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喜蔵院への道

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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原・大杉谷へ2
二吉野金峯山・金峯神社・西行庵
 
 喜蔵院の六畳間の窓を開け、胸を大きく開き朝の新鮮な空気を吸込んだ。眩しいような空を見上げると、昨日の雨から一転、抜けるような青空が空一面に拡がっていた。
 朝食の前、喜蔵院の近辺に散歩に出かけた。山上ヶ岳に至る坂道には、清々しい空気が漂い昨日とは、かなり違った印象を憶えた。坂道が左方に緩い弧を描いて伸び、先方の家並に溶け込んで行った。
 家並から覗く樹々の枝葉の一枚一枚(ひとひらひとひら)に、昨日来の雨の滴が残り、それらに早朝の陽光が差し淡い輝きを放っていた。
 家々と坂道との境に植えられた草花は、水分を含み瑞々しい色合を表していた。それは長い年月、風雨に晒され味わい深く、薄茶色になった板壁と好く響き合っている。
 明るく開けた青空が天空一杯に拡がり、家々の瓦屋根が穏やかなスカイラインを描いている。この家並が何処まで続いているのかは、解らない。ただ僅かずつ家並が、疎らになっていることだけは感じられる。
 清々しい空気を吸込み喜蔵院に戻った。喜蔵院の門を入った左手、門に隣接して金網に囲われた小屋があった。中には鮮かな色合をした孔雀が二羽、羽をのばしていた。寺と孔雀、その取り合せの落差に、瞬間戸惑った。小屋は動物園ほどの大きさはなく、かと云って個人が設える小屋にしては立派なものだ。一体この二羽の孔雀を、誰が世話しているのだろうか、と素朴な疑問を抱き孔雀を見ていた。
 玄関の外で三十歳前後の男が、何かを考えている風に立っていた。一見、神経質そうに見える男は、おそらく住職さんの息子さんに違いない。
 男と眼が合えば、訊きたい事が幾つかあった。けれども男は顔を合わせようとしなかった。朝食の前に吉野奥千本を探索する準備をした。今日の最終目標は奥千本の西行庵だ。
 庭が見渡せる座敷にテーブルが一つ並べてあり、もう一人の男とテーブルを挟んで向合って座った。少しの間お互いに無言であった。男にお茶を注いでやった。
 「ああどうもすいません」
 「ユースホステルで、八畳間に一人で良かったですね。風呂も清潔でゆったりとし、お湯などは出っぱなしで、随分ユースホステルも変りましたね。一人旅ですか」
 「ええ生駒から来ました。今日は金峯神社まで登って、夕方帰ります」
 男は奈良市内の大学で、先端科学を勉強している大学院生だ。インターネットで吉野、ユースホステルと打込んで検索し、喜蔵院を探したらしい。
 帰京後、インターネットで京都、宿泊、寺、と入力しエンターを押した。驚くほどの項目がモニターに映し出された。これでは以前のように、旅行案内書は見なくても旅の計画が出来る。
 
 男は一足早く金峯神社に発った。朝八時、男に遅れること三十分、喜蔵院の山門を出、坂道を金峯神社に向けて足を進めた。喜蔵院を出て程なく、山門の柱に吉野聖天と書かれた寺が、坂道に山門の扉を開けていた。
 聖天とあるからには、生駒聖天の末寺かも知れない。吉野聖天の山門を潜った。正面に普請中のためか、シートを被った本堂が立っていた。そのせいか境内を見渡した瞬間、荒れた印象を受けた。
 山門を背にした右手も雑然とした印象だ。残る一方に、古風な堂が三つ横並びに並んでいた。廻廊で連結された三つの堂の軒は低く、個人の住いのような建築だ。
 それでも個人の住いとは、かなり異なる。三連結した堂の屋根には、分厚くて見るからにガッチリとした瓦が載せられ、鈍色の輝きを放っていた。
 堂の柱や梁は黒済んだテクスチャーを表し、軒端には沢山の吊燈籠がぶら下がっていた。その時、書留めておいた記録によれば、三連結した堂の名は、向って左から桜本坊、聖天堂、太子堂と云う。
 吉野聖天は通称、桜本坊と呼ばれているらしく、案内書には桜本坊、と記されている。桜本坊は修験道の宿坊だった。
 
 いい忘れたが、喜蔵院は本山修験宗聖護院門跡寺院で、京都烏丸今出川にある聖護院門跡を本山とする、修験道本山派の大峯山の特別関係寺院の護持院である。
 ここで修験道本山派、修験道当山派について述べてみたい。
 密教系の宗教、真言宗は弘法大師空海が開祖で、京都の東寺と高野山金剛峯寺を頂点とする。両寺の流れを汲む多くの総本山がある。その一つ醍醐寺が修験道当山派の総本山である。
 一方、天台宗は伝教大師最澄が開祖で、比叡山延暦寺と園城寺(三井寺)を総本山とする。真言宗と同じく、比叡山延暦寺で学んだ多くの学僧が、新たに一派を立てた。浄土宗をうち立てた法然や親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮、源信 などきら星の如くある。その一つ聖護院は修験道本山派の総本山である。
 三連結した堂の前庭には樹々が繁り、処狭しと燈籠や石碑が立ち、以前、訪れた生駒聖天で感じた、既成の枠に嵌らない天衣無縫な印象を受けた。
 この空間を描き上げ、坂道を進んだ。
 
 百メートル位先方、道を挟んだ左右を、行ったり来たりする人が幾人かいた。左手は駐車場でマイクロバスや乗用車が数台停めてあった。
 右手には立派な山門が立ち、山門を潜ったところは広場になっていた。山門脇に立つ石碑にー宿坊竹林院ーと彫られていた。
 ふらふらと山門に足を踏み入れ、広場に出た。広場の二方には古風な建物が立ち、一方はこんもりとした丘になっていた。そこは萌黄色になった若葉で埋め尽され、早春の陽光を浴び、若やいだ輝きを放つ。
 建物の隅に、庭園群芳園に入る木戸が開いていた。群芳園は大和三庭園の一つだ。群芳園に入る前に、広場に大きく開かれた宿坊に足を向けた。
 宿坊と名付けられていることから、旅館とは異なり抹香臭い内部空間を予想していた。ところが、足を踏み入れた玄関は、骨太な柱梁が架渡されて白熱灯の橙色をした灯で照らされ、濃艶な輝きを放っていた。
 広い玄関ホールの左手には、コ字形に受付カウンターが廻されていた。玄関ホールには早朝のため、チェックアウトする宿泊客が二三人いた。ホールでは従業員が忙しそうに、彼方此方をかたづけている。その一人に声を掛けた。
 「こちらは予約しなくても泊れますか」
 「ええ大丈夫ですよ」
 忙しそうに動き回っていた女は、手を休めて応えた
 「一泊値段(いくら)ぐらいですか」
 「今は一万五千円からあります。桜の頃は三万円からになっています」
 桜の頃は一泊三万円以上、と聴いて驚いた。吉野の桜の頃は、大層な人出があるとは、前々から聴いていたが。
 「山門脇の案内板に大和三庭園とありましたが、大和三庭園、あとの二つは何処ですか。東大寺の近くの依水園が、確かその一つで、それに慈光院の庭だったと思いましたが」
 女は困った、といった表情で辺を見回した。女は竹林院に勤めてから、まだ日が浅いのか詳しそうで無かった。そこに通り掛った、揃いの制服を着込んだ賢そうな女は、女の表情を見、
 「当麻寺中之坊さん、それに慈光院の庭が大和三庭園です」
 賢そうな女はにこやかな顔をして、そう云った。云われてみれば、当麻寺を訪れた際、それらしき事が記されていたことを思い出した。
 「ここのパンフレットはありますか」
 女は受付カウンターから、竹林院群芳園の栞を一葉もって来た。
 庭園群芳園の拝観手続をし、広場に出た。広場の正面に竹林院の正式の玄関が開いていた。式台を上がった座敷には几帳が立てられ、その手前には、季節の草花が活けられてあった。
 宿坊竹林院群芳園には、昭和五十六年に昭和天皇皇后両陛下が宿泊された栄誉がある。そんな時にこの玄関が使われるのであろう。
 
