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YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。




 
 
 
 
 
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七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
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十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

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三 甘樫丘
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五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
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十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

 
吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原・大杉谷へ4
四 大台ヶ原・大杉谷へ二
 
 朝六時半朝食、既に大勢の登山客が食堂に並べられたテーブルに着いていた。ご飯はお代りができる、体力を付けるため二膳食べた。
 平八郎と肇も意欲的に二膳食べていた。ザックを整え七時半大台山の家を出た。山小屋の玄関先の広場で、エンジ色の登山ウエアーを身に着けた、二十人位のグループが大きな輪をつくり準備体操をしていた。
 頭の側頭部を片手で押して首を曲げる運動、筆者も同じようにしてみた。数秒の間おし続けた。思ったよりいい運動になる。
 昨日の穏やかな天候とは異なり、霧雨が糸を引いていた。
 「これ位なら、傘を差して歩いた方がいいかなあ」
 何気なく話した。
 「いやあー左右の手を自由にしておいた方が良いよ、僕は合羽を着ていくよ」
 平八郎は素人が何を云うか、と冷やかな眼線を筆者に投げた。昨日は身軽な格好で山行と云うより散策と云った印象だった。
 ザックの荷は昨日に比べ一段と大きく重い。山小屋の玄関先で出発の準備をした。二人三人と山小屋を後にし、両側にトウヒが立上がる道に消えて行った。
 七時半、霧雨が降注ぐ中、平八郎を先頭にして山小屋を後にした。二番手は肇か筆者だ。筆者は殿の方が好ましい。殿であればスケッチしたくなるような風景に出会えば、後続者に迷惑を掛けずに描けるからである。
 それでもスケッチに費やす時間は一分程度だ。休憩中でも五六分掛ければ良い方だ。そのため印象を画面に思い付くまま走らせる。
 五六分で大台ヶ原駐車場に出た。平八郎はすでに汗ばんだのか、ザックをベンチに投げ掛けシャツを脱ぎ始めた。
 正木ヶ原と日出ヶ岳との分岐点までは昨日と同じコースだ。穏やかな天候だった昨日でさえ湿った空気が漂っていた、今日は霧雨で紺色をした合羽に滴が流れ、道筋に広がるトウヒの森には深い静寂が支配していた。
 霧雨が降注ぐ中、無言で足を進めた。分岐点から日出ヶ岳山頂にかけての風景が、記憶の外で思い出せない。印象に残らなかったという訳ではなく、脳裏の堅い抽斗に保存されてしまったのかも知れない。
 写真でも撮ってあれば記憶が甦って来るのだが・・・。それでも頂上近くのジグザグの道を進み日出ヶ岳山頂に出た。
 山頂には先発の登山者がふたりいた。風交じりの霧雨のため、山頂のぐるりは乳色をしたベールに包まれ、視界を期待することは出来ない。
 絶好のコンデションであれば、西方に吉野から続く、山上ヶ岳、弥山、仏生ヶ岳、釈迦ヶ岳と連なる大峰山系の山々が優しい稜線を描いている筈だ。
 東方には尾鷲を中心とした熊野灘が見渡せ、湾に浮ぶ島々が陽光を浴び、宝石を鏤めたように輝きを放っていたに違いない。
 晩秋の明け方、運が良ければ、遥か彼方の雲海に浮ぶ富士山が見渡せるらしい。
 山頂にはケルンが積まれ、石柱が四本立っていた。そのうちの一本は、一際高く立上がって聳えていた。ケルンの際にザックを肩から降ろした。
 ザックの蓋を開けて、中蓋の紐を解きスーパーの袋に入ったグレープフルーツを掴んだ。霧雨が降注ぐ天候とはいえ、ひたすら山道を歩いていると、甘酸っぱい果物を食べたくなる。
