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4  山の辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田 おすすめサイト
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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
長岳寺本堂 長岳寺鐘楼門
景行天皇陵 衾田集落
大和路インデックス  
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一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
四  山の辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
   
 昨年夏、山の辺の道を大神神社から巻向(まきむく)まで歩いた。山の辺の道から眺めた大和盆地の景色が瞼に(まぶた)焼き付いていた。その続きをJR桜井線巻向駅からスタートしようと、桜井線に乗ったのである。
 昨年巻向駅手前の丘陵側に、田圃の畔道沿いに長く土塀を廻らせた風情のある民家は、眼を凝らせて車窓を眺めていたのだが、見つけられなかった。
 風情のある民家を捜し求める気持が強く、一瞬間、幻想の世界に踏み込んでしまったのだろうか。頂に瓦をのせ、長く伸びた土塀が田圃から立ち上がり、土塀の左方には土蔵が楼閣の如く立ち、土塀の向こうからは涼し気に緑葉が覗いていた。暑い盛りの七月下旬の光景であったのだが・・・。
 巻向駅で下車、商店が立ち並んだ、車が擦れ違うのがやっとといった狭い旧道を、右に折れ山の辺の道へ入って行った。暫く蜜柑(みかん)畑が一面に拡がる中を進む。遠方にこんもりとふくらんだ小丘が見えて来た。遠方からでも、瑞々しい若葉に包まれているのが分かる。小丘を蔽う縁の裾には濠が切られている.景行天皇陵である。陽を浴び、萌黄(もえぎ)色に輝いた若葉が風に戦(そよ)ぎ、幽かな若葉の騒(ざわ)めきが聴こえて来そうだ。
 遥か彼方の田園風景に、山の辺の道が自然の起伏に合わせ、なだらかな筋を伸ばしている。草木の透間に人の歩く姿が二つ三つ豆粒の如く見える。地面の起伏が複雑に重なり合い、襞(ひだ)となって幾筋も横に線を描き、中腹近くまで段々は続いていた。それが、濃緑な林と混在し徐々に、自然の林になって深い緑葉に包まれ、山端に溶け込んでいった。
 広々とした田園風景の中で、豆粒が昆虫のように動くので、それが探索者であると分かる。そうでなければ豆粒は風に靡く自然の一要素にしか見えないであろう。朝の陽光を浴び大自然に抱かれた印象で、気持がゆったりとするのであった。
 景行天皇陵を包む樹々は撫の林である。山の辺の道のメインの道を外れ天皇陵への道を降って行った。先方から男が一人、畔道のような道を上って来た。男が来る道を私は進んだ。左方に天皇陵の鳥居が見え、道は其方に地形なりに曲がって伸びていた。
 鳥居側の広場に近付くに連れ、巻向駅から歩き始めた時に横断した自動車道路が見えて来た。自然の中を地形なりに伸びた山の辺の道を大廻りして、直線的に走る道路に出たことになる。
 道理で、探索者は此方には来ない筈だ。只、山の辺の道から、若干外れているだけの理由だけではない。穏やかな道を歩いて、道路などに出会す(でくわ)と、がっかりした気分になる。
 併し折角、景行天皇陵の正面に出て来たので、スケッチを一枚描くことにした。描き終わって、直に御陵の濠の周りに築かれ、下草の生えた堤を(つつみ)、遥か彼方に横筋を引いた山の辺の道に向かって歩き始めた。
 遠方には山並が控え、南北に山端を連ねる。近くには大地の襞(ひだ)が自然の皺(しわ)となって幾筋もの線を描き、一際太い皺(しわ)には何人もの探索者が動くのが見える。山の辺の道にこれほど多くの人が歩いているとは・・・。昨年大神神社から巻向まで歩いた時には、私一人だけであった。
 
