大和路ー光と影 3
喜蔵院への道

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吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原・大杉谷へ
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
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YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
喜蔵院 蔵王堂参道
蔵王堂 蔵王権現像
大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原・大杉谷へ
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
 
 早朝七時半、高速夜行バスは近鉄大和八木駅に横付になった。
 八木駅で数人の客が下り、高速バス横腹に付いた荷物入れから、自分の荷物が出てくるのを待った。登山靴を履いた乗客は私以外に、中年の夫婦が一組いた。東京から大和上市に遙々来たのは、もしかしたら大台ヶ原に登るためかも知れない、と勝手に思った。
 昨晩東京は雨だった。到着した奈良も雨が白い筋を引いていた。二日後大台ケ原に登る前に吉野を散策しようと思った。
 雨では吉野に早く着いても・・・・。と思いながら大和八木駅構内を反対側に出た。道の対面に近郊の地図が掲げられていた。八木駅近くの街並を探索してみたかった。
間断なく白い筋が降注ぐ中に、傘を差して突進み、地図の前に立った。環濠集落として寺内町を形成している、今井町が近くにあった。今井町は大和八木駅から歩いて十分ほどの処だが、以前訪れたことがあった。この雨ではスケッチも出来ないだろう。
 再び駅構内に戻り、ぼんやりと雨が落ちるのを眺めていた。通勤、通学時間帯にぶつかったため、制服姿の高校生が幾人も駅に駆込んで来る。夫婦の登山客は構内の食堂で朝食でも摂っているのか、店のショウウインドウー前にザックが並べて置いてあった。
 結局、吉野に直行し、小雨そぼ降る吉野山でゆっくりすることにした。大和八木駅から橿原神宮駅に出、近鉄吉野線に乗換え吉野を眼指した。大和上市駅を過ぎ乗客は私一人だけになった。雨が降っていたためか、閑散とした車内には寒々とした空気が流れていた。
 終点吉野駅も閑散とし、待合ロビーから外を眺めると、靄が立ち込め対岸の山が霞んでいた。待合ロビーの壁沿いに木製のベンチが廻され、その端のパンフレット置場に吉野の案内書が差込まれていた。
 その中から、吉野の地図と旅館、民宿のチラシを幾枚か引抜いた。引抜いたチラシをぼんやりと眺め、今日明日の行動予定を考えた。
 まずは蔵王堂へ、とザックを右手に掴み肩に掛け、雨滴が落ちる駅前広場に足を進めた。二日後、亀山平八郎、増沢肇両氏と、近鉄吉野線大和上市駅で落合い大台ケ原に登る予定のため、そのトレーニングも兼ね吉野山へはロープウエイではなく、歩いて登る事にした。
 広場右方の山道に足を踏み入れた。以前、蔵王堂に訪れたことがあったので、迷わず登山路を行く事が出来た。けれども傘を片手に差していたため新緑の吉野を愉しむ余裕は無かった。
 
 山頂のロープウエイ駅を過ぎると、先方に黒門が薄い乳色の皮膜に溶け込んでいた。其処には陰影はなく周囲の風景に同化した黒門が立つ。
 黒門先方の石畳の参道には、店が軒を連ね二三軒の店を除き、戸が閉められガラス戸が冷たく光っていた。ガラス越しに店内に並べられた土産物の品々が見えた。
 石段頂に立つ銅鳥居(かねのとりい)を潜り参道を進んだ。傘を後ろに倒し前方を見上げた。参道に軒を並べた家々の屋根の波、その遙か向うの頂に一際大きな蔵王堂が、堂々とした姿で現れた。
 巨大な蔵王堂が見える左方には、仁王門が大きく立ちはだかっていた。蔵王堂の基壇部が仁王門本瓦葺屋根の頂部になり、レベル差がある。そのため空間に変化が生れ、流動的な空間が醸し出されている。
 参道を直進して仁王門を潜り、裏手から弧を描き蔵王堂の正面に至る、その軸線の構図は以前、蔵王堂を訪れた際、経験済みだ。軸線の構図が見えるだけに、蔵王堂から参道へ水の流れにも似た、滑らかな動きが手に取るように解った。
 以前、訪れた際には、参道から見た、この軸線の構図には気が付かなかった。紅葉が終わりかけた晩秋だったとはいえ、訪れる探索者は今より多く、土産物店も賑わっていた。そんな光景に気をとられ、視線は上方の蔵王堂に向かなかったためかも知れない。
 雨が降っていなければ、スケッチをしたいところだ。スケッチブックを拡げられそうな土産物店の軒下を探したが、適当な軒下は見つからない。
 その内に仁王門の石段下に来てしまった。石段下から仁王門を仰ぎ見た。仁王門は石段の頂に聳り立ち、圧倒的な迫力で眼前に迫って来た。
 石段を上り仁王門下に立った。仁王門は以前描いたので、今回は仁王像阿形(あぎょう)、吽形を(うんぎょう)落着いてじっくりと描こう、と思った。
 ザックを石畳と仁王像とを隔てる、木製のごつい竪格子に立て掛け、雨で濡れたザックカバーをザックから取外し、竪格子の間に挟み込んだ。それからザックの周りにスケッチブックやヴァンゴッホの絵具を広げた。
 キャンソン紙のスケッチブックを左手に、口を閉じ無言の表情をした吽形に向って構えた。吽形像の伏目がちな眼から描き始め、太い鼻そして一文字になった口へとチャコール鉛筆を走らせた。
 細かい部分は気にせず思いつくまま線をキャンソン紙に載せていく。部分に囚われ過ぎると完成に近づくに連れ、イメージと異なる絵になる事が多い。それでもデッサンが出来上った頃には、張詰めていた糸が切れ、ほっと溜息を吐いた。
 石畳にスケッチブックを置き、吽形像の色付けを始めた。吽形像に微かに残る朱色を基調とした色合、暗紅色で纏め上げた。
 次は、反対側に安置され、のど仏が見える程大きく口を開け、眼をぐっと見開いた阿形像に向った。怒りの表情を表した阿形像は陰影が判然とし描き易い。一方、能面のような穏やかな表情は、影が判然とせず描き難い。
 
