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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
柳生家家老屋敷 滝坂の道1
滝坂の道2 滝坂の道3
大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
12 滝坂の道から柳生の里へ
 新宿高速バスターミナルは現在、工事中。高速バスが横付けになる歩道には大勢の人がバスを待っていた。奈良行奈良交通バスの前に長野伊奈行高速バスがターミナルの行列に横付けになった。列に並ぶ半分ぐらいの人は、乗車口の四十がらみの女を先頭に伊奈行バスに列をつくった。
 ペインズグレイに色をおとした窓ガラスに乗客の顔がぼんやりと見えた。車内は満席のようだ。程なく直方体をした車体を輝かせ、伊奈行バスは甲州街道方面に静かに進んで行った。
 次に、奈良行バスが音もなくターミナルに入ってきた。徐々に酔いがまわってきた。バスを待つ間新宿の雑踏を眺めながら、ビールを飲んでいた。夜行バスは窓に吊されたカーテンは全て閉じられる。車窓に流れる夜景を愉しむことも出来ない。眠りたくない場合も、眠らざるを得ない。
 前以て予約しておいたキップを車掌に差し出した。
 「B5番です・・・・。二階になります」
 車掌はテキパキと次から次にキップを受け取り乗客を捌いていた。あっという間に車内は満席になった。車内の顔ぶれは若者が多く、ちらほら中高年の男女が混じっていた。定刻十時五十分バスは新宿高速バスターミナルを後にした。
 
 天理駅近辺で眼が醒めた。奈良行高速バスは、名古屋から南下しJR関西本線、近鉄線沿いを奈良に入ったようだ。
 東京から関西方面へは、東海道新幹線に乗れば三時間足らずで着く。旅情を味わうには、車内で一晩あかした方がいい。現地に早朝到着するため一日が有効に使える利点も夜行バスにはある。
 早朝七時五十分JR奈良駅に着いた。柳生行バスは十一時三十分までない。梅の季節、柳生経由、月ヶ瀬梅林行臨時バスが出ている。それも九時三十分発だ。歩いて柳生の里に行くことにした。
 一昨年、高畑町新薬師寺を訪れた際、崩土塀に囲まれた民家の際、土塀沿いに生えた雑草の緑が、細い畦道のような道に広がっていた。崩土塀には小さな字でー柳生の里ーと記され、矢印が一面畑に包まれた田園風景に向いていた。
 その時は、夕方だった。何れ剣豪の道と云われる柳生街道を歩き、柳生の里に入ってみたかった。地図はなくとも、あの崩土塀を眼指せば柳生に至る、と思っていた。
 JR奈良駅から奈良公園へ三条通商店街を歩いて行った。早朝のため商店は無機的なシャッターを降ろし、時間が静止したような空間だ。観光客や若者で賑わう日中の姿とは対極をなす早朝の佇である。
 芝居の書割(かきわり)を想像させるファサードが連なる。早朝と日中どちらが実像でどっちが虚像であるのか、大和平野の冷気にあたり軽い眩暈を憶えた。
 一昨年の記憶を辿り、猿沢池の畔を(ほとり)回った。左手高処、興福寺五重塔が樹々の梢の向こうに上半身を覗かせていた。この辺でスケッチしたいところだが、目的地は柳生の里だ。
 奈良町の街並を抜け、かなり幅広な道路に出、新薬師寺の方向が解らなくなってしまった。一瞬これでは柳生の里へは無理かも知れない、と不安な気持が脳裏を過ぎった。目的地が近傍であれば、多少方向に躓いたとしても大勢に影響はない。