 此んな道をさしたる目的もなく、只管、歩くのが昔から好きだった。東京方面では、山の辺の道のように土地に起伏はなく、平坦であったが、背が伸びた麦畑に入って、体半分程が隠れた処で、稲穂の波が風に戦ぎ、きらきら輝くのを眼にし、穏やかな気持になったのを今でも憶えている。
 其んな光景も今では少なくなり、コンビニとか郊外レストランなどが目立つようになってきた。最近では、それも一つの文化になのではと思うようになった。時代なりに変化する文化の大きな流れは、それらの一瞬の点の集積を合わせて流れているのではと考える。
 そうは云っても、山の辺の道と、コンビニや郊外レストランがひしめき合う東京が、同じ日本であり、住む人間は同じ文化圏(けん)の日本人であると云う事実が不思議に思える。
 
 堤には踏跡があるため山の辺の道に突き当たると思われるが、来た道を戻らなければならないのでは、一抹(まつ)の不安が頭を過(よぎ)った。堤の左手は御陵の撫林で、右方は下がって畑が広がり、遥か彼方で山に這い上がる丘陵に連なる。
 堤の上を歩くのは、見晴らしがよく気持がいゝ。今は蒲公英(たんぽぽ)の花の盛りであり、何とも長閑で穏やかな風景だ。本道から外れ、探索者の姿もなく一人だけなので尚更よい。
 幾らか堤は右方に弧を描き、先方には行止りのサインを示すコンクリート製の巾一メートル程の柵があった。柵の右手には蜜柑畑が拡がり、柵の僅か右下に付けられた踏跡を歩き少し堤を上って、山の辺の道に出た。
 再び山の辺の道に出たのはよかったが、今までのように一人だけの探索とは打って変わり、山の辺の道には、デイバックを背負った年配のグループが次から次に通り過ぎて行く。中には親子連れや若いカップルの姿もあったが、殆どは年配者のグループであった。
 道沿いには簡単に屋根を差し掛けた無人野菜小屋が幾つかあった。早春とは云え、陽を浴びて歩いているため喉が渇(かわ)く、空缶を利用した金入れに百円玉を入れ、オレンジを買い込んだ。途々、歩きながらオレンジの皮を剥(む)き口に抛(ほう)り込む。瑞々しい甘さが口一杯に拡がり、疲れを癒(いや)して呉れた。
 行き交う人達は健康的に見える。年配者が多いと思っていたが、休日のせいか夫婦連れも結構多く、若い夫婦の子連れや若者もわりと多く、山の辺の道の長閑な風景を愉しんでいた。 探索者は只管(ひたすら)山の辺の道を歩く、コースを外れて歩く人は少ない。この辺一帯が山の辺の道だと思うのだが・・・。水車小屋跡の家もあったりしのんびりした気分だ。道は処々で上がったり下がったりしているが、殆ど平坦な道だ。
 
