大和路ー光と影 3
喜蔵院への道

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「吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原・大杉谷へ3 三大台ヶ原・大杉谷へ」の文に述べられています。



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YKギャラリー
YKギャラリーにおいて作者山口佳延による京都・大和路等のスケッチが展示されています。但し不定期。
 
 
 
喜蔵院への道 大台ヶ原 正木が原
吉野金峯山寺蔵王堂 蔵王堂列柱
大和路インデックス  
大和ー光と影1
一 西の京一―薬師寺・唐招提寺・垂仁天皇陵
二 当尾の里―浄瑠璃寺・岩船寺
三 斑鳩の里一―慈光院・法起寺・法輪寺・法隆寺
四 桜井から飛鳥へ―安倍文殊院・飛鳥寺・岡寺
五 斑鳩の里二―法隆寺
六 今井町から当麻寺へ
七 西の京二―西大寺・秋篠寺から東大寺へ
八 聖林寺から談山神社へ
九 山辺の道―大神神社・桧原神社・玄賓庵
十 室生寺
十一 長谷寺
十二 興福寺・奈良町

大和ー光と影2
一 吉野・金峯山寺蔵王堂
二 飛鳥一―飛鳥より八釣部落へ
三 甘樫丘
四 山辺の道二―崇神天皇陵・長岳寺・三昧田
五 五条―旧紀州街道
六 東大寺から浮見堂へ
七 壷坂寺八
八二上山から当麻寺へ
九 山辺の道三ー長柄から天理へ
十 大和郡山城
十一 生駒聖天・宝山寺
十二 滝坂の道から柳生の里へ
十三 信貴山朝護孫子寺
大和ー光と影3
1吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ1
2吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ2
3吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ3
4吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ4
5吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原へ5
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古都ー光と影・関連サイト  
読後感想
山口佳延写生風景
絵と文 建築家・山口佳延
 

   
吉野金峯山寺蔵王堂から大台ヶ原・大杉谷へ3
三大台ヶ原・大杉谷へ
 
 早朝、喜蔵院界隈を散策、樹々の梢から穏やかな朝陽が差込む。喜蔵院前の坂道を少し下って振返った。坂道が平らになりかけた辺に喜蔵院の山門が、玩具のように覗く。
 坂道の左右には、旅館の新館と旧館が立つ。旅館の旧館と云っても、道沿いに立つ民家のような佇だ。道の左右を行交う人がいなければ、旅館だとは気が付かなかったであろう。
 旧館側の坂道から眺めた。坂道に面して立っているためか、流動的で変化のある構図だ。今日最初のスケッチを、と思いウエストポーチから筆ペンを引抜き、スケッチブックを翳した。いい具合の構図だ。
 この道には吉野に来てから二三回通ったが、その時は、これ程の景観とは思わなかった。早朝であるため、大気は清々しく澄渡っていたからかも知れない。
 旧館の軒端の垂木がリズミカルに並び、喜蔵院に向って突刺さるように伸びる。街路風景を描く時には、一方に寄ってパースペクテヴに描くと、左右のバニシングポイントに向う線の傾きが異なり、動的な構図をしたスケッチとなる。
 左右に広がった画面ではなく、視線が中心に吸い寄せられ画面中央が開放された構図となる。なによりも道空間を表現するには、道に面する左右の表情が現れていなければならない。
 石垣に載った塀が長く伸び、塀内から瑞々しい色合の若葉が、溢れんばかりに広がっていた。薄い緑色の葉叢の中、樹幹が筋状に曲りくねって伸び、葉擦れに点々と藍青色をした天空が抜けていた。
 七時朝食を摂るため、喜蔵院に戻った。
 喜蔵院の奥さんの話によれば、近鉄吉野駅まで徒歩四十分位らしい。九時八分発大和上市駅行に乗らなければならない。八時には喜蔵院を発つ積りだ。
 吉野駅までの道筋で、蔵王堂、仁王門を望んだ。豪快な構図に思わず立ち止ったが、大和上市駅で待合せをしているため、寄道せず先に進んだ。
 ロープウエイ吉野駅を過ぎた辺で時計を見た。速く歩けば九時八分の前、七時三十五分発に間に合いそうだ。
 
 大和上市駅に早めに着いた。大台ヶ原行バス九時二十一分発まで三十分ぐらい時間があった。 大和上市の町を散策しようと、駅前の弧を描いた坂道を下って行った。
 駅近辺には古い街並は遺っていない。吉野川に沿って走る国道に出た。国道には頻繁に車が行交い、ぶらぶら散策する空間ではない。これから山側に上がっていく時間的な余裕はない。国道を介して吉野川を描き、急いで駅に引返した。
 大和上市駅前のバス停には小型バスが停まり、ザックを背負った大勢の登山客が並んでいた。駅に付属したバスの切符売場で訊いた。
 「九時二十一分発の大台ヶ原行はこのバスですか」
 「このバスは九時五分発の大台ヶ原行です、今日は臨時が出てるんですよ、このバスが発ったら並んで下さい。乗車券は先に買っておいて下さい」
 三人分乗車券を買うと、バスの整理券を渡された。整理券の番号は壱番だ。バスには整理券の順番で乗込むらしい。
 駅前でバスを待つ登山客は、七八人のグループが多い。呑気に絵などを描きそうな登山客はいそうもない。
 大和上市駅で待合せ予定の亀山平八郎氏、増沢肇氏の携帯電話に連絡した。
 「もしもし山口ですが・・・。今、大和上市駅ですが、切符は買っておいたから・・・先頭車両の後に乗ってれば、改札口に近いと思うよ」
 「おお・・・了解、バスは込んでるよう」
 「臨時バスが数便出ているため大丈夫」
 電話を切った後、相棒二人の朝食用に、駅前の店で柿葉寿司とウーロン茶を買った。改札口に戻ると、程なく大和八木駅からの特急電車がプラットホームに滑り込んで来た。
 特急電車のドアが開くと同時に、ザックを担いだ大勢の登山客が、弾き出された。
 円い顔に掛けた眼鏡が窮屈そうな位、円い顔をし、頭にはカーボーイハットの翼を広げた男が、片手を上げ一番に出てきた。大台ヶ原山行を共にする亀山平八郎氏だ。
 平八郎に半歩遅れて、精悍な顔付きに柔和な眼を浮べ、飄々とした表情で辺を見回している男が、眼を見開き近付いて来た。今回の山行のリーダー増沢肇氏である。
 
