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YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
五條 栗山家左 五條 栗山家右
五條 栗山家玄関 吉野川
大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
五  五条―旧紀州街道
   
 
 JR大和路線を王寺駅で和歌山線に乗り替え五条に向かった。交通が不便で相憎、列車は高田止まりで、五条駅方面へは四十分程待たねばならない。高田市街など探索する機会は滅多にない。待ち時間を利用し、簡単に高田市内を探索することにした。
 高田市の地図も持たない探索のため、気の向く儘、足の向く儘進む。駅前広場から続く道の突き当たりに、竪横の骨組が錆(さ)びているのか、暗紅色に塗ってあるのか定かではないが、変わった建物が立っていた。最終目標を暗紅色の骨組に定め、右廻りに市内を進もうと思った。
 アーケードになった商店街には、朝早いせいか殆ど人は歩いていない。時折、店の前をだるそうな様子で、腰を屈(かが)めて箒を(ほうき)動かし掃除をする人の姿がある位だ。アーケードは緩く弧を描き、商店の天蓋(てんがい)も弧の曲率に従いカーブし、先方の壁に吸い込まれてゆく。
 アーケードの路上には車や自動車が雑然と置かれ、各商店の壁はガラス窓や腰壁付窓と云った造りで、中にはシャッターを降ろした店もある。商店の看板の大きさはまちまちで、看板の色も色取りどりで、賑やかに並び、一見、何の脈略もなく商店街が構成されているようだが、夕方、人出が繰り出した光景を思い浮かべると、活気のありそうな印象だ。弧を描いて伸びるアーケードは、流動的で変化のある空間であった。
 
 幾つか角を曲がり、細い路地を進み、鉄筋コンクリート製タイル貼りの近代的な文化会館の前に出た。五月とは云え陽差しは強く、日向(ひなた)を歩いていると汗ばむほどだ。
 リニアーに建設された文化会館のタイルでペーブされた前庭を歩くが、陽差しが強く暑い。細長く伸びた前庭の途中に、旧い住宅街に抜ける細道があった。その細道に折れ日陰を進んだ。高田不動院の簡素な門が、カーブした細道に面して立っていた。
 寺の門には、通常土塀が連なるものだが、高田不動院では、門だけが立つ。何処から何処までが寺域なのか 判然としない。曖昧(あいまい)であるところが、格式ばらなくて面白い。
 幾つか細道を折れ、車が行き交う道路にでた。商店と住宅が混在する街路で、アーケードに比べ、人通りも幾らかある。通りの一角に、簡易な塀を廻らせ、塀と道路の境に植込みを設けた寺があった。仏頭寺である。道路沿いの植込みの瑞々しい緑葉が、境内から覗く萌黄色をした若葉と好く響き合っていた。
 塀を穿(うが)った入口に据えられた数段の石段の頂に二本脚の門が立つ。軽いデザインの門で、瓦屋根が空中に浮いているかのようで、向こうの若葉が透けて見える。街の中のエアーポケットのような空気が漂よい、ほっとする空間であった。
 高田駅発、五条駅行の列車の発車が間近で、残り時間は少ない。足早に駅方面に進む。先刻の暗紅色の骨組が見えたが、近付いて見ると、惚れ込むような建物ではなかった。
 
 高田駅からの和歌山線の沿線風景はずっと眺め続けていても、見飽きることのない丘陵風景だ。丘陵地帯の新緑の若葉に埋まるように、民家の甍が(いらか)断続的に眼に入った。集落は近くなったり、遠ざかって豆粒のようになったりする。新幹線のように脇眼も振らずただ驀地に(まっしぐら)、目的地に着く事が唯一の目的の如く走るのでなく、単線の線路をコトコトと緩っくり走る。それだけに車窓に流れる風景を多少ではあるが、時間をかけて眺められる。
 緑葉の中に道路が横筋を引いて伸びていたが、それさえも人間的スケールを感じるのである。車窓から素早くスケッチをした。印象を伝えるのみのスケッチであるが、今斯うしてスケッチを見ていても、長閑な風景が想い起こされる。北宇智で、列車は丘陵をスウィッチバックして進む。子供の頃、長野県富士見の母親の郷里に帰る時、中央線の小渕沢駅近くで、スウィッチバックする汽車に乗ったことはあった。今となっては、スウィッチバックして進むことは珍しい光景である。
 