 一時間程、仁王門にいただろうか、仁王門から眼前に拡がる吉野盆地を見降ろした。けれども眼下には一面、ベールに包まれた、乳色の大海が拡がるだけだ。
 思い付いたようにザックを仁王門に置いたまま、石段を下りて行った。仁王門下に構える葛餅の店で、
 「この辺に旅館か民宿はありませんか」
 手持無沙汰に道行く人を眺めていた主人は、
 「其方の車道を行けば、幾つか旅館が並んでいますよ。真直進んで、蔵王堂を通って行っても向側に出られますよ」
 主人は右手で左方を指差した。その道は蔵王堂の下を巻いて蔵王堂正面の石段に出る車道だったかも知れない。
 早めに旅館か民宿を決め、ザックを預けておきたかった。仁王門に戻ってザックを背負い葛餅店の主人に教えられた車道を歩き始めた。
 二軒ほど旅館が並んでいた。けれどもそれを横目にし蔵王堂正面の幅広い石段下に出た。蔵王堂へは旅館が決ってから、と思い車道の参道を吉水神社がある先方に進んだ。
 此処からは本格的な参道になり、土産物店や商店が参道の両側に軒を連ねる。家が立て込み判然としないが、多分、山の尾根筋にリニアーに参道がつけられているのでは、と緩いカーブを描いた道を歩きながら思った。立並んだ店の彼方此方に、水墨画展のポスターが貼ってあった。後でゆっくり見ようと思い、ギャラリーのある場所はどの辺か、とポスターを眺めた。
 どの辺かと調べる間もなく、参道左方にガラス張りのギャラリーがあった。吉野山山頂にギャラリーとは、旧さと新しさが混在し面白い。客層を観光客に絞ったギャラリーに違いない。
 内部には大小バラエテーに富んだ水墨画が、処狭しと壁に懸けてある。入口側の受付には雑多な書籍が積上げてあり、中には本に埋れて、頭をスキンヘッドに剃り上げた若い男が、座って本を読んでいた。ガラス戸引いてギャラリーに入った。
 「見ても構いませんか」
 「ハイ どうぞ・・・・」
 久し振りに来た客らしく男は吃驚した表情で、本に落していた顔を上げた。
 「水墨画ですか、この絵はそちらがお描きになったんですか」
 スキンヘッドの男に云った。男は頭だけでなく顔も、スキンヘッドに似、テカテカツルツルし光っていた。眼鏡の底に、人の善さそうな眼が輝いていた。
 「いえ井上憙齎(いすい)・・・私ではありません」
 スキンヘッドはギャラリーの経営者にしては、人を品定めするような眼付はなく、従業員にしては応対がマニュアルどおりではなかった。念のため訊いた
 「そちらは先生の息子さんですか」
 「ええ次男です」
 スキンヘッドは笑って答えた。
 外に貼ってあったポスターのタイトルにー放浪の水墨画家・井上憙齎ーと墨で記されてあった。井上は近年吉野に魅せられ、蔵王堂を始めとした吉野地方の春夏秋冬を墨で引き、ポイントに淡い淡彩を載せた水墨画を描いている。
 ギャラリー奥に足を進めた。スキンヘッドは私が絵の前に立ち止り、興味深そうにしていると、
 「この書は母が書いたもので、父と母の合作です」
 スキンヘッドは吉野を描いた水墨画、画面右中央に跳ねた書を指差して云い、
 「この彫物は兄の作品で・・・、うちは一家皆、父に関係した事をしています」
 水墨画が懸けられたいる下に、展示された彫物に掌をやり若者は照れた顔をして云った。
 「これは私がパリに滞在していた時、描いた水墨画です。似顔絵を描いて生活費を稼ぎ、パリには一年程滞在し水墨画を描いていました」
 スキンヘッドの掌の先に、十号位の流動的で勢いのある、パリの街並を描いた水墨画があった。その上には枯木を描いたのか、樹木の幹と瘤を鉛筆で克明に仕上げてあった。
 スキンヘッドの父親、井上憙齎は一家を引連れ放浪していたらしい。若者と話すうちに、やはり放浪の旅をこよなく愛した、漂泊の俳人種田山頭火のことが脳裏を過ぎった。
 山頭火は妻子は勿論のこと、全てを捨て行乞を(ぎょうこつ)しながら日本全国を旅した。山頭火に比べ憙齎は放浪の仕方が徹底していない。けれども奥さんや子供達が、ここまでよく付いて来たものだ、と感心した。
 普通であれば、「好きなことをやるならば勝手に一人でやりなさい」と云われるのが一般的だ。憙齎の指導力が勝っていたのか、それとも奥さんはいざ知らず、子供達の忍耐力があったからなのか。そんな事を思い、男の話に耳を傾けた。
 