 左方に崇神(すじん)天皇陵が?(ぶな)の林に包まれて現れてきた。一帯は公園になりよく整備されていた。御陵は円く濠に囲まれた落着いた佇である。瑞々しい萌黄色の若葉に包まれた御陵の遥か彼方には、大和平野が小ぢんまりと望め、箱庭のような光景だ。
 右方にも濠があり、櫛山(くしやま)古墳の小丘に入る道があった。丘の上方で若者のグループが大声を発していた。、俗化された印象を受け足を入れようとしたが躊躇し、先に進むことにした。
 崇神天皇陵の東方を廻り北方に出た。道が降っていたため、降った分だけ御陵の濠の堤は高くなる。濠を囲む高い堤では、昼食を摂る人が大勢いた。高い土手からの眺望は素晴らしい光景である。
 西北方面には大和盆地が霞み、南西方面には、二上山の雌岳・雄岳の二瘤(こぶ)の山稜が大和盆地の向こうに棚引いていた。
 堤に僅か許りの葉を付けた数本の樹木が立つ。樹陰を求めその下で、昼食中のグループが幾組かいた。高台の堤で、遥か彼方に大和盆地を眺めながらの弁当はさぞかし旨い事であろう。堤には途中から階段が付けられ登れる。新緑で堤を包む草も瑞々しく輝き、踏みつけるのが躊躇(ためら)われる程だ。処々、蒲公英(たんぽぽ)の橙色の花が可憐に咲き匂い、鮮かで眼を和ませて呉れる。
 少し休憩してゆこうと思ったが、数少ない樹陰は、既に専有されてしまっていたため先に進むことにした。
 道路を挟んで右手に駐車場、公営の休憩所らしき新しい建物がある。この辺の中心的な観光スポットらしく、近辺には数多くの探索者が歩いている。吸い寄せられるように休憩所へ進んだ。左方には長岳寺の山門が立つ。
 休憩所には大勢の人が昼食中で空いた席はない。奥行が深い窓の膳板に腰を下ろし昼食を摂る人もいる。私も片隅の窓の膳板に座り弁当を拡げることにした。此処で食べる位なら、先刻の御陵の堤の方がよかったのでは・・・。
 休憩所には、古墳で発掘された土器などが展示されてあり、観光案内所では職員が来館者に親切に山の辺の道の説明をしていた。この手の施設に関し、あれば便利であるのだが、風景が平均化され都会の延長のような空間になりがちだ。自然のまゝの空間にならぬものか・・・。
 正面に見えるのは、長岳寺の山門で通称、大門と云うらしい。大門を潜った細い参道の両脇には躑躅(つつじ)の並木が続き、ピンク色の鮮かな花が奥方まで咲き連なっている。参道の突き当たりには意識して植えられたのか、躑躅(つつじ)の白い花が咲いていた。其処を左方に折れ、土塀伝いに足を進めた。
 眼前の石段の頂に長岳寺鐘楼門が閑静な佇で立つ。楼門の両脇には簡素な土塀が連なり、艶やかな躑躅(つつじ)のピンク色の花に溶け込んでゆく。背後には緑葉に包まれた山並が、なだらかに山端を連ね、手前の萌黄色の若葉に吸い込まれてゆく。
 楼門の開かれた門内にも、新緑の瑞々しい若葉が鮮かな彩を現していた。長岳寺の楼門は、その上層部に鐘を吊り下げた遺構があることにより鐘楼門と云われる。
 楼門の入母屋屋根は柿葺の(こけらぶき)簡素な形で、薄茶色の姿を現す。四脚の門で、左右に控えの柱はなく、すらっと高く伸びていた。楼門の巾に対し背が高く、軽かで優雅な姿を参道に向けているのである。
 柱・梁の木組が旧いわりに黒ずんでなく、よく磨かれ、華奢(きゃしゃ)ではあるが気品を漂わせた楼門である。楼門は石段の頂に立ち参拝者からは仰ぎ見る形になるため、一層その印象を強くするのであった。スケッチをする間にも幾人もの探索者が通り過ぎて行く。
 
 鐘楼門を潜った左手に本堂、右方には放生池(ほうじゅうち)が躑躅(つつじ)と眩い若葉に包まれていた。放生池が本堂前の小広場を挟んで南北の軸線上にある。本堂前が徒っ広い広場であるより、斯様に小さくとも水面が配されてあると、空間に穏やかな広がりを感じ、ゆったりとした気持になる。
 本堂脇で写真撮影の男が二人いた。何かいゝ被写体があるのではと、撮影中の男につられて、私も何気なく其方に足が向いた。其処から本堂裏手の丘に登る道が伸びていた。鬱蒼(うっそう)と生繁った木立ちの緑葉で道は薄暗く、本堂の裏と云う事も手伝って薄気味悪くなって来た。おまけに処々、石造の祠が道沿いに据えられ、ますますその感を強くして来るのであった。歩くのは私一人だけである。引き返そうと思ったが、まだ道は上方に伸びていた。
 長岳寺は弘法大師空海が大和神社の神宮寺として開基したと云われ、盛時には塔頭四(たっちゅう)十八箇坊、衆徒三〇〇名余りを数えた。弘法大師の開基によるためか、山内に四国八十八箇寺巡りができるように、八十八箇所道が巡っているのである。今歩いている道はその八十八箇所道なのである。
 
