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YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
飛鳥集落1 飛鳥集落2
飛鳥集落3 製材所 飛鳥集落4 民家
大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
22 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
 
 三十年振りに訪れた飛鳥駅近辺は、こが飛鳥なのか、と思ったほど開けた駅前広場になっていた。広場左手にある飛鳥総合案内所で、飛鳥近辺の地図を手に入れようと、ガラス戸を開けた。
 案内所には、沢山の私家本らしき本が並べられてあった。その内の幾つかを繙い(ひもと)てみるに、よく描き込んだ画文集などもある。売店の女性が私のスケッチを捲(めく)りながら、
 「スケッチが画文集になったら、店頭に置いてもよいので連絡を下さい」
 好意的に云っては呉れたが、これだけ本が並べられた中では、よっぽど特徴ある本でないと目立たないだろう。
 「はい、分かりました。来秋には出版できそうですので、置かせて下さい」
 と店頭の女性にお願いした。其処で飛鳥王国なる小さな地図を買い、飛鳥探索に出発する。外にはレンタサイクルの自転車が幾台も置かれてあり、あちらからもこちらからも業者の呼込みの声が掛かる。飛鳥探索の出だしから商業主義に毒された印象を受けた。
 直に飛鳥には相応しくない真新しい自動車道を横断し、左手に折れて行く細い探索路に足を進めた。長閑な道には、自転車で探索するグループが行き交い、先方に遺跡がありそうな様子である。
 左手に小丘が連なり、右方には田園風景が広がる道を、気の向く儘にのんびりと歩いて行った。此様な風景では、自転車で速く進むより二本の足で、ゆっくりと歩くのが好い。自動車で目的地に一直線に進むなどは考えられない。歩く途々(みちみち)に偶然、出会(でくわ)す自然に埋もれた遺跡には、さりげない風情を感ずるのである。遺跡を数多く見るには自動車は都合がよいが、多く見たからと云ってそれだけの事だ。
 長閑な田園風景の中を無目的に歩く。遥か彼方に見渡す優しい山並が、薄紫色にくっきりと稜線を描き、処々、紅、黄、橙色に彩られている。中腹の枝葉の群れが判然と分かり、民家の家並が枝葉に浮かび点在する。
 飛鳥地方は北方は畝傍山、耳成山、天香久山、東方は多武峰、南方は高取山に囲まれた地域である。その山間を縫って一筋、飛鳥川が流れる。
 それだけに、変化ある地形で起伏があり、棚田の一枚一枚の横筋が大地の襞(ひだ)の如くある。棚田の襞は、地形なりに横に拡がり、山間に溶け込む。更に棚田は斜面を登って山並の緑葉に吸い込まれて行くのであった。
 此んな日本の原風景が昔から好きで、眼指す遺跡はどこへやら、原風景を歩く事の方が目的になったりする。棚田は人間が造り出した構築物とも云える。
 全く人間の手が加えられていない自然よりも、棚田とか、その中を伸びる農道、そして林に埋もれている民家がある風景の方が何故か落着くのである。自然の厳しさの中に、人間が造りあげた構築物がある風景は、それ自体が自然に同化しているような気がする。
 振り返って、今歩いて来た道を見下ろす。棚田の襞が幾層にも折り重なり、それほど深い山ではないが、山間に抱かれた山里の光景が一面に拡がる。鬼の雪隠(せっちん)はそんな処で、飛鳥時代の古代からこの原風景を見て来たのであろう。
 時々、探索のカップルが所在なげに行き交う。彼等にとっても飛鳥の原風景は、恋を囁くにはよい舞台なのかも知れない。
