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7 壺阪寺 おすすめサイト
YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
高取 旧道  高取 家老屋敷長屋門
十一面観世音菩薩像 壺阪寺七福神
大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
7 壺阪寺
   
 学生時代、壺阪寺を訪れたことがあった。山の中腹に立つ寺で眼病に霊験あらたかであると云うことだけは憶えていた。けれども堂塔の印象は全く記憶に残っていない。
 壺阪寺は奈良県の南のはずれ、高取山の山中にある。高取藩の山城、高取城が近くにある。明日香村あたりとは異なり探索者もそう多くはなさそうだ。朝早く、近鉄吉野線、壺阪寺で降りた。
 駅前広場から少し歩き、南北に走る国道百六十九号線に出た。一瞬うわっこの道路を行くのか、とうんざりした面持ちで車が行き交う国道の前に立った。
 ところが、国道を渡った向こうに風情のある道が伸びていた。高取城へ至る旧道のようだ。多少、遠回りになるかもしれないが、旧道を行けば壺阪寺に行くに違いない。
 旧道は路面がよくペーブされ歩いていて心地好い気分だ。日傘を差した小母さんに、    「この道は壺阪寺にでれますか」
 「旧道を行っても清水谷でバス道路に合流します。私も途中まで行きますよ」
 小母さんと話しながら旧道を歩いて行った。小母さんは高取の人かと思ったが、
 「私は京都に住んでいます。昔は高取にすんでいましたが、息子の勤めが京都のもので、住まいを向こうに移し昨年、高取から京都に引越しました。家ももう高取にはあらしまへん。ただ寺だけはまだ此処にあるよって・・・」
 小母さんは今日は墓参りに高取に来たらしい。旧道には旧い街道が今も生きた形で遺り、趣きのある道だ。左手に一際立派な板塀を連ねた純和風建築が、木立ちの葉擦れに垣間見えた。
 「此処は立派な家ですね」
 「其処の郵便局長さんの家です」
 小母さんは二三軒隣の小さな郵便局に手をやった。地方の郵便局長さんは地元の名士だ。流石に立派な家に住む。東京であれば、邸宅の部類に属するほどの瀟洒な家だ。
 
 旧道は一本道の石畳で、僅かに登り勾配の旧道を進めば高取城に至るのであろう。道の両脇には水路が切られている。底の方に流れが少しある。昔はもっと勢いよく水が流れていたらしい。
 新しい三階建ての店舗付住宅が、旧い街道に割込んで立ち、旧い家並のスカイラインが崩されている。昔ながらの家は、黒ずんだ杉板を竪に打ち付け、窓には竪格子が嵌め込んである。
 右方に瓦をのせた立派な武家風の門が立つ。開かれた門内の建物に沿ってコ字型に沢山の人が座っていた。門の大きな柱にー石川医院ーと標札が掛けられていた。
 医院の門を入った処の土間が客溜まりになっているのである。石畳の道から見渡せ、空間的には内部と外部が貫流し有機的で面白い。
 けれどもこれかれ診察を受ける人にとっては、落着かない空間だ。木枯らしが吹き抜ける冬、風邪のためこの外部待合室で待つとすれば、さぞかし苦しいのでは・・・。
 私は物珍しそうに門の敷居をまたぎ、客溜まりに足を踏み入れた。客溜まりで診察を待つ人達は、ディバッグを背負った闖入者に一斉に眼を向けた。観光施設でもない医院に永くいる訳にはゆかない。
 石川医院の門は立派である。高取城の門を移築したと云う話だ。石畳の対面からスケッチしようとしたが、帰りでも構わないのでは、そう思って先に進む。
 石川医院は母屋も立派で、多分、代々高取藩の典医を務めていたのではと思われる。
 更に進んで、左方の風情のある家をスケッチした。石畳は緩っくり登って真直に伸び、彼方の山並に溶け込む。少し先に行った左方に小さな神社があった。神社というより、祠と云った方が適切かも知れないほど小さなものだ。巾の狭い道路の奥の方にも小さな祠があった。薬祖大神・恵比寿神社で、薬の神様と土佐えびすが祀られている。
 高取の町には、薬の問屋さんや薬屋さんが目につく。私はー富山の薬売りーはよく知っている。子供の頃、遙々、富山から行商人が来て薬箱を点検し、足りなくなった薬を補充してゆくのを見た。家の縁側でそうしていた。今思い起こすと懐かしい光景だ。
 大和の薬売りも全国的に薬を行商して歩いたらしい。高取の町でも江戸時代より薬の製造が盛んだった。
 石畳を登るに連れ風情のある家が目立ってきた。四つ辻に出た。右手に石碑ーみぎつぼさかよしの道ーが立つ。江戸時代の札の辻跡だ。
 