 五条駅前の景観は人工的で殺風景である。列車内で数十人の老人会の―歩け歩け探索グループ―と乗り合わせた。老人達は列を為して駅前に続く道路を降ってゆく。老人達と一緒では落着いて旧市街を探索できないと思いながら、彼等の背姿を見て歩いた。運良く老人会グループは、郵便局の手前を左に折れて行った。
 私が眼指す方向と違い、ほっと胸を撫(な)で下(お)ろした。旧い街並をぞろぞろと、行列を為して歩く姿を頭に思い浮かべただけでもぞっとする。彼等はJR高田駅でも一緒だったが、図々しさと騒々しさが入り交じったグループであった。
 国道二十四号を右に折れ、暫く歩く。国道の右方の石段の頂に桜井寺の山門があった。国道を走る車が吐(は)き出す排気ガスを諸(もろ)に被っているためか、桜井寺は埃(ほこり)っぽい寺の印象だ。
 文久三年(一八六三)に天誅組は(てんちゅうぐみ)五条の代官所を襲撃し、代官鈴木源内らを殺害し、五条新政府を開き本陣としたのが桜井寺であった。念のため境内を一廻りする。境内には玉砂利が敷き詰められ、本堂へは石畳が伸びる。鈴木源内ら天誅組の五条新政府は短時間のうちに潰(つぶ)され、クーデターは失敗に終わった。そんな歴史的空間に浸ろうとするが、国道に沿って寺地があるためか、感慨が沸いてこない。
 国道二十四号と百六十八号の交差点を左方に折れた。少しずつ旧い家が目立つ街並になって来た。中でも一際大きく立派な家が、右方に立つ。慶長十二年(一六〇七)の棟札があると云う栗山家である。
 栗山家は国道に沿って長く塀が連なり、塀は建物の一部となって続く。一間おきに柱が立ち、塀の下部の過半には竪張りに板が打ちつけられ、上部の漆喰壁とは押縁により縁が切られている。塀の頂には瓦がのせられ、一区画を囲むように連なる。板壁、漆喰壁、瓦の質感と、それらの要素がつくり出す影が好いハーモニーを構成している。
 右方は大きな切妻屋根を国道に向け、漆喰壁が重厚な表情を見せる。切妻の大屋根は、棟を左方に伸ばし棟から葺き降る瓦屋根が横に長く伸びる。これを見れば、栗山家の大きさがどれほどのものか想像できる。左方では奥方に屋根が伸びるのが、緑葉隠れに垣間見られる。多分、反対側には庭があるのだろうと思う。
 歩道に並ぶ銀杏の木だろうか、短く伐採された切口に、僅かに緑葉を付けていた。その木の恰好が栗山家の水平的景観と好く合うのであった。
 旧紀州街道、新町通りに面して玄関があり、格子戸が開かれていた。玄関の床は土間になっていた。土間の一角に三帖の座敷が設えられ、右隅には金屏風(びょうぶ)が矩折りに立てられ、手前には花が活けてあった。外の強い陽差しに晒(さら)された眼が暗闇に慣れるまで、真っ暗で何も見えなかった。
 三帖の間は玄関には違いないが、床の間に近い空間である。道路を公共的空間とすれば、この栗山家の玄関は半公共的空間である。道行く人は、三帖の間の金屏風(びょうぶ)を背にした生花を、開かれた引戸の奥に見ることができる。此処でも境界が曖昧(あいまい)な日本的空間を感じるのであった。
 併し玄関外の貼紙には―見学はできません―と書かれてあった。玄関外に立ち、失礼ではあったが中を覗けただけでも幸運と思わねばならない。
 連子格子が肌理細(きめこま)かいデザイン感覚を表し、白壁を挟んで、軒端の線が水平に伸び、右方に弧を描き、連なる家並に吸い込まれてゆく。右手にも旧い家並が連なり、旧紀州街道の空気を十二分に醸(かも)し出していた。家並の上方には藍青色の空が一面に拡がっていた。
 