 左方に閑静な佇の邸宅のような施設が緑葉の葉擦れに覗いていた。旧大乗院庭園だろうか。家並が連なる路地の先、大通の一本北側、静かな佇の道が東西に走るのが見えた。無意識のうちに足は其方(そっち)に向いた。
 以前、歩いた道だった。志賀直哉旧宅が面する路地に足を踏み入れ、崩土塀、藤間邸を足早に過ぎ、変則的な三ツ辻に出た。右に折れれば新薬師寺への道だ。
 三ツ辻を直進、疎らに家が点在する集落に出た。上り坂の道は先方に立ち上がる、こんもりとした林に吸い込まれて行った。柳生への道ー滝坂道ーに違いない。そこで樹海に突き進み上に行く道と下がる道に分かれていた。後ろからスポーツバッグを肩に掛けた中学生が歩いてきた。
 「滝坂道へは・・・」
 「下がった道を行けば・・・」
 中学生は掌を下に向けて云い、樹海に包まれた道を上って行った。
 
 道は鬱蒼とした森林に包まれていた。市中心部から歩いて二三十分、これほどの自然があるとは、驚きだ。滝坂の道は石畳の筈だが、眼前のそれはゴロゴロと石が転がり、情緒のない道で歩き難い。渓流沿いを進んで川に差し渡された橋を幾つか渡ると、山道は自然に石畳になっていた。
 滝坂の道を中心とした景観は豪快な様相を現し初めた。柳生十兵衛、荒木又右衛門を彷彿と思い起こさせるに充分だ。
 北側には春日山、南側には高円(たかまど)山を背負った谷合いに流れる清流能登川に沿って滝坂の道は、くねくね折れ曲がって緩やかに上って行く。
 整然と敷き詰められた石畳とは異なり、滝坂の道は春日山、高円山から切り出された自然石が敷き並べられている。石の形は一つとして同形の物は見当たらない。道の両側には山肌から剥き出た岩石が苔生したテクスチャーを現し、道に溶け込んでいる。
 何処まで人間の手が入っているのか判然とせず、自然と人工の境界が曖昧だ。道沿いを流れる能登川にも巨石がゴロゴロと転がり、其の隙間に流れが輝きを放っていた。流れは右になったり左になったりし空間に変化をもたらす。
 滝坂の道は鬱蒼とした原生林に切り開かれた道らしく、道の部分だけが、ベージュがかった色合いを現し、細い一筋の航跡を何処までも伸ばしていた。
 眼に入る視界には巨樹が立ち上がり濃茶の樹幹を見せ、所々朽ちた巨木のむくろが道端にぽっかりと口を開けていた。
 山道のため当然、道はくねくね折れ曲がって伸びる。盛り上がった山肌を巻くように道が伸び、山肌に溶け込んで行く様は、エンドレス空間に吸い込まれて行く錯覚を憶える。道には斜めに伸びた幾本もの樹幹が覆い被さり、弥が上にも豪快な様相を現す。
 左手崖上に野仏が彫られてあった。夕日観音だ。案内書によれば、夕陽を受け神秘的な輝きを放つらしい。
 夕日観音は岩石が剥き出た春日山の中腹に彫られ、辺の荒々しい空気に守られて立っているような印象を憶えた。
 白茶けた土混じりの岩石が顔を出し、所々緑葉が覗く。岩石の割目に根を張った樹木が立ち上がる。一段高くなった岩頂に、一際大きな岩石が据えられ、観音像がレリーフ状に彫られてあった。それは能登川対岸にあるため近付くことは出来ない。
 見方によれば殺伐とした空間には違いない、けれどもそんな過酷な環境の中でこそ生き残って来た、と哀れを誘う辺の空気だ。
 
 暫くして、滝坂の道から眼と鼻の先、円みを帯びた巨石に彫られた朝日観音が見えた。中央には弥勒菩薩像、左右には地蔵菩薩像が彫られてあった。鎌倉時代中期文永二年(一二六五)と銘が刻まれていると云う。前後するが夕日観音についても、弥勒信仰が盛んであった鎌倉時代の作、と云われる。
