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13 信貴山朝護孫子寺 おすすめサイト
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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
信貴山地蔵群 信貴山赤門
成福寺多宝塔 信貴山 毘沙門天立像
大和路インデックス  
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一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
13 信貴山朝護孫子寺
 
 吹田豊津から大和路へのルートはお決まりのコース。阪急線豊津駅を早朝発ち、地下鉄堺筋線乗り入れ、天下茶屋行、日本橋で近鉄線奈良行に乗り換える。
 車内には出勤途中のサラリーマン、OLの群れが忙しそうに無言でコートの襟を立てていた。デイバッグを背負った気楽な格好に無表情な視線を投げ掛けていた。日本橋に近づくにつれ込み合っていた車内には空席が目立つようになった。
 生駒駅で王寺行ローカル線に乗り換えた。各駅停車でノンビリと進んだいった。車窓には甍の波が現れてはユックリと流れ去り、時がたつのも忘れる。
 東山駅を出、右方に旧い集落が現れた。葛城山系から連なるなだらかな斜面が平らになる辺りに発展した部落だ。
 車窓からかなり離れていたため、数秒間それは見えた。ユックリ進んでいるとはいえ、電車だ速い。徐々に集落は流れ去っていった。
 甍の波は銀鼠色をし複雑に絡み合い、重そうにベージュ色をした土壁に乗っていた。家の外縁には頂に瓦を持った土塀が歴史を感じさせる佇で取り囲んでいた。土塀の周囲は田園風景で、いくらか黄緑がかった草に包まれていた。
 集落の一方の縁らしく、そこから先には寄りそうように甍が折り重なり、密度の濃い空間を見せていた。斯様な旧家で生活するのはどんな人か、と脳裏の片隅を過ぎった。
 イメージとしては、目鼻立ちがととのった奥床しく上品な女性を想像する。ところが、壺阪寺への旧道でも経験したが、ごく普通のモンペ姿の小母さんであることが殆どだ。
 ビートタケシやマッチャン、タケチャンなどのTVタレントが夕食の団欒で、笑いを誘っているのだろうか。そんなことをボンヤリと思って車窓を流れ去る風景に眼をやった。信貴山探索の帰り、時間が許せば途中下車する積もりだ。
 
 車窓を流れる景色を愉しんでいるうちに信貴山下駅に着いた。駅前は最近、開発されたらしく徒広く(だだっぴろ)殺風景だ。
 左方にバス停のあるロータリーの中央から真直にアスファルト道路が、信貴山に向かってのびる。信貴山は標高四三七メートル、歩いて一時間ほど、バスならば十分足らずで着いてしまう。途々風情がありそうな街並であれば、ユックリ歩いて頂を目指すことを考えていた。
 無味乾燥なアスファルト道路を眼にし、出鼻を挫かれた。空には厚い雲が立ちこめ、今にも大粒の雨が落ちてきそうだ。
 バス停のベンチには中年の男二人がボンヤリとして座っていた。信貴山行は十五分待、一本道のアスファルト道路の方に歩いていった。まだ歩いていく気持が僅かにあった。ビルに挟まれ真直に伸びた道路の角に立った。
 坂道を二十歩ほど進んだ。かなり傾斜のきつい一本道だ。再びバス停に戻った。そのうちに中年女性の六人連れがワイワイ騒ぎながら、バス停に近づいてきた。
 バスは急傾斜な道路を進み、車窓風景を愉しむ暇もなく、信貴山入口に停まった。
 
 先発の女性グループは待合所と公衆便所に挟まれた狭い通路を、ワイワイ騒ぎ抜けていった。私は便所に寄り、少し遅れてその後を追った。両脇に住宅が立ち並んだ細い上り坂のアスファルト道が、真直に伸びる。