 右方に折れば壺阪寺は近い。高取城へは、真直に山道を登らねばならない。右に折れるか
真直に進むか迷った。山城からの眺め、壷坂の旧い街並が脳裡を過ぎり、高取城への道に足を踏み入れた。
 足を踏み入れて程なく左方に若干、崩れた土塀を持った長屋門が現れた。長屋門の腰部には板が打ち付けられ押縁の上方は漆喰で白く塗られ、処々、格子の嵌まった小さな窓が穿たれていた。
 長屋門の入口は五尺ほど凹んでつくられ、濃い影を落としていた。坂の右の道路際には石垣が積まれ、変化があり流動的空間を石畳の道に現す。武家屋敷田塩家だ。
 田塩家のスケッチを終え更に進んだ。少しずつ坂道の傾斜はきつくなり、緩く左方に弧を描く。左方に白壁が眼に染みる長屋門が眼に飛び込んだ。
 余りに白が鮮かで却って風情に欠けた印象だ。壁を塗り直し補修工事をした許りなのだろう。スケッチをするかどうか迷った。描くとすれば、坂道の下からかそれとも上方からか・・。
 その儘、長屋門を通り過ぎた。永い壁の中央に凹んでつくられた門には、しっかりと扉が閉じられ、邸内を窺うことはできない。柱に掛けられた古びた標札には、黒く植村と書かれたあった。
 植村家は高取藩筆頭家老を代々勤めた家柄と云う話だ。長屋門を外れた辺の対面の凹んだコンクリートの処からスケッチをしようと準備を始めた。此処は斜めになって足元が悪い。土手の上の草が一面に生えた、荒れた駐車場への入口である。小さな子供を連れた母親が散歩中で下方から上がってきた。
 「この道を真直に登って行けば高取城・・・。歩いて何分位かりますか」
 母親は微笑を浮かべ、
 「さあーちょっと・・・」
 旦那の実家に遊びに来たお嬢さんらしく、この辺の地理には詳しそうでない。女性は見たところ色も白く都会的な顔立ちだ。女性の周りには高取の旧い家並とは無縁な空気が漂っていた。
 
 長屋門の下方は山道が降っているため石垣が積まれ、景観に変化を醸し出している。壁は白く漆喰が塗られ、壁の上方に穿たれた竪格子の嵌まった小さな窓の下部まで、生子壁(なまこかべ)がリズミカルに張られている。
 二十センチメートル位の銀鼠色をした生子壁が四十五度に振られ、水平に六本の列を引く。屋根の瓦、生子壁そして白い漆喰壁が好く響き合い端正な印象だ。
 最上段の生子壁の列が小窓で切られた形が意外とリズムを感じさせ、面白いデザインである。長屋門の向こうには、集落が小さく見渡せ、緑葉も穏やかな色合いを現す。視界の過半には膜を張ったような広々とした空が一杯に拡がっていた。
 長屋門を描き終えた。スケッチに時間がかかり、これでは山道を高取城に寄って、壺阪寺に行ったとしても緩っくりできそうにない。スケッチしながらでは、二時間で行ける処でも五時間位かってしまう。
 山道を降り石碑のあった札の辻に戻り、つぼさかよしの道を行くことにした。
 石碑を折れた道は旧街道で、よく保存された旧い家が街道沿いに遺る。これだけリニアーに旧い家が立ち並んだ街道は、今ではそう数多くないのでは・・・。
 奈良今井町の保存は映画のセットのような印象だった。保存に行政がかなり首を突込んでいるように見えた。立地条件にもよるだろうが、高取町の街並は、旧い街道が現代に息づき歴史の空気が漂っている印象を憶えた。
 深い軒出を支える持ち出し桁は風雨に晒され年輪が浮き出ていた。板塀を廻らせた家、黒ずんだ杉板を竪に打ち付けた家、生きた街並博物館に身を委ねているような錯覚を憶えた。脇道の突き当たりに一際大きく風情のある黒ずんだ建物が見えた。通り掛かりの古老に、
 「あの突き当たりの建物はなんの建物ですか」
 私は脇道の突き当たりを指差して訊いた。
 「ああー突き当たりの風情のある家は薬の会社じゃないですか。高取には薬屋が多いんですよ」
 右手にも旧く立派な家が立つ。
 「この家も大きいですね。相当の資産家なんでしょうね」
 そう古老に話した。古老の後ろに年配の女性が歩いて来、我々の顔を見、その家の門に笑いながら入って行った。
 