 今回の山行に際し半月前、平八郎から電話が来た。
 「五月の連休に大台ヶ原に登るが都合はどうか、増沢君が計画してるが・・・」
 「それはいいなあ仕事の調整をしてから連絡するから・・・」
 大台ヶ原と聴いて瞬間、吉野の金峯山寺蔵王堂が脳裏を過ぎった。
 三月から四月にかけて、娘が関西大学を卒業する前に、吉野の桜を見に行きたい、と思っていた。けれども、関西大学の卒業式に際し関西を訪れたのだが、娘が住んでいたアパート・コーポ滝川の近辺のスケッチや、関西大学の構内風景をスケッチするので手一杯で、蔵王堂を訪れる余裕は無かった。
 数日早めに東京を発ち、金峯山寺蔵王堂を訪れる事にした。
 二三日して肇からメールが送られてきた。
 「5月2日(木)〜3日(金)
 品川駅23:00(大垣行き)名古屋駅5:19(急行 5:51)伊勢中川駅7:09(快速 7:17)名張駅7:56(特急 8:00)大和八木駅8:25(特急 8:31)橿原神宮駅8:35(特急 8:47)大和上市駅9:21(9:30)大台が原11:28ーー大台山の家(泊)11:30
 5月4日(土)
 大台山の家7:00(7:30)ーーシオカラ谷8:20ーー大蛇ー9:10ーー正木ガ原ーー日出ガ岳10:10(10:30)ーー粟谷小屋11:45(12:15)ーー堂倉滝13:15ーー七ツ釜滝14:30ーー桃の木山の家(泊)15:00」
 5月5日(日)
 桃の木山の家7:00(7:30)ーーニコニコ滝8:50ーー千尋滝11:50(12:00)ーー宮川乗船場ーー大杉12:20(13:10 バス)松阪駅名古屋駅東京駅」
 近鉄吉野線大和上市駅は吉野への二つ手前の駅で、降りたことはないが、好く知っている駅だ。大台ヶ原行バスは九時半大和上市発だ。肇からのメールを見、二日前に吉野に発つ事に決めた。
 
 久し振りに会った亀山、増沢両名は夜行列車の疲れもなく、元気そうであった。
 「バスの切符は買ってあるから、あのバスの次に来るらしいよ。臨時便が増発されているんで、安心だよ」
 「おおそれは・・・」
 と平八郎は云って、登山客で込合った駅前をバス停に急いだ。
 「意外と登山客が多いなあ」
 肇は彼方此方で、ザックの荷繕いをする登山客を見回した。
 「どんなに込合っていても、我々が一番札だから座れるよ」
 切符を買った時に渡された、プラスチック製の札を肇に見せた。バス停の前に置かれた濃い緑色をした長椅子に、ザックを無造作に投げ掛け、御握りを頬張っているグループもいる。
 平八郎は柿葉寿司があると聴いて、バス停側の店に急いだ。
 定刻九時半大台ヶ原に向け、バスはエンジンを始動させた。バスは右手に吉野川が流れる、谷間の国道をゆっくりと進んだ行った。
 車窓には、新緑の瑞々しい若葉が風に戦ぎ、その間に点々と、瓦屋根が銀鼠色に輝きを放って、流れ去って行った。若葉は朝陽を受け眩しい程に輝いていた。
 材木の町川上村を過ぎる。国栖はまだか、と車窓に眼を凝らして眺めた。国栖に行けなかったため、部落の佇だけでも見ておきたかった。けれども国栖の部落は特定できない儘、バスは深い山間の道を突進んで行った。
 バスに揺られるうちに、瞼が合さってきた。
 気が付いた時には、左右の景色は閑散とした明るい林になっていた。高い標高では、樹々は芽吹いたばかりで、新緑と呼ぶにはまだ早すぎる季節だ。
 大和上市駅から二時間、十一時半大台ヶ原に着いた。吉野の山奥になんと立派な駐車場だろう、とその広さに驚いた。平坦なアスファルト舗装された駐車場には、既に多くの車が停まっていた。
 平八郎から大台ヶ原山行の話があった時には、奥深い山をイメージしていた。確かに大台ヶ原は紀伊山地の中央に位置し、今のように交通機関が整っていなければ、其処に至るまでには、大変な苦労があった事であろう。
 一方、何の苦労もなく、吉野山の麓から大台ヶ原山頂まで来てしまって良いのだろうか、と素朴な疑問が頭を掠め、現代文明にどっぷりとつかった自らの姿が、駐車場に停まっている車に映った。
 まずは昼食を摂らねば、駐車場から見える大台荘に向った。食券を買って食堂に足を踏み入れた。新建材の天板を載せたスチール製の食卓が数十個並べてあり、二百人は入れそうな大きな食堂だ。
 大きな食堂に、客は我々三人だけで、間をおいて四五人のグループが入ってきたに過ぎない。 食券を配膳カウンターに出しそば定食を受取った。平八郎はバスに乗っている時にも柿葉寿司を一人前平らげ、続けてそば定食、と留まるところを知らない。寡黙な肇は 平八郎が精力的にそば定食に立ち向っている姿を、顔を緩ませて見ていた。
 リーダーの肇の計画では初日は、宿泊先大台山の家に入り、午後はのんびりと近辺を散策する予定だった。
 「明日は晴れるかどうか解らないから、今日、大台ヶ原を一周しようか、どお増沢君」
 平八郎が肇に促した。
 「そうしようか、そんなに時間も掛らないし・・・」
 と云って肇は、銀色に鈍く光ったお盆に食器を載せ、奥のカウンターに下げた。その足で大台山の家に向った。
 大台山の家は、大台荘とは駐車場を挟んだ反対側の散策路の道筋にある。
 駐車場に面した売店横の閑静な林の中に、道が伸びていた。行交う散策者の幾人かは、軽装な身形で、軽井沢の高原を歩いているような錯覚を憶えた。
 大台ヶ原は、標高千五百メートル から千七百メートルほどの高原地帯である。三千メートル級の山々が連なる北アルプスとは、違った風景であるのは当然だ。
 平八郎を先頭に足を進めた。程なく切妻を道に向けた大きな山小屋が、樹々の梢の彼方に見えた。山小屋の妻面に開かれた玄関に足を踏み入れた。間口二間程の玄関は板間に繋がり、先で脹らみ食堂になる。
 縦に受付カウンターが伸び、大台ヶ原の地図や土産物が載せてある。山男にしては華奢な体つきの、三十歳位の男が出てきた。
 「予約してある増沢ですが・・・」
 肇が受付カウンターに眼を落して云った。
 男はカウンターに散らばった書類に眼を落し、
 「ひとり八千六百円です」
 と云って顔を上げた。
 我々三人は、それぞれ八千六百円を財布から抜出し受付カウンターに載せた。我々三人で山に登る時には、いつも誰かひとり会計係を決めて、二万円程の金を会計係に預け、三人分を一括して払っていた。今回の山行はそれぞれ払うのか、と思った。
 
 登山靴の紐を弛め板張の広い廊下を進んだ。大きく開けた食堂の向いに、幅広の下がる階段と上がる狭い階段があった。
 大台山の家では、食堂のある玄関レベルから半階分上がって上階の各寝室があり、半階分下がって下階がある。所謂スキップフロアー形式の平面計画である。
 男は狭い方の階段を上がって行った。我々三人は、右肩にザックを担いだ平八郎を先頭にし肇、筆者の順に、男の後に従いて足を進めた。
 男は階段を上がり切った、右手の引戸を引き、
 「この部屋です」
 男は引戸の傍らに立って掌を部屋に向け、そう云った。
 先頭に入った平八郎は、
 「おお個室だ、グーグー」
 と云って頬を弛めた。
 六畳間ほどの大きさの部屋で、床には畳だったか、薄縁だったかが敷いてあった。突き当りには布団を載せた、簡単な台が設けられ、三人で一晩明かすには充分過ぎるスペースだ。
 肩からザックを降ろし大台ヶ原を、散策する準備をした。大和上市駅で買ったお茶と、吉野で買ったパンの残り、それに二号の大きさのスケッチブックを、乳白色をしたスーパーのビニール袋に入れた。
 ビニール袋をぶら下げて部屋を出た。平八郎と肇は手ぶらだ。
 大台山の家から東に広がる林の中を進んで行った。歩き始めは平坦な道だった。程なく、岩がゴロゴロと転がった、急傾斜な道になった。
 東大台シオカラ谷に至るため、急激に下った道になる。
 