 旧紀州街道に足を踏み入れた。右方に酒屋であろうか、二階の窓の外に、店のサインを持出してあった。酒壺(つぼ)を表現したサインに、小さな板屋根を差し掛けたデザインで、空間の好い点景になっていた。思わず小スケッチブックに描いてしまった。
 中を覗くと、入って左手が事務所で、土間が中庭を挟んで奥方に伸び、中庭には明るい陽差しが差し込んでいた。道の反対側には酒屋の倉庫があり、従業員が行ったり来たりする姿があった。
 描き終わって、陽差しが強く照りつける街道を南下する。程なく江戸時代にタイムスリップしたのではと、錯覚を憶えるような光景が眼前に繰り拡がり、一瞬間、息を呑んだ。
 「此処は、いい処だなあ!素晴らしい光景だ」
 独言(ひとりごと)を吐いた。紀州街道は、吉野川に流れ込む小さな川に差し掛かる小橋を渡り、右手に緩く弧を描いて、家並に溶け込んでゆく。
 時々、車が通り過ぎて行くだけで、街道は往時の面影を色濃く遺(のこ)し、静かに佇む。街道が右方にカーブした処に、壁が漆喰で塗り固められた重厚な造りの民家が立つ。
 切妻型屋根にのる瓦が、陽を受け鈍(にぶ)い光を放つ。屋根は重たげに壁にのり、円みを帯び、鉄格子のはまった窓のある壁に深い影を投げ掛けている。土庇を付けた一階は、木で格子が組まれ、格子に嵌まった硝子が鈍い光沢を放つ。
 街道がカーブした奥には、別の民家の切妻屋根が連なる。橋を渡った右手には、瓦葺の屋根が枝葉の葉擦れに垣間見え、土庇が手前に葺き降り、さらに下方のビニール製屋根に至る。この屋根も、旧い街道によく溶け込んでいた。
 川との境には、板塀が廻らされ、板の色合いが歴史を感じさせ趣きがある。街道に立ち並んだ家並の処々に、緑葉が覗き、立ち上がった樹木の処に庭があるのを認識させ、見えない空間が想像できるようだ。
 スケッチをしている背の方から、幽かに拍子木(ひょうしぎ)を打つ音が、風と共に流れてきた。始めは特別、気にも留めなかった。陽差しを受け暑かったが描き上げ橋を渡って行った。右方の民家は薬屋さんだった。対面の重厚な造りの民家は標札に―栗山・・・―とあった。この近辺には栗山姓が多い。
 拍子木を打つカチカチとした音が、少しづつ大きく聴こえてきた。昼間から―火の用心―でもあるまい。もしかしたら祭りでもあるのかも知れない。栗山家の門前で、カチカチと聴こえる音を待ちながら、紀州街道の旧い家並を眺めていた。
 
 カチカチと一段と大きな音になってきた。今渡って来た橋の方に眼をやった。紺色地に―天理教―と白く字を染め抜いた法被(はっぴ)を着た、中年の男が、拍子木を打ちながら姿を現わした。
 「・・・・・」
 私には理解できない声を発していた。一人で歩いて来たので祭りではなさそうだ。法被姿の男は栗山家の日陰で立ち止まっている私の傍を通り過ぎようとした。
 「何故に、昼間から拍子木を打つんですか。火の用心かと思いましたが・・・」
 男は突然、声を掛けられ、一瞬間立ち止まった。それから拍子木を打つ手を下げ私の方に近付いて来た。
 「ミワタリナガシですよ」
 「ミワタ・・・、何ですかそれは」
 男はニコニコして、
 「神渡流(みわたりなが)しといって神さんが渡るのを皆さんに知らせているんです。私は一つ手前の駅、北宇智から拍子木を打ちながら歩いて来たんですよ」
 「そんな遠くから、歩いて来たんですか」
 「北宇智に天理教の分教会があり、五条の支部教会に行くところです。私は北宇智分教会の責任者です」
 男は天理教の北宇智分教会の責任者の今西さんである。始めは、何の事やらよく分からなかったが、話すうちに徐々に男が何の目的で、こうして歩いているのか分かって来た。
 私は宗教家と話すのは始めてだった。色々質問したりして話が長くなり、その内に栗山家前の犬走りに、ベタッと座り話し込むのであった。
 