 棚田を登り詰めた道に出、左手の小丘斜面の中腹に伸びる道を進む。前方に拡がる山並が、進むに従い徐々に近付き、木々の群れが認識できるほどになる。前方の山並は遥か彼方にあるように見えたが、思ったより近く感じられる。
 道の片側に家が見えだした辺に、数人の探索者の群れがあった。ジュースを飲んだり、写真を撮ったりしている。何かあるのだろうと近付く。柵田の奥方に大きな石が見える。亀石だ。柵に囲まれ、スナップ写真の背景になったりで、亀石はじっとして動かない。それでなくとも亀の足は鈍い。
 亀石は古代から其処にあるのだろうが、日向(ひなた)に晒され、人垣に囲まれた賑やかな空間では、風情が感じられない。飛鳥寺近くの入鹿の首塚についても云えることだが、草や畑の稲に埋もれ、自然な感じで亀石や首塚があれば、想像力が掻き立てられるのだが・・・。周辺の整備が行き届いてしまうと、趣きがなくなり、じっと立ち止まる気が起こらない。亀石は周辺の騒々しさに、どことなく伏し目がちにしているのであった。
 
 亀石を描き終えて先に進む。降り道になり、土曜日で午前中に授業を終えた中学生が、二三のグループを成し、騒いで後ろから此方に来る。昼下がりの開放感からか、授業後の開放感からか、大声を出しふざけながら近付いてきた。どこでも同じ光景だ。
 右方に立派な石垣が積まれた家が現れた。石垣の内からは緑葉が覗き、石垣から少し離れて二階家が立つ。石垣の手前は、緑に包まれた土手で、その辺から道は降り坂になり、石垣の処で僅かに左に折れ、家並に吸い込まれる。その先方には、緑葉、紅葉が入り混じった緩やかな山並が続き、処々に小さく人家が埋もれている。何とも言えない長閑な光景だ。騒がしい中学生を遣り過ごしてからスケッチを始めた。処々に点在する人家のひとつに、今通り過ぎて行った中学生も住んでいるのかと、ふと思う。降り坂ゆえに、石垣の高さが強調され、更に遠近法が強くなり迫力のある構図だ。
 道が開けた右手に橘寺の石碑が立っていた。探索者の姿は見当たらないが、どことなく風情が感じられる。右手に折れ石碑の間を抜け、草の生えたなだらかな斜面を登って行った。直に視界が開け畑地に出た。道は畑の農道風でもあり、橘寺の参道風でもある。左方、枯れた畑の向こうに橘寺の甍が望める。いくらか道を登ってから描く事にする。
 
 枯れた畑地には、僅かに緑が這うのみで、処々地肌の土が顕れていた。その向こうに土塀に囲まれ、橘寺の甍が軒を並べ、素晴らしい光景だ。土塀の上部には漆喰が塗られ、下部は板張りになっている。左方に棚田が緩い勾配で降る。土塀の構成の仕方が平城(ひらじろ)の土塀のようにも見える。周囲の自然の景観を切り取って寺地を成し、自然と人工との対比が面白い。
 左方の甍は庫裡のように見え、右方の一際大きく拡がる甍は本堂であろうか。西側の土塀の真中に、小さな山門が頼りな気に立つ、けれども、空間を切り取り、構図として好い点景である。鈍い光を放つ甍群の背後には、緑葉が入り混じった錦秋の山が織り重なり、遥か彼方の薄紫色の山端は、藍青色の空に溶け込んで行く。武者小路実篤の―新しき村―理想郷のような空間であり光景だ。
 描く後ろを女性三人組が通り過ぎ、二言三言、言葉を交わした。若い三人組は山門へ折れる角でシートを敷き並べ昼食を摂り始めた。後でその脇を通った時、その中の一人が、
 「蜜柑をどうぞ、飛鳥に来る途中で買ってきました」
 とひとつ把んで呉れた。若い女性にしては人懐っこい人だ。
 「何処から来たんですか」
 「京都から来ました。飛鳥まで同じ電車でしたね。私達はこれから石舞台まで行きます」
 彼女達は三脚を携帯している。女性にしては三脚を持ち歩くのは珍しい。三人で記念撮影するため持って来たらしい。