 ウエストポーチに付属した小物入れからナイフを引抜き、刃を滑らせてグレープフルーツにあてがった。ナイフに軽く力を加え手前に引いた。グレープフルーツのへたで止めた。そこから三等分になるように、ナイフを二方に走らせた。
 オレンジ色の切口はたっぷりと水分を溢れさせ、瑞々しい色合だ。
 「ハイッーグレープフルーツ」
 「オオッー」
 手を延して両名に渡し、左手に掴んでいたグレープフルーツにかぶりついた。甘酸っぱい香りが咽喉を通り吸収されていくのが、意識できる程豊潤な果実だ。ふたりもグレープフルーツにかぶりついていて、満足気な様子だ。
 
 咽喉の渇きといえば、アフガニスタンのカンダハールからイランに近いヘラートへ、長距離バスに乗った時のことを思い出した。
 アジアハイウエーをひたすら走った。時々休憩はしたのだが、途中で猛烈に咽喉の渇きを憶えた。同時に密室に閉じこめられているような感覚を憶え、閉所恐怖症になったのでは、とそんな錯覚に陥った。
 薄暗くなった頃、街道筋のレストランにバスは停まった。バスの降車口から駆け出るや、脇目も振らず水場を求めて便所に走った。
 便所の手洗の薄汚れた蛇口を捻った。勢いよく水飛沫が上がった。両掌を円くして水飛沫をうけ、口元を両掌に近づけ満たされるまで飲続けた。外国では生水は飲むな、と云われるが咽喉の渇きは、生水云々はいっていられない程つよかった。
 
 霧雨が舞っているとはいえ折角、日出ヶ岳に登頂したのだから、と思ってハガキ大の小スケッチブックを、ウエストポーチから引張り出し、ケルンに視線を向けた。筆ペンのキャップを口に銜え、一気に筆を走らせた。
 休むこと十分日出ヶ岳山頂を後にし一路、大杉谷を眼指した。
 「あれっ石楠花じゃないか」
 肇が声を放った。
 山頂を発ってしばらく歩くと、山道の左右には、石楠花の青々とした葉群が広がっていたのである。花が咲誇るにはまだ早すぎた。けれども時折、朱色になった花弁が山道に差し掛かり、気分を和ませて呉れた。
 あと半月、五月下旬にはこの石楠花が一斉に花開き、花の饗宴が待っている。
 程なく山道の左右には、檜が立上がった林になり、開けた下方に小屋の屋根が、樹々の梢に覗いていた。
 林道に出る手前に堂倉小屋が立つ。小屋の土間に足を踏み入れた。中には大勢の登山客が霧雨を避けL型に廻された木床に腰を下ろしていた。その僅かな隙間にザックを置かせてもらった。土間にも数人の登山客が、大木の切株に腰を下ろしラジウスを点し、即席ラーメンを作っていた。
 しばらくして先客のハイカーはひとりふたりと小屋を出て行った。土間から四十センチ程上がった木床に余裕が出来た。平八郎と肇そして筆者は並んで木床に腰を下ろした。小屋には我々三人とペアーのハイカーの五人になった。
 「ここで昼にしようか、どおー」
 肇がザックの紐を解きラジウスを取出して云った。
 「山ちゃん水ある、ちょっと出して」
 平八郎が携帯御飯とカレーライスのパックを手にして云った。
 筆者はザックから水の入ったポリタンクを引張り出し、ポリタンクを右手に掴んで、ラジウスに掛けた鍋に水を注いだ。
 肇はラジウスの撮みを廻した。パッチンと音がして青い炎が、ゴッーとした音と共に立上がった。沸騰したのを見計らい、それぞれが持ってきたアルミホイールにくるまれた携帯御飯を鍋に入れた。
 鍋の底からグツグツと水泡が立上るのを、無言で見詰めていた。四五分沸騰させ、携帯御飯を鍋から出した。今度は携帯食のカレーライスを鍋に入れた。
 携帯御飯のアルミホイールの口を切って四五分待った。平八郎は沸騰させた携帯食のカレーライスの口を切って、携帯御飯の口に近づけゆっくりと注いだ。
 「こうすると食器は必要ないから便利だよ」
 と云って携帯御飯のアルミホイールにスプーンを突っ込みかき混ぜた。
 「それはうまい方法だなー」
 筆者はそう云って同じようにスプーンでかき混ぜた。
 昼飯のカレーライスを食べている間、肇は再び鍋に水を注ぎ湯を沸かした。平八郎はザックの中から籐で作られた小さな器を引張り出し、中からスープの袋を三つ掴んだ。
 それぞれのコップにスープを入れ、肇は鍋の取手を掴んで平八郎と筆者のコップに、湯を注いだ。山行中の温かい食事は、都会で食べる食事の数倍にも匹敵するおいしさを感じる。
 静かな山小屋で、もくもくと口元にスプーンを運んだ。人里離れた山小屋での、この静寂は都会の喧噪を忘れさせる一時である。
 カレーライスを食べ終ったところで、
 「紅茶にする、それともコーヒーがいい」
 肇が精悍な顔を向けた。