 苔生した巨石には雑草が茂り、緑に包まれていた。岩頂には灌木が岩の割目に根を食い込ませて岩を掴み、立ち上がっていた。
 夕日観音は夕陽を受け輝くが、朝日観音は東に向き朝陽を浴び輝きを放つことにより、その名があると云う。間近に見えるため弥勒菩薩像、脇侍の地蔵菩薩像の流れるような線刻ラインが年代を感じさせない。ただ線刻ラインが風雨に晒されたためか、処により掠れて岩石に溶け込み永い歳月を経て来ていることが解る。
 能登川対岸から横に永く樹幹が横たわり、滝坂の道にまで被さっていた。その高さはかがんで潜る程ではない。横たわった樹幹の上側には蔦が絡まっているためか、萌黄色に若やいだ葉を付け、一筋若葉のラインを引いていた。
 注意深く観察すると、若葉は蔦ではなく横倒しになった倒木自らの葉群のラインである事が解った。樹幹にはそこから伸びる枝は見当たらない。ただ樹幹が僅かに弧を描き永く伸びているだけだ。
 若葉は樹幹から出た蔦のように細い枝に着いていた。樹幹の幹周りは中程度で巨木ではない。それだけに 能登川対岸から伸びた幹は相当永く感じられる。倒木を潜り振り返った。垂直線と水平線で構成されたエレメントに、重力に反した倒木が重なり緊張感ある空間を造りだしていた。
 道は杉の巨樹が各角に立ち上がっている広々とした三ツ辻に出た。左方へは深い山道に分け入って行く。地元のハイカーらしい中年の男が、六角形の屋根が差し掛けられた、右手の休憩所で上着を脱ぎタオルで汗を拭っていた。
 「柳生の里へは・・・・」
 「左の方を上がって・・・・自動車路にでるから・・・・。右へは地獄谷の方にいくん違うやろか、其方にはわしは行ったことがあらへんから・・・・」
 男は言葉少なに語った。汗を拭いさり男は左の深い山道に踏み込んで行った。男は毎日のように春日山原生林のこのルートを我が庭の如く歩き回っているように見えた。
 
 真直に進んで行った。道は自動車路に出た。けれども自動車は殆ど通っていない。前方に女三人連れがゆっくりと歩いていた。三人連れを追い抜いた時、
 「どこまで行くんですか」
 リーダーらしき眼鏡を掛け、登山帽を眼深に被った女が云った。
 「柳生の里までですが、随分掛かりますか」
 「私達も柳生の里までですが、人によって歩く速さが違うから・・・・」
 「・・・・・」
 三人連れをぐんぐん追い抜いて行った。途々広々とした茶畑があった。茶畑は弧を描いて刈り込まれ、輝きを放って左方の斜面に向かって上って行く。斜面の中腹に野仏らしい石仏が見えた。道からはかなり上り距離がある。
 野仏がある一角には陽光が差し淡い輝きを反射していた。左手には微かに民家の瓦屋根が覗き穏やかな眺めだ。茶畑が途切れた頂には、樹々の梢が取り巻いていた。
 暫く乾いた林の中を歩いて行った。眼下の狭い谷間に集落の甍の波が輝き、下方の道路にすり鉢状に収斂していた。
 とば口の左方、民家の庭先で数人の職人が、石垣に腰を下ろし茶を飲んでいた。職人の間を奥さんが茶を注いで回っていた。庭先へは道から分岐した平らな敷地内通路を通って行ける。 私は通路を庭先の方へ歩いて行った。素朴な感じな奥さんが此方に顔を向けた。
 「ここは何と云う部落ですか。円成寺はどう行ったらいいですか」
 「忍辱山(にんにくせん)ですよ。今、通って来た道に戻り、細い道に入れば、その下が円成寺ですよ」
 奥さんは笑顔を浮かべ私の後ろを指さした。
 「そんな道はなかったけど・・・・」
 確かに途中には分岐した道はなかったように思う。職人も近付いて来、
 「そんな事はありません・・・・」
