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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
八 二上山から当麻寺へ
 
 新宿からの夜行バス、KBバスは早朝忍海バスセンターに横付になった。早朝のため町の活動にはまだエンジンが始動していない、バスセンターの周辺には閑散とし空気が流れていた。
 人気のない道路には、疎らに二三階建の店や家が立ち、寂しい田舎町の印象を憶えた。そんな街並を眺め、デイバッグを背負って南を指して歩いた。
 「忍海駅は・・・」
 私を追越そうとした男に、近鉄大阪線、忍海駅の方向を訊ねた。
 「ああ・・此方ですよ」
 男は国道を渡った細い道を指差した。男も忍海駅へ行くらしく抜道に足を向けた。男の後を歩いて行った。程なく小さくて可愛らしい駅、忍海駅に着いた。
 プラットホームには、既に数人の乗客が大阪方面への電車を待っていた。これから二上山を訪れる者と、職場や学校に向う判然とした目的を持った人達、それはある目的のために、自らの意志に拘らず目的点に進む人達に、一見思える。自由と束縛とを置換えて考えているのかも知れない。
 東京から奈良へ、空間的な変位がそのように思わせるに違いない。そんな事を考えているうちに、大阪行の電車がプラットホームに滑り込んで来た。
 
 二上山神社口駅を降りたつと、真直な坂道が伸び、両側には家々が軒を連ねていた。坂道の先方には、鮮かに色付いた二上山の山端が裾を引いていた。
 駅から五十メートル程歩いた道の傍らで立ち止った。長屋門が伸びた先に、入母屋屋根をのせた二階家が立ち、板塀の屋根から緑葉が覗く。
 入母屋屋根すれすれに橙色に染まった二上山の山端が、左方に向ってなだらかな傾斜で上っていた。一言で橙色と述べてしまったが、朱色に近い橙色、黄色に近い橙色、と微妙に色のグラデーションを付けた色相であり、処々淡い緑色を現していた。
 道から僅かに入り込んだ自転車置場の隅に立ち、肩からデエィバッグを降ろし傍らの石に載せた。デエィバッグの紐を弛めて手を突っ込み、朝食のために用意しておいた御握りをひとつ掴んだ。
 橙色に染まった二上山を眺め、手に持った御握りを口に運び頬ばった。デエィバッグからキャンソン紙のスケッチブックを引張り出し、傍らの欠けたブロックに載せた。それからウエストポーチのチャックを右に引き筆ペンを引抜いた。
 今回最初のスケッチで緊張したが、描く対象物が自らの能力をはるかに超えた光景であるため、筆は滑らかに走った。
 通学時間帯であるためか、二上山の山の手の方から、ひとりふたりと制服姿の学生が自転車を走らせて来、不思議そうな顔を此方に向け、通り過ぎて行った。
 風情ある街並は程なく殺風景な道路に行当った。道路の対面の標識に、左石光寺と記されていた。道路を渡り真直に進んだ。
 幾つか角を折れ、風情ある街並を二上山に進んだ。道は僅かに坂になっているため、二上山に近付いている事が解る。家並の甍の背には、二上山の雄岳、雌岳の二瘤の頂が、朱色のパステルカラーに染まっていた。
 部落の一角に、重厚な瓦を載せた入母屋屋根を持った民家が立つ。瓦を載せた土塀が道なりに続き無骨な表情を道に現す。このような家が都会に立つ姿を見れば、成金趣味的な家だ、と思うに違いない。ところが、ここ二上山では周囲の環境と好く調和し、住む人の素朴な人情を彷彿とさせるに充分だ。中でどんな生活をしているのだろうか、そんなことを考えて吉川家を描き始めた。
 やがて家々の軒の連なりは切れた。二上山神社倭文神社と記された小さな案内板の矢印が、左方の森を指していた。
 時代に取残されて人気のない森に足を踏み入れた。数段の石段を上がると小さな広場になる。滅多に人が訪れないためだろうか、彼方此方に丈の短い草が繁っていた。上方に小さな社が枝葉に包まれていた。
 広場の反対側から境内を出ると、山道が上っていた。先方は小暗い茂みになっていた。少々不安な気持に駆られ、駅で手に入れたー当麻の里(二上山)コースーてくてくマップを拡げた。
 簡便な地図は、二上山神社倭文神社で道はぷっつりと切れ空白だ。二上山に登るには二上神社口駅からは直登できず、二上山駅か当麻寺駅方面から回り込んで登るように記されていた。構わず進んで山道が藪に突き当ってしまえば、引返さなければならない。
 けれども藪に被われた道は幽かな航跡を残し先方に伸びていた。山道が突き当ってしまえば、それはその時考えよう、と思って小暗い茂みに包まれた山道に足を踏み入れた。
 そこからは道も細くなって本格的な山道になった。遠方から望んだ際には見事な紅葉に包まれていたが、山道から見渡せる範囲では、杉や松の樹林帯が続いていた。処々思い出したように、楓が鮮かな枝葉を山道に差掛けていた。
 やがて二上山駅からの登山路に合流した。二上山への幹線ルートらしく、木に見せかけたコンクリート製の径十センチ位の丸太が、山道の階段のステップの先端に付けられていた。それは二上山山頂まで続いていた。
 山頂への曲りくねった道筋に、樹木の根が地上に露出していた。それは道が折れた角に立上がり、おそらく松の木だったのではないかと思う。
 ひと休みするには早すぎたが、芸術的に絡み合った樹根に見取れてしまった。ウエストポーチのチャックを右に引きハガキ大の小スケッチブックを引張り出した。それから筆ペンを引抜き、視線を樹根に据えた。
 地表に露れた根は樹幹から数本に別れ、下部にある石交じりの土をしっかりと掴み、ごつごつとした肌を見せていた。どこまでが樹幹でどこからが樹根であるのか判然としない。恐らく地表に露れた部分は樹幹なのではあるまいか。そんな事を思い、一気に筆を走らせた。
 階段状にステップを付けた山道は、処々朱色に染まった林に溶け込む。自然の中にさりげなく人間の手が加えられた光景には、全てが自然であるより、ほっと胸を撫下ろすような安堵感を憶える。そんな山道を幾枚か小スケッチブックに、素速く描いた。
 十一月下旬とはいえ、登るに連れ汗ばんでくる。額にも僅かに汗が滲んできた。描き終って、茶色のコートを脱いだ。コートを小脇に抱え山頂を目指した。
 少し進んで二枚目のスケッチをしたところで、今度はセーターを脱いだ。歩き初めてしばらくして、夜行バスでの疲れのためだろうか、気持が悪くなり吐気がした、けれども進むに連れそれも忘れた。
 平日だったこともあるが、このルートではひとりの登山者にも会わなかった。ひっそりとして会話もなくただ只菅(ひたすら)歩いた。
 山頂に近付いたと思われるころ、山道の左方に視線を走らせた。眼下には当麻の町が玩具のように佇み、家々の甍の波が晩秋の淡い陽を浴び、陽炎のように揺らいでいた。甍の波の遥か彼方には三輪連山の山端が薄紫色に霞んでいた。
 程なく二上山雄岳山頂に出た。平らになった山頂は赤茶けた土が剥き出、片方は藪のような林に囲まれ、東側は視界が開けて当麻の町が見渡せる。
 広場の端部に大津皇子二上山墓が、黒いフェンスに囲まれてあった。フェンスの奥に藪に包まれ鳥居が立っていた。過日大神神社近くの丘から遠望した二上山、二上山には歴史のロマンを秘めた山の印象を抱いていた。二上山に立つ大津皇子墓にはその時抱いた思いとは、かけ離れた印象を感じた。
 他の皇室の御陵に比べて、大津皇子墓は自然のままに打捨てられているように見えた。二上山雄岳山頂に着くまでは、墓は大きな自然石が山頂に据えられ、傍らに大伯皇女(おおくのひめみこ)が伊勢斎宮へ(いつきのみや)向う途上、弟大津皇子を思って詠んだ歌、
 
   うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を弟背と吾が見む
 
 と彫られた石碑が、ひっそりと佇んでいる光景を思い描いていた。
 けれども打捨てられたような大津皇子墓は、悲劇の皇子に相応しいのかも知れない。未だに大津皇子の嫌疑は晴されてなく、皇子は復権していないに違いない。
 ウエストポーチから小スケッチブックと筆ペンを引張り出し、無念の涙をのんだであろう大津皇子を思い、筆を走らせた。
 広場の傍らに据えられたベンチにスケッチブックを載せ、山道でデッサンしてあったスケッチの色付けをした。色付中に老人がふたり、墓に参拝に来た。背姿に視線を向けると、墓に対し老人は深々と頭を垂れていた。
 つばつきの帽子を被った老人がベンチの側に近付いて来た。老人はスケッチブックを覗き込んで云った。
 「どこから来たんですか」
 「今朝、東京から来ました。前から二上山に登りたい、と思っていたので・・・」
 「わざわざ東京から・・・東京にも樹々が繁った山はあるでしょ。雌岳の山頂から雄岳を眺めると紅葉が綺麗ですよ。私は麓の万葉・・・に車を駐(と)めて登ってきました」
 「この辺の人は近くに、歴史的なものが沢山あって羨ましいですね」
 男にとって、二上山は散歩のコースに入っているらしい。
 