 「コーヒーがいいんじゃないの」
 平八郎が肇の顔を見て云った。筆者は風に靡く柳の如く大勢に従う。
 コップにコーヒーが注がれ、円い中で液体が琥珀色に輝きを放っていた。湯気がゆらゆらと立上って、辺は芳しい香りに包まれた。
 チタン製のコップに口元を近づけ、熱いコーヒーを啜った。咽喉にカフェインのほろ苦さが広がった。山行中に喫むコーヒーには格別の味わいがある。
 
 コーヒーの香りにほっと一息吐いていた。青い顔をした中年の男が避難小屋に駆込んできた。男は急いで歩いて来たらしく、半袖の下着のシャツには汗が浮き出ていて肌にぴったりくっついていた。
「カメラを置忘れてしまって・・・」
 と云って、男は小屋の内部を見回した。
 「どんなカメラですか。此処にはないようですが」
 筆者は辺を眺めやり、がっくりしている男の顔を見て云った。
 「これくらいの小さなデジタルカメラなんですが・・・」
 男は両掌を合わせカメラの大きさを示した。男の上半身からは湯気がゆらゆらと立上っていた。かなりのスピードで小屋に戻って来た様子が窺える。
 「日出ヶ岳へ登る途中で忘れた事に気が付き急いで戻ってきたんだが・・・」
 男は肩をがっくりと落して云った。男は大杉谷方面から入山し大台ヶ原に行くらしい。男は五六分辺を見回し、大量の汗のため肌にぴったりくっついたシャツの背を見せ、慌てて日出ヶ岳への山道を登って行った。
 しばらくして我々は大杉谷に向け発った。登山中、眼に入る風景は原始林の中に、巨大な岩が剥き出た荒々しい男性的な眺めであった。
 けれども、それらの風景が断片的に記憶に残るに過ぎず、歩いた道筋を表現するには不十分だ。登山中に小スケッチブックに描いたスケッチを眺め、その時の印象をたどる。
 強風により倒れたのか、巨木が登山路に覆い被さり、やつでの葉のように根を剥き出して横倒しになっていた。
 その光景は無惨な姿には違いないが、常識では樹木は垂直に立つものである、という先入観念に囚われている。倒木に接すると意外性を憶える。無言の相に、朽果てつつある敗者の美学が現れ、共感を呼び起すのかも知れない。
 登山路の道筋に朽果てる寸前の老木が立つ。若木であれば樹皮には瑞々しい肌理が現れている。老木の肌理は乾燥して干からび、幾筋もの皺が樹皮に描かれている。
 地面に剥き出た根は太い樹幹に求心的に集り、巨樹となって垂直に立上がる。立上がった樹幹は地面から二三メートル でほこら状になり、肉が締った若木とは異なり、如何にも老境に入った印象を与える。
 樹幹は真直に天空を差すのではなく、地上数メートルで数本の幹に枝分れする。素直に斜め上方に伸びる枝もあれば、太い幹に瘤を付け上方に向う枝もある。
 それは自然が創りだした芸術作品である。人間が粘土をこねまわして作成した彫刻も此の相には遠く及ばない。鉄あるいは鉄製の部品を組合わせて作成した彫刻においても同じだろう。
 筆ペンで描いた小スケッチブックを見、何を描いたものか、判断に苦しむスケッチが幾つかある。少なくとも十二時間以内に色付けしておけば、対象物が解ったであろうが、一ヶ月も月日が過ぎると、それも解らない。
 桃の木山の家への細い山道の左右に、萌黄色に燃立った若葉の海が広がる。若葉の海に垂直に、数え切れない程の細い樹幹が天空を差していた。その光景を見て思わず立ち止り、ウエストポーチのチャックを右に引いた。中から小スケッチブックと筆ペンを引張り出した。前方には平八郎と肇両名の紺色そしてエンジ色をしたカラフルなザックがゆらゆらと動いていた。
 瞬時に筆を走らせた。描くこと三〇秒、小スケッチブックをウエストポーチに突っ込み彼等の背を追った。こんな際には最後尾で進むのが気楽で良い。
 どの辺だったかは忘れたが、堂倉避難小屋から桃の木山の家への道筋に、石楠花の幹が道の傍らに座っている巨岩から、登山路にほぼ水平に張りだしていた。
 巨岩から数本の細い枝が、石楠花の幹に寄添うように登山路に差掛かっている。水平に張出した枝には、青々とした若葉が群れ、ハイカーを迎える喜びを愉しんでいるかのように、朱色に染まった花弁が 若葉の中に点々と浮立っていた。
 先頭を歩く肇は思わず、
 「うわっーこれは良いなあー」
 と賛嘆の声を放った。
 重力に逆らって幹が水平に張出していることは、空間に緊張感を醸し出す。幹が太すぎれば自らの自重で、水平な幹は垂下がってしまうだろう。
 それは陽の当る坂道を、脇目も振らず進むエリートには見えない、横道に逸れた者が持つ、自由な空気と頼りなさが同居している。
 