 原稿を認めてるのが、佳境に入った頃、電話のベルがチリチリと音をたてた。東急不動産に勤める友人の野川勝之氏からだ。
 「東急建設の藤原さんが会社を辞めたらしいよ、君と僕と三人で会おう、と思うが都合はどうかな。吉祥寺かそれとも新宿どちらでも構わないが・・・」
 「藤原さん早期退職なの、吉祥寺でも新宿でも俺はどっちでもいいよ」
 「それでは新宿にしようか、コマ劇場の前、例の噴水前辺でどうか時間は六時」
 新宿、コマ劇場前で落合う事にした。
 当日、有料自習室早稲研の様子を確認するため、早めに事務所を出た。大久保通に自転車を走らせ、弁当屋の角を左方に折れた。右方に曲れば作家魯迅が学んだ、国際学友会に至る。
 自転車のハンドルを左に切った。その時、同時にハンドルを切った男がいた。一瞬男の横顔が見えた。眼は細くのっぺりとした大きな顔に見覚えがあった。
 以前、取引があった建設会社の営業マン、小島部長かと思い、男を追抜いてから振返って、
 「おお・・・」
 と声を放った。大学の同級生木田尚氏であることは、直に解った。
 「木田じゃないか、何でこんな処にいるの」
 「おお・・・山口」
 振返った筆者の顔を見、木田は吃驚した様子もなく頬を弛めて云った。
 弁当屋の角を曲ったビルの犬走りに自転車を停めた。その後に木田も黒塗りの自転車のスタンドを掛けた。
 「六時迄に歌舞伎町に行かねば・・・その前に自習室の点検をするんだけれども一緒に来てみない・・・」
 「山口、設計止めたんか」
 「いやいきがかりじょう、やらざるを得ないんだよ」
 
蔵王堂 仁王像 蔵王堂 仁王像
 
 
 地下への階段を下りた。ガラス戸を押して休憩室に入った。自習室には木製の四人掛のテーブルがあり、黒塗りの椅子が三脚並んでいた。休憩室から自習室へは木製の扉がふたつ、白色に浮上がっている。
 片方の扉脇のテンキーに、四桁の暗証番号を入力し、Eを押した。瞬間扉の鍵が「ウーウー・・」と唸ってデッドボルトが外れた。
 自習室大久保では管理者がいない場合、見学者はまず高田馬場事務所に電話し、電話回線を利用して電気錠を解錠してもらい入室する。(この使用方法は自習室吉祥寺でも似た入室方法だ)その際ピンク電話の脇に置かれたポストに、備え付けの袋に使用料を入れて投入れる事になっている。月極の自習室使用者は、それぞれ四桁の暗証番号を知っているため、自由に出入りできるシステムになっている。
 扉を手前に引き、自習室に入った。円柱の影に据えられた席と七番の席の室員が机に向っていた。両名には大久保自習室の簡単な管理をお願いしてある。
 七番の席の室員は現在、司法試験を目指して勉強している。
 偶然には違いないけれども、筆者と高校、大学が同窓である。
 自習室の事情を知らない木田は、
 「これはどうやって・・・」
 静寂に包まれた室内で、普通に声を放った。筆者は口元に人差指を縦にし、
 「シッー」
 と注意を促した。自習室内を一回りし異常の無いことを確かめ、件の両名に軽く手を上げ、白色の扉を押して外に出た。階段を上がり犬走りに置いた自転車の後輪に付けられた錠に鍵を差込みながら木田の顔を見、
 「職安通りの手前に長谷川工務店があるけど、ちょっと寄ってみようか。俺は六時に歌舞伎町で友人と、待ち合せがあるためゆっくりはできないが」
 「俺もそうなんだ。六時半までに御徒町に行かねばならないからさ」
 この狭い道は、新宿への抜道で自転車を並べて走ると、後続の車は通る事が出来ない。相前後して話しながら、ゆっくりと進んだ。
 職安通りに出る、ふたつ手前の道を左方に折れた。右手には時々材木を買うことがある栗原木材店が、大きな木戸を開けていた。
 もしかしたら鍵が掛っているかも知れない、と思いながら道に面した、長谷川工務店と白抜きされたガラスの引戸を右に引いた。ガラス戸は軽い音をたて、横に滑った。
 事務机の向側に長谷川政夫氏の弟、稔さんが椅子に座っていて此方を見た。長谷川政夫氏の母親は、背を見せ店奥にある台所に、お盆を持って行きかけるところだった。ガラス戸の滑る音を耳にし、母親は振返った。母親は穏やかな顔を綻ばせ、
 「あら山口さん、暫くですね。どうぞお入り下さい、さあさあ」
 と云って母親は掌を室内に向けた。
 「六時までに新宿に・・・直に失礼しますから、彼氏は同級生の木田君です。偶然、長谷川君のところで工事してもらった大久保自習室の前で会ったところです。木田ー」
 「名刺だけでも・・・」
 木田は肩を縮めて中に入り、稔さんに名刺を差出した。
 「それでは六時迄に新宿に・・・」
 風の如く現れ、風の如く去って行った。小滝橋通りと職安通りの交差点まで、木田と自転車を引いて行った。
 「木田、何であんな処で自転車に乗っていたの」
 「大久保通りに面し以前、小料理屋があった処で、ちょっとした計画をしたもんで、その後どうしたか、と思い見に来たんだよ。今、景気悪くてまいったなあ」
 「その小料理屋入ったことあるよ。最近、更地になったようだよ」
 交差点で木田と別れた。職安通りを新宿方面に自転車を走らせた。以前、時々呑みに行ったことのあるープーサンーが入居しているビルの前に自転車を停めた。
 そこからコマ劇場に向った。
 コマ劇場前の広場には、噴水は撤去されて、代りにタイル張りの広場になっていた。広場はそれを取巻いている、四周の道から二三段上がってある。
 この辺は歌舞伎町歓楽街の中心をなすオープンスペースだ。彼方此方に人が群れ、吉祥寺、高田馬場からくると、異質の空間に迷い込んだような錯覚を憶える。
 広場の周辺の階段の縁に数人の人が寝転がっていた。ひとりで寝転がっている者、二三人で車座になってカップラーメンを啜っている者、単行本を拡げ読耽っている者等々、広場を見回したが、野川、藤原両名の姿は見えない。
 筆者は、広場のステップに足を掛け、広場の先に進んだ。早稲田大学の学生時代、早慶戦があった夜、この広場を取巻く道に学生が溢れ、大騒ぎしたことが目に浮んだ。その時は、早稲田大学の校歌や応援歌を咽喉が潰れるまで歌った。なかには、噴水があった池に飛込む学生もいた。
 その噴水があった辺で、七八人車座になっていた。足が其方に向いた。車座の中心に将棋盤が据えられ、向いの初老の男が敵陣、銀の尻に飛車を置いた。パチンと軽い音色が周辺に響いた。男が置いた飛車の横にはひとつ開けて敵の金があった。初老の男は詰めの段階に来ている、と思い四五分見ていた。
 車座になった連中は筆者に視線を向け、何かを云いたそうな表情だ。その時、四条大橋、橋の畔で生活するホームレスの伊藤のことが思い浮んだ。
 同時に吉野、西行庵が眼に浮び、華やかな生活を捨てた西行が脳裏を過ぎった。意志を持って出家した西行、一方、歌舞伎町の広場に寝転がっている彼等は、意志を持っているのかどうか、彼等に云わせれば難しい意志を持つ必要があるのかどうか。
 吉野から帰ってまだ日が浅かったため、吉野と歌舞伎町の雑踏が重なった。
 広場を一回りしコマ劇場前に足を向けた。其処に一際、背の高い男が眼を光らせていた、野川だ。野川は数分前に来ていたらしく、
 「今来たの・・・」
 と筆者の顔を見て云った。
 「早めに来たので広場の方を見てきたよ、噴水は無くなってたよ」
 「そうみたいだな、藤原さんどうしたかな、携帯に電話してみようか」
 と云って携帯の小さなボタンを慣れた手付きで押した。番号が変ったらしく、この電話は現在使われていません、とテロップが流れたらしい。
 そうこうするうちに、新宿駅方面から眼鏡を掛けた藤原氏がゆっくりと歩いて来た。お互いに軽く手を上げて挨拶し、雑談しながら野川が行き付けのコマ劇場裏のすいとん屋 に歩いて行った。
 すいとん屋 からやはり野川いきつけのスナック加世子に行った。そこでアメリカの同時多発テロ、小泉内閣の行政改革、景気動向そして藤原の今後の進路について意見を交換した。それらについて述べることは、此処では主題から外れるため、項目を列記するに止める。
 スナック加世子を出た角で野川、藤原と別れ、自転車を停めてある職安通りに歩いて行った。コマ劇場前を通り掛った。劇場前の広い犬走りに、新聞紙やダンボールを敷き並べ、足を道路に向けて棒状に寝ている七八の姿があった。
 その姿にはホームレスと云った感慨は憶えず、一夜の宿をコマ劇場前に借りている、自然な姿に見えた。親鸞聖人による歎異抄の詞、
 「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」
 悪人正機説が眼に浮んだ。
 職安通りに面したドンキホーテ近辺には大勢の韓国人で溢れ返っていた。明日五月二十九日はワールドカップ準決勝戦、韓国対トルコ戦だ。
 ワールドカップでの韓国選手の活躍に、フィーバーした在日韓国人のサッカーファンが、連日、界隈に繰出してテーハミングッと声を放ち、母国を讃えている。
 