 二上山について、高校生の頃、大津皇子にまつわる悲劇的な歴史的事実から、一度は訪れてみたいと思っていた地域のひとつだった。その当時、大津皇子にまつわる細かな歴史的事実は知らなかった。
 大津皇子は大海人皇子(天武天皇)の第三皇子として生れ、母は天智天皇の第一皇女大田皇女とする。同母姉に大伯皇女(おおくのひめみこ)、異母兄に高市皇子(たけちのみこ )・草壁皇子(くさかべのみこ)、異母弟に忍壁皇子(おさかべのみこ )らがいる。天智天皇の皇女山辺皇女を妻とする。
 大津皇子は幼くして母を失った。それにより、大海人皇子の正妃の地位は兄草壁皇子の母菟野皇女に移った。懐風藻(かいふうそう)によれば大津皇子は人物、識見共に優れ、成長に連れ武を好み剣に秀でた、と云われる。
 天智天皇崩御の際には、大津皇子は十歳であったという。乙巳の変で蘇我蝦夷・入鹿親子をたおした中大兄皇子(天智天皇)は大化改新を断行し実権を握った。中大兄皇子は直ぐには皇位を継承せず孝徳天皇、斉明天皇を経、六六八年(天智七)天智天皇として即位し近江大津京に都を移した。弟皇子大海人皇子は皇太子に就いた。
 ところが天智天皇は子の大友皇子を後継者に望むようになった。兄弟よりも実子に政権を移譲したくなった、現代でもよくある骨肉の争いだ。
 危険を察知した大海人皇子は吉野宮滝宮にこもり反撃の機会をねらっていた。六七二年(天武元年)大友皇子ひきいる近江軍を不破関で迎え撃った。いわゆる壬申の乱である。
 大友皇子を破った大海人皇子は、飛鳥浄御原にて即位、天武天皇として皇位を継承した。天武天皇の正妃菟野皇女(うののひめみこ )は皇后となった。
 実力者菟野皇后は、子の草壁皇子の立太子を謀った。大海人皇子が吉野に立て籠った際に交した、六皇子の盟約ー草壁皇子を皇太子とするーを実現することに成功した。
 六八六(朱鳥一)年九月天武天皇が崩ずると、菟野皇后は即位に式をあげないまま皇位を継承した。天武天皇崩御の翌月二日、謀反のかどで大津皇子は一味三十余人と共に捕えられた。翌三日、大津皇子は訳語田(おさだ)の舎で刑死した。妃の山辺皇女(やまべのひめみこ)は殉死したと云われる。大津皇子の屍は葛城二上山に移葬された。
 刑死したのは大津皇子ただひとり、他はひとりを除き無罪であった。この事実から大津皇子謀反の事件は菟野皇后、草壁皇子擁立派による謀略であったとも云われる。
 ところが大津皇子刑死三年後、六八九年二八歳の若さで草壁皇子は即位することもなく死んだ。草壁皇子薨去の翌年、菟野皇后は天皇として即位した、持統天皇だ。
 
 大津皇子は捕えられる前に伊勢に下り、伊勢斎宮の任にある姉大伯皇女に会った。大津皇子との別れに際し、大伯皇女が詠んだ歌が印象に残る、
 
   我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 吾が立ち濡れし
 
   二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ
 
 大津皇子が護送される途中で詠んだ歌、
 
   ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
 
 しばらく雄岳山頂に佇み、母は天智天皇の皇女、父は天武天皇、これ以上華麗な家系は考えられない大津皇子と大伯皇女、思い人同士のような姉弟を思った。
 二上山の南麓を日本で初めて整備された官道、竹内街道が走る。飛鳥時代の六一三年に造られ、難波津から太子町内を横断し飛鳥の都へ通じた官道である。大和朝廷が随に派遣した遣隋使、そして中国からの使節もこの竹内街道を通って飛鳥に入京した。シルクロードの終着点へ通ずる街道だ。古代の面影を色濃く遺した街道で一度は訪れてみたい。
 二上山の山端に橙色に染まった太陽が沈んで行く光景を、飛鳥の地から望むことができる。古代人は、二上山の山端の向うに西方浄土を夢見た。
 二上山を越えれば其処は大阪である。二上山の山麓の太子町に、推古天皇、聖徳太子、小野妹子らの墓が点在するのも、西方浄土を夢見たからであるに違いない。
 インターネットで竹内街道を検索してみた。大都会大阪からはおよそ想像できない、落着いた佇の街並がリニアーに形成されている。
 板塀や土塀が道に沿って弧を描いて伸び、塀の頂には瓦が載せられ陰影を色濃くあらわす。家々の塀からは、中庭に立上がっている樹々の枝葉が道に差掛かり、しっとりとした風情の街道の空気を今に伝えている。
 
