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1 吉野・金峯山寺蔵王堂 おすすめサイト
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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
   
 近鉄八木駅で乗替え吉野に向かった。橿原神宮駅を過ぎた辺から、車窓には今までとは異なり田園風景が広がってきた。岡寺、飛鳥へと進むに連れ、車窓の光景は一段と、自然が豊かになってきた。山並が間近に迫り、その優しい姿に心落着く思いがする。
 飛鳥近辺では、車窓の間近に、銀杏の葉が風に吹かれ数枚ヒラヒラと、散るのが見えた。まるで蝶の群れが頼りな気に舞っているかのようだ。その風情を眼にして今は土に埋もれ、ロマンのみを探索者に感じさせる飛鳥文化を思い起こす。
 飛鳥を過ぎた辺から、車窓の眺めは緑葉織り成す田園風景が連なるが、川向こうには、文化住宅がギッシリと立て込み、此処も飛鳥なのだろうかと一瞬間眼を疑った。飛鳥文化を育んだのは、一部特権階級の人々で、その他大勢の人達は、飛鳥文化とは縁も無く生活していたのだろうか。
 それとも文化住宅に住む一般民衆の力により飛鳥文化が築かれたのか。飛鳥文化は民衆に属する文化だったのか。少なくとも民衆の労働により築かれた事は間違いないとは思うが・・・。
 壺坂寺駅近辺は旧い風情のある街並で、山が車窓に迫る。市尾近辺では正面の山に列車は突き進んで走る。車窓の前方に、林の中に道が一筋伸びていた。近鉄吉野線は奥深く踏み入るに連れ、沿線沿いには豊かな自然の光景が拡がる。
 葛(くず)を過ぎた辺で、西側の山の風景は、紅葉が織り成す錦秋の風景に変わってきた。大きな旧い民家が眼に入り、途中下車し、近寄って探索したくなるほどだ。
 吉野口近辺では、西側の山に立ち上がる樹木の緑葉が、一枚一枚認識できるほど、列車は山に接近して走る。山を崩して砂利を採取する採石場が痛々しく感じられる。暫く進んで、東方の山端にも採石場が見えて来た。
 
 薬水を過ぎた辺で、列車は人家の間を縫うように走る。線路は山の斜面を等高線に沿って進む。山間列車ゆえに、上り下りの線路がレベルを違えて走る。見降したところに、上りの線路に二本レールが筋を引いていた。右方には眼下に吉野川が流れ、対岸には棚田が紅・黄・橙色に染まった山裾まで拡がっていた。
 福神近辺では、西方に山が迫り圧迫感があるが、対面東方の山並の紅葉は素晴らしい。暫く進んで、人家は更に少なくなり、西方には山が更に迫り、切通しを抜けてゆく。切通しを走る列車は、こらえきれずに隊道に突き進む。
 大阿太を過ぎた辺で、西方に造成地が見え、段丘となる。東方には山が折り重なる。下市口駅に近付き、西方に吉野川が流れ、川に掛かる橋が、景観の好い点景になる。列車は速いため、何時の間にか橋は背に去る。川の対岸には、大きな町が展開し、一際大きな―吉野銘木貯木場―の看板が目立つ。山並がそれに連なり、先方には、薄紫色に霞んで山並が遠望できる。
 越部駅近辺では西方に民家が連続し、東方の山が線路に迫る。右手には、川巾が広くなった吉野川が流れる。車内に木洩れ陽が差し込み、心地好い温もりを感ずる。東方の石垣上に民家が立つのが見える。石垣上に立つ民家は砦のようだ。眼で民家を追うが何時の間にか列車は切通しに突き進み、石垣上の砦は流れ去る。
 六田を過ぎて、列車は相変わらず高台を走り、左東方には民家が立つ。右西方の直下には、風情ある民家がほど好い間隔で連なる。川を挟んだ対岸にも民家が小さく見え、なだらかな山に溶け込んでゆく。