 大杉谷に沿ったこの登山路は宮川の上流に位置しているため、辺は常に湿潤な環境にある。巨岩の表面、一面に張付いた苔は湿潤なことを証明している。
 道の傍らに座った巨岩の処々にのぞいている、濡れた岩肌は鈍色の光沢をしていた。水分を含んだ苔の青々とした緑と鈍色の光沢は、好く響き合っている。
 岩の割目に根を張り、数本の樹木が立上がっている。中には目通り十センチ程の中木もある。細木で荒あれば理解できる、けれども中木となれば割目に食込んだ根だけで、果して垂直に立上がれるものか、不思議な印象を憶える。
 そんな苔に包まれた巨岩が、堂倉滝までの道筋に幾つか座っていた。山行中にこのような巨岩に会ったことは、此処大杉谷沿いの登山路が初めてだ。
 樹々に包まれた山道の谷側が明るく開けてきた。樹々の梢が明るくなり白く輝きを放つものが覗いていた。白い輝きを指差し、
 「堂倉滝じゃないかな」
 肇が呟いた。
 白い輝きに近付くに連れ、堂倉滝の名前の通りドッドッとした音色と共に、堂々とした滝が全貌を現した。
 道の先方に吊橋が続いていた。吊橋の手前に谷に下っていく踏跡が、転がっている岩の隙間にあった。
 「降りてみようか」
 平八郎が肇と筆者の顔を見て云った。
 「ああーそうだな降りてみようか」
 肇が首を二三度縦に振った。
 平八郎を先頭に岩の隙間に付けられた踏跡に足を進めた。滝壺の畔に立つと、水飛沫が霧のように舞っていた。汗と霧で濡れた顔に水飛沫が掛り、ひんやりとした冷たさを感じた。
 滝壺の畔に立ち、ウエストポーチのチャックを右に引いた。中からチャコール鉛筆を引張り出してキャップを外し口に銜えた。無意識の裡に筆ペンではなくチャコール鉛筆を右手で掴んでいた。それからバンドと腹の間にねじ込んであった、四号のスケッチブックを引抜いた。
 スケッチブックを縦にして滝に向かって翳した。いい具合に画面に滝が入った。天女の衣が空中を舞うように、水飛沫が白い輝きを放っていた。
 天女の衣は泡だった部位は白い輝きを発しているが、シースルーな皮膜の下には濡れた岩床が鈍色の輝きを放っていた。
 衣の両脇は見るからに堅そうな岩が切立ち、黒い筋が斜めに走り、不気味な雰囲気を漂わせていた。滝壺の左方には切立った岩山が、崩れ落ちて来たのでは、と思われる岩の固まりが、鈍色に輝きを放ち、巨岩に張付いていた。
 その姿を見、崩れ落ちてきた時の情景が眼に浮んだ。それはある時、微妙な振動を岩山の黒い筋が受け、一気に落下したかに思える。その振動は鳥の羽音だったのかも知れない。
 剥き出た岩山は、芽吹いてからまだ日が浅い、淡い緑色をした新緑の若葉に挟まれている。瑞々しい色合を現した若葉の群には、若葉を支える細い枝が頼りなさそうに覗いていた。緑葉に包まれた岸壁から滝の中程まで、水平に張出している樹幹があった。
 緑葉に隠された樹幹の根元は、どのようにして岸壁に根を張っているのか、興味が湧いて来た。樹幹の自重だけでもかなりの重量がある筈だ。その重量を岸壁から食込んだ根でもって支えなければならない。
 そして何故に水平に張出さねばならなかったのか、垂直に立上がる事は無理にしても十度位の傾斜をもって張出せば、樹幹の根元に架かる荷重はかなり軽減される筈だが、と不思議な思いを抱いて堂倉滝の眼前に張出した樹幹を眺めた。
 左方の岸壁が斜め上方から下って滝の落水口に至り、水平な水飛沫を渡って右方の岸壁を上方に高く上る。そのスカイラインを切口として、向うに新緑に輝いた緑葉があった。岸壁に差し掛っている瑞々しい若葉の群は、切口に掛けられた緞帳の装飾に思えなくもない。
 五六分経って、
 「そろそろ行こうか」
 平八郎が呟いた。
 滝を眺める時間としては充分だ。筆者の場合はスケッチを含めての時間であるため、あっという間に来て、疾風の如く去っていく印象を憶える。けれども瞬時に筆を走らせる事により、的確に対象物を表現する訓練にはなる。
 隠滝までの道筋の風景を、脳裡の片隅にある宝石箱から取出そうとした、けれども、ここ堂倉滝から隠滝までの印象が欠落し、素晴しい光景は甦って来ない。筆者の脳細胞のキャパシテーを越えてしまうほど、多くの風景を見たり、沢山の経験をしているのだろうか。
 脳裡の片隅に軽く刺激を与えれば、例えばスナップ写真を見たりすれば、途端に鮮明な光景が甦って来ることは間違いない。
 素晴しい光景の形にならないエッセンスは脳裡の別の片隅に大切にしまってある積りだ。
 
大杉谷 桃の木小屋への吊橋 石楠花
 
 
 堂倉滝の傍らに架かる吊橋を進んで行った。大杉谷に沿った濡れた道は、汗ばんだ躰にひんやりとした心地よい湿り気を与えて呉れる。