 進むに連れ道は僅かに開け、明るくなって来た。中腹近くの平坦な処に溜池があった。道の右手には藤(ふじ)の花が紫色の鮮かな彩を見せていた。藤は柏の(かしわ)木に寄生し、蔓(つる)を絡(から)ませて伸び、恰も柏が藤の木であるかのような錯覚を憶えた。
 藤の花の下では夫婦連れが昼食中であった。暫く夫婦と話をする。溜池の対岸にも、木に絡(から)み付いた藤の花が薄紫色に棚引いていた。この辺には野生の藤が多く見られる。
 道は本堂前から登る山道に突き当たり、左方に折れてゆく。山道は一段と明るくなり、本堂裏手の気味悪い薄暗さが嘘のように乾いた空間になってきた。明るい道のせいか幾人かの探索者が其処にはいた。石の祠は本堂裏手のそれより大きく立派であった。
 上部が解放された石版を三方に立て、切妻型に石版の屋根をのせた祠の中には、小さな石仏が祀られてあった。立札によれば、この辺一帯は長岳寺の奥の院らしい。石の祠があることにより奥の院と称するのだろうか。奥の院と称するには少々無理があるのでは・・・。
 祠をスケッチするうちに、雨滴が落ちてきた。早々に描き上げ本堂前に下山する。放生池を本堂の対岸に廻った。池越しに望む本堂は素晴らしい眺めである。
 小ぢんまりとした本堂はピンク色の花を一面に付けた躑躅(つつじ)に包まれ、背後には、樹幹を剥(む)き出した巨樹が林立し、処々に緑葉を付けている。微かに放生池の水面が現れ拡がりを感じる。山寺の落着いた佇の風景である。
 本堂内陣脇で地元の作家であろうか、押花絵展が開かれていた。田圃の畔道に咲く草や花を押花にして絵にしているのである。草の一本一本を丁寧(ていねい)に画用紙に貼り付けてゆくらしい。大層細かい作業の繰り返しで感心する許りだ。
 
 長岳寺からは、気のむくまゝ山の辺の道を外れては、再び合流しながら進んで行った。中山町に風情のある民家があった。
 道は右方に弧を描いて伸び、右手には畑がゆったりと拡がり、遙か彼方には緑葉の山並が棚引いていた。左方の民家の板塀が道なりに連なり、切妻型の屋根を此方側に向け、妻壁の漆喰の白い色が鮮かに映る。道が右方にカーブしているため、道に沿う建物の全体が見渡せ、奥行きのある構図だ。斯様な風景をスケッチをしている時には、刻の経つのも忘れる。建築雑誌に載っている近代住宅とは、風土に根ざした建築だけに、比べものにならない程、強い印象を受ける。
 脇に柿本人麻呂の歌碑があった。
 
 衾路(ふすまじ)を引手(ひきて)の山に妹(いも)を置きて山路を行けば生けるともなし
 
 何時のまにか山の辺の道にでた。大勢の人が行き交う先方に、大きな屋根が見渡せた。念仏寺だ。道は寺に突き当たり、右方に折れ念仏寺の裏手に出た。
 其処に無縁仏の塚があり、その塚の間を山の辺の道が通り抜けてゆく。無縁仏の塚は円錐状に人の背丈より少し高く石が積み上げられ、風雨に晒(さら)されて古ぼけ、処々草が生えた石の鈍い色と、草の萌黄色がよく調和し、風情のある光景をつくり出していた。
 無縁仏の上方、丘陵側には墓地が一帯に拡がっている。山麓だけに墓地には高低差ができ、空間に変化が醸し出される。何と云っても墓地の背後には丘陵が拡がり、大地の襞(ひだ)が幾重にも横筋を描き、終(つい)の住栖(すみか)としてはこれに優る処はないのでは・・・。
 背を振り返った。墓石が林立する遥か彼方に田園風景が拡がっていた。この辺りは古墳だった処で念仏寺が一部墓地にしているのである。人間の終の住栖として古代より連綿と繋(つな)がってきたのである。
 穏やかに拡がる光景を見蕩れている私の脇を自転車に乗った若い女性が追い越していった。落着いた感じの女性で、買物にでも行くのだろううと女の背を眼にし歩いた。
 山の辺の道が墓地から別れる角の隅に女の自転車が停めてあった。右方には墓地が一面に拡がり、地面は下草に包まれ、歩く道と墓域だけが茶色の地面を剥き出していた。処々、地面が襞(ひだ)状に横筋を剥き出し、墓地が切れた辺からは、ゆるやかに緑が這い上がり小丘の山端に至るのであった。左手は人家が立て込み、山の辺の道は其方に吸い込まれてゆく。
 自転車が停められた辺にも下草が生え、何故、此処に自転車が停められてあるのか、ふっと思った。右手の奥方一段高くなった墓地にある一つの墓石の前で、膝を折り、永い時間掌を合わせる人がいた。自転車の女である。女は墓石を熟(じっ)と見詰め、生前の故人を偲んでいる様子が、風を伝わって流れて来た。
 墓石の前には沢山の花が生けてあった。最近親族が亡くなったと思われる。
 今日は五月七日で日曜日である。女は斯うして休日には墓前に額突(ぬかず)き、故人と対話していたのかも知れない。その姿を遠方から眼にし、殊更に暗いニュース許りを耳にしている時だっただけに、心温まる光景に接した気持であった。
 