 大和上市では、列車は隊道を走る。いよいよ吉野神宮駅に近い。列車は吉野川を渡る。正面に山並が重層し、山腹に突き進んで走る。山は薄緑色に染まり清々しい光景だ。左東方の山の紅葉が素晴らしい。右西方には街道が走り、民家の家並が連なる。此処まで来ると、車内の客は流石(さすが)に少なくなる。金峯山寺へは吉野神宮駅で降りるのか一瞬間躊躇う。列車はまだ終点ではない。当然、終点吉野駅からの方が、金峯山寺へは近いに違いない。
 終点吉野駅は終着駅だ。先方には線路はなく、駅舎があるだけである。ローマの終着駅テルミナのようだ。改札口を出、駅前広場に立ち駅舎を振り返った。軒端に大きな字で―吉野駅―とサインがある。切妻型の屋根の平の部分を広場方面に葺き降し、左方には、紅葉した枝葉が屋根に差し掛かる。右方には、土産物店が立ち並び、店先に置かれた朱色のテーブルが、紅葉と好く響き合っていた。
 駅舎の背後には錦秋織り成す山並が、穏やかな佇で、駅舎を包み込んでいる。
 
 駅前広場の右手の登山道を金峯山寺に向かった。山道には色付いた紅葉が差し掛かり、登山道は錦秋のトンネルだ。楓は若干、薄茶色になり、紅葉には遅過ぎた。吉野は高地のため寒く、紅葉の盛りは少し早めのようだ。
 とはいえ、錦秋の織り成す鮮かな光景を眼にし、此処に南北朝時代には、南朝の行宮(あんぐう)が置かれた歴史を思わざるを得ない。
 登山道の探索路は二三回、車道で途切れるが、直に探索路への道に出た。五分程で、再び車道に出た。其処に小さな神社があり、可愛らしい鳥居が立つ。鳥居の向こうに石段があり、頂に小さな朱色の祠があった。鳥居の左右には紅葉した枝葉が差し伸べられ、朱色の鳥居と好く響き合っていた。背後は緑葉に包まれた木立ちが林立する山である。
 鳥居脇の山道を進む。眼下の優しい山並は色鮮かにして、人の眼を和ませるに充分である。十五分程歩き、正面に黒門が見えて来た。
 黒門はそれほど大きくはないが、如何にも山寺らしい風情のある門だ。背から鮮か枝葉が差し掛かり、紅葉の紅色と、黒門の禁欲的な墨色とが対照的で、無と有を共有する何(か)のような空間である。
 黒門を潜れば先方に、銅鳥居が(かねのとりい)石段の頂に豪快な姿で立つ。アスファルト道は石段下で右方にカーブし、更に奥へと伸びる。左手、土産物店の軒下から銅鳥居を見上げた。両側の家並に鳥居が挟まれ、鳥居の垂直性が強調されて見えた。
 銅鳥居は石、木の鳥居に比べ柱が太く、すらっと清々しく伸びる鳥居には見られない武骨さがある。これから訪れる金峯山寺蔵王堂の豪快な姿を暗示しているかのようだ。
 銅鳥居に石段が偏心して突き刺さる位置関係であるため鳥居が歪んで見える。それだけに銅鳥居を中心とした空間には動きがあり流動的だ。扁額(へんがく)には―発心門(ほっしんもん)―と書かれてある。右手からは、盛りの過ぎた紅葉が、緑葉を織り混ぜて扁額に差し掛かり、鳥居の鈍い銅色と好く響き合う。
 鳥居奥方には文化住宅風の建物が樹々の梢に見え隠れするが、金峯山寺には相応しくない。銅鳥居は、聖武天皇が東大寺大仏を鋳造した際に、その余った銅で造られたとも云われる。別名発心門とも呼ばれ、修験者にとって、鳥居を潜って修行の道に入る発心空間と云える。俗界と浄土世界との結界を現している。
 京都法然院、興聖寺ほどの明確な結界空間は感じられなかったが、私風に解釈すれば、役行者は、こう云っているように思える。
 「発心するかどうかは、修験者それぞれの問題だ。拙僧はそんな些事(さじ)には拘らない。それは自分自身の内部にある。拙僧は全ての者を受け入れる」
