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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




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個別指導塾の学習塾とは、基本的に生徒一人一人にあわせて教えるシステムである。形態としては先生一人に対して生徒三人までを教える・・・



有料自習室早稲研
自習室高田馬場界隈にはどことなく懐かしい田舎の空気が漂う。木とコンクリートが混在した近辺の街並には日本的な原風景の印象を憶える。


 
 
 
甘樫丘頂より 甘樫丘遠望
甘樫丘近傍 製材所 甘樫丘近傍 民家
大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

三 甘樫丘
 
 橿原神宮駅より、万葉の道を甘樫丘に(あまがしのおか)向かって歩いていった。一昨年以来、幾度か奈良を訪れたが、甘樫丘を遠望するのみで、今だに足を踏み入れていなかった。かって、奈良での探索では最も印象に残った地域のひとつであったのが・・・。感激を最後まで残しておいた積もりだ。
 駅前商店街を抜け五分程歩けば、道路沿いに木造家屋が立ち並ぶ風景になる。ポツンポツンと軽量鉄骨造の安普請な造りの事務所風な白い建物が幾つか立つ。歴史ある町でも駅前風景は似たり寄ったりで、何処の町でもこんなものである。
 前方に剣池の堤が見えて来た。剣池の北方沿いの道は雑然とした道路で歩く気になれない。 一面、草に蔽れた堤の斜面に一筋の糸を引いて伸びる踏跡を、懐かしい土の感触を求めて歩き、堤の頂に立った。
 剣池に接してある孝元天皇陵のこんもりとした林が柔かな陽を受け、青色から黄色に混じり合った色取どりの青葉、若葉を輝かせ、静かに佇む。天皇陵の背には、なだらかな丘陵が幾重にも重なり、山端に筋を長く引いている。山端の重なりのひとつが、これから訪ねようとする甘樫丘なのであろうか。
 早春の穏やかな陽光を受けた御陵の緑葉が、剣池の鏡のようにつるつるに光った水面に映る。水面に映った萌黄色の若葉は実体のそれより鮮かに見える。水面に映る透き通るような若葉に永い時間、眼を向けていた。緑葉の織り重なる暗緑の色合いが水面に深く深く溶け入って、自分自身が池に吸い込まれて行くような錯覚を憶えた。
 実像の姿より虚構の世界の方が、往時の面影を現しているのかも知れない。
 
 釣人が糸を垂れる脇を進む。剣池周辺の道路を歩くより緑葉に溶け込んだ御陵の中を抜けた方が気分がよさそうだ。御陵の石段を登って行った。数分で頂に着いたが、行き止まりで、先方には薮が繁りとても進めそうにない。遠方から眺めた時には、こんもりとして優しい姿の御陵であったが、一筋の道を林内に入れば、鬱蒼(うっそう)と木立ちが生い繁った自然林の相を現していた。
 止むを得ず住宅街の間道を行く。整然と区画された住宅街の背後に緑葉に包まれた丘陵が見えて来た。洗車中の男に甘樫丘への道を訊いた。
 「甘樫丘へは、剣池沿いの自動車道路に出ないと行けません。この道は突き当たりです」 自動車路に出なければ、甘樫丘には行けそうもない。教えられた方向へひとりでぶらぶら歩いて行った。途中、デイバックを背負った老夫婦に甘樫丘への道を訊かれたが、私も詳しくは分からない。暫く雑談しながら夫婦と一緒に歩く。
 夫婦は和田池の北側に出て甘樫丘に行きたいらしい。幾本目かの角、右方の道の突き当たりに畑地が拡がり、其方は遠方から見ても柵はありそうもなく、向こう側に抜けられそうだ。
 「抜けられますかね」
 主人が不安気に云った。私は偵察のため先に進んだ。道の突き当たりには畑道が先に伸び、先方に抜けられそうだ。
 「大丈夫ですよ、道がありますよ」
 私は手を上げ夫婦を呼んだ。三人で土が顕れ(あらわ)た畑道を歩く。畑はこんもりと地面がふくらみ小さな丘陵になっている。先方に家庭菜園に汗を流す男がいた。男の所有する畑ではないか、先に進むのを制止されるのではと危惧するが、取り越し苦労だった。
 「この道は甘樫丘に抜けられますか」
 男は作業の手を休め、
 「行けますよ。左手に行けば和田池の畔を通り、豊浦寺跡の前を抜けて行けば、甘樫丘の登山口がありますよ」
 夫婦はよかったと云った表情で「お先に・・・」と軽く手を上げ、和田池の方向に進んで行った。
 「右手からは甘樫丘に行けませんか」
 右手の方が田園風景が深く連なり、途々、驚くような光景がありそうな予感がした。確かに一筋の細い道が竹薮に伸び、その中に溶け込んで行くのが見渡せる。
 「右方から甘樫丘に行けん事もないが、相当に遠廻りになります。明日香村の方から廻り込んで甘樫丘に登るようになりますよ。同じような風景で、途中には見る物はありませんよ」
 