 プロの画家といえども、絵を売った金だけで、生計をたてるのは難しい。それは私もYkギャラリー吉祥寺なるギャラリーを運営しているため知っている。
 男は、私が今何を考えているのか察したらしく、
 「ここで、来た客に似顔絵を描いたりしてます。絵もぼちぼち売れなんとか生活してます」
 ここ吉野にギャラリーを開いてから一年になるらしい。ギャラリーの下の階に住んでいる、と云っていた。
 吉野の桜花を描いた水墨画、墨の裏に華やかな色が隠され、匂い立つ桜花が見える。無の空間から有の色合が見える。墨の濃淡で全ての空間を表現する。それも最小限の線であればあるほど、有の空間が瑞々しい新鮮さで甦って来る。
 蔵王堂を描いた大きな水墨画、それはかなり高処から俯瞰した絵だ。山の尾根筋にくねくねと軒を連ねたリニアーな門前町、尾根筋の家並は一際大きな蔵王堂に突き当る。その構図の大胆さと、墨の濃淡の中に秘められた咲誇る桜花に一瞬、眩暈を憶えた。
 父親の憙齎は夏には、吉野の奥の部落で個展を開く予定で、その次は四国の鄙びた部落で個展を開く予定らしい。その度(たび)に一家で民族移動のように一時的かも知れないが、現地に居を構え生活するらしい。
 
 定住生活に飽き足らない井上憙齎(いすい)は農耕民族ではなく、狩猟民族を先祖にしているのかも知れない。翌日、ガラス越しにギャラリーを覗くと、書籍に埋れ、スキンヘッドが一心不乱に本に眼を落している姿があった。
 思い付いたように、
 「どこか適当な旅館か民宿はありませんか」
 と訊いた。
 「この先の角を左に折れれば、吉水神社の近くに民宿がありますよ。お寺のユースホステルもありますよ。この先の喜蔵院といいます」
 「お寺のユースホステルがあるんですか、そこがいいかも知れない」
 ユースホステルではシエアードルームに違いないが、一晩、お寺に泊るのもいいかも知れない。今晩の宿は喜蔵院に決めた。
 
 参道を進み三叉路に出た。三叉路の角に食堂が二三軒あった。そのうちの一軒のショウウインドウに眼をやった。何処からともなく中年の女が出て来て、
 「どうですか・・・うどんもありますよ」
 と何気なく話した。食堂に入るかどうか迷っている者に、軽くジャブを押す。元々どこの食堂にしても大差はないため、そう云われれば、つい其処に足を踏み入れてしまう。
 雨で濡れたザックを靴入れに立て掛けて登山靴の紐をほどき、突き当りの眺めが好さそうな座敷に座った。うどんと吉野名物柿葉寿司を注文した。昼食を摂りながら、今朝から描き上げた数枚の絵の色付けをした。
 食堂前の三叉路は、真直に平坦な道が伸び、斜めに傾斜の強い坂道が登っている。喜蔵院へはこの坂道を行く。坂道の道筋に二三軒、瀟洒な旅館が立つ。喜蔵院手前の旅館は道を隔てて鉄筋コンクリートの新館と木造の旧館に別れていた。
 坂が幾らか緩やかになる辺に、喜蔵院山門が口を開いていた。境内には荷物を括り付けた自転車が沢山置かれ、学生が出発の準備中だ。中には自転車の荷台に大きなアルマイト製の鍋を、紐で何重にも回して括り付けている者もいた。
 彼等は近畿大学の自転車部で、大阪から自転車で、四時間ほどかけて吉野まで来たらしい。
 
 開かれた喜蔵院の玄関に足を踏み入れた。玄関には近畿大学の自転車部の男二三人が、忙しそうに動き廻っていた。寺の関係者は其処にはいなかった。
 「すいません・・・・すいません」
 声を張上げたが、なんの反応もない。
 式台を上がった板張のホールにいた学生が此方を見、
 「呼んで来ましょうか」
 と云って、左手奥の座敷方に向った。奥から体を重そうにした、住職さんの奥さんらしい女性が出てきた。
 「今日、泊めて頂きたいんですが、会員証は持ってませんが大丈夫ですか」
 「ええお一人ですか、それは大丈夫ですが、板前さんが休んでいるもんで・・・、夕食がなくても良いなら泊れます。朝食はありますが」
 「ええ一人です。それで結構です。二日ほどお願いします。荷物を置かせて下さい」
 と云って肩からザックを降ろし、受付の腰壁にザックを立て掛けて表に出た。
 明日は吉野の奥千本方面を探索する予定のため、今日は吉野神宮方面を探索しようと思っていた。
 