 左右に立上がる樹々の梢が明るく輝いていた。程なく、明るく輝いた枝葉の葉擦れに、吊橋の捻られた引張力を負担するワイヤーが覗いた。
 吊橋の中央で深く切れ込んだ谷を見下ろした。両岸の岩山を浸食した谷であることが良くわかる。水際に転がっている大きな岩の表面は、滑らかでつるつるとし鉛色に輝きを放っている。橋の中央部を接線として弧を描き、吊ワイヤーが天空に向って伸びる。
 橋の踏板は木製だったように記憶している。吊ワイヤーと踏板との間に、水平なワイヤーが一本伸びる、そして踏板を吊すための縦のワイヤーが吊ワイヤーからぶら下がっている。
 雨で濡れた踏板を注意深く進んだ。登山靴の底を滑らせた時には、縦のワイヤーの隙間から奈落の底へと、真逆さまに落下してしまうだろう。
 吊橋の中央で振返った。橋の畔の付け根に樹々の枝葉に隠れて、細い滝が一筋の流れを現していた。それは注意して見なければ気が付かない程だ。隠滝とはそんな環境から名付けられたのかも知れない。
 橋を渡りきった向側、橋の畔から隠滝を望んだ。堂倉滝と同じく滝の両側は鈍色に輝いた岸壁が、聳え立っていた。滝を包むように四方から枝葉が覆い被さり、流麗な滝と云った表現は適切でないかも知れない。
 それは橋の際の枝葉に包まれた、岸壁から流れ落ちているため、人目に付かず滝を見る立地条件にない。けれども滝は大昔から其処に存在し、橋は近代になってから築かれたことは間違いない。
 平八郎と肇が隠滝を堪能している間に、筆ペンを引抜き、素速く画面に筆を走らせた。色付けは桃の木山の家に着いてからする積りだ。
 隠滝を過ぎた辺から眼の下に、巨岩が転がった大杉谷を見下ろす沢沿いの道になった。これは岩床を道として整備したもので、岩山が切立っている処は、岩を抉って平坦部を確保し道としている。
 岩山からしみ出た湧水が、岩床の道をしっとりと濡らし冷たい輝きを放ち、豪快な谷の光景に見取れていると、苔に包まれた岩床に足を滑らせてしまう。
 平坦な岩床と述べたが、多少の凹凸はある。その凹凸部に岩山から滴り落ちた湧水が、荒々しい岸壁を映していた。
 水の皮膜を掛けた堅いテクスチャーの岩山の連なり、そして対岸に広がり萌黄色に湧立った若葉が好く響き合っている。そこには剛と柔との相反する空間要素が存在する。
 「来て良かったなあー」
 平八郎が立ち止って呟いた。
 「凄い景色だなあー」
 肇が対岸に繰り広がった光景を見て云った。
 前方でふたりは大杉谷の岩と水が織りなす光景を眺めていた。ウエストポーチとバンドの間にねじ込んであった、四号のスケッチブックを引抜いた。
 立ち止っている平八郎と肇両名を中心に据え、筆ペンを素速く走らせた。左方には巨岩が転がった大杉谷の流れ、右方は堅いテクスチャーの岩山が、足元から立上がる。肇の背丈より幾らか高い処から、樹幹が水平に張出し、岩床の端部辺から垂直に立上がって天空を差す。樹幹が水平に張出すのと同時に、足下から聳え立つ岩山が登山路の岩床に跳ね出していた。
 この光景を眼にし限りなくゼロに収斂した透明感を憶えた。柔らかな若葉とごつごつした岸壁、相反するふたつの要素が併存している空間に差込まれた人間は、それらの空間要素に逆らわずに対処しなければ生きていけない。自らの意志は空間要素に従わなければならない。
 
 岸壁を切開いた岩棚を進んで行った。それは光滝の近く迄続いていた。時折、若葉と岸壁、岩棚との素晴しい対比を見せた光景が現れた。その都度、腹部に差込んであった四号のスケッチブックを引抜き、筆ペンを走らせた。
 これらのスケッチの色付けを、樅の木山の家に着いてから、大杉谷の河原に転がっている岩石の上でした。ヴァンゴッホの固形水彩絵具のペインズグレイは、吉野蔵王堂で使い果してしまった。石を表現するにはペインズグレイを使うことが常だった。
 コバルトブルーにバーミリオンを僅かに加えてくすんだ色にし、ところによってブルーが強く現れたり、バーミリオンの朱色が強く現れ、変化に富んだ色合に仕上った。
 やがて左手奥、斜めになった岸壁が、若葉の海から覗いていた。岸壁を白い輝きが滑り落ち、水飛沫を上げていた。光滝は垂直に落下する滝とは異なり、滑り落ちているため水の皮膜を通して岩床が透けていた。
 「光滝じゃないかな」
 肇が呟いた。
 岸壁の状態が、処に因り砂利が混じっていて一瞬、荒れた印象を感じた。それは崖崩れのために、そうなったのかも知れない。滝の下方には、岩が一面に転がっていた。斜めに滑り落ちているため、滝壺らしき広がりは見当らなかった。
 四五分、立ち止って眺めている間、筆ペンを右手に持ち、四号のスケッチブックにイメージを走らせた。