 女性グループを追い越し暫くして、右手に旧そうなガッチリとした家が眼に入った。道の右手は一見平らに見えるが、深く切れ込み谷になっていた。切れ込んだ分は一階分だ。道沿いは二階建のため、奥の方では木造三階建になる。
 都会の木造三階建はチマチマしサイデイングなる建築材料を厚化粧よろしく張り付けてある。眼前の三階建は、真壁造で柱、梁が市松模様に薄茶色に現れ、間の壁の漆喰の白とのコントラストが現代的感覚を思わせる。スケッチしようとしたが先に進むことにした。
 右方に僅かに道がカーブし、正面に風雪に晒され黒済んだ仁王門が姿を現した。どんよりとした鉛色の空に溶け込み、それは自然な表情だ。
 観光には季節はずれのためか、左手土産物店は閑散とし人気はなかった。反対側は登り斜面で、幾層にもわたり小さなお地蔵さんが並ぶ。千体地蔵だ。 お地蔵さんに掛けられた朱色の涎掛けが、幽暗な空間の中に彩を添えていた。朱色に混じり所々青色の筋を描き、流動的空間だ。
 お地蔵さんは規則正しく横一列に並び、雛壇状に上方に伸びる。頂に近づくに連れ自然の地形に溶け込み、幽暗な林に吸い込まれていった。
 道沿いにはお詣りのため、小さな上屋が差し渡され、空間を切り取って数本、樹木が立ち上がり、景観に遠近感を演出している。探索者の眼に止まることもなく、千体地蔵はごく日常的光景としてあった。女性グループはその存在すらも気付かず千体地蔵の前を通り過ぎて行った。 千体地蔵を描き終え仁王門に進んだ。再び描こうと考えた。けれども気楽に描いているようで、結構集中して対象物に対峙しているのか、連続で対象物に向かうとなると、やはり疲れる。信貴山朝護孫子寺探索の帰りにスケッチをすることにした。
 仁王門を潜ると山内は一段と深い林に包まれる。直に石柱門が現れた。二本の石柱間にタイバーとしてステンレスパイプが掛け渡され、間をあけ注連縄(しめなわ)が渡されている。石柱両脇には石造献燈楼が立ち並び、山内に吸い込まれそうな錯覚を憶えた。
 描いている際には気付かなかったが、一方の側のそれは小さな石碑の連続で、一本一本の石碑には寄進者名、寄進額が彫り込まれてあった。石碑を連続して立て、外部との結界を築いている。
 
 林立する樹々の梢を渡り、祈祷の掛け声が流れてきた。
 「エイヤッー・・・・・・・・エイヤッ・・・・・・」
 なにやら胡散臭くインチキ宗教の臭いを感じた。私は祈祷の掛け声を、身近に接していなかったためかも知れない。途々、間をおきーエイヤッ・・・・・ー祈祷の掛け声が信貴山の山内に木霊していた。 祈祷の掛け声を耳にするうちに視界が開けてきた。献燈楼の連なりは本格的な様相を現してきた。この献燈楼の連なりは信貴山参道において重要な空間のエレメントの一つだ。手前に納経所がある石鳥居に至るに及び、献燈楼の連なりはクライマックスになった。
 献燈楼は一段と立派で、鈍色に光を放っていた。鳥居を潜った先方にまでそれは連なり黄色の寅の像に溶け込んで行った。上方にはまだ頼りない若葉の海に豪快な堂が浮かんでいた。
 それは遙か彼方の高所に立つため豆粒のようにしか見えない。けれども空間の距離を離れ圧倒的迫力で迫ってきた。信貴山朝護孫子寺本堂毘沙門堂に違いない。歩く目標を若葉の海に浮かぶ堂に定めた。
 石鳥居の手前で描いていたが、強烈な遠近感で信貴山毘沙門堂に吸い込まれそうな錯覚を憶えた。信貴山参道のあちこちに寅の像が置かれてあった。聖徳太子が河内国の物部守屋を追討した折、信貴山で戦勝祈願し目的を果たした伝説、それは寅の年、寅の月、寅の日だったと伝えられている。その縁起のよい御利益にあやかろうと寅の像が数多く点在する。
 石鳥居を潜り右方へ下がる朱色の小鳥居の連続した、細い参道を降りて行った。伏見稲荷の鳥居の連続に似た手法だ。ただ信貴山のそれは朱色が色褪せ、鳥居根元が朽ち果てたものが多く、社会の波に取り残されている印象を憶えた。