 広場の傍らにある、開かれた小さな木戸を通り、庭園群芳園に足を踏み入れた。雁行した建物の縁に沿って飛石が据えられていた。飛石を踏んで進むと、広々と開けた庭園に出た。左手のこんもりとした小高い丘には、樹々が繁り、昨夜来の雨滴に打たれた枝葉は、瑞々しい萌黄色に輝いていた。
 飛石は細長い平坦な庭園に出、奥方に道が続いている。庭園の中央に池があり、真中辺の道沿いに桜の古木が立上がっていた。池の反対側の端部には、藤の蔦が絡まったこんもりとした桜木が立ち、ところどころ、雨に洗われた藤の房がぶら下がり、紫色の透き通るような花が点々と見えた。
 群芳園は池泉回遊式庭園で千利休が改築に関係していた、と云われる。小高い丘の対面は斜面が下り広々と開けた景観が何処までも続く。
 ベンチが置かれた藤の房の下から、小高い丘に至る散策路が、灌木を切り分けて筋を引いていた。散策路は二つに別れる。けれども丘の頂は眼と鼻の先に見え、どの道をとっても頂へは行けそうだ。
 程なく丘の頂に着いた。其処では樹々は刈込まれ、幾らか平らになった処に四阿(あずまや)が立っていた。広々と開けた方に視線をやった。
 視線の先には、緑海に浮ぶ蔵王堂があった。その背後には金剛山系から続く生駒山系だろうか、その山並が消え入りそうな稜線を描いていた。それらに至るまでの尾根筋では、蔵王堂の立つ丘が一際高い。けれども彼方に見える蔵王堂には、天衣無縫で豪快な表情はなく、吉野の山の懐に抱かれ、慈悲の光明を四方八方に放っている印象を憶えた。
 そんな印象を感じるのは、蔵王堂を構築している建築材料に因るものかも知れない。蔵王堂の屋根は桧皮葺で構成されている。桧皮葺の温かみがあって優しいテクスチャーは、ここ群芳園の丘からでも、感じ取ることが出来る。
 丘の頂から、もう一つのルートを下りていった。樹々の枝葉が覆い被さった薄暗い道筋に、朽ちかけた四阿があった。朽ちかけた四阿とはいえ、それは風情ある風景だ。
 其処からの蔵王堂を中心とした眺めは、朝の陽光を浴びてきらきらと輝き、宝石を鏤めたような光景だ。それは丘の頂からの眺めより印象的だった。
 頂では、自らが立つ位置も、対象である蔵王堂と同じ陽光を受けていた。ところが、朽ちかけた四阿の位置は、枝葉が張出して幽暗な空間であり、陽光を照返した蔵王堂とは対照的である。そのために、互いに好く響きあっていたからかも知れない。
 少し進んだ道筋から、宿坊竹林院の桧皮葺屋根、大きく弧を描いて葺き下りている光景が眼に飛込んできた。
 大屋根の棟の端部には、小屋根を持った明窓が載っていた。それは単調な空間の中で、バランスを崩し緊張感を漂わせていた。
 明窓は透け、遙か彼方の生駒山だろうか、そこに薄紫色の山並が覗いていた。桧皮葺屋根に離れ、竹林院の新館の屋根、その瓦が鈍色に輝きを放っていた。この遠近感ある光景を眼前にし、小脇に抱えていたスケッチブックを構えた。
 描く対象物が、斯様に、素晴しく惚れ惚れする空間である場合には、何の躊躇いもなく筆がすらすらと、滑るように運ぶことは不思議だ。
 
 竹林院の山門を出、坂道を上って行き、橋を渡ると道が二つに別れた。道に挟まれた丘に向けて一気に、石段が登っていた。
 まず緑色をした鳥居が道に開いていて、鳥居の脇には、先端が斜めに尖った石碑が立つ。石段を上った中間に、簡易なトタン屋根を差掛けた、休憩所のような上屋が立つ、其処から、石段は細くなって伸びていた。
 丘の中腹に祠のような小さな上屋が、瑞々しい萌黄色をした若葉に包まれていた。その光景を橋の欄干脇から眺めていた。
 傍らに立つ店から初老の小母さんが出てきた。
 「金峯神社には、どっちを行ったらいいですか」
 と訊いた。体が小さくなった小母さんは、
 「どっちからでも行けますが、其処からバスも出てますよ」
 と小母さんはバス停のある、簡便な屋根を載せたベンチの方を指差して云った。
 「バスはすぐには、出ないでしょうね」
 小母さんと話していると、バス停の方から作業服を纏った男が寄ってき、
 「バスは此方を通って金峯神社に行きますよ、帰りは、歩いて左手から下りてきた方が楽ですよ。そうすれば、下る途中に水分(みくまり)神社がありますよ」
 と男はバスで金峯神社に行く事を勧めた。
 「金峯神社まで歩くと、結構きつそうだな、バス道路を歩くのは、吉野神宮で懲りたからなあ、バスで行った方がよさそうだなあ」
 私は男の顔を見て云った。
 「十五分後にバスは出ますよ」
 「それでは一筆描けますね」
 そう云って橋の欄干脇に戻り、先刻(さっき)の石段に向ってスケッチブックを構えた。陽光とはいえアスファルトに照返し眩しく、描いている間、ジッとしていても汗ばむ程だ。
 筆ペンを七八分走らせ、あっという間にデッサンを終えた。そしてウェストポーチから、ヴァンゴッホの固形水彩絵具と水器を取出し、眩しく光っているアスファルトの上に並べた。
 色付けを始めてから、作業服姿の男が背で見ていた。十分位で仕上げ、バスが停まっているところに、急いで走ろうとした。するともう一人の恰幅のよい男が、
 「お客さん、このバスですよ」
 と云って、眼の前に停まっているマイクロバスを指差した。私は離れたところに停まっている、大型バスが金峯神社まで行くのか、と勘違いしていた。
 金峯神社までの乗客は四五人で、車内は閑散としていた。
 
 マイクロバスで走り抜けたためか、金峯神社に至るまでの景色は、印象に残っていない。十五分ほどで金峯神社への参道入口に着いた。
 参道口には、マイクロバスの運転手の相棒が、傍らの石に腰を下ろしていた。運転手が相棒の前に立って、ポケットからマイルドセブンを出し、口に銜えた。そして徐に胸のポケットから百円ライターを掴んで、シュッと火を点け深く吸込み紫煙をはいた。
 相棒の男は、既にダンヒルを口に銜え、紫煙を薫(くゆ)らせていた。
 「先刻、一人登っていったきりだよ」
 「明日が確か峯入だから・・・・」
 「そうか明日か、それでは人が出るなあ」
 そんな話を二人でしていた。話の様子から察するに、男達はモグリの個人バスかも知れない。明日は五月一日山上ヶ岳の山開きの日で、山上ヶ岳の大峯山寺本堂の扉が開くらしい。それに合わせ大勢の行者が山上ヶ岳を眼指す。
 先方で、真直に伸びる平坦な道と、樹々の枝葉が張出した坂道に別れる。坂道の入口には、修行門と書かれた貧弱な木の鳥居が立つ。二つの道は並んで走るが、徐々に離れやがて、坂道は深い林に消えていった。
 バスを降りた若い男が、大きなザックを肩にし、修行門を潜り坂道をゆっくりと登って行った。パンパンに脹らんだザックは、男の背の三分の二程はあろうか、見るからに重そうだ。
 金峯山寺には、山上ヶ岳までの間に発心・修行・等覚・妙覚の四門がある。発心門は昨日、吉野から来た時潜った鳥居で、通称、銅鳥居と呼ばれる。
 そして眼前にあるか細い鳥居が、修行門である。等覚門、妙覚門については、西行庵より更に山上ヶ岳に寄った処にあるのか、特定は出来なかった。
 修行門を潜った坂道両脇には、瑞々しい若葉が陽光を浴び、萌黄色に輝いていた。暫くして修行門を潜り、男の後を追った。金峯神社まで、安っぽい簡易舗装された道が続く。程なく先方に神社らしき風景が現れた。
 簡易舗装された道の突き当りに、可愛らしい鳥居が立つ。おそらく金峯神社に違いないだろう、とは思った。けれども念のため、鳥居に近付いて行った。鳥居の脇の案内板に金峯神社、と墨色で記され、傍らに歌が添えられてあった。
 