 銅鳥居を描きながら、些事(さじ)にはこだわらない朗らかな吉野の息吹を、其の豪快な形に感じた。
 歴史を振り返っても吉野は朗らかだ。古くは、近江京を追われた大海人皇子(天武天皇)が旗揚げしたのは吉野、後醍醐天皇が南朝を起こしたのも吉野。大塔宮護良親王が北条勢に攻められ、籠城したのも吉野。吉野金峯山寺は、朗らかにして自由、来る者を拒まない懐の深い寺である。
 銅鳥居を潜り、土産物店が立ち並ぶ参道に足を進める。正面石段の頂に金峯山寺仁王門が立つ。重層入母屋造、本瓦葺の山門で、圧倒的迫力のある豪快な姿だ。三メートルほどの石段上に立つため、軒下の斗?木組を遥か下から見上げる形になる。木組は朱色に染められているが、風雨に晒(さら)され朱色が掠(かす)れて木肌が現れ、それらが互いに混じり合い、趣きのあるテクスチャーを現していた。
 高処に立つ故、背後そして左方には藍青色をした空が開けて見える。そのため一層、雄大さを感ずる。描いている際には分からなかったが、右手高処に入母屋造で、桧皮葺の立派な屋根の頂部だけが覗いていた。これから探索する金峯山寺蔵王堂である。仁王門奥方には、紅色の枝葉が垣間見え、艶っぽい印象である。男性的姿と、女性的色香を合わせ持った光景だ。
 
 仁王門は、三間一戸の大楼門で、棟高は二十メートルの山門である。私の知る限りでも、東大寺南大門に次ぐ山門だ。
 石段に立って仁王門を見上げ、其の大きさに改めて圧倒された。山門両脇を守る仁王像も力強く、流動的で筋骨隆々とし、仁王門に劣らず圧倒的迫力を感ずる。
 石段の頂は基檀風につくられ、其処からの眼下の眺めは、吉野川沿いの穏やかな田園風景が拡がり、素晴らしい光景だ。
 真下で仁王門を見上げて描く。この圧倒的迫力ある構図を描くのは難しい。躊躇なく思い付くまま、筆が動くまま走らせるしかない。描くうちに、自からの小さなことと非力を思い、昔人の偉大さと大きさを感ずるのであった。
 仁王門から廻りこみ蔵王堂を仰ぎ見ながら参道を登る。登り切って蔵王堂の広場に出た。広場隅で蔵王堂を見上げる。重層入母屋造の屋根は桧皮葺で、その巨大さに圧倒される。深い軒出を支える斗?木組が豪快だ。
 豪快なだけでなく重層入母屋屋根の桧皮葺が、其の質感からか、柔らかなテクスチャーを見せ豪壮な木組を包み込む。桧皮葺屋根には軽やかな反りが付けられ、優しい曲線を描く。棟押えのラインにも、細やかな表情が見られ緩やかなカーブを描くのである。
 蔵王堂前の広場の中央は石柵で囲われ、中には桜の古木が左右に二本立つ。その桜の下で護良親王が吉野で、最後の宴を開いたと云われている。
 蔵王堂は建物の総高三十四メートル、桁行七間、梁間八間の大伽藍で、木造建築としては、東大寺大仏殿に次ぐ大きさだ。
 紅葉の盛りを過ぎているせいか、探索者の姿は少ない。広場隅で、水彩画を描く初老の男がいる位だ。時間をかけて蔵王堂を描きたかったが、今夕、大成建設の鈴木氏と京都四条河原町で会う予定があり、時間をかけられず、簡単に描く。
 
 広縁に通ずる階段を上がって行った。広縁に立って深い軒出を見上げ、今更ながら蔵王堂の雄大さに、自分自身も大きな翼を持ち、如何なる困難にも動じない豊かな気分になった。
 広縁左端より堂内に進んだ。左手に受付があり堂守の僧侶が二人、手持無沙汰に此方を眺めていた。足を踏み入れた処は下足スペースにもなっている。靴を脱ぎ、ピカピカに磨かれ鈍色(にびいろ)に光を放った縁に神妙に足をのせた。
 黒光りした縁に立ち暫く佇む。蔵王堂は内陣と外陣に分けられ、内陣と外陣とは、太くて大きな、一見生きた自然木と思われる列柱で、空間的に分離される。大きな柱は、一応円柱には加工されてはいるが、下から上まで均等な円柱では無い。上に伸びるに従い僅かに細くなっている。