 奥さんは其方に私を連れて行こうとした。
 私は甍の波を縫って円成寺に行き、途々、忍辱山集落のスケッチをしたかった。
 「此方からはいけませんか」
 陽光を浴び鈍色に輝きを放った甍の波を指差し云った。
 「其方からもいけますが此方の方が近いですよ。其方からだと、公民館の処を曲がっていけばいいですよ」
 物好きな人だ。といったような顔付きをし、奥さんは笑顔でそう云った。
 忍辱山集落は谷間に出来た部落で、狭い地域に帯状に甍を連ねている。集落の外縁を取りまく道を下りた。部落の中心部に入る角からスケッチを始めた。
 谷間の集落だけに家並の軸線が多様だ。メインの軸線がなく、家並は敷地の関係から色々な方向に向いている。そのため整然とした家並には見られない流動的空間が現れている。集落の背には若葉を付けた樹々が立ち上がる。肩を寄せ合いひっそりと生活している印象を憶えた。 直にバス道路に出た。左方に折れ二三分で、円成寺の境内らしきこんもりとした林が道路の向こうに見えた。円成寺は柳生街道随一の名刹と資料には記されていた。巨樹に囲まれた空間で、幽暗な佇の境内を想像していた。
 バス道路から分岐しこんもりとした林を抜けると、庭園の水辺に陽光を受けきらきらと輝いていた。まだ円成寺の境内とは気付かなかった。俗界にある普通の庭園と思っていた。
 右手、樹々の梢に寺院の伽藍が見え隠れし、左方の庭園は浄土式庭園であることが解った。庭園先方に茶店が若葉の葉擦れに覗いていた。
 七八段の幅の狭い石段の頂に小さな山門がひっそりと佇んでいた。石段の手前には樹幹が白っぽい巨樹が二本、ゲートのように立ち上がっていた。当然そこが円成寺山門と思った。
 石段に足を踏み入れ頂に立った。山門脇の受付の小さなガラス窓の奥で初老の女が此方を見、笑顔を浮かべていた。私はガラス窓を横に引いた。
 「ここが楼門ですか。風情がありますね」
 「楼門は向こうで・・・・ここは普段使っている門です。お一人ですか」
 「ええ・・・」
 ポケットから小さな小銭入れの財布を取り出し、百円玉を二個掴み受付の女に差し出した。 「楼門は今、修理中ですのでシートが掛けられ、よく見えないと思います」
 受付の女とは云え、穏やかで上品な印象だ。多分、住職さんの奥さんに違いない。有名な寺院でも結構、家族ぐるみで寺の運営に携わっている例が、以前にも幾つかあった。
 
 京都北方鷹峯、日蓮宗寺院常照寺では、受付の女に日蓮宗の教義について疑問点について色々と訊いた。
 「日蓮宗では偶像崇拝を禁じている筈だが、以前岩倉の妙満寺を訪れた際、本堂内陣に日蓮上人の木像が安置されていた。何故木像を安置することが許されるのでしょうか」
 受付の女は受付奥から書物、写真集を引っ張り出して来、
 「曼陀羅には・・・・南無妙法蓮華経と掌を合わせ曼陀羅に対すれば、曼陀羅は自らの鏡となり、曼陀羅の中に入って・・・・」
 充分に理解は出来なかったが、そんな意味のことを女は云った。
 常照寺裏手の庭を観賞し終わって、山門に向かい寺を後にした。山門を潜った処で住職さんが植木の手入れに精を出していた。私は立ち止まり住職さんと二言三言、言葉を交わしていると、本堂の方から大きな声が聞こえた。
 「上人さーん・・・・」
 そのうち女が受付の方から小走りに走ってきた。
 「上人さん、お書きになった信行読本はまだありますか」
 「棚の奥にある筈だが・・・・わしが見てこよう」
 と云って住職さんは本堂に戻り、日蓮宗信行読本を一冊持ってきた。それから山門脇に佇み、三人で暫く立話していた。受付の女は住職さんの若奥さんだったのである。