        吉野なる深山の奥のかくれ塔
             本来空のすみかなりけり
 
 道沿いに立つ、トタン屋根を載せた休憩所らしき小屋で、先発していた若い男がザックの荷づくろいをしていた。
 「名前の割に可愛らしい神社だなあ」
 男に向って声を放った。
 「そうみたいですね」
 男は笑いながら云った。
 「随分、大きな荷物ですね、山上ヶ岳に登るんですか」
 「山上ヶ岳を通って、奥駆けの道を熊野まで行く積りです。何処ででも泊れるようにテントではなく、ビニールシートを用意してあるんですよ。八日間位で登る積りです」
 男は粋がっている様子もなく、淡々と話していた。
 斜面に立つため、高低差のある金峯神社を描こうと、簡易舗装された道に立ち、スケッチブックを構えた。
 鳥居を潜って数段の石段が続き、小さな神社の中でも一際大きな拝殿に伸びていた。拝殿は吹き晒しで、数本の柱に草葺の屋根が載る。
 拝殿から石段は細くなって、上方の本殿に向って伸びる。本殿は樹々の枝葉に包まれ、その屋根が枝葉の葉擦れに覗いていた。神社は樹々が立上がる隙間を、分け入るようにして立ち、限りなく自然に近付いている印象を憶えた。長い年月のうちに、人工と自然が同化した姿が現れている。
 描いている間に、男はザックを担ぎ、神社脇に伸びる山道に消えていった。スケッチを描き上げ、程なく私も男の後を追い、樹々が鬱蒼と立上がった山道に足を踏み入れた。
 登山客が擦れ違える程の山道が、一筋の糸を引くように木立を切り分けて伸び、風通しが良く、乾いた空気が流れる樹々の梢に溶け込んで行く。
 昨夜来の雨に洗われ、木立の萌黄色になった枝葉は、春の柔らかな陽差しに照らされて、森を吹抜ける風に戯れ(たわむ)ていた。そこには、ザックを担いだ男の姿はなく、一筋の道に足を進めるのは私一人だけだ。
 やがて山道は二つに別れた。角に立つ道標によれば、どちらを行っても西行庵に至りそうである。傍らに歌碑が立っていた。
 
 み吉野の山の白雪ふみわけて入りにし人のおとづれかもせぬ   古今集  壬生忠岑
 
 さくら狩り奇特や日々に五里六里                    松尾芭蕉
 
 峯入りや一里遅るる小山伏                       松尾芭蕉
 
 ウエストポーチから筆を引抜き、キャンソン紙のスケッチブックの片隅に歌を書記(かきしる)した。作者が歌いあげた環境に身を委(まか)せて入れば、厳密に歌の意味は解らなくとも、歌の底に流れる作者の淡く枯れた感性は伝わってくる。
 幾らか平坦な道が伸びる右手に折れ、山道を進んで行った。
 吉野山には奥千本、上千本、中千本、下千本と名付けられた桜の名所がある。その中で、この辺は吉野・奥千本の山中である。
 何処から何処までが奥千本、上千本、中千本、下千本であるのかは、私の頭中では判然としない。吉野てくてくマップを開いてみた。
 先刻、登り始めた修行門が立つ、バス停が奥千本バス停、と記されていた。ずっと下り竹林院近くの橋の畔が上千本バス停。喜蔵院への坂道の登口、若い女将の静亭近辺が中千本バス停。そして昨日訪れた、吉野神宮への道筋にあった、ロープウエイの吉野山駅近辺が下千本バス停、と記されてあった。
 吉野山の桜はまず、最も標高の低い下千本で綻び、数日おいて桜の開花は中千本、上千本へと僅かずつ這い上がり、標高の高い奥千本に至る。
 
 山道は細くなって先方に伸び、幾らか起伏はあるが、ほぼ平坦である。暫く歩いて山道は下りになった。
 山腹を九十九折に山道は折れ曲って下る。眼前に石交じりの道が真直に伸び、道沿いの土手に生えている新緑の下草が眼に眩しく映る。先方で折返して進む道が、萌黄色に輝きを放った若葉の葉擦れに覗く。
 折れ曲った山道は、暫く行って再び折れ曲って進む。それは瑞々しい若葉の葉群に隠れ、小さな淡い煌めきを、僅かに見せていた。
 この煌めきの先に寂(さ)びた西行の庵があるのだろうか、煌めきの彼方には、少年の純真無垢な眩しさが見える。
 似た風景を以前にも体験した事があった。神護寺を訪れた際、国道から、谷間に切れ込んだ、清滝川に至る斜面に付けられた九十九折の道である。
 それは、季節は新緑の頃であった。九十九折に折れ曲って、石段が清滝川に一気に下っていた。石段には楓の枝葉が張出し、萌黄色に煌めいた楓の若葉に、透き通るような空がのぞいていた。その見事な光景に、
 「素晴しい光景だなあ」
 と思わず独語を吐いた事を憶えている。吉野山の九十九折の道に接し、その時の新緑の光景が脳裏を過ぎった。
 明るく乾いた木立の中を、清々しい気持で足を進めた。程なく山道は平坦になり、道が拡がって広くなった、公園風に整備された処に出た。
 其処には丸太製のベンチが幾つかあった。広場の脹らんだ処にはコ字形にベンチが据えられてあった。十二三歳位の女子を連れた家族連れが、ベンチに腰を下ろし御握りを食べていた。昼刻で丸太のベンチに腰を下ろし、中年のカップルも弁当を食べていた。
 山の斜面が立上がる際(きわ)に、小さくて簡素な四阿が立つ。傍らの傾いた石碑にー西行庵ーと彫られてあった。
 奥千本も桜の名所であるため、食堂や店が一二軒あるであろう、と思って、昼食らしい弁当は携帯していなかった。けれども、もしもの事を考え、バターロールのパンをスーパーのポリ袋に入れてきた。
 普段、栄養を摂り過ぎているため、たまにはこれくらいの食事の方が、健康的かも知れない。 ポリ袋からキャンソン紙のスケッチブックを取出し、眼前の庵にかざしてみた。遠近感はいい具合である。ウエストポーチのチャックを右に引き、ウエストポーチの墨の方からチャコール鉛筆を引抜いた。
 方形(ほうぎょ)型の草葺屋根の先端には、草が芽を出し淡い緑が顔を覗かせている。上になるに従い、緑色は薄くなりバーントシエナ色に変っている。その光景だけでも、山深い懐に抱かれた庵を感じさせるに充分だ。
 庵の四隅に立つ柱は、曲りくねっていて心細いような印象である。開け放たれた開口部に差し渡された鴨居は、押せば折れそうな位華奢なつくりだ。開口部から見える庵内部は、影になっていて、その様子は判然としない。
 
 スケッチブックの真中より少し上に、軒端の水平線を長く引いた。これで全てのプロポーションが決った。後は一気に気が向く儘、チャコール鉛筆を走らせる。
 現代住宅のようにコンクリート製の布基礎はなく、柱の下に丸太を廻し、その下部の処々に、石を敷き並べ、庵の基礎としている。
 庵の手前には、複雑に絡み合った楓の木が立上がり、庵にその枝葉を差掛けている。庵の背後は深い森で、淡い緑色から濃い青緑色の混合した枝葉に包まれていた。
 地面から突出た岩石と、微かに人間の手が、及んだかに見える庵に、此処に人が隠棲していた残影を見いだすことが出来る。
 デッサンが上がりスケッチブックを地面に置いた。ヴァンゴッホの絵具と筆をウエストポーチから出し、色付けの準備を始めた。
 左手にバターロールのパンを掴んで、筆を走らせ画面に色を載せていった。四個あったバターロールのパンはすぐに無くなってしまった。描いている間、二三のカップルが西行庵に来、少し休憩して来た道を戻って行った。一組のカップルだけは、丸太のベンチに腰を下ろし弁当を広げていた。
 描き上げて庵に近付き庵の前に立った。庵内部に視線を走らせた瞬間、寒々とした侘しさを憶えた。広さ三帖ほどの板間は、砂交じりの埃が浮上がり荒れた印象だ。庵を受継ぐ歌人もなく、時代の波に取残された印象を憶えた。
 板間の中央突き当りに、西行像が基壇に載っていた。庵の荒れた姿を眼前にした像は、寂しそうに眼を細め、現代の世相を儚んでいる相に(すがた)見えた。
 庵奥に幅四尺五寸、奥行四尺位の床間がある。床間に続く塗壁との隅角部に立つ、床柱は頼りなく曲っていた。幅四尺五寸の塗壁は、幅二尺位のアルコーブに続く。アルコーブには小さな窓が切られ、萌黄色に輝きを放った若葉が覗いていた。
 寒々とした内部空間の中で、この瑞々しい若葉を眼にし、心安まる気持になった。
 アルコーブは右壁に続く。壁の真中に曲った柱が一本立つ。その柱から腕が持出され簡素な棚が付けられてあった。持出された腕木を受ける方立(ほうだて)は、頂部で二股になっていた。
 庵内部の壁は、ざらざらとしたテクスチャーの土壁で、処々剥げかかっている。平安時代末期、西行法師はこの庵で、本当に生活していたのか、と疑念を抱いた。
 方形屋根であるため、庵内部の天井は屋根の傾斜なりに、勾配が付けられている、と思った。ところが内部の天井は平らであった。
 それらの内部エレメントを開かれた開口部から描いた。
 