 メインの尾根から外れたサブの尾根に付けられた石段の参道、突き当たりに小さな剣鎧護法(けんがいごほう)堂がひっそりと佇んでいた。訪れてくる探索者は誰もいない。
 拝殿と本殿二つの小さな堂に分かれ、周囲には朱色に染められた幡が立ち並び、人気のない冷たい空間に彩を添えていた。春の足音か、強い風が護法堂を通り抜け寒々とし、時折ーエイヤッ・・・・・ー祈祷の掛け声が風に流れてきた。
 千百年前醍醐天皇が重い病に罹った際、命蓮上人の祈願により、宝輪を足で回し剣鎧護法童子が天皇の枕頭に現れ、病は全快したと云う。以来無病息災、病気全快の神として庶民に信仰されている。国宝信貴山縁起絵巻に描かれた物語だ。
 小さな尾根筋、自然の地形を上手に計画した、野趣溢れた心憎い許りの宗教空間だ。初めてこの地に堂を計画した設計者の類い希な才能を思った。
 スケッチを描いている間、若者が一人来、
 「・・・・・・・・・・」
 本殿に向かい熱心に声明を唱える。一心不乱に護法堂に向かっている姿を眼前にし、物見遊山の自らの体験空間とは異なる、実像の宗教空間を垣間見た。
 石鳥居に戻り開山堂への石段に足を踏み入れた。かなり続いた石段の頂に小堂が立つ。堂右の受付前を通りかかった。
 「よう おまいりやす」
 受付の中から声がした。
 受付に眼をやった。電話中の男が受話器を握り締めてこっちを見、軽く頭を下げた。つられて私も会釈し靴を脱ぎ、開山堂に入った。
 堂内には泥を塗り固めて作成したのか、天井に届くほどの高さまで彩豊かな物体が立ち上がっていた。要所要所のポイントには阿弥陀仏の小仏が金色に輝きを放っていた。
 何故に斯様な物体でなければならないのか。眼前にある手法には当然名称がある筈だ。私の拙い知識では物体、と表現するしかない。法隆寺五重塔第一層目に、同じような手法で出来た塑造製の像があった。
 ただ信貴山のそれは金色、紺色、朱色に厚化粧されていた。堂内周壁には四国八十八ケ寺の写真が掛けられ、物体の周りの通路の床には八十八ケ寺の名が彫り込まれてある。
 八十八ケ寺の名を一つ一つ踏んで歩けば、居ながらにして四国八十八ケ寺をお詣りしたことになると云う。
 物体に眼をやっていると堂守が入って来、物体の周りに巡らされた朱色に染められた欄干を乾拭きの雑巾で拭き始めた。
「大変ですね・・・・」
 堂守の男の背に声を掛けた。何故そんな話になったのかは忘れたが、
 「私は、七年前までカーテンウオール取付の仕事をしてました。不景気で仕事になりまへんよって、収入は少ないがこないことしてます」
 「カーテンウオールの仕事ですか、高橋カーテンウオール工業を知っていますか。私の友人の会社です」
 「新日軽の仕事が多く、アルミカーテンウオールでした。コンクリートカーテンウオールではなかった。最盛期には十二人従業員がいました。仕事の受注額が安く、なんぼ仕事しても赤字になってしまう。今の方がよほど気が楽ですわ、ええ今五十五歳です」
 「私は五十八歳、殆どいっしょですね」
 物体を指差し、
 「これは泥で造ってあるんですか」
 「木ではないやろか、ほら叩くと木の感じですよ。継目もあるよって・・・・」
 「ああ・・・・そうですか、泥のようでも・・・・」
 私の見るところでは、物体の芯は木で造り泥で形をつくっているように思える。そのことに関し、堂守の男は詳しそうではなかった。賽銭箱を拭く男に向かって、
 「お賽銭は結構貯まりますか」
 「最近は、一円が多く、よくても五円、十円、百円は時々あります。千円などは滅多にありません。八十八ケ寺よって、ぎょうさんありますからな」
 そのうちに二人連の参拝客が賽銭箱の前に立った。
 「よう おまいりやす」
 堂守は顔をそっちに向けた。頃合いを見計らい、開山堂を後にした。
 
 開山堂への石段を下り、左方に折れた。正面に赤門が結界を築いていた。左手は樹木が繁った斜面が上り、右手は深く谷が切れ込み鬱蒼と木が繁っていた。赤門を閉ざせば俗界とは無縁の禁欲的空間が支配する。