 山に自生する大木の如く、凹んだ処があったり、瘤(こぶ)があったり、躯(むくろ)のように穴があったり、竪に凹んでいたりする。堂内の円柱を眼にし一瞬間思った。蔵王堂の立つ処に、自然に自生した巨樹を其の儘柱にしたものではないかと。巨樹の手当が難しかったが故にそうなったのか・・・。孰れにしても、円柱に加工するには、一廻り太い巨樹でなければならない。
 それとも見てくれよりも、構造的断面が確保されてあれば、あるが儘に巨樹を柱に使う思想、デザイン的考えだったのか。却って完全な円柱に加工して構造材とした方が、梁、桁と架構体を組むには細工がし易い。
 現代でも、我々が建築設計する際には、柱は四角あるいは円柱にして、真直に立てる設計が殆どだ。
 スペインバルセロナのアントニオガウディの設計による聖家族教会(サグラダファミリア)は力学的考察、実験の結果、斜めあるいは曲線が縦横無尽にその空間を走る。サグラダファミリアのような建築の設計、工事は、現代でも大変な労力を必要とする。
 
 蔵王堂を造った棟梁が何故に自然の儘の姿の巨樹を、内陣の柱に据えたのかは、問題ではない。其の空間から何んな質を我々が見出すかが大切だ。
 自然な姿の巨柱には―神代杉、名木つじ、黶A梨の木―などと紙に書かれて貼ってある。寺院の柱には、黷ゥ桧が使われる事が多い。梨の木、つじが使われることは予想だにしない。梨、つじの木で、あれほどの大木があったのかと驚いたほどだ。
 学生時代に京都奈良を訪れた際に、友人の一人が、
 「蔵王堂はいらしいよ」
 とさりげなく云っていたのを、今でも判然と憶えている。彼が蔵王堂は素晴らしいと思ったのは、この空間だったのかと、その言葉が、ふと脳裡をよぎった。
 蔵王堂の空間に接し、金峯山寺の懐の深さが分かった。あの自然木を使った自由闊達なデザインを見れば、人が何と云おうが、脇目も振らず、信ずる我が道を進む強い意志を感ずる。そして信念を持って吉野に逃れて来た人達を、受け入れる大胆さ。強者でなく弱者側の味方なのが小気味好い。
 其れは、前に述べた如く、南北朝時代の後醍醐天皇を始めとした人々を受け入れた歴史的事実を見れば分かる。
 堂内外陣の背を廻り、外陣左脇に出る。外陣周囲に、幾つかの仏像が安置されてある。堂内に入った時に、蔵王権現三体が安置される内陣で、男一人女二人が座り、蔵王権現に向かい経を唱えていた。その時は熱心な信者だと思っていた。私が左手外陣の釈迦如来像を描く傍らで、その内の一人、男が話し掛けて来た。男は突然、宗教的な難しい話をするが、何の事かよく分からなかった。
 男は修験者で、今蔵王堂にいるのは、二人の女性の信仰の手助けのため、北海道函館から遙々(はるばる)、吉野金峯山寺に参詣に来たらしい。同行の女性は親子だと云っていた。男は、
 「私は行者で、一緒に参詣してもらいたいとの信者からの願いがあれば、日本全国どこへでも行く」
 「それでは函館には、御自分の寺があるのですか」
 「いや、寺を持つとか、その様な事ではない。行者として各地の寺に参詣するだけです」
 男は色々、私に説明するが、私は宗教的な興味よりも、空間的あるいは建築的視点から蔵王堂を訪れているので、男とは話が噛合わない。母親と娘さんは参詣も終わり、外陣の仏像を鑑賞していた。
 左手外陣から内陣を描く。自然の姿の円柱が高く林立する様は荘厳で内陣に足を進めるのを躊躇う程だ。厨子に掛けられた朱色の御簾(みす)の奥には、蔵王権現三体が安置される。描きつ
然の姿の儘の円柱に圧倒された。