 改めて庵が立つ広場を見渡した。小さな庵にしては、充分すぎる程広々とした敷地だ。吉野山中で、これだけの平坦な場所をよく確保できたものだ、と木立の隙間を吹抜ける、爽やかなそよ風を躰に受けて思った。
 桜花の季節には、一面に咲誇った桜花で、埋め尽され夢のような光景が現れるに違いない。一方、紅葉の季節には、朱色から橙色に色付いた楓が、晩秋の幽かな陽を受け、錦秋の海に身を委せている気持になるであろう。
 吉野の西行庵を前にし、以前、訪れた京都の西山、小塩山の中腹に立つ、勝持寺の西行庵が脳裏を過ぎった。
 吉野の奥深さに比べれば、京都の西山は丘のようなものだ。けれども、その空間に立った時、その質に似た印象を憶えた。放浪の歌人にしては、余りに贅沢で華麗な空間を感じるのである。西行は本当に、放浪の歌人だったのであろうか。
 ここで西行が出家に至った経緯を述べてみたい。
 西行は、藤原氏による摂関政治が衰退しつつあった元永元年(一一一八年)左衛門尉佐藤康清の長男として生れた。それは平安時代末期で白河法皇による院政が、確立された時期でもあった。
 西行は俗名を佐藤義清(のりきよ)といい、藤原北家の流れを汲み、藤原秀郷を先祖としている。二十歳を過ぎ、主家にあたる徳大寺家の推薦により鳥羽院の警護の任務として、北面の武士になった。佐藤義清(西行)と同時期に、北面の武士として院の警護にあたった人物に、平清盛、源義家らの源平の武士がいた。
 白河法皇の養女として育てられた、徳大寺家、藤原公実の娘、璋子(しょうこ)は鳥羽天皇の中宮として入内した。璋子は待賢門院として、藤原公実の権勢に寄与し、顕仁(あきひと)皇子を生んだ。西行が生れた翌年である。後の崇徳天皇である。
 実はこの顕仁皇子は鳥羽天皇の子ではなく、白河法皇の子だった、と云われている。五年後、白河法皇により鳥羽天皇は退位させられ、五歳になったばかりの顕仁皇子が天皇になった。
 成人して以後、北面の武士として院の警護にあたった義清(西行)と、幼くして天皇になった崇徳天皇(顕仁皇子)は、主従の立場としての関係はもとより、互いに心を許しあう関係だったのでは、と推量する。
 源平盛衰記によれば、若くて精悍な義清は、鳥羽上皇の中宮待賢門院璋子と心を寄せ合う関係であったらしい。この辺の微妙なニュアンスは、辻邦夫のー西行花伝ーに、雅な文体で描かれている。
 白河法皇の死後、鳥羽上皇の女御、美福門院(びふくもんいん)得子が躰仁(なりひと)親王を生んだ。目の上の瘤がいなくなった鳥羽上皇は、崇徳天皇を退位させ、躰仁親王を天皇の位につけた、近衛天皇である。西行二十四歳の時で、義清は一年前に既に出家していて、西行と名を改めていた。
 
       身を捨つる人はまことに捨つるかは
 
                捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
 
 西行が出家する前に詠んだ歌である。
 俗世間を離れ、出家した者は、自らを救ったのであって身を捨てたのではない。身を捨てずに、俗世間において必死に生きている者、無名の者にこそ無の光明があたる、と私は解釈する。
 浄土真宗・親鸞聖人による歎異抄(たんにしょう)の中に、
 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」 
 という詞がある。浄土真宗本願寺の現代語訳によれば、
 「あらゆる煩悩を身にそなえている私どもは、どんな修行によっても、生死の迷いから離れることができないのです。そのような者を憐れんで、たすけようという願いをおこされたのが阿弥陀仏ですから、阿弥陀様にお任せするのが浄土往生の正しい道であって、自力の善をあてにする善人よりも、本願をたのみ、まかせきっている悪人こそがご本願の目当ての人になるのです。それゆえ、善人ですら往生をとげるのです。まして悪人はなおさらのことでしょうと、仰せられたことでした」
 と記されている。親鸞のこの詞を他力本願であると解釈する、本願寺の現代語訳とは異なり、自力本願が信条である私は、次のように解釈する。
 「本来、人は皆身勝手なものだ、善人風に世のため人のため、と述べたり講釈を垂れる者より、自らは悪人であると認識している中で、必死に努力し一歩でも善に近付こう、ともがき苦しんでいる者にこそ、無の光明があたる」
 時々、宗教の勧誘と称し人に、お節介をやく者がいるが、善人風にお節介をやく前に、自らの周り、身近な環境の中、無言の相で我身の背姿を現せば、糸のようにか細い一筋の光明が差すのでは。
 
竹林院近傍 神社 蔵王堂遠望
 
 
 出家後も西行は俗世間を捨てきれなかったのでは、と思う。俗世間を捨て去るには、西行の前世は余りに華麗に過ぎた。
 吉野西行庵を西行はどのようにして築き上げたのだろうか。簡素な庵とはいえ、柱梁を加工する道具はどうしたのか、それを加工する技術は西行にはあったのだろうか。
 庵の土壁は木舞壁(こまいかべ)である筈だ。土壁の材料は吉野山の麓、国栖の部落から山道を担いで来たのだろうか、土を捏ねるシャベル、舟は左官屋から借りて来たのだろうか。
 因みに小さいながらも、一軒の家を築くために必要な大工道具を列挙すると、
 「鋸(粗挽き、仕上げ)・鉋(あらしこ、ちゅうしこ、仕上げ)・砥石(粗砥、中砥、仕上げ)・鑿(大小十本程)・墨坪・下げ振り・金槌(大小)・釘抜き(大小)・曲尺・尺杖等」
 少なくとも、これだけの道具がなければならない。道具があるだけでは一軒の家は建たない、それを使いこなす技術を習得していなければならない。
 西行法師はその技術を習得していたとは、考えられない。それでは西行は如何にして庵を築いたのであろうか。
 おそらく西行には、強力な後ろ盾があったに違いない。崇徳上皇にも近い出家者西行は、日本全国どこを訪れても、西行を信奉する文化人、権力者に囲まれていたことであろう。
 庵を築いたのは、吉野の有力者達かも知れない。蔵王堂の門前町の店主が西行の世話をしたに違いない。
 彼らは庵建設について許りでなく、西行の三度の食事の世話もしたことであろう。西行メールマガジンによれば、西行にはーおっかけーがいて食事の世話をしたとか、携帯食を差入れて貰っていたなどと書かれてあった。
 おそらく、その説の通りだろうと思う。何故ならば、西行庵には台所が見当らなかった。陽気の好い季節であれば、気持よく戸外で炊事も出来たであろう。けれども、深々と降注ぐ雪の中では、それも適わぬであろう。
 西行は華麗な俗世間の亡霊とホームレスとの中間を揺れ動いていた。西行自身はホームレスの自由な生活を望みながらも、西行を取巻く俗世間の亡霊は、それを許さず庵の建設、三度の食事の世話そして生活用品の世話、と干渉したことに間違いないであろう。
 西行は吉野の西行庵に三年滞在し、四国讃岐へと旅だって行った。西行晩年の歌。
 
