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読後感想 山口佳延写生風景 絵と文 建築家・山口佳延 |
9 山辺の道三ー長柄から天理へ
近鉄天理駅に降りたった。タイミング良く桜井行の二両連結の可愛らしい電車が、JRのプラットホームの先端に見えた。
天理駅から長柄駅へは一駅だ。車窓の風景を愉しむ間もなく、電車は長柄駅に着いた。春先、山辺の道を巻向から長柄へ向って歩いた。山辺の道の続きを長柄から天理に歩く。
長柄駅を降りたち細い路地を長柄集落に足を進めた。幅二メートル程の路地の左方に白壁の築地塀が連なっていた。塀内からは勾配のきつい切妻の重厚な屋根が立上がっていた。庭からは数本の木立が伸び、澄渡った秋空に淡い緑葉を点々と付けていた。
鈍色(にびいろ)に輝く瓦と冷たく透き通った青空、そして頼りなさそうに晩秋の微風に揺れる緑葉、それらの空間要素が好く響き合っている。
この光景には見覚えがあった。以前、訪れたことのある天理教教祖・中山ミキの生家だ。その際、特別の眼で見ていたためか内部から見た生家には、近寄りがたい神性が漂っていたことを憶えている。路地から見渡す生家は豊かな庶民の表情が現れていた。
ウエストポーチのチャックを右に引きハガキ大の小スケッチブックを引張り出した。それから筆ペンを引抜きキャップを外して口に銜えた。スケッチブックを切妻屋根に翳し構図を考え、一気に筆を走らせた。
描いている間、行交う人もなく世の喧噪からかけ離れ時間が静止した感慨を憶えた。
只菅三輪山を目指して足を進めた。道は緩やかな登り勾配である。ところがいつまで経っても山辺の道に行当らない。足は畑の畦道に入っていた。温室栽培の畑で、ハウスの手入れに忙しそうに働く農夫に話しかけた。
「何を栽培してるんですか」
農夫は忙しそうに動く手を休め、
「イチゴの温室栽培だが、年寄の小遣稼ぎになるだけで、なんぼにもならない。ビニールを二重にして霜が降りないように・・・」
農夫は穏やかだが、寂しそうな表情を見せていた。
山側に眼をやった。三輪山連山が淡い朱色から橙色にパステルカラーに染まって左方に緩やかに降る。手前には近傍の灌木が朱色に色付いている。民家の瓦屋根の連なりが、それらの色の饗宴に挟まれ鈍色に輝きを放っている。
畑の畦道はくねくねと折れ、進むには効率が悪い、けれどもひとりで歩くには足触りに軽い弾力を感じて心地よい。
旧い集落を抜けると山辺の道への標識が立っていた。眼下には田園風景が広がっていた。アスファルトで舗装された道を進んで行くと蜜柑農園があった。ウイークデエーのためか客はいない。
デイバッグを肩から降ろし観光農園の休憩所のベンチに置いた。休憩所の傍らのカウンターに柿が並べてあった。大粒の柿が二個で百円、側の水道で買った柿を洗った。柿を食べながら坂道を登って行った。
石垣がそそり立つ辺で、柿を買う際に傍らのベンチに、スケッチブックを置忘れたことに気が付き、農園に引返した。
スケッチブックを小脇に抱え、再び坂道を登っていった。坂道を四人の中年グループが降りてきた。恐らく天理方面から歩いてきたのであろう。その顔には心地よい疲労感が現れていた。坂道にそそり立つ石垣が途切れた辺に、路傍のお地蔵さんが立つ。竹製の花入れに草花が挿してあった。長閑な風景にしばし足が止った。
道は深く山に分け入っていき、しばらく田園風景が広がった穏やかな光景が続いた。程なく先方に鳥居が現れた。鳥居の背には朱色から橙色に色付いた羽毛のような森が控える。
瞬間、石上神宮に違いない、と思った。けれども石上神宮にしては早く着きすぎるのでは、そんなことを考え、砂利道の左方に広がる畑との境に立つ。
スケッチブックをふわっとして柔らかな感触の森に翳した。いい具合の構図だ。ウエストポーチのチャックを右に引き、筆ペンを引抜いた。それからキャップを外し胸のポケットにいれた。
鳥居の水平線を横に引いた。鳥居のスケールが決ればその比例で森のボリュームも決る。小さな鳥居の手前で、畑の中を砂利道が伸び、路傍の道端には野草が頼りなさそうに繁っていた。道の右方には沼があった。沼の水は濃緑色に澱んでいて人を寄せ付けない拒否的な佇だ。