 雄岳山頂から雌岳に足を進めた。十数メートル行ったところに小さな社があった。傍らの立札に二上白玉稲荷大神、と記されていた。説明文には由緒ありそうな内容が書かれてあった。
 雌岳には数分で着く、と思っていた。雄岳五一七メートル、雌岳四七四メートル、標高差四三メートル足らずであり直に雌岳に至ると思った。けれども山道は一気に下る一方で、雌岳への分岐点は見当らない。
 白玉稲荷大神を過ぎて、程なく林の中に雌岳への分岐点らしき道があったような気がした。下から男が登って来た。
 「此方は雌岳で宜しいでしょうか」
 「方向が違う、わしも其方に行くんで一緒に行こう」
 と云って初老の男は急傾斜の山道をぐんぐん登って行った。
 「わしは六五歳になるが、午前中は二上山、午後から会社に行ってます。日曜日には金剛山へ・・・、ガソリンスタンドを経営してるんで、そんなこともできる」
 男は大股に足を進める、どこからこれ程の活力が湧出てくるのか、と男の背を必死に追った。この迷い込んだ灌木が繁った山道は、万葉の森駐車場に至るらしい。
 やがて雌岳への分岐点に出た。
 「此方に行けば雌岳だよ、わしは真直に雄岳に行くから・・・」
 男は右手を雌岳に至る細い道に向け、疲れた様子もなく云った。
 「ああーこの道なら通り過ぎた道だった」
 分岐点からは緩い坂道が伸び、気持好く歩けそうでほっと胸を撫下ろした。其処で男と別れた。ウエストポーチのチャックを右に引き、マイルドセブンを引張り出した。タバコを一本引抜き、胸ポケットからライターを掴んで撮みを押した。青い炎が立上り、口に銜えたタバコを炎に近づけた。
 先がほんのり赤くなったタバコを深く吸込んだ。辺に散らばった枯葉に腰を下ろし紫煙を吐いた。ゆらゆらと紫煙が立上り透明な空気に溶け込んでいった。
 タバコを喫ってから、明るく陽が差した道に足を進め雌岳を目指した。
 歩く道筋から、下方に人工的に開発された雌岳山頂が覗くのが見えた。程なく馬の背の鞍部に出た。一帯は雑然と広々とし道筋の傍らに休憩所の小屋が立つ。土日、祝日以外は営業していないらしく、閉められたガラス戸が冷たく光っていた。
 馬の背は二上山の十字路らしく、私が歩いてきた二上山駅への道、以前訪れた当麻寺への道、竹内街道へ抜ける道が伸びる。
 この辺から強い風を顔面に受け始めた。雄岳山頂ではこれ程ではなかったように思う。馬の背から雌岳へは幅広い階段状の道がゆったりと伸び山頂に至る。平日だが、ひとりふたりと人影が山頂を目指していた。晩秋のためか寒々とした光景だ。
 雌岳山頂は人工的に開発され広々としていた、ひょろひょろとした木が数本、広場の周囲に立つ。北方にパステルカラーに染まった雄岳が強風とは無縁にあった。
 山頂では馬の背より更に激しい強風が吹き荒れていた。風がひゅうーひゅうーと音をたてて通り抜け、立木や枯木が強風を受け、みしみしと苦しそうな呻き声をたてる。木と木がぶつかる音が聴こえる。
 未だに成仏できないためか、あるいは自らの墓域を荒されているためだろうか、大津皇子の怨霊が化身となって、一切の衆生に喚起を促しているのかも知れない。
 
二上山参道 当麻寺東塔
 
 
 大津皇子の怨霊が吹き荒れる雌岳山頂を後にして馬の背に戻り、一路当麻寺へ。馬の背を東に折れると、山道はしばらく灌木の林を抜けて行く。雑木の枝葉が朱色から黄色に混じり合い晩秋の空に寂しげに揺れていた。
 道筋に公孫樹(いちょう)の巨樹が立つ。巨樹の根元には黄色に染まった落葉が一面に散らばり、まるでカーペットを敷き並べたような光景だ。けれども余りに見事な染まり方のため、却って不自然な印象を憶えた。
 公孫樹の傍らに女がひとりで寂しげな表情で、落葉して少し許りの葉を付けた巨樹を見上げていた。女は見上げた眼を落し、公孫樹の根元に広がった黄葉のカーペットを見つめていた。当麻寺へのこの道にはハイカーは少ない、会ったのはこの女が初めてだ。
 女と視線があった。
 「随分、葉が落ちていますね」
 公孫樹の根元の黄色いカーペットを見て云った。
 「二日前にはこれほど葉は落ちていなかったけれども・・・」
 女は落した眼を、丸裸になった公孫樹の上方に向け、言葉少なに云った。
 女の言葉を聞くまでは、公孫樹は強風に煽られて落葉したに違いない、と思っていた。女の表情を見、咄嗟に銀杏を採るために誰かが長い棒で叩き落したのでは、と思った。
 「二日前にも二上山に来たんですか。家は近いんですか」
 「数年前に主人が日立電気を退職して独立し、シンクタンクのような会社を始めました。その時、東京から奈良の王寺に引越しました。その後私が交通事故に遭ってしまいました。シートベルトにより内臓破裂の大事故でした。
 運良く一命はとりとめました。それからリハビリのため山へ登るようになりました。以前は二上山に毎日のように登りました」
 「へー毎日、登っていたんですか。習慣で山に登らないと躰の調子がでないのは、好くわかります」
 「今は二日おきに二上山に来ています。何時も同じコースで来た道を戻ります。私はこのコースが一番気に入っています。朝主人を送出し、それから掃除洗濯を済ませて車で二上山の麓まで来、登り始めると今頃の時間になってしまいます」
 「紅葉には少し遅すぎたような・・・」
 「この辺の紅葉はこんなものですよ、吉野や談山神社の紅葉とは比較になりません」
 女はこれから二上山に登るらしいが、ゆっくりとした足どりだ。
 