 トウヒ林の原生林に付けられた岩石が転がった道を抜け、シオカラ谷に掛る吊橋が。淡い緑色の葉擦れに現れた。大台ヶ原では最も低い標高に位置するシオカラ吊橋だ。
 橋の下、大きな岩石が折重なった河原には、幾人もの登山客ー軽装な装備であるため登山客と云うより、行楽客と云った方が適切かも知れないーが水面から顔を覗かせた岩石に腰を下ろし、胸を拡げていた。
 平八郎を先頭に橋の畔の踏固められた道を、河原に降りて行った。シオカラ谷に流れる水量はまだ少なく、つるつるになった岩石の透き間を、さわさわと涼やかな響きを残して、流れていた。手頃な角が円くなった岩に腰を下ろした。
 大台ヶ原での最初のスケッチと思い、ウェストポーチのチャックを横に引き、筆ペンを引抜いた。キャンソン紙のスケッチブックは、吉野で全て使い果してしまった、三号のケント紙製スケッチブックをポリ袋から引張り出し、シオカラ吊橋に向けてかざした。
 いい按配の距離で、橋の両サイドは萌黄色に沸立った樹々の枝葉に溶け込み、中央部が緑海に浮上がっていた。
 捻ったワイヤー製の手摺や手摺子は、環境に配慮したためか、緑色をしていた。背後の萌黄色と橋の緑が溶け合い一瞬、空中歩廊では、と眩暈を憶えた。
 周囲と同じに、同系色で橋を纏め上げるのも、ひとつの手法であるが、周囲とは反対に、というより自然に対比させ、人工的な朱色に染上げれば、存在感が意識でき面白い空間になったのでは、と絵筆を走らせて思った。
 シオカラ谷には何処から流れ着いたのか、と思わせる程、沢山の岩石が狭い谷を埋め尽していた。岩の間を抜って流れる清流は何処に至るののだろうか。
 東に主峰日出ヶ岳を擁する大台ヶ原は年間降水量四〇〇〇mmを越える、わが国屈指の多雨地帯である。山上でありながら、ほぼ平坦な大台ヶ原の中央部を、シオカラ谷が流れる。シオカラ谷は先端を日出ヶ岳に発し、樹林帯に包まれて幾層にも積重なった苔に覆われた大台ヶ原に浸み込んだ水を集めた川だ。
 シオカラ吊橋を越えて東の滝で落水し、大台ヶ原東大台の山稜から落水する中の滝、西の滝からの水流と合流し東ノ川となる。そこから南下し、東ノ川の西側を流れる北山川と共に、南の池原ダムに流れ込む。
 当初、肇からメールが来た時には、大凡の見当はついていたが、大台ヶ原の正確な位置は解らなかった。吉野の奥であることは、薄ボンヤリと知っていたに過ぎない。地図を細切(こまぎ)れに見ていたためだ。
 吉野を駆巡っているうちに、熊野詣の道、所謂、奥駆道があることを知った。吉野蔵王堂、大台ヶ原、奥駆道そして熊野権現が一筋の糸で絡み合った。
 その絡み合った糸は各部位では、理解している積りだが、全体像は未だに定かではない。
 京ー吉野ー蔵王堂仁王門ー金峯山寺蔵王堂ー山上ヶ岳・大峰山寺本堂ー大峯奥駈道ー弥山ー八経ヶ岳ー釈迦ヶ岳ー前鬼 ー玉置神社ー熊野本宮ー那智に至る、連綿と連なる壮大な熊野古道に対し、尽きせぬ興味が湧き上がってきた。
 八経ヶ岳の東方二十キロメートル離れ、北山川、東ノ川の谷を挟んで大台ヶ原の台地が広がっている。更に、大台ヶ原から東方に、水平距離にして二十キロメートル弱で熊野灘に至る。ここにきて、やっと大台ヶ原の地理的位置が解りかけた。
 大台ヶ原は紀伊半島の中央に、ドカンと鎮座しているもの、と間違って理解していた。これ程、熊野灘に近いとは認識を新たにした。
 素速くスケッチを仕上げ、注意深く岩石を渡り歩き、シオカラ谷を後にした。
 シオカラ谷から南方に足を進めた。平八郎、肇両名の指示の元にひたすら歩く筆者には、今何処にいるのかさえ定かでは無い。それも気楽でいいには違いないが、幾らか予備知識を蓄えていた方が、愉しみも倍加するであろう。
 