 彼女達のいる処からは、山門が正面に見える。西山門である。橘寺の正面は反対側の東らしい。境内には入らず土塀伝いの道を降り、土塀に平行になった棚田の畔道に足を踏み入れた。畔道より橘寺の土塀を見上げた。土塀と堂宇の甍が織り成すリズムが交響曲を奏でているようだ。
 畔道は飛鳥川沿いの小道に出た。登れば橘寺正門への道だ。飛鳥川は思ったより深く切り下げられた処を流れる。
 飛鳥川に掛かる橋を渡り、川沿いを右へ行けば石舞台、左へは飛鳥板蓋宮跡への道である。かつて石舞台を訪ねた事があり、久し振りに訪ねてみたかったが、大阪豊津に早く帰らねばならない。今日は飛鳥の旧い集落を探索するのが目的である。飛鳥八釣部落への道を急ぐことにする。
 岡寺へのバス道路を横断し間道を行く。田園風景の中に飛鳥板蓋宮跡の礎石群が、鈍い光を放っていた。平坦な田園風景の中の遺跡で長閑な感じだ。レンタサイクルの探索者が四人、案内書を片手に見学中である。私は過日、訪れたので遺跡を脇に見、右方に外れて行った。
 再びバス道路に出、直に酒船石へ至る細い山道に出た。二三人上から探索者が降りて来た。酒船石は有名な割にアプローチ路が整備されておらず、この先方に本当に酒船石があるのかどうか不安になったが、探索者が数人歩いているため、酒船石への道に間違いないだろう。
 山道を左に折れた暗い登り道を、先に行く探索者の姿が見えた。こんな薮中に酒船石があるのだろうか。私が所持する地図は大雑把で細道は載っていないため、自前の本能的な嗅覚を働かせて目的地を眼指さねばならない。手入れの行き届かない薮を切り開いた処に大きな石―酒船石―があった。既に二三人の探索者が酒船石の周りを―これが酒船石か、随分、荒れた処にあるんだなあ―と半信半疑の面持ちで佇んでいた。
 酒船石は平たい大きな石だ。曲線状に彫り込まれ、それが帯状に連続され、何の目的で酒船石が造られたのか不明であるが、名前の通り、酒を造ったとか油を絞ったとも云われている。
 
 平成十二年、この丘陵北側の斜面が平地になる辺で、祭事として造られたのか、庭園として造られたのかまだ判然とはしないが、石組された水利施設が発掘された。土木工事を多く行った斉明天皇時代の遺跡ではないかとの説が有力である。
 酒船石近辺の丘陵地帯では、水を引いたと思われる土管、石桶が発見されている。今回の発掘を合わせて考えると、酒船石もそれに連なる施設のひとつと考えられる。
 併し、ロマンを掻き立てる石も、観光のための石となると、感激が薄い。探索中に、自然にぽつんと置かれたそんな石が現れば、何故に其処に人間の手の入った石があるのかと、想像
力を掻き立てられるだろうに。大勢の人が訪れ周辺が整備されたりすると、その感激も薄れてくる。
 酒船石を描く間に、殆どの探索者は引き返し、来た山道を戻って行った。私は一路八釣部落へと、先方の山道に踏み入って行った。先方に私と似、物好きな夫婦が歩くのが見えた。
 酒船石近辺の薮は消え、進むにつれ開放的な山道になる。両側には蜜柑畑が広がり、陽光を浴び長閑な風景だ。
 山道がT字路になった辺が騒がしい。ハイキングのグループかと思ったが、蜜柑畑に入り蜜柑狩りをする五人程のグループであった。リーダー風の年寄りの女性が、
 「蜜柑をどうぞ、私のところの蜜柑です」
 と手頃な枝からひとつ?ぎ、私の方に差し出した。有料で蜜柑狩りをしているのかと思ったが、そうでもなさそうだ。中には遠慮深そうな様子の人もいる。
 「これは売るための蜜柑畑ではないんですか」
 蜜柑狩りしているには違いないが、遠慮深そうにしている人もいれば、知識を得々と述べる人もいて、何んなグループなのか分からない。グループの人達が話すのを聴いて大体のところが分かって来た。