 近在の人がそう云っても、私の眼から見ると面白そうなものがありそうだ。少し佇み左右どちらにするか思案する。
 この畑のある丘は長閑でいい。眼前には牛が寝そべったような形で、甘樫丘が横たわり、前方の竹薮の葉の戦(そよ)ぎが幽かに風にのって聴こえて来そうである。それ程高い丘陵ではないが、見晴らしはよい。
 結局、私も左手に折れ、和田池の畔を行くことにした。和田池の周りはよく整備された遊歩道である。左手には旧い民家が立つ。
 其の民家は塀から直に建物が道なりに沿って立つ。外壁に張られた僅かに焼かれた杉板が、黒ずんでいて風格がある。道に沿って外壁が立ち上がるとすれば、庇部分は道路に食み出る事になる。建築基準法では、道路に建築物を飛び出して造ってはいけないことになっているが、法律との絡みは何うなっているのだろうか。つい余計な知識が出てしまった。開かれた長屋門から中を覗いた。道路沿いの建物は居室なのか倉庫なのか。多分、一階は一部倉庫として使われ、二階は居室になっているのだろう。相当に大きな家であることは確かだ。
 和田池を廻り込んだ辺で描いている間に、前方から犬を連れた男が歩いて来た。軽く会釈すると、男は近付いてきて、
 「左手は雷丘、手前の竹薮の向こうに甘樫丘が横に長く連なっています」
 と説明して呉れた。男は今井町の出身で、数年前に和田池近くの大和団地を買って橿原市に引っ越してきたという。今井町にはまだ家があるそうで、男は今井町の人間模様にも詳しい。
 「I家は二号さんの子、正妻の子は大阪に出ている。T家は・・・、いやあれは正妻の子やった。―大和の金は今井に七分―と云われた程今井町にはお金があった。昔は今井町の檀那衆に殿様が金を借りに来たそうだ。家の外では皆、殿様に土下座していたが、殿様は家に入ると、家の主にペコペコしやはっていた。S銀行、D銀行も今井から金が出ていた」
 と一流都市銀行の名前を上げた。男は今井町街並保存で家屋の増改築の規制が厳しく、
 「どうもならへん」
 と云い、そんな訳で、橿原市に引っ越して来たという。スケッチの色付けをし始めると、何時の間にか男は立ち去って行った。
 