 谷の彼方に毘沙門堂が堂々とした姿で緑海に浮かび、今にも鈍色をした空に飛翔しそうなほど、流動感のある形だ。石鳥居から望んだ毘沙門堂は豆粒のようだったが、此処からは空間を構成する各エレメントがそれと認識できる近さだ。
 毘沙門堂は鉄筋コンクリートでできた基壇上に昔ながらの木構造で造られている。草葺き屋根は入母屋風で正面には柔らかな曲線を描いた唐破風を付けている。建設当初には、鉄筋コンクリート工法はなかった筈だ。昔は清水寺の如く重厚な木組で舞台を築いていたに違いない。それでも眼前の毘沙門堂には違和感を憶えない。
 この手の構築物には時代錯誤を感じ、薄っぺらな住職の顔が垣間見える場合が多い。毘沙門堂の基壇は決して惚れ惚れするようなデイテールで構成されている訳ではない。信貴山の破れかぶれで破天荒な歴史が、空間あるいは空間を取り巻く要素にストレートに表現されているため、そんな印象を憶えるのかも知れない。似た印象は、吉野金峯山寺蔵王堂でも感じた。
 赤門を潜ると、アノニマスに幾つもの堂が立ち、滅茶苦茶で無計画に造られているように思える。ところが生駒宝山寺でも感じたように、小事に囚われず伸び伸びとした空気が山内に漂う。規則ずくめの生活に慣れた俗人にとり、自らの殻を撃ち破った自由な精神を、この信貴山の山内空間から感じ取っているのに違いない。
 
 山岳寺院には、法隆寺などの平地寺院では考えられない空間的制約がある。山門、本堂、方丈といった一本の軸線は山岳寺院では考えられない。規範からいやでも外れなければならない。空間が規範から外れたから精神が解き放たれたのか、解き放たれた精神の持主だから外れた空間規範を造ったのか・・・・。
 この空間構成は信貴山に城を築いた松永久秀の天衣無縫な性格に由来するのか・・・・。松永久秀は織田信長に反旗を翻し立ち向かった。松永久秀は勝因を度外視し信長に対抗した。久秀は信貴山城焼討に合い最後は名器ー蜘の茶釜ーを首に巻き付け、茶釜に押し込めた爆薬に火を放ち自爆したと云われる。
 大和路から東京に帰り、有料自習室早稲研で司法試験の勉強をしている三田氏と信貴山について話した。
 「信貴山の空間に触れていると、規範を外れた松永久秀に会っているような・・・・。久秀はー蜘の茶釜ー首に巻き付け・・・・」
 三田氏は眼鏡の奥に柔和な眼を浮かべ、
 「信長はあのー蜘の茶釜ーが欲しかったらしいですよ。それで松永久秀は茶釜と共に自爆したと・・・・。東大寺大仏殿を焼討ちしたのは彼で、今度は自分が焼かれたっていいますよ。松永久秀は城づくりの名人て云われてたらしいですよ」
 「ああ・・・それは確か多聞山城じゃないですか」
 資料によれば、多聞山城ではなく多聞城である。今でも奈良市街北方近く佐保川沿いの平城山丘陵にその城跡は残る。多聞城は名城と云われる。城の周囲に石垣を巡らせ、新しい戦の戦術、鉄砲に対処できる城郭だったらしい。
 松永久秀は戦国時代、下克上を絵で描いたような人物だった。主家にあたる三好三人衆、筒井順慶を次々に滅ぼし大和一国を支配した。歴史上の人物である故、呑気に講釈できるが、こんな人物が現代、身近にいれば顔を合わせるのも避けたくなる輩(やつ)に違いない。
 
信貴山本堂 信貴山開山堂
 
 
 正面に多宝塔のように宝輪が甍の頂から天空に伸びた、成福院本堂が淡い若葉に包まれていた。背にも更に頂へ上る信貴山の樹々、イエローオーカー混じりの芽吹きが霞んでいた。
 手前には、両側に献燈楼を従えた石造の太鼓橋が一直線に伸びる。太鼓橋の下は浄土ケ池だろうか。浄土ケ池だとすれば浄土ケ池を踏みつけて堂に至ることになる。これも規範から外れた自由な発想の帰結かも知れない。
 信貴山山内で軸線らしい軸線を見たのは、この太鼓橋と成福院本堂を結ぶ、穏やかで華麗な空間だけだった。滅茶苦茶なものを見慣れたためか、惚れ惚れするような構図だ。スケッチを描き始め、色付けの段になり、信貴山の従業員らしき中年の女が通り掛かった。