 「今日は何処に泊まるのだ、北宇智の私の所に泊まってゆかないか。そうして、明日は天理を案内しよう」
 「私は吹田の娘のアパートに泊まっているんで・・・。昨日は三昧田の天理教教祖の生家を見て来ました。異宗教の者は見学できないと思っていましたが、天理教は意外と開放的で奥方まで入れました」
 「そうです、天理教の本部も自由に入れます。自由なんですよ。そうですか三昧田の中山教祖の生家に行ってきたんですか。私はこれから五条の教会に行くが、お茶でも飲まないか」
 お茶を飲まないかと云われても、それらしき喫茶店もありそうでない。今西さんの云ってる意味は、五条の教会まで一緒に行って緩っくりしようと云う事らしい。
 今西さんは何度も泊まるように云って呉れた。私のスケッチブックを捲(めく)りながら、
 「あなたは画家なのか、それが職業なのか、東京は何処に住んでいるのか」
 と訊いてきた。その都度、訂正したりして応える。どのくらい男と話し込んだだろうか・・・。
 男と天理教の五条教会に行くことにした。此処から歩いて十五分程らしい。
 紀州街道を歩く間にも、男は天理教の事や、紀州街道の歴史を話して呉れた、途中立ち止まって、スケッチをしたくなる光景があったが、眼で景色を追うだけで、風情のある光景が流れて行った。
 左方に立ち並ぶ家並の壁の細長い隙間から、田園風景が見えた。紀州街道の一本東側には、川巾の広い吉野川が流れ、其の土手が見えるのだった。土手には丈(たけ)の短い草が一面に蔽い、歩きながらでは、スリット的にチラッと一瞬間、眼に入るだけだが、いかにも長閑で心地好さそうな空間だ。ひとりで歩いているのであれば、家並の隙間を吉野川の方に足を踏み入れたであろう。
 旧い家並が途切れ、込み入った民家の間を抜け、左方に折れた高台に、周りの木造家屋に比べ、一際大きな鉄筋コンクリート造の五条教会が見えてきた。天理教五条教会の裏手だ。
 ピロティを抜け、教会の広場に出た。境内には幾つか教会の施設が立ち、巾の広い階段を登れば天理教五条教会の本殿である。
 
 玄関の立派な式台で靴を脱ぎ、教会堂のホールに上がった。左方には、六帖ほどの広さの管理人室があった。受付窓口の硝子越しに見えた和室には男が一人いた。和室には、色々な物が置かれ、部屋としては四帖半ほどしかないようだ。
 今西さんは、
 「私はお祈りをするので、暫く待って・・・」
 と云って本殿の中に入って行った。後ろから私も従(つ)いてゆき、本殿の最前列、彼の少し後ろに正座し、神妙にしていた。
 本殿は数十畳もある広い空間である。内陣との境には、四十センチメートルほどの高さの処に太い横木が架け渡され、外陣と空間的に別られていた。内陣は途中から一段高くなり、正面に朱色の細長い御簾(みす)が幾枚か吊り下げられ、中には本尊が祀られてあった。
 本尊の右手には、教祖中山ミキが祀られ、左方には、天理教の信者の御霊(みたま)が祀(まつ)られていると云う。正面の本尊は一際大きく、左右のそれは、正面のそれより幾らか小振りであった。
 本殿の構造は鉄筋コンクリート造である。内部にはコンクリートの肌は剥(む)き出てなく、天井も壁も上等な木に包まれていた。鉄筋コンクリート造の中に、入籠(いれこ)のようにして木構造を組んでいるのである。今西さんは、
 「ハウイのシメ、タスケタマエ・・・・」
 と何度も同じ祈りの言葉を繰り返すのだった。傍らで私も神妙にしていたが、其の内に本殿の後方に下がり、畳にスケッチブックを置き、スケッチを始めた。
 