 まずは万葉の歌にも詠まれた雷丘の(いかずちのか)空気に触れようと、旧い集落に入って行った。途中にあった豊浦寺跡には、現在は向原寺が立ち、門前の立札には、境内から推古時代の遺跡が発掘された旨の事が書かれてあった。
 現在では近辺の静かな佇から、豊浦寺、豊浦の宮全盛の時代を想い浮かべるのみだ。向原寺脇に忠魂碑、稲荷神社の祠があり、その一角の通りに風情ある家があった。
 石垣の上に重厚な土塀が連なり、邸内からは新緑の若葉が覗く。若葉越しにL形に白壁の家が立つ。如何にも年代を感じさせる家で、思わずスケッチブックを開いた。
 こんもりとした雷丘に向かった。旧い民家を眺めている内に飛鳥川沿いの道に出た。対岸に眺められる丘、それ程高くもない小さな林が雷丘だ。飛鳥川とは名前からして閑寂な趣きのある川の印象だが、眼前に流れる飛鳥川は、セメントで固められた垂直の護岸を持ち、道との境にはガードレールが横に長く伸びたごく普通の川である。
 飛鳥川に対し持つイメージとしては、細い流れを挟んで、草が生えた土手が、緩く登り、処々に遺跡の岩石が顔を出し、川原では近在の子供達がころげ廻って遊ぶ姿があった。其んなイメージの姿を、眼前に流れる飛鳥川に重ね合わせた。
 下流の方に差し掛かる橋で、対岸に渡ろうと川沿いを進んだ。左方に何気なく眼をやった。其処には小さな製材所があった。子供の日の祝日であるのに、作業所内に働く姿が見えた。手拭いで姉さん被りにし、メガネをかけた奥さんが、箒を持って手伝い、主人は原木の丸太を小さな製材機にかけ、長手方向に原木を小さく引き割っていた。
 休日に働く姿は、私が子供の頃は何処でも見慣れた町の風景だった。日本人は働き蜂で・・・。とか云われ、休日に働く事が、恰も悪事をしているような風潮になってしまった。労働が生活の一部であれば指弾される理由などはないと思うのだが・・・。道端から中を覗いていた。無言で見ているのも失礼かと思い、
 「製材するのを見るのは始めてですが、変わった製材機がありますね」
 「建具材の木取りをしとるところだが、柾目で取らねばならないので、次から次に切る訳にはゆかない」
 主人は作業の手を休めて云った。奥さんは箒で、引き割った材の切断面に付着した大鋸屑(おがくず)を払ったりして、助手を努めている。狭い製材所内の作業スペースは、歩けるほどの空間があいてるだけで、既に引き割った材木が横積みにされたり、立て掛けてあったりする。製材所としては、かなり小さい方だ。主に建具材を引き割っているらしい。私が建築設計事務所を経営している事を話すと、
 「おい、設計屋さんだってさ、設計の方は景気はどうですか。うちはさっぱりですわ」
 「設計もよくないですよ。私の仲間も皆暇ですよ。先日北山杉の里に行きましたが、絞丸太の値段は安くなり、い時の値段を知っている者にとっては、最近はさっぱりですわと云ってましたよ。何処も大変ですね」
 「吉野杉の絞丸太は五千円からあります。職人が絞丸太の番線を巻くのに、一日五六本しかできないらしいですよ。人件費を考えれば五千円ではただみたいなもんですよ」
 主人は材木の値段の値崩れを嘆いていた。製材の仕方が面白く暫く作業を見ながら話す。
 二本のレールの上を切断機を備えたトロッコが動く。挟み金物で原木をガッチリ押え、固定された原木を墨付けに沿って鋸が、主人の操作により動き出し切断されるのである。
 原木を柾目に木取りするのが難しいらしく、木口に黒いチョークで墨付けする。原木から柾の材料をとるにはこうするのかと、意外なところで勉強になった。息子さんは後を継がないのか、と訊いた。
 「息子は外で働いています。息子と家内三人で働くほど仕事量はないですよ」
 主人は気取らない顔で話した。
 「今では製材機が自動化されて、ひとりで作業できる機械がありますよ。ひとりで、出来てしまいますわ」
 