柳本集落 竹内環濠集落
 
 
 山の辺の道を外れ何処を何う歩いたか定かではない。寂(さ)びれた神社境内に迷い込んでしまった。神主さん不在の神社らしく境内には乾いた空気が漂い、地面は固く踏みかためられていた。近所の主婦が三人で境内の清掃中である。時々こうして交替で境内を綺麗に掃いているのであろう。萱生環濠(かようかんごう)集落がどの辺に遺っているのか訊いた。
 「殆ど埋め立てられ、余り遺ってないが、下の方、少し許り溜池風になった処には、溜池越しに旧い家があり、写真を撮っている人がたまにいますよ」
 「神社の境内に入る前に細い水路がありました。橋が掛けられてなかったので飛び越えて来ましたが、将かあれが昔、濠だったのではないでしょうね。案内書によると、集落には濠が掘られているように書かれていましたが」
 「あれはただの水路ですよ」
 と山の辺の道から外れ、名もない神社の境内に紛(まぎ)れこんできた私を怪訝(けげん)そうな顔で見るのであった。神社の石段を降り、右手の山に登る道に旧い家が連なるのが見えた。下方に旧い家があると教えられたが、下方から少しづつ開発が進んで来て旧い街並が壊されているのではと思い、山の方に登って行ったのである。
 道の両側に板塀の連なる旧い街並があった。塀と建物の道に面する壁が兼用している。竪張りに打ち付けられた壁は黒ずんで歴史を感じさせ、上方は漆喰で白く塗られ、板壁の黒ずんだ色と好いコントラストを醸し出している。塗壁と板壁の境には木製の押縁が水平に打ち付けられ、板壁より僅かに出端って付けられているため、その影が板壁に映る。
 漆喰壁の上方には瓦屋根が四十五センチメートル程の庇を出し、軒端の瓦が描くリズミカルな線が、旧さの中に現代的美しさを現していた。道は僅かに登り勾配であるため、軒端や板壁のラインが、少しづつ擦れ、重層的になりながら連なり、遥か彼方の萌葱色に煌めく若葉に包まれた丘陵に、道と共に溶け込んでゆくのであった。
 スケッチをしている間に、先刻の神社で清掃していた主婦が、色付け中の私の脇を通りすぎ自転車で道を上がって行った。斯様な旧い家に住む人は深窓の婦人では、と錯覚を憶えつ描いていたため、突然普通の主婦が現れ、現実に引き戻された。家の中では、都会と変わらぬ日常生活がされているのだろうと、主婦の背姿に眼をやった。描く間に雨が落ち、スケッチの絵の具を滲(にじ)ませるのであった。
 萱生町環濠集落の閑静な佇の街並を捜し求めながら歩くうちに、山の辺の道に戻ろうとしたが、自分が今どの辺にいるのか分からなくなってしまった。
 キョロキョロと辺を見廻している私の姿を見、人懐(ひとなつ)っこい女の子三人が、
 「こんにちは!山の辺の道ですか」
 元気よく挨拶(あいさつ)するのであった。山辺の道を訊いた。
 「向こうにある倉庫を左に曲がって行けば山の辺の道に行けます」
 山に登る方を指差して教えて呉れた。
 併し右方に行っても、どんどん山に奥深く分け入りそうで山の辺の道はありそうにない。左方に蜜柑畑が一面に拡がり、畑の中に人の歩いたと思われる踏跡があった。
 蜜柑畑の中の踏跡は我々探索者が歩く道ではなく、畑の中の作業用の道であった。其の内に踏跡も消えてしまった。蜜柑の木の下は下草が刈られ、踏跡はなくとも歩くのには支障がない。何となく当たりを付けた方向に歩く。十分程、蜜柑畑を歩いて集落の縁に辿り着き、細い道を幾つか折れ、三差路に出た。多分この辺は竹之内環濠集落に違いない。先方から歩いてくる子供に訊いた。
 「うん、こゝがそうや」
 子供に風情のある家はないのか訊いたが、子供は聞いた事もない質問に熟と考え込み、困っている様子だ。其の内に下方から歩いて来た近所の小母さんに、
 「オバちゃん!この辺にいゝ家あらへんか」
 「この辺に環濠集落が遺っている処があると思いますが、どの辺にあるんでしょう」
 「さあ、壕は埋めてしまったので遺っていません」
 燈台下暗(とうだいもとくら)しで、案外と自分の住んでいる町のよい処を知らないものだ。知らないと云うより当たり前の風景に慣れてしまい気が付かないのかもしれない。女も困った様子で先に歩き始めた。
 