五條 古川家 天理教教祖生家
 
 
 玄関ホール脇の和室六帖の受付では、各分教会から来ている男が四人いた。神戸分教会、北宇智・・・・等の分教会の人達である。その内のひとりが茶を入れて呉れた。
 今西さんが簡単に皆さんに紹介して呉れ、暫く天理教についての話を聴いた。五条教会に属する各分教会は三輪駅近辺にある、敷島大教会の傘下(さんか)に属するらしい。
 敷島大教会はJR桜井線の三輪駅近辺にある。緑青をふいた銅板葺入母屋屋根が、一際高い処に堂々と立つ姿を車窓から見た事がある。余りに堂々とし立派だったので大神神社と感違いしてしまった程だ。
 
 六帖の間の小壁には、天理教の教会の幾つかが掲げられてあった。其の内のひとつが法隆寺の伽藍(らん)配置に似ていた。何うして法隆寺の航空写真が此処にあるのかと、錯覚を憶えた。法隆寺にしては五重塔が見当たらない。不思議そうに見入る私の姿を見て、
 「それは天理教の本部ですよ。天理教は神教ですので五重塔はないんですよ」
 と教えて呉れ、敷島大教会の天理教の中での格なども話して呉れるのだった。天理教本部の建物は、信者の労働奉仕で建設されたらしい。専門職の信者は難しい仕事をしたらしいが、殆どの信者は、建設資材の運搬などの簡単な作業に携(たずさ)わったと云う。日を改めて天理を訪れる気持がむらむらと沸き上がって来たのであった。
 五条支部教会の清掃その他の奉仕活動のために、今西さんを始めとした分教会の責任者が、交替で五条教会に来ていると云う話しだ。分教会の責任者同士の内輪の話もあるのでは、話しが途切れたところで、失礼することにした。
 ブロック塀伝いに吉野川の流れを眼指して行った。途中、墓地に迷い込んでしまったが、引き返すのも能がない。墓地を囲ったブロック塀まで歩いて行った。眼前には土手を挟んで吉野川が悠(ゆう)然と流れ、広々とした空間が拡がっていた。
 ブロック塀の直下には細い裏道があった。簡単に乗り越えられそうだ。辺に人が居ないのを確認し、ブロック塀の頂に手を掛け、手を突っ張って体を持ち上げ、一気に向こうの細道に飛び降りた。
 眼の前は吉野川の土手だ。遮る(さえぎ)樹木もなく、五月とは云え強い陽差しが照りつけてきた。川面を渡る風を全身に受け留め、草に蔽われた土手をひとりで歩くのも気持がい
 わざわざ東京から奈良県五条下り(くんだ)まで遥々(はるばる)と来、何故に一人、吉野川の河原にいるのか。道ゆく人と云えば、地元の人が二三人いる程度で、観光スポットでもない土手に立っていた。日常的空間から離れた我身の不思議さを想うのであった。それは限りなく透明な空間のようにも想えた。併し、そう想う事自体が、日常性に流されていると云えなくもない。
 大台ヶ原の山稜を分水嶺(れい)として、山峡の(さんきょう)幾つかの流れを集め吉野川になる。和歌山県に入って、吉野川は紀ノ川と名を変え、瀬戸内海に流れ込む。五条近辺の吉野川は、紀ノ川と名を変える僅かに手前を流れる。
 吉野川の土手からの眺望は素晴らしい眺めだ。吉野川が紀ノ川と名を変える下流方向は小丘の山峡を縫うように緩るく蛇(だ)行して流れ、山峡の緑葉に吸い込まれてゆく。
 川岸に立ち上がる樹々の瑞々しい若葉が、陽を受けて萌黄色の光を放ち、吉野川の川面に映る。川の流れに近付くに連れ徐々に色が薄れ白砂がキラキラと輝き、川の流れに溶け込んでゆく。境界の領域が曖昧(あいまい)で各要素が色濃く溶け合ったり、薄れたりして、いつの間にか他の要素に変化する。その曖昧な眺めの意味する目的が判然とせず、却って曖昧な光景が内在する真理は何なのかを知ろうと佇むのであった。
 遥か彼方には吉野の山が幾重にも折り重なり、薄紫色に霞んでいた。ほんの少し前に見た栗山家住宅の近くに、これほどまでに豊かな自然が繰り拡がっているとは、不思議な想いに駆(か)られる。
 大自然の中では、人間はやはり、集まって寄り添うようにして、集落を形成して生きて行かねばならぬのであろう。
 