 脇では奥さんが、原木を切った切り口面に付着した大鋸屑の粉を箒で払いのけていた。
 私も子供の頃、親の手伝で、製材機で角材を引き割る際に、父親の相の手になり、流れて来る材木を曲がらぬように慎重に手前に引っ張る作業をしたことがあった。
 高校一年の秋の旅行だったと思うが、長野の善光寺に旅した時、土産物店が立ち並ぶ石畳の参道を団体で進んで行った。参道の途々、土産物店に挟まれ、建具屋さんが参道の賑わいとは場違いに一軒あった。
 参道に開かれたガラス戸の中を覗いた時、狭く薄暗い作業場で、まだ中学一年生位の少女が、父親の相の手となり、製材機から流れて来る材木を曲がらぬように、手で押え引っぱっている姿が突然、眼に入った。団体で歩いていたので立ち止まる訳にはゆかない。振り返り少女の姿を追った丈で、一瞬間の出来事であった。
 その時の少女は真剣な表情であったのが今でも判然と憶えている。私のように親に不満を云うような様子ではなかった。涼しげな眼元をした賢そうな少女だった。今でもふっと思い出し、何んな人になっているか思い起こす事がある。
 其んな事が頭を過(よぎ)り、夫婦の作業を見ていた。里道で職人の仕事風景を見るのは、その土地の文化に触れられて面白く、飾らない土地の人と話が出来るのもい
 余り長居をしては作業の邪魔になるのではと思い、雷丘に向かおうと歩きかけた。
 「雷丘は左右ふたつある。雷が落ちてふたつに別れたという伝説ですよ、近くに行っても何もありませんよ。上に登れたかどうかは分からんが、丘一帯は薮になってます。麓に立札があるだけですよ」
 主人がそう教えて呉れたので、遠望するに止める。それでもせめてスケッチでもと思い、裏手の材木が立て掛けてある路地から、雷丘を描き始めた。
 対岸の飛鳥川沿いは道路ではなく遊歩道になり、人が歩くだけで車は通れない。私の想う飛鳥川のイメージに近い。ふたつの雷丘の間には、家が割って入り込み、左方の雷丘は民家の屋根越しに僅かに木立ちを覗かせるのみである。
 右方の雷丘はこんもりと小さな小丘を為しているが、雷丘なる厳めしい名が付いていなければ、ただの小高い森ではと見過ごしてしまいそうだ。
 
 甘樫丘の山裾にカーブを描いて伸びる丘への道を登山口に進む。進むに連れ自転車での探索者が眼に付く。丘への道に入る手前に拡がる広場には、レンタサイクルが沢山置かれ、処々、ベンチに座り昼食中のグループが幾組かいた。広場は探索者の動線をよく考え計画されていたが、少々人工的過ぎるのでは・・・。
 巾広の登山道を登って行った。路面は三和土(たたき)に荒目の砂を顕し、茶色に仕上げられてある。現代風―あられこぼしの道―と云った具合であろうか。
 私と相前後して幾人かが登る。行き交う人も、若いカップル、親子連れ、老夫婦とバラエティーに富む。
 道の両脇に立つ樹木はよく刈り込まれているため歩く道は明るく、木立ちの葉擦れに眼下に拡がる大和平野が見渡せる。
 甘樫丘は歴史のロマンを秘め、飛鳥の地に佇んでいるだろうと、淡い期待を抱いていた。丘頂の小公園へ導かれるアプローチ路としての機能が目立つ道だ。
 心地好く歩けるが、木立ち越しに、明るく輝いた大和平野が望める機能的道だ。巾広く、この位の傾斜であれば自動車でも登れそうだ。以前、明日香村を探索している時、甘樫丘について、丘頂まで車道が出来、昔の風情は失われてしまった、と嘆いていた人がいたが、将にその通りの空間に変質した姿である。
 これが、国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区に指定された歴史空間なのか。
 丘頂はそれに至る道より更に明るく見晴らしがよい。頂は横に長く伸び、耳成山、畝傍山、天香久山の大和三山が遠望できる。頂の端部は広場状に拡がり、処々で皆さん昼食中であった。
 