 この件についてはー京・光と影ー鷹峯・光悦寺から常照寺へーの部で詳しく述べたい。
 
 
忍辱山部落 円成寺の社
 
 受付の山門を潜り円成寺境内に足を踏み入れた。谷間の寺のためか、立派な浄土式庭園を持つ割に、小ぢんまりとした寺だ。境内中央辺に本堂阿弥陀堂の屋根が末広がりに軒先を伸ばしていた。
 本堂正面向拝(こうはい)部の左右に板張りの舞台が設けらた寝殿造風の堂である。舞台が設けらている分、向拝が幅広くなり屋根が広く張り出すことになる。本堂に上るには、左右に分けられた舞台の間に付けられた緩い階段を上る。
 本堂内陣の柱には極彩色に絵が施されていた。聖衆来迎二(しょうじゅうらいごう)十五菩薩像だ。平等院鳳凰堂内陣の柱壁にも極彩色に絵が施されていた。平等院の絵は確か宝相華(ほうそうげ)だったと思う。
 天井を見上げれば、折上格天井が(おりあげごうてんじょう)堂の規模に対し不釣合な位、立派な相で(すがた)あった。私の知る限り円成寺本堂は特異な造の堂だ。
 円成寺について、寺の栞には次のように記されてあった
 「円成寺は天平勝宝八年(七五六)、聖武・孝謙両天皇の勅願により、唐僧虚瀧(こうろう)和尚の開創と伝えられているが、史実的には万寿三年(一〇二六)命禅上(みょうぜん)人が十一面観音を祀られたのが始まりである。仁和寺の寛遍(かんべん)僧正が東密忍辱山流を創り寺門が栄えた。応仁の兵火で主要伽藍を焼かれたが、栄光阿闍梨(えいこうあじゃり)が再興し、江戸時代には寺中二十三寺、寺領二百三十五石を有する寺院であった」
 本堂横の奥に春日堂・白山堂が並ぶ。鎌倉時代の作と云われる小さな春日造社殿である。それは円成寺境内の通路から数十センチ上がった狭い高処(たかみ)に立つ。背は萌黄色(もえぎいろ)に若やいだ若葉に包まれていた。
 通路を挟んで反対側には、本殿の拝殿があった。小さいながら本殿と拝殿が分離され、一見幼児のままごと遊びのように、見えなくもない。石段を上がり春日堂に近付いて行った。数百年経っているためか、手で触れれば崩れ落ちそうな位旧い。春日堂・白山堂は現在、国宝に指定されている。
 受付の女が云ったように、楼門は修理中でシートが掛かっていた。シートの隙間から僅かに斗拱木組が見える。木組の色合は古色豊かだ。斗拱(ときょう)は三手先出組だったように思う。
 受付の山門で、女に柳生の里について訊いた。
 「柳生の里へは歩いてどの位掛かりますか。バス便は・・・・」
 女は机の右隅にある書類の束からA四版位の時刻表を取り出し、
 「二時間ぐらい掛かるでしょうか。道は石畳ではなく閑静な山道です。次の柳生行バスは、十五分後十一時七分があります」
 「解りました。それではバスの方がよさそうですね」
 女は笑顔を浮かべ、
 「・・・・・」
 頷いた。
 空模様が怪しい。雨が落ちてくる前に、柳生の里を探索しておきたかった。時間に余裕が出来れば、帰りに山道のコースで忍辱山に戻って来ることにし、バス停に急いだ。
一時間ぐらいバスに揺られ、車窓の風景を愉しみたかったが、柳生の里まで十分で着くそうだ。けれども車中、疲れのためかバスの心地よい揺れに微睡んでしまい、運転手の、
 「柳生です」
 の声に眼を覚まし急いで降りた。
 「帰りの時刻をよく調べておいて下さい」
 バスの便数が少ないため、運転手はそう云った。
 眺め渡したところ、バス停周辺は惚れ込むような街並ではない。ありふれた地方都市の雑然とした空気が漂っていた。