 尚も進んで行った。岩棚の道は時折、樹々の枝葉に包まれた山中の細い道になる。光滝を出てからしばらくして、先方がつかえていた。二組の団体が眼に入った。
 一組目のパーティーは、眼前に見える、萌黄色に湧立った若葉の海に列を連ね、豆粒のように動いていた。
 二組目のパーティーは、岩が転がって急傾斜な難路を一歩一歩進んでいた。中には這いつくばって難路を下っていく中高年の人もいた。
 しばらく上方でパーティーが進むのを待つ。
 順番を待つ間、ウエストポーチとバンドの間にねじ込んであるスケッチブックを引抜いた。そしてウエストポーチのチャックを右に引き、中から筆ペンを引抜いた。スケッチブックを先方の豆粒に向って翳し構図を考えた。スケッチブックを左手に持替え、筆ペンのキャップを外して口に銜え、一気に筆ペンを走らせた。
 こうしてスケッチが描けるのも、込合っているから出来るのである、と思えば待つことも又楽しからずやだ。
 平八郎はどんなもんだい、といった表情を表し、女が這いつくばって下った道を、軽やかな足取りで進んで行った。
 僅かな水が岩と岩の間を、さわさわと流れる沢に下り、再び山道を登って行った。相変らず前方には二組のパーティーが長い列をつくっていた。
 前方を歩くパーティーと距離を保つために、わざわざゆっくり歩いた。しばらく進んだ道の脇に、苔に包まれた巨岩が座っていた。苔生した巨岩の姿を眼にし、一瞬立ち止った。
 それは見事なまでに一面、苔に被われていた。平八郎と肇はどんどん先に進んで行った。筆者はスケッチブックを引張り出した。ウエストポーチのチャックを右に引き、筆ペンを引張り出し、苔生した巨岩を一気に描いた。ブナの若木だろうか、巨岩を包込むように枝葉を差掛けていた。
 描き上げて相棒の背を追った。
 巨岩が複雑に座った大杉谷、川筋に付けられた岩棚を心地よい気分で進んで行った。先方の萌黄色に色づいた若葉の海に、吊橋が浮び上がった。
 吊橋の弧を描いたワイヤーと水平に張られたワイヤーが、両岸に枝葉を拡げた若葉に溶け込んでいた。吊橋と若葉そして巨岩が織りなす見事な光景だ。
 繊細な空間と豪快な空間がひとつの空間として現れ、それらが入り混じって好く調和した光景である。大杉谷でなければ経験できない眺めかも知れない。
 平八郎と肇を先にやり、ウエストポーチから筆ペンを引抜き、スケッチブックに筆を走らせた。筆者の場合、描くのに少ない時間の方が自分本来の空間が表現できる。
 
 吊橋を渡りしばらくして、数段に別れて落ちる滝が、左方の崖に現れた。
 「七ッ釜滝じゃないかな」
 肇が崖を見上げて呟いた。
 「何段にも別れて面白い滝だねー」
 平八郎が滝に眼をやり云った。
 確かに七ッ釜滝は、一気に滝壺に落水していない、二三段、緩衝地帯を設けて岸壁を落水する。上段の滝は僅かに左方を向き、中段の滝は右方を向く、下段の滝は左方を向いて水飛沫を上げていた。
 一見、三段になって岸壁を滑り落ちているように見える。滝の両脇は鈍色に輝きを放った岩が剥き出、その周囲には萌黄色に染まった新緑の若葉が枝葉を差掛けていた。
 七ッ釜滝は落水するというより、岩床を滑り落ちる、といった印象だ。流れ落ちる水の皮膜を通し、岩床が幽かに透けていた。
 大杉谷に幾つかある滝は、ごつごつした岸壁を滑り落ちている。岸壁は豪快で男性的な光景である。風景全体としては新緑の若葉のためかも知れないが、肌理細かい印象で女性的な光景だ。そんな思いで滝を眺めると、岸壁に入った亀裂にも繊細な情景が窺える。
 少し進んで、岩床を滑り落ちる一段の滝があった。
 「七ッ釜滝のひとつじゃないかな」
 肇が呟いた。
 肇が立ち止ったので、筆者はすかさずウエストポーチのチャックを引き、筆ペンを引抜いた。筆ペンのキャップを口に銜え、四号のスケッチブックに筆を走らせた。
 滝の落差は今まで見てきたもの程ではなく、斜めになった岩床を滑り落ちていた。岩肌はつるつるに磨かれガラスの面のように輝きを放っていた。
 七ッ釜滝から岩棚に付けられた道を進んで行った。途中でふたつのパーティーを追越し、程なく桃の木山の家が視界に入った。まだ三時を少し回っていたに過ぎないが、深い谷に切れ込んだ大杉谷は、夕暮を待つかのように深い静寂に包まれていた。
 桃の木山の家は渓谷に沿って立つ。小屋前の道を進み吊橋に入る入口に出た。右側には吊橋が一直線に大杉谷の対岸に伸び、左に桃の木山の家の玄関が口を開けていた。
 宮川ダム方面から吊橋を渡って歩いて来れば、正面に桃の木山の家の玄関が、登山客をむかえてくれる空間配列だ。
