大和路ー光と影 2
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6 東大寺から浮見堂へ おすすめサイト
YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
東大寺参道 東大寺大仏殿
東大寺南大門 二月堂への石畳
大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
6 東大寺から浮見堂へ
   
 奈良公園、興福寺沿いの大通りを近鉄奈良駅方面から東大寺に向かって歩いていた。修学旅行生らしき制服姿の中学生、四五人のグループの幾組かと擦れ違った。
 左方に水平線を強調した奈良県庁が見えた。前方から二人連れの女性が話しながら歩いて来た。右手の黒のTシャツを着こみ、深々と黒くつばの円くなった帽子を被った女性に何気なく眼をやった。
 誰かに似ているなとおもったが、そんことは町を歩いていればよくあることだ。そのうちに私は奈良県庁舎に眼を向けた。
 二人連れと擦れ違った一瞬間、
 「あらっ山口さん・・・、こんな処で合って宜しいんでしょうか・・・」
 私は黒シャツの女性と眼を合わせた。そうなれば黒シャツは誰であるか直に分かった。新宿区立西戸山第二中学校の岡本校長だった。
 まさか東京から遙かに離れた処で知人に会おうとは・・・。声を掛けられなければ誰かに似た人だと思うだけで、岡本校長とは気がつかなかっただろう。
 「あっ、先生どうして・・・、旅行ですか」
 「修学旅行の付き添いで・・・、絵をおかきになってるんですか・・・」
 校長は小柄な体に黒のTシャツを着込み、リラックスした格好だ。校長は前から動作が敏捷なタイプだった。軽やかな動きが体一杯に溢れ顔を綻ばせていた。連れの背が高くおとなしそうな女性が多分、西戸山二中の教頭先生に違いない。教頭先生は私の方に眼を向け、校長との話に耳を傾けていた。父兄の一人だとは思っているように見えた。
 「ええ娘が関西大学に行っているもので・・・。ああ修学旅行ですか・・・。そう云えば前の方で中学生のグループに会いました」
 私は来た道を振り返って、今擦れ違った許りの中学生のグループに眼をやった。
 「先を急がねば・・・」
 校長はそう云って、直に生徒が歩いていった方に去って行った。ほんの一瞬間、一分位の出来事だった。
 私は一昨年、西戸山中学校のPTA会長だった。その時、岡本先生は西戸山中学校の教頭として新宿区の他の中学校から着任して来た。
 その頃、校内で色々な事件があり、岡本教頭が苦労していたのを憶えている。翌年、岡本教頭は西戸山第二中学校の校長として栄転した。以後、中学校と私の事務所が近いためか、早稲田通などで度々会うことがあった。
 私が東大寺への道を一本擦らせて歩いていれば、あるいは五分擦れていれば岡本校長とばったり会うことはなかったであろう。
 
 日吉館前を通り東大寺南大門への参道に足を踏み入れた。まだ朝早いためか、観光客は大勢は見当たらず、石畳の参道は閑散として、乾いた空気が漂っていた。
 土産物店、鹿煎餅を売る仮設の店の人達も手持無沙汰に道行く探索者を眺めやっていた。私は南大門前でスケッチを始めた。閑散とした参道の中央に立ち真正面に南大門を見る構図である。
 デッサンを終え、石畳にスケッチブックを置き、色付けを始めた。参道で煎餅をねだる鹿が二匹近づい来た。色付けしているスケッチブックの画用紙に、鼻を近づけ食べられるかどうか品定めするかのように、鼻をくんくんさせる。
 そのうちに本当に食べようと口でスケッチブックを動かし始めた。私が鹿の頭を抑えても、力ずくでスケッチぶックに近付く。
 これを見た左方の煎餅屋の小母さんが走って来て、
 「ほれ、駄目よ・・・」
 手で鹿をスケッチブックから離し、鹿を押しやった。     
 「食べられると思ったんでしょうか」
 「ええ本当に食べてしまいますよ。随分、素早く描いてしまうんですね・・・」
 煎餅屋に客が来、小母さんは走って店に戻って行った。描く間に左手の駐車場から数人のグループが数組来、南大門の方に向かって行った。小学校の遠足らしい。少しずつ行き交う探索者が増えてきた。
 南大門に進んだ。石段を上がり南大門大屋根の下に足を踏み入れた。暫く南大門で佇む。その巨大空間には豪快で圧倒的な迫力を感ずる。仁王像と深い軒出を支える斗?木組をスケッチした。
 参道正面に眼をやった。中門、大仏殿の巨大な姿が、参道の西側に立ち上がる松の梢の彼方に見えた。
 東大寺大仏殿に関しては以前述べたので,ここでは飛ばし次に進むことにする。
 
 大仏殿を出、手向山八幡宮へのゆったりとした石段の参道を行く。此処まで来る探索者は殆どいない。巨樹が疎らに立ち上がり、ゆったりとして見通しがよい広々とした参道だ。
 途中左方に折れ三月堂を横に見、二月堂の石段下に出た。二月堂を一廻りし、二月堂への裏参道に足を踏み入れた。
 ゆったりとした石段を下りて行く。白っぽい石段は花崗岩なのだろうが、連なる築地塀の優雅な姿に染まり、恰も大理石の石段のような錯覚を憶えた。
 以前この裏参道を訪れた時より行き交う探索者が多い。春先で陽気がよいためだろうか。石畳の参道で絵を描く人が幾人かいた。一人は油絵、一人は水彩画もう一人は山水画を描いていた。
 三人は同じグループではなく、たまたま参道で一緒になったらしい。五六メートルずつ離れ、執れも石段の向こうの丘に立つ二月堂を見上げる構図で描いていた。
 水彩画を描く人が最も上手だった。私は一度通り過ぎ、再び石段に引き返し水彩画を描く人の傍らに立った。いつものように私はスケッチブックを小脇に抱えていた。
 「私は今日は終わりですから、この場所を使って下さい。よかったらこの椅子を使って下さい」
 「私は立ってデッサンをするので大丈夫です」
 男は同じ構図で、既に三日ほど描き続けているらしい。石段の影の部分に紫がかった色が使われ、私が今までに使ったことのない色彩が多く使われたスケッチで、大変参考になった。
 