 今川沿いを陣屋跡、芳徳寺方面に向かった。川の左手は山の斜面で樹々に包まれ、右方には 柳生の平地が広がっていた。処々陣屋跡と云った観光標識が、掲げられ柳生の里が観光地であることが解る。
 紅葉橋を渡り対岸に造られた、ごつごつした石段を上った。先方に見える今川に掛かる橋に、団体客だろうか大勢の人が、橋を渡り対岸へ行くのが見えた。
 私が歩いている石段とその道が、何処かで合流するのだろうか。そんなことを思いながら石段を上って行った。
 思ったとおり道は芳徳寺前の広場で合流した。広場に面した石段を上がると、芳徳寺の小さな門が口を開けていた。柳生に対し持っていたイメージにはほど遠く、殺風景な印象を受けた。芳徳寺本堂脇のホールには、宗厳、宗矩を初めとした柳生一族に関する資料が展示されている。
 江戸時代、将軍家指南役として名声を恣にした柳生一族の菩提寺、というより柳生家そのものである芳徳寺としては、思い描いていた印象が大きく違っていた。
 芳徳寺本堂を見上げ、斗拱のデテールに柳生宗矩の顔がだぶった。柳生宗矩は徳川家康の側近として、剣の指南役として許りでなく政治行政の相談役として権力の中枢にいた。
 柳生宗矩に対する私のイメージには、柳生新陰流を極め、文武両道に長けた人物が、権力の権化と云われた徳川家康に平伏する姿があった。武道を極め何故、時の権力者に平伏し次から次へと大名を取り潰しに掛かったのか。
 権力者に平伏した結晶が芳徳寺の斗拱のデテールに投影されているのでは、と思っていた。しかしそこには権力者に平伏し、魂を抜かれた残骸が覗いていた。
 本堂から殺風景な広場に戻った。小丘の頂のため柳生の里の静かな佇が一望の下(もと)だ。山裾の直下には今川が流れ、ゆったりと色取どりに変化した若葉が眼下一面に広がり、ぽつんぽつんと甍の波が彼方此方に浮かんでいた。
 左方の小丘には陣屋跡の石段が見えた。そこから少し離れ八坂神社、鎮守の森が春風に大きく揺れていた。樹々の騒(ざわ)めきが風にのって聴こえてきそうだ。
 此処で昼食のおにぎりを片手に、スケッチに色付けをした。下から続々と探索者が上がって来た。日帰りのバスツアーらしい。漏れ聴こえて来る話声から、名古屋方面の団体のようだ。
 団体客は私の周りにも押し寄せて来、彼方此方で弁当を拡げ始めた。一人静かに柳生の里の穏やかな風景に埋没していたかった。団体と入れ替わりに山を下りた。
 途中、一刀石の矢印が左方の林に向いていた。左に折れて行った。山道は小暗い山中にくねくねしながら溶け込んで行き、巨石が林立する異様な空間に出た。
 其処は昼なお暗く、鬱蒼とした巨樹が立ち上がり、妖気漂う身が引き締まる空間だ。四つの巨石が大地に突き刺さり、今にも切先が此方に飛んできそうだ。巨石には注連縄(しめなわ)が廻され神社のご神体らしい。巨石の背に天乃石立(あまのいわだて)神社の小さな祠があった。
 更に先に、円みを帯びた巨石が真っ二つに割れてあった。柳生石州斎宗厳が天狗と思い一刀のもとに切り捨て、翌朝気がついて見れば巨石であった。と云われている。
 天乃石立神社一帯は柳生家の武芸の修練場だった。その昔、このように妖気漂う空間で、柳生十兵衛三厳を初めとした剣豪が、真剣を手に修行していた、そう思うと何処からともなく、 「ヤッ・・・・」
 空(くう)を切る剣、凄(すさ)まじい気迫が巨樹の梢から響き渡っていた。
 一人二人と探索者が一刀石を眼指して上って来る。
 