 小さな四つ角に土塀を廻らした立派な旧い家があった。その大きな門構えの家に女は入って行った。何の事はない、主婦が住んでいる自分の家が立派で旧い家ではないか。四つ角の反対側の角から中嶋家をスケッチし始めた。
 僅かに傾(かし)げて築かれた重厚な土塀は白く漆喰が塗られ、亀裂の拡がりを防ぐための竪目地が、等間隔に入れられてある。土塀の足元廻りは五十センチメートル程の高さに石積され、上方には瓦がのせられ、見るからに分厚い土塀の印象だ。土塀に穿(うが)たれた門には変形の入母屋屋根が被さり、土塀とよく釣り合っていた。
 母屋は入母屋屋根本瓦葺で水平に長く伸び、どっしりとした構えだ。邸内から立ち上がる細い樹幹は、頂に僅か許りの緑葉を付け空間のよい点景であった。
 
 一日で山の辺の道を何処まで行けるのかと考えていたが、そろそろ帰る道筋に行こうと思った。此処からはJR桜井線長柄駅が近い。西方を眼指し広い車道を降る。車道に平行に走る畔道を行こうとしたが、家並に囲まれた田圃で、それほど風情はなかったため、その儘車道を進むことにした。
 暫く車道を歩く、左方に折れた道の向うに車道と平行に走る道が見えた。通り掛かりの人に訊いた。
 「あの道を通っても駅に行けますよ」
 教えられた道を進んだ。右方に折れる角に、背が低く上方で枝を張った古木があり、根元に関地蔵と称するお地蔵様が祀られてあった。祠と云うほどではないが、軽いトタンの屋根が差し掛けられ、背の壁には横に板が張られ、お地蔵様の他に幾つか石がころがっていたように思う。花入れには緑葉を付けた赤い花が生けられてあった。さしたる観光スポットでもない、細道の角にあるごくありふれたお地蔵様で、さりげない佇であった。
 関地蔵の角を右手に折れた。先方に人だかりがあり、ミニトラックが二台駐まっていた。田圃に手で持てる位の大きさの、四角く薄べったい箱を、二列を一筋にして並べる作業をしていた。各筋にはビニールを被せる前の細い骨組が弧を描き、連続的に据えられてあった。 
 「果物のハウス栽培(さいばい)ですか」
 「稲の苗の栽培(さいばい)をしているところです。田植をする前の苗です」
 ミニトラックには幾段にも苗の温床が積み重ねられてあった。苗が育ったところで機械で自動的に田植をするらしい。
 「今では田植も機械でするんですか。田植と云えば、腰を屈(かが)めて一本一本、田圃に差し込んでゆくのが思い浮かぶんだが・・・」
 と話すと、数人の中のリーダー格の男が、
 「今では、田植をあなたの云うように腰を屈(かが)めてやるなんて事はしない。そんなのは一世紀前の話だ」
 私が通り掛かったもので、男三人女三人の総勢6人のグループは、ミニトラックの回りで休憩がてら話しこんだ。今日は何処へ行ってきたか、何処から来たのか、明日は何処へ行くのか、と色々訊かれた。
 インドの知らない町で、行先が分からず迷っていた時、あっと云う間に数名の者が私を取り囲んで、彼方だ此方だと教えて呉れ、挙句の果てに一緒に行こうと目的地まで同行して呉れたりしたのを思い出した。
                       