 沢沿いを下り始めた。石がごろごろと転がった道だ。林には雑木が立上がり、張出した枝葉は晩秋の淡い陽を受けて黄色に染まり、風に揺らいでいた。
 沢沿いの湿っぽい道の先方が、淡い朱色に染まり可憐な輝きを放っていた。道の先端に頼りない印象ではあるが、趣のある門が立つ。
 都会育ちの私にとって道に門が立つとは考えられない。つい建築基準法上、どの条項によりそれが可能であるのかが頭を過ぎってしまう。この山道は建築基準法四二条二項になっているのだろうか。
 恐らく右方に立つ寺は、この道を建築基準法上の前面道路として確認申請を提出しているに違いない。そんなことを思いながら門に近付いて行った。
 近付くに連れ門の周囲には素晴しい空間が広がっていた。門の屋根は板葺だったように思う。山道の此方側は湿っぽく小暗い空間だ。門の周囲には色とりどりに紅葉した楓の枝葉が乱舞し艶やかな空間だ。
 小暗い空間と艶やかな空間その取り合せが刺激的で面白い。左方には道と同じぐらいのレベルに小さな岩が転がった沢が流れ、右方には寺の石垣が道なりに伸びる。
 道には乱舞を終え、朱色に染まった楓の葉が一面に広がり、カーペットのように道を朱色に染めあげていた。
 今まで小暗い山道を歩いてきたため、その対比に思わず、
 「うわっーこれは素晴しい」 
 と独語を吐いた。小脇に抱えたキャンソン紙のスケッチブックを構え門に翳した。それからウエストポーチのチャックを右に引き筆ペンを引抜き、筆ペンのキャップを外して口に銜え、門を中心にして一気に筆を走らせた。
 描き上げて門を潜った。柱にー祐泉寺ーと書かれた板が懸けられていた。木立の梢から、けらけらと品性に欠けた笑い声が流れ、声が山に木霊していた。樹々の枝葉の葉擦れから祐泉寺のバルコニー状のテラスが覗き、十人ほどの男女の影が見えた。
 幽暗にして艶やかな空間には不釣合いなグループだ。山寺の経営を考えれば、斯様なグループに場所を提供するのも止むを得ないことかも知れない。
 門前の傍らに板碑が立つ。
 
  ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ      大津皇子
 
  磯の上に 生(お)ふる馬酔木(あしび)を 手折(たお)らめど 見すべき君がありと 言はなくに 大伯皇女
 
 祐泉寺門前から続くアスファルトの道を少し下って振返った。紙のようにも思える板葺の門が、華やかな紅葉に包まれてあった。祐泉寺のこの門は、大津皇子の領域との結界を現している、そんな印象を憶えた。
 なだらかな坂道を下っていった。やがて視界が広々と開け、彼方に大和平野が宝石を鏤めたように煌めいていた。右手の林には、これから訪れる当麻寺が佇んでいる筈だ。
 左方にこんもりとした丘が、なだらかな稜線を描く。斜面は刈込まれていて一面に草が被っていた。人間の手が入りすぎ感慨は憶えなかったが、念のためその丘に近付いてみた。傍らの案内板にー鳥谷口古墳ーと記されていた。
 鳥谷口古墳下の湿地帯になった公園を抜け、大きくカーブした道路に出た。脇に立つ標識には、当麻寺への矢印が右方を指していた。林と畑地との境を走る道路の先には、女のグループ四人が楽しそうに歩く。彼等も当麻寺を目指しているに違いない。
 彼等と程良い距離を保ち、長閑な田園風景には不釣合いな道路を進んで行った。道路がカーブした処の広場に、瓦を載せた一本柱の四阿(あづまや)が立つ。傍らの立派な案内板にー傘堂ーと黒々と浮上がった字で記されていた。
 華やいだ女のグループと入れ替り、傘堂に近付いた。四角く太い柱が一本立上がる、四角の四辺から許りでなく、四隅からも持出し桁が張出し、重そうな瓦を葺いた屋根を支える。シンメトリーに張出すことによりバランスを保つ。
 案内板の説明によれば、傘堂は江戸時代に建設され、左甚五郎の作、と云われている。柱が一本で立つところに職人芸が現れ、緊張した空間になっているのだが、傘堂一棟では、緊張感を対比する要素に欠ける。傘堂を取巻く空間に寂しさを感じたのはそのためだったのかも知れない。
 