 「まあ・・・いい色づかいで・・・優しい色がでてるわ」
 「此処はいい構図ですね・・・・」
 「どこから きはったんですか」
 「東京から・・・ 娘が大阪にいるもので」
 女はそう云ってスケッチを覗き込み、
 「いいわあ・・・・ まあお邪魔しました」
 本当にいいと思っているような様子で云い、赤門の方に去って行った。
 成福院本堂内部には、橙色の灯りが点された吊燈籠が内陣を四角状に吊り下げられ、荘厳な様相を現していた。
 成福院から玉蔵院への道は、細く狭い石段だ。犇めいた石畳を進むと、右手上方に鉄筋コンクリート造らしき堂が聳え立つ姿が見えた。山内の参道は迷路のようでギリシャ・ラビリンスの都市に迷い込んだ錯覚を憶えた。
 高処高処へと足を踏み入れて行けば、頂にゼロに収斂した素晴らしい空間が姿を現すに違いない。そう思い鉄筋コンクリート造の方には行かず、右方の両脇に漆喰で塗り固められた土塀が連なる、更に細い石段へ折れた。
 石段に足を踏み入れたが、四方八方に道は分岐し、一体どっちに行ったらよいのか、一瞬眩暈を憶えた。
 滅茶苦茶な印象でアノニマスな空間構成だ。けれども計画性がないようで、山内には無秩序な計画性を感じる空気が漂い、作者の自由な息吹が流れている。
 
 天空が覗く玉蔵院融通堂境内に出た。やっとラビリンス都市の就縛か(しゅうばく)ら解き放たれた。でも玉蔵院も相当に滅茶苦茶な空間だ。本堂と軒を接するのではないかと思われる程、接近してー日本一大地蔵尊ーなる石像が立つ。それは石造かコンクリート造なのか判然としない。
 強風と地震が重なれば、木構造の融通堂は横力を受け三十センチほど動くだろう。すくなくとも、異種構造と建物とは一メートル位離したい。毘沙門堂のご祈祷にならい、「エイヤッー・・・・・・・・エイヤッ・・・・・・」と無理矢理造り上げたのだろう。
 信貴山では要所要所の堂に必ず堂守がいる。どの堂でも、
 「よう おまいり・・・」
 と一声掛けられる。声を掛けられれば空間の共同体験がなされ、信貴山が身近に感じられる。それは滅茶苦茶な空間配列とは対極をなす。人間性に溢れた人間の集団だ。
 ここら辺が、信貴山伽藍で最も高所か、谷側に眼を向けた。眼下に今、歩いてきた甍の波がばらばらな方向を向き、鈍色の光を放っていた。左方に眼やれば山内では一際大きな毘沙門堂が、頼りない若葉から突き出ていた。
 玉蔵院融通堂を後に、空鉢護法堂(くうはつごほうどう)へ山林内の参道に足を踏み入れた。直に空鉢護法堂に至るだろう、と小さな赤鳥居のトンネルを上って行った。赤鳥居は乾いた樹々を縫い、何処までも続く。一旦は引き返そうと思った。けれども赤鳥居の行き着く先に、幽暗な堂が待っているような気がした。
 上るに連れ樹々の梢の葉擦れに覗く天空が、少しずつ広くなり、護法堂はあと僅かと暗示する。先方に小堂の甍が寂しそうに風を受けていた。今日は信貴山には春一番のような強風が吹き荒れていた。受付のカウンターから落ちたスタンプ帖が、風に煽られヒラヒラ石段に舞っていた。
 それを手にしガラス戸を掌の甲で叩き受付のカウンターに載せた。テレビを見ながら弁当を食べていた堂守の女が、
 「ああ・・・ どうも・・・」
 慌ててこっちに眼を向け云った。
 空鉢護法堂は小堂ながら、拝殿と本殿は通路で分離されている。本殿には円い鏡が置かれ寺ではなく神社であることを思わせる。寺と神社の境界が曖昧だ。曖昧というより同種の信仰対象だったのだろう。明治時代、神仏分離令により強制的に別種の信仰対象とされた。
 小堂の周囲に立ち上げられた幟が風に煽られピューピュー呻声をあげる。通路を潜り拝殿の見晴台側に出た。生憎鉛色をした雲が空一面に立ち込め、見晴らしは望めない。拝殿は休憩所としても機能するのか、両側に木製のベンチが据え付けられていた。四人腰をおろせば一杯になってしまう狭いベンチだ。