 竹之内環濠集落からの帰りの途次、家の標札に―出口―と書かれた苗字が眼に付いた。
 「この辺は―出口―と云う苗字が多いようですが、大本教の教祖出口王仁三郎もこの辺の出身ですか」
 「それは分からないが、この裏手に天理教の教祖中山みきの生家がありますよ」
 作業のリーダー格の背の高い男が云った。
 例によって、先方を曲がった方が近いとか、戻って行ったほうが近いとか教えて呉れるのである。
 其の内に休憩も終わり皆さん働き始めた。作業風景をスケッチしようとスケッチブックを構えると、タオルを姉さん被りにした女が、よく描いてもらおうと冗談半分に、
 「口紅でも付けようかしら」
 すると男が、
 「一人だけよく描いてもらおうと思って!」
 と云いながら、せっせと苗の箱を畑に並べ始める作業に取り掛かった。五六分で簡単に描くスケッチのため、口紅どころか顔形も定かでない絵である。完成作品を見せてもらいたいと云われる前に教祖中山みき通称―おみき婆さん―の生家に向かった。
 
 角を幾つか折れ、前に広い駐車場のある処に出た。其処で子供が二人で遊んでいたが、広々とした空間だったので何やら乾いた寂しさを感じた。
 突き当たりに会館風の建物が立つ。前庭の開かれた門を、制止されるのではと危惧し、おずおずと入って行った。ところが誰も出て来ない。更に奥方に進んでゆく。人が出てくる気配は全くない。
 宗教施設のため反対勢力の破壊活動を恐れ警戒が厳重ではと思っていたが・・・。通路を幾つか折れ、向こうに夕暮れの陽を受けた木立ちが覗く、トンネル状になった建物を抜けて行った。突き当たりに木造平屋建の教祖の生家があった。あったと云うより佇んでいたと云った方が適切なほど、落着いた印象の生家であった。
 前庭は緑葉に包まれ、樹木が二本、一際高く立ち上がり、新緑の瑞々しい若葉を付けていた。緑葉の葉擦れに生家の藁(わら)葺の屋根が此方側に葺き降り、一段低く小屋根が水平に拡がっていた。それなりに格式のある家であった事が窺え(うかが)る。生家内部の土間に入っていったが、今では何うなっていたのか忘れてしまった。
 帰りにも、誰も出て来ない。天理教は随分開放的な宗教だと、この生家の空間に浸って思った。
 
 陽もかなり落ちて来た。再び長柄駅を眼指し、一面に拡がる畑の一本道を進む。考え事をして進む道を間違ったのか、行けども行けども長柄駅に着かない。地図によればそんなに遠方ではない筈であるが・・・。
 道が違ったのではと、溜池を過ぎた辺で先方を歩く夫婦に訊ねた。
 「長柄駅はまだ先ですか」
 男は背を振り返り、
 「あの煙が上がっている辺です」
 「私はあっちから来たんですが駅はなかったし、線路を渡った憶えもなかったんだが・・」
 「其んな筈はありません、線路が二本あった筈ですよ。気が付かなかったんですよ」
 地元の人が云うのだから確かな筈だ。溜池の土手を廻って煙が立ち上がっている方向を眼指す。溜池が終わりかけた辺から人家が立て込んで来た。
 無駄に歩いたようであったが、夕暮に煙(けぶ)る大和盆地を見渡しながら歩けたのも、思い違いがあったればこそ味わえたのではなかろうか。
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