 まずは蔵王堂へ、喜蔵院の山門を出、坂道を来た道に戻った。
 丘の頂に、蔵王堂は二年前と変らぬ圧倒的迫力で立っていた。雨が落ちていたためか、その表情は、豪快な中にも静かな佇を表していた。蔵王堂に関しては、大和ー光と影二 吉野金峯山寺蔵王堂に詳しく書かれているため、そちらを参考にして頂きたい。
 本堂の背後に朱塗も鮮かな蔵王権現本地堂が立っていた。本堂から仮設の渡廊下が設けられていた。蔵王権現本地堂には蔵王権現の本地仏釈迦像、千手観音像、弥勒菩薩像の三尊像が祀られている。ただ新しいためか、感慨は湧いて来なかった。
 本堂裏の壁沿いに寺宝が幾点か展示されている中で、三鈷杵(さんこしょ)あるいは、五鈷杵と名付けられた法具があった。長さ二〇センチほどで、先が弧を描いて幾つかに別れ、それが頂点の端部で合さる法具で金剛杵の一種らしい。それを役行者は右手に水平に持っている。
 金剛杵とは、広辞苑によれば、以下の注釈がある。
 「もとインドの武器。密教で、煩悩を破砕し菩提心を表す金属製の法具。修法に用い、細長く手に握れるほどの大きさで、中程がくびれ両端は太く、手杵(てぎね)に似る。両端がとがって別れていないものを独鈷(どっこ)、三叉のものを三鈷杵(さんこしょ)、五叉のものを五鈷杵という」
 本堂の周りに安置された幾つかの像を見て廻った。像に供えられた供物を、グレイ色の袈裟を纏った二十歳位の小僧さんが、お盆の上に載せた椀に供物を回収しに廻ってきた。
 「裏の方に展示されている、金へんに古と書いたものは何なんですか」
 と小僧さんに訊いた。供物を回収する手を止めて、小僧さんは訝しそうに私の方に血色のいい艶々した顔を向けた。小僧さんは何の事か解らず、眼を円くしていた。
 「此方です」
 小僧さんを本堂の裏手、三鈷杵が展示されている壁に案内した。三鈷鈴に指を差し、
 「これですが・・・」
 小僧さんは私が、何が解らないのか腑に落ちない様子で、
 「サンコシュと云いますが・・・」
 「金へんに古と書いてコ、と読むんですか。それはどんな意味なんでしょうか」
 「鈷とは、邪念を払う槍という意味があります」
 「衆生を救う仏様が何故、槍を持たなければならないのか、説法、言論で邪念を払わなければ、真の宗教とは云えないのでは・・・」
 「槍で敵を討つ、そのような事ではなく邪念を払う、あるいは寄せ付けない、そんな意味です」
 
仁王像 蔵王堂
 
 小僧さんは、やけにつかっかってくる男だ、といった表情をしていた。三鈷杵に関しては大凡納得できた。私は突き当りに安置された安禅寺の蔵王権現を指差し、
 「そこに蔵王権現が安置されているが、蔵王権現とは、仏像なのか、一見、不動明王像のような形にみえるが、不動明王ではないのですか」
 蔵王堂の本尊として、蔵王権現がどのような位置づけになっているのか訊いた。
 「開祖役行者が金峯山で修行中、釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩が現れたが、いずれも混迷の濁世にあえぐ衆生の救済を目的とする小角の意にはそわなかった。そして、最後に右手に三鈷杵を持って右足をあげ、悪魔降伏の忿怒(ふんぬ)の相で現れたのが蔵王権現で、不動明王ではありません」
 と小僧さんは話した。続けて小僧さんは、
 「金剛薩?の変化身であるために金剛蔵王権現、金剛蔵王菩薩とも呼ばれ、金峯山の守護神であると同時に、修験道における主尊でもあります」
 それでも蔵王権現が、仏教において如何なるポジションに列するのか、確たる理解は得られなかった。此処で簡単に理解できる筈がない。小僧さんに、
 「いろいろ教えて頂き有難う御座いました」
 小僧さんは、眼に優しい微笑を滲ませ、中断していた供物の回収を始めた。
 私は突き当りに安置された安禅寺の蔵王権現の前に立ち、左手に水平にスケッチブックを載せ、筆を走らせ一気に描き上げた。克明に描いたとしても時間を費やした割に、イメージが表現出来ない。半日程かけじっくり描けば、それはそれで大作になるに違いない。
 眼前にある蔵王権現と不動明王の違いはどこにあるのか、描きつつ思った。安禅寺はもともと金峯山寺山内の寺院だった。明治時代、廃仏毀釈により寺が壊され、蔵王権現だけが蔵王堂に安置された。現在、安禅寺の堂宇が如何なるものであったか、良く解っていないらしい。明治から、たかだか百数十年ほどの年月が経っているに過ぎない。安禅寺の蔵王権現、その忿怒の形相は悪魔に向けられたものか疑わしい。邪念渦巻く、人間界に向けられているのかも知れない。
 蔵王堂の豪快な空間を一枚も描かないのも寂しい。本堂内部では、その豪快な空間に圧倒されてスケッチブックを構えたが、描くには自分自身が余りに非力に過ぎた。それでは、と本堂を出、外部の柱が立並んだ拝所を描き始めた。
 蔵王堂右手隅に立ち、円い巨きな柱が連なる細く長い空間を眼前にした。先方は抜けているため、彼方に吉野の山並が薄い萌黄色を表し、乳色に霞んだ空に溶け込んでいた。この構図は細部に囚われてしまえば、筆が思うように走らない。思いつく儘一気に描くだけだ。
 