         ねがはくは花のもとにて春死なむ
                 そのきさらぎの望月の頃
 
 建久元年(一一九〇年)如月十六日、西行は河内の弘川寺で没した。七十三才であった。
 爽やかな風を受け、思いに耽っていた。数人の探索者が来、去って行った。
 地面に広げたスケッチブックをポリ袋に入れた。来た道とは異なる、緩やかに下っている山道を、蔵王堂に向け歩き始めた。
 下り坂の道は深い森に包まれ、一筋の道が真直に伸びていた。下り坂になっていたためか、更に奥深く吉野山中に分け入って行くような印象を憶えた。
 程なく谷筋に出、道は山腹を折れ曲って進んだ。其処では冷たそうな水が、岩の割目から滴り落ち、鈍色に輝きを放っていた。この湧水が苔清水(こけしみず)であろうか。
 てくてくマップに記された位置とは、若干、場所が異なる。幾つか水が湧出る谷筋があるのだろうか、と半信半疑で湧水で咽喉を潤した。昼にバターロールのパンを摂っただけで、水は一滴も飲んでいなかった。
 やがて金峯神社と青根ヶ峯との分岐点に出た。どっちに進もうか、と道標に眼をやった。そこに初老の男が青根ヶ峯方面から歩いてきた。
 「青根ヶ峯までは随分掛りますか」
 「青根ヶ峯まで二十分位ですよ、途中にー女人結界ーの標識がありましたよ。青根ヶ峯から先へは山上ヶ岳への道が伸びていますよ。眺めは好かったですよ」
 青根ヶ峯まで行こうと思ったが、山上ヶ岳まで行かねば中途半端だ、と思案したが、正直のところ国栖(くず)に速く行きたかった。男は金峯神社への道に足を進めて行った。男の背を追うように私も金峯神社への道に足を向けた。
 程なく金峯神社に着いた。不思議なことに男と会った処から金峯神社までの印象が欠落し思い出せない。その時には素晴しい、と思って歩いていたのだが。
 金峯神社の参道を下っていった、奥千本バス停にミニバスが停まっていた。私が上千本から乗って来たバスだ。傍らのベンチに男が二人座っていた。
 「あれからずっと此処にいたんですか」
 「いやあ何回か往復してますよ」
 タバコを喫っている男が笑って応えた。
 バスで来た時は、尾根筋の南側を走ってきた、車窓からの眺めは変化に乏しかったように思った。帰道は水分(みくまり)神社が立つ尾根筋の北側の道を下っていった。
 暫くして明るく開けた道に出た。尾根筋に近い山腹に付けられた道だ。吉野川に向って下って行く道があった。道標に国栖と記され、矢印が吉野川の方向を指していた。真直へは蔵王堂の方向だ。
 
 紙漉(かみすき)の里国栖へは以前より、一度は訪れてみたいと思っていた。和紙の紙漉作業所で職人が紙を漉く、伝統的な仕事に興味を持っていた。
 それに、国栖は谷崎潤一郎の小説吉野葛の舞台にもなっていた、と記憶している。潤一郎は近鉄吉野駅から旧街道を国栖の部落方面に入って行った筈だ。
 潤一郎の友人津村と共に、津村に関係した家を、ふっとしたきっかけで訪ね、静御前が持っていたという伝説のあるー初音の鼓ーを見に行く。 年月を経、人間模様が予想外に変っていたことに、潤一郎は新鮮な驚きを憶えていた。     
 吉野葛は潤一郎がまだ若い頃の作品だった、と思う。潤一郎は小説の題材を求めて吉野に入ったのか、それとも暇を持て余し数日の放浪の旅に出たのか。潤一郎は幼い頃、母親に連れられて数回、桜の吉野を訪れている、その時の郷愁が吉野葛の行間に現れていた。
 そんな潤一郎の文学に惹かれ、国栖の部落を訪れてみたかったこともあった。
 躊躇なく国栖方面に足を踏み出した。山道は吉野川に向け下って行った。五分ほど歩いたところで、前方に広々と開け、気持がすかっとした見晴しの好いポイントに出た。
 其処では立上がった樹木は切倒され、切株が斜面に晒されていた。遮るものが、何もないため眼前に吉野の光景がパノラマで広がっていた。
 国栖への道を逸れ、切株の間を降りて行った。足を一歩踏み出す度に、眼前の光景は近付き大きくなっていくような印象を憶えた。
 眼前に繰広げられた光景は、お伽の国に迷い込んでしまったのでは、と思うくらい穏やかで気持が和む眺めだ。
 眼下に、萌黄色に煌めいた、若葉に埋め尽された海原が広がっている。海原には、青緑色が点々と地図のように浮んでいる。
 若葉の海の一段と高い尾根筋には、蔵王堂の門前町の甍の波が、筋状に鈍色に輝きを放っている。筋状の列から外れた一群は若葉の海に、僅かに顔を覗かせていた。
 甍の波の先端には、薄茶色の桧皮葺屋根をふわっと載せた、一際大きな蔵王堂が穏やかな佇で立っていた。それは間近に見上げた際に感じた、豪快な蔵王堂の相とは対極にある、どこまでもゼロに収斂した、透明感のある蔵王堂の相である。
 蔵王堂の先は一気に下っていた。そのため緑海の中で、蔵王堂の薄茶色の桧皮葺屋根がシルエットになっていた。その光景を眼にし、蔵王堂が四方に光を放っているような錯覚を憶えた。
 蔵王堂の向こう中景には、対岸の山並が、落着いた青緑色に輝き、遙か彼方には、金剛・葛城山系がつくり出す稜線が抜けるような藍青色をした空に溶け込んでいた。その山系のどれかに、大津皇子が眠る二上山がある筈だ。
 切株に腰を下ろし、無心に眼前の光景を見ていた。胸のポケットからマイルドセブンを一本引き抜いて口にくわえ、ライターの撮みを押して火を点けた。眼前の素晴らしい光景を取り込むように、深く吸い込み紫煙を薫らせた。
 紫煙がゆらゆらと立ちのぼった。一瞬、眼前の光景が陽炎のように揺らぎ、夢か現か解らなくなり、軽い眩暈をを憶えた。
 それから切口がごつごつした切株に腰を下ろし、ウエストポーチから筆を引き抜き、キャンソン紙のスケッチブックを眼前の光景に向けて構えた。春とはいえ、眩しいような陽が頬を照らした。見事な光景に、筆は滑らかに走った。
 傍らの切り倒された樹木にスケッチブックを載せ、色付けを始めた。画面に淡い緑を軽いタッチで載せていった。
 それから直前に描いたスケッチの色付けをした。既に、国栖の部落へ行くのは止めていた。この素晴らしい光景を一時間位眺めていただろうか。その間、ひとりも通らなかった。
 