 トウヒ林が立上がった原生林を分け入った道に、石楠花が青々とした葉を繁らせ、細い山道に張出していた。案内書に記されているように、石楠花が咲き乱れる風景ではないが、時折時を忘れたかのように、青々とした枝葉の群れに、ひとつぽつんと薄紅色の花弁を覗かせていた。
 その光景はひとつだけに印象に残る姿だ。道が平坦になって程なく、平八郎、肇両名は西方に折れて進んだ。この辺から登山客が多くなった気がした。
 岩山の尾根筋を進み、やがて登山客で先がつかえてしまった。大台ヶ原一番の絶景の地と云われる、大蛇ー(だいじゃぐら)が近いしるしだ。
 登山客を眺めやると中高年の女が多い。それも二三人のグループではなく、二、三〇人の団体だ。列の先頭と最後尾には案内人が付添っている。彼等と細い山道で擦れ違った際には、歩き去るまで待たなければならない。その時はうんざりするのだが、山小屋に着いて話をすれば、それぞれ個性ある人達であり、団体で登山することも捨てたものではない、と思ったりした。
 此処で初めて目指すは大蛇ーであることを知る。岩道の先端は行き止りであるため、行く人と戻る登山客が交錯して込合っている。狭い尾根道に大勢の登山客が先端の大蛇ーへ、順番を待つ。眼を上げぐるりと見渡すと、三百六十度のパノラマが広がっている。
 右方の眼前には大岸壁、蒸龍ー(せいろぐら)が聳え、赤みがかった灰色の岩肌を剥き出し、その尾根筋が、一気に東ノ川に落込んでいた。岸壁には僅かに緑葉が絡み付き、灰色の岩肌とは強烈な対比をなしている。聳え立つ岩肌の裂目が、黒い影になり、それでなくとも強烈な印象であるのに、一層の力強さを感じる。
 大台ヶ原東方は東ノ川渓谷に向って切れ込んでいる。大台ヶ原を中心とした東大台地区から続く、西大台の尾根筋が、眼前に聳える蒸龍ーの向うに波打っている。それは、かなり遠方のためか詳細は掴めないが、蒸龍ーのように切立った光景だ。
 切立った尾根筋の岩道を注意深く進んだ。先端に近付くに連れ、さきを歩く人の動きがぎこちなくなった。それもその筈だ、岩道は極端に切立って来たのである。
 いよいよ我々三人が、大蛇ー先端に進もうとしたが、前にひとり四十歳絡みの女が、大蛇ーのごつごつした岩に、四つん這いになって動こうとしない。一歩先に進んでいる女の亭主らしき男が、差しだした右手を女はしっかりと掴んでいた。
 「鎖があるから大丈夫ですよ」
 女に向って気楽に声を掛けた。
 「高処恐怖症なもんで・・・」
 女は作り笑いを浮べて云った。それでも何とか、女は大蛇ー先端に辿り着いた。我々三人は眼前に大きく開けた光景に見とれていた。件の女は先端に達するや、
 「さあ・・もう行こう」
 と云って亭主と戻って行った。帰りも岩にへばり付いて行くのか、と思って背姿を(うしろすがた)追ったが、女は大蛇ーに慣れたのか、思ったより軽い足取りで足下の岩を注意深く抜けて行った。
 大蛇ーと名付けられたのは、この岩道に立つと大蛇の背に乗ったような印象を憶えたためらしい。因みに大蛇ーのーとは、大きな岩を意味する。
 大蛇ー先端では周囲に鎖が廻されている、といったが、岩と鎖の間を抜けてしまえば、千メートルの落差がある谷底が待構えている。
 視線を彼方の山稜にやった。
 西大台の尾根筋の中腹に、細い筋がか細い輝きを放っていた、千石ーに落水する中ノ滝か西ノ滝だ。それは淡い緑の中で、一筋の糸のように浮んでいた。
 彼方に山端が優しい稜線を描いていた。山上ヶ岳、弥山、仏生ヶ岳、釈迦ヶ岳と連なる大峰山系の山々だ。どの稜線が山上ヶ岳であるかは知らない。
 眼前の山々が吉野から続き熊野に至っている、熊野詣の壮大な構図が眼に浮んだ。何故、斯様な険しい山道を、熊野に至らなければならなかったのか、ロマンを感じると同時に、沸々と平安、鎌倉時代から南北朝時代に至る歴史的事実が、沸上がって来た。
 
 後続者に絶景ポイントをゆずり、大蛇ーを後にした。途中、険しい岩道を四つん這いになって下っている人が二三人いた。程なく、シオカラ谷と正木ヶ原への分岐点に出た。
 平坦な道を正木ヶ原方面に足を進めた。やがてイトザサが、一面にカーペットのように広がった明るく乾いた原っぱに出た、牛石ヶ原だ
 道から二十メートル程はイトザサだけが、笹の葉を風に靡かせていた。ある距離を離れてウラジロ樅の木が二三本、団扇のように大きな弧を描いて枝葉を張出していた。弧の先に羽毛のような芽を出していた。
 その木は、イトザサから二メートル程迄、太くて力強い幹が立上がり、そこから十本位の程良い太さの枝に別れ、先端で更に細かく枝別れする。
 それは自然が創り出したには違いないが、人工的に去勢された印象がなくはない。けれどもこの形状が、大台ヶ原の厳しい自然に適った形なのかも知れない。
 樅の木の向うには、無数の樅の木やブナの木が立上がっている。どの木も癖がなく、すらりと素直な印象で林立する。それは、森の奥深く何処までも続きラビリンスの都市に迷い込んでしまったのでは、と軽い眩暈を憶えた。
 牛石ヶ原には魔物を封じ込めた、と云われる石があった筈だ、現地を歩いていた折には、気が付いていたに違いない、けれども今は全く記憶の外だ。健忘症という訳ではないと思うのだが、あれもこれも覚え続ける事が出来ない。
 牛石ヶ原では四五分立ち止った。その間、ウェストポーチからチャコール鉛筆を引抜き、ポリ袋からスケッチブックを引張り出して、団扇のように枝葉を拡げた樅の木に向って構えた。僅かな時間であるから、素速く思い付く儘、鉛筆を走らせた。色付けは夜、山小屋でしようと思った。日数が経っていなければ健忘症でも、脳裏の片隅にある色と形が鮮かに甦ってくる。
 「さあ行こうか」
 平八郎の言葉に、スケッチブックを閉じてポリ袋にねじ込んだ。
 しばらく、道の左右にイトザサの群落が一面に広がり、トウヒの立木がすらりと天に向って立つ風景が続く。まもなく左方に、異様に大きな立像が眼に飛込んできた。巨大な立像が支配した空間は殺風景な印象であり、ここが国立公園、日本でも有数のトウヒなどの原生的な樹林帯に包まれた、大台ヶ原である事を疑った。立像は神武天皇像である。
 牛石ヶ原から正木ヶ原への平坦な道の左右には、イトザサの群落が広がり、時折、日本鹿が我々に視線を投掛けていた。
 トウヒの樹皮が無惨に剥かれた姿が、道からも見える。
 「鹿の食害によるもので、樹皮が剥がされると、樹は栄養分を大地から吸上げる事ができない、栄養分は樹皮と幹の間を通ってゆくらしいよ」
 と平八郎が云った。
 トウヒの剥がされた樹幹が、彼方此方に眼に付く。鹿の食害を避けるため、高さ二メートル位まで保護膜が巻付けてある。
 鹿の食害のためそうなったと知らなければ、トウヒの枯れた立木は、この世の光景とも思われない幻想的で詩的な印象だ。
 ところが、大台ケ原・大峰の自然を守る会のレポートによると、
 「鹿がトウヒを枯らしたことを立証する科学的データが全くない。環境省が唯一根拠にする枯死木の八十一%が剥皮されていた、という幼稚な数字は因果関係の証明にはならない。十九%は剥皮されなくても枯れている。太さ六十cm以下の小径木の枯死の原因は剥皮ではなく樹木間の競争によるともいわれる。剥皮が原因と思われる枯死率のデータは、八十%から〇.九%までいろいろあり確かなことはわかっていない。 鹿と森林動態の相互作用について学問的に究められていない現段階で、鹿が剥皮している皮相的現象のみをもって犯人と断じ、殺すことは暴挙である」
 レポートは続けて、トウヒ林衰退・枯死の原因は鹿ではなく人間である、と断じている。
1 一九五九年の伊勢湾台風で正木峠のトウヒ倒れる。林冠開放による林床乾燥、苔類衰退、  ササの侵入、倒木搬出で蘚苔更新の可能性を閉ざす。
2 一九六一年のドライブウエイ開通による自動車の排気ガス、観光客の踏圧、ゴミ、稚樹の  盗掘。
3 周辺自然林の大規模皆伐と造林。
4 大気汚染による酸性霧(雨)。
5 地球温暖化。一九七五年トウヒの南限は大峰山系の釈迦岳であったが二十五年間に十km北  進して大台ケ原に至った。
1 鹿・熊の剥皮、落雷、虫害。
 