 三十数年前、友人と二人で奈良の寺や街並をスケッチをして歩いた。その際、大和三山が一望に出来る丘があると云う話を聞き、甘樫丘に登ったことがあった。その時は確か明日香村の方から登ったのではないかと記憶している。
 その時は夏の盛りの暑い時で、汗をかきかき、登山道の両側から自生した樹木の枝葉が被さり、日中と云うのに夕方のように薄暗くなった、細い山道を登った。道の両脇から枝葉が差し掛かるといった閑寂さでなく、頭上に蔽い被さる印象であった。時には枝葉で道が塞がり、枝を避(よ)けて登った。
 丘と云うから数分で頂だろうと、若さにまかせ、一気に登ろうとしたため中腹で疲れ、
 「お、まだ頂上に出ないのか、随分あるなあ」
 などと話しながら登った。そんな時、何処からともなく、
 「勝って嬉しい花一文目、リエちゃんがほしい・・。」
 昔懐かしい歌声、李(すもも)のような可憐な歌声が、風の騒(ざわ)めきと共に流れて来た。甘樫丘の麓から流れる歌声にしては、よく聴こえるが・・・。
 ところが頂に近付くに連れ、その声は一段と高くなった。間違いなく頂から風に流れて来ていた。
 山道を歩いている時には、樹木が鬱蒼と生繁っていたため、とても眺望云々する印象ではなかった。処々、生繁った樹木の切れ間から、瞬間大和平野が流れるのみであった。
 頂に着いた我々は、タイムスリップした錯覚を憶え、一瞬茫然とその場に佇立(ちょりつ)したのだった。
頂の道が幾らかふくらんだ広場で、まだ小学校に行くかどうかの年端も行かぬ幼児六人が、手を繋ぎ、横並びになって、前に進んだり、背に下がったり、元気のいい澄んだ声で、
 「勝って嬉しい花一文目、サトシちゃんがほしい・・・」
 花一文目をして遊んでいたのである。標高一四八メートルの小高い丘とは云え、その光景に荘厳な浄土世界を垣間見たような印象だった。
 甘樫丘の麓の下界とは、鬱蒼と樹木の生繁った道を結界として空間的に異質の空間が漂い、神々しい宗教性さえも感じたのだった。
 子供達は我々が今登って来た枝葉で塞がれた山道を登って来たに違いない。遊ぶだけなら丘の麓で充分な筈だ。わざわざ丘頂に登り―花一文目―をして遊ぶ。固定観念に凝り固まってしまった我々にとって、其れは新鮮であり驚きであった。
 我々が、子供達の脇を通っても意に介せず―花一文目―に夢中であった。今でも時々思い出す懐かしい光景である。
 
 甘樫丘には其んな印象があった。現在の丘は平均的で、底抜けに明るく、何の疑問も悩みもなく全ての人に開かれた空間である。
 そう云えば、先刻登って来た道の両脇に立つ樹木が、やけに細く、すらっと伸びていた。巾広い道を付けるために、曲々した以前からの樹木は伐採して、癖のない真直な木を植えたのだろうか。癖があろうが無かろうが、あるがままの姿を現し飾らぬ自然を遺せぬものか。平等であるのがよい事だとした、現代の平均的風潮が、こんなところにも現れているのか。少々、擦(ず)れて曲がった人間でも、受け容れる広い度量があってもよいのでは・・・。
 