 山深い山中で橙色の灯が洩れた小屋を眼にすると、ほっとした安堵感を憶える。自然と人工とか、自然破壊と保存とか難しい理論を云ったとしても、この安堵感は他の何ものにも代え難い。 大きく開かれた桃の木山の家の玄関に足を踏み入れた。玄関に接した廊下が左右に伸び、正面に受付カウンターが横に長く伸びていた。
 「予約しといた増沢ですが・・・」
 肇がカウンターから廊下に出てきた学生風の男に云った。平八郎と筆者は黙って玄関の土間に立っていた。
 「はいー何名ですか」
 男は肇の前に来て云った。肇は手続を進め、各人宿泊代を男に渡した。
 手続を済ませ登山靴の紐を弛め、右手に並んでいる下足箱に突っ込んで、玄関を右に進んだ。洗面所の角を曲り突き当りの階段を上がった。
 階段を上り切った板間のホールには、濡れた合羽や衣類が壁から壁に架渡された、二三本のナイロンロープにぶら下がっていた。
 板間に接し細い廊下が伸び、両側に薄縁を敷いた寝所が並んでいた。寝所には処狭しとザックが置かれ、彼方此方に宿泊客が、手持無沙汰にし地図を見たりしていた。中には布団を敷き横になっている登山客もいた。
 「此処が良い」
 平八郎は眼を輝かせ、立地条件の優れたスペースを確保した。肇、平八郎、筆者の順に並んでザックを置いた。
 しばらくザックの整理や地図を見ていた。
 「俺、ちょっと河原でスケッチをしてくるから」
 と云って、筆者はスケッチブックを小脇に抱えて寝所を出、階段を下りて行った。玄関の並びにある、眺めの好さそうな食堂には数人の登山客が話しに夢中であった。
 暗くならないうちに一枚スケッチをしよう、と思い下足箱から登山靴を引張り出して足を突っ込み小屋の外に出た。
 渓谷沿いに小屋が立つため、人が入り込める処は狭い。少し戻って岩が沢山転がっている河原に降りて行った。
 幾らか平坦で、岩の少ない場所を選びスケッチブックを拡げた。まずは吊橋を描こう、と四号のスケッチブックを吊橋に向って翳した。スケッチブックを横にすると、良い按配に吊橋の左右が画面に入った。
 ウエストポーチのチャックを右に引き、筆ペンを引抜いた。筆ペンのキャップを外しペンの尻に差した。まず吊橋の床の線を水平に長く引いた。
 それから弧を描いた吊ワイヤーを、プロポーションを計り軽やかに入れた。注意してみると、吊橋の床から幾本ものワイヤーが斜めに出、先端を一本のワイヤーひジョイントしている。
 先端のワイヤーはほぼ水平に弧を描き、吊橋の両端に吸い込まれて行った。このワイヤーは床の揺れを緩和させるために、付けられたものである事に間違いないだろう。
 吊橋の背には黄色から緑色、微妙に変化を付けた豊かなパステルカラーに溢れていた。河原の石に座ってスケッチしているため、河原に転がっている岩が画面に大きく現れる。
 デッサンを終え、河原の砂地にスケッチブックを置いた。ヴァンゴッホの固形水彩絵具を、その脇に拡げた。
 まず吊橋のワイヤー部を、くすんだ青で細かく載せた。それから遠近感を現すため、ワイヤーに抜けて見える向うの緑を描いた。最後に河原に転がった岩を、コバルトブルーとバーミリオンを混ぜ、僅かに河原に流れる水を含ませて塗上げた。
 吊橋を描き上げた頃、中年の男達五人がわいわい云いながら、描く傍らに来、車座になって缶ビールやワンカップ大関を並べた。
 更にスーパーのポリ袋から、さきいかやソーセージを取出し、筆者が描いている眼と鼻の先で酒宴を開き始めた。
 今日デッサンしたスケッチの色付けをしようと、ハガキ大の小スケッチブックをウエストポーチから引張り出した。中腰になって次から次へと筆を走らせて行った。
 小スケッチブックの次は、四号のスケッチブックを再び拡げ、軽やかなタッチで筆を進めた。アルコールが回ってきたためか、酒宴を開く男達の声が一段と大きくなり大杉谷に響いた。
 「何処から来たんですか」
 筆を走らせながら何気なく声を出した。
 「大阪から・・・毎年大杉谷に登るのが恒例になってるんだよ。山小屋の夕食は高くて、食糧は持参でこうして食べるんですよ。旦那さんは一人かね」
 リーダーらしき饒舌な男が云った。
 「相棒は小屋の方にいます」
 スケッチブックに向っている間、男達は相変らずわいわい騒いでいた。
 筆者は立上がり、股間に左手を突っ込み、
 「此処で小便していいかな」
 巨岩の影を指差して話した。
 「オッサン止めてくれんかなー飯食ってる目の前でするのは・・・」
 饒舌な男が大きな声を張上げた。やむを得ず筆者は小便をするのは諦めた。
 我慢して四号のスケッチブックの色付けを続けた。
 「オッサン酒のまんかねー」
 男が長い缶ビールを手に持って上げた。
 「いえしばらくしたら夕食だから結構です」