砂利道は鳥居を抜けて鮮かに色付いた林に溶け込んでいった。小さな森の真中辺に一際大きな樹が枝を広げ、淡い緑葉の葉擦れに太い樹幹が覗いていた。
砂利道にスケッチブックを置いた。ウエストポーチからヴァンゴッホの水彩絵具を出し、サブポケットから水器を取出し砂利道に拡げた。
思い付くまま、朱色、橙色、グリーンと色をのせた。描く間に晩秋の柔らかな陽差しが降注ぎ一時、刻の経つのを忘れた。
描き終り鳥居に足を進めた。鳥居脇に立つ案内板にー夜都伎(やつぎ)神社ーと記されていた。石上神宮ではなかった。
鳥居を潜り境内に足を踏み入れた。樹々に囲まれて鬱蒼とした境内は、外界の冷たく光った明るさと対峙するかのように湿った空気が漂い小暗い空間が支配していた。
境内の周りでは年寄のグループが、三々五々、幾つかの固まりになって弁当を拡げていた。初めてのグループらしく境内にはぎこちない空気が流れていた。
正面、石燈籠が並んだ向うに見るからに旧そうな拝殿が立つ。拝殿の屋根は茅葺で鈍い光を反射していた。茅葺屋根の下部は草の緑で包まれ、屋根の薄茶色と混じり合い古風な雰囲気を漂わせていた。
拝殿奥には朱色も鮮かな小さな鳥居、本殿が立つ。夜都伎神社には豪族を祀る神社というより庶民の信仰に根ざした土着的な神社の印象を受けた。
拝殿の背は橙色に色付いた黄葉で埋め尽され、茅葺屋根の旧さとの対比が面白い。拝殿を小スケッチブックに描き境内の裏から出て先に足を進めた。
長閑な道を下っていくと、樹高が低く水平に枝が張出した柿の木の果樹園が、道の両側に広がっていた。細い山道の土手にデイバッグを置き、ウエストポーチから小スケッチブックを取出し、筆ペンの腹部でくねくねと曲った柿の木の樹幹を描いた。
描く間、夜都伎神社で弁当を拡げていた先刻のグループが通り過ぎていった。
素朴な山道は程なく、永久寺跡に出た。立派な石碑が道が折れる角に立ち、永久寺の由来が記されていた。道の対面には溜池があり、現在は釣堀として利用されている。
右手の高台には樹々に包まれ、切妻型の屋根を見せた民家が立つ。白壁と瓦屋根、緑葉と晩秋の青空それらの取り合せに新鮮なデザイン感覚を憶え、思わずスケッチブックを構えた。
民家の手前には数本の細い樹が立上がり、樹頂部では僅かばかりの緑葉が、点々と青空に浮んでいた。
内山永久寺は江戸時代末期、四十坊近くの伽藍があり、上街道の浄国寺北側より永久寺西門に至る、石畳の道筋には参詣者が絶えなかった、と云われる。明治維新になり広大な寺領、伽藍は売りに出され、堂坊から礎石に至るまで剥取られ現在、田園風景の中にその面影を遺すに過ぎない。
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石上神社近傍 | 三昧田 天理教教祖生家 |
程なく巨樹が立上がる鬱蒼とした林に入っていった。石上神宮が(いそのかみじんぐう)近いことを感じさせる。本道から別れ林中に分け入った道、古色豊かな石段が上方の社に伸びる。苔生した石段に魅せられ緩やかに登る石畳に足を進めた。けれども石段は木柵に突き当ってしまった。
来た道を戻り本道を進む。左方の小さな池に朱色から橙色に色付いた枝葉が差掛かる。池の畔、灌木の中に歌碑が立つ。
をとめらの 袖ふりし 神さびて 呼びとよむがに 老杉の声 吉田宏
自然石に彫られた歌碑には情緒を感じる。ウエストポーチから小スケッチブックを取出し素速く筆を走らせた。
廻廊に沿った石段の背には、黄色に色付いた枝葉が晩秋の陽光を受けて、透き通るような淡い輝きを放つ。
左方の廻廊に楼門が口を開ける。楼門から続く廻廊は神社境内を囲み拝殿に至る。上賀茂神社と同様なコンセプトにより計画されている。
上賀茂神社では楼門とアプローチの軸線は真直ではないが、同一線上にあった。石上神宮では敷地の関係であろうか、楼門に続く廻廊はアプローチの石段に平行である。楼門、拝殿、本殿の軸線に対しアプローチの軸線が直角に折れ曲っている。
そのため石上神宮では、長い参道を歩く参詣者は廻廊を横目にし、林に立上がった巨樹から張出した溢れんばかりの枝葉の中を突進む事になる。