 学生時代の経験が余りにも強烈な印象だったため、現在の甘樫丘と比べ、其の落差の深さに衝撃を受けたのである。
 山頂で大和三山が同時に見渡せる構図を捜す。昼食中の家族連れが座る石のベンチの前で、スケッチブックを地面に置き、絵筆を一気に走らす。描き過ぎて色がゴテゴテしてしまった。そうすると、更に手を加えてしまい、ますます色が濁ってくる。
 左手畝傍山の山裾の緑が横に長く伸び、住宅街を介して耳成山の隆起に連なる。右方には天香久山が横に長く伸び桜井方面の山稜に連なる。畝傍山の左手には二上山の雄岳、雌岳が霞んでいる。畝傍山と耳成山との間には、薄紫色をしたなだらかな丘陵が棚引き、大和平野の穏やかな風景が拡がる。耳成山の手前には、一際鮮かに一筋の緑が現れるが、飛鳥川の流れであろうか。
 描く間に背で男が話し掛けて来た。
 「私も写真を撮るが、今度は絵を描いてみようか。花の写真を撮るうちに、写真の虜になってしまい、絵を描くのは遠ざかってしまった」
 「畝傍山の向こうの煙突のある辺が高田市・・・」
 と色々、眼前に拡がる景色の説明をして呉れる。男は自転車で桜井市から来たという。自転車で彼方此方行っているらしい。その割には、飛鳥の歴史的事実については詳しくなかった。
其の内に、石のベンチに座り、溜池や吉野の話や甘樫丘の事などについて話す。
 男は甘樫丘の頂まで自転車で来ていると云う。暫く男と話した後、長く伸びた丘頂を飛鳥方面に足を向けた。男は自転車を引き、途々話しながら林の中を歩いて行った。
 何処が飛鳥駅方面に抜ける道か分からないが、林の中の閑静な道を歩く。登って来た道とは打って変わり殆ど探索者は通らない。併し両脇の林はよく手入れされ、明るい陽差しが林内に差し込んでいた。
 近道のように思える踏跡を辿り進むが、暫くして踏跡は消えてしまった。構わず薮漕(やぶこ)ぎして進み、人家の裏庭に出た。下方にアスファルト道路が白く輝き、橋の向こうには、レンタサイクルのグループが数組いた。一度、幹線道路に出、再び、余り人が通らない民家の間道を進んだ。幾つか角を折れて進み、登り坂の角の風情のある家の前に出た。
 結構高い石垣の上に塀が築かれ、塀の下半分には板が竪に打ちつけられ、上部は塗壁になっていた。道なりに塀も屈曲するのが自然でい。塀内からは新緑の若葉が差し伸べられ、石垣の処々に生えた草花やつつじのピンク色の花と共に、空間に彩を添えている。何気ない風景だが心和む光景だ。
 
 薮の中を潜り抜けたり、間道を縫(ぬ)って歩くうちに、自分が今何処にいるのか見当がつかなくなった。日向は暑い程だ。まあ気の向く儘進めば風情ある街並に出会うだろう。彼方に拡がる田園風景の方から颯爽と自転車に乗って来るカップルがあった。彼等の話によれば、先方の田園風景の中には橘寺があるらしい。橘寺には昨秋訪れたので予定通り高松塚古墳を眼指すことにした。
 幾つか角を折れ、橋を渡って国道に出た。春とは云え、アスファルト道路の照り返しに、汗ばむ程である。右手のこんもりと樹木に蔽われた小丘に天武・持統天皇陵が見えた。かなり開放的な田園風景の中の小丘であるため御陵は目立つ。丘の頂にある御陵まで長く石段が伸び、探索者が行列を為して登る姿が蟻の群れのように見える。
 通常であれば天皇陵には見向きもしない探索者が多い中で天武、持統天皇陵だけは例外だ。
 この御陵は合葬陵である。天武天皇死後、天皇の皇后が皇位を継ぎ、持統天皇となった。夫婦で天皇であった訳である。鎌倉時代に盗掘された時の調査資料によれば、天武天皇は朱塗りの棺に納められ、火葬された持統天皇の骨は、銀箱に納骨され、更に金銅の容器に納められていたという。持統天皇は始めて火葬されて埋葬された天皇であった。
 
