため、演奏について、と云われればなんともいえない。
 けれども、バックグラウンドミュウージックとなって流れくる音律には、純真な学生の夢と希望そして素朴な感性が潜んでいた。音と形は一体となってシンフォニーホールに現れているのを、スケッチを描いている間にも感じた。ここで云う形とは、我々の眼に映る姿を意味する。その形、ハレの衣装の底には素朴な人間の姿が垣間見えた。
 演奏会が終わり、アンケート用紙に諸々の事を書き込んだ。描いた見開きのスケッチブックから二枚のスケッチを切り取り、アンケート用紙と共に、ロビーの柱際に据えられた用紙箱に差し入れた。
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