 大台ヶ原山頂まで車で来れる簡便さ、そして神武天皇像を据える即物的思考、将に大台ケ原・大峰の自然を守る会のレポートの通りかも知れない。
 足を進め中道と日出ヶ岳への分岐点に出た。分岐点の傍らの石に腰を下ろした。
 「此処から中道を抜けて行こうか、それとも大回りして日出ヶ岳の方から回って行こうか、どうする」
 と平八郎が云った。しばらく肇も筆者も無言だ。両名は夜行列車を乗継いで来たため睡眠不足で、疲れているようだった。
 「此処から中道を抜けてしまえば、正木ヶ原には行けなくなってしまうじゃないの」
 肇が何気なく呟いた。
 「正木ヶ原を抜けて行った方が良いんじゃないの」
 筆者が呟いた。
 「そうだなあ、もう大台ヶ原に来れるかどうか解らないからなあ、大回りして行こう」
 平八郎の言葉で、正木ヶ原を抜け、日出ヶ岳の麓を通って行くことに決った。
 正木ヶ原にはイトザサの群落が、緩やかに波打ち丘陵の襞を覗かせていた。イトザサの小さく尖った葉を通り抜けた微風が、頬を撫で心地よい疲れを癒して呉れる。
 牛石ヶ原に比べ、正木ヶ原には立枯れたトウヒが多く立ち、幻想的な光景を現している。立枯れたトウヒは、極端に枝が無く樹幹だけが無言で立つ、枝はあっても樹幹から、僅かに案山子のように突出しているに過ぎない。立つことに堪えきれずに横倒しになった樹幹がイトザサの上に覆い被さっていた。
 