 国栖を訪れることは諦めていたため。来た道を登って山腹の道を蔵王堂へ向った。道筋に如意輪寺への道標があった。吉野山の更に下方の山道が、如意輪寺へ通じているのでは、と思って再び幹線である山道を、吉野川方面に下って行った。
 山裾に吉野川に沿って走る国道が見えそうであった。道は一気に国道に向って下っているようである。国道まで下りてしまっては、又上ってこなければならない。
 ウエストポーチから吉野てくてくマップを引抜き広げた。でもてくてくマップには、今歩いている道は載っていない。如意輪寺をどうしても見てみたい、という信念はなかった。数秒立ち止って思案したが、やはり来た道を戻る事にした。
 やがて里道に入って来た。前方の高台に、こんもりと樹々が繁った林が現れた。おそらく水分神社であろう、と胸をわくわくさせ、足を進めた。
 アスファルト道路が左方に折れる角に、朱色の大きな鳥居が聳えていた。鳥居の傍らの石碑にー水分(みくまり)神社ーと彫られてあった。鳥居の間に古びた石段が伸び、頂きに朱色に染まった古風な楼門が立つ。
 それらを道から見上げる格好になり、楼門は辺の部落を睥睨しているように立っている。鳥居、楼門の両脇は樹々の枝葉で包まれ、如何にも鎮守の森、といった印象を持った。
 楼門を仰ぎ見ながら石段を上がって行った。楼門に足を踏み入れた、中庭を挟んでコ字型に殿舎が立ち、境内は古色蒼然とした佇を現していた。
 ふっと昨日、訪れた吉野神宮の風景が脳裏を過ぎった。常識的な見方では吉野神宮の方が、経済的基盤から考えても勝っている風にみえる。けれども空間的見地から両者を比較した場合、それは比べものにならない位、こっちの水分神社の方が勝っている。
 楼門に足を踏み入れた時、若い男二人が、境内を忙しそうに動き回っていた。もうひとり大学の教授らしき男が講釈を垂れていた。
 「その蟇股の(かえるまた)先端はどうなっているかな、安土桃山時代の特徴は・・・・」
 教授らしき男は楼門の上部に、指を差して云った。若い男は黙って写真機を蟇股に向けていた。雰囲気から察するに、大学の研究室の教授と学生らしい。楼門の傍らに立つ私の側を、写真機を片手に持った若い男が通り過ぎようとした。
 「大学の研究で調査しているんですか」
 「ええ・・・」
 「どこの大学ですか」
 「近畿大です」
 学生は教授に遠慮していたためか、多くを語らない。教授は奥の拝殿に座っている巫女さんと水分神社の歴史について話していた。
 そのうちに学生達は、安土桃山時代創建の本殿に上がってデイテールを主体に、カメラに納め始めた。本殿は豊臣秀頼により再建された社殿で、安土桃山時代の様式を色濃く遺している。
 楼門を潜ると、薄茶色になった本殿の桧皮葺屋根が、中庭に立上がる木立の枝葉の葉擦れに顔を出していた。本殿の背には深い森が控え、処々、陽を受け淡い輝きを放っていた。水平に長く引いた棟から別れた春日造の小さな桧皮葺屋根が、その切妻型屋根を中庭に向けている。
 春日造の屋根は間をあけ三つ並び、静寂な佇の中にも変化ある流動的空間を現す。棟押えの瓦が鈍色の濃い影をつくっていた。
 中央が一間社春日造、左右の二殿が三間社流造となった本殿である。それら三つの殿舎が一つの棟で構成されている。
 水分(みくまり)とは水配(みずくば)りを意味し、水の分配を司どる神様を祀る神社である。大和に幾つかある水分神社の中でも、吉野水分神社は有数の神社である、と云われる。みくまりがみこもり(御子守)と転化して子宝、安産に霊験あらたかな神として古くから篤い信仰を集めている、と吉野水分神社のホームページに記されている。
 
 キャンソン紙のスケッチブックを構えた。ウエストポーチからチャコール鉛筆を引抜いた。四号の小さなスケッチブックでは、この幽暗な広がりのある空間を表現する事は難しい。少なくとも八号位のスケッチブックであれば、思い切りよくのびのびと描けるであろう。
 それでも、スケッチブックを左手にかざして楼門の傍らに立ち、水分神社本殿に眼を据えた。本殿は背後の樹々が繁った幽暗な森から、匂い立つかのような相で眼前に立つ。それは人間が造り上げた建物であることには違いないが、限りなく自然に同化し、幽暗な環境に溶け込んでいた。
 そのような印象を憶えるのは、長い年月を経ているためか、それとも日本建築特有の曖昧な空間、あるいは内部空間と外部空間との相互貫入がなされた空間構成であるためであろうか。
 軒端の下に、垂木の小口が二層に現れ、染みを点々と連ねている。奥まってある柱上部には、教授が興味を示していた、蟇股を始めとした飾物が小暗い空間に溶け込んでいた。
 石垣が積まれた基壇上は廻廊になっていて、古風な手摺が廻されている。その廻廊に近畿大の学生と教授が入り込んで、調査を続けていた。本殿の廻廊は、立入禁止で許可がなければ入れない。学生はアルミ製の脚立に乗って柱上の細かい造作にカメラを向けていた。
 安土桃山時代創建であるため、大勢の人が出入りしては、加速度的に建物の劣化が進んでしまう。私が描いている間、彼等は本殿の廻廊を歩き回っていた。時折、教授の声が風に流れて来た。
 神社仏閣の軒端下部は斗拱(ときょう)木組が複雑に組合わされていて、克明に描こうとすると根気のいる仕事になる。克明に描いた積りでも、暫く経って眺めると、全体のバランスが崩れている場合がある。
 細かい部位に気をとられて全体を見忘れてしまうのである。そのことは、建築学科の学生時代、寺院のスケッチをした際に経験した。
 デッサンしている時は、気楽に鉛筆を走らせているようだが、思ったより神経を集中させているためか、描き上がった時には、呪縛から解き放たれた開放感を憶える。その開放感は対象物を写真に納めるのとは違い、清々しく爽やかなものだ。
 
 描き上げ中庭に足を進めた。中庭を介して本殿の真向いに拝殿が立つ。吹き晒しになって開け放たれた拝殿の片隅に、水分神社のお札やお守が並べて合った。店番の白装束を纏った巫女さんは、本殿の廻廊で教授と話していていない。
 参拝者は拝殿傍らの式台を拝殿板間に上がり、中庭を介し本殿に対峙することになる中庭には我々一般の者も、足を踏み入れる事ができる。樹々が立上がる庶民的な中庭を介し、本殿を拝する構図に、安土桃山時代の大らかな気風をおもい、華麗な空間の中にあって人間的な透間を感じるのであった。
 コ字型の突き当りには幣殿(へいでん)が立つ。幣殿には駕籠が置いてあったような気がする。幣殿について、広辞苑に次のように記されている。
 「幣帛(へいはく)を奉奠(ほうてん)する社殿。拝殿と本殿との間にある」
 幣帛については、
 「神に奉献する物の総称。みてぐら」
 古建築については、その名称の意味が解らないことが屡々(しばしば)だ。幣殿についても同じだ。
 水分神社では楼門を潜ると、正面の幣殿に奉献された供物が、数段に渡って並べられていた事になる。まず第一に、華やかに飾られた奉献された品々が、参拝者の眼に飛込んでくる仕掛だ。名だたる水分神社の氏子は、贅を競って高価な品々を奉献したに違いない。
 常識的に考えれば、楼門の軸線上に本殿が計画されるだろう、敷地の関係からそれが不可能でれば、楼門の軸線に平行になった軸線に本殿が立つ神社が殆どだ。水分神社では楼門の軸線に対し、直角になった軸線上に本殿が立つ。
 それは丘の中腹に立つため、境内地に余裕がなく横長の本殿を、楼門の正面に建てる事が出来なかった、と考えられる。その結果、奉献された供物が並べられる幣殿が、正面にきてしまったのでは、と推察する。
 
 気さくな巫女さんは、教授の相手の合間に楼門脇に立つ、庫裡(寺院では住職さんの住居を指す、神社で庫裡という事が適切であるかは明確でない)に入り母親らしき女と話していた。察するに巫女さんは、宮司さんの娘さんに違いない。
 楼門を潜り急傾斜の石段を下りて行った。石段下から、聳え立つ鳥居と楼門を見上げた。
 坂道を下りて行って振返った。萌黄色に沸立った若葉に包まれ、鳥居と楼門が朱色の鮮かな色彩を現していた。水分神社は坂道の下方、蔵王堂からのアプローチを意識した空間配列らしく、田園風景の中で好いランドマークになっていた。
 水分神社の側面に視線を向けた。立上がった石垣の上部に神社の一部が迫りだしていた。それは幣殿の背後であった。迫りだしているために空間に流動感が生れ、緊張感を憶えた。
 再び坂道を下りて行った。民家が立つ辺でもう一度振返った。スケッチをするには程良い距離だ。スケッチブックを水分神社に向けて翳し、構図を図った。小さなスケッチブックでも充分な構図だ。
 ウエストポーチから筆ペンを引抜き、キャップを口に銜え、画面上部に楼門の棟、水平なラインを軽やかに引いた。線の左右に、僅かに反りを付けた。これで全てのプロポーションが決り、思い付く儘に筆ペンを走らせ、若葉の海に浮んだ鳥居、拝殿のラインを描いた。樹々の枝葉の濃淡が、若葉の海に押寄せるさざ波になっていた。
 描いている間、近畿大の一連隊が神社の石段を下り、幣殿の裏側を写真に納めていた。そのうちに、一連隊は駐車場に停めてあったカローラに乗込み、此方に向って走ってきた。
 私の僅かに後でカローラは停まった。助手席のドアーがひらき、一番に教授が下りた。続いて学生二人が無言で下りてきた。教授は神社に視線をやって、
 「いい眺めだなあ、此処から水分神社の全体を撮っておこう」
 と云ってカメラを水分神社に向けた。その間、相変らず学生は無言だ。
 教授の前では、学生もペラペラ喋るわけにもゆかず、借りてきた猫のように従順なのかも知れない。学生の人数も多い、研究室のコンパであれば、逆に教授の方がたじたじになって時々、説教じみた声を発するだけに留まるに違いない。
 色付けを始めた頃、彼等はカローラに乗込み、坂道を走り去り瞬く間に見えなくなった。
 