 「いい絵が描けそうかね」
 男達は佳境に入ってきたらしく、陽気な気分になっていた。
 今日描いたスケッチの色付けも仕上り、スケッチブックをたたみ絵の道具を片付けた。平八郎と肇が待つ小屋に戻った。
 食堂には大勢の宿泊客が座っていた。三交代程で大勢の客をさばくらしい。小屋の玄関に足を踏み入れると、廊下に長い列ができていた。列の三番目に平八郎と肇が並んでいた。
 「おおー山ちゃん食券を貰わねば・・・」
 と平八郎が云った。
 空いた席を探してから、配膳台に食券を差出し、お盆に載せられた夕食を受取った。登山客でひしめきあった長テーブルの空いた隙間に、お盆を載せ席を確保した。
 席の前には女が座っていた。女の隣にはひとり初老の男がいた。食事中は平八郎と肇は言葉数が少なく、只菅(ひたすら)箸を口に運んでいた。
 我々が夕食を終えた頃には、食事を待つ宿泊客は少なくなっていた。食後のお茶をゆっくりと喫(の)んだ。
 筆者が河原でスケッチしている間、平八郎と肇は風呂に入ったらしい。
 「それじゃー俺、風呂に入って来るから」
 肇に視線を向け、軽く右手を挙げて食堂を後にした。
 四五人が入れる浴室のガラス戸を引いた。中には男が三人いた。先刻、河原で酒宴を開いていた男達だ。
 「先刻、河原で会いましたね」
 「ああーオッチャンか」
 普段、当り前のように風呂に入っているが、山行中に風呂に入れるとは、全身が生返るような心地だ。
 風呂から上がって夕暮の大杉谷はどんなだろうか、と思い小屋の玄関を出た。小屋前に伸びた吊橋を中央辺まで進んだ。近辺は静寂が支配し、夜の帳が降りるのを静かに待っていた。其処で振返った。
 桃の木山の家が谷に沿って横に長く伸びていた。内部から洩れた灯が窓に橙色に輝きを放ち、大杉谷に見事な景観を現していた。
 長く伸びた左翼と右翼は玄関がある受付あたりでクランクし、右翼の新館は二層分高い位置に見えた。
 振返った瞬間フランクロイドライトのアトリエ、タリアセンウエストの立面図が脳裡の片隅を過ぎった。それは緩やかな傾斜の屋根で構成され、水平的な広がりを感じさせる。山小屋でこのような空間に接したのは初めてだ。
 吊橋を小屋の方に戻った。しばらく玄関と吊橋の間の溜りに佇んでいた。四人連れの若者が吊橋を渡って来た。辺は薄暗くなっていた。
 ズボンのバンドに吊した時計を手に取った。時計の短針は七を差していた。女ふたり男ふたりのグループが玄関に近づいて来た。
 小屋の中から二十歳位の小屋で働いている女が玄関外の溜りに出、
 「・・・ちゃんーもう来ないかと思った」
 と女は声を放って、デイバッグを背負った女と抱合い再会できた事を喜び合っていた。
 「ウワッー」
 女は男の首に両腕を絡ませて抱きついた。小屋の女の眼には涙が溢れ出ていた。
 それから寝所に戻った。平八郎と肇は食堂に行ったのかいなかった。寝所の彼方此方で人のかたまりができ、明日の行動予定等を囁いていた。
 ザックから大学ノートの日記帳を引張り出し、ボールペンで書殴っていった。その日のうちに認めておかないと、二三日もすれば記憶が薄れ、見事な光景が交錯してだぶってしまう。
 日記帳を付け終ってから食堂に行った。平八郎と肇は五六人の輪の中にいた。テーブルにはビールや紙パックの日本酒、そしてつまみのピーナッツ等が処狭しに並んでいた。
 平八郎と肇は並んで座り、肇の顔は朱色に染まっていた。初老の男達を前にし、平八郎は陽気で饒舌に喋っていた。筆者は肇の隣席に腰を下ろした。
 平八郎は興奮し、
 「此方の方は久留米医大の脇坂教授と同じ大学で、久留米医大病院の院長先生だそうです。奇妙な縁で・・・・」
 筆者の前には、昨晩話をした竹下宏氏が穏やかな顔付きをして座っていた。初老の男達は大阪の旅行会社主催のツアー登山客だ。院長先生は久留米から飛行機に乗り、夫婦で参加している。院長先生の前には、広島から参加している男が座っていた。竹下も広島から来ている、と昨晩大台山の家で云っていた。
 「お酒どうですか」
 前に座っている竹下は、紙パックの日本酒を手にして云った。テーブルには次から次に紙パックの日本酒が載せられた。
 佳境に入り、平八郎の放つシャンソンが桃の木山の家に鳴り響いた。ここでは平八郎の独壇場である。筆者は頃合を見計らい席を立った。肇は気が付かないうちに席を離れていた。
 寝所に戻ると、肇は既に寝息を立てていた。筆者も煎餅布団に潜り込んだ。アルコールが回っていたためか、程なく深い静寂へと引込まれて行った。   
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