 山を下り今川に掛かる白梅橋を渡って陣屋跡への石段に立った。石段は土間コンクリート下地に、ざらざらしたモルタルで仕上げてあった。取り付きから一直線に真直、上方に伸び、安普請な公園へのアプローチのようだ。
 趣きが感じられず一度は通り過ぎて行った。石段を上り考えた。柳生十兵衛の時代も斯様な無味乾燥な直線的なアプローチだったのだろうか。地形なりに石段は折れ曲がって小丘の頂に至ったに違いない。一直線の導入路では敵からの防御に適さない。
 頂には陣屋を偲ぶ施設は遺っていない。平らに整地され、往時、色々な施設が所狭しと立ち並んでいた様子が窺える。柳生宗矩が築いた柳生陣屋は延享四年(一七四七)全焼した。その後仮建築で藩政に当たったが、明治時代、廃藩置県で仮建築も無くなった。
 陣屋跡へは石段の取り付きからは、かなりの高さだった。ところが背後では、陣屋跡を取り巻いている道路とレベル的に近付き、高処に立つ陣屋の印象はない。
 落差の少ない土手を駆け下り、八坂神社との間の道に出た。いとも簡単に下りられた。これでは敵襲からの防備には不十分だったであろう。徳川政権も安定期に向かっていた時代の陣屋あるいは城だった証だ。
 陣屋跡の際に木立に包まれ小さな神社、八坂神社が立つ。神社境内の傍らに家老屋敷への矢印が左方に向いていた。矢印に従い進んだが、新しく出来た柳生の里花菖蒲園に突き当たってしまった。
 家老屋敷は陣屋跡より北側と思っていた。でも標識が花菖蒲園の方向を差していたため、それを信じて来た。来た道に引き返し神社境内への塀際、細い道を進んだ。今度は、反対側に家老屋敷への矢印が向いていた。此方が正しいと思われる。
 細い道角を二三箇所折れ前方が明るく開けた。左方に樹々が立ち上がった小さな角を曲がった。其処で茫然とし息を呑んだ。左方、斜面に華麗な石垣を組み、石垣の頂に長屋門が伸びていた。一瞬家老屋敷だ、と思った。けれども道行く探索者は其処を通り過ぎて行く。
 これ程の空間、何故立ち止まって見ようとしないのだろうか。念のため石垣への取り付け斜路まで行ってみた。白く塗られた十センチ角位の標識が手前の畑、若葉から覗いていた。
 「小山田家分家 家老屋敷はこの先です」
 さりげなくその様に記されていた。家老屋敷より此方の小山田家分家の方が風格があるに違いない。家老屋敷がこれ以上の空間であるとは考えられない。角に戻り、デイバッグからラフコットン紙を引っ張り出し、スケッチを始めた。
 小山田家分家は集落の外縁に立つ。其処は、今川沿いの平坦部が山の斜面に差し掛かる付根になる。石垣が放物線を描き、高さは付根から家の二層分はあろうか。
 荒石積の石垣ではなく、石垣の表面は切石らしくつるつるしたテクスチャーだ。石垣の目地は几帳面に合わさり清楚で華麗な印象だ。家の手前は菜園だろうか、蔦を絡ませるため細い棒が立てられ、横棒が掛け渡してある。
 菜園前に道が通るため家全体がよく見渡せる。道から斜路のように緩い傾斜の石段が伸び、中間で右方に折れ石段頂部に至る。緩い石段が石垣の圧迫感を和らげ、単調さを崩し外部空間に流動性を創りだしている。背には樹々が立ち上がり、梢の葉擦れから淡い空が覗いていた。
 石段は敷地の中央部に至り、其処に木製で茶色に磨き込まれた木戸が口を開けている。道に平行になった長屋門が、屋根の平側を永く伸ばし、端部で切妻屋根を現す。
 家のスカイラインは、萌黄色の若葉の葉擦れに覗く淡い空を切り取っている。奥方では石垣の端部に家の壁がのり、角で折れ曲がっている。静かな佇の中で、緊張感ある空間だ。
 描いている間にも数人の探索者が通り過ぎて行った。