 信貴山縁起絵巻飛倉の巻では、命蓮の(みょうれん)法力により空を飛ぶ鉢が長者の米倉を信貴山山上に運んだ。空になった米倉は再び長者の処に戻した。一連のストーリーが絵巻に描かれている。空鉢護法はその法力を授ける護法だ。
 
 下りは足を前に出すだけで進み楽だ。あっという間に登口に戻った。右方へは玉蔵院融通堂、左に折れれば虚空蔵堂への石段だ。朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)の甍の波を眼下にし、石段を下りていった。
 三間四方ほどの虚空蔵堂の前に立った。小堂の内陣手前、参拝者だろうか女が供物に手をやっていた。石畳に佇みそれを見ていた。女がこっちを向いた。
 「先程はお邪魔しました・・・・」
 女は微笑を浮かべ小堂の階段を下りてきた。私は誰だかよく解らなかった。人違いかと辺を見回した。
 「さっき 絵を見ていた・・・・」
 「ああ・・・・」
 私は軽く会釈した。女は虚空蔵堂の堂守だったのだ。
 「ちょっと ほかの絵も見せて下さい」
 「此処で働いているんですか。風が強くて大変ですね」
 小脇に抱えていたスケッチブックを女の前に差し出した。女はスケッチブックを売店の台に置き、一枚一枚捲り始めた。勤務時間中のためか、直にスケッチブックを閉じ、
 「見始めると時間が・・・・。私は絵を見るのが好きでよく展覧会にも行きます。京都へも六阿弥陀巡りに行きますよ」
 「六阿弥陀巡り・・・・」
 「六阿弥陀巡りとは、永観堂、清水寺・・・・・を云うんですよ。信貴山縁起絵巻はご覧になりましたか」
 「これからです」
 「そこの処の霊宝館に・・・・、本物ではありません。本物をCDにとった物です。CDだから本物とかわりません」
 女はそう云って、掌を左方にやった。
 女の云った通り霊宝館に行こうとした。けれどもまず表の毘沙門堂と思い、石段を下りて行った。毘沙門堂では丁度祈祷中で、堂内からは祈祷特有の奇声を発した呪文が聴こえた。堂内にあしを踏み入れると若い女が一人ご祈祷をうけていた。
 四角く升目になった格子戸を横に滑らせ内陣に入った。掌を合わせ神妙な女の後に座り、暫く祈祷を聴いていた。聴いているうちに胡散臭さを憶えた。そう思っては罰が当たるかも知れないが・・・・。
 堂内の受付にー戒壇巡りーと記され、矢印が地下への階段を指していた。百円を払い、導かれるまま階段を下りて行った。入口近くは幾らか微光が差していたが、奥へ進むに連れ漆黒の闇とかした。右側の壁に手を添え一歩一歩進む。
 ー戒壇巡りーする者は私一人だけだ。大勢いれば力強いのだろうが、転びそうで不安な気持ちで巡った。角を折れた壁に二三体の毘沙門天を祀った祠が彫られ、蝋燭の灯りが仄かに点り、ほっとした。更に角を折れた。其処は内陣の裏側真下に当たると思われる。
 つるっとした壁ではなく木製の引戸らしいごついテクスチャーを感じる。此処が出口かと思い、手探りで開くかどうか試した。鍵が掛けられているらしく、冷たい感触の南京錠の手触りを感じた。先に進み角を曲がった。先方に仄かな微光が差していた。
 その足で隣接の霊宝館を訪れた。狭い館内の中央、ガラスケースに信貴山縁起絵巻は納められていた。虚空蔵堂の堂守が云ったようにそれは複写だが、女が述べたCDからコピーしたためか、絵巻の皺までリアルに表現され、鑑賞するには本物と変わらない。
 信貴山縁起絵巻は飛倉の巻、延喜加持の巻、尼公の巻三巻から構成される。各巻の主要な部位が拡げられてあった。対象物のエッセンスを捉え、限りなくゼロに近い収斂した筆のタッチで表現され、色彩は画面に沈み込んでいた。筆づかいは細心の注意を払い一気に描いた様子が窺える。
 壁面に沿い幾つかの仏像が並ぶ。館内には私一人、ゆっくりスケッチをしようと思った。毘沙門天立像を三〇分ほどかけ描いた。描くうちにやはり、見た印象を一気に画面に走らせた方が、実体をあるがままに表現できる気がした。こせこせと立像のプロポーションを鉛筆で合わせ、エッセンスを見逃したかも知れない。