 旧道は左方に弧を描き、正面の小高い崖上に風情のある家が聳え立つ。石垣には大小の石が鏤められ、ごつごつとした荒々しいテクスチャーで迫力のある眺めだ。
 此処は壺阪寺探索の帰りにスケッチする事にしよう。旧い家が立ち並んだ旧道は進むに連れ開けてきた。左方に池の水面が見えた。池の畔に鉄筋コンクリート造りのレストランが立つ。
 其の前で着物姿の若い女性が水を撒いていた。突然、現れた新しい建物に文化の飛躍を感じ、眩暈を憶えた。
 「壺阪寺まであとどれ位かかりますか」
 女性はこの辺の地理に詳しくないようで、
 「ちょっと待って下さい」
 と云って店に入って行った。
 「二十分位で壺阪寺に行けるらしいです」
 着物姿がまだ板に着いていない女性はそう教えて呉れた。道は降り坂になり暫くしてバス道路に出た。此処で旧道は終わりだ。
 無味乾燥なアスファルト道路を壺阪寺に向かって登る。単調な道のため随分歩いた気がする。降りてくる人に訊いた。
 「壺阪寺まではまだまだありますよ」
 暫くバス道路を登り続けた。左方に林に入って行く山道があった。入口の傍らに立つ道標に、壺阪寺ハイキングコースと書かれれあった。折角歩くのであれば、山道の方がよい。
 山道に足を踏み入れた途端、冷やりとした冷気が体を通り抜けた。林内には湿っぽい空気が漂う。それだけに気化熱を奪い涼しい。
 ひと一人が通れる程の細い山道を進む。山道の両側は巨樹が立ち上がる樹林帯である。山道の左方に谷筋が見え、川のせらぎのさらさらとした音が聴こえた。
 一筋の細い流れに、他のさらに細い筋を集めて合流する。流れには石がごろごろ転がり、流れの底に鉄分を含み茶色に変色した岩が冷たく光る。斜めになった岩床を冷たい金属のような光を放って流れが滑り落ちる。
 壺阪寺は直そこだと思い込んで歩いているためか、山道にはいってからもかなり歩いているような気持である。
 
壺阪寺仏頭1 壺阪寺仏頭2
 
 
 山道は幾らか急坂になり、先方に鉄骨階段が見えた。人工物が見えたため壺阪寺は近いに違いない。
 階段の直登が(ちょくとう)終わり、木立ちの向こうに寺の甍が見えた。着いたのは、山門を潜った処にある売店前の広場だった。二三段つけられた石段を上がり、人工的な広場に出た。正面に彫刻を施された石を壁全面に嵌め込んだ納骨堂、大石堂が立つ。遠目ではコンクリートで彫刻のように表現しているかに見えた。近付いて見ると、全面花崗岩の彫刻の固まりだった。
端正で旧い木造の堂宇を見慣れているためか、眼前の彫刻の固まりに文化的なギャップを感ずるのは私許りであるまい。けれども現時点ではそう思うのだろうが、あと数百年も経てば、日本の風土に溶け込んでいるかも知れない。
 私自身の文化的レベルが壺阪寺の住職さんのそれに到達していないためそう思うのだろう。
 壺阪寺の住職さんは、インドハンセン病患者救済事業の功績により、インド政府に表彰され、三億年前の石の山をインド政府から寄贈された。其処にインド各地から石工を集め彫刻工房をつくっている。それはインドの失業救済事業の一貫でもある。と本堂の売店の小母さんが云っていた。
 内部の壁はもちろんのこと柱に至るまで、仏伝に関するレリーフが施されていた。産地直送であるため可能な建築である。建物のデザインに好き嫌いはあるにせよ、堂宇を造営してゆくための一つの手法であろう。
 