楼門の対面に苔生した古風な石垣が立ち、石垣の間を石段が上方に伸びる。頂に小さな社の木肌が覗いていた。時代を感じさせる石段に足を掛けた。
頂の空地に面して石上神宮摂社(せっしゃ)出雲建雄神社の拝殿が横に長く伸びる。この簡素な摂社は内山永久寺の鎮守社だった社で、明治時代廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が吹き荒れ、打捨てられていたのを石上神宮に移築し摂社とした、と云われる。
登ってきた石段を振返った。正面に楼門が門戸を開いていた。楼門の左右には巨樹が対をなして立上がり、楼門に対する門のような構えを見せる。楼門の左右というより石段の左右に巨樹は立上がる。
楼門には黄金色に色付いた枝葉が差掛かりさりげない佇を感じさせる。開いた門戸からは拝殿前の境内の玉砂利が、陽光を浴びて輝きを放っていた。
神社仏閣では、山門あるいは楼門に至るアプローチ空間に惹かれる。宗教界と俗界との接点に異種文化の薫りを憶えるのかも知れない。
崇神天皇の御代、天皇は天剣を物部伊香雄命に銘じて十種神宝と(とくさのかんだから)共に石上邑に奉祀された。これが石上神宮の始りといわれる。当時、物部氏が石上に勢力をふるっていた。
傍らに歌碑が立つ、
をとめらが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひきわれは 柿本人麻呂
物部氏は武門の棟梁でありーもののふーの原型とも云われる。更に物部氏は精霊を意味するーものーを扱う呪術に長け、十種神宝をもって、天皇の霊を扱ったという。
廻廊に囲まれた境内は一分の隙もなく、研ぎ澄まされた空間だ。正面拝殿の先に禁足地を挟んで、大正二年に建てられた本殿が立つ。この禁足地からは本殿建設の際、沢山の剣、矛、勾玉などが出土した。
楼門を出、天理に行くか更に山辺の道を進むか、石上神宮の背に広がる森を見上げて思案した。楼門に連がる廻廊に沿った道を進んだ。廻廊の外れ辺から道は山道になり、巨樹が立上がる中に一筋の航跡を延していた。傍らの道標にー山辺の道・奈良ーと記されていた。
進むに連れ道は深い森に分け入っていった。道筋に立ち止った。このまま奈良方面に行けるところまで歩くか、巨樹から張出した枝葉を見上げて考えた。やはり天理を訪れる事にした。
楼門を通り過ぎ石段を下りた。数匹のシャモが石畳で餌を啄んでいた。その姿には半ば野生に近い精悍な印象を憶えた。ウエストポーチのチャックを右に引き、小スケッチブックを取出した。それから筆ペンを引抜き、キャップを外して口に銜えた。シャモに視線を据え、一気に筆を走らせた。
来る時には石上神宮の脇、鏡池沿いの道からアプローチした。天理へはメインアプローチを進む。大きく立派な鳥居を潜る。周りは巨樹の枝葉が繁って鬱蒼としていた。
山道に付けられたアスファルトの道を下って天理市街に出た。長閑な山辺の道が虚構空間だったのでは、と思われる程、無味乾燥な市街地が続く。角を幾つか折れると、彼方に瓦を載せた切妻屋根が浮んでいた。切妻屋根に鳩小屋を付けたその光景は圧倒的な迫力で迫ってきた。自転車に乗った学生風の男に訊いた。
「あの建物はなんですか」
「ああ天理大学ですが」
天理教案内所で貰った天理教マップに因れば、今歩いている道は、天理市を東西につらぬいて走るー親里大路ーである。進むに連れ切妻屋根は大きくなった。
程なく親里大路はかなり広い大路と交差した。天理教伽藍配置を南北に貫く軸線、真南通だ。高台に立つ天理大学は、切妻屋根の平側を軸線側に葺き降ろす。規則的な間隔をおき鳩小屋の妻面が現れている。
窓枠は朱色に染められ、瓦のバーントシエナ色と好く響き合っている。この建物は真南棟と呼ばれ天理大学の他に、天理小学校、教庁、天理参考館等の施設として使用される。
この横長の真南棟は、交差点から眺めると三両連結の列車のように見える。真南棟の一階部分を真南通の大路が抜け、先方にのびている様子が、此処からでも手に取るように解る。
都市の壁の如くそそり立つ景観を眼にした際、圧倒的迫力を感じたことは事実だ。迫力の裏側には、政治、行政を思うままに動かす全体主義的な空間が覗いている。