 以前、蔵王堂全体をF六のラフコットン紙のスケッチブックに描いた事があった。その絵は小事に囚われた絵であった。その時は、蔵王堂全体を入れなければ、と考え描き始めた。小さな水彩紙に、欲張って全ての構図を描こうとすると、意図したイメージは表現は出来ない。
 その際の徹を踏まないように、欲張らず蔵王堂の部分を描こう、と観音堂に並んだ愛染堂正面の石段に腰を下ろした。眼前に迫力ある蔵王堂が蔽い被さるように迫った。スケッチブックを蔵王堂に向けてかざし構図を考えた。スケッチブックを縦づかいにし、上下の広がりを意図し、画面から飛出た右方に蔵王堂が浮上がって見えるように描こう、と瞬間思った。
 この時描いた蔵王堂の絵を、夜喜蔵院の八帖間でハガキ絵にし、柴崎氏に送った。帰京後、柴崎氏からメールが来、
 「吉野からの葉書昨夕届きました。ありがとうございます。蔵王堂のスケッチ、とても良く描けています。この世に一枚しかない貴重な物で、私のお宝になります。蔵王堂の縁の下のご厄介にならずにすんだようで、なによりです。宿坊ー喜蔵院ーは予約無しの飛び込み宿泊ですか。世界中を放浪してきたシルバーさんならノープロブレムですね。
 大台ケ原は良かったですか。天気は回復しましたか。大蛇ーの下降は、渡舟は、 沢山聞きたいことがありますね。
 京都挨拶行きが延期になり、五日にスバル氏と二人で山梨の坪山へイワカガミを見に行って来ました。私がバスに乗り遅れタクシーで登山口まで乗り付ける豪華版でした。開花末期でしたが、頂上付近はまだ群落が見られました。快晴で富士山が良く見え、快適でした。
 イワカガミの写真添付します」
 柴崎氏のメールに蔵王堂の縁の下云々、と云う件が(くだり)あるが、吉野探索に際し運悪く宿泊先が見つからなかった場合には、蔵王堂の床下に寝袋を転がし一晩明かそう、と予定していた。考えてみれば、蔵王堂の床下には潜り込めたかどうか疑わしい。
 
 大寺院の本堂の床下は、土と石灰をかき混ぜ、水を加えて練った土丹と云う材料を、突き固めた基壇で構成されている。巨大な建築の荷重に耐えられるように、柱が載る礎石部は更に念入りに突き固められ、建築の骨格を構成する軸組を構成している。
 嘗て学生時代、一度だけ、寺院の床下に寝袋を転がして寝た事があった。石川県の輪島だった、と記憶している。夜半降りたった駅近辺には、我々学生が泊るに相応しい宿泊所は見当らず、一晩の宿を求め住宅街を歩き回った。
 最悪の場合は此処だ、と小さな寺の本堂に狙いを定め、なおも住宅街を歩き回った。結局、その寺に戻り本堂の床下に潜り込んだ。
 本堂の床下には、からからに乾ききったベージュ色をした土が、一面にあった。処々、擂鉢状の蟻地獄が穴を開け、痘痕(あばた)になった月面を見るようであった。其処に古新聞を敷き並べ、その上に寝袋を転がし、一晩のベッドをつくった。
 真暗な本堂の床下、後は寝るだけであった。その時は真夏だったため、藪蚊が床下を飛交い安眠にはほど遠い一夜だった。翌朝、睡眠不足気味な腫れぼったい顔のあちこちに、攻撃にあった噴火口が幾つもあったことを憶えている。
 
 蔵王堂脇をくだって仁王門に出た。話が遡るが、件のギャラリーの男が、
 「蔵王堂へ至るアプローチには順峯、逆峯と二つのルートがある。熊野から参詣する人は、広々とした石段を上がり蔵王堂の正面に出る。このルートを順峯、と云われている。
 一方、京都方面から参詣する人は黒門、発心門と呼ばれる銅鳥居を通り仁王門を潜って蔵王堂背面から本堂脇を歩き、蔵王堂正面に至る。この京都からのルートを逆峯、と呼ばれている。蔵王堂は熊野に向いた寺院だったんですね」
 と云っていた。この話を聴き、金峯山寺蔵王堂の規範を外れた空間配列が理解できた。以前、蔵王堂を訪れた際、金峯山寺には何故山門、本堂を真直に貫く明確な軸線が考えられていないのか、不思議に思った。その規範を外れたアプローチの方法に、軽い眩暈を憶えたことは、記憶に新しい。
 順峯、逆峯なる奇想天外な発想を知る前、蔵王堂が山頂に立つ寺院のため、物理的理由により、本堂の裏を通って本堂正面に至る手法をとった、と確信しその自由奔放なデザイン思想に、吉野の自由な息吹を感じた。
 しかし逆峯のルート上にあの豪快な仁王門があって何故、順峯のルートにそれがないのか、順峯ルートにも幾つか門はあるらしいのだが。
 この空間配列には金峯山寺蔵王堂のしたたかな政治的バランスが覗いている。
 蔵王堂は毅然として正面を熊野に向けて立つ。それは東大寺大仏殿に次ぐ、巨大で豪快な本堂が吉野山頂に、熊野に向けて佇立するのを見れば、一目瞭然だろう。
 一方、京の都人に対してはーあなたがたはメインではなくサブですが、寄付金も多額に亘ることであるしせめて、豪快な仁王門を貴公のルート上に立てましょうーと世事に長けた都人を宥めたに違いない。
 寺院と云えども社会を構成している、一つの要素である。社会の枠組から抜出ることはできない。空間的に相対立する二つの要素を順峯、逆峯という装置を差込むことにより、解決を図っている。その方法には、蔵王堂内部に立つ自然の儘の円柱に似、全ての人間を受入れる大らかな気風を感じる。
 来た参道を下って雨が落ちる中を吉野神宮に向った。参道の途中で振返った。土産物店が軒を連ねた参道の突き当りに仁王門があった。右手一層分高い位置には蔵王堂が靄に霞んでいた。スケッチブックを開いたが、雨滴が落ちキャンソン紙がジワッ、と滲む。
 仁王門がほどよく見える、土産物店の軒下を選びスケッチを描いた。雨が降っているためか、観光客の姿は見えず、店の従業員らしき人が時々通るのみだ。素速くデッサンを仕上げた。色付けは夜することにした。
 