 五条教会を出る時、今西さんには、これから吉野川の対岸の金剛寺に行く、と云って教会を後にしたが。吉野川の流域の景色が予想外に、余りにも素晴らしく、金剛寺を廻って忙しく歩き回るより、吉野川の河原で、長閑な景色に囲まれ、のんびり過ごすのも又格別ではと想うのであった。
 上流の方向には、大川橋が自然の風景を切り取るかのように、緩い弧を描いて架け渡され、自然の中での好い点景になっていた。
 自分は一体何者だろうかなどと他愛もないことを考え、眼前に拡がる風景を眼にし、土手を歩いて行った。橋の畔の砂浜に、流木だろうか点々と小さな物が転がっている。一見水鳥のように見えなくもない。だが水鳥にしては動く気配が感じられない。やはり流木の残骸(ざんがい)かも知れない。けれども、鳥が羽根を休めている姿にも似ている。
 土手の草叢(くさむら)に座り空を見上げた。鳶(とんび)が数羽、ピーヒョロピーヒョロと鳴いている。川面の遥か上空に四五羽、上昇気流にのって旋回し、時々一羽が遠く離れ、暫くして又戻ってくる。吉野川の魚を狙(ねら)っているのか、鳶は頑具の人形のように頭を曲(くね)ねらせ川面を窺っている様子だ。
 一羽が川面を目がけて急降下し、バシャッと水飛沫(みずしぶき)を上げた。直に羽根をバタつかせ、大きな翼を拡げ、上空に飛んで行った。嘴(くちばし)を見たところ獲物(えもの)の魚はくわえていない。
 
 川の西側の住宅街の上空に、一羽二羽又一羽と、鳶の群れは徐々に民家の上空に自然に流れて行った。中には民家の屋根すれすれに飛ぶやつもいる。意志を持って移動したのか、風に吹かれて民家の上空に来たのか。多分、飛翔(ひしょう)を愉しんでいたのだろう。
 わりと近くに見え、鳶の表情が分かるような気がする。住宅街の上空で、鼠(ねずみ)などの小動物でも狙(ねら)っているのかも知れない。時々頭を下げ、何かを捜しているような様子なのでそれと分かる。 合計十羽になってきただろうか。これだけの鳶が民家の上空を飛翔していると、住民にとっては、薄気味悪いのでは・・・。五条の人にとっては、其んな事は日常茶飯事なのかも知れないが。
 鳶の群れは移動しつつあり、土手の上空を旋回し始めた。ピーヒョロピーヒョロ何を話しているのか。真下から見上げる鳶は大きい。
 鳶の胴体は円く長い。胸の当たりは特に円みを帯び、胴体の上端から抱え込むように多少、上方に弧を描いて翼を大きく拡げ、その翼で、川面から立ち昇ぼる上昇気流を受けるのである。 翼をばたつかせずとも、適格に上昇気流に乗って、体の重心を頭の向きで調整しさえすれば、自由自在に方向変換できる。翼を僅かに傾け、横に滑って気持好さそうに滑空するのは地上から見ていても、羨(うらや)ましい限りだ。
 