 描き上げ小山田家分家を後にし、先に進んだ。数十メートルで、先方に広々とした空間が広がっていた。反対側から三々五々、観光客が歩いて来る。左方、木立の隙間から立派な石垣が見えた。
 
 家老屋敷の石垣は、小山田家分家のそれに比べ数段豪華で立派だ。家老屋敷の敷地のスケールは小山田家分家の二周りはあろう、と思われる。石垣の高さは家の四層分程あろうか。
 家老屋敷の敷地へは、道から平行な緩い傾斜の石段で一気に頂部に至る。一瞬本家と分家の財力の違いを思った。同時に本家に対し一歩退いた、分家の謙虚な姿、大きなことよりも、如何に自らの思考をその空間に表現するかが、テーマなのではと思った。
 石垣の頂部に沿い、頂に瓦をのせた塀が巡っている。それは重厚な石垣に比べ軽く、木の葉のように頼りない形に見えた。
 家老屋敷周辺には生活の匂いが無いためか、観光地の商業主義的雰囲気を感じた。主が去った蛻の殻(もぬけのから)の空間には、観る者を惹き付けるエッセンスがない。
 ゆっくりと石段を上って行った。石段を上がった処は小公園風の広場になり、左手にはベンチが置かれてあって整備が行き届いていた。
 家老屋敷は柳生藩家老、小山田主鈴(おやまだしゅれい)の屋敷だった。主鈴は藩侯柳生但馬守俊章に国家老として抜擢された。米相場で当て、藩財政を立て直した云われる。屋敷は明治時代、在の資産家の手に一時渡った。
 その後、小説家山岡荘八の居宅となり、家老屋敷においてー春の坂道ーを初めとし数々の作品を執筆した。前庭に面し長屋門が伸び、左方に門が口を開く。門を潜ると平家の母屋が庭に面し立つ。母屋は山岡荘八の記念館になり、荘八の数々の遺品が展示されていた。
 風通しの良さそうな座敷を眺め、春先の心地よい季節はまだしも、厳冬期には相当な寒さであったであろう、と机に向かって執筆する山岡荘八の背姿を思った。
 主屋を取り囲む庭の周囲には米倉等の建物が幾つか立ち並んでいたが、現在、それらは取り壊されその礎石が残るのみだ。
 主屋の座敷に主鈴の木像が置かれてあった。柳生藩の武士のイメージとはほど遠く、商才に長けた商人の顔貌だ。
 家老屋敷には小山田家分家の静寂さは無く、入れ替わり来館者が訪れていた。陽が傾きかけて来た。家老屋敷の石段を下った。屋敷前に広がる畑の畦道に下りた。民家の並びの小さな溜池の堤に足を踏み入れ、家老屋敷の石垣を振り返った。石垣が覆い被さるように迫り、描くには近すぎる。
 堤の土手を駆け下り、畑の中央から再び石垣を振り返った。近くから見る石垣は豪快だが、此処からは慎ましい石垣の相だ(すがた)。これならスケッチブックの画面にいい具合に入る。スケッチブックを手にかざし、描こうとする対象物と重ね合わせ、スケッチブックに対象物が隠れる位の位置が、自然に見え描き易い。
 重厚な石垣も広い自然の中では、小さな構築物に過ぎない。石垣の隅角部は放物線を描き、小山田家分家のそれと同じ切石が輝きを放っていた。ただ家老屋敷の石垣はスケールが大きい。
 石垣の頂部に立ち並んだ甍の波は、春の嵐で飛んで行きそうな位、軽やかな相に見えた。背には木立が織りなす若葉が、程良い高さで連なっている。
 描く間に、畦道を親子連れが家老屋敷の方から下りてきた。畦道を通れば道路まで最短距離で行ける。道路には乗用車が数台停まっていた。広い畑の中、落ち着かなかったが、素速く描き上げ畦道をバス道路に足を進めた。
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