 話は外れるが、伊豆韮山に地面から生えた儘の姿を、大黒柱にした民家がある。韮山代官江川太郎左衛門の屋敷だ。その代官屋敷は玄関の戸を引いて土間に入ると、土間に巨樹が立ち上がり、上方で巨樹の柱に梁、桁が差し掛かっかていた。その姿は土着的で縄文的である。江川太郎左衛門は江戸末期、韮山反射炉を造った事で有名である。
仁王像 蔵王堂
 
 
 暫く蔵王堂内の自由闊達な空気に接し、再び堂前の広場に降りた。堂と広場を挟んで反対側に、長く立派な石段がある。この石段が蔵王堂への正式な参道なのか。併しこの石段から参詣する際には、仁王門を潜らずに車道を歩かねばならない。山門を潜らずに蔵王堂に参詣することは考えられない。やはり私が歩いてきたルートが正式な参詣路なのでは・・・。
 山岳寺院だからだろうか、金峯山寺では、伽藍配置の軸線が感じられない。仁王門から蔵王堂に至る参道は、一度蔵王堂の裏手を通り、堂左脇を回り込んで、堂正面に出る。仁王門と蔵王堂との空間的関連性が無い。通常であれば、一直線上に山門と本堂はある筈だ。地形上、無理がある場合には、長谷寺の如く、登廊等の空間的装置を据え、軸線をずらし本堂に参詣者を導く手法がとられるのが一般的だ。
 けれども、形式的なそんな軸線の法則さえも有難く頂戴しない蔵王堂に、豪快な気風を感ずる。蔵王堂脇の道を少し降れば吉野朝宮跡がある。細い道の右手に石碑―吉野朝宮跡―が立ち、突き当たりに、相輪を持った三重塔風の南朝妙法殿が立つ。左方には、緑葉に包まれ寺務所らしき建物が立つ。この辺は金輪王寺跡で、後醍醐天皇の行宮があった処だ。蔵王堂の豪快な印象が強かったせいか、此処での感激は少ない。
 金峯山寺を開創した役行者は(えんのぎょうじゃ)、名を小角(おづぬ)と称し、日本全国の山を修行して仏法を説き、修験道の礎を築いた。白鳳時代、役行者は金峯山で、桜の木に蔵王権現の像を刻み、堂を建てたのが蔵王堂の草創である。像を桜木で刻んだことから、桜が大切にされ、更に献木されたりして吉野山は桜の名所となった。現在、その数三万本約二百種あると云われる。
 平安時代に聖宝が(しょうほう)堂宇を建立、鎌倉時代にかけて盛え、天皇、貴族を始めとし、信仰は一般民衆にまで及んだ。現在の蔵王堂は、安土桃山時代に再建された伽藍である。
 
 石段を降りた。土産物店の立ち並んだ参道には、結構家が立て込んでいる。こんなに賑やかな処があったのかと思う。仁王門から蔵王堂に出た私は、一体表を歩いて来たのか、裏を歩いて来たのか分からなくなった。
 京都四条河原町に六時半までに行かねばならぬ。近くの吉水神社を探索するかどうか迷った。土産物店の店員に訊ねた。吉水神社は近く直そことの事だ。急いで探索することにした。下り坂の参道を進んだ。左手に吉水神社の入口があった。
 緩い坂道に緑葉を織り混ぜた紅葉が差し掛かる。坂道を上がって小ぢんまりとした門に出た。坂道、門が錦秋で包まれている風情には、蔵王堂では感じられなかった日常的な人間の営みが感じられる。
 門を潜り境内に入った。広場左手に社務所があり、正面に神社が立つ。元々、吉水神社は金峯山寺の僧坊吉水院だったが、明治時代、神仏分離令により、後醍醐天皇、楠木正成を祀る神社となったのである。源義経、後醍醐天皇ゆかりの神社で、ゆっくり参拝したかったが、気がせいてしまい、直に参道に戻った。
 蔵王堂への石段を左手に見、アスファルト道を進む。先刻歩いた仁王門から蔵王堂に廻り込む参道が、小丘の中腹に見えた。其の道に蔽い被さるように、蔵王堂の重層桧皮葺屋根が聳え立つ。かなり下から眺めているため、現実の蔵王堂より、遥かに大きく見える。