 霊宝館に一時間ほどいただろうか。幾人か来館者は入れ替わった。外に出た。受付の女がこっちを見た。表情はにこやかにしていたが、笑顔の影にーこの男は一体館内で何をしていたのかーと云った呆れた眼差しが見て取れた。
 来た道を戻り赤門を潜り、毘沙門堂を遠望し描いた。強風が吹き抜けワトソンのスケッチブックを煽った。手が冷え冷えとしてきた。毘沙門堂を描き上げ、続けて赤門に眼をやった。信貴山でもこのところなかったような冷たい風の中、とても スケッチするような環境ではない。それでも赤門を描き始めた。出来上がった絵には、淡い若葉が爽やかな春風に靡いていた。
 仁王門を潜ったところの千体地蔵には来た時と違い、樹々の梢を通り抜けた夕暮れの木漏陽が揺らいでいた。そこには幽暗な陰は見当たらず、乾いた明るい少年の輝きが覗いていた。 
 
 刻は夕刻近い。東山駅近くの集落を訪れるのはやめた。東大寺二月堂修二会(しゅにえ)、お水取を見物するため、一旦生駒駅に戻り近鉄奈良駅に向かった。
 近鉄奈良駅近くの蕎麦屋で日記を書きながら腹ごしらえをした。店員の話によればーおたいまつーは夜七時から始まるらしい。食べ終わって、只管(ひたすら)大学ノートに向かっていた。横を通る店員が不思議そうな表情を浮かべ、通り過ぎていった。
 猿沢池への道には、三々五々東大寺方面に向かう若者のグループがあった。私は前を進む四人グループの後を、興福寺南円堂への石段を上がった。既に境内には人影はなく闇が支配する空間だ。興福寺五重塔だけはライトアップされ薄墨の闇の空間に淡い光を放ち、浮き上がっていた。その姿は昼光の中の黒々とした重厚な五重塔ではなく、軽やかに飛翔しているかのような印象だ。
 興福寺宝物館を過ぎ、奈良国立博物館の通りに出た。左方の家並に眼を凝らした。日吉館がある筈と思った。会津八一揮毫の看板ー日吉館ーは既に其処にはなく、少し引き込んで新しい家が建築中だった。日吉館のピカピカに磨かれたガラス戸だけでもあれば、大和路をこよなく愛した会津八一を思い浮かべられただろうに・・・・。
 若者は南大門、大仏殿がのる軸線上の参道には曲がらず、次の角を左に折れた。方々から二月堂を目指す人達が集まって来た。斜めに走る樹々が立ち上がる石畳の先が、一際明るく輝いていた。
 漆黒の闇中、重厚な佇であるが軽やかに二月堂が浮き上がっていた。眼の錯覚だろうか、軒端と欄干の手摺が反対側に向かって、突き刺さって伸びている。高処に立つため強烈なパースペクテイブが演出されている。二月堂のこの洗練された姿、外部空間は京都ではよく見るが、大和路では珍しい。京都のそれより雄大で大らかだ。
 本堂舞台前の広場には無数の頭が犇めき合、ーおたいまつーの出番を今か今かと待っていた。待つこと十分、左手登廊を火の玉が掛け上がって行った。堂前から一斉に喚声が上がった。長い棒の先端に燃えさかる火の玉は登廊天井にまで達するのでは、と思われる程高く掲げられる。棒を持つ練行衆は(れんぎょうしゅう)一人だ。
 一本目の松明が二月堂舞台に踊り出た。舞台左端で欄干の手摺を梃子(てこ)とし松明はぐるぐる回され、火の粉が回転し宙に舞った。火の玉が宙に突き出された。それは本堂軒端すれすれにまで達した。一瞬見物人から、
 「うおっ・・・・・」
 どよめきが起こった。舞台で二三回それらを繰り返し、火の玉は欄干上を走った。
 「わあっ・・・・」
 一際大きな喚声が堂前から上がった。
 欄干上を走る火の玉はぐるぐる回され、宙に舞った。舞台で松明をうち振る練行衆が、この神事に全てを掛けている空気が火の粉と共に流れてきた。欄干上に松明を載せ、走っている最中に転んだら大変だ。
 宙に舞った火の粉は、舞台前の斜面になった芝生に降り注いだ。それを男が箒で寄せ集めていた。舞台直下の見物人に掛からなかったか・・・・。