 ロープウエイーの山頂駅辺までは変化に富んだ参道だったが、その先には、アスファルト道路が延々と延び殺風景な風景が続く。雨がしとしと落ちる中を歩いているためか、かなり長い時間歩いているように感じた。道路が下り坂になった処では、帰りが大変だなあ、と思って一人吉野神宮を眼指した。
 やっとの思いで着いた吉野神宮は、苦労して訪れたわりに感激は薄かった。砂利が敷詰められた境内の一角、本殿と拝殿を結んで廻廊が回され社殿が立つ。それは研ぎ澄まされた空間、と云うより権威に裏付けされた空間で、広い境内に、周りの空気に対立して立つ印象を受けた。設計上は開放されたように見えなくもないが、一般民衆と隔絶した印象を受けるのは、何に因るのであろうか。
 因みに吉野神宮は明治二十二年(一八八九)の創建で、後醍醐天皇が祀られている。
 雨の中、寒々とした空間を後にした。       
 帰路は上り坂となり、げんなりとした。道筋にあった広い有料駐車場に、吹きさらしの四阿(あずまや)があった。其処に据えられたベンチに暫く寝転がっていた。
 
 ここで話を蔵王堂へ至るアプローチ方法順峯、逆峯に戻してみたい。というのは、この順峯、逆峯について方向感覚が判然としなかったため、昨夜インターネットで吉野金峯山寺 順峯 逆峯、とキーワードを入力、検索してみた。
 疑問点のひとつ目は、順峯、逆峯の読み方である。ギャラリーのスキンヘッドは確かにじゅんみね、ぎゃくみね、と云っていた。けれども金峯山寺はきんぷせんじ、と読むことから、あるいはじゅんぶ、ぎゃくぶと読むのかも知れない。けれども順峯、逆峯の読み方に関してはインターネットでも解決出来なかった。でも幾つかの説明から推し量るに順峯(じゅんぶ)、逆峯(ぎゃくふ)、という説に落着いた。
 疑問点のふたつ目は、本当に三ページ前に述べたように、熊野からのコースが順峯で、京からのコースが逆峯であるのかであった。
 一浦野エマージュホームページ吉野三には次のように記されていた。
 「本堂の蔵王堂が南面しているのに、仁王門は北面していますが、これは北側から大峯山へ順峯入りする当山派の修験者にとっては入口に当たるので北面し、熊野から大峯山へ逆峯される本山派にとっては出口です」
 二別の資料、山口文逸氏によるー山の御伽草子ーには、次のように記されていた。
 「修験道では最初、役行者が熊野方面から来たとして熊野〜大峯〜金峯山の道を順峯といい、後に理源大師がその逆を行ったから、金峯〜大峯〜熊野のコースを逆峯と云う」
 二の論であれば私が述べた通りだが、一の論では順逆が逆転してしまう。
 ここで私は先入観念に囚われ、吉野山頂に散らばる蔵王堂と仁王門、大峯山寺本堂が立つ山上ヶ岳の空間的配列を、初心に返って頭に思い描いて見た。
 私は今朝、雨が落ちる中を、仁王門から弧を描き一回りして蔵王堂に至った。仁王門が北面するのであれば、蔵王堂も正面を北面させている事になる筈だ。
 それでは私が通って来た、参道〜仁王門〜蔵王堂〜ギャラリーのあった喜蔵院への参道〜喜蔵院、このルートがこよりを二つに折ったように、蔵王堂で折返される事になる。現実には、私はくねくね曲ってはいたが、線状に折返される事なく仁王門から 喜蔵院に至っている。確認のため吉野山てくてくマップを開いてみた。てくてくマップを見ると、山頂の道は明らかに蔵王堂で折返される事なく、更に先方の山上ヶ岳へと蛇行しながら伸びていた。
 ここに来て、遂に私も呆けてしまったか、と眩暈を憶えた。それでも何とか解決しようと他の地図を広げた。蔵王堂石段下から伸び、喜蔵院への参道は途中で大きく左方に蛇行し、南方に向けて走るのだろうか、と考えた。その論でも、幾らか蛇行はしているが、思っている程のカーブではない。
 午前〇時を過ぎた。分厚い羽毛布団にくるまり尚も順峯、逆峯について考えを巡らせた。
 脳裏の片隅に近鉄吉野駅からの参道が浮んだ。仁王門がが近ずくに連れ、仁王門右手に蔵王堂が聳え立つ姿があった。巨大な蔵王堂の足元に、朱色も鮮かな木造の蔵王権現本地堂が樹々の枝葉の葉擦れに覗いていた。
 蔵王権現本地堂は蔵王堂の背後にあって確か、渡廊下で入った筈である。だとすれば蔵王堂は明らかに仁王門とは反対側、南に向いている事になる。茲(ここ)に仁王門、蔵王堂、蔵王権現本地堂が鮮かに甦った。
 蔵王堂が南面していることが認識できれば、全てはパズルをとくように解けて来た。私は仁王門から直進し、木立の枝葉に包まれた道を、L型に歩き蔵王堂正面広場に出たのであって、∪型にアプローチしたのではない事実に気がついた。
 これで全ての疑問が解けた。仁王門から蔵王堂に至る、木立の枝葉が繁る道に錯覚を起し、枝葉の騒めきと共に、思考が揺らいだのである。
 吉野駅からの参道に立って望んだ蔵王堂は、その尻だった事になる。仁王門と段違いに並んだ蔵王堂が尻を都人に向けていたとは、これは一体、何を意味するのか。
 仁王門と並んだ蔵王堂は華麗であり、とても本堂の尻とは思えない。私の意識の裡では明らかに正面である。未だ嘗て斯様な二面性を持った空間に会った事がない。それ程、蔵王堂の空間配列は衝撃的だ。
 金峯山寺蔵王堂は大峯山、山上ヶ岳大峯山寺本堂を通って、熊野三山那智、本宮、新宮方向に正面を向けて立つ。
 遙か熊野からの修験道を迎えるため、、あえて京に背を向け、蔵王堂は正面を熊野方向に向けて立つ。
 吉野山頂に立つ蔵王堂で、竜巻のように渦が巻き、一本の細い筋が山上ヶ岳へ向けて波打ち、その筋は延々と熊野に至る。それは熊野への出発点であり、終点でもある。仁王門は京あるいは世俗に対峙し、蔵王堂は熊野三山そして修行空間に対峙する、この空間配列は雄大にしてロマンがある。
 この空間配列は、蔵王堂内部空間に見られる、既成概念に囚われない自由闊達で、意志があれば何人をも拒ばない思想に通ずる。
 羽毛布団にくるまってやっと眩暈は消え、修験道とは如何なるものであるか、沸々(ふつふつ)と興味が沸上がり、三鈷杵(さんこしょ)を左手にした役行者が、山上ヶ岳を駈けめぐる姿が瞼に浮んできた。
 