 蔵王堂下のカーブした車路を進むと、崖の頂に、仁王門が雄大な姿で聳り(そそ)立つのが見えて来た。もう一度、仁王門に寄りたくなったが、先を急ぐため、仁王門への石段には入らず、参道を右方に折れた。来た時は登り坂であった。当然のことながら帰りは降り坂で、眼前の光景が眼線の下になり、同じ景観でも、若干印象が違って見えた。時間通りに吉野駅に着いた。大阪行きの急行がプラットホームで待っていた。京都へは大和八木駅で近鉄京都線に乗り替えて行く積もりだ。
 
 座席に座って疲れた体を休め、近鉄吉野線沿線の風景をぼんやり眺める。左西方に吉野川の流れが、南北朝の昔から途切れる事もなく流れる。流れの両側には、民家が連なり、やがて疎らになって、田園風景に溶け込んで行った。民家が連なる辺では、流れに玩具のように橋が掛けられ、空間の好い点景になる。民家の連なりは背の緑葉に包まれた山に、這い上がり、疎らになって緑葉に吸込まれる。
 路地の両側には山並が走って、なだらかな稜線を描き、大和八木駅辺まで連なる。日本の歴史を動かして来た出来事を、熟と見て来たと想えば、優しい山並の中に連綿と伝わる生命を感ずる。同時に金峯山寺を支えて来た天皇、貴族そして一般民衆の力の連続を思わざるを得ない。
 人間が創り上げた蔵王堂の豪快な姿が、頭を過(よぎ)る。堂内の自然木の円柱を立てるのを許した発願主の度量の深さを想い、発願主に雄大な堂宇を創らせる発端になった、精神的バックボーンである役行者の偉大さを改めて想った。
 そして何よりも、荒々しいが、華麗な蔵王堂を構築した棟梁、そして棟梁の下(もと)で、雄大な架構体を刻み上げた匠の優れた技術を想うのであった。
 八木駅を出た頃、二上山の雄岳、雌岳が遠望できた。金剛山の山端に、真赤な太陽が沈みかけ、周辺の夕空に朱色の横縞を幾筋も差し伸ばす。此んな光景に奈良に住む人達は、毎日のように接していることが不思議に思えた。
 西大寺近くでも、山端が淡い朱色に輝く。生駒山系を遥かに望むが、山容は黒くどっしりとして、山端だけがぼんやりと、赤味がかって見える。山端周辺の夕空は、ブルグレーの雲が重く立ち籠める。いながらにして、心地好い光景に接することができた。
 其の内に睡魔に襲われた。気が付いた時には、車窓の風景は一段と暗くなり、左西方の山並が黒々とし、人家の明りが灯(とも)る光景に変わっていた。
 
 竹田駅で地下鉄東西線に乗り替え、四条烏丸に出た。四条通りを河原町方面に歩くが、人の多さと、賑わいに、数時間前の吉野蔵王堂での空間体験が、遠い昔のように思えた。
 四条河原町阪急百貨店前には、既に鈴木氏が待っていた。東京では友人に時々会うが、こうして旅先で学生時代の友人に会うことは、大学卒業以来、殆ど無い。気分的に学生時代に戻ったような気がする。
 鈴木氏は商用で時々、京都に来ているらしい。四条河原町近くのビジネスホテルが常宿で、行きつけの酒場も幾つかあるようだ。河原町通りを三条方面に歩く。鈴木氏の常宿ホテルが左手に見え、其の対面の路地を右に折れ、一軒の酒場のドアを開けた―もりた―と云う店だ。
 店には先客の男が二人、カウンターに座っていた。もりたの主人と鈴木氏は顔馴染みで、直にもりたの主人が、カウンターの中から、
 「鈴木さん、いらっしゃい!この間○○さんが見えて、鈴木さんの話が出ましたよ。今日はお仕事で京都の方へ」
 と時候の挨拶をし、私の方にもニコニコと顔を向けた。サブザックを背負い、安物のコートを着こんだ、一見してサラリーマン風ではない風体に、鈴木さんは一体、何者を連れてきたのか。そんな含みが、笑顔の底にあった。鈴木氏が、
 「こちらの方は、私の大学時代の友人で、建築設計事務所を経営している山口さんです。絵を描く建築家とも云われ、どちらが本職だか分からない男です。あなた、絵をご主人にお見せしたらどうですか」