 廻廊の瓦屋根から、本堂の大屋根、三重塔の華麗な甍と宝輪が覗く。処々、朱色に染められた横架材、柱が銀鼠色に輝きを放つ瓦そして緑葉と好く響き合う。
 本堂の対面の小高い丘頂に石造の巨大な観音像が立つ。私はこの手のもには共感でき難い。似た石造の観音像は私が知る限りでも幾つかある。例えば大船の観音像がある。電車から遠望できるのだが、近付いて鑑賞しようと云う気持にはなれない。
 壺阪寺の大観音像はインドの石工が彫ったもので、高さ二十メートル、総重量千二百トンと云われる。インドで幾つかに分割して彫り日本に運んだらしい。日本で組み立てのだろうが大地震の横力に耐えられるのだろうか。
 地震の横力は重い物ほどその力を強く受ける。分割された各ピースはどのようにジョイントされているのか。
 下の広場には石造の釈迦涅槃像が横たわる。今だかって斯様に巨大な石像は日本にはなかったのでは・・・。
 インドでは当然、斯様な石像が今でも数多く遺る。異文化の流入を巨大な石の観音像を眼前にして思った。今は異文化の流入であるが(いず)れ相互の文化が溶け合い異和感がなくなるかも知れない。
 茶店の傍らに楓の一種の目薬の木が植えられてあった。一帯にある薬の工場は壺阪寺が眼病に霊験あらたかな寺であると云うことと関係があるのだろうか。壺阪寺が先か薬が先であろうか。
 
 本堂が立つ境内に戻り、スケッチの構図を捜す。本堂と三重塔との間に七福神の石像が横一列に並ぶ。それらを素早く筆で描いた。
 
福禄寿   家内安全
寿老人   不老長寿
布袋尊   平和安穏
弁財天   音楽美芸学
毘沙門天  財宝福徳
恵比須天  交通安全・商売繁盛
大黒天   縁組勤労
 
 三重塔を描こうとしたが、近すぎて構図がまとめ難そうで諦めた。壺阪寺はー壺阪寺霊験記ーで有名だ。お里・沢一の物語である。夫婦が身を投げた谷が本堂の側、六角堂の近くにある。売店の小母さんの話によれば、どうしてだか谷は当時から比べれば随分浅くなっているらしい。
 前後するが、大石堂より横に永く連なる廻廊に至り境内中心に入った。左方に三重塔、本堂と続き、正面には横に永く仏伝レリーフが連なる。開けた右方に行けば、先刻述べた石造の観音像が立つ広場に至る。お里・沢一が身を投げた程であるから、この廻廊、レリーフで囲まれたた壺阪寺中枢寺域は相当に高処になる。
 礼堂の西脇の壁にはインド人の画家が描いたアクリル画だろうか、大きな絵が立て掛けられていた。売店の小母さんの話によれば修正する時、画家の奥さんも一緒にインドから壺阪寺に来、画面を布切れで拭いていたと云っていた。
 インドでは、壺阪寺の礼堂の絵を描くまでは、それ程うれてはいなかったらしいが、日本での仕事が評価されたのか、インド国内で評価されたのかどうか分からないが、現在では立派な家に住んで活躍しているらしい。
 礼堂と八角円堂の本堂とはくっついているように見えるが、別々の堂である。礼堂と本堂の接点には外光が差し込み涼風が通り抜けてゆく。
 本堂の正面に、十一面千手観音菩薩像が蝋燭の灯に照らされ仄かに浮き立っていた。参拝客は先客の二人と私で、あとは一人二人と時々、訪れるのみで、人影らしいものはないと云ってよい。
 本堂の八角円堂の周りをぐるっと回れ、周囲は現在売店とギャラリーに使われる。暫く十一面千手漢音菩薩像に向き合い、右回りに八角円堂を廻る。
 壺阪寺はインドと縁が深いためか、五六世紀のガンダーラの仏頭が幾つか展示されいた。ギリシャ彫刻の技法と東洋の技法が溶け合い、西洋的な顔立ちの仏頭であることが分かる。仏頭ー求道の釈迦ーは東洋の精神を宿した西洋的彫刻の仏頭であった。文化の相互貫入を眼の当たりにし大変興味深い。そのうちの幾つかを描いた。
 