 傘堂から程なく、両側に巨樹が立上がった幽暗な参道が斜面に上っていた。参道は樹々の枝葉で小暗くなった空間に溶け込んで行った。
 案内板にはー山口神社ーと記されていた。幽暗な参道に惹かれ其方に足が向いた。土交じりのステップの広い石段を進んだ。両脇には樹々が繁り、参拝客もそれ程訪れることもないような印象だ。参道を上がった処は、小さな広場になっていて正面に社殿が立つ。社殿には幽暗な参道ほどの感慨は憶えなかった。
 目的とした空間より、目的空間に至る空間、アプローチ空間に胸が沸立つような印象を憶えることが屡々だ。
 遠方に大和平野を望み、緩やかな坂道を進んだ。やがて点在する家並の向う、田園風景の中、樹々の枝葉に当麻寺の三重塔が浮ぶ姿が眼に入った。
 アスファルト道路から外れ、畑の中を抜ける細い道に足を踏み入れた。緑葉に浮ぶ塔は軽やかで気品が感じられる。塔自体が立上がる樹々のひとつであるかのような印象を憶える。
 三重塔を目指し路地をすすむと、程なく舗装された旧道に出た。道の角に小さな祠、その傍らに五輪塔があり、旧道は其処で折れていた。
 上って行く方の道に、瓦を載せた板塀が連なり、塀内から樹々の枝葉が覗く、柿木の枝に点々とある、橙色に実った実が晩秋の憂いを含んだ寂しさを感じさせる。
 突き当りの標識にー左 石光寺ーと記され、矢印が旧道を上って行く方向を指す。何気なく其方に足を進めた。特に石光寺を訪れたい、という訳ではなかた。
 坂道がクランクした処で振返った。道の正面に五輪塔が立ち、旧道に軒を連ねる家並の構成が素晴しい。右方に先刻の板塀を連ねた造酒屋北川本家が立つ。造酒屋北川本家の板塀は茅葺屋根を載せた母屋の玄関に至る。玄関の深い庇からは杉玉が三つぶら下がっていた。
 板塀の瓦屋根から覗く緑葉の背には、朱色や橙色と色とりどりに色付いた、こんもりとした小山が羽毛のようにふわっとしたテクスチャーを現す。
 デイバッグを傍らの石に降ろし、バッグの止め金具をパチンと外した。中からコットマンの水彩紙を引張り出し、造酒屋に向けて翳してみた。いい具合の構図だ。それからウエストポーチのチャックを右に引き、チャコール鉛筆を引抜いた。
 筆ペンとは異なりチャコール鉛筆でのデッサンは、気分的に一気に描けない。力の入れ方により線の濃淡が表現されるため、描始めは薄く線を載せ、後で線を濃くしようとする気持があるからだろうか。それでも何とか描き上げ中将姫墓がある墓地に向おうとした。
 造酒屋北川本家の酒蔵が道の左方に立ち、勾配の急な切妻屋根が天空に浮び青空を切取っていた。切妻屋根から煉瓦造の煙突が突抜け、一際高く晩秋の空に浮かぶ。酒蔵には小さな高窓が幾つか切られ、下部は板が打付けられていた。
 酒蔵の先の細い路地を折れ墓地に足を踏み入れた。段々になった墓地には大きな墓碑もあった。中将姫墓がどれであるか特定できないまま、早々に引上げた。
 木枯しが吹抜ける中、駐車場のとば口にデイバッグを降ろし酒蔵を描き始めた。酒屋の主人が時々道に出て来、変った男が絵を描いている、といった表情でちらっと此方を見た。けれども黙って店内に消えた。
 酒蔵の先には、緑葉に包まれて人家が数軒立ち、晩秋の空に溶け込んでいた。冷たい風が頬を差し寒さを感じる。キャンソン紙のスケッチブックが風でぱらぱらと捲れ、色付けの祭には傍らの小石をスケッチブックの隅に載せて描いた。
 