 以前、一緒に旅行した事のあるグループで、其の中の一人が蜜柑園の奥さんで、仲間を蜜柑狩りに招いたらしい。それでどことなく遠慮がちの人もいるのであった。
 よくしゃべる男が一人いた。和歌山の五条出身らしく、五条近辺の寺などの事を話しているが、自分の知識をひけらかしているようで、聞くに耐えない。自分の知る全てを説明しなければ気が済まないのだろう。一緒にいると疲れそうな男だ。
 貰った蜜柑は少し皮の厚い蜜柑だったが、丁度、喉がかわいていたので旨かった。山道を少し行った処に道路があり車が駐まっていた、蜜柑狩りのグループが箱詰した蜜柑を駐車してある車に先刻の処から運んでいた。
 
 山道を歩いて、アスファルト道路に出会すほど風情のない事はない。早目に山道に入ろうと思っていた時、右手の山に登る細い山道があった。傍らの農家で訊ねた。
 「山道を登っても、何も見る物はありません」
 素気無い返事が返って来た。何を好んでこんな山道に入りたがるのかと訝し(いぶか)気に、私の方を見るのであった。土地の人がそうは云っても、彼等には何の興味もない物でも、私から見れば素晴らしい光景であったりする場合がある。それは旧い民家だったり、素晴らしい景色だったりする。
 近在の人が何もないと云う山道に踏み込んで行った。殆ど人は通っていないほど道は荒れていた。山道は薮で蔽われ景色も望めない。僅かに薮が途切れた辺からは、今歩いて来た飛鳥の田園風景が陽を受け、輝く様(さま)が望めたに過ぎない。進むにつれ鬱蒼とした木立ちに囲まれた山道になり、昼尚暗い林の中に一軒の小屋が立っていた。仙人でも住んでいるのでは、と廃屋に恐る恐る近付いて行った。中で年寄りの男が作業中だった。訊くと、炭焼き小屋だそうだ。
 炭焼小屋から山道は降りになる。山を深く分け入ったように思えたが、暫くして山のへりの下方にバス道路が、木立ち越しに見えて来た。なんのことはない先刻、山道に入る前に歩いて来た道路である。山道を入らずに、そのまま道路を進めば平坦な道で楽だったのに・・・。一山越えて平坦な道路に戻って来たようなものだった。
 下方に集落が見えて来た。茅葺で切妻屋根をした民家が、川沿いの道路から少し奥まった処に立つ。いよいよ八釣部落に近付いて来た。旧い集落に胸がワクワクして来るのであった。山道を降りた処に川があった。小さな川の割に底が深く、岸は護岸され石組されていた。飛鳥川の支流のようだ。
 橋を渡り、川沿いの道を進む。山の中腹から見えた集落が突き当たりにその姿を現す。細い道を挟んで左手に其の茅葺の民家は立っていた。右側には、幾らか新しい土塀を廻らせた趣きのある家が並び、手前の空地には、石垣が聳り立つ。石垣には緑葉が生え、処々紅色に紅葉し風情がある。民家の庭からは紅葉した楓が立ち上がり、背後の穏やかな山並と共に集落の景観を引き立てゝいた。
 此処で描きはじめた。左手の石垣が遠近感を現すのに好い点景だ。右方は川の護岸に付けられたガードレールが道なりにカーブする。スケッチ中にも車が頻繁に通り過ぎ、物好きな私の立つ処で交通障害になるのかスピードを落とし走り抜けて行く。
 
 更に進み、左手に入る細い道の際に立った。左奥方の茅葺屋根の民家が現れたのである。余りに素晴らしい光景で、
 「ウワー素晴らしい空間だなあ」 
 思わず独語を吐く。角でスケッチを描き始めた。奥方の切妻屋根はかなり急傾斜な茅葺き屋根だ。棟押えの丸太が細やかな印象を与え、薄茶色の茅葺屋根と共に、瓦屋根の銀鼠色の鈍い色と好く響き合う。一段下がって、幾らか傾斜を緩くした瓦の切妻屋根がある。棟には明窓かそれとも煙出しのためか小屋根がのる。妻の端部には、軒瓦が木端立風に葺かれ、その細やかなラインが優しげである。