大杉谷吊橋 牛石ヶ原
 
 その光景は無言であるが故に、幻想的な光景である以上に、多くの事を語っている。
 正木ヶ原の現実離れした光景を眼にし、平八郎と肇は遠回りだが、このルートをとって好かった、とイトザサに包まれたなだらかな台地に、眼を細めていた。
 しばらく平坦な道が続いた。奥深い大台ヶ原を歩いている事が、幻想であるかのような錯覚を憶えた。蓼科の霧ヶ峰を散策しているようなゆったりとした気分だ。
 平坦な道には太い樹が敷き並べてあって木道になっていた。それは何処までも続き、終りのない無限の道の相である。無限の道は彼方のイトザサに溶け込んで収斂し(しゅうれん)、立枯れたトウヒは細い鉛筆のように立つ。
 この光景からは、風雨が吹き荒れた厳しい環境は想像できない。余分な物を全て剥取った無限の空間を思う。
 やがて木道は緩い登りになった。木道はイトザサの原に蛇行して、ひと筋の航跡を伸し立枯れたトウヒの透間に、溶け込んでいった。既に、日出ヶ岳への道に入っているのかも知れない。
 道の中間に四メートル角ぐらいの展望台が、アルコーブをつくっていた。それは展望台といった仰々しいものではなく、木道から二三段の木製のステップで上がり、周囲には手摺が廻らされ、七八人の探索者が座れる程度の木のベンチが、三方に据えられていた。
 山行の初日のためか、誰云うともなく、其処で立ち止り、お互いに顔を見合わせた。平八郎と肇は、ベンチに腰を下ろした。
 筆者は彼方に見える、イトザサに吸込まれた木道に眼をやった。ウェストポーチのチャックを右に引き筆ペンを引抜き、スケッチブックをイトザサに引かれた木道に向って構えた。休憩と云っても十分位のものだ。思い付く儘、筆を走らせ、一気に描き上げた。
 スケッチブックを畳みかけた頃、二十二三の若い女がふたり、我々三人の傍らに立ち止り、イトザサの原を背に写真機を構えた。その時、平八郎が、
 「写真、撮りましょうか」
 と云ってベンチから立上がった。
 野球帽のようなつばの付いた帽子を被った、背が高い方の女は、細面の(ほそおもて)色白の顔をし、澄んだ眼が輝きを放っていた。
 幾らか背の低い方の女は、恥ずかしそうにふくよかな顔を赤らめ、イトザサが一面に広がった、下方の正木ヶ原の方のトウヒの立木を見詰めていた。
 ふたりは顔を見合わせて頷き会い、背が高い女が首からぶら下げていた、ニコンの一眼レフカメラを首から外し、平八郎に渡した。
 女達は日出ヶ岳へのイトザサに包まれた道を背に、展望台の際に立った。カメラのファインダーを覗きながら、平八郎は、
 「山口お前も入れよ」
 と云って背中を押した。
 「ああ、一緒に入って下さい」
 ふくよかな顔をした女が、掌を挙げて云った。促されて筆者は背の高い女の隣に立った。若い女と共に写真に納ることは、ついぞ無かった。緊張した面持ちでカメラのシャッターが押されるのを待った。
 ガシャッ、シャッターが切れる、一眼レフ特有の存在感のある重厚な音が正木ヶ原の静寂に響いた。撮り終って平八郎は女にカメラを渡した。筆者は眼を横にし、
 「女性で一眼レフカメラを持っているとは珍しいですね」
 「カメラが趣味なもんで・・・現像なども自分で全てやります」
 背の高い女は、大事そうに一眼レフを胸に抱き、微笑を浮べて云った。女の傍らで、相棒の女が黒く鈍い輝きを放った一眼レフを見、頬を緩ませていた。
 「随分、軽装ですがこれから何処の山に登るんですか」
 「高田から車で大台ヶ原に着いて、大台ヶ原を一周し日出ヶ岳に登って帰ります。帰り掛けに温泉に寄って汗を流していきます。途中にあったでしょ温泉」
 温泉と云われても土地勘に疎く、何処にあるのかは解らない。高田と聴いて、
 「高田には以前、訪れた事があった。不動院と云ったと思うが、バス通りに面した風情ある寺でしたよ。それに細長い敷地に公民館だったと思うが、其処を抜けて行った先の路地に、変った寺があったのを憶えていますよ」
 「エッー高田に行った事があるんですか、公民館、   と云います」
 女は親近感を抱いたらしく顔を綻ばせた。途端に、イトザサに包まれた正木ヶ原に華やいだ空気が流れた。  
 「スケッチを見せて下さい」
 と云って、背の高い方の女が、筆者が抱えていたスケッチブックの方に掌を伸した。女はスケッチブックを手にすると、一枚一枚丁寧に捲った。
 「ウワッー写真もいいけど、こんな絵もいいわ、これなんか本物とはチョット違うけれど、感じがよう出てるわ・・・」
 女は小さなスケッチブックに描かれた、東寺釈迦如来をじっと見ていた。
 日出ヶ岳への木道を歩き始めた。女は歩きながら、スケッチブックを捲って見ていた。山道のため木道には段々があり、スケッチブックを見ながらでは、ステップを踏外してしまうのでは、と思いつつ足を進めた。
 歩きながら、誰がこの木道を築いたのだろうか、と考えた。
 木道を築くにはまず、台地に二三メートル間隔に杭を打込む。それから杭と杭の間に成が四十センチ位の梁を架渡し、その上に分厚い段板を梁にボルトで締付けてつくる。そんな木道が延々と伸びている。
 おそらく七八年で朽果ててしまうに違いない。その時は同じようにして作り替えるのであろう。大台ケ原・大峰の自然を守る会の環境庁へのレポートによると、
 「貴省は、大台ケ原の日出ケ岳―正木峠間1kmの稜線に一昨年から“木道”建設工事を行い更に延長するとのことであります。この“木道”は従来の登山道の上に板橋、階段を並べた“空中回廊”ともいうべき異様は建造物で、原生的景観を著しく害する奇観を呈しております。“空中回廊”の異名は全国的に広がりました。恥ずかしくて外国人には見せられないとの声も出ております。
 貴省は建設理由を植生保護としていますが、雑誌の取材に観光客が歩きやすくするためと説明して取材記者を驚かせました。一方、“空中回廊”への全国的批判に対して、貴省内でも反省の声が出ております」
 レポートはつづけて、
 「この“木道”は多雨多湿の大台ケ原では数年を経ずして朽ち、薄い苔が付着して「危険な滑り台」に変貌することは明白です。更に、予想以上に早く朽ちる“木道”の補修、架け替えに多額の税金を今後長期間に亘って必要とします。全く有害無益な施設整備・公共事業であると言う以外ありません。従来の登山道を丁寧に補修すれば事足りることであり、むしろ、土と岩の登山道を公園利用者に踏ませることこそが、自然公園の正しい利用のあり方にふさわしいと考えます。自然と隔離された階段登りや回廊巡りは、ただ物見遊山を楽しむだけのもので、原生的自然を体験・理解することには何等益するものではありません」
 と木道に対し批判的な意見を述べていた。
 
 右へ日出ヶ岳、左へは大台ケ原駐車場へ至る分岐点に出た。我々三人は明日、日出ヶ岳山頂を越え大杉谷を桃の木山の家まで歩く予定だ。
 平八郎、肇それに女二人は、日出ヶ岳の方向に進むかどうか顔を見合わせた。
 ふくよかな顔をした女が、帽子を被った女に眼をやり、
 「どうする」
 相棒の女に判断を仰いだ。
 「登りたいー」
 背の高い女ははしゃいだ声を放ち、相好を崩した。
 「我々は明日、日出ヶ岳に登るから・・・」
 と平八郎が云った。女二人は我々三人も日出ヶ岳に登るもの、と思ったらしく、顔を見合わせてどうしようか、といった表情を見せた。
 「登るんだったら、空模様がおかしくなりかけているから早く行った方がいいですよ」
 筆者は、鉛色をした天を指差し、女に早く日出ヶ岳に登るように促した。途端に女はがっかりとした表情になり、押黙ってしまった。もう一度、早く登るように促した。
 「早く降りてきたらシャンソンを聴かしてやるから」
 平八郎が云った。平八郎は最近シャンソンに凝り先生に付いて、個人レッスンを受けているらしく、山道を進む道筋で、木立に包まれ酔いしれるようにシャンソンを口ずさむ事がある。その声は彼方の山稜に木霊し、筆舌に尽しがたい情感を滲ませる。
 平八郎の声に、
 「ウワッー」
 ふたりの女は、掌を合わせて声をあげ、トウヒが林立する日出ヶ岳への道に足を進めた。女を見送って我々は大台山の家への道を進んだ。しばらく石段の道が続いた。
 イトザサが繁茂する正木ヶ原の乾いた風景とは対照的に、この道の左右には水分を多量に含んだ苔が地を覆い、辺にしっとりとした空気を漂わせている。そこに平八郎が放つ、パリの空の下で・・・シャンソンが流れてきた。
 しっとりとした空間にはシャンソンが似合う。
 大台ヶ原東大台地区について、日出ヶ岳に降注いだ雨滴を集めたヒバリ谷、その谷に沿って付けられたこの道は、往時の大台ヶ原の残影を残しているのかも知れない。正木ヶ原のカラッとした風景と、同じ地域にある事が不思議なくらいだ。
 大台荘脇を通り大台ヶ原駐車場に出た。午前十一時半に着いた頃より、停めてある車の数は少ない。車の間を抜けて売店がある方に駐車場を渡った。
 平八郎、肇両名は寝不足のためか、無言で売店を横に見て大台山の家への道を急いだ。今朝歩いた道には、リラックスな格好をした二三のグループが散策していた。
 