元興寺 浮見堂
 
 私はディバッグからミューズキューブのスケッチブックを取り出した。私がハードな水彩紙に描くのは、これはと惚れ込んだ光景を幾らか時間をかけて描く時である。
 男の傍らであるから男の描いた水彩画と全く同じ構図だ。男は描き終わり私の背で、私が描き終わるまで四十分程の間見ていた。
 「人の描くのを見るのは勉強になる・・・」
 描く間にも、中学生のグループが入れ替わり立ち替わり、二月堂の方から降りて来て、絵を覗いて行く。
 「わあっー・・・」
 「この絵もしかして私に呉れるのでは・・・」
 などと他愛もないことを云っては下に降りて行く。男は相変わらず熱心に背で見ていた。今西さんは、近鉄奈良駅近くに住み、機械設計を業とすると云っていた。
 今西さんの商売もご多分に洩れず、不景気の波を諸(もろ)に被り仕事はそれ程ないらしい。私とて彼と同じだ。それだからウイークデーの昼日中に、スケッチをしていられるのである。 
 「浮見堂(うきみどう)には行かはったことはありますか」
 「えっ、それは何ですか・・・。この近くにあるんですか」
 「え、猿沢の池を少し行った処にあり、絵を描くにはい処ですよ」
 描き終わり、私は絵の道具を片付け始めた。
 「昼食はもう済ませましたか」
 「えもうすませました」
 今西さんは家が近いため、昼食を摂ってから出かけて来たらしい。二人で裏参道の石段を降り始めた。下で油絵を描いていた初老の男も道具を片付けていた。今西さんは男に、
 「浮見堂に行って来ます」
 男は声も発せず、うん分かったと云った顔付きで頷いた。絵の仲間と思っていたが、今西さんは最近、男とこの参道で知り会ったらしい。
 この素晴らしい裏参道には、絵を描きに色々な人が来るらしい。我々が描いていた辺が一番構図のいい場所と今西さんは云っていた。
 私は浮見堂より名園依水園(いすいえん)へ行きたかった。けれどもこれも何かの縁では、そう思い今西さんと浮見堂に向かうことにした。
 
 今西さんはオートバイを引き、私と並んで歩いた。裏参道から道路に出、坂道を降って行った。途中、茶店で柿の菓寿司を昼食用に買った。少し行った処で今西さんは四人連れの外国人と親しそうに話していた。二月堂でスケッチをしている時に知り合った人達らしい。
 車の通行も少なくなった道の右手の下方に水面が、木立ちの葉擦れに見えてきた。浮見堂のある池に違いない。
 この池は猿沢の池と川で繋がっているらしい。池沿いについた道を右廻りに浮見堂に近づいて行った。浮見堂へ差し渡された橋の畔で私は立ち止まった。
 「ぐるっと廻った処からは、左右の橋が入り、よい構図・・・。其処まで行きましょう」
 遠慮深そうに今西さんは云った。私は其方は陽が当たって暑そうなので、この辺が描くにはよいのでは・・・。けれども彼の云う通り其方に行ことにした。
 今西さんが云うように、其処は構図のい処だった。浮見堂を中心にして、左手に水面すれすれに永い橋が掛かる。右方にも同じように水面すれすれに掛かっていた。
 
 浮見堂が浮かぶこの池は鷺池(さぎいけ)と呼ばれ明治時代に造られたと云う。鷺池の水面から突き出したコンクリートの架台の上に、八角形の堂がのっている。何のためにつくられたのか・・・。其処で雅楽演奏などが行われると云う話だ。私は鷺池の西岸に立つ。浮見堂の背には若草山、春日山連山が薄紫色に霞み、湖水を取り巻く緑葉の向こうに覗く。
 水面に映る堂は、揺らいで漂い幽玄な雰囲気を醸し出していた。右方の山腹に大の字形に見える部分があった。大文字焼の送り火の跡だろうか。
 西岸の石のベンチに座り今西さんは浮見堂を描き始めが。私は習慣でデッサンは立ってする。私はデッサンを直に終えベンチにスケッチブックを置き色付けを始めた。
 八角形をした堂の柱が何本も立ち上がり、互いの柱が交錯し眩暈を憶えた。原則が分かれば難しいことはない。八角の隅々に軒下まで突き抜けた柱が立つ。八角の各辺は四等分され、一対二対一の割合で二本の柱が立つ。中央が倍の巾がある訳だ。
 浮見堂は吹晒しのため、反対側の辺の柱も見通せる。そんな訳で柱が交錯して見える。今西さんは途中で描くのを止め、私が描くのをずっーと背で見ていた。描きながら彼と話す。パースのこと、仕事のこと、なぜか会津八一の名も出てきた。
 私は四十分ほどで浮見堂を描き上げた。絵の道具を片付け今西さんはオートバイで奈良駅の方に走り去った。私は今西さんが走り去った道路を下に見、木立ちの中につけられた道を興福寺の方に歩いて行った。
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