明日香村 明日香村集落
 
 
 遠方の道路沿いで御陵を描く人がいた。京都芸術短期大学の二回生で日本画の課題で、その下絵を描いているそうだ。天武天皇陵を中心にした田園風景を、克明に色鉛筆で描いていた。既に三日通って来ているらしい。毎日、同じ処で天武天皇陵を描いていると云っていた。
 私も学生の隣で描き始めた。学生は課題の締切が迫っているらしく、言葉数も少なく、一心不乱に描いていた。私も描き始めたのはよいのだが、色をゴテゴテ塗り過ぎてくどくなり、鮮かな緑にならず悪い出来具合であった。
 水彩画は何度も色を重ねない方がよい。何度も重ねたりすれば、色の鮮かさが消され、濁ってしまうのである。画面の白が透けて見える位の方がよい。
 間道を高松塚古墳に向かう。山越えして近道することにした。丸太を横に架け渡し、進入禁止のサインを示した山林への入口があった。
 丸太脇の隙間から山道に足を踏み入れる。直に山道は林に囲まれた広場に出た。作業用の広場らしく、車が方向転換できる程の広さがある。広場の片方は竹薮になり、筍が顔を出すのが処々に見える。
 筍の栽培のための山なのか。丸太で通せんぼしてあったのは、山主が筍を抜き取られないように据えたのでは・・・。
 飛鳥の探索ルートから外れた山であるからか、余所者が来る気配は全く感じられない。薮の中でひとり場違いに立ち尽くす。飛鳥に拡がる田園風景を期待して這入り込んだのだが、林に囲まれて広場は薄暗く、外に拡がる景色など期待すべくもない。
 広場の隅に立つ大木に寄り掛かり休む。何故に私が、今此処にいるのか不思議な気持だ。時々、何処からともなく鴉の鳴声が、風に流れて来、薄気味悪い。
 来た道に戻ろうとしたが、山裾を走る車道を歩かねばならないと思えば、それも風情がない。竹薮の中に抜ける道はないかどうか覗いてみた。足下を左手に伸びる踏跡が、幽かに枯葉に埋もれかかっていた。
 広場より僅かに下がった踏跡伝いに、竹薮を進むが、少し歩いた丈で、踏跡は消えてしまった、先方は人も通った形跡もない竹薮だ。
 山の斜面の道なき道を薮漕ぎして行った。枯れた笹の上に不注意に足をのせたりすれば、ずるずると足を滑らせ、咄嗟にささくれだった立木を掴んだりして、危うく擦傷を受ける羽目に落ち入ってしまう。それでも、どうやら薮の中での彷徨(ほうこう)は終わった。
 薮を出た処は丁度、飛鳥歴史公園館前の駐車場であった。其処は明るく、観光客が大勢行き交い、つい先刻まで、薄暗い竹薮の中に、ひとりでいたのが嘘のような賑わいである。
 この辺は、国営飛鳥歴史公園高松塚周辺地区に指定されている。甘樫地区から、時には林の中を薮漕ぎして来た訳で、時間と空間の落差に眩暈を憶えた。
 まずは高松塚古墳へと丘陵に付けられた散策路を行く。国営歴史公園だけによく整備されている。道は甘樫丘と似た印象である。高松塚古墳には始めて訪れた。整備される前の高松塚周辺の情景は知らないため、甘樫丘で感じたような落差はなく、明るい散策路を気持好く歩く。
 丘陵地帯の散策路に面し古墳があったが、保存のために石槨(せっかく)には土が被せられ土盛された処からヒョロヒョロとした細木が立ち上がる丈である。立札に中尾山古墳と掲げられてあった。
 古墳の形より、古墳がある風景、見えない歴史をその姿から想い浮かべる方がロマンがあってい。丘陵の尾根伝いに明るい木立ちの中を散策する。自然に散策路は高松塚古墳へと導かれる。探索者が行き交う姿が多いため、高松塚古墳であると分かる。
 小山に盛り上がった古墳は竹林になっていたが、高松塚古墳と云われなければ、通り過ぎてしまいそうな、ごくありふれた普通の小山である。
 石段を降り、その先の緩い降り坂を進んで正面に出た。小山の古墳には、上下二箇所鉄扉が付けられ、風情は感じられない。下方の鉄扉は石槨への入口であり、上部のそれは、石槨内を空気調和するための設備機器が据えられてある機械室への扉だそうだ。
 発掘してしまった以上、機械設備で、石槨内部の彩色壁画の保存を計らねばならないのだろうが、これから以後数千年、人工環境で保存できるのか不安だ。理論上は大丈夫なのだろうが・・・。
 理論では大丈夫だったが、現実には惨めな結末をもたらした山陽新幹線トンネルのコンクリートの剥落事故や、阪神大震災の建物倒壊の例がある。
 七八世紀の古墳という話だが、何のような根拠で此処に貴人の古墳が築かれたのか不思議だ。根拠のひとつには、藤原京、朱雀大路を南に伸ばした南北の軸線上に、幾つかの古墳が並んでいる事実がある。其の南北の軸線上に、天武、持統天皇陵、中尾山古墳、高松塚古墳、キトラ古墳がある。
 軸線上に古墳を築く根拠は何か。古代人でもなんらかの根拠を見つけ、埋葬地を捜すのでなければ、総花的になり過ぎ、決め手を欠くことになったであろう。ひとつの法則のもとに立地を決定すれば、説明がつき易く根拠がでてくるのである。
 