 妻部は漆喰で白く塗られている。大屋根の切妻屋根を取り囲むように、低い土庇のある壁の上部にも漆喰が塗られ、下部は板で竪張(たたばり)にされ、足元廻りには、自然石が一段積まれ基礎としてある。
 石積された基礎が、瓦の鈍い銀鼠色と好く響き合う。建物の角には薄茶色に柱が現れ、空間に緊張感を醸し出している。
 細道を挟んで左手には土蔵造り民家が立ち、妻側の真中に小窓が穿たれていた。細道は真直に入り込み袋小路になる手前で、右方にクランクし、家並の間に吸い込まれて行く。
 右手の家は新しそうだが、集落の空気に好く合い、連続的景観をなしている。云うまでもなく足元周りは石積され長く横に伸びる。細道を挟んだ手前角は、緑葉に包まれた広場だ。遮る物がないため旧い家並がよく見渡せ、枝葉が空間の好い点景としてあった。
 右手水路の流れで古老が野菜を洗っていた。描き終わって古老に話し掛けた。
 「茅葺屋根の家、随分立派な家ですね、昔は名主さんだったんでしょうね。この一帯は旧い家が多いんですか」
 老人は手を休め、
 「この辺の庄屋さんの家で、細道を右に折れて裏にもう一軒家があります。高取藩主が馬で村を訪れた時には、あの家の壁に馬の轡を(くつわ)掛けたと聞く。ほら・・・あの壁の下方に円い金物があるでしょう。それに掛けたらしいですよ」
 と老人は指差しながら言葉少なに話した。老人は再び、ジャブジャブと野菜に付着した泥を水の流れに流す作業に取り掛かった。
 壁に近付いて見ると、確かにぐらついて錆びついた円い金物が付いていた。江戸時代から、其処にあったのか。此処八釣部落では歴史が細い糸で繋がっているのを感ずるのであった。
 
 塀沿いの細道を右に折れ、足を進めた。塀が切れた処で一段と細い道が一筋左手に降って走る。先方には一段下がって田圃が開けている。左手には崩土塀が連なり、処々、下地の小舞が現れ、閑雅な趣きだ。塀内からは木立ちが優しい姿を覗かせ、既に落葉した柿木が枝のみを残し、橙色の柿実がたくさん点々と青空に浮かんで見えるのであった。
 柿の橙色の実は如何にも秋を感じさせ、冬へ向かう一刻の華やかさを現しているかのようにも見える。塀内の屋根が複雑に構成され、空間に流動的変化があり、いくら見ていても見飽きない光景だ。崩土塀の細道を挟んだ反対側には、新しい二階家が立つ。商家らしく―消火器・・・―の小さな看板が見えた。藍青色に澄み渡った、抜けるような秋空にそれらの空間要素が互いに響き合い、穏やかな日本的な光景である。
 崩土塀沿いを真直に進んだ。降り坂で、荒れた田圃が前方に拡がり集落の外縁を示している。空から見れば、集落は田圃に浮かぶ小島のようであろう。
 田圃に突き当たってしまったため引き返そうと思ったが、畔道が先方に続くのでは、と期待し先に進む。崩土塀の家を振り返った。畑に向いた塀と母屋の景観が素晴らしい。小さなスケッチブックに描くことにした。
 横に長く連なる塀上に母屋の壁がのり、屋根は平側が葺き降ったり、妻側を現したり変化ある構成がなされている。恰も音階の如く、それらがリズムをつくり出すのであった。
 田圃の緑で塀の下部は包まれ、塀を始めとした家並全体が、緑葉の海に浮かぶのである。母屋の背後には樹々が立ち上がり、母屋の鈍い色を放つ瓦屋根、左手の藍青色の空と相俟って、心地よい空間を現す。この景観は家としては裏側なのだが、裏側に拡がる田圃を見晴らしているかのような形であり、素晴らしい景観であった。
橘寺 明日香村集落
 
 