 水分神社辺から里道の薫りが漂い、心地よい気分で足を進めた。
 程なく左方に、見晴台になっているのか、吉野の山に開けた雑然とした広場があった。広場の片隅に今にも倒れそうな売店があった。中には人がいる気配がない。
 売店を横目にし広場の先端に向った。眼前に広々とした吉野の山が、夕暮の穏やかな陽を受け揺らいでいた。
 広場の先端に立つにおよび、思わず、
 「うわーこれは素晴しいなあ」
 と独語を(ひとりごと)吐いた。
 先刻、切株に腰を下ろして蔵王堂をスケッチしたが、切株のそのより、今私が立つ処は更に蔵王堂に近い位置だ。
 蔵王堂に続く尾根筋に立つ店や民家が、手に取るように眼前に立並んでいた。淡い緑色から青みがかった緑色にグラデユエーションをつけた若葉が、柔らかな陽を受け、さざ波のようにキラキラと輝いていた。
 蔵王堂の薄茶色をした桧皮葺の大屋根が、尾根筋に軒を並べる家々の先に浮んでいた。蔵王堂の左方には脳天大神だろうか、二つの塔の相輪が覗いている。
 尾根筋の手前には、尾根筋から折れて山深く分け入って上る、喜蔵院への坂道が見え、坂道に立並んだ家々が、その壁を現している。
 遙か彼方には、金剛・葛城山系が青く輝き、夕暮の空に溶け込んでいた。
 この夢のような穏やかな風景の中で、南北朝時代、蔵王堂で再起を計った後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王が室町幕府、足利方の軍勢に囲まれ落ちのびて行った歴史的事実、その時、護良親王の身代りとなって蔵王堂に立て籠った、忠臣村上義光の壮絶な死があった。足利方の追手から逃れ、蔵王堂を脱出した護良親王は、途中で囚われて鎌倉に護送され、幽閉先で暗殺された。
 鎌倉時代、義経は頼朝に追われ、一時吉野に逃れた。それは金峯山寺蔵王堂の吉水院だった。義経も追手を振払い金峯神社から、更に山奥へと逃れた。
 歴史は遡って、大和時代、天智天皇の死後、大友皇子との間に皇位継承権争いが起こった。所謂、壬申の乱である。暗殺を怖れて近江京を逃げた皇弟大海人皇子(天武天皇)は、吉野で旗揚げし、近江軍を迎え撃った。
 吉野は時の権力者におべんちゃら等使わず、反骨精神に燃えた反権力者に助力を与えた。その意志のうえにたった行為は、凡人の為せる技ではない。
 歴史上の人物の表情が、穏やかな風景に重なり、筆の穂先がキャンソンのざらついた紙の上を滑らかに走って行った。
 この見晴台は花矢倉というらしく、蔵王堂を俯瞰する絶好の場所である、と案内書に書かれてあった。以後、二三カ所蔵王堂を俯瞰できるポイントがあったが、筋状に伸びた門前町を従えた、華麗な蔵王堂の全体像は捉えられなかった。
 坂道を歩くうちに、竹林院近くの上千本バス停がある三叉路に着いた。喜蔵院への坂道を下って行った。時計の短針は五時を半分程回っていた。
 坂道で夕方、吉野に着いたと思われる、四五人のグループ二三組と擦れ違った。坂道には夕暮の気怠さが漂い、心地よい疲れがそれを加速した。
 緩やかな坂道は、喜蔵院の手前で勾配がきつくなり、右方に緩い弧を描く。左手には下屋を持った平家建の風情ある家が立つ。縦に板が打付けられアットランダムに窓が穿ってあって、道に和らいだ表情を表していた。先方には、木立の若葉が覗くだけで、夕暮迫る空が一面に拡がっていた。
 今日最後のスケッチと思って、道脇の石に腰を下ろし描き始めた。気怠さのためか一気に描き上げた。色付けの段階になり、ヴァンゴッホの固形絵具のペインズグレイ色を、全て使い果してしまったのに気が付いた。やむを得ず朱色と青を混ぜ紫色にした。いつもペインズグレイが好きな色で多用していたが、たまには変った傾向の色を使ってみるのも面白い。
 
 坂道を下って行った。喜蔵院には夕食後に戻ろう、と思って静亭がある三叉路に進んだ。土産物店が一軒開いていたが、静亭のぴかぴかに磨かれたガラス戸は、冷たく鈍い光を放っていた。若女将に会いたいと思ったが、冷たく光ったガラス戸の前を通り過ぎた。
 蔵王堂への道筋に店があるだろう、と思って先に足を進めた。
 静亭の近くに、二三の店が開いていた。間口は狭いが、奥に深い店があった。白熱灯の橙色をした灯が、石畳の参道を照らしていた。店の奥に人の気配があった。
 その店は平家(ひらや)だったか、二階家だったかは憶えていない、ただひっそりとした佇をした店先だけが記憶に残った。軒下の小壁に懸けられた看板は、風雨に晒されて薄墨で書かれた字が浮上がっていた。看板にはー枳殻屋(きこくや)ーと記されていた。
 明日から五月の連休がスタートするが、吉野ではまだ観光客は少ない。尾根筋の参道を行交う人の姿は疎らで、参道には寂しげな空気が漂っていた。陽が落ちた夕暮刻であれば尚更だ。
 枳殻屋の近辺にも、ひっそりとした雰囲気が流れていた。店先の灯は透明な空気に揺れ、眼を瞬き(まばた)すると、灯が点いたり消えたりしているような錯覚を憶えた。
 枳殻屋は落着いた佇から推して、普段から地元の人達が利用している店のような気がした。
 柿葉寿司があるだろうか、と思い店内に足を踏み入れた。衝立の影に女の姿があった。女は座卓に向って作業をしているのか、前後に影は動いていた。女は店先の気配を察し、衝立の影から顔を出した。
 女は右手を畳について立上がり店に出て来、座敷と店を空間的に分離した仕切に立てられ、開け放たれた障子戸の柱に、右手をかけ上框を店の土間に下りた。年の頃二十歳前後の女は、涼しげな眼もとに、人の善さそうな微笑を浮べていた。女は言葉少なに、
 「いらっしゃいませ」
 ガラスケースの上にさりげなく置かれた、サランラップにくるんだ桜鮎すしに眼を落している、私に向って云った。
 「これは吉野川で捕れた鮎ですか」
 「はい、吉野川の上流で・・・、こちらの山女魚(あまご)も吉野川で捕れた魚です」
 「吉野川では色々な魚が捕れるんですね、鰻も捕れると聞きました」
 「ええ・・・」
 と女は笑っていた。
 女の笑顔を見、女は枳殻屋の跡取娘か、それとも店の店員さんなのか、と思った。女は薄いブルーのエプロンを身に着け、スラッとした背格好だ。女の眼には、純朴な澄んだ輝きが差していた。
 西行は北面の武士として華やかな宮廷での職務を捨て、好んで吉野の人となった。枳殻屋の女は吉野に生れ育ち、現在は枳殻屋で働いているのであろう。西行とは異なり普通の人生が女の前に待っているに違いない。
 吉野川で捕れる魚の事を、女が話すのを聞いて、そんな事を思った。
 結局、桜鮎すしを頼んだ。女は座敷に繋がる隣室に消えて行った。店先には誰もいなくなり、視線の先に橙色に染まった座敷があった。
 店に続いた座敷は六畳間ぐらいだった、と思う。障子が立てられた位置から衝立までは一メートル程で、衝立の前には、大きな赤茶色をした花器に、青々とした麦の穂が活けてあった。
 衝立の背に僅かにテーブルの角が覗いていた。それに続いた六畳間の突き当りの壁前に、赤茶色をした背の低いタンスが置いてあった。タンスは橙色の灯に照らされて清楚な輝きを放つ。
 タンスの上に置かれた花器にも、青々とした麦の穂が活けてあった、それは麦の穂だったか違った草花だったか定かではない。
 タンス、テーブル、衝立、麦の穂が真直に一本の軸線上にあった。私はその軸線上に立ち、八畳間を見据えていた。視線の先には余分な物はなにもない。
 店の幅に対し障子が立てられた仕切で、幅四尺五寸ぐらいに絞られ、座敷で花器の壺のように脹らむ。次の六畳間の仕切、襖で再び絞られそして脹らむ。其処では座敷自体が花器となり、働く人が活けられた花であるかのような印象を憶えた。無意識の裡に、枳殻屋の主人は演ずる空間をイメージしていたに違いない。
 