 喜蔵院への坂道と別れる三叉路に出た。三叉路に面し二三の食堂が店を構えている。静亭のショーウィンドーの前に立った。ショーウィンドーの中に柿葉寿司が並べてあった。喜蔵院では夕食はないため、柿葉寿司を買って、寺の座敷で食べようと思った。店内は明りが消えて暗く、座敷の奥の窓から夕暮のか細い陽が差していた。
 「すいません・・・・」
 呼びかけたが、応えが返って来ない。暫くして、
 「ハイ・・・・」
 と女の声が返ってきた。腰に黒色をした布を巻付けた若い女が、にこやかな顔を此方に向け出てきた。
 「柿の葉寿司を・・・・」
 「今日はもう終りで・・・・」
 申訳無さそうに女は云った。
 「泊っている処が夕食が出ないもんで、柿の葉寿司でも食べようと思って・・・・」
 「それなら今から、食事がつくれますが」
 「えっ、もう終りでは無いんですか」
 「ええ・・・・」
 女には商売に積極性が感じられた。おそらく女はこの店を取仕切っているのに違いない。ピカピカに磨かれた、ガラス戸を引いて店の中に入った。
 編上げになった登山靴の紐を解(ほど)き、座敷の上框に足を掛けた。明りが点いた左奥の席に壁を背にし腰を下ろした。吉野神宮へのアスファルト道路を歩き疲れ、肩から力が抜けていった。 テーブルにスケッチブックを広げ、ウエストポーチから水器、筆を出して、今日描いた数枚のスケッチの色付けを始めた。程なく女がメニューとお茶をお盆に載せ、持ってきた。
 「絵描きさんですか」
 「いえ、時々旅先で描くだけです」
 女はメニューを広げながら、
 「静弁当などどうですか」
 「・・・・・」
 私は、うな重に眼がいった。鰻は吉野川で捕れるらしい。結局、女に勧められた静弁当を注文した。程なく女は静弁当を持ってきた。静弁当はご飯は温かかったが、あとはおせち料理のようで冷えていた。やはりうな重にした方が良かったか、と思いながら食べた。
 食べ終ってから、弁当の器をテーブルの隅に寄せ、スケッチの色付けの続きを始めた。時々眼をやった店先には椅子に腰を下ろし、ぼんやりと外を眺めている女の背姿があった。
 思い付いたように、女がお茶を注ぎに来た。
 「大峯山の蔵王権現までは、どの位かかりますか」
 「十分位の処に蔵王権現がありますよ」
 女は大峯山に蔵王権現を安置した、大峯山寺がある事を知らないのか、金峯山寺蔵王堂のことを話した。
 「十分では行けませんよ」
 「・・・・」
 女は何かを云いたそうだったが無言だ。女はふっくらとした顔立ちに、くりくりとしたつぶらな眼を持ち、肌はつやつやとし、年の頃は二十歳を少し過ぎた位だろう。
 「大峯山は奥千本の西行庵、その先の方ですよ」
 「・・・・」
 前に畏まって座っている女には、まだあどけない幼さの香りが覗いていた。
 「あなたは此処の店の女将(おかみ)ですか」
 「ええ、母親が亡くなって急に学校を途中で退め、店をやってます。忙しい時には人に来て貰います。父親が調理の方はしています」
 「偉いですね、若いのに。今は、なかなか親の跡を継がないでしょ」
 我身を振返って云った。
 「女将と云っても、まだ一年しか経ってません」
 若女将の母親が元気な頃は、店先に立って、参道を行交う親子連れや登山客に声をかけ、呼込みを積極的にしていたらしい。若女将も時々、店先に立って、行交う人に声をかけている、と云っていた。
 先代の女将のやり方は、道行く人にまず声をかけ、ときには吉野の観光マップをサービスしていたらしい。そうすると帰りがけに「さっき地図を貰ったから」と云って、店に寄って呉れるらしい。
 吉野のギャラリーの話になった。
 「その人、もしかしてホクトさんかも知れません。うちにも憙齎(いすい)さんの絵が何枚かありますよ。長押の上に懸って・・・ご覧になりませんでしたか」
 若女将はそう云って、絵が懸っている座敷に立って行った。若女将について行った座敷に、憙齎の水墨画が四五枚懸けてあった。
 「これは母が憙齎さんに描いて貰った絵です。母は憙齎さんを良く知っていたようでした」
 そう云って、若女将は長押の上に懸った、墨で描いた先代の女将の絵を指差した。
 「お母さんは、若くて美人だったんですね」
 「この絵は少し若く描かれているかも知れません」
 と若女将は笑っていた。
 「これは蔵王堂ですね、雰囲気が良く表現されてますね」
 私は、六号位の蔵王堂を俯瞰した水墨画に眼線を向けて云った。
 「座敷に上がった際には、絵が懸けてあるのには気がつかず、通り過ぎてしまった。長押の上で目立たないですね」
 テーブルに戻って、若女将の吉野の話に、耳を傾けた。
 「うちは吉野建だから、下の階に住んでいます。他の家も大体似たような感じで住んでいます。山に建っているので・・・」
 「ああそうですか、吉野建と云うんですか」
 吉野山の平坦な尾根筋に、蔵王堂の参道が自然なカーブを描いて伸び、蔵王堂を過ぎてこの静亭辺から尾根筋の道は勾配がきつくなっている。
 家が尾根筋に建つため、敷地が片方に傾斜する事になる。その傾斜を利用して道路面のレベルに店を構える。下の階には和室や居間などの居室を計画しても、谷筋に開放され明るい部屋が確保されるのである。
 客一人のために店を開けている事が気になり、頃合を見計らい静亭を後にした。
 