 小丘と田圃の縁を進む。田圃に生えた雑草が、昨晩の雨かそれとも夜露で濡れたのか、ビショビショで、僅かに進んだだけでズボンの裾は湿り気を帯びてきた。人が通った形跡もないため尚更である。湿気があって、蝮が出そうであり、注意して歩かねば水溜に落ちそうだ。
 歩くうちに踏跡が消えてしまった。それでも一面に繁った雑草を掻き分け、小丘沿いを進んだ。先方に家が見えるため、其方に進めば間違いないだろうと楽観して歩く。
 右斜め前方に風情のある家が見えてきた。手前には自動車が走り抜け道路があるのが分かる。其の家を眼指し、畔道をくねくね折れて行く。人家の塀脇にある畔道か、人家の導入路か判然としない小道を抜けやっと道路に出た。其処から僅かに進むと、遠方から望んだ風情のある家が眼前に現れた。
 其の家は今春、桜井から飛鳥へ歩いた際にスケッチした家だった。今春とは逆方向から此処にアプローチした。興味ある空間は、どのアングルからでも、人の眼を引き付けるものだ。
 偶然同じ処に出たことになる。三差路の角に据えられた石、その石に腰を下ろし畑の向こうに見える民家を描いたことも、記憶に鮮明に残っていた。此処から桜井市になる集落である。
 振り返って見れば、遥か彼方に畝傍山が薄紫色に霞み、一面に拡がる平坦な畑の中を白い輝きを放った一筋の道が、畝傍山に突き進んでいた。
 此処から歩いて橿原神宮駅に出るか、それともバスで駅へ行くか迷った。差し当たり大和三山を愛でながら歩いて進むのも風情があるだろう、と道路を畝傍山に向かって進んだが、道路では風情がない上に、落着かない。少し歩き、左手に拡がる田圃の畔道に足を踏み入れた。やはりコンクリートより柔かな土の感触の方が歩くには心地好い。
 どうせ歩くのなら車道より、田園風景の中の方が好い。畔道の中を深く踏み込んでゆく。正面に横たわるこんもりとした小丘が徐々に、其の姿を大きくし、眼前に迫って来た。
 畝傍山でなく、今度は眼前の小丘を眼指すことにした。畔道の右方にも長閑な田園風景が拡がる。東方天香久山は緑を織り混ぜた錦秋で、くすんだパステルカラーに彩られ、西方耳成山は薄紫色に霞む。東方、西方の中間地帯には田園が拡がり、遠方に小さく民家が緑葉を織り交ぜた紅葉の海に漂っている。前方には先刻の道路を車が走るのが豆粒のように見える。遠望しているだけで、疲れも引いて行くような穏やか風景だ。
 
 畔道を幾つか折れ、徐々にその姿を大きくした小丘の麓に向かった。広くなった畔道の一角にトタン板を屋根に差し掛け、四周を簡易に板囲いした野菜小屋が立ち、其処で老農夫が小屋から野菜を取り出し、洗っているのに出会(でくわ)した。
 「正面の山は何と云う山ですか」
 作業の手を休め農夫は親しげに、
 「あの山かね、甘樫丘(あまかしのおか)だよ」
 「あれが甘樫丘ですか、昔訪れた事がありましたが、今は頂上まで車で行け、公園風に整備されているらしいですね」
 「車は今では、進入禁止になっているよ」
 と農夫は煙草を喫いながら話した。
 「八釣の(やつり)旧い集落を訪ね、昔の名主さんの家を見て来ましたが、まだ結構、旧い家が残っていました」
 「あなた・・・八釣部落などよく知っているね、土地の人でないと知らない筈だが、昔は八釣には家は数件しかなかったんだ」
 かつて飛鳥を訪れた時には、もう少し茅葺の家があったように記憶している。
 「徐々に茅葺の家も少なくなって来た。今では民宿の家も増えて来た。専業農家では大した収入にならない。年金もそれほどの金額になる訳でなし、大変ですよ」
 農夫は煙草を喫いながら、甘樫丘に細めた眼を向け話した。農夫の子供は明日香村の役場に勤め、孫は竜谷大学を卒業し、今は橿原市の職員であると云っていた。竜谷大学卒業だと僧侶になる人が多いのではと思ったら、そうでもないらしい。
 「今は不景気で役所に勤められるなどは大変な事ですよ。お孫さんは優秀だったんですね」