 建築設計においても、我々は常にその形にする根拠というか、そうしなければならぬ裏付けを考える。根拠の最も強力なものは法律である。法律には絶対に違反する訳にはいかない。更にそれは自然だったり予算だったりする。適切な根拠を捜し、説明のつくデザインをする作業を毎日している訳である。
 広い田園風景の中で、古墳の立地を捜すには、よほどの決断力が必要とされたであろう。  高松塚古墳脇の尾根から眺める飛鳥の風景は、穏やかで心和む光景である。なだらかな山並が若葉を持って横に長く伸び、折り重なる山端が丘陵の麓では入り乱れ、ひとつの山裾となって山麓の民家に溶け込む。緑葉に包まれた山裾は田園風景と混じり合い、処々に大地の茶褐色の肌を剥き出している。菜花畑が萌黄色に一筋の線を描き、手前には柿の木だろうか新緑の瑞々しい若葉が手に取るように眼前にある。
 遥か彼方に薄紫色に霞み、空に溶け込んだ山端は、談山神社が祀られている多武峰だろうか。其の左手山麓には聖林寺がある筈である。風土記の丘に相応しい素晴らしい眺めだ。
 私がこの素晴らしい光景を描いている脇で、五才位の女児がかなり長い間、熱心に眺めていた。上手だからみていたのか、変なおっさんを見ていたのか・・・。
 先方の道の脇でも、日本画の下絵だろうか、小椅子に腰掛け熱心に描く人の姿があった。
 高松塚古墳脇に、目立たぬように土に埋もれ、正面だけが広場に開かれ、高松塚壁画館がある。薄暗い壁画館には、彩色壁画の復元模写が展示されている。
 発見当初の色を忠実に復元したもので、剥落したり、掠(かす)れた部分もその通りに描かれ、相当に根気のいる作業だったのでは・・・。
 北壁は玄武、東壁は青龍、西壁は白虎、南壁は盗掘口のため残っていないが、中国思想に基づく四神から、朱雀と思われる。各壁に囲まれた石槨は、巾約一メートル、長さ約二・六メートルの広さである。中央に巾六〇センチメートルの棺が安置されていたと推定される。
 盗掘口の南壁の破片はどうしたのか古墳近くに打ち捨てられてあったのか。安置されてあった棺と骨はどうしたのだろうか。盗掘者が他の宝物と共に持ち去ってしまったのか。其んな素朴な疑問を抱きながら、各壁に鮮かに復元された壁画を見て歩いた。
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