 来た道を下って行くと、当麻寺の側面、北門に出た。北門から当麻寺山内に足を踏み入れた。アプローチ路は講堂と本堂との間に至る。右方に変らぬ姿で当麻寺本堂曼荼羅堂(まんだらどう)が立つ。
 二年前に訪れた時は夏の暑い盛りだった。あの時の眼前に迫って漲るような迫力はなく、曼荼羅堂は二上山の麓に静かに佇む。季節が晩秋だったからだろうか。
 盛夏と晩秋、背景が異なれば其処で演じられる空間は、当然違ってくるだろう。あるいは二上山に眠る大津皇子の悲劇が、頭上に重くのしかかってひっそりと佇んでいるのだろうか。それとも私自身の裡に見方の変化があったのか。
 盛夏の当麻寺に関しては拙著ー大和・光と影 今井町・当麻寺ーに詳しい。ひっそりと佇むとはいえ、錦秋に包まれた当麻寺には、朱色から橙色に微妙に変化した色とりどりの鮮かな色彩で溢れ、燃立つような空気が漂っていた。
 講堂前に立つ燈籠から曼荼羅堂を望む。二上山登山で肩に食込んだデイバッグを、傍らの石に載せた。ウエストポーチのチャックを右に引き、縦に差込んである筆ペンを引抜いた。それからキャンソン紙のスケッチブックを眼前に佇む曼荼羅堂に翳した。
 以前訪れた際には、二上山に沈みつつあった落日を背にし、漆黒の空間に包まれていた曼荼羅堂は、晩秋の優しい陽を反射していた。二上山の山裾は淡いパステルカラーに染まり、曼荼羅堂の甍の波が鈍色に輝きを放つ。
 錦秋に染まった二上山と対峙し禁欲的な色合を放つ曼荼羅堂、対極を成すふたつの空間に軽い眩暈を憶え、一気に筆を走らせた。甍の波の背には澄渡った秋空が広がっていた。
 曼荼羅堂、西塔、講堂を廻り中之坊の門前に立った。中之坊は中将姫に(ちゅうじょうひめ)まつわる伝説で名が知られる。門内に足を踏み入れ玄関に入った。玄関の正面、横に長く絵葉書などの土産品が並べてあった。奥から女が出て来、
 「お庭の拝観ですか」
 と云って女は絵葉書を並べたカウンターに眼を落した。
 「ええ・・・」
 ズボンの左ポケットに手を突っ込んで小銭入れを掴み、百円玉を五個選んだ。女にお金を渡した際、
 「作家の内田康夫は中之坊に滞在していたのですか。今毎日新聞日曜版でー箸墓古墳ーが連載されています。小説では中之坊の名は出てこないが、当麻寺の塔頭のひとつに探偵浅見光彦が常宿して、箸墓古墳にまつわる殺人事件の解明をしています」
 「折口信夫先生は関係があったように聴いていますが、その方は知りませんが・・・」
 折口信夫は小説ー死者の書ーで、当麻寺中之坊を舞台に、藤原家の娘中将姫が当麻曼荼羅を蓮糸で織り上げ、ある日浄土の世界に旅立っていく姿を描いている。
 一方、内田康夫の小説ー箸墓古墳ーでは、橿原考古学研究所のある先生が中之坊を常宿として、箸墓古墳の研究をしている、という設定だ。先生はある時、山奥の湖で変死を遂げた。そこで探偵浅見光彦が登場し事件解決を図る。小説では中之坊の住職には考古学を眼指す娘さんがいた。色々な人間が絡み合い筋書が流れる。そのひとつの舞台が中之坊である。
 当麻寺は小説になる題材に事欠かないロマンを秘めているのかも知れない。
 カウンターの端に陀羅尼助と書かれた袋があった。その時は変った名だ、といった印象を持ったに過ぎない。文を認めている際、当麻寺中之坊のホームページを検索した。幾つかホームページがリンクし、ホームページの片隅に陀羅尼助、と字が躍っていた。
 吉野蔵王堂を訪れた際、参道に面し一際、旧い造の店があった。軒端にー陀羅尼助ーと漆喰で塗固めた、と思われる重厚な看板が建物と一体的に造られていた。ガラス越しに店内に品物が並べてあるのが見えた。その時は、中味より器である建物により興味を持った。
 陀羅尼助はだらにすけ(・・・・)と読む。陀羅尼助の開祖は修験道の祖役行者といわれる。役行者は当麻寺塔頭中之坊を開創、当麻の地で井戸を掘り、水を清め、薬草を煮て和漢胃腸薬を煎じた。
 文武天皇の代に疫病が流行し、役行者は境内に大釜を据えて薬を作り、病人を救済したという話だ。平安末期から受継がれてきた胃腸薬である。
 吉野の店は陀羅助、当麻寺中之坊の方は陀羅尼助と呼ばれる。奇妙な名の由来はホームページによれば、
 「ー陀羅尼ーとは僧侶が仏さまにお唱えする供養の言葉ー真言ーのことです。最も古式な製法を受け継いできた中之坊では、薬草を煮詰める際に、仏さまに陀羅尼をお唱えするのです。これが名前の由来であり、またこの陀羅尼の読誦こそが陀羅尼助の効き目を高めるというわけです」
 寺院空間に浸っていると刻の経つのも忘れてしまう程惚れ込む、けれども歴史についてはその空間ほどの興味は憶えないことが屡々だ。けれどもふっとしたことから歴史を繙くとそこには、深い歴史空間が広がっていることに気付く。
 