 八角円堂の周りを一廻りし再び本尊十一面千手観世音菩薩像の前に立った。殆ど参拝客はいない。落ちついてスケッチができそうだ。本尊がほど好く見える位置に立つ。蝋燭の灯で本尊は仄かに光を放つ。暗部と輝部のコントラストが曖昧で自然に闇に入り込む。
 腕から手が幾本も出、頭頂には沢山の小さな仏頭をのせ描くには見るからに難しそうな観音像だ。まあ失敗してもともとだ。思い切りよく描いてみる。
 本尊が安置される内陣は仄暗い。仏像だけは見えない照明器具で照らされ形は分かる。まずは顔の眼の部分から鼻の陰影、口へと筆を滑らす。顔を構成するこれらの要素が決まれば、頭のぼつぼつとか耳、衣は顔のプロポーションに合わせて描けばよい。
 本尊は僅かに後ろにそって立つのが描くうちに分かった。私は正面より僅かに石に寄って描いているため菩薩像の合わせる掌は少し左方に寄る。そのため同じ菩薩像であるにも拘らず動きが生ずる。
 頭頂のぼつぼつした小さな仏頭の集まりの上に影の如く、一際大きな顔が覗く。それは十一面千手観世音菩薩像の分身が影の如く寄り添い菩薩像を護っているかのような空気を感ずる。
 光線の具合が菩薩像の顔面に集中しているため頭頂の顔は影になって、幽暗な周りの空気に溶け込み一層その感が強く現れる。デッサンが思いの外、細かくなったため色付けすると失敗しそうで一瞬間、躊躇い鉛筆で陰影を現すに止めた。
 ギャラリーのとば口の売店で、
 「本尊の正式の名は・・・」
 「十一面千手観世音菩薩像です。描けましたか。少し見せて下さい。前にも三重塔を描いていましたか・・・」
 私は今描き終えた許りの菩薩像を売店の小母さんに拡げて差し出しながら、
 「いえ、私は壺阪寺には三十五年振りに訪れました。三重塔を描いたのは別の人だと思います。前に来た時この眼病のお守りを買って今でも持っています。」
 「そうですか三十五年前のお守りをよくお持ちで・・・。まあ、これを今描いたんですか。一時間もかかっていないのでは・・・」 
 そう云って売店の小母さんは他のスケッチも見始めた。参拝客は殆ど来ない。小母さんは話し相手に丁度よいと云った風で、壺阪寺のことを色々と話すのだった。
 「私は大阪に住んでいますが、遠くて通うに大変なため寺の寮に一人で住んでいます。一人だから気楽ですよ。食事は慈母寮で和尚さんと共にします。私は最初は和尚さんの身の回りの世話をするため壺阪寺に勤めましたが、最近になって色々なことをするようになりました。
 和尚さんは粗食で上菓子は好まず、スーパーで売っているような駄菓子の方が好きです。和尚さんは壺阪寺には住んでなく、飛鳥の方に自宅があって、そこから通って来ます。遅くなった時には寺に泊まることはありますが」
 適当なところで失礼しようとしたが、なかなか帰してもらえず随分長く八角円堂の売店で小母さんの話を聴いていた。
 帰り際に私は鈴の付いたお守りを買った。鈴の底に仏像が彫られたお守りで、これがい
ではと小母さんに薦められたのである。人気(ひとけ)のない山寺で、緩っくりとした刻が流れるのを肌で感ずるのであった。
 
 来た道を山門の方へ戻った。山道を帰るには刻が遅すぎた。高取城を回って山道を廻る予定だったが、とてもそれだけの時間的なゆとりはない。私はこの界隈の風景を思いの外気に入った。執れ緩っくり訪れる機会が又あるであろう。
 茶店の娘さんに道を訊いたり、バスの発車時刻を訊いたりした。まだ山道を壺阪寺駅に戻る気持が僅かにあった。意を決しバスに乗ることにした。発車まで十五分程あった。直にスケッチブックを取り出し、左方の巨樹の樹幹をいれて描き始めた。茶店の娘さんが、 
 「お茶をどうぞ・・・」
 お盆にひとつ湯呑みをのせ、私の前に差し出した。
 「あーどうもすいません。何も買わないのに・・・」
 娘さんは微笑を浮かべるのみで多くを語らない。素早く描き上げ、
 「ああそろそろ行かなくては・・・」
 「早くした方がいいですよ」
 私はスケッチブックを小脇に抱え、娘さんに軽く手を上げ、
 「御馳走様でした・・・」
 私は娘さんの眼を見、そう云って、バス停の方に急いだ。少し行って振り返った。娘さんは此方を見て微笑を浮かべ、大きく手を振っていた。
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