 直に女はとって返すだろう、と思ってズボンのポケットに手を突っ込み、小銭入れを確認した。ところが女は行ったきり戻って来ない、ふっと傍らに視線をやった。
 視線の先に、大きな火鉢に可憐な草花が活けてあった。草花の名は解らなかったが、幾本もの茎が立上がり、火鉢の上で青々とした小さな葉を広げていた。瑞々しい若葉の葉叢の中に、紫色をした花弁が、点々とぶら下がっていた。
 草花の活け方がユニークな発想で面白い。
 使われなくなった火鉢、其処には灰も入っている。火鉢上部の縁から、鉄製あるいは鋳鉄製の金具を四カ所持出してある。所謂、五徳と呼ばれている物だ。
 五徳に花器として小さな鉄瓶が掛けられ、鉄瓶の外された蓋の部分から、草花が立上がっている。ところが、この五徳は空中に浮んでいるため、重力を火鉢に入った灰には伝達していない、重力は火鉢上部の縁から、鉛直荷重として地面に伝達される。
 これを見て面白いと感じた、二つの訳がある。
 一つは、火鉢を花器として甦らせた、類い希な発想。
 二つ目は、重力が地上に伝達される方法に、空間の階層構造が覗き、緊張した雰囲気が醸し出されている。
 火鉢と活けられた草花は、異質のものである。けれども異質であるが故に、互いに対峙し緊張した空間を創りだしている。
 それらが・・展と銘打って展示されているのではなく、生きた生活空間にさりげなく置かれてあるのが好い。同じ階層構造を持った火鉢の花器だとしても、展示会で展示されていたのであれば、これ程、気に入らなかったであろう。
 座敷の側面に眼をやった。側面には厨房があるような気配があった。まだ桜鮎すしは来そうもない、咄嗟に、ウエストポーチのチャックを右に引いた。中からハガキ大の小さなスケッチブックと筆ペンを引抜いた。
 火鉢の花器に活けられた草花を見詰め、筆を一気に走らせた。そのうちにガラスケースの向う側に人が立つ気配がし、若い女がガラスケースの上に何かを置いたようだった。
 脇目もふらず一心不乱に、火鉢の花器、草花に立ち向っていた。
 座敷の方で、麦の穂が活けられた赤茶色をした花瓶に、似た色の服を身に着けた女が通る気配がした。女が小さな声でなにかを云った。
 「ちょっと・・・・」
 赤茶色の空気が動いた。私は鉄瓶の注口に筆を走らせた。二分程で描き上げ、向き直って座敷に視線をやった。
 視線の先に、赤茶色をした花瓶と、同じ色合のワンピースを身に着けた四十歳絡みの女が、透明の小さなビニール製の袋を手にし、
 「山菜の佃煮を添えますので、少しお待ち下さい」
 と云って、暗紅色の長い箸で、別の容器に入った山菜の佃煮を摘(つま)んで。小さな袋に入れた。ワンピースの女は枳殻屋の女将・店主に違いない。
 麦の穂の作者、火鉢の花器に活けられた草花の作者は、眼の前に立つ枳殻屋の女将である、と確信した。女将は、うちに秘めた情熱を持ち、理知的な表情をしていた。
 女将の楚々とした立居振舞に、常に一歩引いた奥床しさを感じた。
 女将はガラスケースが置かれた店先に下りて来、桜鮎すしと佃煮の入った袋をガラスケースの上に置いて、私の方に差出し、
 「お待たせいたしました。これは自家製の佃煮ですが、召上がって下さい」
 と物静かに云った。
 「どうもすいません」
 私はポケットに手を突っ込み、小銭入れを掴んだ。お金を女将に渡しながら、
 「この近くにパン屋さんはありませんか、明日、大台ヶ原に登るため、弁当の代りにパンを買っていこうと思って・・・」
 女将はさて、といった表情で視線を私に向けた。
 「パン・・・どちらにお泊りですか」
 「喜蔵院ですが」
 「この先に、パンを売っている店が、一軒ありましたが」
 女将はそう云って蔵王堂の方向に手をやった。
 「解りました、それでは・・・」
 女将に向って軽く頭を下げ、ガラス戸の敷居を跨ぎ枳殻屋を後にした。
 
 石畳の参道を蔵王堂に向って歩いて行った。道筋に構えた店でパンを買った。喜蔵院に戻って枳殻屋で買った桜鮎すしを食べよう、と思ったが、今日は宿泊客が多そうな様子だった。
 夕暮の蔵王堂はどんなだろうか、静かに佇む蔵王堂が眼に浮び、広々とした境内で桜鮎すしを食べよう、と蔵王堂に足を進めた。
 蔵王堂への石畳の参道は、人の影もなく、シーンとして静まりかえり、静寂そのものだった。境内には人の姿はない。蔵王堂の大きな扉は閉められて色褪せた朱色の壁が、基壇から立上がっていた。
 境内隅の小さな堂の基壇に据えられた、石段に腰を下ろし、包を広げた。サランラップをはがして桜鮎すしを手に取り、口に頬張った。口一杯に柚子の香が拡がった。
 桜鮎すしは棒すしになっていて、川魚のくさみを消すために、柚子の香をつけてある、と枳殻屋のホームページに書かれてあった。
 脇に広げた枳殻屋の包紙に眼をやった。鮎を描いた水墨画の下に、
 
  耳我(みみが)の山々に囲れた桜花(はな)の里吉野山で
 枳殻屋は伝承の味をかたくなに守り
         今日も仕事に精を出しております
                      枳殻屋主人
 と書かれてあった。
 ホームページで吉野に関する項目を検索していた。その時、偶然枳殻屋のホームページに辿り着いた。薄いピンク色をした画面に桜鮎すし、山女魚すし等の見るからに新鮮な印象の写真が載っていた。写真の下には毛筆調で説明書が記されていた。
 ホームページの二ページ目は、真黒な画面に、写真と流れるような書体が浮上がっていた。それらを懐かしい思いで読んだ。
 柚子の香が漂う桜鮎すしを手に取り、日中は開け放たれ、今は朱色の扉を閉ざした蔵王堂を眺めやった。
 奈良時代以来、修験道の精神は連綿と受継がれてきた。その精神の空間的表現が開創役行者に繋がる金峯山寺蔵王堂、眼前に立つ蔵王堂である。
 永い年月、風雪に耐えてきた蔵王堂と、蔵王堂の歴史に比べ、線香花火が瞬くように、一瞬俗界に顔を出した己を思った。
 静寂に包まれた境内の一角、木立が繁った処に立つ護良親王と村上義光の碑を見上げ、脇の石段を下りて行った。
 参道を行交う人もなく、石畳の左右に立並んだ店のガラスは鈍色に冷たく光る。道筋に立つギャラリーでは次男の北斗氏が、熱心に本を読んでいるのが、眼に入った。
 枳殻屋の店先は、店内からの灯で照らされ、石畳は明るく浮上がっていた。店内には人影はなく、夜の帳を待っているかのような静かさである。
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