 玄関の右手から中之坊庭園香藕園(こうぐうえん)に足を踏み入れた。
 当麻寺中之坊のホームページに香藕園について次のように記されている。
 「香藕園は片桐石州が改修したことで知られる大和屈指の名園です。心字池を中心に飛び石を配し、極端に低い土塀で二段構えにして奥行きを持たせ、背後の三重の塔を映えさせています。歩いて鑑賞する「回遊式庭園」であると同時に、書院の縁より眺める「観賞式庭園」という二つの面を持たせた巧みな設計になっていて、古くから大和三名園の一として知られます。(大和三名園:古くは大乗院・中之坊・竹林院/現在は中之坊・慈光院・竹林院)」
 大和三名園のひとつ慈光院は大和小泉にあり、あられこぼしのアプローチが印象的だった。慈光院は小泉城主片桐石州により、建てられた。慈光院については拙著ー大和・光と影 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺ーに詳しい。
 三名園のあとひとつ竹林院は吉野にあり、かっては熊野詣のための宿坊であったが、現在はホテルを運営し天皇陛下も宿泊したことがある。寺に隣接して庭園群芳園がある。群芳園の頂から望む金峯山寺蔵王堂は、周囲の自然と同化した優しい表情を現していたことは、記憶に新しい。竹林院については拙著ー大和・光と影 二吉野金峯山・金峯神社・西行庵ーに詳しい。
 建物に沿って池との間に散策路が延びる。対岸には朱色から橙色に染まった錦秋が燃立っていた。東塔の三重塔が秋空に浮び、紅葉の渦に溶け込む。禁欲的な表情を現す曼荼羅堂からは、この華麗で濃艶な光景は想像できない。
 当麻寺本堂曼荼羅堂を正面にした山内の禁欲的な姿は空間の表、中之坊を始めとした塔頭の山内に背を向けた書院は空間の裏、表と裏、公共空間と私的空間、あるいはハレとヶの空間、築地塀がそれらの結界を築いている。
 塔頭の主にとっては表と裏が逆転し、書院空間が表で山内空間は裏である、という意識に違いない。斯様な華麗な空間に浸っていて、一般衆生を導くことが出来るのだろうか、素朴な疑問が脳裡を過ぎった。
 錦秋に包まれた東塔にスケッチブックを翳した。筆ペンをウエストポーチから引抜いてキャップを外し口に銜えた。まず東塔の最上層の軒端のラインを、画面の大きさを勘案して心持円みを付けて引いた。この一本の線で全てのプロポーションが決る。
 塔の甍の波に神経を集中して描き、あとは一気に筆を走らせた。傍らに、書院に続いた茶室に見入っている初老の男三人がいた。
 「後西天皇玉座じゃないかな、この茶室は大和小泉城主・片桐石州が造ったらしいよ」
 かつては建築関係にたずさわっていたグループらしく、男達は五畳台目の茶室を覗いていた。この茶室は径一・八メートルの大円窓が切られていることから丸窓席と呼ばれる、男達を横眼に、散策路に敷き並べられた飛石にスケッチブックを載せ、色付けを始めた。
 鮮かに色付いた紅葉の手前には、緑葉を付けた樹が立上がる、けれども背後の錦秋に溶け入り枝葉は霞んで見える。
 中之坊の堂宇に沿った散策路を廻り、玄関に戻った。山内のメインアプローチ路に出、仁王門に足を進めた。夏に訪れた際、当麻寺山内では数人の人影を眼にした、紅葉の盛りには若干遅い晩秋の今日、当麻寺にはやはり二三の人影があったに過ぎない。祝祭日には多くの探索者で賑わうのだろうか。
 気が遠くなりそうな歳月を潜り抜け、静かに佇む当麻寺の堂宇を眼前にし、一瞬タイムスリップした印象を憶え、深い静寂に引入れられた。
 仁王門を潜り真直に伸びた参道を当麻寺駅に向った。参道に軒を並べた店の波が途切れた辺で振返った。
 山端を厚い黒雲が覆っていた。黒雲の細い僅かな切れ間から、淡い朱色の夕焼が顔を覗かせていた。切れ間は蛤の口のようにほんの僅かな弧を描いていた。
 駅近辺の小綺麗な造の店で、コーポ滝川の主人への土産にと、中将姫饅頭を買った。二上山を訪れた心地よい疲れを憶え、難波行近鉄線のシートに深々と躰を沈めた。車窓には、二上山雄岳、雌岳二瘤の頂が無言の相で佇立(ちょりつ)していた。                    
   
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