 と柔らかい感じで、私を―もりた―の主人に紹介した。鈴木氏は、真面目な話し振りで、半分冗談のような話し方をするので、頭の回転が鈍い人は真に受けてしまう。
 頭脳明晰な主人は、鈴木氏の性格を好く御存知のようで、
 「画伯の絵を拝見させて頂けますか」
 と切り返して来る。それを受けて画伯は、
 「お見せする程の絵ではないですが」
 と画伯は酒の肴ぐらいにはなるだろうと、スケッチブックを取り出した。鈴木氏と主人がスケッチブックをめくっているうちに、常連客らしき女性が入って来た。鈴木氏が気を利かして、隣の奥の落着いた席を空け招き入れた。中年女性は主人とは、同じ町内で、京都泉湧寺近くに住み、若い方の女性は、連れの中年女性の姪御さんと云っていた。
 奥村さんは、ピンク色のフワフワしたセーターを身に着け、ふっくらとした顔立ちの美人で、髪はショートカットで軽くカールさせている。
 姪御さんの石川さんも、ショートカットの髪型で、細っそりとした細面の顔立ちで、笑うと顔を俯き加減にする。恥ずかしそうな仕草が、初々しくて可愛らしい。眼元の涼しげな京都美人だ。鈴木氏と私が、
 「お二人とも美人ですね」
 私のスケッチブックを開き見ている二人に話すと、奥村さんが、
 「この子の母親は、もっと美人ですよ」
 それもその筈である。母親と言えば、ピンクのセーターを身に包んだ奥村さんとは姉妹である訳だ。
 「どんなに美人か、お母さんの写真を見たいですね」
と私が、酒を飲んだ勢いで切り返すと、鈴木氏が小さな声で、
 「写真などは持っていないでしょうね」
 と何気なく笑いながら話す。彼女は茶色のハンドバックから、パンパンにカード類などが入った、財布か小物入かを取り出し、ゴソゴソ何かを捜す風だ。一枚の写真を半分ほど引き出し、小物入ごと我々の方に向けるのであった。母親の写真を何時も身に付けていたのだ。写真を見ようと、私は小物入ごと受け取ろうと鈴木氏の席越しに手を伸ばした。ビールをグッと飲み干した鈴木氏が笑いながら、
 「写真だけ見れば・・・」
 「それもそうだ。お母さん、目鼻立ちがはっきりした美人ですね」
 姪御さんは京都西方の桂に住む。もりたの主人が、見せて呉れた京都写真集にも載っている、長岡京はその近くにある。
 もりたの主人はなかなかの博学である。店の常連客には、京都工芸繊維大学の建築史教授中村先生などもいて、建築関係の客が多いらしい。東京ではなく旅先の京都で空間について論じ合うのも、非日常的で新たな意欲が湧く。
 夜も大分更けてきた。私は大阪豊津まで帰らねばならない。もりたのある路地を河原町通りに出た。鈴木氏の宿泊先のホテルは、こからは目と鼻の先だ。
 私は阪急京都線梅田行きに乗ったが、淡路で乗り替えるところを、勘違いし、手前の茨木駅で降りてしまった。夜も遅いため電車の本数は少ない。次の梅田行に乗ったが、酒の酔いが回って来て寝過ごしてしまい、淡路を通り越し、気付いた時は二駅先の南方駅だ。反対側のプラットフォームには京都行き普通列車が停車中だったが、そちらのホームに出る地下道が無い。巳むを得ず、一度改札口を出、ホーム脇にある踏切を渡って京都方面ホームに出たが、既に京都行列車は発車した後だ。
 師走の第一週目で夜も更け木枯らしが、冷たく体に吹き付けた。南方駅は急行が止まらないらしく、数本の急行がフルスピードで通過する。待つ事二十分、やっと京都行普通列車が来た。二駅先の淡路駅で阪急北千里行に乗替え、やっと豊津駅に辿り着いた。四条河原町から長い道程であった。
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