 一羽群れから離れ、ひとり吉野川の上昇気流を翼に受け止め、川面の上空に高く飛翔して行った。何のように飛行をするのか、集中的に其の鳶(とんび)を眼で追いかけた。
 群れから逃れた鳶がどのくらい、翼を羽撃(はばた)きもせずに空中を飛翔できるのか確かめたかった。翼を下げた方向に滑るように流れ、どんどん群れから離れ、翼を一杯(いっぱい)にふくらませると、水面からの上昇気流を無駄なく受け止められ、フワッと浮かぶのである。其んな事を繰り返す内に群れからますます遠ざかってゆく。
 鳶は強い上昇気流にのって、上空に豆粒の如く霞んでゆく。私は瞬き(まばた)も意識的に堪(こら)え、鳶の飛翔を追うのであった。瞬きする一瞬間にも鳶の姿を見失ってしまうか、他の鳶に交じり合って孤独に飛翔する鳶が特定できなくなってしまう恐れがあった。それでも瞬きはせずにはいられない。その場合には、意識的に瞬間に瞬きするのである。
 豆粒のようになった弧愁鳶は、吉野川の対岸の上空に流れ、再び水面の上空に流れ寄る。ピーヒョロピーヒョロと、彼方此方(あちこち)で仲間と連絡をとり合う鳴声が聴こえて来る。ピーヒョロピーヒョロの鳴声に混じって、時折、カアーカアーと鴉の鳴声が風に流れてつたわってきた。
 聴こえてきたきた時には何処か、鳶の群れとは違った処で、鴉が鳴くのだろう位に思っていたが、そうでもないらしい。疎(まばら)らになった鳶の群れの中から聴こえてくるのであった。
 この時点で、弧愁鳶の姿を追いかけるのを諦め(あきら)た。弧愁鳶はこの時点まで十五分位だろうか、羽撃(はばた)きを一回もせず、ただ吉野川の上昇気流に身をまかせ飛翔を愉しんでいたのであった。
 鳶の群れに入ろうと、一羽の鴉が翼を忙しそうにばたつかせていた。鳶に比べて鴉の体は二回りも小さいため、上空に飛ぶ弧愁鴉の姿を直に特定できた。鴉は鳶に比して翼が小さく、上昇気流を翼に受け止めるには適していないのだろう。必死に翼を上下に動かして鳶の群に入ろうとするのである。
 同種の仲間と遊ぶには、余りに独立気鋭の精神をもった鴉だったのだろう。俺の仲間には堂々たる鳶の方が想応しいのだ、と思って鳶の群に入ろうとするかのように見えた。
 見慣れぬ黒色の小さい鴉に、鳶は攻撃をしかけるのでは、と今度は弧愁鳶から弧愁鴉に眼を吸い寄せられた。弧愁鴉は吉野川の対岸上空の鳶の群れに入ったり、再び水面の上空に飛んできたりたりしていた。鳶の群れに入った時には、あわや空中戦か・・・、と思ったが鳶は鴉などには全く意に介さず、上空で大きな弧を描き、旋回しているのであった。
 時間にすれば、この間三十分位だったろうか。鳶の飛行は休みなく続いていた。そして弧愁鴉はいつの間にか、何処へともなく消えていった。
 大川橋の畔の砂浜の流木の残骸と想われる物体が、微かに動いた。やはり、物体は鳶だったようだ。時々ああして翼を休めているのであろうピーヒョロピーヒョロ、鳶の鳴声に送られ吉野川の土手を後にした。
 民家の隙間を抜け、旧紀州街道に入り、来た道を進んだ。国道一六八号に出た対面に、蔵造り風の旧い商家が立つ。来た時には、栗山家に見蕩(と)れて気付かなかった。
 古川家の瓦屋根には、むくりが付けられ蒲鉾(かまぼこ)型に屋根が孕(はら)んでいる。分厚い瓦屋根、漆喰で塗り固められた壁が重厚な印象である。窓の格子や玄関の格子戸に繊細(せんさい)なデザイン感覚を感ずるのであった。細道を挟んだ反対側にも、むくりの付けられた屋根を持った商家が並んで立っていた。
 三時二十分発の王寺駅発に乗らなければ、五条駅に小走りに走った。発車五分前で滑り込みセーフだった。何せJR和歌山線の王寺行は一時間に一本の割なのである。
 車内には地元の高校生が多数、乗降する。女子学生の流行(はやり)のルーズソックス姿が目立つ。男子学生はYシャツの上部のボタンを二ツ三ツ外し大きく胸を開(はだ)けているのが多い。
 昼下がりの時刻と云うには時計の針は、かなり回り、夕方近いが、車内には何とも気怠(けだる)い空気が漂っていた。併し其の気怠さは、時間が緩っくり流れているようでいゝ。
 これと云った目的もない気怠さを、ついぞ味わっていなかった。毎日、気怠さ許りであると、それは怠惰になってしまうが、学校の帰り位は、この位の気怠さがあった方が人間的でよい。
 吉野川の鳶の群れはこの気怠さを愉しんでいたのかもしれない。弧愁鳶と弧愁鴉はその気怠さから抜け出ようと離れていったのか・・・。
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