 「法律が厳しくなり、自分の田圃にも家は造れない。線引きされて、子供の家を造る人でも駄目なんですよ」
 我々探索者としては、そのように規制が厳しい方が、何時迄も飛鳥の伝統的光景を眼にできてよいが、農家の人にとって見れば、農業をするしかなく、誰が金銭的補助をして呉れるかと思うのは当たり前だろう。法律で規制する場合は法律で補助するのも必要なのでは・・・。そんなことを眼前の甘樫丘を描きながら想う。農夫は八十二才で明日香村に勤める子供は、私と同じ歳で五十六才だそうだ。
 
 眼前に横たわる甘樫丘はただの小丘に見えるが、数多くの歴史のロマンを秘めて其処にある。樹々に包まれた甘樫丘の麓には、民家が軒を連らね、静かに佇む。民家が連なる処に道が一筋糸を引き、時々、探索者らしきグループが行き交うのが、豆粒のように望める。
 手前は稲穂に蔽われた田畑で、黄金色に実った稲を吊した光景が、晩秋の趣きを感じさせる。
 甘樫丘左方には明日香村の民家がぎっしりと、田畑の規制区域まで並ぶ。其の地域の人口密度は都会並に高いのでは、と思われるほど家が立て込んでいる。野菜小屋からのその光景は趣きがあり素晴らしい。殆ど旧い木造家屋であり、瓦屋根が平に葺き降り、連続的に連なる光景は、緑海に浮かぶオアシスのようだ。
 集落の手前は規制区域らしく、処々白茶けた土を顕し、稲穂に包まれていた。集落の背後には、薄紫色の優しい山並が穏やかに佇む。
 農夫と飛鳥について話しながら、素早く其の光景を描く。農夫と別れ、ひとまず甘樫丘を眼指そうと畔道を進んだ。程なく甘樫丘の麓に着いた。此の辺には至る処に古代遺跡がある。麓に木造平屋建の旧小学校があった。遠方から望んだ際に、この小学校は横に長く伸び、孰(いず)れ旧い公共施設ではと思っていた。
 旧小学校脇にも旧い石が剥き出た遺跡があった。小学校の校庭を通り抜け、飛鳥川に掛かる橋を渡る。甘樫丘に登る山道から、地元の若者が犬を連れ、降りて来る姿があった。
 登山道は甘樫丘の東側から巻いて登る山道らしい。甘樫丘に登りたかったが、時間的にゆっくりできそうもないため、他日ゆっくり探索する事にした。以前聴いた話では、甘樫丘は大層開発されたと云うことだった。
 併し眼前にある甘樫丘は、かつての面影を保持し、それ程開発されている様には見えない。少し進んだ丘北方は小公園になり、若干開発の手が入り込んでいる様子だった。
 なるべく閑静な住宅街を選び橿原神宮駅に向かった。左方土手の上方が広々とし、溜池がありそうな様子で空に開けていた。後日で地図で調べたところそこは和田池とあった。駅に近付くに連れ新興住宅街になって来た。
 左手高処に剣池があった。私が今歩いている道路は雑然とし風情がない。剣池も万葉の時代からの歴史のロマンを秘めた池ではあるが、周りはコンクリートで塗り固められ、池水も灰色に澱み、立ち寄る気分になれない。剣池南端には孝元天皇陵がこんもりとした林の中にある。住宅街の間道を進む内に、何時の間にか橿原神宮駅に着いた。
 近鉄京都線は車窓の景色を楽しむだけでも乗っていて心地好い。西方には畝傍山の遥か彼方に二上山の山稜が望め、其れに連なる金剛山、生駒山系は何時眺めても見飽きることがない。
 京都線は奈良盆地の真中を走る。東も西も薄ら(うっす)と山稜が連なる。夕方、山端は空に立ち籠める雲に消え入りそうで、黒々とその姿を現し、山端に真赤な太陽が沈んで行くのであった。周りの空は、赤から橙色そしてペインズグレーへと変化し、車窓には穏やかな夕空が、眼前に大きく拡がっていた。
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