 大台山の家に着いた。玄関奥の食堂には大勢の登山客がくつろいでいた。ざわついた食堂を、横目にして平八郎、肇両名に続いて、個室部屋への階段を上がった。
 しばらく部屋でザックの中身を整理していた。平八郎、肇両名は、大台ヶ原周辺の地図を拡げ明日の行動予定を練っていた。
 筆者は未だに、山上ヶ岳と大台ヶ原との位置関係が曖昧である。市販されている地図では、それぞれが別のページに載せられているため、一体であるべき山稜が分断されてしまうのである。それでも心強いリーダーが一緒であるため不安は無い。
 いつの間にか両名は横になっていた。筆者は今日、描いたスケッチの色付けをしようと、部屋の引戸を引いた。階段を下りて食堂にでた。食堂に据えられたテーブルの彼方此方では、登山客が話に花を咲かせている。彼等の明るい笑い声が食堂に溢れ、昼下りのような気怠い空気が漂っていた。
 そんな中で、スケッチブックを拡げることは憚れた。下足箱から登山靴を引張り出し、靴紐を弛めた儘、気怠い足を突っ込んだ。
 山小屋の周りには、既に夕暮を過ぎ夜の帳を待つかのような気配が漂っていた。
 大台山の家の周辺には、野外に据えられたベンチもなく、意外にも殺風景な空間だ。小屋の玄関前にかなり広いスペースがあるに過ぎない。そのスペースも有機的な大台ヶ原の自然に対し、無味乾燥で無機的な空間だ。それを取巻いているトウヒの林だけは自然に溢れている。
 山小屋の広場に面した片隅、砂利の上にスケッチブックを拡げた。ウエストポーチからヴァンゴッホの水彩絵具と筆を引張り出して、ウエストポーチの側に置いた。
 まず今朝歩いてきた、シオカラ谷のスケッチから色を載せ始めた。それから大蛇ー、牛石ヶ原、正木ヶ原へと進み、脳裏の片隅にある残像をスケッチブックに落とし込んでいった。
 山小屋の片隅で中腰になって描いている間に、幾組かのパーテーが山小屋に入っていった。これでは、今日はかなりの登山客が大台山の家に泊るに違いない、と思いながらチラッと彼等の姿に眼線を走らせた。
 山小屋の片隅に四十分位いただろうか、躰が津々と冷えてきた。頃合を見計らい小屋に入った。玄関から見通せる食堂には大勢の人で賑わっていた。夕食は四交代で摂るらしい。既に一番目の人達はテーブルに座っていた。
 山小屋にしては珍しく、大台山の家には風呂がある。平八郎、肇両名は風呂上がりで、さっぱりとした表情である。筆者は、ザックからタオルを取出し下階の浴室に急いだ。
 小屋には、浴室はひとつだけしかないため、入浴は順番を待たねばならない。運良く、待つこともなく風呂に入れた。四五人が入れる浴室だが、山小屋で風呂に入れることを考えれば有難い。
 風呂から上がり個室に戻ると、平八郎、肇は横になって休んでいた。二交代目に、我々の夕食の順番が回ってきた。
 列状に伸びたテーブルの半分位には、既に登山客が座っていた。食券をステンレス製のカウンターに置いた。夕食がどんなものだったかは忘れた。
 平八郎、肇両名は食事中、寝不足のためか言葉数は少ない。食後直に個室に戻った。ふたりは無言でゴロッと横になった。筆者はノートをザックから引張り出した。
 「チョット食堂に行って来るから」
 「おおー」
 引戸を横に引いた。個室内と外部の公共スペースとは落差があった。寝不足な空間と華やいで賑やかな空間の違いだ。
 食堂には三交代目の登山客が、席に着いていた。食堂と玄関ホールとの境のかべに沿って、椅子が三つ並んでいた。脇に脚付の灰皿があった。端の椅子に男がひとりで座り、タバコを吸いながら新聞を読んでいた。しばらく玄関ホールの壁に貼付けてある、大台ヶ原に関する地図や新聞の切抜きを見ていた。
 間をひとつ空けた椅子に腰を下ろし、ウエストポーチからマイルドセブンを取出してライターの撮(つま)みを押した。先端がほんのりと赤みを帯びたマイルドセブンを吸込んだ。
 朱色の空気に染まった玄関ホールに、紫煙がゆっくりと立上った。二三回マイルドセブンを吸込んだ。それからノートを拡げ、ウエストポーチからボールペンを引抜き、今日一日を追った。
 一日の山行はそのまま過すだけならば、短い一日に過ぎないが、文を書始めると極めて長い一日になる。三十分程、ノートに向っていただろうか。
 食堂の端にダルマストーブが据えてあり、二三人が躰を暖めていた。中には濡れたタオルをストーブに翳して乾かしている。それを眼にしてそうだ、と思って個室に戻った。
 時刻は午後七時を僅かに回ったところだ。個室部屋には布団が三組川の字に敷き並べてあり、壁沿いに肇、真中に平八郎が寝ていた。筆者の寝床は端で布団棚の脇に敷いてあった。筆者は寝るにはまだ早すぎる。部屋の鴨居に打付けられた、錆付いた釘に掛けてあったタオルを外し食堂に戻った。
 
 ダルマストーブの周りには二人、ストーブにタオルを翳していた。筆者もその仲間に入った。 六〇歳位の女が隣で、ストーブにタオルを翳していた。
 「先刻、外で絵を描いていませんでしたか、私達が小屋に到着した時、みかけたような気がしましたが」
 「ああーあの団体ですか、何処から来たんですか」
 「私は大阪からですが、いろんなところから来てますよ。中には九州から集合場所の大阪に飛行機で来た人もいますよ」
 「私は京都から・・・」
 「私は広島から・・・」
 後から声が聞え、
 「私は東京からです」
 食堂の床に座っている女が云った。女の後に男が立っていた。女の主人では、と思った。
 「私は広島からですが・・・」
 四五人でしばらく雑談をしていた。広島の女、さよ子が、
 「大台ヶ原のスケッチ見せてくれますか」
 テーブルに載せてあったスケッチブックに手をやって云った。
 「ああーどうぞ」
 テーブルの端、食堂の床に座ってさよ子は、まず蔵王堂周辺を描いたキャンソン紙のスケッチブックを捲り始めると皆、さよ子の周りに寄って来た。
 「これなんか蔵王堂の感じが好く出ているわね」
 蔵王堂をかなり高処から俯瞰した絵を見、さよ子が話した。さよ子の手前に座っていた大阪出身の由紀子は、
 「これは今回で全て描いたんですか」
 筆者の顔を見て、云った。
 「ハガキサイズのスケッチブックは前のも入っていますが、後のは二三日前に描いた絵です」
 京都出身の紀美子はハガキサイズの絵、光悦垣を見て、
 「これなんか荒っぽいけど、よく解るわ」
 東京出身の文代が後から声を放った。
 「この絵が凄く気に入った」
 今朝訪れた、大台ヶ原シオカラ谷の吊橋を、岩が転がっている河原から描いた四号の絵を、文代は指差した。
 文代の背から広島出身の宏が身を乗出した。
 「私にも見せて下さい」
 宏は遠慮深そうに云い、テーブルに拡げられたスケッチブックを覗き込んだ。
 話すうちに、さよ子、紀美子、由紀子そして宏は同じパーテー、文代ひとりは別のパーテーであることが解った。
 旅行会社が企画した山行は、ひとりでも参加でき、自分で計画するより気が楽である、と宏が云っていた。現に宏はひとりで来ている。
 行軍中には、道端に咲いた花や高山植物について、案内人が説明もしてくれるらしい。一見、自由がないようであるが、結構、皆さん心行くまで山行を愉しんでいる様子が窺える。 
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