 欄干上を走った松明は舞台右端で、再び竿を軒近くまで高く突き出した。そして竿を水平にし、火の玉をぐるぐる回した。火の粉は一段と広く宙に舞った。
 そうこうするうちに火の玉の火勢は弱くなり、斜面の芝生に落ちた。
 一本目の松明が落下する前に、二本目の松明が登廊を掛け上って行った。一本目の松明と同じように火の粉が降り注ぎ、三本、四本と十本目まで続いた。
 三十分ほどで火の玉の演出は終わった。見物人の集団が一斉に三月堂方向の出口に向かった。群衆の波に逆らい私は舞台前広場の中心に足を向けた。ライトアップされた二月堂の空間に身を委せたかった。
 人の波は潮が退くように、いつの間にか静かな二月堂の佇になった。舞台と反対側の築地塀沿いに三脚を立てたカメラの放列があり、数人の探索者グループが名残おしそうに山内を歩く姿があった。
 広場の一角に、若狭の水源と地下水脈で繋がる、と云われるー若狭井屋(わかさいや)ーがあった。それは二間四方ほどの小さな小屋だ。毎年二月、若狭井の香水(こうずい)を汲んで本尊観世音菩薩にお供えする。そこでーお水取りーが生まれたと云う。
 高処に立つ二月堂への幅広い石段を上った。石段左方で松明の焼殻を探し、拾っているグループがいた。三センチぐらいの小さな物だが、探せれば縁起よく御利益があるらしい。私も探してみたが、大勢の人が通った後で見つからない。石段上方に立つ二月堂本堂、内部から読経の声が流れて来た。
 本堂側面の小入口近辺に黒い影が群がっていた。狭い引戸が一メートル程開かれ、中には数人の人影が本堂内陣に向かっていた。靴を脱ぎ、高い敷居に足を掛け小室に上がって行った。その後も狭い入口から、ぞくぞくと人が入って来た。
 分厚い格子に組まれたスクリーンを通し、内陣の周囲を数人の僧侶が読経を上げ、時計回りに回っていた。一連の修二会の祭式の一つだと云う。小室の座敷は側面二カ所、背面一カ所に本堂内陣を取り囲んであった。
 読経する僧侶が回る内陣との間に、もう一つ、細く狭い空間が内陣を取り囲んでいた。私が座っている座敷には女性が殆どだ。その時には女性の方が伝統文化に造詣が深いのでは、と思った。内陣のみ、蝋燭が明るく点され、座敷側は漆黒の闇だ。
 内陣での祭式に見入る人の眼差しには、何かに憑かれたかのような一途な光が差していた。信貴山のご祈祷に似、
 「うううややや・・・・やっ・・・」
 私には意味の解らない声を発し、下駄を踏み鳴らしたけたたましい響きがあった。冷静であるべき僧侶がどうしたのか。天平勝宝の時代から、大衆を導くと云う重責を担わねばならなかった、僧侶の反抗の意志表示に聞こえなくもない。
 
 手に下げていた靴を土の上に投げ出し、敷居から飛び降り靴に足を入れた。登廊側の側面に回った。法被を着込んだ堂守が七八人固まっていた。堂内に入れるらしいが、時間制限があるらしく今は入れない。
 見晴らしのよい舞台先端に立った。大仏殿が黒々とし闇に溶け込んでいた。彼方には大和平野に点る橙色の輝きが風に揺らいでいた。
 再び登廊側の側面に行った。今度は堂内に入れそうだ。靴をビニール袋に入れ内陣に入った。後ろから堂守の声が聞こえた。
 「男だけ・・・女性は入れませんよ」
 「セクハラ・・・」
 続いて女の声がした。
 此処は細く狭い空間への入口だった。細い通路には男が数人格子に寄り掛かり内陣の祭式を見ていた。格子スクリーンの向側の座敷には大勢の真剣な眼差しがあった。この祭式空間には同心円に三つの空間配列がある。
 一つは僧侶が巡る中心的空間、二つ目は内陣を取り囲む側面、背面の小座敷空間、三つ目は女人禁制の細く狭いサンドイッチ空間だ。第三の女人禁制空間は空間と云うより第一の空間と第二の空間との緩衝地帯だ。
 儀式は深夜まで及ぶらしい。私は登廊を下り、塔頭が立ち並ぶ石畳を進み大仏殿の裏手に出、大宮通を奈良駅方面に歩いて行った。 
 
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