天理大学がある真南を背にし軸線の北側、天理教教会本部に足を進めた。まず最初に待受ける施設は豪快な黒門、漆黒に染められた矩形の鳥居だ。この鳥居にしてもこれほど巨大なものは知らない。
まだ科学技術が未熟な時代には、時の権力者は自らの舘を構築する際、権力を誇示するにしてもその大きさには限界があった。ところが現代においては、限りなく巨大な舘を構築することが可能だ。
黒門の向うに神殿が覗く。手前にそそり立つ黒門が余りに巨大であるため神殿は小さく見える。ここで記念にと思い、ウエストポーチのチャックを右に引き小スケッチブックを取出し、脇にたてに入れてある筆ペンを引抜いた。
まず画面一杯に鳥居の黒門を描き、それから鳥居の矩形の中に納っている神殿に筆を走らせた。道路を始めとした構築物が非人間的なスケールであるため、自分自身も一個の人間である、という揺るぎない事実さえ忘れ、自らが構築物の一要素であるかのような錯覚を憶えた。
描き終って黒門を潜り神殿に足を進めた。神殿の木製の床板は鏡のようにぴかぴかに磨かれていた。神殿の要処要処に信者の警備員が立ち、床の拭掃除に精を出す、法被姿の信者が忙しそうに動き回っていた。
神殿の四方に設けられた拝殿では、信者が天理教独特の詞を発し掌を廻したり返したりし時々、頭を垂れていた。この神殿四方から祈るところから、これを四方正面鏡屋敷と云うらしい。天理教のホームページによれば、
「四つの礼拝場の真ん中に神殿があり、その中央のーぢばーに、人間を宿し込まれた証拠としてーかんろだいーが据えられています。そこは親神の鎮まるところであり、信仰者の礼拝の目標となっています。礼拝場は四つあり、ーかんろだいーに向かって、だれでもが四方から参拝できるように建てられており、二十四時間(南礼拝場のみ)、いつでも参拝することができます」
私は天理教の研究者でもないためーぢばーあるいはーかんろだいーについて詳しくは解らない。ただ四方から礼拝するという発想には新鮮な驚きを憶えた。
脳裡の片隅で、ベルリンフィルハーモニー劇場の流動的な内部空間を考えた。ベルリンフィルハーモニー劇場ではホール真中に演奏のための舞台が設えられ、一般聴衆は中央の舞台を取巻いた客席から一点の演奏者を見据える構図、となっている。
そこには古典的なオペラ劇場に必ずあるプロセニアムアーチはない。演奏者と一般聴衆とを隔てる空間要素はなく、演奏者と一般聴衆は一体的な空間を共有する。
天理教の神殿いおいては教祖と信者の一体を考えて四方正面鏡屋敷と呼ばれる空間形態をとっているのか、あるいは大勢の信者を捌くために四面から本尊に向うシステムを考えているのだろうか。
私の知る限り斯様な形態の神殿は知らない。宗教空間では威厳を保つため、あるいは厳粛な空間を演出するため、神殿の本尊一点に一般聴衆の視線を集中させる手法がとられることが多い。
神殿をゆっくりと廻った。要処に見張役の信者が立つ。四方正面鏡屋敷の中央には白装束の神官が両脇に座る。その姿を見、天理教においても神官が存在することを知った。
神殿北側に広がる中庭を通り教祖殿に足を進めた。中庭は空中廻廊で囲まれ、そのスケールの雄大さには驚いた。
帰りには本殿一階のサービス通路を抜けた。団体の参拝者はこの地下のような通路から入り、沢山並べられた下足箱に履物を入れて上階の神殿に至る。
天理教では宗教施設を見学する際、特別に記帳したり問責される事はない。信者と変らず神殿に入れ、自由な空気が境内に漂っていた。
天理教本部に続く天理本通りを天理駅に向った。雲行きの怪しくなった天から雨が落ちてきた。晩秋の天理本通りには侘しい空気が流れ、道を行交う参拝者の姿は疎らだ。
天理本通りの両側にはもんぺ、駄菓子や、袋物屋、八百屋などの店が軒を並べ、さしずめ日本版バザールといった雰囲気だ。
天理駅が近付いた頃、川中美幸の演歌ーなにわの女ーが何処からともなく流れてきた。このアーケードには演歌が相応しい、そんなことを思い天理駅に吸込まれて行った。
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