 喜蔵院の玄関に足を踏み入れた。玄関ホールには朝の賑わいはなく、シーンと静まり返ってぃた。左手のガラスで囲われた受付で、奥さんが机に散らばっている書類に、眼を通していた。
 登山靴を脱いで受付の前に立ち、
 「朝、お願いした者ですが・・・」
 奥さんは重そうな体を此方に向け、
 「夕食はありませんが・・・・」
 申訳なさそうに口を開いた。
 「はいそれは聞いています」
 奥さんは、椅子に腰を下ろし申込み用紙にボールペンを走らせた。
 「会員証は・・・」
 「ありませんが」
 ビジター客は千円プラスされ五千円だ。その時、渡された領収書には、大峯山護持院喜蔵院と印鑑が捺されてあった。領収書の右隅に、マッサージ代という項目が目に付いた。近頃のユースホステルは中高年の客が多いのだろうか、と何気なく思った。
 宿泊手続を終え、奥さんに従(つ)いて玄関ホールに繋がる幅の広い階段を下りた。広い廊下に面し、ステンレスを折曲げてつくったシンクがあり、壁から突出た水道の蛇口が、五六個光っていた。
 三間つづきの奥の八畳間に通された。真中の部屋を挟んだ八畳間では、若い男が一人で、荷物の整理をしていた。奥さんはポットが載ったテーブルの前で、
 「此処にお茶がありますから自由に飲んで下さい」
 と云って、ポットの蓋に手を掛けた。
 「布団は此処にありますから」
 奥さんは廊下に面した布団部屋に入って行った。其処には数十人分の布団が積まれてあった。 「もう布団を敷いても宜しいですか」
 「ええ」
 私は、敷布団を引張り出し八畳間の片隅に広げた。シーツは洗濯上がりで、真白だった。
 「昔はシーツを持って歩きました。確か二重になっていてチャックがあり、シーツの中に入って寝ましたが」
 とシーツを広げながら話した。
 「チャックなどが付いていると、洗濯屋さんが、アイロンを掛けるのが大変で今では付いていません」
 私は思い付いたように、
 「三十数年前、生駒の千光寺に泊ったことがありましたが、まだユースホステルになっているんでしょうか。確か住職さんの娘さんが四人いたと思います。我々と同じぐらいの年齢でした。駅かバス停から歩き一時間程かけて、寺に辿り着いた記憶がありました」
 「千光寺さんは今でも、ユースホステルになっていますよ。娘さんは四人だったかな、三人やなかったかな。長女はんが婿はん貰ってます。長女はんも得度なさってますよ」
 生駒の千光寺のことは、三十数年前とはいえ、今でも鮮明に覚えている。
 夕方、生駒の駅を降りたち、樹々が鬱蒼と繁った生駒山の中腹を、ひたすら足を進めて登った。刻が進むに連れ辺は闇に包まれ、この先に寺が本当にあるのか、不安な気持で歩いた記憶がある。
 樹々の枝葉が差掛ける山道の先方に、寺の灯が揺らいでいるのを眼にした時には、ほっと胸をなで下ろし足が速くなった。千光寺の玄関に足を踏み入れ、住職さん夫婦と娘さん四人が迎えて呉れた。その時、住職さん一家の体中から沸立つような喜びの笑顔は、忘れることは出来ない。三十八年前のことであった。       
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